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第二章 5

 

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 そして遂にその夜が来た。台風も行ってしまい、もう新たな台風が発生しているという予報はない。今晩はずっと良い天気で雨の降る確率はゼロパーセント。そして洋服を盗む為に目を付けておいた浜矢という名前の職員が今日夜勤に入ることも確認している。
 真次郎は全ての準備を整えて、毛布を被り、寝たフリをして職員が最初の見回りにくるのをじっと待っている。
 九時の就寝から二時間くらいが過ぎたのだろうか、パタパタと足音がして、職員が今夜最初の見回りに来る。ガラガラとドアを開けて入って来ると、懐中電灯の光が壁を過る。職員は歩いてカーテンの仕切りをそっと開きながら、それぞれのベッドに眠っている老人たちの様子を確かめていく。
 当直の職員は二人いる。見回りはそれぞれが分担する部屋をひとりで回っている。入って来たのはそのうちのどちらかなのだろうが、真次郎は毛布を被っていなければならないので、それがあの真次郎と体型の似ている浜矢という名札を付けた男なのか、それとも他の職員なのか、男なのか女なのかも解からない。
 その職員は他の三人の老人たちの様子を確かめると、真次郎のところへも来る。真次郎はじっと寝たフリをしている。スーッとカーテンを開けるとそっと毛布の縁を持ち上げ、真次郎の様子を確かめるとまた毛布を被せ、部屋を出て行く。
 隣の部屋のドアを開ける音が聞こえてくる。少ししてそのドアが閉まると、またひとつ向こうのドアが開かれる音が小さく聞こえる。それを何度か繰り返すうちに音は聞こえなくなり、何の物音もしてこなくなる。
 真次郎はそっと起き上がる。掛けていた毛布を左足で蹴り、足元へ押しやる。うっかりベッドから腰を浮かせるとシーツの下に敷いてあるセンサーが作動してしまうので、そのまま左手でベッドの脇に用意しておいた折りたたみ椅子を持ち上げる。真次郎の左腕は原先生にリハビリの時に掛かる負荷を上げて貰い、鍛えた成果でかなり力が入る様になっている。
 持ち上げたパイプ椅子の縁とベッドの柵が当たってカーンと音が鳴る。ハッとして耳を澄ませるが、他の老人たちは静まり返ったまま反応はない。
 そっと身体を脇へずらし、寝ていた場所に折りたたみ椅子を寝かせる。でもこれだけでは重みが足りないと思われるので、そっと腹ばいになってベッドの下に手を突っ込み、隠しておいた二つの水枕を引っ張り出す。それは部屋の入口脇にある戸棚にあるのを見つけ、水道の水をいっぱいに入れておいたのだ。タプタプと音を立てる二つのそれを、寝かせた折りたたみ椅子の上に乗せる。
 それからそっと腰をずらしてベッドの縁に両足を降ろす。このまま腰を浮かせてベッドから降りた時、センサーが反応してしまえばそれまでである。
 左足を伸ばして床においてあるサンダルを履き、ベッドの柵に立て掛けておいた杖を手に取る。原先生からもう普通のステッキ状の一点杖でも充分に歩くことが出来るとお墨付きを貰っている。この杖は施設からお借りしている物だが、このまま持って行こうと思う。
 床に杖を突き、ベッドに座っている自分の体重を杖の方へと傾けていく。
 ここでセンサーが反応すれば、警報を聞いた職員が飛んで来るだろう……心を決めるとベッドから腰を浮かせる。脇に立ったまま暫く待つ。
 ……誰もやって来る気配はない。どうやら折りたたみ椅子と水枕の重みとで誤魔化せたのだろうか。動かない右足を引き摺ってサンダルを履かせると、体勢を変えてもう一度ベッドの下に手を入れ、これも戸棚から盗んでおいた予備の毛布を引っぱり出す。
 その毛布をベッドの折りたたみ椅子と水枕の上に乗せ、人型に盛り上がる様にして、その上から自分が被っていた毛布を被せる。全ての作業を左手だけで、しかも物音を立てない様に注意してやらなければならないので時間が掛かる。だが今度見つかればそれこそ何処かに監禁されてしまい、身動きが取れなくなってしまうだろう。そう思うとやはり慎重に行動しなければと思う。
 これでパッと見には真次郎が毛布を被って寝ている様に見える。毛布を被って寝ていることを職員が不自然に感じない様に、ここ最近真次郎は毎晩寝る時に顔を出さず、毛布をスッポリ被って寝るようにしていた。
 首からヒモで下げているビニール袋の中の通帳と印鑑を確かめる。それと若い職員に書いて貰った麻里恵が働いている旅館「桜華園」の住所が書かれたメモ。そして何故かは解らないが、気が付くといつも何処からか盗んではガリガリと削っているスプーンは、どうしても持って行かなければならないものだと思っている。何故かは解からないが、それが自分にとってとても大事な物の様に思えるのだ。なのでそれも一緒に首の袋に入れる。

