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エージェント・リカ

 都病院リハビリセンター

 

 リハビリを受けにきたリカは、車椅子から立ち上がり、自力でこうとしていた。周りを見渡すと手足がなく、義手義足を取り付けた者がたくさんいて、リカのように現場復するために誰よりも真んでいる者ばかりであった。

 リカは、看護士の指示のもと、リハビリに集中した。まず普通に練習を始めようとした。初級の行練習用通路は、三十メートルほどあった。はじめはさすがに思うようにいかず、すぐつまずいて倒れみ、悪戦していた。リカは、まず壁に手をついて、ゆっくりとこうとした。それは、スケートリンクではじめて滑る時のような感であった。

 リカの怪我は、治りが早いと言ってもしばらく昏睡態だったため、筋力がかなり落ちており、その態ですぐリハビリを行うのは、担当医の言った通り無謀なことであった。病室で立ったのも、やせ我慢だったかもしれないと担当医はふと思った。

 

どうだね?まだ無理だろう?自分の体が一番分かっているはずだ病室にろう

 

……嫌よ、この一直線の通路でけるまでらないわ

 

 リカは負けず嫌いなところがあり、志を燃やしていた。担当医は、呆れて溜め息をついた。

 

すまないが、私も他に仕事があるからいつまでも君にかまっていられない無理は絶対るな、本に体がれるぞ!」

 

 リカは、担当医の忠告に笑で受け答えした。担当医が去った後も、彼女は諦めず懸命にリハビリをけようとした。

 看護士がリカを見守る中、他に彼女の子を見している者が居た。それはグレーのスーツをて、サングラスをかけた、いかにも怪しい男であった。

 

………

 

 謎の男は、しばらくリカのリハビリしている姿をそっと覗いていた。

 

……ちょっと休憩したらどうですか?すごい汗の量だし、色も

 

 看護士は、リカの体調がになり優しくを掛けた。

 

大丈夫よでも、お腹空いてエネルギー切れかもはは

 

食は用意してありますただ、お願いしたいことが

 

何?」

 

食事についてですが、制限させてもらいますこちらで決めたメニューを食べて頂きます

 

そんな〜」

 

あなたの食事スタイルは、はっきり言って以上です今のあなたは、病人なんですか昨夜は特別ですよ今後のことを考えて、こちらのルールにってもらいますリハビリが終わっても身体検査があるんで、異常なデータが出ない為にも我慢してもらいます!」

 

「え!身体検査までってこと!?」

 

そういうことですね〜」

 

 リカにとって、食事制限は拷問に近いことであり、それで一に力がけたようであった。

 

「どうします?」

 

 看護士の容赦ない問いに困り果てたリカであったが、分後ようやく念した。

 

………います、けさせて下さい

 

了解しましたそれでは食を取ってからあと一時間頑張りましょう」

 

は〜い」

 

 リカは重い腰を上げて、看護士のサポートのもと、ちゃんとけるよう念した。

 

リハビリ初日は、ひとまず夕刻までけて、リカは、病室へとって行った。さすがに疲れたのか、彼女はベッドでになった途端、鼾をかいてていた。

 同じ頃、リカのサポートをしていた看護士は、担当医にリハビリの結果を報告していた。

 

でどうだった?」

 

……やはり食事制限のことがかなりショックだったのか、前半は調子がかったです

 

だろうな、それで今日は少しもけなかったのか?」

 

 看護士は、担当医の問いにしてゆっくり口を開こうとした。

 

……はっきりいって、今日はちゃんとくことは無理だと思ってました……しかし、最後の最後できましたゆっくりではありますが、壁に手をつかず三十メートルきました……!」

 

何だって!?」

 

これは真です!」

 

とても信じられん骨がくっついたばかりで立つのがやっとのはずそれに筋力はかなり落ちている初日でちゃんとけるとは!」

 

同感ですが、事なので

 

無理しすぎて異常はないだろうな?忠告はしておいたが

 

検査の結果、化はしていませんでした足の包も交換しておきましたしもうほぼ足の怪我は回復しています

 

彼女の回復力には驚かされるばかりだそれならもう少ししくやろう、飴と鞭で、飴はあまり与えるなときつく言われてな極限まで追いめとのことだそれを行するこっちの身にもなってほしいが

 

「了解ですそれでは明日から次のメニューに移ります

 

うむ、それで現在彼女は?」

 

寄り道させないよう病室まで送りました今は疲れてぐっすりてるかと

 

するななんといっても食欲にしては要注意だ監視を怠るな

 

「心得ていますまた後で子を

 

「よろしく

 

 こうして、一日目のリハビリが無事終わり、リカの試練がいた。

 それから週間後、担当医は、リカのリハビリ結果の報告書に目を通して、落ちかないであった。

 

想像以上にしませてくれるな彼女は!」

 

ええ、々と二百キログラムのベンチプレスを持ち上げていましたリハビリでする行為じゃないですよやけになってるんでしょうか?」

 

それもあるな好きなものが食べられないからストレス散だ何はともわれ順調のようだな報告しておこう」

 

 こうして、リカのリハビリは、問題なく進んでいき、それから一ヶ月近くとうとしていた。

 

 その日、リカはリハビリを終えて無事退院できるかどうかの身体検査を受けていた。

 

……は若干高いが神使う仕事だから仕方ないか……退院を認めよう!」

 

え?いいの?」

 

「ああ、怪我も完治したし、おめでとう」

 

「やった〜!やっと解放される!」

 

「お疲れでした!」

 

「ありがとう!世話になったわね!」

 

……退院したとはいえ、くれぐれも無理しないようにな特に食事は

 

「分かってるって!」

 

 リカは、担当医に苦笑いを浮かべ、を言った後、病院を出ようとした。彼女は迎えのタクシーを待っていたが、なかなかないので困り果てていた。

 

プァプァ!」

 

 その時、クラクションの音がこえ、その音は病院入口前の駐車スペースに停まっているメルセデスベンツからであった。

 

!」

 

 クラクションが鳴った直後、ベンツの運手が車から出て行き、リカの方に近づこうとした。その運手は、スーツを二十代後半くらいの男性であった。

 

初めまして、あなたを迎えにました、家までお送りしましょう

 

私を迎えに?あなたは一体?」

 

安藤ユウといいます、驚かせて申しないお見舞いでを出そうとしたんですが忙しくて

 

面のあなたがどうして迎えに?」

 

僕は……公安の人間です!」

 

え?」

 

 安藤はリカに近づき、自分が公安の係者だと小で明かした。

 

ここで話すのもなんですから、きは車の中で話しましょうどうぞ」

 

………

 

 リカはまだ半信半疑のまま、安藤の車にんだ。安藤は、運しながらリカと話をしようとした。

 

そんなに警戒しないで、どうも殺ちている腕を組む振りをして、上ポケットに利き手を深く突っこむのは、止めてもらえるとありがたいここでてば大きな事故につながる

 

……!」

 

 リカは、いざという時のためにひっそりと銃をく準備をしていたが、安藤に見かれていた。彼女は素直にい、利き腕を銃から放した。

 

プロだということは分かったけど、まだあなたを信用していないわ証明出来るものは?」

 

警察手帳や経歴の書類はいくらでも見せるよ、僕が敵なら、もうとっくにあなたを殺しているちなみに今日はオフでね銃は持っていない

 

まあいいわ、少しでも怪しい素振りを見せれば、強引に降りるわよ

 

分かったよ、話をけても?」

 

どうぞ」

 

かなり酷い怪我だったようだけど、予定より早く退院したようだね係者は皆、驚いているだろう?」

 

意外と体が丈夫なのが取柄でね、早く仕事したいし

 

表では舞台の仕事をしているようだけど、結構人あるみたいだね〜」

 

まあね、まだまだ未熟だけど……舞台をに行ったことは?」

 

ないんだよ、歌劇のことも最近知った出演者が全員女性というのは凄いね男も演じるわけだ?」

 

「男役をねはっきり知らないあなたからすれば不思議な感じでしょう?」

 

いいや、興味深いね、話のタネにに行きたいもんだがあなたは男を演じるのか?」

 

男役門よ、劇後、男役と女役を選るわ途中、役を替えられるし

 

どうして男役を?」

 

「背が高いからよ、あんまり背が高いと、ドレスとか女性用の衣が似合わないわ

 

「普段はひらひらの衣とかないのか?」

 

そうね、入してからスカートは一度も履いたことないわまず持ってないし

 

成程、役を忠に演じるためだね」

 

かなり興味を持ってくれているようね男性のファンがえてくれるとなんか嬉しいわ

 

 リカは表情が和らぎ、安藤と打ち解けようとしていた。

 

「もう少し話をけたいが、寄り道する所があってねそっちの用件をましてからの話をしよう

 

に行くの?」

 

あなたにいたいという人を待たせているんだ、これからってもらうよ」

 

それは誰なの?」

 

連絡を受けただけだからは知らないが、あなたがよく知っている人物だと思うよ

 

 リカは、待っている相手を知らないまま、安藤に待ち合わせ場所へと連れられた。

 

 待ち合わせ場所は都の公園であった。

 

並木道を通って場のベンチに座っているようだ行けば、すぐに分かるとのことだ

 

あなたは?」

 

僕はないように言われた、ここで待ってる、用がんだらってきてくれ」

 

 リカは素直に安藤にい、一人で公園へと入って行った。場に向かうと、ベンチに座っている者が一人居て、リカは、恐る恐るその人物に接触しようとした。座っている人物は女性で、サングラスをかけて、シックな感じの服こなしており、とても一般人とは思えない風貌であった。

 

あれ?まさか!」

 

 リカは、待っている人物の正体が分かったようであった。

 

いつまでぼけっと突っ立っているの?早く座りなさいよ!」

 

 ベンチに座っている女性は、命令口調でリカに話し掛けた。どうやら目上の人間のようであった。

 

「まさかあなただったとは驚きましたでもなぜ?」

 

可愛い後輩が入院したんだから、心配するのは然でしょ?見舞いに行こうと思ったけど行く暇がなくてね

 

「それは別に構いませんが

 

 リカを待っていたのは、先輩のノリコであった。

 リカの新人時代に就任した劇班トップスターの一人で、クールな一面が特で、ダンス技術が長けている。の世界では、孤高の狩人(ハンター)として恐れられている。

 

体の具合はどう?もう完全に回復しているの?」

 

 ノリコはサングラスを外し、淡々とリカに質問した。

 

……えっとはい!的確な治療とリハビリで、だいぶ良くなりました!」

 

そう、それなら安心ね、皆、あなたがってるのを待っているわ

 

私も仲間のを早く見たいです」

 

……あなたの相棒のことは念に思うわ彼女のことはよく知っていてねはっきり言って、あなたよりしっかり者で将来が期待された

 

……そうですよねどうして彼女が?どうせなら私が……!!」

 

 その時、リカは、表情が固まり、冷や汗をいた。それはまるで、金縛りにあったかのようであった。

 

その先のことを口にすれば、また病院送りになるわよ……!」

 

 リカが小刻みに頷くと、謎の金縛りは解けたようで、それはノリコの影響かどうかは不明であった。

 

……でも悔しくてたまりません、私がもっとしっかりしていれば……!」

 

自分を責めてもしょうがないわ、そういう運命だったのよあなたにも大物になる素質があるからツバキは、あなたの才能を見んで、自らの命を牲にしたんだと思う彼女はそういう人よ、未熟なはこれから補えばいい……今のあなたはプロとしての自が足りないわ

 

………

 

 リカは曇った表情のままであった。

 

「このままではツバキが浮かばれない先を目指すがあるのなら、くよくよしてないで心を入れ替えなさい!」

 

 リカはノリコのお叱りの言葉を浴び、それが身に染みて、今の自分の姿を恥じた。

 

ノリコさんの言う通りです、私はネガティブだから

 

「だからもっと自信を持ちなさい!」

 

はい、すみません」

 

……あとこれは辛いことだと思うけどツバキの件はしばらく忘れなさい相手がかったわ、とても敵わないわらない方がいいじきに決する時はるわそれまで待つのよ!」

 

分かりました」

 

 リカは、をこらえてノリコにった。

 

でもきついリハビリをり越えて、少しでも早く復する持ちには感服したわこれだと先が期待できるわね!」

 

「ありがとうございます!」

 

「今はとにかく、本業である舞台の仕事に重を置くのよ、あなたもいずれ私と同じように上を目指す立場になるそろそろ私たちの班の公演稽古が始まるわうかうかしている暇はない今までよりしく行くから悟して!」

 

はい!」

 

 ピリピリとしたムードに包まれる中、ノリコは、まだ何か言いたげであった。

 

……それとこれは正式に表してないけど、特別にあなたに話しておくわ

 

何でしょうか?」

 

……歌劇を退しようと思うの」

 

え?」

 

 リカは、ノリコの衝的な言で目がになった。

 

まだ先のことだけどね、周りに言いふらさないでよ〜後からちゃんと表するんだから

 

「それは自分の意志ですか?」

 

いちいち詮索しないで、トップスターなんてずっとなれるものじゃないし未練はないわそろそろ世代交代ってことよ

 

「私は困ります教えてほしいことがたくさんあるのに

 

だからめるまでちゃんと指導するわあなたを含め、若手を成長させるためにみっちりと鍛えてあげる!それなら納得でしょ?」

 

はい」

 

「よし、これで全て伝えたわ、あなたの元な姿を見れて良かった今度は稽古場でいましょう」

 

 ノリコは、サングラスをかけ直して、颯爽とリカの前から去ろうとした。リカは、ノリコの姿が見えなくなるまで呆然と立ったままの態であった。

 

 しばらくして、車で待っていた安藤は、ってきたリカにそっと話し掛けようとした。

 

用事はんだようだな」

 

……ええ、分と待たせたわね」

 

別にいいさ、それじゃあ行くか

 

 安藤は、車を進させてリカを家まで送ろうとするが、なぜか移動中に話しようとしなかった。リカもまた話し掛けようとせず、車まずい空が流れた。安藤は、リカの思い詰めた表情を見て、安く喋り掛けてはいけないと察していた。沈の時間がき、づけば安藤がする車は、リカの自宅マンションの前に停まっていた。

 

ここで合ってるだろ?」

 

「ええ、ありがとう、短い間だけど世話になったわもううことないわね」

 

………

 

 その時、安藤はリカの言にして、何か言いたげな表情を浮かべた。

 

どうしたの?」

 

は永遠の別れにはならないんだ上の命令でなこれから俺がお前の新しい相棒になるわけだ改めてよろしく!」

 

えー!!!!!!!?」

 

 安藤は急に馴れ馴れしく接し、リカは、驚きのあまり車を張り上げた。こうして、リカの新しい生活が始まろうとしていた。

 

 それから日後、リカが所する班が出演する舞台作品の稽古が始まり、彼女は、久々に仲間とを合わせて喜に沸いた。

 

 ある日、忙しいスケジュールの合間を縫って、リカは亡くなったツバキの墓りに訪れていた。その日の彼女の服は、男性用の喪服であった。リカはツバキの墓前で立派な男役、舞台女優になると誓って、分手を合わせた後、その場を後にした。

 

 それから長い年月が流れた。記念すべき周年の年が近づき、歌劇は、より一層活づいていた。

 女性ファンが多いとされる歌劇であったが、徐々に男性ファンもえていき、海外のファンも現れて、一層注目されることとなった。こうして、歌劇が盛り上がってるわけだが、そのであることが蠢いていた。

 

 打ってって、その年のしい東京。都某所のオフィスビルの一室で、待っている者が一人居た。

 待っている部屋は、CEO(最高経営責任者)の部屋で、その人物はアポイトメントを取っておらず、無で社へとんでいた。会社の人間は、そのことにづき、急いで侵入者のもとへと向かった。

 

……誰だ、お前は?どうやって入った?」

 

 CEOが警備を引き連れて、侵入者の前に現れた。侵入者は慌てることなく、ゆっくりと立ち上がった。その侵入者は、オーダーメイドの紫がかったダークスーツを身に纏って、腕を組んで姿勢よく立っていた。

 

ここはセキュリティー専門の社だと耳にしたけど、たいしたことないわねおたくの社員に化けて、お邪魔させてもらった本人は無事だから安心して」

 

……お前は一体?」

 

私の名はリカ、公安のエージェントよ、あなたに訊きたいことがあってたの」

 

……警察か?警察が何の用だ?」

 

しらばっくれないで、あなた、陰で色々なことしているでしょう?」

 

……ぐ!」

 

 CEOは、リカに指摘されて色をくしていた。

 

事をいているようだけど、今回は見逃してあげるわ別件で訪れているんでね

 

「ごちゃごちゃと喧しい女だ、警察だろうと許せないことだ、早く出て行け!」

 

私の質問に答えてくれたら出て行くわ

 

れ!自分から出て行かないんなら、力ずくで追い出すまでだ!」

 

 CEOはリカの用件にじず、警備を使って彼女を追いだそうとしていた。

 

!」

 

 警備がリカを捕らえようとするが、彼女は抵抗して、反の隙を窺い、リカは警備の一人に蹴りを浴びせた。

 

何している?どんどん行け!」

 

 リカの強さに怖づいた警備たちであったが、CEOの命令で仕方なく動こうとした。警備たちは、一にかかろうとしたが、リカには通用せずことごとく倒されていった。づけばCEOだけり、2人きりになった。リカはCEOに銃を突きつけた。

 

……さて、これで邪魔者が居なくなったゆっくり話しましょうか」

 

……警察が脅迫するか!」

 

警察、警察って五月蝿いね、私は非常勤みたいなものよ、特殊なだから問題ない、これも捜査…!

