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今日子、これを作ってたのか?

 

台所を見ると汚れた行平鍋がガスコンロの上に乗っていた。鍋の中には瓶の中の汁と同じ液体が入っている。濃厚なワインとシナモンの匂いが漂ってくる。僕は瓶を握り締めた。まだほんのり温かい。作りたてのようだ。

 

何だか疲れて、台所の椅子に腰を下ろした。今日子に罪悪感が無い訳ではないが、罪悪感を感じること自体がしんどい。今日子はせめてもの置き土産のつもりで、僕の好物を作っていってくれたのだろう。その気持が嬉しくもあり、恨みがましいとも思う。

 

考えてみれば、今日子と暮らすようになってから4年も経っていたのだ。今日子は僕をとても愛してくれていたし、僕も今日子に優しく接していた。具体的な話が出なくとも、今日子は僕と結婚するものと信じていたに違いない。勘違いさせたことについては、僕は本当に悪いと思っている。

 

しかし、今日子にも悪い部分はある。今日子は献身的すぎる女だった。忙しいだろう看護婦の仕事を続けながら家事全般を取り回し、僕には疲れた顔一つ見せなかった。僕の帰りがどんなに遅くなろうとも、笑顔で僕を待っていてくれた。

我ながら勝手だとは思うが、今日子のそういうところが重荷だったのだ。

 

僕が今日子に隠れて麻奈と付き合いだしたのは、そういう理由もあった。

 


麻奈は今日子とは正反対だった。約束にはルーズですぐに拗ねるし、しょっちゅう逆ギレする。でも麻奈と居る時は、今日子と居るときとは違って寛いだ気分になった。

 

今日子は麻奈と遊んで遅くなった夜も、文句一つ言わずに笑顔で僕を出迎えた。僕が晩御飯は要らないとぶっきら棒に言った時も、少し悲しそうな顔をしただけで小言一つ言わなかった。それが僕を更に苛立たせた。

自分ばっかり聖母のような面しやがって。

 

あの夜、今日子が出て行った夜。今日子の誕生日だった。

今日子が珍しく「話があるから早く帰ってきて」とメールを送ってきた。帰宅すると、いつにない豪勢な料理が食卓に並べられ、ニコニコ顔の今日子が座っていた。僕がケーキ一つ、花束一つ持って帰ってこなかったことには、まるで気づかない様子だった。

 

「あのね英彦、実はね――」

 

今日子が笑顔で切り出した。

 

きた。

誰がお前みたいな、偽善者の女なんかと。

 

「ちょっと待ってくれ今日子、実は」

僕は先手を打つことにした。


僕が麻奈のことを捲くし立てると、今日子はじきに、普段の様子からは到底考えられないくらい暴れだした。獣のように泣き、喚き、暴れる。そんな今日子を見て、僕の心はどんどん冷静になっていった。思ったよりあっけないな、と思った。

 

そして今日子はそのまま、バッグだけ持って家を飛び出していった。それから一週間、さっきまで戻ってこなかったのだ。

 

心配じゃなかった、と言えば嘘になる。自殺でもされたら後味が悪い。今日子の携帯にメールや電話をし、共通の友人にも連絡をとってみたが、今日子の行方は分からなかった。

それがひょっこり帰ってきたかと思うと、またたちどころに居なくなってしまった。

 

ま、生きてたならいいか。

 

今日子はいい女だ。すぐに代わりの恋人も見つかるだろう。心配は要らない。

 

僕は手にしていた瓶を見た。この無花果はあまり日持ちがしない。作りたてのうちにさっさと食べてしまおうと、僕は蓋を開けて中身をつかみ出した。

 

ぱくん。

 

無花果は思いの外つるんとしており、僕は思わず一飲みにしてしまう。

 


最後の一つだからゆっくり味わって食べたかった、と、少し惜しい気持になりながら、僕は瓶を流しに片付けようと立ち上がった。

 

そういえば「返す」って何のことだ?

 

今日子が瓶を渡すときに発した不可解な言葉。一瞬疑問符が頭に浮かんだが、瓶を見てすぐに思い直す。この瓶は料理が好きな今日子に、僕が以前雑貨屋で買ってあげた物だ。そのことだろう。

僕は瓶を流しに置いた。

 

その時、不意に携帯が鳴った。

 

今日子の勤め先の産婦人科からだ。

 

ああ勤め先。そういえば今日子が居なくなったとき、勤め先への確認はしなかったな。

 

そんなことを考えながら電話を取る。

 

「はい、春日です」

電話の向こうの声は切羽詰っている。

「春日英彦さんですね?実は先日の、吉崎今日子さんの手術のことで――」

 

電話の声は早口で捲くし立てる。それを聞いているうちに、自分の顔から血の気がどんどん引いていくのが分かる。

 

僕は思わず流しの方を見た。まだ赤黒い汁の残った鍋も見た。

 

腹の中で無花果が動いた。

 

 

 

-終劇-


この本の内容は以上です。


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