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第四章 1~2


    第四章


    1

 

「本当なんです。俺は、長い間……刑務所に入っている間に……恨みは、消えた、んです……」
「でも、その言葉は、私にはちょっと信じられないです」
「本当……です。そりゃ最初は怒っていました。恨んでた、けど……」
 ブォーンと音を立てて削られた木の粉が舞い上がる。機械の反対側から押された板がスベスベになって出て来る。真次郎は山積みにされた中から次の木材を持ち上げ、機械の位置に合せて押していく。ギィーーン……と甲高い音を立てて木材が削られていく。
「……それは最初のうちは……余りにも、酷いと思って……何で、俺が、こんなところへ入らなきゃ、ならないんだ……と思って。怒って、ました。だか、ら刑務官の先生にも、反発して……」
 時空を超えて刑務所にいる真次郎が叫んでいる。
「だからそれはさっきアンタが先にやれって言ったんじゃないか!」
 若い刑務官の指示に従ってしたことを、年配の刑務官に咎められて、頭にきた真次郎は口答えをしている。
「何だと? お前そんな口のきき方して許されると思ってんのか?」
「口のきき方もくそもねえだろうが! そっちが間違ってんのに何で俺が悪いことになってんだよ!」
 ピィーッ! ピィーッ!
 年輩の刑務官が笛を吹くと、沸いて出た様にドカドカと四~五人のトッケイ(特別警備隊)と呼ばれる屈強な刑務官たちが雪崩れ込んで来る。そして四方から真次郎につかみ掛かってくる。
「何すんだよ! 俺が悪いのかよ!」
 トッケイたちは何も言わずに真次郎の手足を取り押さえていく。
「何で俺がやられんだよ! 何でだよ! 放せよ、止めろバカヤローッ!」
 他の受刑者たちは作業の手を止め、面白い見世物が始まったとでもいう様に遠巻きに見ている。
 トッケイたちは暴れる真次郎の手足を抑え込み、床に叩き伏せて無理やりに拘束服を着せていく。
「放せっ、放せこの野郎っ! アイタタタ……止めろーっ!」
 腕を袖に通させようとするのに抵抗すると関節を逆にねじられ、痛さに耐えられずに腕を通されてしまう。
「馬鹿だなぁ、反抗したって同じなのに……」と受刑者の誰かが呟くのが聞こえる。
 真次郎の右腕は肩の上から、左手は腰から背中に回され後ろで結ばれてしまう。
「うぉっ、うおっ! うお~~~~おおお……」
 こうなってしまうと、もうどんなにもがこうが暴れようが一切腕を解くことは出来ない。
 トッケーたちは両側から真次郎の身体を抱えると作業場から引き摺り出して行く。
 そのまま廊下を引き摺られ、懲罰房に連れて来られると、部屋の床へ叩き付けられる。
 ズザーン!
「ここで三日間頭冷やしてろ!」
 ガシャンと扉が閉められ、ガチャガチャと扉を施錠する音が響く。
 拘束服を着せられて床に転がされると、自分ではなかなか起き上がることが出来ない。
「ちくしょう~~っ、ちくしょう、ちくしょうっ……放せっ、放せ、うわあああ、ああああああーーーーーー!!!」
 どんなに叫んでも喚いても、耳を貸す者は誰もいない。それでも叫ばずにはおられない。叫ぶことで頭がどうにかなってしまえば良いと思う。このまま気が狂ってしまえば、訳が解らなくなってしまえば良いのにと思う。
「わあああああーーーーーひゃあああああーーーーー!!!!!!!!」
 どんなに叫び続けても、気は狂わない、正気を失うことはない。あるのはただ怒りだけである。
 真次郎には、その時のことが、その時の自分がハッキリと今頭に浮かんでいる。
 ……施設で嘱託医の川柳先生は、失われた記憶はもう二度と思い出せないと言ったけど、やっぱりまだあったじゃないか、頭の中に、俺の記憶が、まだちゃんと残っているじゃないか……。
 今真次郎の目にはありありと自分が閉じ込められている懲罰房の様子が見える。叩き付けられた床の臭いも、拭うことも出来ずに顔を流れる涙の感触も蘇えっている。
「……そんな風に、俺は……何度も懲罰房……へ、入れられて……いました……もう……悔しくて、悲しくて……叫んでも、叫んでも誰も……聞いてくれない……んです……俺じゃないのに、俺がやったんじゃないのに……悪いのは、麻里恵なのに……」
 そう話す真次郎の顔を、晴美は申し訳なくて堪らないという様子で見ている。沙奈も居た堪れない顔をしている。
「その、時は……俺が、こんな思いを……しているというのに、どうして……麻里恵の、ヤツは……本当のこと、を言わない……んだ。と思って……ました」
 そう言われて晴美はまた深く頭を下げる。
「ごめんなさい。本当にごめんなさい……」
 それから数日後に懲罰房から出された真次郎は、また作業場で木材を電気カンナ機に掛ける作業に戻っている。
「ちくしょう、ちくしょう、ちくしょう……なんで俺がこんな思いをしなきゃならないんだ。何で俺が、何で……」
 工場の脇にある食堂で、他の受刑者たちと昼食を食べながらブツブツ言っていると、隣に座っている顔見知りになった受刑者が訊ねてくる。
「おい兄弟、どうしたんだよ?」
「実は俺はなぁ、やってねぇんだよ。俺は自分がやってねぇのに罪を被せられて、身代わりになって捕まっちまったんだよ」
「あーそうだったのか、それじゃ俺と同じだな。俺だって悪いことなんてひとつもやってねぇんだぞ」
 その受刑者は真次郎の肩をバンと叩いて言う。
「そんじゃお互いに無実同志ってことで、仲良くしようじゃねぇか、なっ、ワッハハハハハハハ……」
 刑務官の先生たちは勿論、他の受刑者たちでさえも、真次郎が本当は殺人など犯していないのだということを信じてはくれない。皆真次郎のことを、自分の欲の為に人を殺した悪人だという目で見ている。誰に何を言っても無駄なのだ。
 余りの情けなさに、夜雑居房の中で他の受刑者たちと並んで布団にくるまりながら泣いている「うううう~」と嗚咽を漏らしていると「うるせえぞ! 黙って泣きやがれこのタコが!」と他の受刑者に怒鳴られる。

 どんなに頭にきても、理不尽な状況に怒りを燃やしても、何もどうにもならない。どうすることも出来ない。真次郎の気持ちは無視されている。そして生活や作業等、全てにおいて強制される日々だけが過ぎる。
 そうして真次郎の人生はどんどん無くなっていく。作業中に嫌気が差して、仏頂面をしているだけで「おい、一五七番、目付き悪いぞ、何か文句でもあるのか!」と刑務官に怒鳴られる。
 何か言い返せば、また屈強なトッケイたちが雪崩れ込んできて、あの拘束服を着せられ、地獄の三日間になる。だから文句はあっても何も口に出さない。
 嫌気が差すとかいうよりも、嫌気は常に差している。でもそれを他の誰にも表現してはならない。ここでは自分の思いを表すことは全て罰になるのだ。
 他の受刑者たち六~七人と共に過ごす舎房の中での生活は、起床、トイレ、食事、工場での作業、就寝など、全て時間がしっかり決められており、その各々について細かく規則ややり方も守らなければならない。
 自分の意にそぐわないことがあっても我慢しなければならないし、他の囚人たちとも上手く付き合っていかなければならない。
 ここでの真次郎は、あくまでも、人妻と駆け落ちをして、追って来た夫を殺害した罪人として振る舞わなければならない。
 嫌でも、納得がいかなくても仕方がない。作業も、生活も、全てが遣り込められて、遣り込められて、それでもまた遣り込められる。
 どんなに泣いても喚いても、何もどうにもなりはしない。そのことを思い知らされるだけ。それが真次郎にとって「この世」というものなのだ。
 同部屋の受刑者たちと硬い布団を並べて眠る。朝は一分と違わずに飛び起きて、素早い動きで布団を畳み、着替えから洗面とトイレを済ませる。全員扉に向って正座して並び、扉から覗く看守の点呼に答える。
 当番の受刑者が扉越しに配る朝食を受け取り、テーブルの上に並べて食べる。
 食事を済ませると舎房の扉が開かれ、受刑者たちは廊下に整列し、刑務官に番号をがなり立てる。刑務官が掛け声を掛け始める。
「行進~開始っ、ヒダリッ! ヒダリッ! ヒダリミギッ、ヒダリッ! ヒダリッ……」
 その掛け声に合わせて真次郎たちは足踏みをしながら両手を大きく振り、声を上げる。
「オイッチニィ! オイッチニィ! オイッチニィ! オイッチニィ……」
 そのまま前へ進み始め、一糸乱れぬ行進で工場へと向かう。
 その声は刑務所内のあちこちから立ち上がり、行進する足音と共に群衆の声が地鳴りの様な響きになり、刑務所内を覆い尽くしていく。
 そのまま行進して工場へ到着すると、舎房で着ている服から工場での作業着に着替えるのだが、その際看守たちの見守る中で素っ裸になり、両手の平を開いて振り、両足を持ち上げて足の裏を見せる。同時に大きく口を開いて舌を上下に出して見せる。身体の何処にも何も隠してはいないということを確認して貰うのだ。
 受刑者たちが「カンカン踊り」と呼んでいるこの儀式も、真次郎の自尊心を砕くのに大いに力を発揮する。毎日やっても決して慣れるということは無い。
 何も考えずに済ませてしまおうと思っても、全裸で両手を振り上げ、片足を上げて舌を出す瞬間にどうしても我に返ってしまう。
 だがそのことで真次郎には、まだ自分の中に消すことの出来ない悔しさが残っているのだということを確認させられるのだ。
 カンカン踊りは作業を終えて舎房着に着替える際にも行われる。つまり舎房から工場へ、工場から舎房へと何か武器になる様な物品の持ち込みを許さない為にされているのである。