 

……何が訊きたいんだ?」

 

 CEOは身の危を感じ、リカの質問に答えようとした。

 

……あなたがある犯罪組織の一員だということは分かっている知っていることを全て話してもらうわ

 

「!……詳しいことは知らない……私はただの下っぱだ話せることはない!」

 

じゃあこれならどう?年くらい前に社が爆破事件にまれたはず爆破された社の情報は抹消されて調べようがない何か知っているでしょう?」

 

!!ああれには私が与していない……どうしてそんなことを訊く?」

 

 CEOは包みさず質問に答えようとして、リカは、CEOに追っている事件の事を話そうとした。

 

……爆破された社には私も居たのよ、そして仲間が一人爆破にまれて死んでしまったわだから犯人を追ってる!」

 

敵討ちということか

 

そうよ、絶対に許さない!」

 

 この年、リカは所している歌劇のトップスターに就任して歌劇の看板を背負う人材に選ばれた。また、の世界では、一流エージェントに昇格して、相棒の公安職員、安藤と共に凶な犯罪を捜査していた。彼女は、あらゆる困難をり越えて、仲間の敵を討とうと奮していた。 

 

 

………!あれ?私、てた?」

 

 リカは、自主稽古の休憩中に疲れ果てて眠ってしまっていた。彼女は、長く夢を見ていたようであった。すっきりしたで目めたリカは、稽古をけようとせず、る支度をしようとした

 

……今夜はこれくらいにしとくよ無理するのは体に毒でしょ?」

 

 リカはり際、彼女以外誰もいないはずのエレベーターホールで何やら語り掛けた。それは亡くなった友、ツバキに向けた言葉であった。リカは、ツバキとの約束を果たし、彼女の分まで精いっぱい生きようと考えていた。


サマーメモリー

 ある厳しい暑さが続く日本の夏、百年の伝統がある大手歌劇団は勢いが衰えず、観客の期待に応えようと奮闘していた。

 歌劇団は、六つの班に分かれて公演を行っており、公演スケジュールなどはそれぞれ異なる。さらには、拠点としている劇場の公演だけでなく、全国ツアー公演、若手スター育成のための公演などがあるため、班の中で二手に分かれることが多々ある。これにより、ファンは日本各地で歌劇団の舞台を楽しむことが可能となった。

 一班のトップスターのリカは、大作の公演を終えて一段落ついていた。次の仕事であるディナーショーは、まだ先のことなので、彼女は久々の長期休暇が取れることが出来た。

 ある朝、リカは一度目を覚まして慌てた素振りになるが、ふと休暇だということに気づいた。

 

「…ふ~焦った…」

 ほっとしたリカは、不規則と分かっていながら再び寝転がり、二度寝することにした。よほど疲れが溜まっていたのか、彼女はすぐに眠りに就いた。

 真夏といっても朝の時間は涼しい方で、リカは、冷房を点けずに眠っていた。

 

リカは、ある夢を見ていた。しかし、それは夢といっても実際にあったことで、彼女の過去の出来事であった。

 時代はリカがまだ歌劇団の新人劇団員だった頃、この頃、トップスター時代に比べれば楽な方で、彼女は安心して夏休みを取っていた。

 リカは、夏に休みを取ると、決まった場所に足を運んでバカンスを楽しんでいた。

 

その場所は神奈川県内に位置する美しい海が一望出来るのどかな田舎町、柚里浜(ゆずりはま)であった。漁業で盛んな町であるが、春は山で花見が出来て、夏はスキューバダイビング、秋は紅葉狩り、冬は外湯巡りと一年中楽しめる観光スポットとなっている。

 

 

 

 トンネルの暗闇から抜けて海沿いを走る列車にはリカが乗っていた。その他の乗客の中には、馬鹿騒ぎしている大人や子供がいて、それを迷惑そうに見ている者もいた。

 

「…コン」

 その時、酔っ払いが放ったビールの空き缶が、リカに命中した。しかし、彼女は少しも反応せず、サングラスをかけながら爆睡していた。

 

「…ご乗車ありがとうございました…まもなく柚里浜に到着いたします…お降りの際、お忘れ物がないようお気を付け下さい…」

 

 車内に聴き心地のいいアナウンスが流れ、リカは、目を覚ましててきぱきと降りる準備をした。

 

「あ~やっと着いた~暑いね~」

 

 リカは背中を軽く反らし、駅を出て強い日差しを浴びた。外は蝉の声が鳴り響き、夏の空気が染み渡っていたが、がらんとして、これといって目立つ物はなかった。駅前には、タクシー乗り場や一日に二本しか来ないバス停留所、他に小さな売店や古びた食堂がある程度であった。

 

「…!」

 

 リカにとって見慣れた風景であったが、よく辺りを見渡すと、気になる物が目に入った。「環境破壊するな!」「リゾートホテル建設反対!」等と書かれた旗が駅の隅の方に掲げられていた。さらには熱い中、だらだらと汗を掻きながら署名運動をしている町民を目にした。

 

「…あのすみません」

 

「え?」

 

 バス停に立っていたリカは、署名運動している町民の一人と目が合い、声を掛けられた。

 

「…時間は取らせないので、ご協力願いますか?」

 

「…はい、いいですけど」

 

 リカは、サングラスを一旦外して町民の話に耳を傾けた。

 

「…ありがとうございます、実は、この柚里浜に高級リゾート施設の建設の話が持ち上がって、我々町民はそれに反対しているわけでして…計画を中止しようと、署名を集めているんです…」

 

「…成程、暑い中ご苦労様です…」

 

 リカは、気立てのいい七十代前半の男性町民から事情を聴き、快く署名用紙とアンケート用紙を受け取った。

 

「…今日は、この町にご旅行で来られたんですか?」

 

「…はい、毎年、夏になると来るようにしているんです、スキューバダイビングがしたくて…」

 

 リカは、用紙に記入しながら老人男性の質問に答えた。

 

「そうですか、自慢出来る美しい海ですからね~あなたと同じ目的で多くの人が来られますよ…日帰りですか?」

 

「…いえ、泊まりです、休みは長いんで…ずっと同じ旅館に予約しています」

 

「へえ~…ちなみにその旅館の名は?」

 

「…えっと、美楽荘って旅館ですけど…」

 

「ああ~美楽荘ですか~あそこはいいですね~従業員もいい方ばかりですし…」

 

「そうなんですよ、子供に頃から家族と来ているんで気に入っちゃって~」

 

 リカは、すっかり老人男性と意気投合して、日陰にあるベンチに一緒に座り、しばらく雑談していた。

 

「…!」

 

 時間を絶つのを忘れ、気づけば、リカが待っているバスが到着して、老人と別れることになった。

 

「…すみませんね~老人のつまらない会話を聞いてもらって…」

 

「…いえいえ、楽しかったです、何か亡くなったおじいちゃんを思い出しました、無理しないようにして下さい…!」

 

「…本当にありがとうございました、どうか楽しんで帰って下さい…それでは」

 

 老人男性は、リカに別れの挨拶をして署名運動を再開した。後から分かったことだが、老人男性の正体は、前町内会会長であった。現在は会長の座を長男に譲り、悠々自適に暮らそうとしたが、リゾート計画のことが気になり、町民と共に建設反対運動に参加していた。

 リカは、バスで宿泊する旅館に向かおうとしたが、乗客は、地元の人間三人とリカのみであった。景色を見ると、道路は海と山に挟まれてまさに自然の宝庫であり、とても都会では味わえないものであった。リカは、バスの中でもう仕事の疲れが吹っ飛びそうであった。しばらくしてバスは山中を通り、リカが宿泊する旅館近辺で停車した。

 

 リカが宿泊する旅館〝美楽荘〟は、こじんまりした二階建てで、周りの旅館と比べると古びていた。しかし、それに風情があって、魅力的で多くの旅行者が宿泊していた。何よりリカのような常連客が多かった。また、前会長が言ったように従業員はいい人材ばかりで、細やかなサービスが行き届いていた。

 

「いらっしゃいませ~」

 

 リカが旅館に入ると、気品あふれる和装で出迎える美人女性がいた。

 

「あの…またお世話になります~」

 

 リカは、美人女性に愛想よく挨拶した。どうやら二人は顔馴染のようであった。

 

「…リカちゃん、今年も来てくれたのね、お気に入りの部屋はちゃんと取ってあるから…」

 

「ありがとうございます!」

 

 美人女性は、美楽荘の女将であった。名は水口沙耶、四十七歳。実年齢より若く見えて、優しそうであるが怒ると怖い一面が出る。

 

「ゆっくりしていって、あの娘に案内させるから…茉緒、お客様よ~!」

 

 すると、一階へ降りていく足音が聴こえ、一人の若い仲居がリカたちの前に現れた。

 

「あ~リカ!待ってたよ!」

 

 その仲居もまた、リカと顔馴染であった。彼女は沙耶の実娘で、名は水口茉緒、十九歳。リカの幼馴染みであった。

 高校卒業後、親が経営している旅館で仲居として働いていた。母の跡を継ぐため、幼い頃から厳しい教育を受けていた。

 

「さ~リカちゃんを部屋まで案内してあげて!ちゃっちゃとね!」

 

「分かってるわよ、ちゃんとするから!」

 

 リカは、茉緒たちの親子喧嘩を見て、くすくすと笑っていた。茉緒は、リカの荷物を持って、宿泊部屋まで案内しようとした。

 

「結構、様になって来たわね、まだ仕事は大変?」

 

「…まあね、常連客が多いからやりやすい方だけど…さっき見た通り、まだ一度も褒められてないわ…小さい頃から仕事を手伝わされで厳しいったらありゃしない…」

 

 リカたちは、宿泊部屋に向かいながら雑談していた。

 

「…怒ったら怖いかもしれないけど、いいお母さんじゃないの…全然変わらないわね、おばさん…いつまでも綺麗~」

 

「…一切、疲れた表情を私たちの前で見せないからね…その辺がプロよ…家族の中で一番プライド高いし…リカのお母さんの方が綺麗だと思うけど…」

 

「……そうかな?なんか変わった人だからね~そこが似たんだけど…」

 

「……あんたの方こそどうなのよ、舞台の仕事は順調なの?」

 

「…ええ、まあ…まだチョイ役ばかりだからなんとも…今さらだけど、自ら舞台に立って歌ったり踊ったりするなんて考えられないかも…」

 

「…考えられないと思っているのは、私たち身内よ…まさかあんたがあの歌劇団に入団するなんて信じられなかった…友達全員驚きっぱなしだったわ…てっきりモデルになるかと…」

 

「…私もモデルになるつもりだったんだけど、歌劇団は親に薦められたのよ、母は歌劇団のファンだし…絶対人生の役に立つって言われて…」

 

「歌劇団専属学校の入学試験は大変だったんでしょ?全く会えない時あったし…倍率がえげつないって聞いたけど…よく一発で合格出来たわね…」

 

「…まあ奇跡ってやつじゃないの…」

 

「…運も実力のうちって言うしね…これからのあんたの活躍が楽しみだわ~ふふ」

 

「からかわないでよ…それよりこの町、随分揉めているみたいね?」

 

「え?」

 

「…リゾート施設を建てる計画で騒ぎになっているんでしょ?」

 

「…ええ、今年の春くらいから建設会社側と対立しててね…今頃、公民館で言い争っているでしょう…うちの父さんも代表で反対運動に参加しててね…駅前で署名してくれたのね?」

 

「…うん、偶然、署名運動しているおじいさんに会ったのよ、感じがいい人だったから気分よく同意したわ…」

 

「…おじいさんね」

 

 茉緒は、頭に前町内会会長の顔がよぎったが、あえて、リカに正体を明かさなかった。

 

「私も今のこの町、好きだから早く中止になるのを祈っているわ」

 

「ありがとう、確かに最近、町は寂れてきたけど、必要としてくれている人は大勢いるわ、町の人はいい人ばかりだし…もし高級ホテルなんて建ったら柚里浜ではなくなってしまうわ…なんとしても中止にさせないと…」

 

「私に出来ることがあったら何でも言ってね!」

 

「ありがとう、気持ちだけ受け取っておくわ、あんたは思い存分楽しんでくれたらいいから……!」

 

 その時、リカたちの前に一人の仲居が現れた。

 

「…あら、茉緒さん…そちらはお友達?」

 

「はい、客でもあるんですけど、毎年、この時期に泊まりに来るんです…」

 

「そうなの、綺麗なお友達ね」

 

「…あっありがとうございます…!」

 

「…彼女には今年の春から働いてもらってるの」

 

「…中山祥子と申します、よろしくお願いします」

 

「…リカです…よろしくお願いします!」

 

 祥子は、リカたちより年上で大人の女性の色気を出し、実に魅力的であった。

 

「それじゃあ、リカさん、ごゆっくり~」

 

 祥子は、リカに上品な姿勢で振る舞い、その場を去って行った。

 

「…今の仲居さん、綺麗な人ね~」

 

「そうでしょう、仕事の覚えもいいし、もう人気者よ、かなりの戦力になってるわ」

 

「そうでしょうね~」

 

 リカは祥子に見とれていた。

 

「…さあお気に入りの部屋に入って」

 

 リカは、茉緒に扉を開けてもらって、部屋に足を踏み入れた。

 

「…?」

 

 その時、リカの宿泊部屋のはずであったが、なぜか人の気配を感じ、奥の部屋につながる襖をそっと開けようとした。

 

「…!!」

 

 部屋には人影があり、それは、一人の女の子であった。

 

「こら!何してんの!」

 

 茉緒は、部屋にいる女の子にきつく声を上げた。

 

「………」

 

 女の子は茉緒の怒号に動じず、何食わぬ顔を浮かべて部屋から出て行った。

 

「…あの娘、誰?」

 

「うちの姪っ子よ、今、小学校は夏休みだから遊びに来ているの、一人でね…ほんとお転婆で…悪いわね、驚かせちゃって…」

 

「…別にいいわよ、全然平気だから」

 

「あの子どっか汚してないでしょうね…せっかく綺麗に掃除したのに…」

 

「やっぱり子供にも分かるのよ、ここがいい部屋だってことが…」

 

 リカの言う通り、予約した部屋からの風景は素晴らしいものであった。自慢の美しい海が一望出来る絶好の場所であった。リカは、毎年この部屋を予約していた。

 

「まあ自由にやってよ、早速泳ぎに行くんでしょう?」

 

「うん、今日は天気がいいからね~」

 

「昨日は滝のように雨降ってたのに…あんたは、確か晴れ女だったわね」

 

「うん、結構天気は恵まれているわ」

 

「…じゃあ私が旅館の車で下まで送ってあげるよ~」

 

「ありがとう、ちょっと待ってて、用意するから~未来の女将さん~♪」

 

 リカはスキューバダイビングを目的にやって来たわけだが、ダイビングライセンスを持っていなかった。まず彼女が向かったのはダイビング体験の施設であった。

 

