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悪夢のはじまり

少女の右手を、太く大きいピンク色の腕が突然掴んだ。ごわごわした毛に包まれて、不気味なまでになま暖かい。

 

怯えた顔をして、少女は恐る恐る見上げる。

 

無表情なうさぎの大きな顔が、じっと自分を見つめていた。必死に引き剥がそうとするが、その力は強く、全く敵わない。

 

もがくような抵抗を弄ぶようにいなし、とうとううさぎは彼女の服に手をかけ――

 


車の振動で、南は目が覚めた。天然ブナの隙間から洩れる雪解けの柔らかな日差しが顔をくすぐる。

 

「どうしたの、南? すっごい汗」

 

隣に座っていた華原美佳が声を掛けてくる。

 

「いえ、大丈夫です。ちょっと悪い夢見ちゃって」

 

「そりゃそうだ、今にも吐きそうな奴がいるんだからよ。俺だって気持ち悪いや」

 

後ろに座っていた大野田健吾が毒づく。その体育会系的ながたいのよさからは意外な程に陰険な表情を、隣に座っている相田貢に向けていた。

 

「ご、ご、ごめんなさい、み、皆さん。 ぜ、ぜ、絶対、吐きません……うぷっ」

 

海外メーカー製の4WDワゴンで行く未舗装の林道は、虚弱体質な彼には相当堪えているのであろう、幽霊かと見間違えてしまう程に、その顔は蒼白していた。

 

「きめえなおい! 吐くなよコラ!」

 

パシッと頭を叩かれ、貢は頬をハムスターのように膨らませた。今にも食道から内容物を吐き出しそうだ。

 

「ねえ見てあの看板! アンタにそっくり!」

 

美佳が大げさに笑いながら、窓の外の看板を指さす。あちこちペンキ剥げした白い看板には、なんとも不細工な生き物が書かれていた。ネズミを模した人気キャラクターを描いたつもりなのだろうが、上手く描かれているとはお世辞にも言い難い。

 

輪郭が無駄に大きい癖に、手足はヒョロヒョロで、バランスの悪さが不気味だ。

 

これに底の深い眼鏡をかければ、貢そのものである。

 

「ぎゃはははは! そっくりきもいー!」

 

「本当だ! きめえや! わはは」

 


「や、やめてください……」

 

騒ぐ二人を、南は遠目で見ていた。正直、この二人の非常識な行動には、ついていけないと思っている。それに今は、気分が悪い。

 

「こらお前等、仲良くせんと今からでも引き返すぞ!」

 

運転席でハンドルを握りながら、縫原猛が言った。一応は学者であるが、いかにも健康的な浅黒い肌と、民俗学のフィールドワークで鍛えられたその身体は、健吾のそれとは違って妙な肉の張りがなく、爽やかな雰囲気を漂わせている。

 

「でも先生、今から行くトコってさ、ホントに面白いトコなの? つまんないトコだったら家に電話して車来てもらって帰るからね!」

 

「け、け、携帯はつ、通じません」

 

「トロマは黙っててよ、先生に言ってんの」

 

「その心配はないよ、部長。故郷の人間として、他に二つとない”奇村”であることを保証するよ」

 

「先生、そろそろ教えてくれよ、どういう場所に行くのかってのよぉ」

 

「だーめ、もうちょっと待ちなって。民俗学サークル部員として、未知の驚きと神秘を最大限に楽しみな」

 

「あの、その村って、怖い場所とかあるんですか……?」

 

心配そうな南の言葉に、美佳が笑う。

 

「やだもう南ったら、大学生でしょ!?」

 

「大丈夫だよ吉川、怖いどころか、可愛いぞ」

  

「可愛い……?」


「牧場でもあるの? でもアタシ、そういう場所やだなあ。臭いし、お肉嫌いだし」

 

「俺も美佳さんと同じく嫌いだ。先生、つまんねえ村だったら二人で帰るぜ」

 

健吾の唐突な言葉に、美佳がツっこんだ。

 

「どういう意味よ、二人って?」

 

「いや、それは……」

 

「あーだこーだ言うなってば。あんなものはここでしか見られないんだよ。まあ、楽しみにしててくれ」

 

猛の明るい言葉を以てしても、南の一抹の不安はぬぐい去ることができなかった。

 

なんだろう、この心の奥底からせり上がってくるような、おぞましくて執念深い悪念は……。

 

「み、み、南さん、だ、だ、大丈夫ですか……」

 

後の席から、今にも死んでしまいそうな声で貢が気を配る。南は笑顔を作ってそれに応えた。

 

「大丈夫です、ちょっと酔っちゃっただけで……」

 

「み、み、南さんも……?」

 

「ええ、あんまり好きじゃないんです、車。お仲間ですね」

 

「あ、あはは、なんか、嬉しいなあ」

 

「あんたとは違うわよぉ! バッカねえ!」

 

「きめえこと言ってんじゃねえよ!」

 

二人が大声で会話を切ったため、結局南は一人でこの不安を紛らわさなければならなかった。大自然に囲まれた素朴な田舎の村を見れば、幾分か心は休まるだろう。そう、彼女は考えていたのだが……。