 今夜は真次郎と体型の似ているあの浜矢という職員が当直している筈なのだ。だから今職員詰所のロッカーには浜矢の私服が入っている筈だ。これからこの部屋を出て廊下を歩き、始めは職員たちの詰所へ行って、浜矢の衣服を盗むのだ。
 ヨロヨロと杖を突きながら、ベッドの脇を離れてドアの側へ来る。なるべく音を立てない様に注意しながらそっとスライド式のドアを開く。
 ガラ……ガラガラ……。
 ドアの隙間から顔を出し、暗い廊下の両側を見る。誰も人影が無いのを確認し、自分が出られるくらいにまでドアを開く。
 まず杖の先端を外へ出し、体重を支えながら左足を外へ踏み出す。
 身体の全部が外へ出る。辺りは暗く、天井に等間隔に付いている常夜灯だけが小さく光っている。ドアを閉める。
 職員の詰所のある方へ一歩ずつ歩みを進める。先に杖を突き、左足を踏み出し、後に残った右足を引き摺って引き寄せる。
 コツン……タッ、ズズズ、コツン……タッ、ズズズ……。
 音を立てない様に気を付けても、辺りがシンと静まっているので音が響いている様に感じる。
 暫く進み、角を曲がると長い廊下に出る。その先に明るく電気の点いている部屋がある。アレが職員の詰所だ。あそこへ行くまでに職員が廊下に出て来てしまえば、その場で見つかってしまう。しかしもうこの期に及んではイチかバチか進んで行くしかない。
 コツン……タッ、ズズズ、コツン……タッ、ズズズ……。
 詰所の前まで来る。廊下に面した大きな窓の枠に近付き、縁からそっと覗いて見る……職員が一人椅子に座ったまま眠っている。そしてもう一人、それは確かにあの浜矢という職員である。浜矢はテーブルに書類の様な物を広げて一心に何か書き込んでいる。
 職員の私服が入っているロッカーは部屋のテーブルの奥にある。この状態ではとてもあの職員に見つからずに奥へ取りに行くことは出来ないだろう。
 だが浜矢は何か集中して書いているので、気付かれずにそっと窓の前を通過することは出来るかもしれない。洋服は諦めるか……。
 先ほどの見回りからどれくらい時間が経っているのだろう。次の見回りの時間になれば二人ともこの部屋から出て行くのかもしれない。それまで見つからない様に近くで隠れていることが出来れば……。
 詰所を通り過ぎた向こうにエレベーターのある場所があり、ここからは窪んで死角になっている。あそこへ行って隠れていることが出来れば、次の見回りの時、二人が出て行った間にこの部屋に忍び込んで衣服を盗むことが出来るかもしれない。
 よしと決心して歩き始める。詰所の大きな窓の前を歩く。職員の一人は眠っており、浜矢は書類を書くことに集中しているので、こちらに顔を向けない限りは見つからないのではないか。音を立てない様に、細心の注意を払いながら、少しずつ歩く。
 詰所の窓を通過してしまうとエレベーターホールになっている。その一番奥の隅まで行き、暗がりの中に身を潜める。しかしここには身を隠す物が何もない。暗いので前の廊下を誰かが通っても見えないかもしれないが、誰かがエレベーターから降りて来れば見つかってしまうだろう。そうならないことを願いながら暗い中に身を潜めている。
 どれくらい時間が過ぎたろうか、意識もボンヤリし始めて、今いるここは本当にこの世のことなのかと思い始めた頃、不意にガチャリとドアの開く音がして、懐中電灯の光が床や壁にチラチラと走る。そして無造作な足音がスタスタと近づいて来る。ドキリとして息を潜めていると、詰所にいた二人の職員が、それぞれの手に懐中電灯を持ってエレベーターホールの前を通り過ぎて行く。暗がりにいる真次郎には気付かない様子だ。
 今だ……杖を突き出し、右足を引き摺って歩き出す。職員たちの足音は角を曲がって遠ざかっている。この施設はかなり広いし、何十人もの老人たちが眠っているのだ、そんなに早くは帰って来れない筈である。
 詰所の窓からそっと中を見る。誰もいない。ドアを開いて中へ入る。浜矢が座って作業していたテーブルを通り過ぎ、部屋の奥に並んでいるロッカーへ行く。
 端から扉に付いた名札を見ていくが、名札の付いていないロッカーもある。焦る気持ちを宥めながら見ていくと、あった。マジックの汚い文字で "浜矢" と書いてある。しかし鍵が掛かっていればそれまでだろう。カシャン……開いた。
 中にシャツとズボンがハンガーで吊るされている。ズボンは青い色をしたジーパンで、シャツは薄いオレンジ色で襟の付いた半袖である。如何にも若い男が着そうな感じの物だが、そんなことは言ってられない。
 それを左手で引っ張り出して自分の肩に掛け、扉を閉める。さぁ外へ出なければと杖を突き、右足を引き摺って出口へと向かう。職員たちが何か忘れ物でもして戻って来たら……もしくは部屋のベッドの細工がバレてしまったら……と思う気持ちを抑え、詰所を出て廊下を歩き出す。
 職員たちの影は何処にもない。エレベーターホールへ向かい、下へ降りるボタンを押す。エレベーターの横に表示された数字の列の一階に光が灯っている。その光が二階、三階と登ってくる。
 早く、早く来い……頼むから、あの男たちが戻って来る前に……。
 エレベーターは四階に辿り着き、チンと音がしてシャーっと扉が開く。途端に中から光が溢れ出て一気に辺りが照らされる。焦って杖を突くと転んでしまうので、気を付けながら急いで乗り込み、すかさず扉を閉めるボタンを押す。扉がしまると、一階のボタンを押す。
 見つからなかったろうか……エレベーターの扉が開閉した音を聞かれなかったろうか……。
 三階、二階と表示は下り、一階に着くとシャーっと音を立てて扉が開く。扉の外は真っ暗である。辺りを確認しようにも真っ暗なので何も見えない、とにかく外へ出なければと歩き出す。リハビリで原先生と中庭へ出た時の、外へ出るあのドアのある方へと歩いて行く。
 背後でエレベーターの扉が閉まると完全な暗闇に包まれてしまう。自分の歩いている脚さえ見えない。平衡感覚も失われてフラフラとよろけそうになりながら、それでもなんとか進んで行く。
 コツン……タッ、ズズズ、コツン……タッ、ズズズ……。
 暗闇に目が慣れてくると、中庭へ出るドアがあると思われる辺りのもっと先に、明かりの灯った部屋がある。警備員か誰かが常駐しているのかもしれない。とにかく前へ行くしかないと歩を進めて行く。
 四階の詰所で盗んだ浜矢の洋服は肩に掛けたままだ。着替えるのは何処か誰にも見つからない場所に行ってからにしようと思う。
 左側に中庭に面した窓を見ながら歩いて行く。なかなかドアが見つからない。まだかまだかと歩いて、やっと見つける。ドアの脇に取り付けられた機械を開くと、文字盤が明るく光る。
「1、2、3、4、E」ボタンを押すとジーッ、ガチャッ! と音がしてロックが解かれる。杖をドアの脇に立てかけ、ドアノブをひねり、外へ押して開くと、外の空気が流れ込んでくる。
 ドアを開いたまま身体で押さえ、杖を取り、外へ突きだして左足を踏み出す。支えていた身体を離すとドアが自動的に戻り、ガチャッと音を立てて閉じる。
 ドアの閉まる音に気付いた誰かが追って来るのではないか。早く遠くへ歩いて行かなければ。と杖を前へ突き出して行く。コツッ……左足を踏み出し、ザッ、右足を引き付ける、ズズ……また杖を突く、コツッ……夜の闇に包まれている中庭を歩く。
 良かった……そう寒くはない。もう十月も終わりに近いのだが、まだ冷え込んでいく気配はなく、清々しい空気に身体の細胞が蘇えっていく感じだ。
 見上げると建物の遥か頭上にまん丸だが小さな月が光っており、辺りを照らしてくれている「ああ、月だ……」と言葉を漏らしながら、真次郎は先を急ぐ。
 コツッ、ザッ、ズズ……コツッ、ザッ、ズズ……。
 暗くてよく見えないが、ここは地面が煉瓦を敷き詰めたような石畳になっており、左足を出す時になるべく宙に浮かせて踏み出さないと僅かな凹凸にサンダルを履いた足を引っ掛けてしまいそうになる。
 中庭の真ん中が大きな丸い花壇になっている周囲を回り、建物の切れ目になっているところを目指して歩く。真次郎が出てきた建物と別棟の建物の間に通路があり、通れる様になっているのだ。
 コツン……ザッ、ズズ……コツン……ザッ、ズズ……。
 石畳の地面に杖を突く度に音が響く。もし左右にそびえ建っている施設の窓から誰かが見下ろせば、真次郎が歩いているのを見つけてしまうだろう。
 早く、もっと早く……と急いだ余り、石畳の凹凸に左足を引っ掛けてバランスを崩してしまい、倒れそうになる。マズイと思って態勢を立て直そうとするのだが、なかなか重心が整ってくれない。あっと思う間もなく左足でケンケンするように脇の植え込みに近付き、そのまま低い仕切りを超えて頭から植込みの中に倒れ込んでしまう。
 ドサーッ……瞬時に顔が草と土にまみれる。草の臭いが鼻を突く。それは記憶の中にある臭いだ。そうだ、コレはジャングルを歩いた時の臭い……。
 ……くそう、早く立ち上がらなくては、こんなところで寝ている訳にはいかないんだ。俺は、行く……何としても、俺は起きなければならない。
 ガサゴソと地面に左手を突きながら、どうにか上体を起き上がらせる。浜矢から盗んで肩に掛けていたシャツとズボンにも、汚れて土が付いてしまった。拾い上げると振るい、足にぶつけて土を払い、また肩に掛ける。
 乗り越えてしまった植込みの仕切りの外に左足を出し、左手で地面を押して立ち上がろうとする。だが上手くバランスが取れない。
 ヨイショ、ヨイショと身体を揺すりながら、ようやくバランスを取って身体が持ちあがる。植込みの外に身体を出して石畳にゴロンと転がる。
 地面に腰を降ろした格好になる。さぁここから立ち上がらなければならない。杖を使って身体を引き上げるのだ。杖をつかんだ左手に力を入れ、弾みを付けて立ち上がろうとする。
 ヨイショ、ヨイショ……せーの! それっ……。
 グラグラとよろめきながら、何とか左足一本で立ち上がる。バランスを取って呼吸を整える。前方へ杖を突き出し、左足を前へ踏み出す。そして後に残った右足を引き寄せ、また杖を突き出す。コツン……ザッ、ズズ……コツン……ザッ、ズズ……一歩、また一歩……。
 やっと中庭を過ぎ、建物と建物の間にある通路へと来る。石畳は終わり、ここからは舗装されたコンクリートの地面になる。
 建物の間を抜けると、施設の玄関に車を乗り付ける為のエントランスへ続く道があり、その先に門が見える。そこまではまだ遠く、二十~三十メートルはありそうである。門は閉まっている様だが、ここからは鍵が掛けられているのかどうかまでは見えない。とにかく行くしかない。倒れない様に気を付けながら歩いて行く。
 ベッドのある居室を出てからここまで来るのにどれくらいの時間が掛かったろうか。エレベーターの脇に隠れていた時間も含めて、少なくとも職員たちが二回の見回りに来る間が過ぎているのだから、二時間以上は掛かっているだろう。
 振り返って見ても施設の中はひっそりと静まり返っている。この様子だと真次郎が寝ている様に施したベッドの細工はまだ見つかっていないらしい。
 でもそういえば、職員が最初の見回りに来た時は、寝たフリをしている真次郎の毛布を持ち上げて確認していた。次の見回りではアレをしなかったのだろうか。
 もう見回りで発見されることが無いのだとすれば、このまま朝七時の起床時間まで誤魔化せるのかもしれない。そう思うと、初めてまんまとしてやったりという様な気持ちが湧き上がってくる。
 ……でも、まだまだ喜ぶのは早いぞ。あの門を出なくては。どうか鍵が掛かっていないように……。
 ズルズル……ガチッ、ズザッ。ズルズル……ガチッ、ズザッ……。
 急がなければと思うが、焦ればまたバランスを崩して倒れてしまう。真次郎にはこのスピードで精一杯なのだ。落ち着いて、確実に一歩ずつ足を進めながら、急いで行くしかない。
 ようやく門のところまで辿り着く。想像していた様な、真ん中から左右へ開く観音扉の様な門ではなく、アコーディオンの様に横に伸び縮みするスライド式の門になっている。
 鍵は掛かっているのか、近くへ来て、門の左端に着いているレバーの様な物を操作してみると、カチャンと音がしてロックが外れる、そのまま左手で右の方へ押しやると、すんなりと開き、人が通れるくらいの隙間が出来る。
 真次郎は門の外へ一歩を踏み出す。夜の闇の中に見知らぬ街が広がっている……なんだ? 身体の中から、何か大きな興奮がせり上がってくる。
 空気が変わった。真次郎の身体を包み込むこの空気は……「娑婆」という言葉が頭に浮かぶ。そうだ、コレは長く捕らわれの身だった自分が、初めて解放された気分なのだ。
 ビュウーと風が吹き抜ける。踊り出しそうなくらい胸の中が弾んでいる。自分の足で、こうして施設の外を自由に歩くのは何年振りなのだろう。
 ……沙奈さんの言うには、俺はこの施設に来る前、四五年間も刑務所にいたのだと言う。それからボケてしまって、ここへ来てから八年。だから、俺がこうして自分の足で外に出て歩くのは、五十年以上振りのことなんだ……これが外だ……俺は、やっと自由になった。今やっと自由の身になった! 俺は自由になって、俺のやりたい事をやる時が来たんだ。

