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ご挨拶に代えて〜平和の日に〜

皆様、暑中お見舞い申し上げます。

映画に宛てたラブレター2015・8月号をお届けします。

なお、epubファイルでダウンロードした場合、「チャップリンからの贈りもの」の記事後半部分が欠落するというトラブルが発生しております。恐れ入りますが、閲覧モードでお読みいただければ幸いです。

さて、八月ということで、このクニでは、「季節物」として戦争映画が相次いで公開されます。しかし、シーズンが過ぎ去れば、戦争は忘れて良いのでしょうか? 私にはそうは思えません。闘いで傷ついた人々の悲しみや、怒りや、心の痛みは、何年にも渡ってずっと続くのです。

いま、平和を願う人達が、デモに参加するなどの行動を起こしております。どうか、その思いが、ひと時だけの流行に終わらないように願っています。

私は平和を願う人達の行動を応援し、共感し、強く支持いたします。

僕の敬愛するガンジーさんの言葉があります。

「佳いことは、カタツムリのようにすすむのです」

カタツムリの歩む速さは遅いです。しかし、もしかしたら、カタツムリは彼なりに全力疾走しているのかもしれないのです。

「遅い」と感じたり、批判するのは、人間の主観であり、勝手なのです。

ぼくもカタツムリのように、時々はビクビクしながら殻に閉じこもったりします。

でも走れるときは、牛より遅い、カタツムリの歩みのように、全力疾走したいと思っています。

最後に、皆様、厳しい暑さが続きますが、くれぐれもお体に気をつけて、ご自愛くださいませ。

2015年 8月 6日

 

安倍晋三総理も参加する、平和記念式典を観ながら記す。

天見谷行人


チャップリンからの贈りもの

チャップリンからの贈りもの

2015年7月18日 シネ・リーブル神戸 にて鑑賞

チャップリンさん、今の日本をどう思いますか?

 

チャップリンの棺桶を盗んだ二人の男のお話であります。これ実話です。

物語の舞台はスイス。

刑務所から出てきたばかりのエディ。この男、ちょっと盗みぐせがあるんですね。出所した彼をひきとったのが親友のオスマン。

物語はこの二人を軸に進みます。

オスマンは、アルジェリアからスイスへ渡ってきた移民です。

奥さんは仕事で体を壊し入院中。愛娘サミラの面倒も見なければ、それに学校にもちゃんと行かせてやりたい。奥さんの入院費もかかる。

移民であるオスマンには健康保険もない。おまけにロクな仕事もない。肉体労働で安い賃金しかもらえない。

ああ、全く、どうしたらいいんだ、とため息ばかりです。

対照的に、刑務所から出所したエディは、根っから陽気で楽天的。人懐っこくて、どこか憎めないヤツなんです。仕事が無かろうが、明日はやってくるさ、と、その日暮らしを楽しんでいます。まるでチャップリン演じる、あのお気楽なトランプ(tramp)放浪紳士チャーリーの生き方そっくり。もちろん、この人物像、監督、俳優とも狙って作りこんでます。

ある日、エディがその「得意技」を生かして、どこからか中古のテレビをちょろまかしてきました。自分を引き取ってくれたお礼にと、オスマンにプレゼント。オスマンは怪しげなテレビを見てちょっと複雑な顔をします。

それを見たエディが放ったセリフ。

「ほら、ナショナル・パナソニック製だぜ!!」

愛娘のサミラは無邪気にはしゃいでいます。

ある日、そのテレビからニュースが流れます。

スイスに住む世界の喜劇王、あのチャップリンが亡くなったのです。

そのニュースを知ったエディ。

ポジティブ志向のエディに、いいアイデアが浮かびました。

「こりゃ、ぜったいうまくいくぞ! なあ、オスマン手伝ってくれ」

 

エディは、親友オスマンの暮らしを、少しでもよくしてやりたい。

刑務所から出てきた自分を、嫌な顔もせずに引き取ってくれた、大親友オスマン。それに可愛い、娘っ子のサミラを、このままにしておけない。

サミラには未来があるんだ。この娘をいい学校にも入れてやらなくっちゃ。

それにはやっぱり先立つもの、まとまった「金」が要る。

無謀にも思える計画を聞いたオスマンは躊躇します。

エディはオスマンに諭すようにいいます。

「チャップリンは俺たちと同じ、移民だ。映画のチャーリーは、浮浪者で、おまけに俺たちと同じ、貧乏人、その日暮らしだ。彼なら分かってくれるさ!」

そして

「何も誘拐して殺そうというんじゃない。なにせチャップリンは、もう死んでるんだから」

亡骸が入った棺を、ちょっとの間だけ、俺たちが預らせてもらうだけさ!

