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表題

 

 

 

 

 

 

 空前の「純文学」ブーム

 

 

           星野廉


前編

 現在、かつてないほどの大きな規模で「純文学」ブームが起きているのをご存知でしょうか?


 正確に言えば、「純文学」復興運動というべきかもしれません。毎日、数えきれないほどの「純文学」の書き手たちが、数えきれないほどの作品を書いているのです。


 いえ、海外の話ではありません。この国で起きている現象であり、現実なのです。嘘ではありません。

 

 さて、純文学とは何でしょう? 


 古い定義を持ち出すことをお許し願います。

 

 一、島崎藤村の『破戒』や田山花袋の『蒲団』あたりを起源とする自然主義文学の流れをくみ、身辺雑記的な記述に満ちた私小説。
 二、白樺派と呼ばれた、武者小路実篤、有島武郎、志賀直哉の流れをくみ、物語性を極力排除し、ひたすら身辺を写生する手法を追及した心境小説。

 

 この二種類なのですが、どちらもいかにも古めかしい定義であり、これが純文学だというのなら、「死語」または「化石」だと言われても当然のものです。


 でも、その「死語」と「化石」が日々多数生み出されているのです。嘘ではありません。


 いったい、この国のどこで、誰が、どんなふうに「純文学」の作品を書き発表しているのかと申しますと、ネット上なのです。


 ケータイ文学ですか? いいえ、違います。少なくとも今、ここでテーマにしているものは、いわゆるケータイ文学ではありません。つまり、みなさんがケータイ文学という言葉でイメージしていると思われる形態の小説ではありません。


 とはいえ、ケータイ小説については興味がありますので、ここで、ちょっと寄り道をし、ケータイ小説について触れてみたいと思います。

 

 ブログで小説を書いてはいるものの、ケータイ小説については詳しくないのですが、何かの雑誌で読んだことを思い出しました。とにかく、その雑誌の記事の筆者はすごい剣幕で怒っていました。ケータイ小説について、です。要約しますと、次のようなことが書いてありました。

 

「ろくに小説を読んだこともないような者たちが、クズみたいな文章で、クズのような内容の小説を携帯電話を用いて書いている。特に、頭に来たのは、これまで小説なんて全然読んだことがない、などとのたまわっていたことである」

 

 だいたい、以上のような意味の批判でした。


 既存の作家なのか、編集者なのか、文芸評論家と呼ばれる人なのか、覚えていません。これに似た意見を、いろいろな媒体でいくつも見聞きしたような気がします。こういうのは、批判でも非難でも見解でもなく。悪態とか罵倒と申します。場合によっては八つ当たりかもしれません。


 こういうたぐいのものは、書いてある内容を考えてはいけません。中身に意味はありません。悪態や罵倒とは、感情の表れです。企業のクレーム対応係の人たちが、よく言いますよね。別に内容は聞かなくてもいいから、とにかく、まず相手に喋らせろ。気が済むまでどんどん喋らせろ。それで九十パーセントは解決だ、なんて。


 それとほぼ同じです。悪態や罵倒に対しては、その内容について本気で考えるのではなく、その根底にある「感情」だけを読みとればいいのです。そしてそういう不愉快なことは、すぐに忘れればいいのです。


 ケータイ小説に対する悪態や罵倒の数々を分類し、「感情語」に翻訳すると、以下のようになります。

 

 A 「嫉妬」 = 本来なら「感情語」で、「くやしーい」とか、「ぎゃあー」の一言で済むのに、なまじっか知性や痴性が邪魔をして、次のように長く語ります。

 

「こんなに汗水を流して、血の出るような努力を重ねて、日本文学を継承するという崇高なる使命感をもって、たくさんお勉強をしてきた、このわたしの小説が売れなくて、何であんな文学的素養のない者たちの駄文が売れるのでしょうか。危険です。文学は危機に瀕しているのです」

 