 朝更衣室で作業着に着替えると作業場へ入り、自分の受け持ちの箇所へ行く。そして担当官の「作業開始!」の掛け声と共に機械のスイッチを入れる。
 受刑者たちは「オヤジさん」と呼んでいる全体の作業を指揮する担当刑務官の指示に従い、作業を分担している。
 作る製品によって、使用する材木を運んで来る者、材木の長さや厚みを揃えて加工する者、仕上がった材料で図面通りに組み立てる者、サンダーという機械で表面を滑らかに擦る者、塗料で塗装する者等、それぞれの受刑者がいろいろな作業を受け持っている。
 真次郎に割り振られている作業は電動ノコギリで長さや幅を揃えられた木材を電気カンナに掛けて厚みを揃える作業である。
 ブィーンと唸りを上げて作動する機械の盤面に位置を合せて木材を乗せ、そのまま位置がズレない様に真っ直ぐに押して行く。
 機械からスベスベになって出て来る木材を反対側で待っている受刑者が受け取っていく。
 キィーン……と甲高い音を立てて木材が削られていく。機械の横から噴き出された木の屑が空中に舞い散る。
 真次郎は作業をしながらどうにも小便が我慢出来なくなってしまい、作業を中断する。前で作業を見守っているオヤジさんに手を高々と上げ、大声で叫ぶ。
「願います、願いまーす!」
「よしっ、そこ!」
 とオヤジさんに指を差された真次郎は「用便願います!」と言ってオヤジさんの前へ走って行く。
 オヤジさんから渡される「使用中」と書かれた木札を持って便所へ行き、入口の上にその木札を下げて中へ入る。

 一二時になると昼食になる。作業の日は工場の脇にある食堂で昼食を食べる。休憩が終わるとまた作業に戻り、夕方作業が終わると舎房に戻って夕食を食べる。九時に就寝。そしてまた朝起きて、作業場に行き、夕方戻って飯喰って寝る……。
 土曜日の午後と日曜、祭日は作業は休みであり、舎房で本を読んだり同部屋の受刑者たちと囲碁や将棋も出来るのだが、この時間にも規則はしっかり働いているし、他の受刑者たちに気も遣わなければならず、自由は無い。
 くる日もくる日も作業して、少しでも点呼の時間に並ぶのに遅れたり、布団の畳み方が悪いだけでも刑務官に怒鳴られる。それでもまた我慢して作業に行く。
 受刑者たちには決められた時間にテレビを見ることくらいしか楽しみがなく、同部屋の受刑者同士は自分が犯した罪状等を互いに話して聞かせることが通例になっている。
 だが真次郎の場合には、自分がやっていない殺人のことを自分がしたこととして話さなければならない。
 それは苦痛で耐えられないことなのだが、話さないと仲間外れにされ、苛められることになってしまう。
 同じ舎房の刑期を終えた受刑者が出所して、新しい受刑者が入って来る度にそれは続く。
 そうして長い年月が過ぎて行く。それ等のことを真次郎は晴美と沙奈に訴える様に話していく。
「……それは、まるで……自分が、どんどん、無くなって、いく様でした……でも、そのうちに、怒っていることにも……疲れてしまい……もう、どうにでもなれという、気持ちに……なって、いきました……」
 最初のうちはいっそのこと発狂して何も解からなくなってしまえばいい等と思っていたのだが、そうはならないことが解り、やがて怒ることにも疲れてしまう。
 自殺も考えたが、他の受刑者もいる舎房では不可能なことは勿論、独居の懲罰房に入っても首を吊るせる様な紐状の物がない。
 工場での作業中に回転しているノコギリに首を突っ込むこと等も考えてみたが、作業中は前の高い場所からオヤジが受刑者たちの一挙手一投足に眼を光らせているし、衝動的にそれをやる様な勇気もない。
 そうしているうちに月日は流れ、どんなに嫌だと思っていたことにでも、繰り返していくうちに諦めが生じてくる。
 気力も萎えて、もうどうでもいいという感じになってくる。
 工場での作業には熟練し、嫌々ながらやっている生活にも慣れが生まれてくる。

 そんなある日刑務官から「お前には自分の犯した罪に対する後悔が全く感じられないんだよ」と言われる。
 それはそうだと思う。真次郎にしてみれば、反省するも何も、やっていないのだから。やっていないことを反省しろというのも無理な話ではないか。
 真次郎が長年勤めている間に、刑期を終えたり、仮釈放になった有期刑の受刑者が同じ舎房から出所して行く。
 真次郎の様に無期懲役の受刑者にも、仮釈放になる望みはあるのだが、真次郎の場合戦争で家族が全滅しているので、身元を引き受けてくれる者がいない。
 自分が犯した殺人の罪を、心から反省しているという態度をしているつもりでも、やはり本当に自分が殺した訳ではないので、反省している態度にも真実味が欠けてしまうのか、真次郎の服役態度が評価されて仮釈放の審査に登るということも無い。
 勿論面会に来る者などはいないし、手紙をくれる者もいない。真次郎にはこの理不尽を受け入れて平静を保っていることだけで精一杯である。
「……もう、何を訴えても、何を思っても無駄なのだ……と思いました。しかし……俺がここにいなければならないということは、これは一体何なのだ? これは……神様に強いられた一生の懺悔なのか……と思う様になりました……ねぇ神様、これが、俺がしてきたことへの、報いだって……いうんですか? って問いかけたり、しました……」
 真次郎はそんな風に考えていた。それが本当にそうなのかどうかは解からない、でもその時の真次郎にとっては、自分の生涯の意味とは何なのかと問われれば、何かを償う為だけにあるのだという様にしか答えられない。

 まるで映画の場面が変わる様に、真次郎の中で記憶の場面が変わっていく。
 その日真次郎は工場の脇にある食堂で他の囚人たちと昼食を食べている。献立はカレーライスで、皆がガツガツと食べている音が響いている。
 食べ終わるとテーブルの隅に食器を集め、皿や器などを同じ種類の食器ごとに重ねて整理しておく。
 その日は配膳の係になっている真次郎は、各テーブルごとにまとめられている食器を集め、炊事場の流しへ持って行き、水を出して洗い始める。
 食器を洗いながらふとステンレス製のスプーンに目を止める。真次郎は自殺を考えていた時に、ナイフか包丁があれば手首が切れるのにと思っていた。
 工場の食堂で使う食器はナイフやホーク等、先端が尖って武器になりそうな物は使われない。だがカレーの時に使うスプーンはステンレス製である。コレを削って先端を鋭利に尖らせることが出来れば、手首を切ることも出来るのではないだろうか。
 顔を上げると流しの前の窓から外のグラウンドが見える。運動の時間に並んで体操をしたり、野球をしたりするところである。
 もしこの窓からスプーンを放り投げておいて、その場所を覚えておけば、運動の時間に何気なく拾って服の中に隠し、舎房へ持ち込むことが出来るかもしれない。
 刑務所では全てが規則でがんじがらめにされており、自分の自由になることは何もない。でも何かひとつでもいい、誰にもバレずに規則違反なことをしてやりたい……。
 それがあれば自殺出来るかもしれない、ということもそうだったが、最初の動機はそんなところだった。
 でもスプーンのことは、麻里恵に突き刺すまでは晴美と沙奈には隠しておかなければならないので、思い出してもこの件は口に出さないでおく。
 舎房と工場との行き来には例の「カンカン踊り」があって工場で使う工具や木材の切れ端でも舎房へ持ち込むことは不可能だと思われる。
 真次郎は次の運動の時間に、グラウンドでブラブラ歩きながら何気なく工場に併設された食堂の側を通り、炊事場の窓の位置を確かめておく。
 ……あそこが食堂の窓だから、この辺の草むらにスプーンを投げることが出来れば、運動の時間に拾うことが出来るかもしれない。
 そして真次郎はその計画を実行し、まんまと一本のスプーンを舎房に持ち込むことに成功する。
 だが、舎房の布団の中に隠しておいたスプーンが、工場の作業に出ている間に抜き打ちで行われた巡検で刑務官に見つかってしまい、真次郎は七日間懲罰房へ入れられ、同じ舎房の受刑者たちも共同責任ということで一ヶ月間テレビの視聴を禁止されてしまった。
 懲罰が終わり、舎房へ戻っても、暫く他の受刑者たちは口もきいてくれない。