とエディはどこまでも楽天的です。オスマンも生活苦には、これ以上耐えられない。これも病気の妻と、娘のためだ。しょうがないと、腹をくくり、この「闇の仕事」をやろうと決意するのですが……

本作は、紛れもなく犯罪者の物語なんですが、決してダークな作品ではないのです。

とはいえ、観光都市スイスの別の一面も描かれます。そこに住む移民の暮らしにくさ。異国の地で、一つの家族と、その親友の放浪者、トランプが生きてゆくこと。現実はやっぱり厳しいわけです。

ついつい悲観的になる。でもそれを笑いで乗り切ろう、という作風なんですね。

ちなみに、亡骸を盗まれた当の御本人、チャップリンも、生前こんな風に語っています。

「私は悲劇を愛する。悲劇には何がしかの真実が含まれているから」

「喜劇の王様」とさえ呼ばれたチャップリン。その上質な喜劇が生み出された、母なる創造の源泉、エネルギー源。それは彼が子供の頃、生身の体で味わった、感じた、極限の貧しさ、現実生活の悲劇そのものにあったのですね。

本作の登場人物は、生きてること、それ自体が、ある種の滑稽さをもって描かれております。

まさにチャーリーの作風を継承しているわけです。全編にわたってチャップリンの人情悲劇を彷彿とさせる、コミカルタッチで描かれるんですね。

だから観終わった後の後味がいい。

本作を制作するにあたり、チャップリンと(それ自体が一つのジャンルですね)そのご遺族に対して、きちんと配慮がなされているようです。そしてチャップリン作品への敬愛の念が随所に見られます。

あっ、このシーンはチャップリンの「サーカス」だな、あのシーンは「ライムライト」へのオマージュだな、といった具合です。

犯罪を犯した二人の男。だけど、どこか憎めない、ダメダメで、それでいて愛おしい、この男たち、そして家族の生き様。

事件が収束し、改めて埋葬されたチャップリンの墓前で「ごめんね」をするシーン、なんとも救われる気が致しました。

***

上映された映画館では、これを機会にチャップリンに関する貴重な写真資料などが展示されておりました。

 

日本が大好きだったチャップリン。秘書も日本人の高野さんが永きに渡って、公私ともに佳きパートナーとして付き添っておられたのは有名な話ですね。

チャップリン最初の日本訪問は船旅でした。チャップリンは僕の住む街、神戸に記念すべき、来日第一歩を記したのでした。

日本のてんぷらの美味しさに舌鼓を打ち、歌舞伎の高い芸術性を見抜き、「茶の湯」における、日本の美と精神性の高さに、心の安らぎを覚えたチャップリン。本当にニッポンが大好きだったんですね。

 

本作上映をきっかけに、チャップリン作品の再上映が決定した映画館もあります。

チャップリンという人物は、人類史上に残る偉人であることは言うまでもありません。

コメディアン、パントマイム、舞台俳優、映画監督であり脚本家、作曲家、プロデューサー、何より最高の映画作家でありました。

そして忘れてならないのは、彼が「権力」や「支配」というものに対して、敢然と「映画という芸術」で立ち向かった、という一面です。

ヒトラー政権の絶頂期、この独裁者を徹底的に、おちょくり、笑い者にした作品を、命の危険も顧みず、巨額な自費を投入して作ったということ。

 

いま、きな臭い雰囲気が漂う、この国。

チャップリンが愛した、この日本の国で、今一度、チャップリン作品を鑑賞するというのは大変意義あることだと思います。

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天見谷行人の独断と偏見による評価(各項目☆5点満点です)

物語 ☆☆☆

配役 ☆☆☆☆

演出 ☆☆☆

美術 ☆☆☆☆

音楽 ☆☆☆

総合評価 ☆☆☆

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作品データ

監督   グザビエ・ボーボア

主演   ブノア・ポールブールド、ロシュディ・ゼム

製作   2014年 フランス

上映時間 115分

予告編映像はこちら

「チャップリンからの贈りもの」予告編

 


Mommy マミー

Mommy マミー

2015年7月24日 元町映画館 にて鑑賞

僕を愛して! 広い世界で! 

