目次
前置き
目次
はじめに
第一章 封印された地上絵
第一章 封印された地上絵
(1)幾何学的に配置された古代祭祀霊場
畿内の聖数比の直角三角形
祭祀霊場の配置にみる距離規格
元伊勢と出雲は2緯度長構図のカナメ
祭祀霊場を布石した方法
エジプト起源の驚異的な天文知識
(2)隠れていたカバラの祭祀曼陀羅
カバラとは何か
浮かび上がる畿内の生命の木の図式
畿内の生命の木マンダラの効用
古代地図「ヤタノカラス」
(3)日本に来たユダヤの民
苛酷な新天地でのエルサレムの創造
エゼキエルの影響下の遺物、習俗
ユダヤ人渡来に関する諸論
カバラ祭祀を担った天狗、先修験者
第二章 古事記と超古代史
第二章 古事記と超古代史
(1)シュメールの良識
古代卓越文明をもたらしたもの
(2)オリエント知識の伝承
知識存続の情報工学的手法
古事記には何が書かれているか
(3)古事記の科学知識
古事記の伝える科学知識(宇宙論)
古事記の伝える科学知識(地質学)
(4)失われた超文明
一つ前の時代の終焉、超古代核戦争
超古代ハルマゲドンの様相
(5)大変災
科学力は自然の暴乱に勝る
天体の衝突が招いた太陽消失
(6)死からの再生
古代の死と再生観
第三章 渡来前秘史
第三章 渡来前秘史
(1)古代陰謀幻想
霊的進化のための神の計画
神の計画推進者の登場
(2)オリエント秘史
シュメール文化とともに浸潤した神官層
神官に逆らった王とバビロンの末路
バビロンからの解放
(3)東洋での展開
秦への浸潤
日本への流入と倭人の動き
第四章 カバラに誘われた日本の古代史
第四章 カバラに誘われた日本古代史
(1)日本最初の革命
神武天皇東征の舞台裏
古代日本は異邦人のるつぼ
物部氏はフリーメーソンか?
物部氏の所作らしい遺物と隠蔽工作
大和朝廷成立の経緯
日継ぎの役割は大和に引き継がれた
(2)贖われた秘儀成就
飛鳥時代、古代政道はゆらいだ
大化の改新は古代政道の改革を意味する
ニニギ預言の成就
ユダヤ結集政策の顛末
(3)寄道的雑考
卑弥呼と大和朝廷の関係を推理する
日の巫女の制度、鬼道とカバラ祭祀の類似
鬼道はカバラ祭祀の変化形
異端の民を救った宗教改革者
酒呑童子もカバラ行者
秦、藤原と菅公の影にカバラ
(4)最後の成就に向けて
第五章 現代への預言
第五章 現代への預言
(1)預言書古事記はかく語りき
預言の終結に向けて
空白を埋める黙示録
預言を超克するには
読者に贈る究極のメルヘン
後置き
あとがき
付録 選定地と距離計算結果
[参考文献]
奥付
奥付

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畿内の聖数比の直角三角形

 イザナギノミコトの御陵には、古事記の伝承本によって、「淡路の多賀」と「近江の多賀」の二説がある。学説的には一方の誤伝であろうとされているが、それぞれの地に伊弉諾神社、多賀大社が設営され今日に伝えられていることをみると、双方とも重要なのは確かなことであろう。古事記を暗号化文献とみる立場からは、そこにも作為性を汲み取るべきなのである。

 淡路と近江(淡海)は古語で「あはぢ」、「あふみ」であるが、語義を分解して考えると、表1・1のような対応になることが分かる。この二者は、陰陽の対立を刻明に表わした言葉であり、阿吽は開始と終了を暗示し、地(土)と水は、国生みにおいて対立する二つの要素である。それが「逢ふ」というのだ。



 古代人は、和歌の掛詞や縁語などにみるよう、一つの言葉であっても表情豊かに複数の意味を込めて表現した。淡海はもともと琵琶湖のことだが、淡路島とは外観上似ている。古代人はいつしか両者の形の類似を知り、呼び名で両者が身と蓋のような関係にあることを表現していたらしいのだ。それは、今様に言えば、相似の関係にあるということになる。ここに一つ、古代的な幾何学的発想を垣間見ることができる。

 次は多賀である。これは、今でも「タガが外れる」などと言うように、古語「たが(束)ぬ」(複数の竹木を組み合わせる)に語源があるとすれば推理に弾みがつく。つまり、多賀とは「ものの組合せの要」を意味するとみるわけである。それを古代人が与えたヒントと考えるなら、幾何学的に組み合わせて(結んで)みようという気になるのは、何も筆者ばかりではあるまい。そこで試みる段になった。