「……それじゃあ私はここで…今日は忙しいからすぐに戻らないと…夕方に迎えに来るから」

 

「うん、ありがとう、頑張って、未来の女将さん~♪」

 

 リカは、茉緒に礼を言って、一人でダイビング教室へと入っていた。

 インストラクターとは顔馴染で、スタッフたちはリカを温かく迎えた。

 

「いらっしゃいませ、お待ちしていました」

 

「よろしくお願いします~」

 

 リカのインストラクター担当は、こんがり焼けた肌で健康的な好青年であった。

 

「今日は天候が良くて水温が高い方だから気持ちよく潜れますよ~」

 

「はい、楽しみにしています~」

 

 リカは、期待しながら水着の上からレンタルのダイビングスーツやシュノーケルセットを身につけた。その後、彼女は小船に乗せてもらい、ダイビングポイントに向かった。

 

「それじゃあこの辺りで潜りましょうか」

 

「はい」

 

 リカは、インストラクターに指導してもらいながら海に潜ろうとした。澄んでいる海の中を覗くと、それは神秘的な光景であった。海中には、優雅にさまざまな種類の魚が泳いでおり、リカたちを少しも警戒せず、歓迎しているように見えた。視界がいいため、海中の様子がはっきりと分かり、リカたちも海の住人になった気分であった。彼女は、海中でインストラクターに写真を撮ってもらい、その光景は、地上での観光と変わらない行為であった。リカは時間を忘れ、初日から満喫していた。彼女は時間を忘れるくらいの海の中が好きであった。

 

 一方、美楽荘は忙しいようで対応に追われていた。そんな中、また一人、宿泊客が訪れようとした。受付には急いで戻ってきた祥子が待機していた。

 

「…いらっしゃいませ、ようこそ……!」

 

 祥子は、訪ねてきた男性客の顔を見るとなぜか青ざめた表情を浮かべた。

 

「…予約した古谷ですが…」

 

「え…はい,承っております…」

 

 祥子は、どうにか気持ちを切り替えて応対した。

 

「…!」

 

 そこに茉緒が現れて、祥子は冷静さを装った。

 

「…いらっしゃいませ~……祥子さん、すみません…!皆バタバタしていて…」

 

「…別にいいのよ…部屋までご案内するからここをお願い…」

 

「分かりました」

 

 祥子は、茉緒に受付を任せて古谷という男性客を部屋まで案内した。

 

「…お荷物お持ちします…」

 

「…いえ、結構…大丈夫ですから…」

 

「………!」

 

 古谷は何処か無愛想で、気まずい空気が流れた。祥子と古谷は、とても初対面とは思えなかった。

 

「……夕食の時間になりましたらお知らせしますので…それまでごゆっくり…」

 

 祥子は、若干早口で旅館内の説明をして、逃げるように部屋から去ろうとしていた。しかし、古谷の手が伸びて、彼女は引き止められた。祥子は、古谷に肩を掴まれ、脅えている様子であった。

 

「…まあ、そう怖がるなよ、久しぶりに会えたんだから…」

 

 その時、古谷の様子が豹変し、祥子に馴れ馴れしく話し掛けた。

 

「……私は、あなたのこと知らないわ…!」

 

「…その割には、顔をちゃんと覚えてくれているようじゃないか…少し整形したんだが、効果なしかな…ふふ」

 

「…顔を変えても分かるわ、あなたの嫌な部分が滲み出ているから…」

 

「さすがだな…長く一緒に居たからな、また会えて嬉しいよ…」

 

「…何の用なの?」

 

「…ゆっくりと話したいが、今は忙しいだろう…落ち着いたら部屋に来てくれ…」

 

「………」

 

 祥子は首を縦に振らず躊躇していた。

 

「…俺からは逃げられんぞ、住み込みで働いているんだろう?警察にも言えないしな…」

 

 祥子は、古谷に何やら弱みを握られて、拒否することが出来ないようであった。この二人が接触したことで、ある問題が巻き起ころうとしていた。

 

 気づけば夕刻となり、夕日が澄んだ海を赤く染めていた。リカは、ずっと海中散歩を楽しんで、そろそろ引き揚げようと陸に上がっていた。

 

「今日はありがとう~また明日よろしく~」

 

 リカは、ダイビングスタッフたちに手を振って、茉緒が運転する車で、宿に戻ろうとした。

 

「今日は、満喫出来た?」

 

「ええ、何度潜っても全然飽きないわ~泳ぎ疲れたけど良かったわ~」 

 

「でしょうね~でも楽しみはまだあるわ、日頃の疲れを吹き飛ばす温泉に今日はいい魚が大量に獲れてね…豪華な夕食が待っているわ、でも、あんた確か…海鮮類、苦手だったわね…?」

 

「うん、でも火が通っていれば大丈夫…生が苦手で…」

 

「あんた臭いに敏感だからね…魚の生臭さが耐えられないのね…まあ、肉料理もあるし、メニューは豊富だから問題ないでしょう?」

 

「うん、エビフライとか陶板焼美味しいね~刺身以外なら食べられるよ!」

 

 リカは無邪気に友と語り合い、幸せな一時を過ごしていた。

 

 美楽荘の宿泊部屋数は六室あり、その日は満室となった。リカは、夕食前に温泉に入ろうとしたが、脱衣場の人の多さに嫌気が差し、夕食後に入ろうと決めた。ダイビング後、しっかり海水を洗い流したので特に問題なかったようであった。

 

 リカは、風呂を諦めて部屋に戻ろうとしたが、その途中、受付ロビーで茉緒の姪を目にした。彼女は椅子に座り蹲っていて明らかに様子がおかしかった。

 

「…どうしたの?お腹の調子でも悪いの?」

 

「………」

 

 リカは茉緒の姪を気にかけるが、彼女の応答がなかった。茉緒の姪の体は、震えており何かに怯えているようであった。

 

「……帰ってきてからずっとその調子なのよ…」

 

 リカたちの前に汗を掻いた茉緒が現れた。

 

「部屋で会った時は元気そうだったのにね…今の状態だと、名前も訊けそうにないわね」

 

「…名前は西野伶亜、小学三年生よ…お転婆だけど、まだ甘えん坊な一面があってね…急に親が恋しくなったのかな…?仕事が片付いたら、事情を聴こうと思うんだけど…」

 

「………」

 

 リカは、伶亜が何か深刻な事情を抱えているではないかと推測していた。

 

「…さあそろそろ夕食よ、リカ、悪いけど、この娘と一緒に食べてあげてよ、賑やかなところで食事した方がいいでしょう?」

 

「そうね…伶亜ちゃん、お姉ちゃんと一緒に広間の方に行こうか…」

 

 伶亜は無言のまま、リカについて行こうとした。

 

「……あのすみません」

 

 その時、スーツ姿の男性数人が美楽荘に訪ねて来た。

 

「…いらっしゃいませ……あの…宿泊でしたら今日は生憎満室でして…」

 丁度ロビーに居た茉緒が、男性たちに応対しようとした。しかし、突然訪ねて来た男性たちは、茉緒が予想していたこととは違う反応を見せた。

 

「…すみません、我々は宿泊で訪れたんじゃないんです、実は刑事でして…」

 

「え…?」

 

 刑事と名乗る男性たちは、証明するために警察手帳を提示した。茉緒は、突然のことで気が動転しそうになった。

 

「…ある捜査をしていまして、ご協力願いますか?」

 

「…はい、どういったことでしょうか?」

 

 すると、刑事の一人が上着の内ポケットから写真一枚を出して、茉緒に見せようとした。

 

「この男性なんですが…こちらに宿泊していませんか?」

 写真に写っている人物は、古谷という宿泊客で、茉緒は彼と顔を合わせていた。

 

「!……はい、今日、ご予約頂いておりますが…古谷様が何か…?」

 

「………さきほど遺体で発見されました」

 

「…え?!」

 

 その時、茉緒は自分の耳を疑い、リカたちの耳にも届いていた。

 

「……!!!」

 

「…伶亜ちゃん?」

 

 リカは伶亜の異変に気づいた。彼女は、何かを思い出したようで酷く怯えていた。

 

「…申し訳ないですが、事情聴取したいので従業員の方、全員呼んで頂けませんか…勿論、業務が終わってからで結構です…宿泊客に騒がれないよう寝静まった時間がいいでしょう…それまで待ちます、どうかご協力を…!」

 

「……分かりました、女将に伝えて来ますので…」

 

 茉緒は緊急を要して、女将である母に伝えに行こうとした。

 

 謎の宿泊客、古谷の死亡により、リカは、ある重大事件に巻き込まれようとしていた。

 刑事たちが訪ねて来たのを耳にした女将、沙耶は他の宿泊客に刺激を与えないよう、彼たちを速やかに使用されていない大部屋に誘導した。夕食の支度や段取りは沙耶の娘の茉緒に任された。

 その頃、リカは、茉緒の姪にあたる伶亜と広間で夕食を取っていた。

 遊び疲れたリカはご馳走にありつき、箸の動きが止まらなかった。しかし、それと比べ、伶亜の箸があまり進んでいないようであった。

 

「…どしたの?結構残っているけど…お腹空いてないの?」

 

「………」

 

 リカは心配して伶亜に話し掛けたが、彼女は無言のままで、彼女が旅館に戻ってからどうも様子がおかしかった。伶亜は少しも心を開かず、リカは困り果てていた。

 

「……綺麗に食べてくれてるわね、ご飯もまだお代わりあるけど…」

 

 リカたちに話し掛けたのは、仲居の祥子であった。

 

「…いいえ、もうお腹いっぱいなのでこれくらいにしときます…すみません」

 

「…そう、じゃあデザートの杏仁豆腐持ってきますね」

 

「ええ、お願いします」

 

「…伶亜ちゃんは……あれ?いっぱい残してるわね…」

 

「…そうなんですよ、なんか元気なくて食欲ないみたいで…」

 

「どうしたのかしらね?伶亜ちゃん、何かあったの?」

 

「…!!!!」

 

 その時、伶亜の態度が豹変して、ますます顔色が悪くなった。彼女の体の震えは止まらなかった。

 

「…伶亜ちゃん?」

 

「あらあら、本当にどうしちゃったのかな?はじめに会った時は元気よく挨拶してくれたのに…」

 

「…!」

 

 その時、伶亜はリカたちと目を合わさず、広間から逃げるように走り去って行った。リカと祥子はお互い目を合わせ、首を傾げていた。リカはまだ、ことの重大さに気づいていなかった。

 

 一方、大部屋では従業員数人が集められ、古谷の件で事情聴取を受けていた。まず、事情聴取を受けたのは沙耶であった。

 

「…では古谷氏は今日、こちらの予約を取っていたわけですね…?」

 

「…ええ、うちは大体、常連のお客様が多いんですが、古谷は新規のお客様で、馴染がなくて…」

 

「…そうですか、最後に彼を見たのはいつですか?」

 

「…午後四時過ぎくらいに外出されまして…街を探索したいとおっしゃったので下まで車でお送りました…」

 

「…女将さんが運転されたんですか?」

 

「ええ、新規のお客様は、私か主人が対応するようにしています…主人は居なかったものですから…」

 

「今日、ご主人はどちらに?」

 

「…公民館に行っています…討論会に参加するために…」

 

「…討論会…?…ああ、リゾート地開発の件ですね…成程…」

 

「あの…何か私たちを疑ってます…?」

 

 沙耶は、刑事たちの質問の仕方が気に入らないようであった。

 

「…いえいえ!そんな滅相もない!これも仕事なので気にしないで下さい…ただ、こちらの旅館に宿泊しているということが分かったのでお伺いしたまでです…」

 

「…それならいいですけど」

 

 沙耶を落ち着かせたところで、また別の若手刑事が聴取を続けようとした。

 

「……遺体が発見された場所は、裏山の崖下でした…崖上を調べると、彼の足跡があったため、そこから足を踏み外したと考えられます…事故として捜査しているんですが…」

 

 若手の担当刑事は、手帳を片手に何か疑問に思っている様子であった。

 

「…事故なんでしょ?」

 

「…実は不可解な点がありまして…発見された遺体は、仰向けに倒れ込んだ状態だったんです…自ら転落した場合、うつ伏せになるのが自然です…」

 

「…確かにそうですね」

 

 沙耶は、刑事の話に納得して聴き続けた。

 

「…それに気になることはまだあって…頭部の怪我なんですが、仰向けになって落ちたのなら、後頭部にダメージが集中するはずなんですが…何故か前頭部の損傷も酷くて…とても事故で負った怪我とは思えないんです…」

 

「…つまり、自ら落下したのではなく、誰かに危害を加えられたということですか?」

 

「ええ、殺人事件…かもしれません…!」

 

「…そんな!」

 

 沙耶は、とてつもない恐怖を感じ、しばらく俯いた状態であった。

 

「……まだはっきりと決まったわけではありません…現場にはビールの空き缶が発見されましてね、彼が飲んだものと分かり、酔っぱらって滑り落ちたとも考えられる…事故か殺人か両面で捜査しています」

 

「……ショックです、今まで宿泊客とのトラブルはなかったのに…しかも死亡するなんて…」

 

「お気持ちは充分わかります…評判を下げるような行為は、絶対にしないのでご協力願います…!」

 

「……分かりました」

 

「それでは聴取を続けさせてもらいます、女将さんの後に他の従業員の方、呼んで頂けますか?すぐ済むので…」

 

「え…はい、手が空いた者から順番に呼びますので…」

 

「…お手数をお掛けして申し訳ありません……!」

 

 若手刑事は、先輩の視線を感じ、一旦身を引こうとした。そこからベテランが交代して、沙耶に何かを告げようとした。

 

「…女将さん、重ね重ねすみませんが、もう一つお願いしたいことが…」

 

「…と言いますと?」

 

「…実は、この死亡した古谷という男…身元がはっきりせんのです…職も派遣やらで転々としていて……堅気じゃないかもしれません…彼が宿泊した部屋と荷物を調べさせてもらいたいんですが…」

 

「…ええ、構いませんが」

 

 こうして、謎の男、古谷の転落死事件に関する事情聴取が密かに続いた。

 

 夜も更けていき、リカは、疲れを取ろうと露天風呂に向かっていた。その時間、入浴する客はほとんどおらず、リカは、それを狙ってゆっくりと湯船に浸かろうとしていた。脱衣場に入ると、脱衣籠は一つだけ埋まっており、彼女の機嫌はよくなる一方であった。風呂場に行くと、湯気がテレビ番組の演出で使うドライアイスのように噴出され、真っ暗な空間が神秘的であった。リカは、その場をぺたぺたと歩いていき、夜景が見える岩風呂へと向かった。

 

「…!」

 

 すると、そこに人影が見えて、リカは自然と目が合った。

 

「…あら、あなたは…」

 

「…どうも~こんばんは」

 

 リカより先に湯船に浸かっていたのは祥子であった。祥子の肌は美しく白く、これが大人の美貌だとリカは見とれていた。二人はお互い愛想よく振る舞って、一緒に湯船に浸かった。

 

「随分と遅い時間に入るのね」

 

「ええ、あまり人が多いと落ち着いて入れないので…」

 

「…そうよね、私たちは仕事の関係でどうしても遅くなるから…それが醍醐味でもあると思うんだけど…今日はとにかく忙しくて…茉緒ちゃんも必死だったわ」

 

 祥子は笑いながらリカに語りかけた。

 

「…彼女もなかなか慣れないと言ってましたが、仕事の方はどうですか?」

 

「…まあ大変だけど、楽しいわ、仕事が上手くいかないなんて当然のことだし…失敗から色んなことを学ぶわ…何より従業員の人たちはいい人ばかりだし…」

「…祥子さんは、ここの人じゃないんですか」

 

「ええ、以前は都内に住んでいてね…都会の生活が嫌になってきて、ここに引っ越してきたわけよ」

 

「…成程、確かにここはのどかでいい町ですからね~」

 

「……でも来たばかりの時、職探しがなかなか上手くいかなくてね…ここから都内に勤めるには不便だし…そんな時、助け舟を出してくれたのが女将さんよ、面接して即時採用してくれた…本当に彼女は女神に見えたわ…だから期待に応えて頑張らないと…」

 

「…そんなことがあったんですか、いいな~環境に恵まれてますね~」

 