 

映画界で大注目のグザヴィエ・ドラン監督の「Mommy マミー」ようやく観てきました。若干26歳にして、すでに五本の作品を制作監督し、うち二本が、ヴェネツィア、カンヌの映画祭で受賞歴を持つなんて、どう考えたって、これはとんでもない才能だなぁ~。

映画関連のサイトや、地元神戸の映画館でも「うちはグザヴィエ・ドラン”推し”ですよ」と公言して憚らない。みんなが「イイ!!」と言っている。

おまけにグザヴィエ・ドラン、そのルックス。

カッコイイです。日本に来たら、きっと空港なんかで、女の子がキャーキャー言うんだろうな、なぁ~んて想像をしてしまいます。

僕はひねくれ者の中年おじさんなんで、

「誰がそんなイケメン、天才映画作家の作品なんか観るもんか!」と意地を張ってました。なんで、こう人間って不公平に作られているんだろう?

ああ、神様はなんで、お腹突き出た中年オヤジに、愛の手をさしのべてくれないのだろう? なんで神様は、若干26歳のカナダの若者に、美貌だけでなく、映画作家としての、飛び抜けた才能まで与え賜うたのだろう?

でも、その代わり、グザヴィエ監督の作品を観れば、彼が才能に恵まれたその代償として、実はいかに大きな心の葛藤を抱え込んでいるのか、その一端がわかるような気がするのです。

本作「Mommy マミー」は第5作目。

舞台は「カナダ」という架空の街に設定してあります。そこには、これも架空の法律が設定されております。

「発達障害の子供を持つ親が、経済的な理由などから、もう育てられない、と判断した時は『法的手続きを経ずに』養育を放棄し、施設に入院させる権利を持つ」というもの。

主人公は発達障害、ADHD(多動性障害)を抱える15歳の少年、スティーブ。普段からやたらとハイテンション。それがmaxになり、やがてレッドゾーンにまで入ってしまうと、興奮状態で自分を抑えられない。暴力を振るいます。そのため彼は施設に入れられていました。

母親ダイアンはシングルマザー。彼女はスティーブを施設から出してやり、自分の元で面倒を見ようとします。新しいアパートメントも見つかった。ここで、なんとか息子と二人、新しい生活をスタートさせよう。

でも、息子の扱いはやはり難しい。目が離せない。仕事も探さなくちゃいけない。一人悩んでいたダイアンは、向かいの家に住む、女性教師カイラと知り合いになります。

カイラにはひどい吃音症がある。どうも仕事上のストレスからこうなってしまったようで、今は学校も休職して自宅療養をしています。

やがて、ダイアンとスティーブ、カイラは、家族ぐるみの付き合いを始めて行きます。生活苦と障害を持つ息子を抱えた一家、そしてカイラにも、心の安らぎ、すこしばかりの光が差し込むように思えたのですが……