 真次郎は晴美と沙奈にはスプーンの件を飛ばして、刑務所での生活について話を続ける。
「……刑務所は……冬は、ストーブも無くて、寒いの……なんのって、いつも、ガタガタ、震えて……いまし、た……それに夏は暑くて、何も、しなくても、舎房に、いるだけで……汗が、ダラダラ、流れて……息を、するの……も、苦しい、くらい……」
 真次郎の脳裏に走馬灯の様に刑務所で過ごした日々が映し出される。
 秋の運動会でリレーの選手になり、走っている自分。お正月の豪華な食事は沢山のお菓子もついて嬉しかったこと。規則違反をせずにいれば月に一回見られる映画鑑賞会のこと。その時に見た映画のシーンさえ脳裏に再現される。
 それ等のことを淡々と晴美と沙奈に話していく。しかし、本当の意志を悟られてはならないので、本当に自分が最早麻里恵のことを恨んでなどいないと信じさせる為に、話してもいいことや、内容を脚色しながら話の筋を作っていく。
 四五年間いた刑務所の中で唯一、真次郎が本当は殺人犯ではないという話を「そうかい、俺は信じるぜ」と、信じたフリをしてくれた受刑者がいた。
「……あの人は……確か傷害罪で……懲役、六年だったかな、今頃はどうしているだろう……」
 同じ舎房で仮釈放になる受刑者に、他の受刑者が外で待っている自分の家族を訪ねて貰うことを頼んだり、ささやかなお祝いをしたりしている。真次郎だけは一人離れて、羨望を噛みしめている。
「……そうして、俺の時間は……無くなって、行きました……四十代を過ぎて、五十代になっても……六十代も……俺の、人生は全部……刑務所の中、だけでした」

 刑務所では、それが嫌でも、とうに飽きてしまっているということでも、他のことがしたいと思っても、それは意味のないことである。
 刑務官にやれと言われたことをする。どんなに自分の意に反することを命令されても、逆らえない。あるのはただ我慢だけ。刑務所にいることは、我慢すること。我慢して、我慢して、ただ日々だけが淡々と過ぎる。
 全ての屈辱に耐えた。いや、もう屈辱ということにさえ感心がなくなるくらい、自分を捨て去らなければ、ここでの暮しを続けて行くことは出来ない。
 そうした生活を送って行くに連れて、いつしか無意識のうちに気持ちの変遷が起きてくる。
「毎日……俺は我慢して……働いて、気を遣って、怒られない、ようにしました……飯を喰って、風呂に入って、寝る……それだけです。でも……それは、世間で……普通に暮らして、いる人だって……仕事を、していれば……同じ様に、少なからず……あることなんじゃ、ないか……と、思う様に、なり……ました」
 理不尽にも慣れた生活を送っていくにつけ、きっと人が生きるのは刑務所の中も外もそう変わりはないんだと、真次郎は自分に思わせてしまおうと思う。
 ……そうさ、人の生きるとは概ねこういうことなのだ。
「……俺は、もう……何かを考える、ということを……止めること、に……しました。だって……何を考えても、何も変わらない……考えても無駄なんです。俺は……ただの、機械の様になって、思ったり、考えたりすることは、もう止めよう……と思い、ました」

 そうして絶望することにも慣れてしまうと、気持ちは大分楽になったのだが、それでも時間は有り余る程ある。考えまいとしても思考が勝手に動いてしまう。そうして真次郎は、今度は落ち着いて今までに自分のして来たことを振り返る様になる。
「……それは、何故、自分は……こんな状況に、なってしまったのだろう……ということでした。そりゃ……マリのことを、憎んではいるけれど……マリと、俺との、経緯を……順を追って、思い返してみると……幼い、頃に出会って……戦争から、戻って、また、会って、愛し合って……ああ、楽しかったな、あの頃は……」
 話を聞きながら、沙奈はハンカチで目を拭う。
「そして……それから、俺が……マリ、にしたこと……を、考える、と……マリが、谷本さん……を刺す、原因を作ったのは、俺だったんじゃ、ないのか……という、考えに……行き当たり、ました。実際に、包丁を、刺したのは、マリだった……とはいえ、俺が、殺させたのも……同然だったのでは、ないか……という考えが、浮かびました……」
 晴美も食い入る様に真次郎を見つめている。
「……いや、そんなことはない……とも思う。でも……そうすると、また自分の中に……激しい、苦しみが……生まれるので、それよりは……俺も、悪かったじゃないか……と思った方が……心が楽になる気がして……俺は、少しでも……楽になりたかった、から……」
 話しながら気が付くと、真次郎はいつの間にか左手を宙に上げている。それを晴美がしっかりと両手で包み込む。
「……そうだよ、俺が……マリの人生を……狂わせちまった……んだから。夫を、殺させたのは……俺だということも……出来るじゃないか……だから、俺が、こうして服役、しているのも……まんざら的を得てないとは……いえなんだ……そうだ、そうだ……」
 だがそれは、自分の中に渦巻く恨みの苦しさを少しでも軽くする為に、自分を納得させなければいられないことから生み出した、自分を騙してでも生きて行く為の手段だったのかもしれない。
 それを続けているうちに、思い込みにしろどうにか自分が刑務所に入っているのは当然のことなのだという気持ちを作り出すことが出来る様になっていった。
「……だって、そうとでも、思わなければ……あんな、理不尽な所で……生きて行く、ことなんて……出来なかった……そうだ。そもそもマリに、谷本さんを殺させたのは、俺なんだ……から、俺が谷本さんを殺したのも……同然なんだから……俺が、こうして、刑務所に……入っているのも、当然のことなんだろう……と、思う様に、なり……ました」
 晴美の目から涙がポロポロとこぼれ、それは握られている真次郎の左手に滴り落ちる。
 そうして長い年月を経て行くに連れ、真次郎が当初言っていた「何で俺が……」という呟きがいつしか「これで良かったのか、こうなるのが自然の流れだったのか?」という呟きになり。それが更には「こうなるべくしてなったのだ……」という呟きに変化していく。
 そして気が付くと「これでいいんだ、これでいいんだ……」と呟きながら作業している途端に「おい、一五七番、ブツブツ言うのやめろ!」とオヤジさんに怒鳴られる。
 いつしかそれは、何故とか、どうしてその言葉を言い始めたのか、という理由を離れて、ただ今この瞬間に、こうしている自分を肯定する為の呪文として定着していった「これでいいんだ……これでいいんだ……」ただその言葉を繰り返すことで、真次郎は日々をやり過ごして行くことが出来ているのだ。