「そうね……ところであなたは舞台女優されてるそうね?」

 

「…ええ、まだ新人ですけど…」

 

「…茉緒ちゃんから聞いてね、あの有名な歌劇団の劇団員だからたいしたものね~」

 

「…いえいえ、それほどでも~これからが大変なもので…」

 

「…これからの活躍を楽しみにしているわ、大役が決まったら教えてね、観に行くから」

 

「はい、ありがとうございます!」

 

「…何か逆上せてきたわ、先に上がるわね」

 

「はい、ご苦労様です……!」

 

 その時、リカはあることに気づいて、視線がある場所に集中した。

 

「どうかした?」

 

「…あの、膝、どうかされたんですか?」

 

 祥子の右膝を見ると大きな絆創膏が張られ、せっかくの綺麗な足がそれのせいで台無しになっていた。

 

「!……ああ、これ?急いでお客さんお迎えする時に階段から転げ落ちちゃって…本当に私ってドジね…」

 

「気を付けて下さいね、大怪我にならなくてよかったですね!」

 

「ええ、ありがとう…それじゃあごゆっくり~」

 

 祥子が去ったことで、風呂場はリカ一人になり、彼女の貸切状態になった。

 

 しばらくして、リカは風呂場から上がり、浴衣姿で脱衣場を出ようとすると、渡り廊下に一つの人影があった。

 

「あれ?リカちゃんかい?」

 

「…はい、おじさん今晩は~」

 

「やあ、リカちゃん、いらっしゃい、挨拶が遅くなったね、今日は何かバタバタしていてね…」

 

 リカの前に現れたのは美楽荘の主人、茉緒の父親であった。名は水口雅春、五十歳。彼は大学卒業後、旅行会社営業をしていたが、退職して旅館経営をしようと考えていた。当初、妻の沙耶はそれに大反対であったが、雅春がどうにか彼女を説得して、二人で開業することとなった。当時、茉緒は幼稚園児でしばらく彼女は祖父母に面倒を見てもらうこととなった。開業当初は困難を極めて赤字が続いたが、彼らはめげず、旅館経営を続けた。そして、長年の苦労が実り、徐々に有名旅館へと変化していったのであった。

 

「…偶然耳にしたんですが、宿泊客の一人が事故に遭って亡くなったそうですね…」

 

「ああ、私は今日、ほとんど旅館に居なかったからよく状況が分からないんだ…さっきまで町民たちと居酒屋で集まっていたから…勿論、仕事でだよ…!」

 

「…ふふ、分かってます、リゾート地開発の討論会に行っていたんですよね?」

 

「ああ、討論会の後も怒りが収まらず、仲間と行きつけの居酒屋で話し合っていたんだ…その時に女将から電話があってね…地元の警察署に呼ばれて、女将と一緒に彼の遺体を確認したよ…常連じゃないから顔は知らないんだがね…」

 

「こんなこと初めてですもんね…」

 

「当然だよ!全く…どうしてこんなことのなっちまったんだ…」

 

「…おじさん、そう落ち込まないで下さい…!不慮の事故なんですから、お客さんは離れていきませんよ」

 

「…ありがとう、リカちゃんみたいなお得意様を失うわけにはいかないからね…」

 

「お疲れの顔してますね…今夜はゆっくり休んで下さい…」

 

「ああ、そうさせてもらうよ、従業員の皆も、ようやく事情聴取が終わったみたいだ、これからゆっくり湯船に浸かるよ…」

 

「はい、お風呂気持ちよかったですよ~」

 

「…また落ち着いたら茉緒たちと話をしよう、それじゃあお休み~」

 

「お休みなさい~」

 

 リカは雅春と別れ、自分の部屋に戻った。部屋に戻ると従業員により、布団が敷かれていた。

 

「…!?」

 リカが部屋の灯りを点けると、衝撃の光景を目にすることとなった。彼女は、驚きのあまり、なかなか声が出なかった。

 

「………どうして?」

 

 敷かれた布団を見ると、何故か伶亜が横になっていた。

 

「…コンコン」

 思いがけないことに戸惑うリカであったが、問題はどうやら解決しそうであった。リカの部屋を訪ねて来たのは茉緒であった。

 

「…あっやっぱりここだったか!マスターキーまで盗んで!」

 

「…そうか、マスターキーで入ったのか」

 

「ごめんね、すぐ追い出すから!」

 

「いいわよ、ぐっすり眠っているから急に起こしたら可哀そうよ、特別に朝まで寝かしといてあげるわ…」

 

「…そう、悪いわね」

 

「……昼間もいたよね…この部屋になんかあるのかな?」

 

 リカは、伶亜の不可解な行動が気になって仕方がなかった。

 

「…実はね……」

 すると茉緒が口を開き、事情を説明しようとした。

 

「…何か理由があるのね?」

 

「ええ、彼女はこの部屋が好きなのよ、特にここから見える景色がお気に入りでね…最近はまったカメラで景色を撮りまくっているのよ」

 

「成程ね~」

 

「旅館に着いたら、真っ先にこの部屋を占領しようとするの、部屋が空いてる時はいいけど、今日みたいにお客さんがいるとさすがに迷惑になるわ、何度も注意しているんだけど聞かなくて…困ったもんよ」

 

「まあ居てもいいんだけど…どうも彼女の様子がおかしいから聴き出さないとね…」

 

「…そうね、今日は色んなことがあって、それどころじゃなかったわ…母さんもさすがに疲れたみたい…」

 

「…で例の事故の件はどうなったの?」

 

「地元刑事が私たち従業員を事情聴取して、亡くなった宿泊客の部屋と荷物を調べてた…何か進展があれば後日知らせるって言ってひとまず帰って行ったわ」

 

「…そう、何か気味の悪い事件よね…」

 

「全く…疫病神みたいだわ、どっと疲れた…風呂入って寝るわ…明日も早いから…それじゃあ彼女のこと頼むわね…お休み~」

 

「…うん、また明日ね~」

 

 茉緒は、ひとまずほっとした表情を浮かべ、リカの部屋を後にした。リカは起こさないよう伶亜を端に移動させ、一緒に眠ろうとした。こうして、リカの休暇一日目が幕を閉じようとした。


彷徨うならず者

 リカは、夏休みを楽しもうと、柚里浜という田舎町へやって来たわけだが、同じ旅館に宿泊していた古谷という男が突如、遺体で発見された。夕刻、リカが宿泊している旅館〝美楽荘〟に地元刑事が訪れ、古谷の死を知らされるのであった。

 

 それから翌朝、場所は変わり、東京都霞が関に位置する警視庁。そこの喫煙室で一服している男性刑事が一人居た。その男性刑事は、徹夜で仕事をしていたようで、ようやく落ち着いた様子であった。しかし、そんな彼のもとに一人の人物が迫っていた。

 

「……おお、ここに居たか…!」

 

「…課長、お早うございます、どうしたんですか?」

 

「お前に話したいことがあるんだが…朝刊は読んだか?」

 

「…いえ、まだ読んでいませんが、休憩を取ったばかりなので…」

 

 すると、課長は、一紙の朝刊を男性刑事に差し出した。男性刑事は、課長が指差す記事に注目した。

 

「…あまり大きく取り上げられていないが、この転落事故で死んだ被害者…実は重要人物なんだ…」

 

「…古谷孝三、この男がですか?」

 

「…ああ、少々雰囲気が変わっているが間違いない…恐らく整形している…名前も偽名だ…」

 

「…何者なんですか?」

 

「…お前は学生だったから知らんだろうが、彼は、ある過激派の一員だ…本名は下田武宏…朝刊を見て部長も目が点になっていたよ…」

 

「初めて耳にしました…どういった組織なんですか?」

 

「…教えよう、それは……」

 

「ガチャ……!」

 

 その時、二人の会話に割り込んでいくような感じで、一人の警察職員が喫煙室に入ってきた。職員は一服しようとするが、妙な空気に包まれて、火を点けず煙草を銜えたままであった。

 

「課長…」

 

「…そうだな、場所を変えて話そう」

 

 男性刑事と課長は、速やかに喫煙室を後にして空き室で話の続きをした。

 

「…でこの古谷という男が属している組織は、社会にどのような影響を及ぼしたんですか?」

 

「…知名度は低いんだが…警察関係者でも限られた者しか知らない……日本赤軍は知ってるな…?」

 

「…ええ、七〇年代から八〇年代にかけて、テロ活動をしていた武装組織でしょ?知ってますよ…歴史的事件を起こした罪人たちですから…」

 

「…日本赤軍は九〇年代になると主要メンバーの逮捕、高齢化、資金の獲得困難で消滅した…それから数年後にまた別のテロ組織が暗躍していたんだ…」

 

「…九五年にバイオテロを起こしたカルト教団ではないんですか?」

 

「…いいや、全くの別物だ…当時、インターネットが普及しだした頃に組織が結成された…メンバーは、全国各地の何処にでもいる十代後半から二十代前半の若者…最初は眼中にはなかったが…これがネット社会の恐いところで、奴らはお互いの顔や身元を知らず、ネットという仮想世界でメンバーを集めていったわけだ…」

 

「…奴らは、何をやからしたんですか?」

 

「…当初は、日本赤軍の真似事をしようと企んでいたそうだ…立て籠もりやハイジャックは、規制が強化されたことで諦めたようだ…まず規模が違うからな…計画を実行させるのにかなり苦労したそうだ」

 

 課長は、当時の捜査内容が記録された分厚いファイルを机上に積んで、男性刑事に説明しようとした。

 

「…何故そんな連中を恐れるんですか?」

 

「…恐ろしさに気づくのに少々時間が掛かったのさ……ある時だ、強盗事件の犯人を捕らえようとガサ入れしたんだが、…わんさかと危険薬物や銃器が出てきた…元々の事件の犯人は、そこの家主だったんだが、そいつの妻も一枚噛んでいてな……外見は一般家庭の夫婦だ…とても信じられないことだった…」

 

「彼らも組織の人間だったんですか?」

 

「ああ、取り調べで全て吐いたよ…密輸は組織のためにしたことだと…それから続々と組織のメンバーが捕まったんだが、罪状は窃盗、強盗、詐欺、密輸…と様々だが、これは全て個々の犯行だ…とても犯罪組織と考えにくかった…メンバーは全国各地に存在する…!」

 

 男性刑事は、課長が用意した資料を興味深く閲覧していた。

 

「…例の下田武宏という男は、どういう立場の人間なんですか?」

 

 課長は目を閉じて、取り調べした頃を思い出しているようであった。

 

「…逮捕した組織メンバーを取調べすると、必ず出てくる名だ…下田は主犯格の一人だった、奴がほとんどメンバーに指示していると言っていた…顔を知っている数少ない仲間から情報を入手したんだが、偶然にも、彼は別件の事件でマークしていた…聞くところによると、奴は大規模なテロを計画していたようだ…」

 

「…それはどういった?」

 

「密輸で手に入れた銃火器で、一般市民を無差別に大量虐殺するつもりだったらしい…!一見聞くと馬鹿げていることだが…」

 

「…組織のメンバーは全国に居るんですよね?実行されたら防ぎようがありませんよ!」

 

「ああ、もし実行されていれば、この国は終わっていたかもしれない…他にもライフライン、情報媒体を麻痺させるテロも実行に移そうとしていた…IT社会が繁栄し始めた頃だ…当時では最先端の犯罪といえる…」

 

「確かに今と雰囲気が違いますね……彼と接触したんですか?」

 

 男性刑事は、当時の下田と現在の写真を見比べて、資料を見ながら課長に質問を続けた。

 

「…メンバーを餌に誘い込んで、確保するつもりだった…しかし、彼は指定された場所に現れなかった…勘付かれたのか、行方は分からず煙のように消えた…奴は、無差別に三人の人間を銃殺している…組織は壊滅したが、結局、奴が何者か分からず、このまま未解決になると思ったが、神は我々にチャンスをくれたようだ…顔や名前を変えても忘れられない男だ…」

 

「…何故、僕に下田のことを話したんですか?」

 

 疑問に思う男性刑事に対し、課長は本題に入ろうとした。

 

「…一つ頼みたいことがある…これは極秘捜査だ…下田が何故、柚里浜に行ったか調べて来てほしい…意味もなく行ったとは考えられない…そこで死んだというのも何か引っ掛かる…すぐに現場に向かってくれ」

 

「…僕が柚里浜に?」

 

「ああ、今のところ頼れる者が居なくてね、現場は観光地だ…宿泊して来てもいい」

 

「派遣されるのは僕だけですか?」

 

「…そのつもりだが、心細いなら人員を増やしてやってもいいが…」

 

「…実は、他に抱えている仕事がありまして…現場に長く居られないかもしれません、僕より優秀な人材を送りますよ」

 

「それは楽しみだ、後のことは任せる、捜査結果を心待ちにしているからな…」

 

 死亡した古谷の正体が明らかになり、彼の死がきっかけで、さらなる事実が解き明かされようとしていた。

 リカは、自然と事件の渦に入り、真相に辿り着こうとしていたのであった。

 柚里浜 美楽荘 宿泊二日目

 小鳥のさえずりが聴こえ、清々しい朝であったが、リカはまだ布団で寝転がっていた。しばらくすると、リカの部屋に一つの人影が近づいていき、気づけば、その人影は、彼女の布団の前であった。

 

「バザ!!」

 

 その時、謎の人影は、勢いよく眠っているリカに覆いかぶさった。

 

「…んにゃ?何?」

 

 リカは奇襲を受けて錯乱状態であった。

 

「……起きて下さ~い!朝ご飯ですよ~!」

 

 襲撃者の声を聴くと。可愛らしい子供の声であった。リカは、軽く襲撃者の体を払いのけて、顔を確認しようとした。

 

「……あれ?伶亜ちゃん…もう起きたの?」

 

「うん、お腹空いたよ~茉緒お姉ちゃんが朝ご飯の準備出来たって~」

 

「…分かった、すぐ行く…」

 

 リカは、元気に振る舞う伶亜の姿を見て、唖然としていた。

 

「…お早う、リカ」

 

「お早う~…伶亜ちゃん、元気になったみたいだね…」

 

 リカは、朝食を運ぶ茉緒と顔を合わし、早速、伶亜のことを訊ねた。

 

「そうなのよ、朝早く起きて遊び回っていたわ…全く子供っていうのはよく分からないわね…」

 

「良かったね、病気とかじゃなくて」

 

「…まあね、でも何で元気がなかったのか話してくれないのよ…誤魔化してばっかり…」

 

「…私が訊いてみようか?」

 

「…え?いいの?あんた今日も潜るんでしょう?」

 

「今日はやめとくわ、まだ日にちはあるし…伶亜ちゃんの遊び相手になってあげるわ」

 

「…本当に悪いわね、なかなか落ち着く暇がなくて彼女の相手出来ないのよ…それじゃあ頼むわ、放っておくと何するか分からないし、遊び相手がいなくて寂しいだろうから…」

 

「任せといてよ!」

 

 茉緒は、親友の心遣いに対し、安心した様子であった。リカは朝食を取ろうと広間に向かった。

 

「おお、伶亜ちゃん、今日はよく食べるね~昨日と大違いね」

 

「もう腹減った、腹減ったって五月蝿くて…もっと上品に食べな…あと、お姉ちゃんに謝りな、さんざん迷惑掛けて…」

 

「……もぐ…お姉ちゃん、ごめんなさい」

 

 伶亜は、頬にご飯粒をつけながらリカに謝った。

 

「別に気にしてないからいいよ、でも元気がなくて心配してたんだよ~」

 

 リカは、大好物の納豆をかき混ぜながら伶亜と会話を続けた。二人は、自然と打ち解けていったのであった。

 

「…お姉ちゃん、今日は海に潜るの?」

 

「…えっと、今日は止めとこうと思っているんだけど…私が海に潜っていること、茉緒お姉ちゃんから聞いたの?」

 

「うん、お姉ちゃん、ここの海、好きなの?」

 

「好きよ、伶亜ちゃんより小さい頃から遊びに来ててね…海もそうだけど、この町に来ただけで何か落ち着くの…」

 

「ふーん、私も好きよ、探検ごっこしてるの」

 

「探検ごっこ?」

 