 辺りには暗い中に沢山の家々が立ち並んでいる。もう深夜の一時~二時くらいにはなっていると思うのだが、まだ明かりの灯っている窓も見える。アスファルトの道は静かで、ところどころに立っている電柱についた街灯が道路を照らしている。
 ……何処か大きな道へ、車が沢山走っている様な大きな道路へ出なくては。
 今の時代にもタクシーという物があることは施設のフロアーで観たテレビで確認している。真次郎の計画は、どうにかこの住宅街を抜けて、何処か大きな車道へ出る。そこでタクシーを拾い、運転手に預金通帳を見せて、代金は必ず払うからと言って神戸まで乗せて行って貰おうということである。
 電車等で行く方法もあると思うのだが、真次郎には何処に駅があるのかも、どの電車に乗って行けば良いのかも解からない。出来ることならタクシーに乗って、運転手にあの若い職員に教えて貰った旅館の住所を見せて、連れて行って貰えたらと思う。
 ここが東京の杉並区というところであることは解かっている。果たしてここから神戸まではどれくらいの距離があるのか、かなり遠いのではないかと思う。
 お金さえ払えばタクシーは何処へでも連れて行ってくれるのではないかと思うが、もしかしたら神戸なんて遠すぎるからダメだと言われるのかもしれない、もしそうなら行けるところまで行って貰い、そこからまた別のタクシーに乗って行くしかないと思っている。
 ここから神戸までタクシーで幾らくらい掛かるものなのか解からないが、きっと何十万円も掛かるということは無いだろう。
 俺には五百万もの金があるのだから、きっと日本中何処へでも連れて行って貰えるはずだ。
 一歩ずつ歩く自分の足元を見つめ、ヨタヨタと歩いている。するとまたアスファルトの地面が土色に変わり、道の脇には緑の草が茂っている。辺りは野生の草むらと木々に覆われて行く。コンクリートの建物が立ち並ぶ風景が、鬱蒼たる夜のジャングルに変わっている。
 着ている物はボロボロの軍服となり、月明かりを頼りに真次郎は歩いている。時折り暗闇の中にうずくまっている戦友がいる。
「……大丈夫だから、先に行ってくれ」と力の無い声で戦友が言う。
 ……あの戦友はそう言ったけれど、あの戦友には自分がもう歩けないということが分かっていたんだ。それは俺にも分かっていたのに。俺はあの戦友を置いたまま歩き出してしまった。
 その時は、そうすることも仕方が無いのだと思っていた。どうしようもないのだと納得してもいた。しかし、内地へ帰って来てから何年もその罪悪感にさいなまされて来た。でも、それでも何年かするうちには忘れていたのに、何故今俺はそれを思い出すのか……。
 一緒に歩いていたのに倒れてしまい、そのまま動けなくなってしまった戦友もいた「はぁ、はぁ……俺は大丈夫だから、後から行くから……お前は先に行ってくれ」アイツもそう言っていたけれど、俺には解っていた。コイツももう歩けないんだ。
 それでも俺は歩いて行った。あの時は仕方がないことだと思ってた。でも俺の心はしっかりと覚えているんだ。思い出したいことは他にも沢山あるのに、一番強烈に覚えているんだ。
 あれは何処の国でのことだったのか。何処の国との戦争だったのかも解からないクセに、思い出される。俺に妻の話をした戦友。子供の話をした戦友、妹の話をした戦友もいた……。
 ……そうだな、お前たち、お前等はみんなあの時のあの場所で、今も歩くことも出来ずに泣いてるんだな。俺だけが、こうして歩ける様になって済まん。でもな、俺は行くよ、俺は、まだ生きてる。お前等の分まで俺は、俺のやりたいことをきっと成し遂げてやるからな。