 ところが、淡海の多賀のポイントは湖東陸上にあり、淡路島の多賀の相似の位置に対応づけられない。そこで、淡路の多賀の対称点を琵琶湖に求めると、そこには沖島がまるで都合良くある。このため逆説的ではあるが、初源的には沖島こそが多賀大社の奥宮ではなかったかと考え、理想化して沖島を第二の多賀と仮定してみる。もう一つ、淡路の多賀の等緯度線上、東の彼方に伊勢の内宮がある。式年遷宮が繰り返されたとはいえ、古来よりこの辺り一帯が伊勢の霊場であった。これもまるで都合良すぎる感があるが、第三点に選ぶ。

 このようにして三点を結んでみると、不思議なことに、伊弉諾神社―沖島―伊勢内宮は、ほぼ正確に5対4対3の直角三角形を形成するのである。(図1・3)



 この比率は古代日本では類例がみられないが、オリエントやギリシャでは神聖比率として尊ばれていたという。また、伊弉諾神社―伊勢内宮の距離は、171Km 強と計算され、九州の直角二等辺三角形の短辺の距離と一致しているとみてよいほどである。これは九州と大和が同じ原理で線描されたことを、ほぼ完璧に示すものではないか。

 なおも、裏付けとしては、伊弉諾神社―伊勢内宮の中点が明日香となることである。しかも、ここを通る南北ラインこそ、先にした天降ラインを模写したものなのである。それは明日香、奈良、京都といった重要な祭祀都市の設営位置に基準を与えているものとみられる。奈良東大寺の等緯度上においては「尼(天が)辻」(天の道の意味に解せる)の地名さえ遺されている。

 さらに、伊弉諾神社―沖島の線上には京都御所、北東への延長上には荒ぶる神の山、伊吹山頂、その間を隔すように和魂の霊所比叡山頂がちょうど載る。殊に京都御所は比叡山と下賀茂神社で北東(鬼門)からの荒ぶる力から守られているという伝えが古くからある。その初源的原理がここに潜んでいるとみてよいのではないか。

 また、二つの多賀(伊弉諾神社―沖島)の中点になるのが箕面の六箇山であるが、これは「向こ」すなわち古代の幾何学表現「対向」の意味からきている呼び名とみられる。周辺の武庫川、六甲山(古名、むこの山)、向日市も同様であろう。日本国中探しても、対向にちなむ地名は他に四例しかなく、うち広島県尾道市と山口県防府市の向島の場合は、客観的に島が本土に対して近接し向かい合っている理由から付けられている。二つの多賀を結ぶライン沿いの一帯に多い、由来の定かでない謎の地名群は、淡路島と琵琶湖の相似図の対向を言ったものでしかあるまい。

 また、イザナミノミコトの御陵である比婆山は、何も島根広島県境の比婆山と特定することはなく、比婆=ひは=琵琶と転じたとも考えられる。それが山でなくてはならないなら湖上の山、沖島かも知れない。ならば、この場合の「向こ」とは、国生みの男女神の対向の構図を示すというわけだ。比良や坂本という神話上の地名も琵琶湖周辺にみられるのはそのためか。とにかく、神話の構図が地上に幾何学的に反映されているわけである。オリエントでは星空に神話を描いたが、古代日本では周囲の地形環境に神話を描いたと言えるだろう。




祭祀霊場の配置にみる距離規格

 以上のポイントをもとに、その周辺を調べてみると、シンプルな幾何学性質と特別な距離規格の認められるものがたくさん出てきたので、図に従って説明しよう。



 [図1・4] 祭政一致の古代にあっては、都市とは人口の集中した祭祀霊場というべきものであろう。まず、沖島―多賀の四等分点は東から京都御所、六箇山、平家の都福原に位置する。その間隔は35Kmで多賀―伊勢(171Km )の1/5長となる。  
 また、多賀―伊勢の中点明日香から真北に25Kmで平城京の中心部となり、そこから真西に25Kmで難波の都(上町台地)となる。これは多賀―伊勢の1/7長である。

 歴代の都の中にはこれに依らないものも造られたが一時的なもので、歴史上重要な位置を占めたのは幾何学ラインに関わる都であることが分かる。平清盛が都した福原は比較的後世であるが、基本を逸していないのは皇室との親交が深かったからであろう。それが断たれた鎌倉時代以降の武家政権では、原理が反映されるべくもなかったようだ。