「町の色んな場所を歩いて、風景撮ったりしてるの」

 

「…ああ~確かカメラにはまっているんだったね~なんか楽しそう、お姉ちゃんもついて行っていい?」

 

「…別にいいよ、仲間が増えた方が楽しいし…」

 

「じゃあ決まりだね、今日は伶亜ちゃんと遊ぶことにするよ」

 

「…ご飯食べ終わったら玄関で待ち合わせということで~」

 

「了解~了解~」

 

「……あら、なんだか楽しそうね」

 

 その時、リカたちの前に祥子が姿を現した。

 

「お早うございます、スケジュールの打ち合わせをしてまして…ねえ伶亜ちゃん…あれ?」

 

 リカが伶亜のいる方に振り向くと、いつの間にか彼女の姿はなかった。

 

「…完食してるわね、結局、昨日はどうしたのかしら?」

 

「…さあ、子供ってよく分からないですよね~」

 

「リカさん、ご飯お代わり、どう?まだたくさんあるから」

 

「ありがとうございます」

 

 リカは、祥子にご飯を装ってもらい、朝食を堪能していた。

 

「………」

 

 その時、祥子は、何故か思い詰めた顔をしていたが、理由は分からなかった。

 

 リカは朝食後、自分の部屋に戻って浴衣からラフな服装に着替え、飲み物やお菓子が入ったリュックを背負い、約束通り、待ち合わせ場所の受付ロビーへと向かった。伶亜は、ロビーの椅子に座っており、そこには女将の沙耶が居た。

 

「リカちゃん、悪いわね…なかなかこの娘の相手が出来ないのよ」

 

「いいですよ、こっちは暇なんですから、それじゃあ伶亜ちゃん行こうか」

 

「…あっよかったらこれ食べて…山登りするって聞いたから…休憩の時にでも…」

 

 沙耶は、リカたちに手作りのおにぎりと冷たい麦茶が入った魔法瓶を渡した。

 

「ありがとうございます、行ってきます」

 

 リカは伶亜と手をつなぎ、旅館を出ようとした。沙耶は安心して、にこやかに二人を見送った。

 

「………」

 

 その時、沙耶の他に陰でリカたちを見送る者がいたが、その人物は、密かに何か企んでいる様子であった。

 

 同じ頃、柚里浜の警察署に、はるばる東京から二人の刑事が訪ねて来た。一人は古谷(下田)の件で捜査している男性刑事で、もう一人は眼鏡をかけた物静かな女性刑事であった。二人は署内の空いた大部屋に連れられ、地元刑事たちに事情を話そうとした。

 

「…つまり古谷と偽名を使っていたこの男は、とんでもない大犯罪者だったというわけですね…?」

 

「ええ、転落したのは間違いなく下田という男です、出来れば我々の手で彼を発見したかったと、上司が嘆いていました…」

 

「…わざわざ報告して頂きありがとうございます、こっちも困っていたところです、身元を証明する物は全て偽造された物で、遺族の連絡先も分からないものですから…」

 

「…彼の遺体は、何処に?」

 

「…検死後、署内で保管しています、遺体引き取り人がいない場合、こちらで処理しようかと思うのですが…」

 

「…その件なんですが、彼の遺体は、我々が引き取ろうかと思います…」

 

「…え?警視庁がですか?」

 

「ええ、上司から伝えるよう言われまして、責任もって引き取ります…特に問題ないでしょう?」

 

「…ええまあ、助かります、彼はこの土地の人間ではないので…ではお任せして大丈夫なんですね?」

 

「ええ、ただちに手配しますので…」

 

「…お気遣い感謝するが、とても遺体を引き取りに来ただけとは思えんな…何が狙いだ?」

 

 一人の地元ベテラン刑事が、警視庁の刑事たちを疑いの目で見ていた。

 

「…そう睨まないで下さいよ、あなた方の仕事の邪魔はしませんよ…ただ…」

 

「…ただ?」

 

「…下田の死因が気になります…崖から転落したとのことですが…」

 

「それが目当てか…情報を得るために厄介ごとを引き取るわけだな…」

 

「ええ、交換条件というところです、彼の生きざまに興味がありますから…」

 

「…成程、いいだろう、捜査状況を教えよう…おい、捜査資料を持って来い」

 

 ベテラン刑事は部下に捜査資料を持って来るよう指示して、男性刑事たちに現状を明かした。

 

「…彼の遺体は、裏山の崖下で発見された、二十メートルの高さから転落したのは間違いない…」

 

「…事故…なんでしょうか?」

 

「…一見、事故に見えるが不可解な点が見つかった…これを見てほしい」

 

 男性刑事たちは、遺体発見現場の写真を見せられた。それは何とも惨い姿であった。

 

「…ふむ、頭が完全に割れていますね…不可解な点とは?」

 

「発見時、遺体は仰向けに倒れていた…普通はうつ伏せに倒れるはずだろ…わざわざ後を向いて落下したとは考えにくい…自殺したとしても相当変わっている…そうは思わんか?」

 

「…ええ、他に不審な点は?」

 

「頭に受けた怪我についてだ…仰向けで転落したのなら、後頭部の損傷が激しいはず…しかし、前頭部にも深い傷口があった…これは何を意味するのか…」

 

「…!」

 

「前頭部の怪我は一点ではなく、まばらだった、とても転落時にできた怪我とは思えない…何か鈍器のような物で叩き付けられたと考えられる…」

 

「…つまり、下田は誰かに襲われたと?」

 

「ああ、計画的犯行だと言える、現場にはビールの空き缶が数本捨てられていた、ガイシャが飲んだものとされる…恐らくアルコールで神経を鈍らせて、足を滑らせたように見せかけようとしたんだろう…」

 

「成程、いくら力の強い男性でも、酔っぱらっていれば体の自由が奪われ、襲いやすくなる…転落死させることは容易いことだ…これは他殺ですね…!」

 

「ああ、改めて他殺の線で捜査を始めている…今、ガイシャが立ち寄った場所で聞き込みしているところだ…さて、かなり情報を提供したつもりだが…どうするつもりだ?」

 

「…ただ訊いてみただけですよ、興味があるのは下田のみですから、犯人捜索に加担する気はありませんのでご心配なく…」

 

「当然だ、いくら警視庁のキャリアでも、仕事を横取りされるわけにはいかない…たとえガイシャが犯罪者であろうと、誰かに殺害されたのならそいつを追い続ける…所轄には所轄のやり方があるからな…一緒に仕事する気はない…」

 

「そうですか、よく分かりました、情報を提供して頂き感謝します…」

 

「…こちらこそ色々と気遣い感謝する…もう用がなければ、お引き取り願おうか…我々も忙しい…」

 

「…そうですね、長々とお邪魔してすみません…それでは失礼します」

 

 室内に険悪な空気が漂い、男性刑事は、直ちに相棒の女性刑事と退室しようとした。彼らが退室すると、張り詰めた雰囲気が消えつつあった。

 

「随分あっさりと引き下がりましたね」

 

「…どうだかな、公安部の人間は何を企んでいるか分からん…注意を怠るな…」

 

 ベテラン刑事は、訪ねて来た公安刑事たちを忌み嫌い、恐れているようであった。

 

 警察署を後にした公安刑事たちは、専用の車で帰ると思われたが、車はなかなか発進しようとしなかった。二人は、車内で何か重要な会話をしているようであった。

 

「随分と嫌われたものだな…所轄との仲は、捜査一課に居た時の方がよかったような気がする…」

 

「…はじめから合同捜査なんて頭になかったでしょう?公安は単独で行動することが多いんだから…」

 

「…ああ、一応、極秘捜査だからな、所轄とは探っている物が違う…下田を殺した犯人が居るのなら、所轄に逮捕させればいい……ただ…犯人がもし例の犯罪組織と関係があれば話は別だ…残党が下田と接触し、何かトラブルがあったかもしれない…」

 

「…組織が完全に解散したとは言い切れない…また動き出されると厄介ってわけね…?」

 

「そういうことだ、何か起こった後では遅いからな…そのために我々が居るんだ」

 

「…それで私は何をすれば?」

 

「まず、下田が宿泊していた旅館に行ってくれ、この町で何をしていたのか、本当に一人で行動していたのか、所轄にばれないよう徹底的に調べてほしい、捜査方法はそっちに任す…」

 

「…何日か泊まりになるかもしれないわ」

 

「別に構わない…費用はこっちが持つ…そっちの本業の都合があるから、なるべく早く解決させることを心掛けてくれ…こっちも時間が空けば、組織について調べてみる、どんな些細なことも報告するように…」

 

「…了解」

 

 男性刑事は、相棒の女性刑事に捜査資料のコピーと旅館のパンフレットを渡して別れようとした。女性は車内から出て、颯爽と旅館の方へと向かおうとした。

 

「…さて、少し温泉で休養してから空気の悪い職場に帰還するか…」

 

 男性刑事はぼやいた後、寄り道しようと中心街に車を走らせた。

 

 一方、リカは、伶亜の遊び相手となり、彼女の後をついて行った。向かった場所は、人気のない裏山であった。

 

「…ふう~もう十五分くらい歩いていると思うけど…こんな所よく歩けるね…車もあんまり走っていないし…一人だと危ないよ…」

 

「大丈夫、大丈夫、もう慣れてるから、山の中の探検は楽しいよ~」

 

「あらそう~まあいい運動なるわ~」

 

 リカは、首に巻いたタオルで汗を拭きながら険しい坂道を歩き、疲れ知らずの伶亜に先導されていた。

 

 リカたちが山中に入ると、涼しい空気が流れて、さっきまでのうだるような暑さをあまり感じなくなった。

 

「へえ~こんな場所があったとはね…山の方って行かないから…虫が多いし…歩きにくいし…」

 

「虫刺されのお薬付けとけば大丈夫だよ~さ~探検開始~♪」

 

 ぶつぶつとぼやくリカに対し、伶亜は実に頼もしかった。二人は、静寂な森の中を散策し始めた。人の手が届かない茂った森は、神秘的であったが何処か不気味さも漂っていた。

 

「…!」

 

 せっせと山道を進んで行くリカたちであったが、しばらくして、一歩一歩進む度に、さっきまで軽快に歩いていた伶亜の様子が一変し、ついに立ち止まった。道は二つに分かれていた。

 

「…どうしたの?」

 

 リカが伶亜の異変に気づき、彼女の視線を辿るとその先には崖があった。

 

「…お姉ちゃん、ここは危ないよ…」

 

「?…危ない?どういうこと?」

 

 伶亜は若干、声が震えて、何かに怯えている様子であった。リカは、半歩ずつ崖がある道を進んで行った。近辺はどうも物々しい感じであった。崖下を見ると、立ち入り禁止と書かれた黄色いテープが貼られ、囲われている状態であった。

 

「…お姉ちゃん!」

 

「…!」

 

 その時、リカたちの前に人影が現れた。

 

「…ちょっと、そこで何してるんですか?」

 

 リカに大声で声を掛けたのは、一人の警官であった。

 

「…え?ここ何かあるんですか?」

 

「あなた新聞読んだり、ニュース観たりしないのか?昨日、ここで転落事故があったんだよ…崖付近には近づかないことだ…」

 

「…ああ、そういえば泊まっている旅館の客が亡くなったって言ってたね…現場ってここだったのか…」

 

「…若い女性に女の子一人…こんな人気がない場所に何しに来たんだ?」

 

「…ちょっと山の中を散歩しようと思って…この先、通っちゃ駄目ですか?」

 

「…まあ特に怪しくなさそうだしいいけど…気を付けるんだよ、被害者は殺された可能性があるみたいだから…殺人犯が潜んでいるかもしれない…」

 

「え…?」

 

 リカは、見張りの警察官にそっと耳打ちされて、極秘情報を知ることとなった。彼女は目が点になり、伶亜も怯えたままであった。

 

「…とにかくあまり彷徨かないことだ、暗くならないうちに帰るんだ…」

 

「…分かりました、ありがとうございます、注意します…」

 

 リカたちは、警官に見送られて先を進んだ。リカは、この裏山に足を踏み入れたことで、ある真実に辿り着くのであった。

 

 一方、警視庁公安部から派遣された女性刑事は、美楽荘へと訪れた。その時の女性刑事は眼鏡を外し、ラフな服装をして、観光客を装っていた。受付ロビーには女将の沙耶がいて応対していた。

 

「…いらっしゃいませ」

 

「あの…すみません、お聞きしたいことがありまして…」

 

「…はい、どういったことでしょうか?」

 

 すると、女性刑事は沙耶に顔を寄せて、小声で用件を話そうとした。

 

「…実は私、東京から派遣された刑事でして…昨日起きた転落死事件のことでやって来ました…」

 

「…え、でも聴取はもう済んだので話すことはないですよ…」

 

「…勿論、分かってます、これは独自でしていることでして、地元の刑事は私が来たことを知りません…協力して頂けないでしょうか?」

 

「協力というと?」

 

「…しばらくここに泊めてもらえませんか?調べたいことがあって、町を探索したいんです…部屋が空いてなければ別の宿に行きますが…」

 

 沙耶は、女性刑事の頼みに思い悩んで、答えを出すことに時間が掛かった。

 

「……部屋が一応、一部屋空いているんですが、問題がありまして…」

 

「それはどういった?」

 

「……例の転落事故で亡くなった宿泊客の部屋なんです…」

 

「成程、別にそこで構いませんよ」

 

「え…!でもなんか気持ち悪くないですか?綺麗に掃除はしてありますが…」

 

「別に気になりませんよ、部屋で亡くなったわけじゃないからいいじゃないですか…警察関係者とかまだ居るんですか?」

 

「…いえ、昨夜に部屋の中を調べて、被害者の荷物を受け取って引き揚げました…もう来ないと思います…」

 

「では決まりですね、泊まらせてもらいますよ」

 

「……仕方ありませんね、負けましたよ」

 

 沙耶は女性刑事に押され、部屋へと案内しようとした。ここでも一つ、怪しげな影が潜んでおり、二人の会話を盗み聞きしていた。これでまた、さらに事態は変化しつつあった。

 

 それから数時間経ち、リカたちは、山を登り続けて目的地に到達した。そこは見晴らしのいい絶好の場所であった。

 

「うわ~町全体がよく見える、あら、美楽荘も見えるね~いい場所知ってるね~伶亜ちゃ…!」

 

「………」

 

 伶亜はリカの言葉に反応せず、ずっと暗い表情を浮かべていた。魂が抜けたようで、どう見ても伶亜の様子がおかしかった。リカは彼女のことが気になり、問い詰めようとした。

 

「さっきまで元気だったのにやっぱりおかしいよ…伶亜ちゃん、何か隠してるね?お姉ちゃんに話してみなよ…」

 

「………」

 

 伶亜はリカの質問に対し、首を左右に振った。それでもリカは諦めず、伶亜を問い詰めた。

 

「……確か警察の人と会った山道で、ここは危ないよって言ってたよね?何であんなこと言ったの?」

 

 リカは、徐々に口調をきつくして、伶亜の口を開かそうとした。

 

「………グス」

 

 その時、リカのきつい口調で追い詰められ、伶亜は鼻が詰まり、涙が溢れそうになっていた。リカはもう一息だと察知して、優しい口調で伶亜に話し掛けようとした。

 

「…いい場所案内してくれたから、お礼に相談乗ってあげるよ!安心して話してみてよ…すっきりするよ」

 

 伶亜はリカに説得され、表情が少し和らいだかのように思えた。そして、彼女はリュックからある物を取り出した。

 

「…それって」

 

 伶亜が取り出したのは、愛用しているデジタルカメラであった。彼女は、カメラの電源を入れてリカに画面を見せた。

 

「お姉ちゃん、これ見て」

 

 伶亜がリカに見せたのは写真ではなく、動画であった。画面には昨日の裏山の様子が映し出されており、それは見覚えのある場所であった。

 

「…ここってさっきの崖があった場所じゃない……!!!」

 

 その時、リカは、衝撃的な映像を目にすることとなった。

 

「……お姉ちゃん…?」

 

 映像を観た瞬間、リカは全身鳥肌が立ち、しばらく体が固まったままであった。そして、やっと体の硬直が解けて、リカは、伶亜に話し掛けようとした。

 

「…これ、他の人に観せた…?」

 