 まだまだ何処までも家が立ち並ぶ住宅地を歩いて行く。不意にブォーとエンジンの音がして前の角から強い光が伸びてくる。驚いて見ると一台の自動車が曲がってくる。そのまま凄いスピードで真次郎の脇を走り抜けて行く。
 ……あの車が出てきた、あの角の方に大きな道路があるのかもしれない……そう思い、車が出てきた角を曲がって行く。やがてゴゴーと沢山の自動車が走っている様な音が響いてくる。勘を頼りにそちらの方へと近付く様に角を曲がって行く。
 遂に道の前方を次々に車が横切って行くのが見えてくる。やっと大通りに出た。こんな夜中だというのに双方向に凄い勢いで見たこともない自動車が走り去って行く。
 神戸に行くのはどちらの方角なのかも解らない。とにかく今いる側でタクシーを止めなければと思う。テレビで見て知っている。タクシーは屋根の上に電気を点けている。見ていると時々屋根の上に光る電気を点けて走っている車がある。アレがタクシーなのだ。今度電気を点けた車が来たら手を上げて合図してみよう。
 暫く待っていると、ビュンビュンと通り過ぎる車の後方から、屋根に電気を点けた黄色い車が走って来る。真次郎は左手を出来るだけ高く上げて、掌を振る様にしてみる。だが、その車は真次郎のことなど全く目に入らないという風に走り過ぎてしまう。
 ……あれ、ダメなのか、何がいけないのか。
 何故止まってくれないのかは分からない。気を取り直してまた次を待ち、遠くから走って来るのを認めると出来るだけ車道に近付き、左手を上げて手を振る。
 キキィーーッツ! タイヤの軋み音を立てて、真次郎の立っている場所から少し通り過ぎてしまったが、そのタクシーは止まる。真次郎のいるところまでバックして近付いて来る。そして後部座席のドアがひとりでにカチャリと開く。
「……」
 このまま勝手に乗れば良いのだろうか、佇んでいると「乗るんですか乗らないんですか」とぶっきら棒に言う声が響いてくる。
「の、乗ります……」
 と言ってヨタヨタと車に近付き、車の中のシートに尻を乗せて入ろうとするのだが、車内に右足を引っ張り上げることが出来ずに戸惑ってしまう。
 そうしているとバタンと音がして運転席から下りた男が車の後ろへ回り込んで来る。
 四十歳くらいだろうか、緑色の背広を着ており、懐かしい匂いがしている。少し考えるとそれは煙草の匂いだった。
「大丈夫ですか御爺さん。ああ土だらけじゃないですか。ちょっと待って、まだ乗らないで下さい」
 と言って半分乗り掛かった真次郎の身体を外へ出し、肩や尻についている土をパタパタと手で払う。
 その間もタクシーの脇をかすめる様にして次から次へと凄い勢いで車が通り過ぎている。
「貴方寝間着のままじゃないですか、大丈夫なんですか」
「す、すみませ……ん」
 土の汚れを払ってしまうと、もう一度真次郎の尻をシートに乗せ、右足を持ち上げて中へ入れる。左足は自分で動かせるので真次郎は車内へ入れるが、サンダルが落ちてしまう。運転手はサンダルを拾い、ポイと放り込む。
 そして押し込む様に真次郎を車の中へ入れ、バタンとドアを閉める。車の後ろを回って運転席に乗り込む。
「どちらまで行かれますか」
「こ、神戸まで……」
「神戸? 神戸って、あの神戸パンとかじゃなくて、ホントのあの神戸ですか?」
「はい……」
 運転席から振り返って真次郎の顔をまじまじと見つめて、運転手は言う。
「神戸の何処ですか?」
 真次郎は首に下げている袋からメモ用紙を取り出すと、運転手に渡す。
「そ、その旅館……まで」
 運転手は真次郎に渡されたメモを見ている。
「宝塚市、玉瀬……武田尾温泉……」
 そしてまた真次郎のことをまじまじと見る。
「お客さん、失礼ですけど、こんな時間にタクシーに乗って神戸までって、何か事情でもおありなんですか」
「……」
「お身体もあんまり健康そうじゃないですけど、大丈夫なんですか?」
「は、はい……大丈夫です、よ」
「でも神戸まで行くとなると6~7時間は掛かりますよ」
 運転手は真次郎が本当にそこへ行くつもりだとは受け止めていない様子である。
「それに運賃も凄く掛かりますけど」
「い、幾らくらい……ですか」
「そうですねぇ、そんな長距離やったことないから分かんないけど、高速代も入れて十万か、ヘタすりゃ二十万以上いくと思いますけど」
「だ、大丈夫……です。時間掛かっても……お金も、あります」
 と言って首の袋から預金通帳と印鑑を出し、運転手に渡す。渡された運転手は通帳を開いて見る。そして最初のページに押してある届出印と渡された印鑑の模様とをまじまじと見比べている。
「て言うかお客さん、キャッシュカードは持ってないんですか?」
「キ、キャッシ……?」
「持ってないんですか、それじゃお金は銀行の窓口で下ろすしかないですよね。だけど朝の九時にならないと銀行は開かないですからね、その時間だと今から出発したらもう神戸に着いちゃってますよ」
「そ、そうな……んです、か……」
 運転手は真次郎の渡した預金通帳のページを捲ったり裏返したりしてまじまじと見る。
「まぁでもコレつい最近もお金引き出してる記録が残ってるし、大丈夫かなぁ」
「……」
「しかし御爺さん随分おカネ持ちなんですねぇ」
「は、はぁ……なんとか、お願いします……連れて行って下さい……」
「神戸か……なんだか信じられない話だけど、もし本当だったら勿体ないからな。でももし何かの間違いだったとしても、乗せて走った分の料金はしっかり頂きますからね」
「は、はい、お願い、します……」
 運転手は通帳と印鑑を真次郎に返すと前に向き直り、ハンドルを回す。グラリと車が少し動く。運転手は窓から顔を出して、横をすり抜けて行く車の列を見ている。タイミングを計り、グィンと車を走らせる。瞬間辺りが後方へと動き出し、真次郎は眩暈を覚える。
 ……麻里恵、俺はきっと行くからな……麻里恵に会えば、きっとすべてが分かるんだ。……俺がこの五百万の金のうち、最初に持っていたという二百万をどうやって手に入れたのかも、時々脳裏に見える血飛沫を浴びて叫んでいる女の子のことも、何故俺が殺人を犯したのかも。そして俺が誰なのかも……。

「え~っと神戸だから、用賀から乗って東名高速、名神か……」
 運転手は独り言の様に呟きながら車を走らせている。
「だけどこんな夜中に神戸までおひとりで行かれるなんて、そーとー急な用事なんですねぇ」
「……は、はい、人に会いに……行くもんですから」
「寝間着を着替える暇も無かったんですか」
「は、はぁ……」
 まだ運転手は真次郎に対して、少なからず不審を抱いている様子である。
「あ、あのう……ここで服を、着替えても……いいですか」
「え、はい、いいですよ」
 真次郎は施設から着たまま出てきたパジャマを左手だけでなんとか脱ぎ、盗んで来た浜矢職員の青いジーパンとオレンジ色のシャツを、シートに寝転んだりして悪戦苦闘しながら身に着けて行く。
 土だらけになっているパジャマはもういらないので、丸めておいて後で何処かに捨てて貰おうと思う。
 車は大通りから高速道路へ入り、真次郎には見たことも無い広々とした道を快調に走って行く。
 運転手は真次郎に話し掛けてくることも無くなり、まだ苦労してシャツのボタンを留めている真次郎のことは気にも止めない様に黙って運転している。
 長い時間が掛かり、やっとボタンも留めて着替えが終わると、ようやく一息ついて、シートに身体を横たえる。ぼ~っと窓外を過って行く景色を眺めている。この広い道には信号もない。只々走り続けていることが不思議になり、運転手に訊ねてみる。
「あのう、この道路は……信号が無い、のは何故です……か」
「えっ、コレは高速ですから、信号は無いですけど。あの、神戸まで行くとなると当然だと思って高速に乗っちゃいましたけど」
「こうそく……?」
「はい、高速道路ですけど」
「そうですか……」
「車の運賃の他に高速料金が掛かっちゃいますけど、良かったですかね? もし高速乗らないで行ったら倍くらい時間掛かって料金も高くなっちゃいますので」
「ああ……はい」
 真次郎には運転手の言うことが良く理解出来ない。だが運転手がそう言うのならそうなのだろうと思う他はない。きっとこの「高速道路」という物は自分の知らない間に作られた特別な道路なのだろう。
 走っている道路の向こうには、行けども行けども高いビルが立ち並び、キラキラと光る無数の灯りが流れて行く。一体この街は何処まで続いているのか、この世界はこの世のことなのか……。
 そんなことを思いながら窓を眺めていると、自分は本当にあの施設から逃げ出すことに成功したのだという実感が沸き上がってくる。
 真次郎がいなくなっていることは、きっと七時の起床時間になるまで気付かれないだろう。その頃にはもうかなり東京を離れてしまっているに違いない。