上映中、コミカルなシーンもいくつかありました。映画館ではクスッと笑っている人たちもいました。

僕はといえば、お恥ずかしながら……ずっと涙が溢れていました。

「すごい作品だ……」

グザヴィエ・ドラン監督の評判は嘘ではなかった。

とてつもない才能を、僕は自分の目で目撃してしまったのです。

僕が注目したのは、この監督さん「音に敏感」であることです。

母親ダイアンは大雑把な性格。お役所の人から書類にサインを求められるシーンがあります。ダイアンはキーホルダーについた自分のペンでサインする。

ところが、このキーホルダー、とにかく両手で持ちきれないほどの鍵の束や、アクセサリーなんかがウジャウジャついている。

ダイアンは机の上で書類に自分の名前をサインする。一文字書くたびに机の上で「ジャラ、ガサガサ、ジャラッ」という音がする。

このシーン。音楽はつきません。当然です。

グザヴィエ監督は、この「ジャラジャラ」の音を入れるシーンを撮りたかったんですね。それだけで母親ダイアンが、どういうパーソナリティーなのか、端的に表現しています。

それに本作で最も話題となった、画面のサイズ。

縦横の比率が1対1なんですね。

「ああ~、こういう撮り方があったんだ」とびっくり。

映画館のスクリーンは横に細長いですね。その中央に四角く映し出される映像。さらにはグザヴィエ監督、人物を撮るときに、真正面から撮るんです。

これ、とっても重要ですよ。彼、明らかに「小津映画」を意識してると思いました。

四角の画面に映る、正面から撮影された人物像。

まるで額縁に飾られた「ポートレイト」に見えるんですよ、これが。

かつて黒澤監督は映画の事を「シャシン」と呼んでいました。

本作は、まさに人物を写した写真。しかもそれが小津映画のモノマネではなく「動く」「アクションがある」ということ。

グザヴィエ監督は「小津映画」の良さを、自身の中でちゃんと消化した上で、自分なりのオリジナルな「様式美」を生み出しているのです。

しかも、これを若干26歳の監督がやってのけるとは!!

いったい、何という才能なんだろう。

得てして、こういう映画作家は自己主張が強すぎて、観客のことを考えない場合がありますね。ところが、グザヴィエ監督はちがいます。

映画の背骨とも言っていい「脚本」が、これまたいいんです。だから、ストーリーのなかに観客は吸い込まれてゆくのです。グザヴィエ監督の世界観のなかに、いともやすやすと入り込めるのです。

もちろん、本作においては、映像の美しさ、絵の切り取り方、鮮やかなカット割り、天才の名をほしいままにする、グザヴィエ監督の、みずみずしい感性が、随所にあふれています。

主人公スティーブが、スケートボードに載って道路のど真ん中を滑ってゆきます。どこまでも続く道を気持ち良さそうに。

空には一点の雲もありません。

抜けるような「青」。どこまでも続く「空、ソラ、そら」

空を見上げ、両手を広げるスティーブ。

自由なんだ、自分は自由なんだ……

大空と一体になるかのような開放感溢れるシーン。

このとき、あの窮屈な1対1の画面サイズが、ついに変わるんですよ。

上映中、真っ暗だったスクリーンの両脇。徐々に左右に広がって行く画面サイズ。その開放感。これは素晴らしい効果を生み出しました。

1対1の比率の画面は、もちろん窮屈ですね。息が詰まりそうですね。

でも、これが母と息子が生きてゆく、限られた世界の象徴、暗喩ですね。

しかし、少しの間だけですが、画面サイズがパァ~っとひろがってゆく。まるで観ている観客も、世界が晴れたようにかんじますね。

でもそれは一瞬の事、また画面は窮屈なサイズに縮まってゆきます。親子はまた縮こまったサイズの、現実の世界に戻されてしまうんですね。なんとも心憎い演出です。

ああ、もう、グザヴィエ・ドランに皆が夢中になるわけが分かりましたよ。

本作は決してハッピーな映画ではありません。

どちらかというとテーマも重く、暗く、観ていてつらくなる映画でもあります。でも、この作品に流れている、深ぁ~い水脈、とでも申しましょうか。

それが母の愛であり、息子がMommyに求める愛なのですね。

純文学の作品などでは「陰々滅々」たる表現を好んで使う作家がいます。読んでるこっちまで落ち込んでしまいそうです。本作も、もし違う監督が撮ったなら、もう観ていられないほど辛い作品になったでしょう。しかし、本作はちゃんと「面白い!」のです。

映画にとって面白さは重要な要素です。過去の名作、傑作と呼ばれる作品はやはり「面白い」のです。本作「Mommy マミー」は、傑作と呼ばれるにふさわしい、必要にして十分な要素は、すでに備えていると言っていいでしょう。

