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背信

 

 デッキチェアで優雅に読書するはずだったのに、落ち着かない。
 早々と船旅に飽きた息子の心を捉えたのは優雅な身ごなしの青年で、
 にこやかに立ち話する二人をさりげなく監視せずにいられなかった。
 駆け出しのモデルか俳優の卵といった風情だが、
 どことなく残忍な気色けしきは何に由来するのだろう。
 結婚記念日と息子の誕生日が近いので、まとめてお祝いだと、
 この旅を計画したのは夫だったが、言い出しっぺが仕事に追われて、
 次の寄港地から乗り込む手筈になったので、それまでの間、
 私が一人であの子を守らなくてはならない。
 「お母さん、これ」
 駆け寄った息子が差し出したのはタロットカードの悪魔。
 意味は堕落、誘惑、破滅……。
 彼は息子を手懐けて私に取り入るつもりなのか。
 だが、背筋の悪寒は思いのほか快美で、罪の意識が頭をもたげた。

 

 悪夢に魘されて跳ね起きたら、息子が消えていた。
 パジャマの上にコートを羽織って客室を飛び出すと、
 風の中に重い水音が轟いた気がして足が竦んだ。
 「お母さん、どうしたの?」
 息子は眠れず、船内を探検していたと暢気に告げた。
 部屋へ戻れと命じて甲板に出ると、人だかりをすり抜けて去っていく青年の姿。
 いつ、どこから乗船したのか、何故、嘘をついたのか、
 手摺りの前に夫のものと思われる見慣れた革靴が片方、そこに添えられた悪魔のカード。
 今度は向きが逆、すると……表象されるのは「リセット」か。

 つまり、私の目を盗んで秘密の絆で結ばれていた男たちが、

 ここで関係を清算したのだ。

 


神輿(みこし)

 

 マスミは今日も遅刻ギリギリに登校したと思ったら保健室で寝ているらしい。
 様子を見に行くと、溶けかけの飴玉みたいな眼で少し熱があると言う。
 琺瑯ほうろうのビーカーに一本だけ立っているのは時代後れの水銀式体温計。
 もうすぐお祭だね……と、待ち侘びているのか、恐れているのか、
 視線の定まらない複雑な表情が、むしろこちらを不安にさせる。
 噂では、今年もこの学校から憑坐よりましが選ばれるとか。
 顔立ちの整った、声のきれいな子供が一人。
 体温計の先を腋窩にギュッと押し当てて脇を締めると、外すときはとても痛い、
 そんな益体もない言葉を、マスミは譫言のように呟いた。

 

 マスミが学校に来なくなって、教室では、病気で寝ているんだろうとか、
 準備が始まって隔離されたに違いないなどと、ヒソヒソ囁き交わされている。
 憑坐は潔斎し、宵宮にはうんと着飾って神輿みこしに載せられ、玄妙な音楽に包まれて巡行する。
 選ばれざる者には合の手を入れて付き従うことしか出来ない。

 

 祭の夜、ヴェールを被ったそいつ――

 化粧で素顔を塗り潰し、最早我々の幼馴染みではなくなった、あれは、

 輿こしに据えられ、人波を掻き分けて進んで行った。
 首飾りは緑色の細い蛇で、二匹が互いの尾を咥えて環を作っていたのだが、
 不意に一方が口を開け、鎌首をもたげたと見るや、振り払おうとした憑坐の指を咬んだ。
 目が合ったのは、その瞬間、憑きものが落ちて我に返った元のマスミで、
 白い手に血を滴らし、恐怖に眉根を引き攣らせ、「たすけて」と唇を震わせた。

 


虫媒

 

 瑠璃色、はなだ色、黄檗きはだ色……。
 宝石か、あるいはキャンディの薄片を象嵌したような美しい翅は、もう羽ばたかない。
 展示室が冷え冷えとしているのは、
 飴細工にも似た蝶の標本が溶けて崩れるのを防ぐためだろうか。
 「蝶がお好きなんですか?」
 「別に……」
 こんな場所でナンパかと溜め息混じりに振り仰いだ。
 仕立てのいい苔色のスーツを着た背の高い男は小腰を屈め、うっすら笑って、
 「随分長く熱心にご覧になっていた。そろそろお疲れでしょう」
 手振りでティールームへ行こうと誘いかける。
 暇潰しの相手としては充分、及第点を与えていい容貌なので、鷹揚に頷いてやった。
 窓際の小さなテーブルを挟んで向き合う。
 極度の甘党か、彼は紅茶にポンポン角砂糖を放り込んで掻き混ぜたものの、飽き足らないのか、