 そんな風に少しでも麻里恵のことを許そうという気持ちが芽生えてくると、優しかった麻里恵との、楽しかった日々のことが思い出される。
 東京での日々。ドアを開けると神戸から逃げて来た麻里恵が立っていたあの光景「私、来ちゃった」と笑って言った顔。
 夕暮れの商店街を歩いて銭湯へ行き、帰りにラーメン屋で二人で丼を交換しながらラーメンを啜ったあの時……ああ、あのラーメンは美味かったな……。
 刑務所に入るまでに真次郎はいろんな女とセックスをしたけれど、それは皆風俗店のプロやホステス等の水商売の女ばかりだった。本当に心も繋がっていると思ったのは麻里恵の身体だけだった。
 一番フィットして、お互いのツボを心得ていた。あの壮絶に混じり合った感覚を、今も全身で思い出すことが出来る「ああ、マリっ……」真次郎は麻里恵とのことを思い浮かべては舎房の硬い布団の中で自慰行為をするようになり、麻里恵が恋しい存在になってくる。
 ……ああ、可愛いマリ、俺だけのマリ、大好きだったよ……でも、もうそんなこと言っても信じてくれないだろうね。俺はお前を傷つけたんだから……。
「……でも……正直に、言うと……刑務所で、嫌なことがあったり……自分には、絶対にない……仮釈放を、して行く……他の受刑者を……見たりすると、忘れていた……怒りが、一気に、ぶり返してしまう……ことも、ありました……」
 ……マリ! ちくしょう! あの女めぇ~! 半分は俺がアイツをそこまで追い詰めてしまったのが悪いのだから、俺にも責任があるのは解る。だけど、やってもいない罪を被って何故俺が刑務所に入らなければならないんだ!
 その考えが戻ってしまった時には、逃れられない逆上に襲われる。それは地獄の苦しみだった。
「……作業していて……抑えられない……怒り、が込み上げて、自分の、手を……動いてる機械に……突っ込んで……」
 ……あれは、刑務所に入ってから十年は経った頃だったろうか、もう四十代も半ばを過ぎて、五十に近くなった頃、絶望も諦めになって、一度は何も考えずに生活出来る様になっていたのに。ある日いきなりぶり返した怒りに耐え切れずに、やってしまった……。
「ぎゃあーーー!!」
 痛みに叫び声を上げて手を引き出すと、血まみれになり、小指が落ちそうになっている。
「大変です、オヤジさん! 相沢さんが、大怪我です!」作業していた受刑者たちが集まり、真次郎は腕を抑えて蹲ってしまう。
 真次郎は包み込んでいた晴美の手を振り解いて、左手で右腕を持ち上げて見せる。今もその傷跡が小指の付け根から手首にかけて伸びている。
「……コレ、が、その時の、傷です……」
 と言って晴美と沙奈に見せる。
 ……そうだ。俺が、またスプーンを盗んだのは、そのことがあってからだった。
 真次郎は思い出す。また工場の食堂で炊事当番になった時、何年か前にやったのと同じ方法で、またスプーンを盗んだのだ。そして今度は、作業中の巡検でも見つからない様に、舎房での隠し場所を変えた。
 それは便所だった。前々から考えて、便所の中の板壁の一部を取り外せる様にしておいた。スプーンはその中に隠しておく。舎房の便所は上がガラス張りになっていて、用を足している最中も上半身は外から見える様になっている。
 真次郎は自分が用を足す時の、ほんの短い間だけそこからスプーンを取り出して、誰にも見えない様に足元の水が流れるパイプに擦り付けて先端を削ることにする。
 その為になるだけ大便をしに行くのをゆっくり入っていられる夕食後の余暇時間にすることにし、それでもせいぜい十分間くらいの間だけ、それも音がしない様にゆっくりとパイプに擦り付けていく。
 一度に削れるのはほんの僅かにすぎないだろうが、それでも毎回やっていれば少しずつでも削れてはいるだろう……何しろこれから何十年も先まで時間はあるのだから。
 今回真次郎にそれをさせているのは、自分の首や手首を切ろうということではなく、いつか麻里恵の胸にこのスプーンを突き刺してやろう。という思いだった。
 それを使って将来現実にここを出て麻里恵のところへ行き、突き刺せる日が来るなどとはとても思えない。だがそれでもその作業をやらずにはおれないのだ。
 そうすることで、ここで地獄の様に麻里恵を恨んでいる苦しみから少しでも逃れることが出来るのだ。
 ……例え何十年か先にでも、いつかコレで麻里恵の胸を刺し貫く時が来るかもしれない。
 一度の用便で削れるのが例え一ミリの何十分の一かだとしても、俺はコレを続けることで、その日に近付いているのだ……俺はきっといつかここを出て、麻里恵に復讐してやるのだ。
 真次郎はそのスプーンを尖らせて、麻里恵の胸に突き刺す瞬間のことをイメージして自分を慰める。毎日根気良く地道に削り、スプーンに思いを託していく。
 ……いつか必ず麻里恵を殺してやる! 絶対にやってやる! 返せ! 返せ! 俺を返してくれ!
 そうして同じ舎房の受刑者たちにも知られることなく、便所でスプーンを削り、心が落ち着いてくるとまた「やっぱり俺も悪かったんだ」という反省に戻る……そんな堂々巡りを繰り返しながら、ただ日々だけが過ぎて行く。

「……それから、何十年も、年月が、進んで行くに、連れて、俺は……思うように、なった……んです。あの時、マリは、晴美ちゃん、を家に置いて来たこと……を悪いと……晴美がきっと、寂しい、思いを……しているから……可哀相と言って、泣いてた……だから。今度は、俺に、罪を被せて……しまった、こと……を悪いと、思って、泣いて、るんじゃないか……って」
 晴美は再び真次郎の左手を握る。
「……マリは、一度も、手紙、もくれなかった……けど、でも俺に、は、マリの、気持ち……が、ちゃんと、解かって、いた……」
 それは長い刑務所生活を強いられる中で、真次郎の心が作り出した幻想だったのかもしれない。それは刑務所で生活する真次郎にとって、初めて見出した救いだった。その確信が、真次郎の刑務所での日々の支えになっていった。
 晴美がまたボロボロと涙を流しながら、ウンウンと大きく首を振って頷く。
「そうですよ相沢さん。その通りです。母さんは、本当に、毎日の様に、貴方に悪いことしたって、泣いていましたよ」
 それを聞いて、黙っていた沙奈が口を開く。
「でもそれじゃなんでお祖母ちゃんは本当のこと警察に言おうとしなかったの?」
「だからそれは私が行かせなかったからだよ。私がね、お母さんに頼んで、もう警察には行かないでくれって頼んだんだよ」
「……」
「もう……いいんです、よ晴美さん……俺には、分かる。マリは昔から……泣きべそだったから、今もきっと、自分の罪から……逃れることが、出来ないで。俺のこと、忘れること、も出来ないで……泣いているに、違いない……って思って、ました……」
 その時は本当に、そうだ、きっとそうに違いないと思っていた。何よりもそう思うことは自分の慰めになった。
 木材を電気カンナに掛けながら思っていた……今この瞬間も、アイツはきっと泣いているに違いない。ざまぁみやがれ。それでも俺の苦しみに比べたら屁でもないだろうが、あの女は、俺の為に一生泣いて暮らしていればいいんだ!
 ……そうさ、麻里恵は俺がいなければ何も出来ない、卑怯で弱い女なのだから……。
 そんな風に憎んだり、恨んだり、許したり、そしてまた怒ったり、長い長い刑務所の暮らしの中で、真次郎の麻里恵に対する感情は変化していく。
 いずれにしても服役中の四五年間、真次郎は片時も麻里恵のことを忘れたことはない。
 そして麻里恵もきっと俺のことを忘れたことはないだろう。と思っていた。真次郎を自分の身代わりにしてしまった罪の意識に苛まれていることも分かっていた。
 かと言って麻里恵は自分で名乗り出る勇気もなく、本当のことを言って警察に行く勇気なんてある訳もない。そんな卑怯な自分を持て余して、結局は泣くことしか出来ないのだ。
 罪を被っている俺に甘んじることでしか生きて行けずに、毎日泣いているに違いないのだ。
「……俺には……マリの、気持ち、が……手に取る様に、分かってました。マリは、そういう……女なんです。俺は……よく知ってる」
 そんな風に思っている間は、ここにいなければならない虚しさから逃れることが出来る。
 だが、暫くはそんな風に思って日々を過ごしても、またふと麻里恵は本当に泣いているのか……という疑問が沸き上がってしまう時も来る。
 ……もしかしたら全くの平気の平左で晴美ちゃんと楽しく笑って暮らしてるんじゃないだろうか……と思うとまたはらわたが煮えくり返り、激しい殺意が沸き上がってくる。
 ……でも今はもう憎しみに包まれてしまう時のことは話さずにいよう。許した時のことだけを話して、そして本当に俺が許していると思い込ませて、そして何とか麻里恵のいる病室まで連れて行って貰わなければ、施設から持って来たあのスプーンを持って……。
「……俺は、思う様に、なり、ました……どれだけ、離れたところにいて……何十年も、会うことが……出来なくても、俺は……マリと、一心同体なんだ、と……俺が、マリをよく、知っている様に……マリも、俺のことを、よく知ってる……俺たちは、今こうしている間にも……心が通じてるんだと、そう……思って、いました……」
 それは本当に思っていたことだった。小学生の時、苛めてた頃と変わっていない。麻里恵は優しい女だから。今も俺のことを思って泣いている。と思っていた。
 ……あの女は、罪の意識はあっても名乗り出ることは出来ない。卑怯な女、いや卑怯といっては可哀そうか、弱い女なんだ、アハハハハハ……。
 ……麻里恵は俺のことが大好きなのに、俺しか頼る者がいないのに、俺が背を向けたことが許せないんだ。今だって自分を蔑ろにした俺に振り向いて欲しいから、俺に甘えて罪を被せてるんだ。ならばお前の望み通りに、酷い目に遭ってやろうじゃねぇか。お前を苦しめた仕返しにこんな目に遭っているのだという苦しみを、存分に味わってやろうじゃねぇか……。
 そして俺はきっと、いつかきっとここを出て、このスプーンを持って、麻里恵に会いに行くんだ……それが俺の、生きる目標になっていた。
 最後に、もう真次郎が麻里恵を恨んでいないことを晴美と沙奈に信じさせる為に、真次郎は頭で作った文章をこう話す。
「ようやく俺は……自分が刑務所に、入ってる意味が、解るようになった……んです。それは……俺が身代わりに、なってやることで……麻里恵、の罪を償い、麻里恵を守ることになっている……同時にそれが、自分の……麻里恵に犯した罪の、罪滅ぼしなんだ……ということを」
 それは確かに今考えて二人を騙す為に作った言葉ではあるが、自分の言っていることは嘘なのか、服役中に本当に思っていたことなのか、頭の中が混乱してくる。
 不意に起きた混乱に戸惑って考えてみると、昨夜夜中に施設を脱走して来たので、毎朝飲んでいた川柳先生の処方した薬を今朝は飲んでいない。
 麻里恵の代わりに刑務所に入れられたのだという事実を聞いた衝撃で一挙に明晰になっていた頭に、また少しずつ霞が掛かってきた様な気がする。
 ……あの薬の効き目が無くなってきているのだ。
 急がなければならない、このまままた何も解からない元の状態に戻ってしまっては、ここまで遥々やって来た目的をやり損なってしまう。真次郎にとって、それは生涯を賭けた目的なのだ。
 コレを絶対にやり遂げなければ、俺の人生は報われない。でなければ、台無しにされた俺の人生が可哀相過ぎるじゃないか……。
 必死になって真次郎は晴美に訴える。
「……俺が、マリに谷本さんを……殺させたような、ものだから……マリの代わりに……服役することで、俺は自分の、生きる道を……通したことになるんだと、弱いマリが、こんな辛い、刑務所生活を……勤められる訳も……ないのだから。麻里恵の、身代わりに……なり、責任を取った……ということが、自分の人生だと……思うように……なった。んです。それ……が人生、の目的……となり、服役生活……を真面目に……勤め、る……こと、が出来るよう、に……なった、んです」
 晴美は涙を拭いながら話に聴き入っている。
「……そうこう、しているうちに……年月は流れて、やがて……俺は、作業中に脳梗塞、になって……半身麻痺に、なりました。医療刑務所……に移されて、そこで頭がボケて……気が、付いたら……あの施設に、いたんです……マリは、自分の夫を、殺して……その罪を……俺に被せて、俺が、服役してる……ということに、毎日……怯えて、泣いてたに違いない……んだ。それを、許してやれる……のは、俺だけ……なんです。だから……今すぐに……許しに、行って、やりたい……んです」
 晴美は泣きながらウンウンと頷く。そして「はい、はい解りました……」と言う。
 ……よし、もう大丈夫だ。あと一押しで、きっと麻里恵に会うことが出来る。
「俺……はもう、全然……マリ、を恨んでない……マリ、はきっ……と、俺、を……身代わり、にしたこと……に今も、心を、痛めている……だから。俺はもう……怒ってないと、言って……やりたい……そもそも……俺が悪かったんだ……って、謝って……やりたい……許して、やりたい……」
 ……殺してやる、殺してやる! 麻里恵よ、待っていろ、今になってまさか俺がやって来るなんて思いもしていなかったろう。
 今俺が遂に、こんな身体になってでも、お前に恨みを晴らしに行ってやるからな……。