 このような具合ですが、みじめったらしいですね。

 

 B 「恐怖」 = 本来なら「感情語」で、「やべーよ」とか、「お金がない」の一言で済むのに、なまじっか知性や痴性が邪魔をして、次のように長く語ります。

 

「このままじゃ、困る。現在、出版界は、危機に直面している。敵はネット、つまり、インターネットとケータイにあることは確かだ。それにしても、われわれの劣勢は、どうして起こっているのか? われわれのどこが悪いというのだ? これでも、○○大出だぜ。おら、エリートだど。さっぱり分からない。せっかく、高いカネを払って、大手の広告代理店に請け負わせて、HPを作成させたり、ネットの特性を利用したマーケティングとやらを各種試みさせているものの、成果は芳しくない。発想の転換、パラダイムシフトが求められているのかもしれない。ビジネス上有利だと割り切れば、あいつらを利用しない手もないではないか。ちょっと、擦り寄ってみるか」

 

 という感じですが、いかにも往生際が悪そうですね。

 

 C 「迷い、または動揺」 = 本来なら「感情語」で、「どうしたらよかんべ」とか、「!?」の一言で済むのに、なまじっか知性や痴性が邪魔をして、次のように長く語ります。

 

「もう食っていけねーよー。文芸誌からの原稿の依頼は、どんどん減っている。講演会やトークショーへのお呼びもない。非文芸誌からも、声がかからない。このままじゃ、マジで飢え死にするぜ。この間みたいに、変装して、深夜のコンビニで働かせてもらおうか? それにしても、○○の野郎は、あちこちのウェブサイトに登場しているけど、どういうコネがあるんだ。性格悪いから、聞いても教えてくんないだろうなあ。いっそ、「ケータイ小説文学論」つーのを、酒でも飲みながら書いて、一山当ててみようか」

 

 うーんと思わずうなってしまうほど切実そうですね。

 

 D 「思考停止」 = 本来なら「感情語」で、「なんとか言ってやってくださいよ、○○先生」(※たいてい、テレビのコメンテーターの名前が入ります)とか、「えっと、あれ何だっけ?」(※何かを思い出そうとしています)の一言で済むのに、なまじっか知性や痴性が邪魔をして、いや、この場合には、「知性や考える力」はないのですが、次のように長く語ります。評論家とか、事情通とか、識者と呼ばれる人たちの言葉の受け売りや、パッチワークつまり継ぎ合わせになります。したがって、論旨は支離滅裂になります。

 

「ケータイは国語を乱します。ケータイは青少年の健全な育成の邪魔になります。ケータイ小説はクズです。ケータイ小説に文学性は皆無です。ケータイがらみの未成年を犠牲者とした事件が激増しています。国家主導で未成年のネット規制を実施すべきです。出会い系サイトなんて、口にするのも汚らわしいです。ケータイリテラシーを学校で学ばせましょう。未成年のフィルタリングサービスを義務化すべきです。未成年者を有害情報から保護しましょう。ケータイを使用すると電磁波を浴びることになります。ケータイ小説って、軽薄な響きがありますよね。ところで、モバゲーって何ですか、○○先生? ついでにネトゲ廃人とかいうものについてもご教示願います、○○先生」

 

 意味や実体を知らないというか、考えたこともない言葉をつなぎ合わせてわめているという感じがしますね。

 

 E 「八つ当たり」 = 本来なら「感情語」で、「何だかしんないけど、むかつくなあ」とか、「こんちくしょう」の一言で済むのに、なまじっか痴性と血の気の多さと性格の悪さとがわざわいして、次のように長く語ります。小さな飲み屋なんかで、ママを相手にぼやく、酔っ払いのセリフが典型です。

 