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なお、一つ注意していただきたいことがあります。

障害者を描いた映画では、特にデリケートな問題を扱うので大切なことです。

どうか「障害者」と「ひとくくり」にしないでいただきたい、ということです。

実は僕も障害者です。それも外見はなんともない。

外からは見えない障害、「うつ病」です。「精神障害者3級」という障害者手帳を持っている、「障害者」のカテゴリーに入ってしまう人間です。

僕は精神科に通っています。

本作では精神障害者の暴力シーンもある事から、あえて申し上げますが、僕の担当の精神科医に聞いたところ、ADHDの人すべてが本作で描かれるように、暴力性を持っている訳ではないということ。

もっといえば、知的障害児などでは、僕の経験から言えば、彼らに攻撃性はありません。彼らは本当に平和主義者なのです。

うつ病のような「気分障害」と本作のような「ADHD多動性障害」「統合失調症」それに「知的障害」「ダウン症」などは本来『障害』と、ひとくくりに論じる事自体、全くのナンセンスです。それぞれ発祥の原因や症状が違います。

本作を見て、各個人のもつ「障害」と「障害者」への偏見が助長される事がありませんように、と切に願います。

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天見谷行人の独断と偏見による評価(各項目☆5点満点です)

物語 ☆☆☆☆

配役 ☆☆☆☆☆

演出 ☆☆☆☆☆

美術 ☆☆☆

音楽 ☆☆☆☆

総合評価 ☆☆☆☆

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作品データ

監督   グザヴィエ・ドラン

主演   アンヌ・ドルバル、アントワン=オリビエ・ビロン

製作   2014年 カナダ

上映時間 134分

予告編映像はこちら

「Mommy マミー」予告編


エレファント・ソング

エレファント・ソング

2015年7月31日 元町映画館 にて鑑賞

ママ、”象の数え歌”うたおうよ

 

いま、映画界で最も注目されるグザビエ・ドランが主演俳優として参加した本作。監督はシャルル・ビナメという人がやってます。僕個人としては、グザビエ・ドラン自身が監督もやってほしかったところなんですが……

物語は、とある精神病院が舞台です。ある日、この病院で、医師の失踪事件が起こります。新聞でも大きく報じられ、病院側は、この事件の真相を探るべく査問会を開きます。

失踪した医師が担当していた患者、それがマイケル(グザビエ・ドラン)

真相については彼が何かを知っているはず。

マイケルと失踪した医師との間に、何があったのか? 病院長で精神科医のグリーン院長(ブルース・グリーンウッド)は、真相を解き明かすべくマイケルとの対話を試みてゆきます。

本作では主に、マイケルとグリーン院長、二人の密室劇として描かれて行きます。

マイケルの母親は世界的なオペラ歌手でした。そのため演奏旅行ばかりの日々。マイケルは子供の頃から、母の愛をほとんど受けることなく育てられました。彼自身の言うところでは、子供の頃から寄宿舎に入れられていたとのこと。

マイケルは母親の旅行先、そのひと時のアバンチュールで生まれてしまった、望まれることのない子供でした。

その母は、マイケルの目の前で自殺。横たわる母親、たったひとりの愛おしい息子、マイケルを前に、彼女が残した最後の言葉は「三度、音を外した……」でした。彼女は息子よりも、オペラのことが気がかりだったのでしょうか? 当のマイケルは、横たわる母の前で「象の数え歌」を歌っていました。この一件以来マイケルは精神病棟に収容されたのです。

マイケルの父親は一度、彼をアフリカに連れて行ってくれました。

父親はハンターです。獲物を求めてサバンナをジープで駆け巡ります。幼いマイケルは、父親が猟銃で、象を撃ち殺すところを目撃します。

象の眉間に撃ち込まれた二発の銃弾。流れる血。ズサっと横たわる巨大な体。しかし象はまだ生きていました。

マイケルは死にゆく象の瞳を見つめます。まばたきする象の目。何を訴えたいのだろう? 象の瞳の奥に、深い、広い世界が広がっているかのようです。

父親は、倒れた象に「トドメを刺す」ため、もう一度、銃口を象に向けるのです。

その時マイケルは叫びます。

「NO!!!」

無情にも引き金が引かれます。

サバンナに響く、一発の乾いた銃声、その音はいつまでもマイケルの耳に残ります。

この一連のシーンは、マイケルの回想シーンとして語られます。

彼は院長、そして観客である我々にも、さまざまな「なぞかけ」をかけてきます。

マイケルの発言の中に「無用の長物」という言葉が出てきます。

その時、字幕の中に「エレファント」というルビが振られているのを目にしました。辞典で調べてみると、正確には「White elephant」白い象!?

