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『解脱(げだつ)』

 衆生を観ずるというのは、自分が衆生であることを観ずることではなく(その必要はなく)、純粋に、衆生とは何かを観ずることに他ならない。  断じれば、衆生は愚かであるということに尽きる。しかしながら、そのような(究極の)衆生を目の前にしたとき、彼に対して慈悲喜捨の心を起こすならば、観(=止観)は完成を見る。そのように観が行われたとき、観は正しく行われたのであると認められる。  この道に、「それでよい」などということは言えない。覚りの道は、最初から最後まで各自のことがらだからである。道は自ら見い出し、しかもその道が正しいものでなければならず、さらに正しく歩まなければならない。 ***
この本のコメントを表示 : 2012-10-21 15:37:39
 衆生を外に完成させるとは、衆生の真のすがたを観において想起してその本質を見極めることを意味している。この見極められるべき衆生とは、最も悲惨な人のすがたであり、それが衆生に他ならない。したがって、この見極められるべき衆生が世間において幸福感を感じていることはあり得ないこととなる。(もちろん、現実には幸福感を感じている衆生は多く存在しているであろうが、それは完成されていない衆生と位置づけられ、ある意味では現実的にはもっとも衆生らしい典型的な衆生である。しかしながら、この典型的な衆生は単に能天気な衆生に過ぎず、衆生の真のすがたを示すものではない。馬鹿と愚者の違いのようなものである。もちろん、観ずべきは愚者である。)  この観において見極められるべき衆生は、自分が悲惨な状態にあることを感知しつつある。それを押しとどめて、そんなことは微塵もないと思わせるだけのことを観の実践者は為さなければならない。そうでなければ、衆生は完成せず、観もまた完成しないからである。 ***
この本のコメントを表示 : 2012-10-20 13:37:52
さらに、外なる衆生(へつらわない衆生)は、──SRKWブッダの公案「医師と患者の公案」を解くことによって完全に理解することができるでしょう。 ***
この本のコメントを表示 : 2012-02-17 19:05:57
また、維摩経に曰く、── 直き心はすなわち菩薩の浄土である。 菩薩が仏になったときに、へつらわない衆生がやって来てその国に生まれるであろう。 (中略) このように菩薩はその直き心をおこしたのに随って、その行いをおこし、その行いをおこしたのに随って深い願いをおこし、その深い願いをおこしたのに随って意(こころ)をととのえ、意(こころ)をととのえたのに随って説かれたとおりに行い、説かれたとおりに行ずるのに随って功徳を廻向し、その廻向するのに随って方便あり、その方便がおこるのに随って衆生を完成し、衆生を完成するのに随って、その仏国土が浄らかになる。 これが、衆生の外なる完成を示しています。
この本のコメントを表示 : 2012-02-17 19:03:24
衆生を外に完成させるとは、衆生の真のすがたを観において想起し、その完成にしたがい、智慧が出現するというものです。曰く、衆生を見た修行者はただちに仏を見る。 衆生を内に完成させるとは、自分のことを省みて、自分がまさしく衆生であり、それゆえに苦悩していることを認知すること。主に、人間関係について想いを馳せ、それから逃げるのではなく、しかも離脱を願う心を起こすこと。具体的には、仏に親近(しんごん)すること。仏国土に憧れを抱くこと。少なくとも、自分はそこに生きたいと決心すること、がそれにあたります。 ***
この本のコメントを表示 : 2012-02-17 18:54:55

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『感興句』

ここで言うところの<物質的な存在>とは、現実世界の実相がそうであるという意味ではなく、あくまでも人間が認知する(認知し得る)ところの感覚的感受の総体としての世界観がそうであるということである。したがって、この感覚的感受としての大元の認知は形態(rupa)作用にもとづいてなされているものである。覚ればこの形態(rupa)作用の解脱が起こり、感覚的感受が正常となり、識別作用は止滅するに至る。それを言語表現として「一切の感受が正常となる」と言う。このように理解しなければなりません。
この本のコメントを表示 : 2012-01-07 12:49:27
物質的な存在とは一切のことである。人は一切しか感受することができない。しかもその一切の感受は正しくない。(名称と形態(nama-rupa)によって錯誤している) すなわち、人は眼耳鼻舌身意識(六識)によって知り得ることがらによってのみ世界を認識しているが、それぞれの識による消滅現象をみてこの世界はこのようなものだと考え見なす。仮にこれ以外のことがらによって世界を認知しようとしても、それは構成概念を超えず本質に迫れない。そこで人々(衆生)は、結局はこの世界のありさまについての(形而上学的)断定に陥る。しかしながら、それらは実はすべて虚妄なのである。もちろん、一切ならざるものによって世界を認知することはできない。解脱した人は、その一切の認知が正常となるのである。
この本のコメントを表示 : 2012-01-06 11:12:07
世人が世の中において感受される物質的な存在についての生起と消滅の様子を見て(形而上学的な)断定を下すというのは、因果にとらわれているという意味である。つまり、因果を知ることでしあわせに到達できると誤って信じていることを指す。 さて、因果はここに明らかな果(結果)があり、あれがまさしくその因であったと当事者に確信され、また第三者から見てもその(当事者が確信した)それがまさしくその因であると考えられるという場合においてさえ、因果を確定することは実はできない。 その一方で、縁起はここに明らかな報(結果)が顕れ、あれがまさしくその縁であったと当事者に確信された場合、その(当事者が確信した)それが真実に縁であったと正しく確定され、それが覆ることはない。それは、第三者に認定してもらう必要のないものであり、それゆえに縁起を識る人には明(みょう)があると知られる。 縁起を知った人は、因果の虚実を識る。しかしながら、因果を思惟・考研してその極限に達しても縁起の真実を識ることはできない。縁起によって無明を破った人だけが因果(のくびき)を超克するのである。 このように理解しなければなりません。
この本のコメントを表示 : 2012-01-05 09:29:11

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『覚りの境地』

細君が形態(rupa)レベルの解脱を果たしたことによって、性差に関係なく(女性でも)阿羅漢になれることが実証された。これは誰にとっても朗報だろう。
この本のコメントを表示 : 2011-07-30 16:55:05
a×b=定数で表されるものにおいてa=bとすれば、aもbも互いに最大の値をとらせることができる。***
この本のコメントを表示 : 2011-05-15 18:40:18
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