 少しウトウトしただろうか、ふと気が付くと窓に広がる空が明るくなってきており、夜が明けてきたことを告げている。
「あ、あのう……今はどの辺り、ですか……」
 黙って運転している運転手に聞いてみる。
「静岡県に入ったところですよ」
「あっ……」
 窓の先には遠く青い海が広がっている。真次郎は思わず息を飲む。
 海……海……そうだ、アレは海だ。ああ、懐かしい。俺は海を知っている。戦争に行く時も、帰って来た時も、そうだ。俺は船に乗って海を渡って行ったんだ。
 やがて道路がもっと海に近付き、窓の外の海が膨らんでいく。車は大きく弧を描いて海沿いを走っている。運転手は「ここは清水の港ですよ」と教えてくれる。
 海に沿って走る窓外を見ていると、真次郎の脳裏に記憶が蘇ってくる。そうだ……俺も昔、この道を自分で運転して走ったんだ。窓の隙間から匂ってくる潮の香りも、あの頃と同じだ。
 真次郎はトラックを運転している。そして、フロントガラスの外にこの港の光景を見ていた。この風景、広がる海……過ぎて行く清水港の風景に懐かしさが込み上げてくる。
 ……俺は、この道を何度も走っていた。繰り返し繰り返し、トラックで荷物を積んで東京から神戸へ行き、そしてまた神戸から、荷物を積んで東京へ走った。それはきっと、それが俺の仕事だったからだ。それは、刑務所に入る前の。
 俺は孤独だった。一人ぼっちで、家族もなくて。ただハンドルを握ってた。助手席には同僚がいたと思うけど、誰だったのかも思い出せない。途中そいつと運転を交代しながら、自分が運転しない時は寝ていた。
 無意識にそんなことが脳裏に展開されてくると、真次郎は一人で運転しているこの運転手とも交代しなければならない様な気になってくる。
「あのう、運転手さん……大丈夫……ですか?」
「えっ? はぁ、ありがとうございます。大丈夫ですよ心配しないで下さい。でもちょっと、もし良かったら、後で三十分くらい休憩させて貰っても良いですかね」
「はあ、どうぞ……勿論そうして、下さい」と答える。
 それからまたしばらく運転手は黙って運転を続ける。そして少し細くなった脇道へ逸れてスピードを落し、広い駐車場へと入って行く。
 広々とした駐車場には、朝早いせいか空いているところが沢山ある。運転手はその中の一つの枠に車を止めてサイドブレーキを掛け、エンジンを止める。
「それじゃここで少し休憩させて貰いますね、その間はメーター上がらないようにしときますんで」
 と言ってハンドルの脇にある数字の表示された機械を操作する。
「あのう、ここは……何処です、か」
「浜松ですよ。もう神戸までの半分以上来てますから」
「そうですか……料金は、ここまでで……幾らくらい……掛かってますか」
「え~っと結構掛かってますね」
 運転手は数字の表示された機械を見ながら考えている。
「コレと高速代も足すと、もう九万以上いっちゃってますね」
「そうですか」
 運転手は思っていたより料金が高くなっていることに恐縮した様に言うが、ここまで神戸までの半分が九万円で来たのなら、あと九万で目的地に着けるのだと思えば、何も問題はないと思う。
「それじゃ、三十分くらい止めてますんで、その間にお客さんもお手洗いとか行かれて下さいね」
 と言ってドアを開くと外へ出て行く。真次郎もトイレに行っておこうと思い、ドアを開いて身体をひねり、左足を外へ踏み出す。身体を外へ傾けながら杖を突き、車内から右半身を引っ張り降ろして外へ出る。
 広い駐車場の前にレストランの様な店や売店があり、その脇にある白い建物がトイレの様だ。真次郎は杖を突きながら駐車場を横切ってゆっくりと歩いて行く。
 トイレの中は杉並区の施設とは比べものにならないくらい広くなっており、ズラリとならんだ個室スペースのひとつに入ると、左手だけで上手くズボンとリハビリパンツを膝の下まで下げ、便座に座る。
 用を足し終えて外へ出て来ると、広い駐車場にまばらに停まっている車の、どれに乗って来たのかが解らなくなってしまう。
 ……ええっと、どの車だったろう。そうだ、タクシーだ、タクシーに乗って来たんだから……ああ、アレかな。アレだきっと。
 ようやくタクシーを見つけて近付いてみると、椅子を後ろに倒して、運転手が鼾をかいて寝ている。やっぱりコレだと思い、ああ良かったと後のドアを開けてガチャガチャと乗り込む。
 見ると運転手が買って来て食べたと思われるパンかサンドイッチの袋や飲み物の空き缶が置いてある。真次郎も空腹を感じているのだが、預金通帳はあっても現金が無いので何かを買って喰べるということが出来ない。運転手が起きるのを待って当座の金を貸して貰うしかないと思う。
 三十分くらい休憩すると言っていた運転手は、一時間を過ぎても全く起きる気配がない。その鼾を聞いていると、かつて自分がトラックを運転している時に、隣で同僚が寝ていたことが思い出される。
 さっき見た清水の港の風景に感じた懐かしさ。そしてこの男の鼾で思い出される同僚運転手の鼾。
 ……俺は、トラックを運転する仕事をしていた。そして、東京から神戸に向かって走っていたんだ。そこで俺は麻里恵という女と出会ったのか。麻里恵、もうすぐ解かる。お前に会えば……。
 その後も運転手は寝続けて、一向に起きる気配は無い。しかしこの先また今までと同じくらい運転して貰わなくてはならないのだし、無理に起こしてしまうのも悪いと思い、真次郎は腹が空くのも我慢してじっと待っている。
 待つということにそれ程の抵抗を感じないのは、自分は永年生きて来たので今更急ぐこともないということなのか、ここまで来た以上はもう誰にも連れ戻される心配も無いという余裕からなのか。何よりまだ遥か遠くにある桜華園という旅館まで行く為には、この運転手だけが頼りなので、少しは時間を浪費しようとも機嫌を損ねてはいけないと思う。
 外がすっかり昼の様に明るくなると、運転手がようやく目を醒ます。すみませんと恐縮するが、真次郎は怒りもせずに現金が無いことを説明して金を貸して貰い、頼んでパンと牛乳を買って来て貰う。