それがなんで「無用の長物」と呼ばれるのか?

ちなみにYahoo知恵袋で検索しますと、「その昔、タイの王様が見た目の悪い白い象を敵側に送った故事に由来する」とのこと。

友好の印に送られたはずの白い象は、世話をするにも大変な手間がかかり、送られた側は、維持費がかさんで、とうとうギブアップしてしまった、という逸話があるのだそうです。

これは、本作において重要なキーワードでしょう。

つまりは、マイケル自身が精神病院に送られた、望まれない「白い象」ホワイトエレファントな訳ですね。

精神病院側はもう、彼の処遇に困るわけですね。ついには病院を破綻させかねない。その心配は現実のものとなります。

だから、彼の発する言葉の「象徴」するものであったり「暗喩」「隠喩」などに注意を払わねばなりません。院長との二人芝居は、緊迫した心理戦でもあります。しかしマイケルはいつもどこか、ふざけた態度をとります。まともに答えようとしない。グリーン院長の心をもてあそぶように、彼は言い放ちます。

「僕と取引したいのかい? だったら僕が出す条件は三つだ」

その一つが、なんと「チョコレート」をくれること、なのです。

実はこの、他愛もないチョコレートの要求が、後にとんでもない事態を引き起こすことになろうとは。

複雑怪奇なマイケルの精神世界、そこはまるで底なし沼なのか? あるいは巨大迷路なのか。

僕には彼自身が「虚無」な「無の坩堝」とでもいうべき存在に思えてなりませんでした。

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天見谷行人の独断と偏見による評価(各項目☆5点満点です)

物語 ☆☆☆

配役 ☆☆☆☆

演出 ☆☆☆

美術 ☆☆☆☆

音楽 ☆☆☆

総合評価 ☆☆☆

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作品データ

監督   シャルル・ビナメ

主演   グザビエ・ドラン、ブルース・グリーンウッド

製作   2014年 カナダ

上映時間 100分

予告編映像はこちら

「エレファント・ソング」予告編


ゆずり葉の頃

ゆずり葉の頃

2015年7月28日 元町映画館 にて鑑賞

何かが”いらっしゃる”佇まいと気配

 

ずぅ~っと「観てみたい」と思っていた作品でした。八千草薫さんと、仲代達矢さんが共演する、それだけで十分、映画館でお金を払って見る価値あり、とおもってしまいます。誰もが同じことを思うようで、神戸で唯一上映している、「元町映画館」に行ってみると、客席は平日にもかかわらず、ほぼ満席。しかも中高年の方がほとんどでした。

作品そのものはとっても静謐な作品。

佇まいがいいです。

軽井沢で、ある画家の個展が開かれました。画家は滅多に人前には姿を現さない。しかし、その絵に惹かれる人たちが数多い。いつしか、その存在自体が伝説的な画家になっていました。

 主人公の市子(八千草薫)は、この画家、宮謙一郎の、ある一枚の絵がどうしても気にかかる。一度でいいからその原画を見たいと思ってきました。いい機会です。彼女は自分の住む街から、個展が開かれている軽井沢へ向かいます。しかし、自分がどうしても観たい作品は、個人所有となっており、原画をみる事はほぼ不可能に近いことを知ります。

やがて市子は、地元の喫茶店のマスターや、彼に紹介されたレストランオーナーの計らいで、なんと、宮謙一郎画伯、ご本人に会えることになります。宮画伯のお宅に招かれた市子。そこで彼女が見たのは……