「何がケータイ小説だ。きょうは、会社の帰りにパチンコで一万損したし、今月の営業成績は最下位まちがいなさそうだし、何がケータイ小説だ。ママ、おかわり! 昨日の夜、公園でジョギングしてたら犬のうんちは踏むし、誰が置いたかわかんないバケツを蹴飛ばしてつま先を怪我するし、ふんだりけったりじゃねーか、何がケータイ小説だ。外回りさぼって、ネットカフェで2ch入ってXBOXの悪口を言ったら、十人くらいに囲まれてよってたかっていじめられるし、何がケータイ小説だ。ママ、おかわり! ネットカフェを出たら、家からケータイに通話が入って、宅配便ででかい荷物が二個も届いたっておふくろが言うし、よく考えたら、先週、酔った勢いで、夜中についテレビ通販をやって歩行器を買ってしまって、そん時すごくセクシーな声の女の人が、ちょっと早いですけど彼女へのクリスマスプレゼントにもう一台なんてどうですか、なんて言われて、ああいいねえ、なんて返事をしたっけ。おれ、彼女なんていねーのに、何がケータイ小説だ。ママ、おかわり!」

 

 これは、とりあえず酔いがさめるのを待つしかないようですね。

 

     *

 

 念のためにお断りしますが、みなさんが今お読みになっているこの拙文も、悪態や罵倒の一種でございます。投げた石は自分に返ってくるようです。反省。


 ちなみに個人的には、ケータイの使用に対する、国家によるさまざまな規制には反対です。言論統制を排し、表現の自由を守ろうという立場を支持します。


 さて、ケータイそのものの使用ではなく、ケータイ小説についてですが、結論から申しますと、ケータイ小説はクズだとは思っていません。新しい形態(ケータイ)の小説だと考えております。


 また、ケータイ小説の書き手が本(特に既存の小説)を読んでいないと発言したとしても、それは、ご本人が気づいていらっしゃらないだけで、実際には、本(特に既存の小説)以外から、たくさんの言葉の切れ端を「読む」という経験を積んでいるはずです。だからこそ、「書ける」のです。


 簡単に申しますと、「読んでいなければ書けません」。これって、文学理論的にもそうらしいです。詳しいことは存じませんけど。


 なお、小説を書くのに不可欠な、ストーリーテリングや展開の仕方、読者を飽きさせないための小道具、読みやすさのテクニック、といったさまざまなスキルやパーツは、別に既存の作家、まして古典的文学作品を読まなくても、身につけることができます。


 テレビドラマ、映画、CM、雑誌の記事、知り合いとの会話や雑談や馬鹿話、身近な体験、夢でみたことなどさまざまな物や事や現象を通じて、日々体感したり体験したり体得しているからです。

 

 ケータイ小説の未来というか、今後ですけど、たぶん、このまま続くと思います。テレビが登場した時に、「映画やラジオや紙芝居がなくなるぞー」と、うれしそうに言った意地や性格や根性の悪い評論家たちがたくさんいたらしいですが、今も映画とラジオと紙芝居はあります。


 それと同じです。いわゆる純文学も、いわゆるエンターテインメント小説も、いわゆるライトノベルも、いわゆるBLも、いわゆる二次小説も、いわゆるケータイ小説も、いわゆるネット小説も、シェアの増減や変化はあるでしょうが、それなりに共存していくと予想しております。ステゴザウルスやドードー鳥やベータマックスやおニャン子クラブのように消えることはない、と信じています。


 むしろ、さらにまた、新しい形態(ケータイ)小説が現れるに決まっています。それが、人間のたくましさであり厚かましさであり図々しさであり頼もしさではないでしょうか。


(後編につづく) 







 


後編

 道草はここまでにして、冒頭で挙げた(ふるーい定義の)「純文学」復興運動に話を戻します。


「純文学の作品」を、ネット上でどうやって探せばいいのかと申しますと、たとえば、「小説」とか「ネット小説」とか「ケータイ小説」をキーワードにして、"○○" という具合にくくってググってみるのは、賢明な検索方法とは言えません。では、どうすれば、「純文学作品」に出合えるのでしょうか?