 また、南北ラインの北辺の福井県遠敷郡の若狭神宮寺は、平城京の東の東大寺との間に、地下水道で繋がるという伝承があり、聖水を送受する儀式が遺っている。この距離は86Kmで、多賀―伊勢の1/2長となる。
 また、期せず若狭神宮寺―明日香は111Kmとなる。これは地球の平均1緯度長を示しているのだが、まぐれなどではなく、後述する図形で主たる規格となるものである。

 まとめの意味で、今後の図形に関わる距離規格の4つを掲げておく。
 ①171Kmノ1/7( 25Km)②171Kmノ1/5( 35Km)③171Kmノ1/2( 86Km)④111Km〓平均1緯度長(子午線全周/360)

 

 [図1・5] 琵琶湖上の島々との関係にも奇妙なものがある。
 明日香―沖島は86Km、その25Km延長上に竹生島が位置し、伊吹山頂とは等緯度なので、互いに相似である7対2の二等辺三角形の対向の構図になっていると言える。
 もしかすると竹生島と沖島は、神の尊容を祭るための古墳ではなかっただろうか。



 [図1・6] 中国地方から近畿地方にかけて、およそ86Kmの規格に基づくとみられる平行四辺形(菱形)が連鎖する。

 中国山地の那岐山は古くからイザナギノミコトを祭る神体山であった。市島は「斎き島」の転で、ピラミッド型神体山・小富士など秀麗な山体が多いが、強い呪術力を以てする大物主神を奉ずる三輪山ゆかりの鴨氏の所領であった。

 尾張の元熱田は、現熱田神宮位置がかつて海であった頃の元宮のこと。ただし位置不明のため、原理の側から導いた位置を名古屋市守山区の東に与えた。この近傍には、尾張第二の宮と言われた尾張戸神社があり、また実体の分からない天降の里と名付けられた宗教地があり、謎の聖域を醸している。 

 沖島を含む東西のラインは、若干西下がりとなっている。しかし幾何学模様としては、8対6対5の比率の平行四辺形の繰り返しが画策された感がある。むろんそれなら聖数比の構図であるが、後述する黄金比率の構図とも近似している。この辺の厳密性は事情により与えにくいので残念である。



 [図1・7] 沖島―明日香を一辺(86Km)とする正方形を試してみた。するとその一隅に、丹後の元伊勢皇大神社(内宮)が偶然に位置した。(外宮は内宮の約1.5Km 南)

 元伊勢はその名のとおり今の伊勢の地に遷座される前に、天照大神、豊受大神を祀るべく定め置かれた地であるが、真の所在地としては疑問視される向きもあった。しかし、特に元伊勢内宮の地点で、後述の様々な幾何学図形が満たされるのである。



元伊勢と出雲は2緯度長構図のカナメ

 記、紀には記されていないが、正史外文献「秀真伝」には天照大神を内宮、豊受大神を外宮に祀ることになった経緯とともに、この地に最初に内外宮が定められたことが書かれている。(*10)

 それによると、はるか神代の時代に天地が造られた後、地上で神々の統治が始まり、その五代目が豊受神で、その子イザナギ尊が七代目、またその嫡子(男神である)天照大神が八代目を継がれたとされている。

 内外宮に対置して祀られるのは、天照大神の教育を祖父である豊受神が尽力された縁により、また元伊勢の地の所以は、豊受神晩年の時に出雲の役人の不正を機に丹後の宮津で執政されたがこの地でなくなり、比沼山の真名井原に尊容が納められたが、後を継いだ天照大神も将来、豊受神の地に祀るよう諸神に遺勅された経緯によるという。そうした超弩級に由緒ある地と秀真伝は伝えるのである。
 その後、人皇の世になって、大和笠縫(崇神天皇期)、さらに伊勢(垂仁天皇期)へと遷座されたこととなる。

 伊勢神宮の発祥について、神社庁はこの地の元伊勢を最初とはみなしていない。またこの地にあっても宮津市内の篭神社の方を正統と論ずる向きもある。だが、幾何学図形はまさに加佐郡大江町の元伊勢を最重要地点として描き出したのである。
 元伊勢内宮の磐座は日室岳というピラミッド型神体山で、その名は日霊の御陵にちなみ、比沼の語に近い。

 また、その元伊勢内宮は、東の伊吹山、竹生島、遠く西の出雲大社とほぼ等緯度線上に並ぶという特徴を持ち、特に伊吹山頂とは、かの南北ラインに関して対称の位置にあるという霊妙不可思議さとなっている。

 また、元伊勢と関連して、もう一つのポイントを紹介しておかなければならない。南北ラインの陸上最南端串本に、奇しくも、大地の神の陽具を思わせるような潮岬半島があり、出雲の地名と大国主神を祀る出雲神社がある。むろん、出雲大社の分派には違いないが、起源は相当古いものと推測される。