 

    2

 

「ウワァー……」
 真次郎の話に聴き入っていた晴美は泣き崩れる。
「……本当ですか……本当ですか相沢さん……私は、貴方になんとお詫びすればいいのか……私の方こそ本当に取り返しのつかないことをしてしまいました。ごめんなさい、ごめんなさい~それに私は貴方が旅館に来た時……殺してしまおうとしたんですよ」
 晴美の言葉を打ち消す様に真次郎は激しく顔を横に振る。
「いいんです……もう、いいんですよ……それは、許してます……そうしようとした、貴方の、気持ちも……解ります。俺は、全部、許して、るんです……」
「ごめんなさい……それに……ありがとうございます。貴方には、本当に申し訳ないことをしました。決して許して貰えることではないけれど、取り返しがつかないことだと思いますけど、それでも、許して下さると言うんですね……」
「はい……」
「私はねぇ相沢さん。母のことが可哀相でした。あの時、母が私を置いて貴方の所へ逃げて行ってしまった時、そりゃ悲しかったけど、でもそれまでずっと母が父に殴られるのを見てましたから。逃げたのも仕方ないと思いました」
 解かる解かると言う様に、真次郎も頷いて見せる。
「でもねぇ相沢さん。貴方は覚えていないみたいだけれど、私はもうひとつ、貴方に打ち明けなければならない事があるんですよ……」
「……えっ?」
 ……まだ何か、俺が思い出していない事があるというのか……もうこれ以上他に何があるというんだ……。
「打ち明ける事って、何よお母さん」
「実はね相沢さん。私の母が連れ戻しに来た父を刺してしまったのは、最初に父が母を連れ戻しに行った時じゃなかったのよ」
「……」
「……えっ? 最初にって、どういうこと?」と沙奈が訊ねる。
「だからね、お母さんは、その前に一度お父さんに実家へ連れ戻されてたのよ、その時は私は東京に行っていないの。お父さんがひとりで行ったの」
 ……真次郎の脳裏で記憶が混乱してくる。映し出されている映像では、麻里恵が連れ戻しに来た谷本に杖で殴られている。真次郎が止めろというのも聞かずに、振り上げてはバシバシと何度も杖を降り降ろし、背中と言わず頭と言わず殴っていく。
「やめて下さい谷本さん! もういいですから、もう連れて帰って良いですから、お願いですからもうそれくらいにして……」
 と言う真次郎に谷本が振り返り、ギロリと睨む。
「連れて帰っていいだと? お前は人の女房を盗んでおいて、お前に良いなんて言われる筋合いはないわい!」
 と言って真次郎に向って杖を振り下ろす。狭い部屋の中で真次郎は身体を交わして逃げる。谷本は足が不自由なので思う様に杖を当てることが出来ず、部屋の中をガンガン叩いて壁や襖に穴を開けていく。
 ……そうだ。確かに、その時の光景には、晴美ちゃんがいない。
 谷本がビュンビュン杖を振り回すので、どんなに避けても身体に杖が当たってしまう。谷本は思う様に歩けないのだから、部屋にある卓袱台や座布団を投げ付けたり、隙を突いて足をなぎ払ったりすればいいということは解かっていても、真次郎にはそれが出来ない。
 それは自分に非があることは勿論なのだが、この場を我慢すれば、麻里恵と別れることが出来ると思ったからだった。
  それと今思えば、自分は戦争から無事に帰って来たのに、重大な怪我をして帰って来た谷本を気の毒だと思う気持ちも少しはあって、反抗する気を失っていたのかもしれない。
 そしてこうなってしまっては麻里恵も観念して夫の元に帰るしかないだろうと思っている。それが一番良いのだと思う。
「真次郎さん! 真次郎さん、助けて!」
「……ごめんな、マリ。俺たち、やっぱり無理だったんだよ。ご主人は本当にお前のことを心配して来て下さってるんだから、やっぱりご主人のところに帰るのが一番なんだよ」
「そんな……嫌だぁ、私、嫌だぁ~」
「黙れ! 黙れぇ~っ!」
 谷本は逆上して尚一層の力を込めて麻里恵の身体を杖で叩く。
 ひとしきり暴れてしまうと、谷本は顔や手から血を流している麻里恵を、杖で追い立てる様にして外へ出そうとする。
「……嫌よ、嫌だよ真次郎さん……ねぇ、お願い連れて行かせないでよ、ねぇお願いだから~」
 真次郎は黙って見ている。
 谷本は麻里恵をバシバシと叩いてドアへ追い立てる。そして遂に外に出すとバーンとドアを閉めてしまう。
 ……確かに、この時麻里恵は、谷本のことを刺したりせずに、連れ戻されて行った。そして晴美ちゃんもそこにはいない……。
 晴美の話は続く。
「それでね、神戸まで連れ戻されて二週間くらい経った時、また相沢さんのところへ逃げたのよ、その時は私を連れて……」
「どういうこと? だってもう、お祖母ちゃんは相沢さんに捨てられてたんでしょう?」
「だからね、もう一度相沢さんの所に行って、関係をやり直して下さいってお願いしようって、私がお祖母ちゃんに言ったのよ」
「お母さんが? またお祖母ちゃんと一緒に相沢さんのとこへ逃げようって言ったの? どうしてそんなこと言ったの?」
「そりゃお祖母ちゃんが可哀相だったからだよ。お祖母ちゃんはね、相沢さんのところから連れ戻されてから、部屋に閉じ込められて、毎日お祖父ちゃんから酷く殴られて、可哀相で見ていられなかったんだよ。それに私も、もうこんなお父さんとは一緒にいたくないって思ったんだよ」
「それで? 一緒に逃げたの?」
「そうだよ」
「それでどうなったの?」
「だからそれで……」
 と言って晴美は真次郎を見る。真次郎の脳裏に、今まで再生されていなかった映像の断片がフラッシュの様に映し出されてくる。
 谷本に暴れられて壁や襖に穴が開いたままの六畳間で、麻里恵と中学生の晴美が真次郎の前に座っている。
「……何でまた逃げて来たりしたんだよ。折角元に戻ったのに、今度は晴美ちゃんまで連れて来やがって、何考えてんだ?」
 それは夜が明けたばかりの早朝で、まだ真次郎は布団の上で寝間着姿である。
 麻里恵の顔は、あの後更に谷本から酷く殴られた痕が見て取れる。目の上や唇が腫れ上がり、見ているだけで哀れである。
 その時真次郎はこう思っている。……やっと麻里恵と縁が切れたと思っていたのに、今度は晴美ちゃんまで連れて戻ってくるなんて……厄介なことになっちまったな……。
「また戻って来たりして、俺にどうしろって言うんだ?」
「お願いします。助けて下さい……」
「助けてって言われてもなぁ……」
「……」
 黙っている麻里恵の横で、晴美がおもむろに鞄の中から取り出した物を見て、真次郎は眼を見張る。
 それは札束である。輪ゴムで縛られた一万円札の束。それを晴美は鞄から取り出して、畳の上に置く。一つ、二つ……百万円の束が二つで二百万円。
 真次郎はゴクリと唾を飲み込む。
「ど、どうしたんだい? この金は?」
「は、晴美!」
 麻里恵も驚いている。どうやら麻里恵も晴美がこんな大金を鞄に入れていたことを知らなかったらしい。
 驚いている真次郎と麻里恵を余所に晴美はまるで落ち着き払った様子で答える。
「これは、私が家の金庫から持って来ました」
「家の金庫って?」
 と思わず真次郎は身を乗り出す。
「お父さんが、家の中に隠してる金庫です。大阪の闇市で稼いでた頃に、税務署にも届けてないお金だから、金庫に入れて隠してたんです。私はその場所を知ってたから、ダイアルの番号が書いてある紙もこっそり見つけて、覚えたんです」
「そんな、それじゃこのことはお父さんは?」
「勿論知りません」
「そんな! なんてこと!」
 と麻里恵が咎める様に言う。
「お願いです。おじさん、このお金で、私とお母さんのこと、連れて逃げて下さい。お願いします。私もうお父さんのところにいたくないんです。お願いします。お願いしますから……」
 と言って晴美は畳に頭を擦り付ける。
「う~ん……」
 二百万の札束を見て真次郎は考え込んでしまう。
「私は、今もあの時の貴方の顔を覚えていますよ」
 と今晴美に言われると、真次郎は居た堪れなくなってしまう。
 真次郎が晴美の言うその顔をしていた時、頭の中で考えていた……この金は谷本さんが戦後に闇市で稼いだ税務署を通っていない金なんだ。だから盗まれたとしても警察には届けられないのかもしれない……。
「ようし、晴美ちゃん。分ったから、ちょっとここで待ってなさいよ」
 と言って真次郎は寝間着を着替えると、札束を自分の鞄に詰め込む。
 そのまま麻里恵と晴美をアパートに残し、金を持って銀行に向う。そして自分の口座に全部預金してしまう。
 真次郎には悪賢い考えが浮かんでいる。麻里恵がまた逃げたと知れば、谷本さんはきっとまたここへ来るだろう。そしてこの前と同じ様に麻里恵を連れて帰るに違いない。そうなれば晴美ちゃんもここにいる訳にはいかなくなる。
 ……そして俺は、金のことは知らないと言う。晴美ちゃんが何を言ってもそんな物は知らないと言い張る。
 もし谷本さんが金を返せと言い出したら、それなら警察に届ければいいじゃないですかと言ってみよう。闇市で稼いだ金だから、下手をすれば没収された上に罰金まで取られるかもしれないのだ。だから谷本さんは警察には言えないかもしれない。そうなれば俺にとってはまたとない幸運じゃないか……。
 晴美の持って来た二百万円を銀行に預けると真次郎はアパートに戻って来る。しかし部屋には入らない。そっと離れた所から見ながら、谷本が来るのを待っている。
 二百万円もの金があれば、すぐにここを引き払って、何処か谷本に見つからないところへ逃げることも出来るのだが、真次郎はそれをしない。金は貰って麻里恵と晴美だけを谷本に返そうと思っている。
 その時の悪い考えは、紛れも無く真次郎自身が考えた悪さである。
 隠れてアパートを見ているうちに午後になり、待ちくたびれたのか麻里恵と晴美が部屋から出て来る。マズイと思い、真次郎も部屋へ戻る。
「何処に行くんだ?」
「何処に行ってたんですか相沢さん! 早く逃げないと父さんが捜しに来ちゃうよ」
「ああ、悪かったな、大丈夫だよ。さ、部屋に入って相談しよう」
 と二人を部屋の中へ戻す。そして内心、谷本さんよ、早く来てくれよ。と思っている。
「早く、ねぇ早く真次郎さん。兎に角ここを出ましょうよ。でないと谷本がやって来ます」
「うん、解かってるよ、でもある程度行き先を決めてからでないと動くにも動けないだろう」
 等と言いながら真次郎は時間を稼ぐ。
「そんなことはここから出てから考えましょうよ、そうしないと、また見つかったら……」
 麻里恵は恐怖に慄いている。そして案の定、そうこうしているうちにバンバンと激しくドアを叩く音が響き出す。
「ああ~! 来たっ! だから言ったのに! だから言ったのに!」
「やめてぇ」
 という晴美の訴えも聞かず、真次郎はドアを開け放つ。
 果たしてそこには恐ろしい形相をした谷本がいる。
「きゃあーー」
 麻里恵は恐怖のあまり叫び声を上げる。
 靴も脱がずにドカドカと上がり込んで来た谷本は、逃げ惑う麻里恵の髪をつかみ、後ろへ引き摺り倒す。
「いやあ~~~っ!」
「やめて、お父さん!」
 腕に縋り付いて哀願する晴美を振り解き、肘鉄を喰らわせて跳ね飛ばす。
 麻里恵の腕をつかみ、外へ連れて行こうとする。嫌がる麻里恵の顔を谷本は何度も殴りつける。麻里恵が暴れて、弾みで谷本の杖を蹴飛ばし、谷本が倒れる。
 瞬間麻里恵の表情が無くなったかと思うと流しから包丁を持って来て、転んだ谷本の上に馬乗りになる。
 傍観していた真次郎は叫ぶ。
「バカ! やめろー」
 麻里恵は振り上げた包丁を突き下ろす。
 ズブーッ……。
「ぎゃあーーーーーーー!!!」
 谷本の絶叫が響き渡る。
「麻里恵ーーーっ!」
 馬乗りになった麻里恵を見つめて、谷本は眼を見開く。
「馬鹿っ……馬鹿な、麻里恵……」
 谷本に突き飛ばされて、麻里恵は床に落とされる。
 谷本の胸には突き刺さった包丁の柄が立っている。
「もう嫌っ、もう嫌なのよ……私嫌なんです……お願いします……許して下さい……」
 と言って麻里恵はその場にヘタリ込む。
 恐怖に引き攣りながらそれを晴美が見つめている。
 気丈にも谷本は胸元に包丁を刺したまま立ち上がろうともがいている。
 真次郎は驚きのあまり声も出せずにいる。
 谷本は胸に包丁を刺したまま杖を床に突き立て、ヨロヨロと震えながら身体を立ち上がらせようとする。
「お前、ら……」
 真次郎は驚きに目を見張る。
「お前等ぁ……」
 遂に立ち上がった谷本は、物凄い目で真次郎を、麻里恵を、晴美を睨み回す。そしてバランスを取ると杖を放し、刺さっている包丁の柄を握り、引き抜こうとする。
 咄嗟に真次郎は言う。
「谷本さん。止めなさいよ、抜いたら血が一杯出て助からなくなりますよ」
 と言って駆け寄り、包丁を引き抜こうとするのを止める。
「放せコイツっ……」
「本当だよ、抜いたら血が止まらなくなって、死んでしまいますよ!」
 柄を握る谷本と揉み合いになり、抜こうとするのを阻止しようと真次郎は包丁の柄を握る。
 しかし谷本が暴れるので、柄を持っていては返って抜け落ちてしまうと思い、手を放す。
「放せぃ、バカ野郎が!」
 仕方なく真次郎は後ずさる。
「お前には関係ないっ」
「関係ないって……」
「お前等の為だろうが」
「えっ?」
 谷本の視線はヘタリ込んでいる麻里恵と、頬を抑えて谷本を見ている晴美に注がれている。
「俺がこうなったのは……」
 麻里恵が顔を上げる。
 谷本は麻里恵と晴美の顔を睨み付けて、柄を握り絞める。
「お前等の為だろうが、俺がこんな身体になったのは! お前等を守る為に戦ったせいだろうがぁ!」
「お父さん……」と晴美が言った瞬間、谷本がズボッと包丁を引き抜く。
 途端にブシューッツと血が噴き出し、晴美の顔面に噴きかかる。
「きゃあーーーーああああああ…………」

 

 


第四章 3~4


    3

 