 ようやく出発したタクシーは再び高速道路を走り出し、真次郎は後で運転手が買って来てくれたパンをモグモグと食べる。
 暫く走ると運転手が口を開く「お客さん、もう銀行が開く時間なので、もし良かったら一度高速を降りて銀行に寄らせて貰ってもいいですかね。疑う訳じゃないんですけど、神戸までですとかなり高額な運賃ですから、やっぱりお持ちの現金を確認させて貰いませんとちょっと心配なもんですから」
「あ、そうですか。いいですよ……それなら是非、そうして……下さい」
 そう答えると、運転手は長いカーブをグルグルと回る道へ入り、高速道路を出て信号機のある普通の道路へと入って行く。
「お客さんのお持ちの通帳の銀行があるところを探しますので、ちょっと待って下さいね」
 そう言うと市街地の道路を走り廻り、鉄道の駅の様なところへくると車を停める。
「ちょっと交番で聞いてきますので、待ってて下さい」と言って車を降りて行く。
 戻って来ると車を走らせ、すぐに小さな駐車場へ入り、車を停める。
「お客さん、すぐそこにお客さんがお持ちの通帳の銀行があるんですけど、一緒に歩いて行って貰えますか」
「あ、はい……勿論、いいですよ」
 車を降りて、運転手と共に銀行へ向かう。小さな商店街の中に綺麗なガラス張りの店があり、横の看板には確かに真次郎の通帳と同じ銀行の名前が書いてある。
 グィンと開く自動ドアを通って中へ入ると、広いフロアーに長椅子が並んでおり、まばらに人が座っている。前方に横に広く延びたカウンターがあり、番号で仕切られている中に制服を着た女の人が座っている。
 運転手は真次郎を長椅子に座らせると「整理券を貰って来ます」と言ってカウンターの横にある機械へ行き、ボタンを押すと出てきた小さな紙を持って戻って来る。その紙を真次郎に見せる。
「この番号が呼ばれたら、一緒に窓口に行きますので、そしたらお客さんがお持ちの通帳と印鑑を出して、お金を降ろして貰える様に頼んで下さい」
「はい、分かりました……」
 間もなくピンポーンという機械の音と共に女性の声でその番号が呼ばれ、運転手は真次郎を促して窓口へ連れて行く。窓口へ着くと真次郎はシャツの中から首に下げたビニール袋を引っ張り出し、通帳と印鑑を窓口の女性に差し出す。
「あ、あのう……この通帳から、お金……を、降ろしたい……んですが」
「はいかしこまりました。それではこの用紙に金額をご記入して頂けますか」
 と女性から用紙とボールペンを差し出されて、真次郎は左手でボールペンを取るが、手がブルブル震えてしまう。
「私が代わりに書きましょうか」と言って運転手がペンを取り、受付の女性に説明する。
「私はタクシーの運転手なんですけど、今この方を東京からお連れして来てまして、この人料金を払うのに預金を降ろさないと払えないと仰るものですから、お手伝いしてるんですよ」
 受付の女性はちょっと黙り、運転手を見つめる。
「そうですよねお客さん」
 と運転手は真次郎にそのことに間違いないことを確認する様に求める。
「は、はい……そうです。そうなん、です……」
「作用でございますか。承知いたしました」と受付の女性が答える。
 運転手は真次郎に「降ろす金額は幾らにしますか?」と聞いてくる。
「タクシー、の……料金は、幾ら……ですか」
「そうですね、今十万くらいですから、ここからの高速料金と宝塚市まで行くのと合せても二五万まではいかないと思いますけど」
「それじゃ……五十万、降ろして……下さい」
「そんなにですか」
「他に……も、いろいろ、お金が……掛かると思うので……」
「そうですか、分りました」
 と言って運転手は用紙に金額を記入して、受付の女性へ差しだす。
「それではご用意出来ましたらお呼びしますので、そちらにお掛けになってお待ち下さい」
 と言われて、二人はもう一度先ほどの長椅子に腰を降ろす。
「相沢様、お待たせ致しました」
 と呼ばれて運転手と真次郎は受付へ向かうと、受付の女性は一万円札の束をプラスチックの皿に乗せ、通帳と印鑑を添えて真次郎に差し出す。
「五十万円と通帳とご印鑑です、ご確認下さいませ」
 真次郎は運転手に「代わりに……数えて、下さい」と頼む。
「はい、分かりました」と運転手は答え、真次郎によく見える様に札束を扇状に広げ、端から一枚ずつ「一、二、三、四……」と声に出して数えて行く。それを見ながら真次郎は、ああ自分には確かにこれだけの金があるのだと実感して行く。
「はい、確かにありますね、それじゃ目的地に着いた時に料金は精算させて頂きますので、コレは通帳と印鑑と一緒にお客さんがお持ちになっていて下さい」と運転手は受付の女性に聞えよがしに言う。
 そして現金を女性が一緒にくれた封筒にしまうと、通帳と印鑑と一緒に真次郎の首の袋に入れていく。その時袋の中に少し縁が削られたステンレスのスプーンが入っているのに気付き「なんでスプーンなんか入れてるんですか?」と不思議な顔をして訊ねる。
「コレは……大事な……もの、ですから」と真次郎は答えてスプーンを受け取ると、ジーパンのポケットに差すが、長い柄が収まり切れずにポケットからはみ出してしまう。
 真次郎は袋をシャツの中にねじ込む。五十万の現金が増えた分袋は大きくなり、シャツは胸元が不自然にボコッと膨らんだ格好になる。
「ありがとうございました。お気を付けてお帰り下さいませ」
 と愛想よく言う女性に送り出されて、二人は銀行を出る。
 真次郎は運転手に礼を言う「あ、ありがとう……ござい、ました」
「いーえ、こちらこそ、安心しましたよ。私タクシーの運転手になってこんなに長距離のお客さん乗せたの初めてですから、良い経験になりますよ」心なしか運転手は前よりずっと機嫌が良くなった様に思える。真次郎が引き出した現金を見たお陰だろうかと思う。
 運転手は、真次郎が杖を突いて歩くのが遅いことにも嫌な顔ひとつせずに、歩調を合わせてゆっくりと歩き、駐車場まで戻る。
「ここは、どの辺りなんですか?」と尋ねると「もう大阪には入ってますからもう少しですよ」と運転手は答える。
 後部座席に真次郎を乗せ、運転席に乗り込むと、運転手は最初に真次郎が見せたメモ用紙をもう一度見て、ダッシュボードに取り付けられた小さな画面のある機械に、メモに書かれた住所を打ち込んで行く。
「それは、何……ですか」
「これはカーナビと言って、目的地の住所を打ち込んでおくと、そこまでの道順を教えてくれる機械なんですよ」
「……」
 一体どんな仕組みでそんなことが出来るというのか、真次郎には驚くより他はない。
「それじゃ、出発しますね」
 と言って機械を操作し終わると左手でギアを入れて車を出す。しかし、走り出してから一向にギアを入れ直す様子が無いことに初めて真次郎は気付き、コレもおかしいと思って見ている。
 ローギアで発進させたらスピードが上がると共に重いギアにチェンジしていく筈なのに、運転手は最初にギアを入れたきりずっと変えようとしない。
 それも不思議に思ったが、きっと時代が変わり、車の構造というものも変わってしまったのだろうと思う。
 元来た街中を走り始めると「二十メートル先、左折です」と先ほど運転手が住所を入力した機械から女の声がしたので驚いて見る。運転手がその通りに左に曲がるとまた「次の交差点を右折です」と喋る。運転手は機械の指示に従ってハンドルを切って行く。
 そうするうちにタクシーは再び高速道路に乗り、神戸を目指して走り始める。
 神戸が近くなったのだと思うと、それに触発されてか、今まで思い出せなかった記憶が意識の上に浮かんでくる様な気がする。
 仄かに思い出される記憶によれば、かつては東京から神戸までトラックで来るのに、一日では来れなかったのではないかと思う。
 それと、施設にいた頃から時折り断片的に見えていた、かつて麻里恵と一緒に行ったのではないかと思う場所について、運転手に尋ねてみる。
「あのう……この辺りで、山の上から……港、が見える、ところ……があります、か?」
「山の上から港ですか? そりゃ六甲山じゃないですかね、夜景が綺麗だって有名ですよ」
「六甲……山ですか」
 タクシーはまた大きなカーブを回って違う道に入ったりしながら、高速道路を数時間走り続ける。そしてまた脇道に入るとスピードを落し、信号のある普通の街路へと出る。
 運転手は機械の発する女の声に従って角を曲がったりしながら、市街地を走り抜けて行く。
 そうして徐々に山の中へ登って行く様な道路を進み、やがては道の両側が山で囲まれた中を走り始める。
「さぁお客さん。もうすぐですよ」
 もうすぐ……もう近くに、麻里恵はいるんだ。
 また何か記憶に呼応する様な物が無いかと真次郎は一心に景色に見入っている。車は山の中を曲がりくねった細い道を右へ左へと揺れながら走り、眼が回りそうになってくる。
 まだかまだかと思っていると、道の上に大きく「武田尾温泉」と書かれたアーチが現れ、そこを潜ると河を渡る橋になっている。車は橋を渡り、さらに河に沿った道を走って行く。
 見ると紅葉になっている木々に囲まれた中を河が流れている。とても美しい所だと思う。
 真次郎はこの風景をかつて見た筈なのだと思う。何かを思い出せそうな感じはするのだが、具体的なことを思い出すことは出来ない。
 河の流れはやがて狭くなり、小さなせせらぎの様になって行き、その周囲に懐かしい風情の家屋が並んでいる。
 車はスピードを落として狭い路地を進んで行く「まもなく目的地に到着です」という女の声と共に、広くなった場所へ出る。
 そこには何十年も前の家屋であろう古い旅館がある。車はその前に停車する。
「お客さん、着きましたよ」と運転手が真次郎を振り返って言う。
 見るとその旅館の玄関の上に「桜華園」と書かれた木の看板がある。
 ……桜華園……来た。俺はやっと来たんだ。
「ありがとう、ございます……」
 真次郎はここに来るまでに掛かった運賃と、高速道路の料金、それに立て替えて貰ったパンや牛乳の代金等も足して計算して貰う。金額は二二万円を超えている。
 シャツの中からビニール袋を引っ張り出し、その中から金の入った封筒を出す。運転手に渡し、ここまで無事に連れて来てくれたお礼の意味も込めて、その金額に三万円くらい上乗せして二五万円を受け取ってくれと運転手に言う。
「あ、いやーそんなに上乗せして貰っては申し訳ないですよ」と恐縮しながらも運転手は二五枚の一万円札を数えて、残りを真次郎に返す。
「今夜はここにお泊りなんですね、お帰りはどうなさるおつもりなんでしょうか?」とニコニコして訊ねてくる。
 あわよくばまた東京までの帰りも真次郎を乗せて行きたい。と考えているのであろう。
 そう思って初めて真次郎は気付く。ここからまた東京まで帰るなどということは全く考えてもいなかった。ここに来て麻里恵に会えれば、もうそれだけで良い。その後のことは何も考えていない。
「いえ、もう……いいんです。ここまで来られた……のだから……後のことは……何も、解りません……」
「そうですか、分りました」
 と言って運転席を降りると、車の後ろを回って後部座席のドアを開き、真次郎が降りるのを手伝う。
「それではお気を付けて」と旅館に向って行く真次郎を名残惜しそうに見送ると運転席に乗り込み、ドアを閉じて走って行く。


 


第三章 1~2

    第三章


    1

 