 これらの精選した特別な祭祀霊場を幾何学的に結ぶとき、驚くべくも図1・8のような結果が得られた。



 出雲大社と出雲神社(潮岬)をそれぞれ中心にして、ほぼ地球の平均2緯度長(約222Km )の同心円上に市島、多賀などの主要祭祀霊場が位置し、元伊勢が二つの円の共有点となっているのである。

 また、出雲大社、元伊勢、出雲神社、そして元伊勢の対隅の土佐でつくる平行四辺形(菱形)は、8対6対5の比率(5、4、3の聖数比の構図)に近似している。むろん黄金比率(1.618・・・)が採用されようとした感のあることも否めない。
 加えて、吉備津神社は対角線と円の交点にちょうど位置するという不思議さである。

 もはや、これらは故意になされたものと考えざるを得ず、古代黎明期において、国土経営に関する高度な政治的配慮があり得たことを思わせる。ちなみに、四章で触れる銅鐸出土圏は図1・8の構図の範囲に奇妙に重畳するのである。



 壮大な見えざる地上絵には、多少の誤差はあるとはいえ直角三角形を主体にしたシンプルな図形群の潜在、緯度長の採用がほぼ明白。
 ならば、これらは何を物語るのであろうか。それは、常識を覆す途方も無い知識が、古代に渡来していた可能性ではなかろうか。
 



祭祀霊場を布石した方法

 では、いったいどのような方法で西日本各地に祭祀霊場を布石したのだろうか。
 書紀にいうように、倭姫が東に赴く途上で神の御出現を受けて伊勢の地が定まったのだろうか。ならシャーマンの卓越した能力の為せる業ゆえに成ったこととしてそれ以上何も論議することはない。だが、科学的に考えるなら、それでいいものではなかろう。

 ただ一つ妥当なのは、古代に何らかの精巧な地図があって、それを元に国土計画が立てられ、実地調査しつつ、地形を俯瞰照合することにより布石していくようなことがあったと考えるのだが、読者ならどう解釈されるだろうか。

 ならばその地図はどのようにして得られたのかということになろう。渡来文化人が居たといえど、農耕民族に毛の生えたような人々に、そのようなものの製作能力があったとは到底考えられるものではない。

 ならば、既にどこかに精巧な古地図が存在していたのではないか。それは、すでに基本的長さに緯度長を採り入れているだけに、地球が球体であることを当然識っており、経緯度の考え方をも採り入れているはずである。

 むろん、紀元3~5世紀という古代に精巧な地図などあるわけはない。おまえ、頭がおかしいんじゃないかと言われるのが落ちだ。ところが、世界は広く、海外にはこれが有り得たのだ。

 初めて日本を統治した古代皇室の源流は、海外から入って来た民族であることは紛れもない事実である。正倉院の御物には、朝鮮や中国どころか、古代中近東の面影が色濃く残っていることも事実。そこで仮りに、民族、文化の伝播の有り得べき可能性の限りを尽くして、中近東の地にそのような古地図を求めてみよう。

 すると、歴史学の常識からまったく逸脱したものは少なからずあって、オーパーツ(場違いな遺物)と呼ばれ、今なお学者の触れたがらないミステリーとなっている。
 その有名なものが、オスマン・トルコのピリ海軍提督が、時のセリーム帝に捧げたという「ピリ・レイス地図」(1513年製)である。

 アメリカ海軍のマレリーが、同図中の大陸が国際地球観測年の地震探査で得られた氷の下の南極大陸の地形図と似ていることを発見して、一躍世界的に有名になったものだ。当の南極大陸は1818年に初めて発見され、外形の地図化さえ1920年のことであった。

 また、そこには精密な南北アメリカ、ヨーロッパ、アフリカの大西洋側の海岸線が網羅されていたが、時にコロンブスがアメリカ大陸発見の直後で、それが大陸であるとの認識すらなかった頃のことであった。

 作図者のピリ提督が同地図中に注釈するには、アレキサンダー時代(前4世紀)の古地図や、コロンブスの手になる地図など20葉を下敷きにして作ったという。

 問題は下敷きの古地図の成立年代である。研究後継者のハブグッドは、驚くべくも前20世紀頃に栄えた古代エジプトのシエネを基点にして、円錐図法で描かれたものと結論した。これは、アレクサンドリアの図書館に所蔵されていたものと考えられている。