 遠い地平に思いを馳せる様にして、晴美は語っている。
「あの時、私は思いました。同じ戦争に行って、貴方は無事で帰って来たのに、どうしてお父さんはあんな怪我をして帰って来たんだろう、って。貴方と逆なら良かったのに、って」
 今真次郎の目も同じ地平を見ている。
「……私は優しくて物静かだったっていう、戦争に行く前のお父さんのことを全然知りません」
 引き抜いた包丁を床に落し、自分から噴き出した血の海に谷本は倒れていく。ドシャーン!
 麻里恵は背中を丸めて放心している。晴美は鮮血に染まった顔を覆って泣いている。
「何やってんだ! このバカ! 何てバカな女なんだ……ちくしょう、お前は、全く、しょうがねぇ……」
 起きてしまったことを収拾することも出来ず、真次郎もまた立ち尽くしている。
 病室で話を聞いている沙奈も、まるで今自分もそこにいる様に放心している。
「私はあの時、お母さんがお父さんに殴られてるのに、他人事みたいに知らん顔してた貴方のことが憎かったのと、これから先お母さんまでいなくなったらどうしようと思って。それで警察に、貴方が刺したって言いました」
 ベッドの上の真次郎が急に血迷った様に喚き出す。
「……うう……それ、は違う! ……俺じゃない、ああ俺じゃ……ないんです……よう!」
 暴れ出した真次郎を見て沙奈が慌てて宥める。
「相沢さん。相沢さん、大丈夫ですよ、相沢さん、もうここは警察じゃないんですよ。ここは病院ですよ。もう誰も捕まえる人なんかいませんから、大丈夫なんですよ……」
「……」
 真次郎は病室を見回す。沙奈の顔を見る、晴美のことも。
 そしてやっと今の状況を思い出したのか、喚くのを止める。やはり薬の効き目が薄らいでいるのか、少し意識が朦朧としている。
 ……そうだった。俺は、やっと思い出したんだ。今までのことを全部……そうだ。俺は麻里恵を殺すんだ……。
「貴方はそのまま警察に捕まって、裁判でも有罪になりました」
「……」
 ……そうだ。それから始まったんだ。俺の五十年が……。
 晴美はベッドの脇に置いてある真次郎の持ち物の中から通帳を取り、開いて見る。真次郎は一緒に置いてあるスプーンのことを思い、ハッとして晴美を見るが、スプーンには感心を寄せていない様子である。
「やっぱり……私が持って行った二百万円は、相沢さんが持ったままだったんですね」
「……」
「あのお金のことは、警察の人には言わなかったんですか?」
 ……違う、最初はとぼけてたけど、俺は言った。兎に角谷本さんを刺したのは俺じゃないってことを信じて貰う為に、全部正直に言わないと信じて貰えないと思って。
「俺は……お金の、ことも……言いました。でも、信じて……貰えなか……った」
 取調室の刑事が真次郎の預金通帳を見ている。
「……この金は、麻里恵さんの娘が自宅から持って来たってのか?」
「そうですよ、でも俺は、その金だけ取って麻里恵は返してしまおうと思って……」
「嘘つけよ!」
 バーンと机を叩かれて真次郎は縮み上がる。
「そんな金のこと谷本さんの方では何も言って来ていないぞ!」
「そんな! 確かにアレは晴美ちゃんが家の金庫から盗んで来たと……」
「あれだけの大金を盗まれておいて、被害届も出さない訳がないだろうが!」
「だから、それは、闇市で稼いで税務署に隠して持ってた金だから……」
「いい加減なこと言ってんじゃねぇよ!」
「本当ですよ」
「お前が何処か他所から盗んで来たんじゃないのか!」
 ……もう何を言っても信じて貰えないと思った。
「……そうだったんですか。でもそれは私も話したんですよ。でもそれは貴方に言われて盗んで来たってことにして、私は作り話をしました」
「!」
「貴方が、母さんに一度家に帰って、金庫から谷本が隠してる財産を盗んで持って来たら家に置いてやるって言って、持って来させたことにしたんです。でもそのことは谷本の実家の方でも、アレは税務署にも届けていない闇のお金でしたから、無くなっていることは解かっても、被害届は出さずにいた様です。そもそも谷本が自分の金庫に隠してたから、谷本の両親も金庫にどれくらい入ってたのか知らなかったみたいです。だから警察の方でも、それは貴方が何処か余所から盗んで来たお金だということにして、表に出さなかったんですね」
 沙奈が口を挟む。
「だけど、実際はそのお金のことも警察が相沢さんを犯人だって思い込む原因になってたんじゃないの」
「そうだね……でも相沢さんも刑務所に入って、お金を使うことも出来ずに、結局はずっと持ってるしかなかったんですね、五十年も」
「……」
 晴美は通帳を閉じて元の位置に戻す。真次郎はスプーンのことが気になるが、やはり晴美は気にも止めていない。
「……あの時私が、父さんに連れ戻されたお母さんに、もう一度私を連れて逃げてなんて言わなければ、あんなことにはならなかったんですよね」
 ……その通りだと思う。だが、今はそう言わない方が良いだろう。
「嫌、それは、違う……それは、ね、晴美さん……」
 晴美が真次郎の言葉を遮る様に言う。
「それから裁判の日が決まって、きっと裁判で相沢さんは自分はやっていないって言うから、私と母さんも証人として裁判所に行かなきゃならないと思ってましたけど、相沢さんはそのまま罪を認めておしまいになったんですね?」
 ……それも違う、俺はあんまり刑事の取り調べが朝から晩まで毎日続くので、もう意識が朦朧としてしまって、一度は自分の供述ですと認める書類に名前を書いてしまったのだ。
 でも裁判の時に、今度こそ裁判官の人たちに本当のことを聞いて貰おうと思って、一生懸命言った。頼むからあの二人を、麻里恵と晴美ちゃんをここへ呼んでくれって、自分で言ってやりたいって、でもそれも聞き入れて貰えなくて、結局は判決を決定されてしまった。
 そうか……あの金のことも、本当は警察も解かってて、俺を犯人だと決めつける理由のひとつになってたのか……でももうそのことも、もうどうでもいい。それよりも今は、晴美さんと沙奈さんにもっと俺に同情して貰って、麻里恵のところに連れて行って貰える様にしなければ。
「……はい、もう。何を言って……も、仕方無い、と思って、俺は……諦めて、しまった……んです」
「そうだったんですか」
 と言って頷くと、晴美は話を続ける。
「事件の後、母は谷本の実家から離縁されて、私を連れて武田尾温泉の実家に戻りました。旅館をやっていた母の両親もいい顔はしませんでしたけど、私は、お母さんが可哀相だったということを、祖父母に一生懸命言いました。お父さんにはいつも叩かれていて、相沢さんには騙されて連れて行かれたのだと言いました。私と母さんは、もう他に行くところもないのだと……祖父母も中学生だった私のことは不憫だと感じてくれたのか、黙って置いてくれる様になりました」
 真次郎はじっと聴き入っている。
「母は谷本の姓から実家の三浦姓に戻って、一生懸命旅館の仕事を手伝って来ました。ことあるごとに、刑務所にいる貴方のことを思って泣いていましたけど、その度に私は、悪いのは相沢さんなんだから、お母さんは悪くないんだからと言って宥めすかしていました。それから、母は貴方がもし刑務所から出て来たら、自分に仕返しに来ると思って、怯えてましたから。私は相沢さんが刑務所から出て来る日があるとしたら、その時は知らせて貰える様に警察の人にお願いしました。だから私は、実は相沢さんが刑務所で脳梗塞になって医療刑務所に移ったことも、認知症になって施設に入ったことも警察から連絡して貰って知っていました。ただ、まさかそこで沙奈と貴方が出会ってたなんて……」
