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車から降り立った彼は、貴船は初めてだ、と、物珍しそうに真っ暗な杉林の中を眺め回していた。

「ここが噂の縁切り神社か」

「うん。そしてあの湧き水が縁切り水」

私は斎庭の隅にひっそりと水音を立てる蹲を指差した。彼は顔をしかめ、暗闇の中をその方向へ目を凝らす。

「へぇ、一切の悪縁を断ってくれるっていう伝説のあれか」

ここは貴船神社、結社。縁切りや縁結びで全国的に知られる神社だ。しかし社殿そのものは森深い山奥の小さな建物で、今みたいに真夜中だと、魑魅魍魎が出てきそうなくらい不気味だ。

人外の世界と化した森の中、私たちの懐中電灯だけが人間の存在を頼りなげに主調している。

「丑の刻参りってのも、こりゃ嘘じゃねぇな」

彼がぽそりと呟いた。貴船神社は、恋愛に纏わる数々の恨みつらみを引き受ける神社としても有名だ。小さな境内に、愛憎の詰まった絵馬や結び文が小山のように鈴なりになっている。

 


彼は絵馬の一つ一つに顔と懐中電灯を近づけては、大げさに声を上げ眉を顰めて見せる。

「なんか、怖いな。どの絵馬も」

「そう?ここに残っているのはまだ可愛い方だけれど」

「そうじゃなくてさ。何ていうか、情念?絵馬に書くほどの」

彼は懐中電灯を弄びながら絵馬を眺める。

「何年も同じ奴を恨み続けたり、こんなところまで来て神頼みするほど呪ったりさ。俺には無理」

こんなこと考える奴の気が知れないよ、と彼は肩をすくめた。

「そう?私解るなぁ」

神社の脇に留めた車から荷物を降ろしながら、私は返した。

「物凄い負のエネルギーを抱くときがあるのよ、自分で自分がわからないくらい」

彼はふぅん、と興味の無さそうな返事をすると、私の荷降ろしを手伝いに来てくれた。

「お前も見てみろよ、面白いよ」

「そんなの、珍しくなんかないよ。ここには前にも来たことがあるし、絵馬も見て回ったの」

「へぇ、気狂いの絵馬ってほんと変だしウケるよな」

「別に変でもないよ。私にだってそんな事考えたりするくらい、あるよ」

「マジで?やめろよ、怖いなぁ」

理解できないこと考えてる奴なんて怖いよ、と、彼は荷物を抱え降ろしながら呟いた。

「大丈夫、今はそんなこと考えないよ」

貴方が居るもの、と私は心の中で呟く。彼は私を地獄から解放してくれた。


「あの辺りくらいでいい?」

彼が社殿の裏、注連縄の張られた桂の巨木の後ろを指差した。私は黙って頷く。彼はシャベルを担ぐと、先行くぜ、と荷物を重そうに引きずっていった。私も手頃な一包みを抱えると、シャベルを持って彼の後を追う。

「でも、こういうの怖がるなんて意外だね。幽霊とか、全然信じないじゃない?」

「幽霊なんて存在しないだろ?だから怖くない。でも恨みってさ、存在するじゃん。人間の中に。でも目には見えない。それが怖いんだよ」

彼はざくりとシャベルを地面に突き立てながら答える。

「例えばさ、あそこにあった絵馬」

あの一番上に飾ってある奴、と彼は地面を見ながら続ける。

「あれさ、干支の絵馬が7年分、ずーっと同じ奴が、同じ人間を呪ってんだよ。ありえないだろ?」

私はシャベルを動かしながら、社の脇に吊るされた一組の絵馬を思い浮かべた。毎年違う図柄の干支の絵馬が7枚、ひっそりと並んでいる。一番古い寅の絵馬は半ば朽ち、色あせた寅と長い呪詛の言葉が綴られていた。

「7年てさ、長いぜ?俺、大学入った頃だもん。その頃から俺、大分変わったよ。7年前の自分なんて殆んど他人だしさ」

彼は深く掘った穴の中に、荷物を次々と放り込んでいく。

「多分あの絵馬書いた奴はさ、今年もまた来るぜ。そんで恨むんだよ、同じ相手のことを」

私は黙って彼の言葉に頷きながら、額を流れ始めた汗をぬぐいながら、穴の中に土を放り込んでいく。

「そんなに憎いなら、とっとと縁切り水でも使って楽になればいいんだよ。でも、そうはしねぇんだよな」

ま、たかが水で縁は切れねぇよな、と彼は嘯いた。彼の額も汗だくだ。縁など切りたければ、自分でやるしかない。彼が教えてくれたことだ。

「とにかく、そこまでただ恨み続けるだけなんて、俺にはできないな。気が狂うよ」

それほど恨む位なら、いっそ。


彼はおもむろに額の汗を拭うと、大きく息をついた。

「すっきりしたな」

彼はちらりと埋めたばかりの塚に目をやると、土仕事で汚れた手をぱんぱんと払った。あれだけ深かった穴はすっかり埋まり、湿った黒土が月光に鈍く照っている。

「すっかり汚れちゃったな」

水道水道、と辺りを見回し、そしてぱっと何か悪戯を思いついた子どものような顔になった。

「斎庭でさ、縁切り水で、手でも洗って帰ろうか」

そう言って、彼は笑顔で泥だらけの手を差し出した。私は微笑み返すと、やはり泥だらけの手で彼の手をしっかりと握った。 

 

 

----終劇----


この本の内容は以上です。


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