 ここに、この旅館に、麻里恵がいるんだ……。
 真次郎は無意識にジーパンの上からポケットに入っている削りかけのスプーンを握り締めている。何故そうしているのかは解らない。でも何故かそれは手放してはならない大切なお守りである様に感じている。
 コツン……タッ、ズズズ……コツン、タッ、ズズズ……。
 杖を突いてゆっくりと、開け放たれている玄関へ入って行く。誰もいない。中は広く、磨かれた木の柱や梁があって、如何にも何十年もの月日が経ったであろう歴史を感じさせる。
 それは真次郎の生きた時代に寄り添って建っていた様な親しみを覚える造りである。玄関の奥に長い廊下が続いているのが見える。
「ごめん……くだ、さい……」
「はーい」奥の方から声がして小走りに仲居の着物を着た女が来る。
「いらっしゃいませ、ようこそお来し下さいました」と愛想良く頭を下げたその顔は、かなり老け込んでいる老女である。今聞いたその声が身体中に電流の様に流れていく。指の先から足の先までが小刻みに震える。
 老女と眼が合った途端に心臓の鼓動も激しくなる。真次郎は口を開く。
「あのう……」
「はい、お泊りのお客様でしょうか」
「……」
 その老女は、真次郎が杖を使ってかなりヨロヨロしていることと、他に連れの者がいないことに戸惑いを感じた様に言う。
「おひとり様でしょうか?」
「あの、う……こちらに、麻里恵、という人が……いると、思うのです、が……」
「……お客様の中にですか?」
「いえ、ここで……働いて、る筈……なんで、す」
「ここで働いてる? 苗字は何と仰るんですか」
「それは……多分、三浦……三浦というんだと……思うんですが」
 老女はちょっと驚いた様な顔をする。
「……失礼ですが、お客様のお名前は何と仰るんですか」
「相沢、相沢……真次郎……です」
 ドターンと音がして、その仲居の老女が倒れてしまう。
 その音を聞き付けた他の仲居が来て「あら、女将さん! 女将さんどうしました?」と倒れた老女を抱き起す。
 奥からまた別の仲居と男性が走り出て来る。
「女将さん……大変だ、救急車を呼んで!」
 真次郎は呆然としている。何故倒れたのか、もしかしたらこの女が麻里恵なのか、俺の名前を聞いたから倒れたのか、それとも何かの病気で倒れたのがたまたまタイミングが合ったのか。解らない、この女の名前は何と言うのか聞いてみたいが、それどころではない騒ぎになってしまっている。
「脈はあるかい?」「うん、ちゃんと息はしてるよ」と従業員たちの声が飛び交う。
「あ、あのう……すみま、せん。私は……」
 従業員たちの後ろから声を掛けるのだが、皆それどころではなく、全く振り向いてくれない。
 仕方なく真次郎は後に下がり、玄関の隅で成り行きを見守っているしかない。
 程なくしてサイレンの音が道を登って来たかと思うと救急車が到着し、降りて来た隊員が倒れた老女の容態を確認する。
 この老女が麻里恵なのか、このまま病院に連れて行かれてしまうかもしれない、その前に話くらいは出来ないのか。
 隊員が救急車の後部扉を開いてガチャガチャとストレッチャーを降ろして来る。隊員たちは老女をストレッチャーに乗せる。
「大丈夫だよ」「女将さんしっかりして」従業員たちの声に送られながら、老女は救急車に乗せられる。
 バタンと扉を閉めるとサイレンを響かせて、救急車は先ほど真次郎がタクシーで来た河沿いの道を走って行ってしまう。

 救急車が行ってしまった後、気が付くとひとりの仲居の女が真次郎の近くに立っている。さっき倒れてしまった女程ではないが、この仲居もかなり老けている。初老な感じである。
「あのう、お客様、突然のことで大変失礼致しました」
「は、はい……」
「失礼ですが、今日はお一人様でご来館頂いたのでしょうか」
 気のせいか、その女は何か辺りをはばかる様にして、小声で話し掛けてくる。
「は、はい……一人ですが……あ、あのう、こちらに、麻里恵という人が、働いておられると……思うのですが……私は、その方にお会い、しに来た。のです……」
「……あの、失礼ですが、お客様のお名前は」
「あ、相沢……真次郎といい……」
「お部屋へご案内しますのでどうぞ」
 違和感がある。今この女は真次郎の言うことを遮る様に言った。真次郎の腕をつかみ、引っ張る様に力を入れてくる。
 真次郎は促されるままに杖をついて三和土へと近づく。東京の施設から履いて来たサンダルを脱いで、おぼつかない足取りでどうにか三和土に上がると、女は真次郎の足元に館内用のスリッパを揃えて置く。
 真次郎は履こうとするが、足元が定まらずによろめいてしまう。
 女が横へ来て真次郎の右腕の脇の下から腕を通して身体を支えてくれる。だが、その支えてくれている女の腕がブルブルと震えている。見ると顔も強張っている様に見える。
 どうにかスリッパを履いて廊下へ進む。奥まで続く長い廊下に客室のドアが並んでいる。
 女は一番手前にあるドアを開け「こちらへどうぞ」と言って真次郎を中へ入れる。
「すいません……」
 と言いながら部屋に入ると、女はバタンとドアを閉め、ガチャリと鍵を掛ける。
 スリッパを脱いで上がると中はすっきりした六畳の和室に木製の座卓が置かれている。その向こうには外を流れる小川に面して二畳程の板の間があり、小さなテーブルを挟んで藤椅子が置かれている。
「どうぞおくつろぎ下さい」
「あ、あの……う、俺は足……が曲がらない、ので、床には、座れないから……」
「そうですか、それでは窓際の椅子の方へどうぞ」
 と促し、大きなガラス窓の前にテーブルのある板の間へと真次郎を連れて行く。
 真次郎が椅子に近付こうとした時、グインと頭上が回転し、ガコンと音がして真次郎は倒れている。
 何が起こったのか、頭から痛みが沸き上がってきたかと思うと顔面にサラサラと血が流れてくるのが分かる。
 ドカッ、ドカッ! 背中が蹴飛ばされて、テーブルの脚に割れた頭が打ち付けられる。
「あなた、今更、何しに来たのよ! はぁ、はぁ、何だって今更……こん畜生っ!」
 それはこの部屋へ案内してきたあの女の声なのか、背中を蹴る足の衝撃に凄い憎しみが篭もっている。
 カラカラッ……と音がして何かが転がったかと思うと、口から入れ歯が飛び出している。
 うごめいて真次郎は身をよじる。ドカッ! ドカッ! 今度は胸が打ち付けられる。
「ああ、ああ~~」
 胸を打ち付けられて息が出来ない。何が起こっているのか解らない、されるがままになっている。頭と、胸と、身体を激痛が覆い、意識が朦朧としてくる。
「うう~~ああ……」頭から真次郎の残り少ない命の様に血が流れていくのが分かる。そのまま訳が解らなくなってくる。
 ガチャガチャッ……コンコン。失い掛けている意識の中で、誰かがドアを開けようとしてノックする音が響いてくる。
「若女将、いらっしゃいますか、東京のお嬢さんからお電話が入ってます」
 背中を蹴っていた女が慌てた様にドアへ走って行き、鍵を解いて開く。
「こっちも大変なのよ! お客様が転んで頭から血が出てるから、もう一度救急車を呼んでちょうだい!」
 しばし様子を見ている間があったかと思うと「は、はいっ」と慌てて返事をしてその女が部屋から出て行く。ドタドタと廊下を走って行く音がする。
 何が起こったのか解からない。自分がどうなっているのかも解からない。ただ意識は朦朧として、何も分からなくなっていく……そのまま全てが闇に包まれてしまう……。

 

    2

 