「ううん、まだお姉ちゃんにしか観せてないよ…」

 

「…そう、よかった、じゃあ昨日何があったか話してくれる?」

 

「…うん、話す!」

 

 伶亜は、安堵の表情でリカにあることを証言した。これにより、忌まわしき事件が解決の方向に進もうとしていた。

 

 それからさらに時間が経ち、いつものように夕日が柚里浜を赤く染めていた。リカたちは裏山探検を終えて、ゆっくりとした足取りで旅館へと戻った。

 

「あ~山もいいもんだね~よかったよ~」

 

「明日も行こうよ~川で泳ぎたい~!」

 

「いいね、川で泳ぐのも悪くない、行こう、行こう~♪」

 

 リカたちは次の予定を立てて、すこぶる機嫌がよかった。喋りながらロビーに戻るとそこには茉緒が居た。

 

「随分楽しそうね、伶亜、遊んでもらってよかったわね~」

 

「裏観光スポットを教えてもらってね…いい一日を過ごせたわ」

 

「それはよかった、こっちも助かったわ、お母…女将も喜んでた…汗びっしょりね、お風呂はどうする?」

 

「…どうせ、今いっぱい入ってるんでしょう、また落ち着いてから入るわ…」

 

「伶亜はどうするの?」

 

「私もお姉ちゃんと入る~!」

 

「…あらあら、すっかり仲良くなったのね、焼き餅焼いちゃうかも~」

 

 リカは、夕食の時間まで一服しようと自分の部屋に戻ろうとした。

 

「…!」

 

 その時、リカは、宿泊客の一人である女性刑事とすれ違った。どうやら彼女はその女性刑事を知っているようであった。二人は突然のことで、唖然としていた。

 

「あら、もしかしてリカ?こんな所で会うとはね…奇遇ね」

 

「…先輩!何でこの旅館に?」

 

「ちょっと事情があってね…あなたなら話していいかも…私の部屋でお茶しない?」

 

「…はあ」

 

 女性刑事の正体は、大手歌劇団員兼警視庁公安部密偵を務めるノリコであった。当時の歌劇団トップスターでリカの尊敬する先輩の一人である。

 

 リカは、突然のノリコの誘いで、話し相手をすることとなった。

 

「……そう、あなたはここの常連だったのね…私が居ると休んだ気にならないわね」

 

「いえいえ…そんなことないですよ!これも何かの縁かと…旅行で来られたわけではないんですね?」

 

 リカが質問すると、ノリコの表情が一変して、部屋の外に人がいないか確かめた。

 

「……仕事でね、とはいっても裏の仕事…あなたも公安の件は知っているでしょう?」

 

 リカはノリコの質問を耳にすると、若干顔が強張り、ゆっくりと口を開いた。

 

「……ええ、一ヶ月ほど前に理事長に呼ばれて、警察関係者の人と話しました…夏休みが終われば、正式に公安部の密偵に任命されるようです…はっきり言ってまだ実感がないんですが…」

 

「…そりゃそうよ、私も最初どうしていいか分からなかったもの…まあ徐々に慣れていったらいいわ、歌劇団の方も忙しくなるから大変だと思うけど…」

 

「はい…頑張りますけど…それでどういった仕事の内容なんですか?」

 

「…極秘任務だけど、リカならいいわ、この旅館に宿泊しているなら知っているでしょう?昨日、この部屋を予約した古谷という男性客が転落死した…その件よ」

 

「成程、そうですか…」

 

「せっかくの休暇なのに嫌な思いしたわね…」

 

「……彼を殺害した犯人を捜しているんですか?」

 

「え?」

 

 ノリコはリカの発言に対し、疑問を抱いていた。

 

「…彼は、何故殺されたんでしょうか?」

 

「…ちょっと待って!どうして彼が殺されたってことを……!」

 

 ノリコは、リカの衝撃の発言に驚愕して、つい、声のボリュームが大きくなった。彼女は、ひとまず気持ちを落ち着かせようとした。

 

「……警察は事故として捜査しているんでしょうか?」

 

「…一応、殺人と事故の両面で捜査しているわ……どうして彼が殺されたことを知っているの?まだ公の場で発表されていないはず…何処で情報を得たか話しなさい…!」

 

 ノリコは、真剣な眼差しでリカに問い掛けた。

 

「…実は私、犯人を知っています…!」

 

 リカのこの一言で、古谷(下田)死亡事件は、急速に解決されようとしていた。リカとノリコは、お互いの有力な情報を交換して、ある行動に移ろうとした。

 

 夕食時間になると、リカたちは広間で一緒に食事をするが、リカとノリコは、お互い他人の振りをして一切話すことはなかった。リカはずっと伶亜の相手をしていた。

 

「お姉ちゃん、いつまでここに居るの?」

 

「明後日までかな、伶亜ちゃんはまだ居るでしょう?」

 

「うん、一週間は居るよ~」

 

「いいな、お姉ちゃんは仕事が忙しくて、なかなか休みが取れないんだよ~」

 

「ふ~ん、大人って大変なんだね~」

 

 リカと伶亜は完全に打ち解けていて、その様子を見て、ノリコは、くすくすと笑っていた。

 

 しばらくして、リカと伶亜は、食事を終えて広間を後にした。リカは去る瞬間、さりげなくノリコとアイコンタクトを取った。

 ノリコはあることを目論み、リカたちが居なくなってから自分の部屋に戻った。

 

 リカは、伶亜と共に露天風呂へと向かった。この日も利用客が少ない時間を狙っていた。

 

「お姉ちゃん、背中流してあげるね~」

 

「ありがとう、洗いっこしようよ」

 

 リカたちは、風呂場で溜めこんだ疲れを取ろうとしたが、同じ頃、旅館内である事件が起ころうとした。

 

 外出中で宿泊客が居ない部屋、一つの不審な気配がそこに迫り、マスターキーを手に無断で入室しようとした。

 

「………」

 

 侵入者はある目的で忍び込み、すぐ行動に移った。侵入者は、必死に宿泊客の荷物を物色し始めた。

 

 それから時間が経ち、リカは伶亜を連れて部屋に戻ってきた。

 

「…今日もお姉ちゃんの部屋で寝ていい?」

 

「いいよ、でも布団もう一式用意しないとね…茉緒か誰かに頼まないと……!」

 

 リカが部屋の灯りを点けると、すぐに体が凍りついた。部屋の中は、何者かに荒らされていた。

 

「…お姉ちゃん、この部屋、泥棒が入ったの?」

 

「…どうやらそのようね、金目の物はないんだけどね…財布持って行っといてよかったね…」

 

 リカたちは何か盗られていないか、入念に調べた後、茉緒に知らせた。リカは、茉緒を呼んで広縁で話そうとした。伶亜は、居間でテレビを観ていた。

 

「……全く昨日と今日と物騒ね…呪われてるのかな…?うちの旅館…」

 

 茉緒は部屋に着いた途端、深く溜め息をついていた。

 

「何も盗られていないから別にいいわ、たちの悪い客ならクレームつけるでしょうが…」

 

「こっちも妙なことがあってね、マスターキーが紛失したの…昨夜のことがあったからまたあの娘の仕業かと思ったんだけど…」

 

「…ほとんど私と一緒に居たからね、もうマスターキーを盗む必要ないでしょう?」

 

「…ええ、しばらくしたら鍵は元の場所に戻ってたわ…ひとまず安心したけど、何か気味が悪いわ…」

 

「ええ、悪い夢なら醒めてほしいけど……伶亜ちゃん、またこの部屋で寝たいそうよ」

 

「目的は、部屋じゃなくてあなたでしょ…夏休みのいい思い出になりそうね……布団持ってきたから…敷いてあげようか?」

 

「いいわ、自分たちでやる…明日も遊ぶ約束しているからもう寝ないと…」

 

「…私も今日忙しかったから疲れたわ、お休み~伶亜、お姉ちゃんに迷惑掛けるんじゃないよ…!」

 

 茉緒は肩の荷が下り、休息を取ろうとリカの部屋を後にした。

 

「…さてそろそろ寝ようか…」

 

 夜も更けていき、リカたちは安心して寝床に就いた。

 

 一方、別室にいるノリコは、深夜まで専用のパソコンの画面に釘付けとなり、作業を終えた後、適当に睡眠をとった。

 

 そして、時間が経つにつれ、空は明るくなり、朝日が昇り、運命の時が刻々と迫ろうとしていた。


過去からの逃亡

 柚里浜 美楽荘 宿泊三日目

 

 リカが宿泊してからいい天気が続き、その日も雲一つない快晴であった。リカと伶亜は、規則正しく起きて、用意された朝食でエネルギー補給していた。伶亜は、常人以上の速さで口の中におかずを放り込み、リカは、大好物の納豆を温かいご飯にかけて掻っ込んでいた。仕上げにお茶を啜った二人は、立ち上がって出かける準備に取り掛かった。

 

「伶亜ちゃん、水着持ってんの?」

 

「うん、スクール水着じゃなくてお洒落なやつ買ってもらったの~もう中に着てる」

 

「ああそうなんだ、私も海に潜る時の着てるし、すぐに泳げるね、それじゃあ行こうか」

 

「リカちゃん、二日続けて悪いわね…」

 

 昨日と同じように、沙耶がロビーでリカたちを見送ろうとしていた。

 

「いえいえ、妹が出来たみたいで楽しいです、今日は川で一緒に遊ぼうかと思いまして…責任もって面倒を見ますので…」

 

「リカちゃんはしっかりしているから安心出来るわ…それじゃあお願いします」

 

 沙耶は、昼食の弁当をリカたちに渡して持ち場へと戻った。リカたちは、裏山にある川に向かった。

 

 ここしばらく天候が安定しているため、川の流れはなだらかで、安全に泳げる環境であった。水は澄んでいて、川魚が多く生息しており、釣りを楽しむ者が現れる。しかし、リカたちが来た時間は誰もおらず、貸切状態となった。

 

「あまり奥に行かないように…勝手に行動したら駄目よ」

 

「了解しました…!」

 

 伶亜はリカに敬礼し、素直に従おうとした。リカたちは、安全を考慮して思い存分水を浴びた。川のせせらぎが心地よく、まさに平和な時間であった。

 

 同じ頃、密偵として派遣されたノリコは、部屋に閉じこもって、誰かと連絡を取っていた。その相手とは指示を出した公安部の男性刑事であった。ノリコは、警視庁に居る彼から有力な情報を手に入れようとしていた。

 

「…下田の組織について詳しく調べてみた…組織の名が分かった…名は〝レリック〟…下田が〝我々は時代遅れの過去の遺物だ〟と自虐ネタを呟いたことから決まったそうだ…」

 

「名前なんてどうだっていいわ…他に分かったことは…?」

 

「…彼とつながりがある人物、組織のメンバーについて調べた…当初、直接会わず命令されたり、洗脳された者がほとんどだったが、一人、親交が深い人物が挙がった…下田は人前で話すことをあまりせず、メンバーには代わりの者をよこすそうだ…ナンバー2ということだ…」

 

「それは興味深いわね…!」

 

 ノリコがそうと言うと、彼女のパソコンにメールが一通届いた。それは男性刑事からであった。

 

「これは?」

 

「開けてみれば分かるさ…とっておきだ」

 

 ノリコは、恐る恐る送られたメールを開封しようとした。中身を確認すると、画像が添付されており、ある人物が写っていた。

 

「…この女性が彼の右腕?」

 

「…部下というより恋人だといえる、彼女のことを心底愛していたようだ…彼女もまた彼を愛して両想いだった……!」

 

 男性刑事がとっておきのネタを公開する中、ノリコはあることに気づいたようであった。

 

「………待って、この女性、何処かで見たことあるかも…!」

 

「…何?それは本当か?」

 

 男性刑事は驚きが隠せず、ノリコの返答を心待ちにした。

 

「私もこっちで情報を色々と入手してね…彼が何故、この町に訪れたか謎が解けそうよ…これで線が一本につながった」

 

「…断言出来るのか?」

 

「ええ…思ったより早く片付きそうだわ」

 

「よほど自信ありのようだが、すぐに証明出来るのか?」

 

「明日の朝まで待ってもらえる?今夜、結果が出ると思うから…」

 

 男性刑事は、ノリコの自信ありげな態度に驚愕していた。

 

「……よし、任せることにしよう、期待して待っているぞ…」

 

 男性刑事は電話を切り、一服しようと喫煙室に向かおうとした。

 

「…さて、仕事も大体片付いたし、ゆっくり風呂にでも浸かって来ようかな~」

 

 ノリコは、体を休ませようとタオル片手に露天風呂へと向かおうとした。

 

 やがて昼の時間となり、沙耶が作った弁当を食べて、お腹の中を満たしたリカと伶亜は、再び川で遊ぼうとした。しかし、時間が経つにつれ、観光客や釣り客が増えていき、賑やかになって貸切状態とはいかなかった。リカたちは、常連の釣り客と仲良くなり、釣りを教わろうとしていた。こうして、平穏な時間が流れているわけだが、それを恨めしそうな顔でそっと覗いている者がいた。謎の人影は、茂みから息を殺してリカたちを監視している様子であった。気づくと人影は姿を消していた。

 

 時間が流れていき、日が暮れていき、遊び疲れたリカたちは、ぼちぼち引き揚げようとした。

 

「楽しかったね、お姉ちゃん~」

 

「そうだね、またいい思い出になったよ、子供の時の夏休みを思い出しちゃったよ~」

 

 リカたちは、満面の笑みで旅館へと帰って行った。一方、旅館の玄関前には茉緒が居て、帰ってきたリカたちに気づいて迎えた。伶亜は、先に旅館の中へ入っていた。

 

「お帰り~充分満喫したようね、本当にあんた泳ぐの好きだよね~明日、チェックアウトする前にも潜りに行くんでしょう?」

 

「ええ、勿論よ…今年は特に楽しかったわ、伶亜ちゃんのお蔭かな~」

 

「助かったよ、一人で遊ばせるの可哀そうだから…あなた居なくなったら寂しがるでしょうね…」

 

「まあまた会えるよ、今度三人でどっか遊びに行こうよ~」

 

「いいね、歌劇団の劇場も行ってみたいし…舞台に立ってる姿見たら、驚くんじゃない?」

 

「…彼女を驚かすために頑張らないとね」

 

 リカは、笑いながら軽く頭を掻いて部屋へと戻った。

 

 しばらくして、リカは伶亜と和やかに談話しながら最後の夕食を取っていた。

 

「お姉ちゃんって歌劇団の人なんだね~」

 

「そうよ、まだチョイ役ばかりだけどね…興味ある?」

 

「うん、はっきり知らないけど…うちのお母さん結構詳しいよ、子供の時からファンで、昔のスターさんの写真いっぱい持ってた、私も一緒に観に行ったよ、結構面白いね~」

 

「へえ、やっぱり女性は憧れるんだね~」

 

「ねえお姉ちゃん、いつトップスターになれるの?」

 

「え?…そんなの分かんないよ…簡単になれるもんじゃないから…努力しないとね…はは」

 

「大変なんだね~お姉ちゃんがトップスターになったら絶対見に行くからね!」

 

「ありがとう、ところで伶亜ちゃん、舞台に立つこととか興味ない?スタイルいいし…きっと似合うと思うよ」

 

 リカは期待して伶亜の返事を待ったが、それは裏切られようとしていた。

 

「……私、将来やりたいお仕事決まってるの…」

 

 伶亜は申し訳なさそうにリカに答えた。

 

「…へえ、そうなんだ、もう将来について考えてるんだ、偉いね、何の仕事したいか教えてよ~!」

 

「…フォトグラファー」

 

「…え?」

 

「…写真を撮るお仕事よ!」

 

「ああ、最近、横文字の職業多いから…だからカメラが好きなのね!」

 

「…一度、歌劇団目指そうと思ってバレエとか習ってたけど、飽きてすぐ辞めたの…それでお母さんと喧嘩になって諦めたの」

 

「成程、好きにならないと辛くなるからね…それで他にやりたいことを見つけたってことか…」

 

「…お姉ちゃんはどうして今のお仕事を?」

 

「……他にやりたい仕事がなかったからかな?だから何の迷いもなく真剣に取り組めた…伶亜ちゃんくらいの時は何にも考えてなかったし…立派だと思うよ、絶対夢叶うよ!」

 