 真次郎に話す晴美の横で、沙奈はまるで麻里恵の意志を代弁するかの様に、済まなそうな顔をしている。
「何年か前に沙奈は東京で勤めていた会社が倒産して、介護の仕事に就いたということは知っていましたけど、まさかその施設に、相沢さんがいたなんて……だけどよく相沢さんは、沙奈が母の孫だってことに気付かれましたね」
「……」
「沙奈からの電話で、貴方の名前を聞かされた時には、愕然としました。相沢さんという名前を知っているかどうか、母に聞いてみてくれって沙奈は言いましたけど、勿論母には言いませんでした。それからの毎日、生きた心地がしませんでしたよ。でも沙奈の話だと、貴方は身体の半分が麻痺して、酷い認知症だということでしたから、このまま何もなく貴方が死んでしまえば良いと思っていました」
「……」
「でも、相沢さんが突然旅館に現れた時には、私は覚悟を決めたんです。だってもう、何をどうしたって取り返しのつかないことですから。これはもう、貴方を殺すしかないと思って……」
「……」
  ガチャリと病室の扉が開く。先ほどの看護師が入って来る。
「三浦さん、麻里恵さんの意識が戻りましたよ」
「えっ……」
 と沙奈は晴美の顔を見る。
「解かりました。すぐ行きます」
 と言って晴美は沙奈を見て頷く。そして真次郎を見る。
「相沢さん。私、母に話して来ます。相沢さんが、会いたいと言っていますって、相沢さんはもう母のことを許して、恨んでなんかいないからって、それでいいんですよね?」
「そうです……その通りです、よ……」
 と答えながら、真次郎の心は躍動している。よし、やった……やったこれで、殺しに行ける、やった。でもあのスプーンを、何とかして取って持って行かなければ、パジャマに隠して持って行かなければ……。
 晴美は看護師と一緒に部屋を出て行く。病室には沙奈と二人だけになる。
「……沙奈、さん……」
「はい、何ですか」
「その……通帳と……俺の物を……」
「ああ、コレですね、はい」
 と沙奈はベッド脇の台の上に置いてある通帳と印鑑、それにスプーンをビニール袋に入れて真次郎に渡す。
「そういえば相沢さん、施設でもスプーンを盗んでいつも削ってましたけど、それは何に使うつもりだったんですか?」
 ギクリとする。咄嗟に出て来た言葉はこんなことだった。
「コレは……ね、俺……の、お守り……なんだよ、大事な……」
「スプーンを削ると、お守りになるんですか、そんなの初めて聞きましたけど」
 真次郎は袋を毛布の中に入れると、中でスプーンを取り出し、パジャマの中へ入れる。
 そして不思議そうな顔をしている沙奈に笑って見せる。
 スプーンは自分のお守り……誤魔化そうとして咄嗟に言った言葉だったが、真次郎にとってこのスプーンは、本当にお守りの様な物だったと思う。
 長い受刑者生活も、施設で訳が解らなくなっている時も、真次郎はこのスプーンに思いを託していた。
 ……そうだ。俺は、刑務官に見つかって取り上げられても、また次のスプーンを盗んで、施設では職員に取り上げられても、また次のスプーンを盗んで。自分が何故そんなことをしているのか、訳も解からなくなってしまっても、俺は自分の意志でスプーンを削っていた。俺は、コレに、自分の生きる目的を託してたんだ……。
 ……そして、今やっと恨みを晴らせる時が来たんだ。絶対にやらなければ、このままでは死んでも死にきれない。
 ……あの時、誰も俺の言うことを信じてくれなかった。くる日もくる日も永遠に続くかと思われる労働をさせられた日々……あの時の俺の為に、俺は復讐してやらなければならない。でなければ、俺が可哀相すぎる。理不尽に無駄にさせられた俺の人生が……おお、俺はなんて可哀相なんだ。待ってろよ麻里恵、今こそ俺は人生の恨みを晴らしてやるからな。
 ガチャリとドアが開いて、晴美が戻って来る。
「どうだった?」
 と沙奈が訊ねる。
「会うって」
「お祖母ちゃん身体は大丈夫なの?」
「うん、バイタルは安定してるから、先生がもう明日は退院しても良いからって」
「そう」
 晴美は真次郎の顔を見る。
「相沢さん。母は会ってもいいって言ってますから。いえ、会ってもいいなんて言い方は間違ってますよね、母の方が悪いんですから。母の方でお詫びしなければならないんですものね……」
 ……母、この人の母……そうだ。この人の母が麻里恵なんだ。
 真次郎は一瞬病室に入って来た晴美が誰なのか解からなかった。やはり薬の効き目が落ちてきている。急がなければならない。
「……いや、もう……いいんですよ。本当に、私は……許すんです。マリに……許すと、言ってやりに……行きたい……んです」
 そう言いながら懐に入れたスプーンを握り、確認している。
 ……早く、早く俺を麻里恵のところへ連れて行ってくれ。
 このままではきっとここが何処なのかも、自分が何をしているのかも分からなくなってしまう。
 また以前のように訳が解らなくなってしまうのは時間の問題である。
 晴美と沙奈に支えられて、真次郎は身体を起こし、ベッドから降りる。
 そして左手で杖を持ち、右腕は晴美に支えられながら、歩いて病室の出口へと向かう。
 沙奈が病室のドアを開けてくれる。
 真次郎は病室を出て、廊下を歩き始める。
 白い壁と、等間隔に電灯の点いた白い天井が真っ直ぐに延びている。
 ……あれ? ここは、風呂に行くまでの廊下だったか……?
 瞬間真次郎の頭は施設に戻り、入浴する為に廊下を歩いている。
 ……いや違う、違う違う、しっかりしろ。俺は、神戸の武田尾温泉の近くにある病院にいて、今晴美さんと沙奈さんに連れられて、麻里恵を殺しに行くところじゃないか。
 杖を握っている左手を胸元に当て、そこにスプーンが入っていることを感触で確かめる。
 ……俺は大丈夫だ。きっと、自分の意識を失ったとしても、麻里恵に会えば、俺の身体はちゃんと自分のやるべきことを実行する筈だ。その為に長年生きて来たんだから、俺が、コレを忘れる訳がない……。
「大丈夫ですか? もう少しですからね」
 と真次郎の右腕を支えている晴美が歩きながら言う。
「……え、ええ、大丈夫です、よ」
 と真次郎は答える。
 そのままエレベーターに乗る。グィンとエレベーターは上昇し、ひとつ上の階に停まり、ドアが開く。
 瞬間それが施設のエレベーターと重なって見える。
 ……違うぞ、俺よ、ここは施設じゃない。今俺は、やっとのことで辿り着いたんだ。俺はやっと、麻里恵を殺せるんだ。と自分に言い聞かせ、意識をしっかりと持たせる。
 ……そうとも、俺はやるべきことをちゃんとやるぞ。俺の身体は、俺の意志が支配しているに違いないのだから、俺は自分の身体を信用していればいいんだ。例えまた訳が解らなくなったとしても、俺の口は、俺の喋るべきことを喋り、俺がやるべきことを実行するに違いない。
 そう思いながら廊下を進む。
「相沢さん。お祖母ちゃんは、この部屋にいます」
 と先に行った沙奈がドアの前に立つ。
 晴美に支えられて真次郎が来ると、沙奈がドアを開いてくれる。真次郎はその病室に足を踏み入れる。
 ……何をすべきかは、俺の本能が知っている。俺は俺のするべき事をやるだけだ。俺はそうする。俺はやっと、自分の意志を通すことが出来る。俺の好きな様に出来るんだ。もう何も心配はいらない、俺は俺のすることにまかせておけばいいのだから……。