 また、オロンティウス・フィネウス地図(1531年製)は、南北両半球が精密に描かれており、特に南極大陸は、現在の地図とのアウトラインが類似するばかりか、川やフィヨルドの有様さえもが描かれ、南方の大地とさえ表現されていた。

 トルコのハジ・アハマッドの地図(1559年製)も、北極圏、ユーラシア、アフリカ、さらに南北アメリカの各大陸がほぼ完璧に描かれていた。むろんまだ各大陸を実測した者は誰もいないはずのものであった。



 その他、南極大陸を描いた地図は、ルネサンス期に多数描かれているという。それというのも、キリスト教会の抑圧時代への反動として、ギリシャ、ローマ時代を理想として、人々が埋もれた古代の文化遺産に群がった時期であったからである。その点、イスラム圏のトルコでは統制は緩く、いち早い知識の発露をみたのであった。



エジプト起源の驚異的な天文知識

 地動説を初めて唱えたコペルニクスは、ローマ法王に出した論文の序文に、「私が地球が動いているという説を持つに至ったのは、古代の人々の書いたものを読んでからだ」と明確に書いている。その古代の書物とは、一般的にはギリシャ時代の著書だとされている。確かに、プラトン(前4世紀)は、すでに地球は球であって、それが回転するので昼と夜があると言っていた。だが、果たしてギリシャが最初であったのかどうか。

 紀元前3世紀に、地球の子午線全周を最初に測定したというエラトステネスは、実際よりも6千2百キロの過大見積りとなったが、その方法の妥当性によって史上初の功業という栄誉が与えられた。ところが、近年、様々な考古学者によって、彼の功業は実測さえしていない偽物であり、既にあった知識情報からよく確かめもせずに借用して不正確さを生んだものと糾弾されている。(*27より)

 というのは、夏至の日の測定点の一つであるシエネが、この当時には北回帰線上にはありえないこと(ありえたのはそれより二千年も前)、もう一方のアレクサンドリアとは経度で3度も誤差があるのに気付かず、単に古代エジプトでこの両地点間の距離は100アトル(5000スタジアム)とされていたのを単に借用しただけらしいこと、そして古代エジプトの単位、王室キュビトをアッシリアの大キュビトと取り違えたらしいことが挙げられている。多分に、彼がアレクサンドリア図書館長という立場上行ない得た、情報のうかつな流用に違いないというのである。

 こうして図らずも、一大文化都市アレクサンドリアに焦点が合い、古代エジプトを窺うこととなった。

 古代エジプトの天文学に関する知識が高度に完成していたことは、クフ王のピラミッドとそれにまつわるギリシャの文献が物語っている。

 ナポレオンのエジプト遠征に同行したジョマールは、クフ王の墓とされたピラミッドの数値諸元を測定し、ほぼ完璧な数値を割り出し、それ以前にギリシャ古文献の中で「底辺全周は地理角度1分の2分の1」とか「辺心距離は1スタジアムで、これは地理角度1度の600分の1」とあった記述と照らして、古文献の記述が正しいことを知った。前2世紀のアガタルキデス(アリストテレス学派)の著物にも同様の記載がされている。

 これはとりも直さず、古代エジプトでは地球を球体として扱い、それを360度に分割して扱っていたことを示す。加えて、地球の正確なサイズは分かっていた。そこに経緯度に基づく地形の把握(地図)がなかったとは、むしろ考え難いのである。

 ジョマールはこうしたことから、ピラミッド建設者が地球の大きさをはじめとする高度の天文、地理に関する知識をピラミッドの幾何学の中に封じて後世に残したに違いないと信じるに至ったらしい。また、ニュートンも万有引力の法則を確立する際に地球の正確な大きさを知る必要があり、クフ王のピラミッドの度量衡を頼ろうとした。エラトステネスの測定値では自分の考えていた理論にあわなかったので、イギリスの数学者グリーブスのピラミッドに関する内外の測定データーに頼ったのだという。

 その他、ピラミッド幾何学の・比例(黄金比率1.618・・・)については、ヘロドトスが「この設計にあたっては、側面の各三角形の面積が高さを一辺とする正方形の面積に等しくなるようにしてある、とエジプトの神官から教えられた」と記載していた。またπ比例については、ある学者が計測輪を使用した結果起きた偶然であろうとしているが、エジプト文明を通じて車輪の利用のなかったことが一方では判明している矛盾ぶりという。

 ギリシャ人はエジプトから学び、幾何学知識を自分たちのものとした。エジプトはなぜか秘密主義に撤したために、西洋科学の先駆けとはなりえなかったのだ。
 さしずめ、問題はそうした知識が日本に来ていたかどうかであろう。







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