 リカは伶亜を称え、伶亜は照れて頬が赤くなった。

 

「フォトグラファーになったらお姉ちゃん撮りに行くからね~」

 

「うん、楽しみにして待ってるよ~…さて食べようか、早く食べないと、茉緒お姉ちゃんに怒鳴られる~」

 

 リカたちが夕食をしている中、旅館の従業員も仕事が落ち着いたようであった。

 

「……客の数が減ったから結構楽ね…皆に自分の仕事が片付いたら上がってもらうように言って…あんたももう休みなさい、二人のことは見とくから…」

 

「…そう、じゃあそうさせてもらうわ」

 

 茉緒は、母の言葉に甘えてその場を去っていた。沙耶は娘が去った後、深く溜め息をついて、リカたちの様子をそっと覗いていた。その夜、何事もなく静かだった。リカと伶亜はしばし休憩した後、露天風呂に入ろうと準備して部屋を後にした。

 

「…!」

 

 リカたちは脱衣場の方へと入ろうとするが、リカだけ怪しい気配を察知していた。彼女は気づいていない振りをして、伶亜とそのまま脱衣所に入って行った。

 

 謎の人影は中の様子を窺い、リカたちが風呂場に入ってから脱衣場に忍び込もうとしていた。忍び込んで何をするかと思えば、脱衣籠に目が留まって物色し始めた。

 

「……そこで何やってるんですか?」

 

「…!!!」

 

 その時、背後から女性の声が聞こえて、我を忘れていた謎の人影は背筋が凍った。

 

声の主はリカであった。謎の人影は、焦りながらゆっくりとリカがいる方向に振り向いた。

 

「仲居さんが泥棒の真似事ですか?」

 

 脱衣籠を漁っていた犯人は、仲居の祥子であった。祥子は落ち着かない様子であったが、リカは予想していたようで落ち着いているようであった。

 

「あら、ごめんなさい…ちょっと掃除しようと思って…」

 

「下手な嘘ですね…脱衣籠を漁ろうとしていたんでしょう?標的は伶亜ちゃんの所持品…!」

 

「変な言いがかりは止めて!どうして私が伶亜ちゃんの所持品を漁らないといけないの?」

 

「往生際が悪いですね…ここでは話しにくいので場所を変えましょうか…」

 

「え…でも、中に伶亜ちゃんが…」

 

「それはご心配なく、ちゃんと代わりの保護者が中に居るので…さあ行きましょうか」

 

 風呂場には、仕事を終えた茉緒が待機しており、伶亜の面倒を見ていた。祥子は、素直にリカについて行こうとした。

 

 リカたちは風呂場を後にして、ある宿泊部屋に向かった。祥子は、その部屋に近づくにつれ、顔色が悪くなっていった。

 

「…ここは」

 

「この部屋に何かあるんですか?」

 

 リカは、わざとらしく祥子に質問し、部屋の扉を開けた。

 

「どうも今晩は…」

 

 室内では、ノリコが待ち構えていた。

 

「なぜ私をここに?」

 リカとノリコは祥子を囲み、本題に入ろうとしていた。

 

「…この部屋、私が使う前は裏山で転落死した古谷という男性が使っていたそうですね…部屋に足を踏み入れたあなたの顔は、強張って尋常ではなかった…言い逃れは出来ませんよ…」

 

「何のことを言ってるの?」

 

「まだとぼけますか?では言いますよ、古谷を殺したのはあなただ…!」

 

 ノリコは、自信を持って祥子に告げた。リカは、それを黙って見ていた。

 

「…何を言うかと思えば…あなたはただの宿泊客でしょう?探偵にでもなったつもり…?」

 

 祥子はノリコの裏の顔を知らず、まだ余裕の表情を浮かべていた。

 

「…すみません、申し遅れました…私、東京から派遣された警察関係者の人間でして…極秘捜査でやって参りました…」

 

「…極秘捜査?リカさんはどうして居るの?」

 

「……彼女は私の先輩でして…ある事情で捜査に協力することになったんです…私は例の転落死事件のことについて何も知らなかったんですが、事件解決に導く物を手に入れました…」

 

 リカがそう言うと、ノリコは自分の鞄からあるものを取り出した。それは伶亜が愛用しているデジタルカメラであった。祥子はカメラを見ると、余裕がなくなった様子であった。

 

「あなたは、このカメラの中に挿入されているSDカードが欲しくて、さっき脱衣場に忍び込んだんですよね…?」

 

「…それは……」

 

「このSDカード…喉から手が出るほど欲しいはずです…昨夜、リカたちの部屋に忍び込みましたよね?」

 

「…何を馬鹿な…!証拠はあるの?」

 

 祥子は動揺しつつ、ノリコに反論した。

 

「…証拠はありますよ」

 

「え?」

 

 すると、ノリコは専用のパソコンに触れて、祥子に画面が見えるよう近づけた。

 

「こちらをご覧下さい」

 

 パソコン画面にある映像が映っていた。それは美楽荘の宿泊部屋の一室で、リカの宿泊部屋のようであった。最初の方はリカたちが映っていたが、しばらくすると居なくなり、部屋は真っ暗になった。ノリコは一旦、映像を止めた。

 

「…これって?」

 

「…リカの部屋に小型カメラを仕掛けさせてもらいました…勿論、リカや旅館の方の許可を取ってあります…この時間、リカは伶亜ちゃんとお風呂に行っています…しかし、暗くなった数分後、部屋の灯りが点きます…リカたちが戻って来たかと思われましたが、それは違った…」

 

「……!」

 

 ノリコは再生ボタンを押し、祥子に続きを見せた。彼女は、この先に映る人物を知っていて、息が詰まりそうであった。

 

「…今、映っている人物は、あなたですね…?」

 

 祥子は、ノリコに責められて青ざめた。

 

「祥子さん、全てお見通しですよ…本当に残念です…」

 

 リカは背後から祥子の肩を軽く叩き、表情を曇らせた。

 

「…聞くところによると、マスターキーが二日続けて紛失したそうですね…最初の犯人は、伶亜ちゃん…そして、次が祥子さん…あなたってことでよろしいですね?旅館関係者ならマスターキーを盗み出すのは容易ですからね…」

 

「……やられたわ、カメラは何処を探してもなかった…休憩時間にあなたたちが居る川まで行ったのに…伶亜ちゃんはカメラを持っていなかった…あなたが持っていたのね?」

 

 祥子は悔しさを滲ませて、ノリコに訊ねた。

 

「…ええ、リカが伶亜ちゃんを説得して預かり、私の手に渡りました…確認後、地元の警察署に証拠品として提出しました…」

 

「…見事な連携プレイね…あのSDカードが手中にあれば、どうにかなったのに…」

 

 ノリコは、問題のデータをコピーしたDVDディスクをパソコンにセットし、落ち着きだした祥子に問題の映像を観せようとした。

 

 映り始めは引きの風景の画面で、編集で要らない部分はほとんどカットされ、徐々にズームされていき、崖上で揉み合っている二人の男女が映っていた。ここもまた編集されているため、それは鮮明に映っていた。よって、すぐに祥子と古谷(下田)だということが分かった。そして、惨劇を目にすることとなった。崖上から古谷(下田)が人形のように落下していき、その時の断末魔の叫びは、しばらくの時間、耳に残るものであった。古谷(下田)が落下した直後、崖上から祥子の姿が見えて、小岩を崖下に投げ捨てた。

 それから映像が切り替わり、古谷(下田)が転落した現場付近が映し出された。数分後、一つの人影がそこに現れ、その正体は祥子であった。彼女は、急いで転落現場に駆けつけ、何やら作業を行っていた。

 その後、作業を終えた祥子であったが、何かを感じ取って勢いよく振り向いた。その時の祥子は、鬼の形相で睨み付けていて、ぴったりカメラ目線であった。これで物陰に隠れで撮影していた伶亜が気づかれたことが分かった。映像はそこで終わった。

 

「…まさに衝撃的な映像です、サスペンスドラマ以上の迫力が伝わってくる…伶亜ちゃんは、恐怖に震えたことでしょう…」

 

「ええ、必死に逃げて行ったわ……あの娘、リカさんに打ち明けたの?」

 

「…はい、あまりにも様子がおかしかったですから…一晩寝て落ち着いたようですが、遺体発見現場の近くに行くと、あの惨劇の記憶が甦るみたいで…あなたの変わり果てた姿が纏わりついて来る…全て打ち明けてくれた時、彼女はほっとした顔をしていました…ようやく悪夢から解放されたようでした…」

 

「…そう、嫌な思いをさせてしまったわね…あなたにも」

 

 祥子は罪悪感を覚え始め、声に張りがなかった。ノリコは、そこから容赦なく話を続けようとした。

 

「…決め手となる証拠は、伶亜ちゃんの撮ったこの動画ですが、他にもあるんです…亡くなった数時間前、古谷(下田)は、中心街の飲食店に居たと目撃情報があります…店主の話では彼一人ではなかった…ラフな服装で深く帽子を被っていた人物と食事していたと言ってました…その人物はあなたですね…祥子さん?」

 

「…はい、休憩時間に彼と会いました…」

 

 祥子は、素直に頷いて答えた。

 

「…古谷(下田)は、店内でビールや日本酒を大量に飲み、変装したあなたは、何も注文せず、じっと座っていた…店を出た後、あなたたちは何処に行ったのか…街中の聞き込みで、有力な情報を入手することは出来ませんでしたが…そんな時、また別の場所から情報を得ました…女将や従業員たちは、薄々感づいていましたよ…」

 

「え?」

 

 祥子は、ノリコの発言にぎょっとした。

 

「…茉緒が言ってました、私を迎えに行こうと乗車した時、アクセルやブレーキ部分が砂まみれになっていたと…あと床にビールがこぼれていて、おまけに禁煙車のはずなのに、ヤニ臭さが残っていた…不振がっていましたよ…それとお風呂をご一緒した時、膝を怪我されてましたよね?今思うと、それは崖で揉み合った時に負った怪我ではないですか?」

 

 リカは、祥子の傍に行って、茉緒の証言を述べた。

 

「…その日、送迎車を運転したのは、女将と茉緒ちゃんだけのはずでしたが、実はもう一人居た…運転したのはあなたですね?一緒に古谷(下田)が乗っていた…」

 

「はい、おっしゃる通りです」

 

 ノリコは、真剣な眼差しで祥子に問い詰め、当然の如く彼女は白状した。ノリコは、車内の様子が映った写真を取り出して、祥子に見せた。

 車内についていた土は、裏山の土だった。最初、水分を含んでいて泥に近かったようで、前日まで大量の雨が降ったため、完全に乾いていなかったとされる。

 

「裏山まで歩けない距離じゃないですが、かなり時間が掛かりますからね…車だと時間短縮出来る…裏山に行った理由は後で話すとして、まず殺害方法です…あなたは崖まで彼を誘いだし、不意を突いて殺そうとした…実際見てないので分かりませんが…想像絶するものだったみたいですね……話せますか?」

 

 ノリコは、祥子から事細かに殺害方法を聴き出そうとした。祥子は、素直に答えようとした。

 

「…刑事さんが言った通り、私は隙を狙って古谷(下田)を殺そうとしました…しかし、なかなか上手くいかず抵抗されて、しばらく揉み合いが続きました…彼が酔っていなかったら私が殺されていたかもしれません…」

 

「…彼は、異常なほどお酒が好きだったようですね…酔って足がふらついていれば、女性のあなたでも殺害が可能…彼の前頭部に何ヶ所も深い傷がありました…叩きつけられたような跡が…転落した時の怪我じゃない…あなたは、岩の欠片で彼の頭を叩き付けた…さっきの映像に狂気の岩を下に落としているところが映ってました…彼は、それが原因で力尽きて滑り落ちた…そうですね?」

 

「…はい、それで私は無駄だと分かっていながら、事故死に見せかけようと偽造工作を…その時、伶亜ちゃんの気配に気づいたわけです」

 

「よく話してくれましたね、地元刑事たちが外で待っています、続きは地元の署で……と言いたいところですが…まだあなたを渡すわけにはいかない…リカ悪いけど…」

 

 その時、リカは静かに退室して、二人きりにした。

 

「…え?あの…」

 

 祥子は、ノリコの思いがけない発言に戸惑っていた。

 

「私は極秘捜査でやって来たと言いました…本来の目的は被害者の古谷…本名、下田武宏…彼が何故この町に来たのかを調べること…祥子さん、あなたは彼と親密な関係だったのでは?

 

 ノリコがそう問いただすと、祥子は静かに頷いて、古谷(下田)との関係を話そうとした。

 

「…はい、彼とは恋人同士でした…もうだいぶ前に別れましたが…」

 

「成程……これは確認のためにお聞きしますが、あなたはレリックという犯罪組織に属していたのでは…?主犯格は下田ですよね?」

 

「…はい、おっしゃる通りです、私も犯罪組織の一員とされていましたが…彼と別れるのと同時に脱退しました…」

 

「…下田と再会した日のことを詳しく話していただけませんか?」

 

 祥子は躊躇せず、ノリコに真相を話そうとした。

 

「……あの日は衝撃の一日でした、彼は…下田は、突然私の前に現れたんです…整形していても彼と目が合った瞬間、すぐに分かり、正常では居られないほど驚きました、彼は私を諦めきれず、執念で探し出したんです…」

 

「まずお聞きしたい…何故、あなたは組織の一員となったんですか?」

 

「……私は下田の裏の顔になかなか気づきませんでした…付き合いだした頃、彼の印象は良くて優しい男性でした…でも付き合って時間が経つにつれ、彼の様子が変わっていったんです…」

 

「…どういう風に?」

 

「…口調に冷たさを感じ、あまり話さなくなったんです…そして、ある日突然、彼は私にお遣いを頼みました…用意した封筒を待ち合わせしている人物に渡して来てほしいと…」

 

「封筒の中身は、何が入っていたんですか?」

 

「後から分かったんですが、それは組織に関する資料や多額のお金でした…私はいつの間にか組織の人間として扱われていたんです…!」

 

「あなたは、組織でどういった役割を?」

 

「…主に連絡係を…彼の指示通りにメールや電話でメンバーと連絡を取ったりして…後は雑用を…」

 

「自ら犯罪に手を染めたことは?」

 

「…それは一切ありません!」

 

 ノリコは、祥子の目をじっと見て信じようとして、次の質問をしようとした。

 

「…何故、すぐに組織から抜け出さそうとしなかったんですか?」

 

「…彼に魅かれて逆らおうとしませんでした…もう操り人形の状態で、洗脳に近かったかもしれません…」

 

「…脱退したきっかけは?」

 

「……メンバーが次々と捕まった時です…下田もさすがに焦っていました…彼は様々な凶悪犯罪に手を出していましたから…私は、やっと危機感を覚えて逃げるようにして、彼のもとから去って行きました」

 

「…再会した彼とどうして裏山に行ったんですか?」

 

「…彼が大事な話があるから、人気のない場所に行きたいと言ったので。裏山を選びました…」

 

「…下田はどういう話をしていたんですか?」

 

「……組織についてです…そろそろ再結成したいと言ってました…彼は新たな野望を抱いていたようです、それでまた私に戻って来てほしいと…」

 

「あなたの答えは?」

 

「勿論、断りました…それでも彼はしつこくて…」

 

「新たな野望とは?」

 

「…日本国家を恐怖のどん底に陥れる計画です…私に事細かに説明していて…その時の彼の表情は、無邪気な子供のようでした…内容話した方がいいですか?」

 

「…いえ、ここで話す必要はありません…質問を変えます…今回の殺害方法は計画的だと思える…あなたは始めから下田を殺そうと考えていたんですか?」

 

「……はい、彼と目が合った瞬間、昔の嫌な記憶が甦り、恐怖に怯えるのと同時に殺意が芽生えました…彼は邪魔で仕方がなかった…!」

 

 祥子は感情が高ぶり、下田を殺害した時のような怖い表情となった。

 

「…成程、分かりました…これであなたの罪状がはっきりしました…あなたは下田の殺害容疑でしか逮捕されません…」

 

「…え?それはどういう?」

 

 祥子はノリコの発言が理解出来ず、返す言葉が見つからなかった。

 