本作では、何の説明も要らないでしょう。絵画鑑賞のように映画の世界観、その雰囲気の中に身をまかせると良いでしょう。

音楽は悪くない。それもそのはず、ジャズピアニストの山下洋輔さんが、ピアノを担当してます。そのメロディーや演奏はやっぱり素晴らしい。

僕が気になったのはその音楽の使い方でした。

このシーンでは、むしろ饒舌な音楽は必要ない、と思えるシーンにまで音楽を使ってしまっている。

 実は「無音」という選択肢は、映画監督にとって実に勇気がいるのです。だから、どうしてもセリフのないシーン、人物の移動や、時間の移り変わりのシーンで、「必ず」「隙間なく」音楽を入れてしまおう、とする。その気持ちはわかります。本作では人物が動くシーンでの音楽が、やや饒舌すぎるきらいがありました。

まあ、これも趣味の問題なので、観る人がこれでいいと思えば、正解なんでしょう。

それからもう一点。一部のシーンで使われた、手持ちカメラの問題。

なんでブレブレの手持ちカメラを使ったのか? ほとんど意味不明なシーンがありました。市子の主観映像が、それに当たりますが、これは如何なものか? と首をひねりました。僕ならステディーカムを使って欲しいと思う。

いろいろと、文句を申しましたが、本作はそれを補って余りあるほど魅力的です。

やっぱり八千草薫さん、スクリーンで拝見するお姿はなんとも美しい。

この人は、老いて行くのではなく、本作のタイトルにある通り、その存在自体が「ゆずり葉」なのでしょう。

ゆずり葉は、若い葉が伸びてから、古い葉が落ち、次の世代に譲るのだそうです。

本作の見せ場は、なんといっても仲代達矢さんとの二人芝居でしょう。オルゴールの音に合わせて、八千草さんと仲代さんが、ダンスに興じるシーンがあります。

お二人が、子供の頃に戻ったかのように、無邪気に踊るシーンは印象的です。

ロケーションも本作の大きな魅力です。

「龍神の池」と呼ばれる池があります。清水が湧き出てくる、常に新しく、命溢れる水が、しんしんと湧き出てくる。その生命力と透明感あふれる小さな池のほとりにたたずむ主人公、市子。

「ああ、ここにはなにか”いらっしゃる”」と思えます。

岸部一徳さんが演じる、マスターの喫茶店「珈琲歌劇」この雰囲気もいいですね。エンドロールを見ていると、この喫茶店、実在するようですね。

レンガと木組みで作られた古い喫茶店。中に入ると、年代を重ねたと思われる銘木で作られた、カウンターのどっしりとした重み。客は少なく、これで経営が成り立つのか?と思えるのですが、静かに味わい深い珈琲を、じっくりと楽しむにはぴったりの雰囲気です。店員の服装は、清潔感あふれる真っ白なシャツに黒のエプロン。言葉使いが丁寧です。接客はどこまでも超一流ホテル並みです。そんな喫茶店のカウンターの奥。マスターは珈琲をじっくり丁寧にドリップしている。画面から、程よく焙煎された、珈琲の香りが漂ってきそうです。マスターの友人が営むレストランも、これまた素敵です。

ここは2組だけですが、宿泊もできる。地元で採れた食材でフランス料理を出している。

市子はこのレストランで、宮画伯の絵に出会うのです。

本作では、おもわず「一度は行ってみたいなぁ~」と思わせる、魅力的なお店、画廊、数々の美しい風景が取り上げられております。

年齢を積み重ねてゆくことで得られる、ある種の気高さ。

「私もこんな風に歳を重ねて行きたい」

本作を見て、誰もがそんな風に思うのではないでしょうか。

ゆずり葉のように、すくなくとも心持ちは「緑のままで」歳を重ねて行きたいものですね。

 

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天見谷行人の独断と偏見による評価(各項目☆5点満点です)

物語 ☆☆☆

配役 ☆☆☆☆

演出 ☆☆☆

美術 ☆☆☆☆

音楽 ☆☆☆

総合評価 ☆☆☆

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作品データ

監督   中みね子

主演   八千草薫、仲代達矢、風間トオル、岸部一徳

製作   2015年 

上映時間 102分

予告編映像はこちら

「ゆずり葉の頃」予告編



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