 私のパンケーキに添えられたハニーディスペンサーを食い入るように見つめていたが、

 呆れた目線に気づき、前のめりになっていた身を引いて咳払いした。
 彼が袖口の異物を認めて軽くはたくと、日差しを反射してきらめきながら舞い落ちた。
 それは金銀の鱗粉らしかったので、捕食者だろうか、

 異様に甘い飲み物はメインディッシュを平らげた後のデザート代わりだったのかと思ったが、

 違った。
 彼は席を立ちながら、
 「ご紹介したい方がいます。お待ちかねです」
 「ああ、そういうこと」
 悪い虫には違いないが、彼は橋渡し、取り持ち役だったのだ。

 


夜会

 

 子供の頃、叔母が、よく私の面倒を見てくれた。
 当時、叔母はいくつも習い事を掛け持ちしていたので、一緒に教室へ連れて行かれ、
 端っこにちょこんと座って見守る機会が多かった。
 だが、色褪せた記憶の映像の中に、再生する度に首を傾げたくなる箇所がある。
 華道でも茶道でも書道でもない、何の教室かわからないサロンの情景が残っているのだ。
 宵の口、着飾った若い女性たちが和室で談笑している。
 一際目を引くのは中央に座したショートボブの人で、
 黒地に大きく深紅の花が描かれた振袖を着ていた。
 「ユリエちゃん、これ美味しいわよ、召し上がって」
 そんな風に、にこやかに皿を差し出して勧めてくれるのだが、特に何が始まるわけでもない。
 先生と呼ばれる年配の男性がいたので、著述家か大学の教授でもあるのか、
 その人を囲んでいるのは教え子あるいは信奉者なのだろうけれども、
 そこで叔母がどのように振る舞っていたのか、見覚えがない。
 誰もが優しく、ちやほやしてくれたので、気分はよかったが、
 場の意味が把握できないことは私に不安を与え、居心地を悪くさせた。
 ベルベットのワンピースに菓子の細片がパラパラ零れて星屑のようだ……と、

 ぼんやり思っていたら、

 一同はガラスの盃で酒を酌み交わし始めた。
 デキャンタからゆっくり注がれる、とろみのある赤い液体は

 果して、ただのワインだったのか、どうか。

 

 その後、叔母は次第に忙しくなり、お琴だけは続けたいと言って、
 他のお稽古をすべてやめてしまった。

 


満願

 

 サキ伯母さんが訳あって知人の子供を預かったと聞いて会いに行った。伯母さんは結婚しないまま熟年に至った人だ。

 居間に、小学校三、四年生くらいの、おとなしそうな男の子がきちんと正座していた。親戚でもない、下手をすれば少し若い祖母くらいの年のおばさんとの二人暮らしには馴染めないのか、いかにも「ここは自分の居場所じゃない」という風情。
 彼が眠ってしまった後、
「本当はどこの子なの?」
「神社にお百度参りをして、叶ったんだよ。向こうから連れてきて、って」
 あれは昔の恋人の、伯母さんと出逢うずっと以前の少年時代の姿だという。当人にとっては未来へのタイムトラベル、家族にしてみれば神隠しの状態か。
「あたし、医者に余命宣告されちゃってさ」
 延命を望むより、いつかあの世で彼と再会させてくださいと訴えるより、もっと粋な計らいを願ったら、こうなったと言う。
 その時、彼が起き出してトイレに入ったのがわかった。寝室に戻りがてら、我々の前に顔を出して、
「『2001年宇宙の旅』って、まだ実現してなかったんだね」

 

 数日後、再び伯母の家を訪ねたら、彼はいなかった。来たときと同じように、昔も今も変わらない神社の巨木の、子供が一人入れる程度のうろから帰る……とか。

 駆けつけると、果たして彼は、そこにいた。気の毒に、帰還に失敗したらしく、物言わぬ骸と化していた。だが、それではタイムパラドックスが生じてしまう。伯母さんと彼は過去の時間の中で知り合う機会を失うことになるではないか。それとも神様の手違いで、別人が送り込まれたのか。

 

 ニュースは「少年の身元は不明。履いていた靴は昭和××年頃に流行し、現在は生産されていないモデルのスニーカー」だと告げていた。



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