「ブログ」です。それも「ブログの日記」なのです。ブログを運営しているサイト、あるいは、ブログランキングを行っているサイトのトップページなどで分類されているジャンルで申しますと、「小説」や「文学」ではなく、あくまでも、「日記」の項目をクリックすべきです。「エッセイ」も有望です。


 とにかく、本命は「日記」です。


 さきほどの純文学の古い、ふるーい定義のうちの大切な部分だけを、繰り返します。

 

 一、身辺雑記的な記述に満ちた私小説
 二、物語性を極力排除し、ひたすら身辺を写生する作法=手法を追及した心境小説

 

 これって、「ブログの日記」ではないでしょうか?

 

     *

 

 話を少し変えます。


 現在、プロの小説家たちの中で、私小説と心境小説を書いて生計を立てている人たちなんているでしょうか? そうした傾向の作品だけを書いていた場合に、その作品たちはご飯を食べていけるだけの部数を確保したうえで、販売(出版→流通→書店に並ぶ→お客様に買っていただく)できるでしょうか? 無理でしょう。残念ながら、ほぼ不可能でしょう。


 出版界も、現在、大不況の影響をもろに受けています。数年前なら、出版社も販売オーケーしてくれた作品が、現在ではなかなか上梓してもらえない。それが現状のようです。

 

 それだけではありません。とりわけ、私小説をとりまく環境は厳しさを増していると言えそうです。たとえば、柳美里(ゆうみり)氏の場合を考えてみましょう。


 さきほどの純文学の定義にもっとも近い小説を書いていらっしゃる作家の一人です。かつて書いたある作品がモデル小説の形をとっていたために、プライバシーを侵害されたと主張する人が訴訟を起こし、最高裁において出版差し止めという判決が下されました。


 あの作品は、モデル小説でしたが、私小説すべてがモデル小説であると言えるわけで、あの最高裁判決が私小説の息の根を止めた、と言っても過言ではないと思っております。


 また、車谷長吉(くるまたにちょうきつ)という作家・俳人がいらっしゃいます。車谷氏は、「私小説家」を自任している数少ない作家の一人でしたが、ある小説での記述の事実関係をめぐって、ある人から提訴されるという事態に至り、それが原因で、確か二〇〇四年に「私小説を書くことを断念する」と宣言なさったことを何かで読んだ記憶があります。


 しかし、かつてすさまじいまでの私小説を書いた筆力は今なお健在であり、エッセイ風の味わいのある作品を書き続けていらっしゃいます。

 

 今、紹介した二人の作家の例を見ても分かるように、定義からしてモデル小説になるしかない運命を持った私小説を出版し流通させることはほぼ不可能になってきている、と言えそうです。


 プライバシーの侵害や、名誉毀損といった人権にかかわる問題を無視することができない情勢になっているからです。人権意識の高まりと、裁判所での判例の積み重ねが、その背景にあります。

 

 それにもかかわらず、ブログという形態(ケータイ)で、毎日数えきれない「私小説」や「心境小説」、つまり「日記」ときには「身辺雑記的エッセイ」、が書かれ、ネット上を飛び交っているのです。中には、個人を特定されたくないために、詳細を改変したり、匿名、あるいはハンドルネームで、「日記」というジャンルの文章を公表なさっている方々がいらっしゃるでしょう。


 蛇足ですが、書くという行為において、事実と虚構を分けることには意味がありません。あるとすれば、ゴシップ的な意味しかありません。つまり、「誰々さんが何々したのは、本当か嘘か?」という次元での興味本位の話題でしかないという意味です。


 フィクションとノンフィクションとの分類こそ、もはや化石というべきでしょう。なぜなら、書かれたものはすべてがフィクション=虚構=ただの言葉=嘘=お話であり、現実や事実とは異なる、つまり、とてつもなくズレているからです。

 

     *

 

 そうしたややこしい話はどうでもいいです。大切なことを繰り返します。


 現在、この国で、かつてのふるーい純文学の伝統に沿った、私小説および心境小説が、ブログの日記という形で、多量に書かれているのです。これを、空前の「純文学」ブーム、あるいは、空前の「純文学」復興運動と言わずして、何と言えばよいのでしょうか? 