 

    4

 

 杖を突きながら真次郎が足を踏み入れると、ベッドには誰も寝ていない。
 見ると小さな老婆が床に正座して座っている。
「お祖母ちゃん……」
 沙奈が声を掛けると、老婆は途端に顔を両手で覆う。
「おおおお……おおおおおお~~~」
 低いくぐもった声で嗚咽を漏らし始めたかと思うと、それは大音響になって部屋中に轟き渡る。
「ああああああ~~~~あ~~~~あああああ……」
 真次郎は立ち尽くしたまま、呆然とそれを見つめている。
 真次郎の目にはそれが誰なのかが解かっているのか、その様子は、まるでもう自分が誰なのかということすら忘れてしまっている様子である。
「お祖母ちゃん、お祖母ちゃん!」
「おおおおおお~~~おうおうおうおう……」
 麻里恵が顔を覆っている手の間から、ポタポタと涙が滴り落ちている。
 沙奈は病室の隅に立ち尽くしたまま、その光景に見入っている。
 カシャン……。
 真次郎が杖を前へ突き出す。そして一歩、足を前へ踏み出す。タッ……。
 カシャン、タッ、カシャン……。
 真次郎は正座する麻里恵に近付くと、パジャマの懐に左手を入れて、ゴソゴソと何かを取り出そうとする。
 カラーン!
 沙奈が見ると、音を立てて床に落ちたそれは、先端を削られたスプーンである。
 ズルッ、ドシャーン。
 杖を踏み外したのか、真次郎は麻里恵の前に転ぶ様にして座ってしまう。
「大丈夫ですか、相沢さん!」
 と思わず晴美も真次郎の身体を抱き抱える。
 見ると真次郎は左手を伸ばし、泣いている麻里恵の右手を取る。
「もう、泣かなくて……いいんだ、よ……マリ……俺だよ……」
 真次郎に右手を取られても、麻里恵は両目から流れ続ける涙を左手で拭っている。
「また、会えた……ね、やっと、会えたね……元気に、してた……かい?」
 頷いているのか、ただ震えているのかも分からないが、麻里恵は顔を上下にガクガクと動かす。
「もう、心配しなくて……も、いい、んだよ……もう、俺は、怒ってない、よ……」
「おっ、おっ……おお、うう……わああああああーーーーーー」
 叫ぶ様にして麻里恵は真次郎の胸に飛び込んで行く。真次郎はその小さな背中を左手で受け止める。
「おっ、おっ、おっ、おおおおお~~~~ううあああああ~~~」
 麻里恵の声はただ激しく呻いているだけの様に聞こえるが、沙奈の耳にはその声が「ごめんなさい~ごめんなさい~」と言っていることがしっかりと解かる。
 晴美はブルブル震えながら涙をながし、今にもその場に崩れてしまいそうなのを辛うじて耐えている。

 今、この二人を見ながら沙奈は思う。この先、もうずっと永遠に、この二人は一緒にいるのだろう。
 例えどちらかが死のうとも、二人とも死んでしまおうとも。この世界がなくなったとしても、それはきっと変わらない、二人はずっと一緒にいる。


                                         おわり


奥付



「そこへ行く男」


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著者 : tochiro
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