「今までの話の流れで、下田が強制的にあなたを組織のメンバーにしたということが分かりました…もし、自分の意思で組織のメンバーになったのなら話は別ですが…再逮捕され、いつ外の世界に出れるか分かりません…それは困るでしょう?」

 

「…ええ、まあ…でもいいんですか?勝手に決めちゃって…」

 

「…ええ、大丈夫ですよ、地元警察には組織のことを伏せていますし、あなたが下田と親密な関係だったことは、私を含め、限られた人間しか知りませんのでご安心を…」

 

「…あなたは本当に警察の人なの?」

 

 祥子は、疑いの目でノリコをじっと見ていた。

 

「そう睨まないで下さい~特殊な部署にいまして…説明すると長くなります…悪いようにはしないので安心して下さい……条件を満たせば罪は少し軽くなります」

 

「…条件とは?」

 

「…あなたは組織のメンバーの中で一番、下田と親しい仲でしょう…彼がどういう野望を抱いていたか興味があるんでね…組織について洗いざらい教えてもらいたいんだけど…」

 

「…本当にそれで私が組織に居たことをなかったことに?」

 

「…約束します、ただし、下田を殺害した件は償ってもらいますよ…」

 

「ええ、それは覚悟しています、あなたを信じて牢獄生活を耐え抜いてみせます…」

 

「…では私の言う通りにして下さい」

 

 ノリコと祥子の密談が続き、それからしばらくして話し声が聴こえなくなり、ゆっくりと扉が開いた。祥子は姿を現し、その時の彼女の表情を確認すると、蟠りがなくすっきりとしたようであった。

 

 廊下には、リカの他に沙耶が立っており、祥子は唖然としていた。

 

「……女将…!」

 

「……バシン!!」

 

 その時、沙耶は真っ直ぐ祥子がいる方に向かい、平手打ちを浴びせた。その行為は、怒りと同時に悲しみも込められていた。

 

「……私が気づいていないとでも思った?娘でさえ気づいていたんだから…どうして相談してくれなかったの?」

 

「…そんなこと…出来るわけないじゃないですか…迷惑を掛けたくなかったんです…」

 

「…何言ってるの…取り返しのつかないことをしてしまったのよ…あなたのやり方は許せない…!」

 

「…すみません、旅館の名に傷をつけてしまいました…私のことは忘れて下さい…」

 

「……お生憎様、うちはそう簡単に評判は落ちないわ…!もっと繁盛させてみせる…!あなたを待ちながら…」

 

「…え?」

 

 その時、祥子は、沙耶の言ったことで自分の耳を疑った。

 

「…私はあまり頭が良くないけど、人を見る目はある方よ…あなたは悪人じゃない…臆病なだけよ…過去の嫌なことを忘れて、もし、戻って来る気があるなら観劇するわよ…」

 

「…女将さん」

 

 祥子は、沙耶の思いがけない言葉に衝撃を受けて、涙を大量に流した。沙耶は、そんな祥子をそっと抱き締めた。

 

「…いいのよ、ずっと待ってあげるから…リカちゃんとも仲良くなったようね…」

 

「…ええ、茉緒ちゃんは、本当に素晴らしいお友達をお持ちで…あなたにも嫌な思いさせたわね…」

 

「…いえ、短い間でしたが楽しかったです…私も待ってるので…」

 

「…ありがとう、あなたが居る劇場に足を運びたかったけど、だいぶ先になりそうね」

 

「…まだ下っ端なので頑張ります…生意気ですが、大役を果たせるように…」

 

「ふふ、応援しているわ、しばらくお別れね……」

 

 その時、祥子はリカに対して、何か言いたげな表情を浮かべた。

 

「どうしました?」

 

「……悪いんだけどお願いしたいことが……茉緒ちゃんと伶亜ちゃんにごめんね…と伝えて下さい…」

 

「…分かりました」

 

「……それじゃあ行きましょうか」

 

 祥子はノリコと共に刑事たちが待機している場所へと向かった。刑事たちは、覆面パトカーの中で待機していた。

 

「…おっ来たか」

 

 ベテラン刑事がノリコたちに気づき、車内から出て、二人を出迎えた。

 

「お待たせしました、約束通り連れてきましたよ」

 

「…情報提供、感謝しますよ、彼女だと睨んでいたが、徹底的な証拠がなくてね…御嬢さんのお蔭で解決しました…探偵業をされているとか…」

 

「…ええ、プライベートでここに来たんですが…」

 

「…そうですか、偶然とはいえ、とんでもない証拠でしたね…驚いたでしょ?」

 

「…ええ、あんなもの、そう見れるものじゃありませんよ……それでは私はこれで……!」

 

 ノリコは、祥子を警察に引き渡して、その場を去ろうとしていたが、ベテラン刑事は、まだ彼女を見ていた。

 

「…あの、すみません、あなたと会うの、これで二度目になりますが、それより以前に会ったような気がするんですよね…」

 

「…へえ、こっちは記憶にないんですが…」

 

「そうですか、知っている誰かと似ていたのかな?…どうも呼び止めてすみません…それでは失礼します…」

 

 ベテラン刑事は納得して、車内に引っ込み、車を発進させた。ノリコは、正体がばれなかったので、ほっとしていた。

 

 こうして、ひとまず忌まわしい事件は解決し、静寂な夜が続いた。

 

 やがて、夜明けとなり新しい一日が始まり、その日、リカは朝食を済ませた後、すぐに海に向かった。彼女は午前中、ずっとスキューバダイビングを楽しもうとした。同じ頃、伶亜は夏休みの宿題に手をつけていた。

 

 時間はあっという間に過ぎていき、リカは名残惜しそうな顔でチェックアウトを済ませた。

 

「…今年もお世話になりました」

 

「…いえ、こちらこそ、また来年ね…」

 

「…もし、休暇が取れたら冬にも来ようと思います…」

 

「あら、そう…楽しみに待ってるわ」

 

「…リカ、駅前まで車で送るよ、伶亜もついて来るって…」

 

「そう、ありがとう!」

 

 リカは、茉緒が運転する送迎車に乗り込み、車内から見送る従業員たちに手を振って別れを告げた。

 

「…なんかここ数日あったこと、夢みたいに思えるわ、そう思わない?」

 

 茉緒は、運転しながらリカに問いかけた。

 

「…そうだね、もう何が何だか…楽しいこともあったから良かったけど…」

 

「嵐みたいだっだわ、仕事は死ぬほど忙しかったし…夏も終わり…しばらく落ち着くだろうけど…」

 

「…充電出来たし、これでまた戦場に戻ることになるわ」

 

「まあ無理しない程度に頑張ってよ、観に行ってやるからさ~」

 

「うん、期待してて」

 

「……ああ、そういえば、例のリゾート地開発計画…ひとまず延期になりそうよ…」

 

「ええ!そうなんだ、良かったじゃん!」

 

「やっぱり神様はよく分かってるわね~」

 

 車内にいる三人は、気分よく駅前に着くまで雑談していた。

 

 一方、柚里浜駅前、ロータリーに一台の車が停まっていた。車内にいるのは、ノリコと相棒の男性刑事であった。二人はクーラーを効かせ、祥子の件で話し合っている様子であった。

 

「……もう彼女は覚悟を決めていたようだな…」

 

「ええ、彼女の部屋を調べると、犯行時に履いていた運動靴が出てきたわ、その時、着ていた服も…なぜか処分されていなかった…」

 

「…しかし、犯行現場が映ったSDカードを盗もうとしていたんだろう?証拠隠滅の行為は確認されているわけだから…」

 

「…証拠隠滅を企てていたなら、もっとちゃんとしているはずでしょう?雑な面が多すぎるわ、突然思い立ったことだから、パニックになったのは間違いないわ…下田を消すことに無我夢中になって、消した後、緊張が和らいだんだと思う…」

 

「よっぽど過去から逃げたかったんだな、それに対し、下田は過去を取り戻そうとした…なんとも釣り合わない関係だ…それで彼女とは上手く打ち合わせしたのか?」

 

「…ええ、手筈通りに…下田にしつこく迫られ、無理やり裏山に連れて行かれ、性的暴行を加えられそうになり、必死に抵抗した挙げ句、いつの間にか殺してしまっていた…これでいいでしょう?」

 

「ああ…それでいい、嘘も方便ってやつだ」

 

 ノリコたちは、祥子に嘘の自供をさせようとしていた。

 

「…彼女は地方の刑務所に入所する…服役中、文通相手になってもらうんでしょ?それで組織の情報を得るわけね…」

 

「…ああ、彼女は重要参考人でもある、これで組織を完全に壊滅させることが出来る…悪の芽を絶やさなければいけない…」

 

「そうね、かなりいい仕事したでしょう?」

 

「そうだな、予想以上に早く解決したんで驚いている…助力してくれた人物には感謝しているよ…約束通り、情報提供者の名は明かさなくていい…」

 

「…感謝するわ」

 

 しばらくノリコと男性刑事が話していると、前方に一台のワンボックスカーが停車した。それは美楽荘の送迎車であった。中からはぞろぞろとリカ、茉緒、伶亜が出てきた。ノリコはリカと目を合わさず、知らない振りをしていた。

 

「…とにかく早く片付いてよかった…あんたも本業で忙しくなるからな…家まで送る間、ゆっくり寝ていてくれ…」

 

「ええ、そうさせてもらうわ、安藤さん」

 

 ノリコはお言葉に甘えて、座席を後方に傾斜させて眠りに就こうとしていた。

 

 そして、何を隠そう男性刑事の正体は、リカの相棒となる、若かりし頃の安藤ユウであった。安藤は、リカと組む前にノリコとコンビを組んでいたのであった。リカと安藤がお互いのことを知るのは、まだ先のことであった。安藤たちは、心置きなく柚里浜を後にした。

 

 リカは、列車が来るまで茉緒たちと話を続けていた。

 

「伶亜ちゃんと遊んだりして楽しかったよ~山も好きになりそう~」

 

「この娘、海が苦手みたいなの、ちょっと深い所行くと、酷く嫌がるのよ~」

 

「…海だって楽しいのに今度、一緒に海に潜ろうよ~伶亜ちゃん」

 

「…う…うん」

 

 伶亜は、少しためらって返事をした。

 

「…それにしても伶亜ちゃん、最初に会った時と比べると、少し大人になったんじゃない?」

 

「そうね~確かにこの娘、少し落ち着いたかな?」

 

「成長したよ~ここ数日で成長したんじゃない?」

 

「…だといいけど、そろそろしっかりしてもらわないとね…」

 

「…まだ旅館に居るんでしょ?お姉ちゃんやおばさんを助けてあげてね…」

 

「…うん,分かった」

 

「…本当に分かってんの?」

 

 三人が居る待合室は、和やかな空気に包まれているが、列車の到着時刻が迫り、リカはホームに向かおうとした。見送りに来たノリコたちは力強く、リカに手を振って別れを告げた。リカもまた、ノリコたちが見えなくなるまでずっと手を振っていた。

 

 それから数分後、リカを乗せた列車は、発車し、柚里浜の海の風景が窓越しに現れた。天気に恵まれて絶景であるが、リカは景色を見ずに、うとうとしていた。午前中のスキューバで疲れたのか、彼女はそのまま眠ってしまった。

 

 

 

 やがて、列車はトンネルに入り、リカは闇に包まれた。そして、時は現在に戻る。リカは長い夢から醒めようとしていた。

 

「あ~よく寝た~二度寝は気持ちいいね~っていうかもう昼じゃん~あつ~クーラー点けよ~」

 

 リカは身を引き締めて、だらしない生活を改めようとしていた。うっとうしい夏が終われば、彼女の最初で最後のディナーショーが開かれる予定である。


妖しき双塔

 

 二〇××年、兵庫県を拠点にしている歌劇団にある異変が起こっていた。歌劇団には、大劇場の他に若手の登竜門とされる小劇場があり、それを利用した大きな計画が実行されようとしていた。

 

 歌劇団は現在、五班のチームに分かれてそれぞれの班の特性を活かした公演を行っている。一世紀近くの伝統を誇る歌劇団は、転換期を迎えることとなり、若手劇団員中心を活躍させる場を設けようとしていた。それは制作側である演出家にとっても同じことであった。

 計画が進められる中、歌劇団上層部は、今までにない作品をファンに見せようと、各班で成長している若手スターを選出した。また、今回の公演作品は独特で芝居はもとより、ショーに力を注ぎ、新鮮味や活力が溢れる作品にしてもらおうと若手演出家に任せた。

  各班を代表して、五人の若手劇団員が選ばれ、順次、計画された作品が上演されることになった。選ばれた若手劇団員メンバーの中にはリカも含まれていて、彼女は主演に抜擢されていた。彼女が主演を務める公演期間は、その年の初夏と決まり、歌劇団人生で忘れられない夏を迎えることとなった。

 こうして、リカにとって重要な時期が訪れるわけだが、彼女は表と裏の世界を行き来する人間であり、とある重大事件に巻き込まれようとしていた。

 

 

 二〇××年 六月某日、その日は激しい雨が降り続いていた。閑静な住宅街に堂々とそびえ立つタワーマンションがあった。

 

「………ブオ」

 時間は真夜中、マンション専用駐車場に一台のフォルクスワーゲン・パサートヴァリアントが駐車された。マンションの住人である男性は、駐車場フロアを出て、一階ロビーで郵便物を確認した後、エレベーターへと乗り込んだ。

 

「…ガッ!!」

 

 その時、男性住人がエレベーターの扉を閉めようとした時、無理矢理こじ開ける者が現れた。男性住人は仕事の疲れで生気がなかったが、突然のことで意識がはっきりとしたようであった。

 

「………」

 

 突如乱入してきた謎の人物は、男の住人に挨拶もせず、黙って降りる階数のボタンを押して後方に下がった。謎の人物の服装は全身黒でまとめられ、ずっと歩いて来たのか、傘を使わずレインコートで雨を凌いでいたようであった。また、何故か濡れたレインコートを脱がず、フードも深く被ったままであった。恐る恐る顔を見ようとするが、フードを被っているうえにサングラスやマスクを着用しているため、顔は完全に隠れていた。彼は、独特の怪しい空気を漂わせていた。

 

「………!!」

 

 男性住人は謎の人物が住人ではないと感じ取り、冷や汗が止まらなかった。こうして、気まずい空気のまま、時間を過ぎていくのであった。

 

「………」

 

 まもなく男性住人が住んでいる階数に到着しようとして、彼は何も起きないことを願った。しかし、それは叶いそうになかった。

 

「…バチン!」

 

 その時であった。突如、男性住人たちが居るエレベーター内は暗闇に包まれて停止した。

 

「…え…あれ?」

 

 男性住人は突然のトラブルで錯乱状態であったが、謎の人物は何故か冷静であった。

 

「…チャ」

 

 さらに予期せぬ事態が起ころうとして、男性住人はそれに気づくことはなかった。

 

「…パシュ、パシュ…パシュ!」

 

 その時、暗闇に包まれたエレベータ―内で、かすかに閃光が見えて同時に物音がした。その途端、謎の住人は人形のように倒れていった。

 

「…バチン!」

 

 それから数分後、エレベーター内の灯りが点き作動し始めた。エレベータ内を見ると、男性住人は倒れ込んだままの状態で大量の血を流していた。彼はそれから起き上がることはなかった。謎の人物は何事もなかったかのようにして、適当な階で降りた。彼はエレベーターを降りた後、すぐに非常口に向かって地上へと戻って行った。

 

「………」

 男性住人が謎の住人に殺害されたことを知る者は居ないと思われたが、一人居るようであった。その人物は一部始終を見ていたようで、しばらく不敵な笑みを浮かべていた。

 場所は変わって、神戸港周辺倉庫。

 激しい雨が血を叩き付ける中、倉庫エリアにはベンツ数台とバン一台が停まり、車内から強面で屈強な男がわんさかと姿を現した。彼らは使用されていない大型倉庫を占領して何かを始めようとした。

 

「…そのまま前に進め!」

 

 強面の男たちの他に一人、頭には黒い布袋を被され、手には拘束具をつけられた者が居た。その人物は、素直に従って倉庫内に入って行った。視界と自由を奪われた拉致被害者は、ただただ怯えて先に進むしかなかった。