 プロ対アマとか、出版界対ネット空間などといった無意味な分類はしないでおきましょう。みんな仲良くしましょうよ。


 ブログという形での「公表」なら、裁判所などというお節介なお役所の世話になることはほとんどないと思います(というか、そう願っています)。ただし、実名を挙げての個人攻撃や中傷や八つ当たり的攻撃をしない限り、です。


 自分にも、定期的に読んでいる特定のブログ日記があります。日記ですから、ある程度の長さを読んでいないと、つまり、ある程度前の記事から読んでいないと、登場人物や設定が分からないという側面があります。まさに小説と同じです。


 日記の書き手宛に、コメントを書き込むこともあります。ハンドルネームをつかっての関係ですが、フィードバックがあるとやっぱりうれしいものです。積極的にかかわることなく、ただ見守っているだけのサイトもあります。

 

「純文学なんておおげさだよ。しょせん、素人の日記じゃん」という意見もあるでしょう。でも、ブログ日記、つまりある種の純文学と、個人がノートなどに書いている日記との間には決定的な違いがあると思います。


 それは、ネット空間で公表されているという点です。公表されているために、個人的なメモや記録的な要素が弱まり、第三者の目を意識したうえでの「作為」や「演技」や「物語性」という要素が強まります。言い換えるなら、第三者に伝えようとする意思が、文章を書くスタイルに表れるということです。


「作為」「演技」「物語性」とは、「かつて純文学の規範とされた私小説と心境小説が排除しようとし排除し切れなかった要素」、つまり「言葉で書かれたものである、あらゆるテクスト=フィクションにこびりついている属性」です。こうしたややこしい話も、どうでもいいでしょう。

 

「純文学の復興運動」に疑問をお持ちになっている方は、これを機に、ぜひブログ日記を実際に読みになってみてはいかがでしょうか。多様な書き手がいます。さまざまな文章・文体・スタンスがあります。かつての私小説や心境小説を彷彿(ほうふつ)させる文章も少なくありません。


 ブログに限らず、ケータイや、ネットを介しての音楽配信、各種のビジネス、オークション、SNS、ツイッター、ネットゲームなど、ネット上の多岐にわたる新規な仕組みが、既存の仕組みを変えたり、場合によっては世の中の流れに大きな影響をおよぼしていることは、もはや動かせない、そして元に戻せない現実であり事実です。

 

 だから、権力・既存体制・既存権益の受益者たちは、本気でビビっているのです。危機感を募らせている権力はどのような態度を示すでしょうか? 手始めとしては、弱い者からいじめます。ほんの一例を挙げると、ケータイの校内への持ち込みや、校内での使用を「禁止する」という動きが見られます。これは放置しておくと、だんだんエスカレートしてさまざまな規制につながっていきます。怖いです。


 その一方で、権力の中には、ネットにすり寄ってくる者たちもいます。選挙でのブログの活用がいい例でしょう。あるいは、怪しげな集団に資金援助をしたり、手下を使ってのネット上での組織的な中傷戦略やプロパガンダという方法もありますね。これも怖いです。いろいろな意味でネットは恐ろしいです。

 

     *

 

 ありゃ、話が飛んでしまいました。ふるーい定義の「純文学」=「私小説」=「心境小説」の復興運動のお話をしていたのですね。


 最後に、ブログで日記を書いている方たちに対して、陰ながらエールを送らせてもらいます。

 

  かき回せ ネットの力で 世を変えよ

 

 (了)

 


 




奥付



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著者 : 星野廉
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