 真次郎の目にうっすらと視界が戻ってくる。ここは何処なのか、白い天井がある……東京の施設に戻っているのか……いや、自分はもう死んだのかもしれない。でもスースーと自分が呼吸している音が聞こえている。俺は生きているのか……。
 視界の上に誰かが来て俺の顔を覗き込んでいる……優しそうな女の顔。マリ、麻里恵だ……マリ……会いたかったよ……。
「相沢さん、相沢さん大丈夫ですか……」
 マリが俺を呼んでるんだ。やはりここはあの世なのか……。
「マ、マリ……何処にいた……の? 探したん……だよ」
「気が付きましたか? 相沢さん、私のこと分かりますか?」
 真次郎に意識が戻って来る。
 あっ……これは、マリじゃない、この人は、沙奈さん……沙奈さんじゃないか。でも何故沙奈さんが? そうか、やっぱりここは東京のあの施設なんだ。俺は、折角神戸まで来たのに、結局連れ戻されてしまったのか。
 真次郎はベッドに寝ており、知らぬ間に浜矢のジーパンとシャツも脱がされ、パジャマに着替えている。
「相沢さん、相沢さん、もう……心配したんですよ!」
 そう言って沙奈はベッドの上に紐でぶら下がっているボタンを押す。
 見ると沙奈の横には、あの旅館で客室に真次郎を案内した仲居の女が立っている。
 ……俺の頭はどうなったのか、真次郎はそっと左手で触ってみると包帯が巻かれている。
 ……あの時、俺は誰かに突き飛ばされて、転んでテーブルに頭をぶつけて、それで怪我をしたんだ。その後も誰かに背中を何度も蹴られて……あれは誰にやられたのか、あの部屋に誰かが隠れていたのか? それともこの仲居の女がやったのか? しかし何故俺があんなことをされなければならないんだ……何か俺がここへ来てはならない理由でもあったというのか。
 それに何故沙奈さんがここであの旅館の女と一緒にいるのか、訳が解らないまま考えていると、ドアを開けて白衣を来た女が入ってくる。
「あの、今目を開けて、意識が戻ってるみたいなんですけど」
 と沙奈が白衣の女に言う。
「もしもし、大丈夫ですか、私のことが見えますか? 相沢さん、この指を見て下さい」
 とその看護師は真次郎に言うと、目の前に人差し指を立てて、左右に動かしていく。思わず真次郎はそれを眼で追う。
「私の声が聞こえますか? 聞こえたら頷いて下さい」
 そう言われ、真次郎は縦に顔を振る。
 続けて看護師は真次郎の腕に大きな腕時計の様な機械を巻き付けてスイッチを入れる。するとグィーンと音がして腕が締め付けられる。
 沙奈はずっと心配そうにその様子を見ている。その横では旅館の女が何か神妙な顔をしている。
 暫くして看護師は腕から機械を外し、その数値を見て言う。
「大丈夫ですね、頭の怪我の方もレントゲンの結果、骨には異常は無かったみたいですので、安静にしていれば腫れが引いて傷口も塞がりますよ」
「はい、ありがとうございます」
 と旅館の女が言って頭を下げると、看護師も軽く会釈をして部屋を出て行く。
「さ、沙奈さん……君は、どうして……ここに?」と訊ねる。
「相沢さん。なんて無茶なことするんですか! 今朝施設で行方不明になったって聞いて、もしかしたらって思って、連絡したんです。でもまさか、私が話した実家の旅館に、本当に来てるなんて……電話したら母がそれらしい人が訪ねて来たって言うから。驚きましたよ。こんな大怪我までして。でも無事で本当に良かった。施設では大騒ぎになってるんですよ」
「……こ、ここは、何処ですか?」
「ここは宝塚市にある病院です」
「……」
 真次郎の頭に、筋道を立てた考えが浮かんでくる……俺は昨夜東京のあの施設を抜け出して、タクシーに乗ってここまで来た。そしてやっと桜華園という旅館に辿り着いて、出てきた老女の仲居さんに麻里恵のことを訊ねたら……そうだ。あの倒れてしまった仲居さんはどこにいるんだ。あの人がやはり麻里恵だったのではないのか?
 あの人は救急車に乗って行ってしまって、それからここにいるこの仲居さんに部屋に案内されて、誰かに怪我をさせられて……そうだ。そして俺も病院に運ばれたんだ。
 そして沙奈さんは、朝東京の施設で俺がいなくなったので桜華園に電話をして、俺がこっちへ来ていることを知った。そしてわざわざ東京から駆け付けてくれたって訳か……。
 神妙な顔をして黙っていた旅館の女が、側へ来て真次郎の顔を見る。
「でも本当にご無事で何よりでした。お部屋で倒れられた時には本当に驚きましたよ」
 ……俺が、倒れた? 違う、アレは、誰かが後から突き飛ばしたんだ。やはりこの女ではないのか?
「東京で娘が勤めている施設にいらした方なんですよね、何か娘がいらぬことを言ったばっかりに、遥々訪ねて来て下さったんですね。本当に申し訳ないことを致しました」と言って深々と頭を下げる。
 ……沙奈さんが娘? この人は、沙奈さんの母親なのか、するとつまり、麻里恵の娘だということか? そうだ、俺の目の前で倒れたあのお婆さんの仲居さんは、他の仲居から女将と呼ばれていた。やはりアレは麻里恵だったのか……。
「相沢さん。私施設に電話して来ますね、先生のお話じゃ三日間は安静にしてた方が良いってことですから、それまでここに入院して、動いても大丈夫になってから、連れて帰るって施設には報告して来ます」
 そう言って沙奈は部屋を出て行く。

 病室には真次郎と旅館の女だけになる。女は凄く怖い顔をして真次郎を睨みつける。
「……おい、貴方ふざけないでよ、今更何をしに来たっていうのよ?」
「……」
 だがそう言われても、真次郎には何のことだかサッパリ解らない。
「いや、俺は……ただ……」
「全く貴方は、こんなにヨレヨレになってまで東京からやって来るなんて、なんて執念なのよ!」
 ガッシャーン! 気がつくと真次郎はベッドから引き摺り落とされている。
 女は床に落ちた真次郎の上に馬乗りになると、両手で真次郎の頭を抱え上げ、そのまま床に叩き着ける。
 ガィーン!
 脳天に響く衝撃が炸裂する。
 ガィーン! ガィーン! ガィーン!
「はぅ、ああっ、ひあっ……」
 女は黙って繰り返し頭を打ち付けていく。頭の傷口がまた開いたのか、みるみる包帯が血で湿っていくのが解かる。今度こそ殺されてしまうと思う。
 ムギュギュギュッ……女は立ち上がり、真次郎の顔を踏み付ける。
 ……やっぱり、やっぱり旅館でもこの女がやったんだ。この女……麻里恵の娘が……。
「ねぇ、何を考えてるのよ! もう私たちのことはそっとしておいて下さいよ。お願いだから……」
 と言って尚一層の力を込めて顔を踏み潰す。潰されている口の隙間から血が流れて床に広がっていく。
「ふぁ、ふぁの……」真次郎は必死に口を開く。だが顔を踏まれているので言葉が明瞭に発音出来ない。
「なんですか相沢さん」
「お、お願い……しま、ふ。麻里恵……に、お会わへ、願へ……まへん、で、ひょうか……」
「会ってどうするつもりなの?」
「どう、ふる……って、何も……たら、私、のこと、を……麻里恵に、教へ……て、欲ひい……から」
「貴方のことを、教えて欲しいって? どういうことよ」
「お恥ずかひ……い、こと……でふが、俺……は、自分……の、ことが、思い出へ……なひ……んです」
「……それは本当なの?」
「は……はい」
 女は考える様に黙る。
「……」
 心なしか足の力が弱まった様な気がする。女は踏まれている真次郎の顔を上からじっと見つめる。そして足を外すと真次郎の脇にしゃがみ込む。
「本当に何も覚えてないの?」
「……はい」
「それじゃ聞くけど、麻里恵って人と貴方とはどういう関係だったの?」
「……それが、全く……何も、記憶に、無い……んです」
「それじゃどうしてここまで来たのよ、貴方は旅館に来て、麻里恵という人に会いに来たって言ったじゃないの」
「それは……頭の中に、その名前だけが……あって、それが誰なのか……は思い出せなかった。だから……麻里恵に会って……俺と、どういう、関係だったのか……を、麻里恵に、教えて、貰いたくて……それで、来た……んです」
「……それは本当なの?」
「はい、旅館の名前……は、沙奈さん……が、教えてくれたから……それだけを頼りに、来ま……した」
「そうですか……」
 真次郎の話すことを聞いて何か考えを変えたのか、女の顔つきが違っている。
「……相沢さん。貴方のことは私も沙奈から伺っておりましたけど。残念なんですが貴方が思い出にしておられる麻里恵さんという方と、私の母とは名前は同じでも全くの別人で、何の関係もない人間なんですよ」
 ……嘘だ! 今更何を言ってるんだ……真次郎の頭に直観が走る。あの旅館で、気を失って倒れていく老女の姿が再生される。あの老女は……俺の名前を聞いて倒れたんだ。アレは、あまりにも驚いて気を失ったんじゃないのか!
 ……いや間違いない、俺の名前を聞いて倒れたんだ。名前を聞いて、俺を見たから倒れた……俺のことを知ってるんだ。あのお婆さんは、やっぱり俺の中にいる麻里恵なんだ。
 この麻里恵の娘だと思われる旅館の女は、先ほどの怒りを込めた口調から一変して、優しい仲居さんの様な口調になって言う。
「遠いところを折角来て頂いたのに申し訳ないのですが、きっと貴方の思い出の中にいる麻里恵さんは、ここじゃない何処か余所にいる方なんだと思いますよ」
 もう、騙されないぞ……真次郎は頭の中で必死に考えて、筋道を立ててみる。
 ……この人は、沙奈さんのお母さんで、麻里恵の娘なんだ。そして、この人は俺を殺そうとした。そして麻里恵のことを、俺の記憶の中にいる麻里恵とは別人であると嘘をついている……。
 ……何故だ! 俺はそれ程、ここへ来ちゃいけない人間だったのか? この人にとって、俺は有無を言わさず殺さなければならない程、招かれざる客だったというのか……。
 ガチャリとドアを開けて沙奈が入ってくる。
「どうしたの! 相沢さん!」
「ベッドから落ちたのよ、早く看護師さんを呼んで」
「何やってたのよお母さん」
「自分で動いてベッドから落ちたんだよ」
 そう言いながらまた真次郎のことを凄い目で睨み付ける。
「ナースコールは?」
「えっ?」
「もぅ~お母さんたらさっきもコレ押したら看護師さんがすぐ来てくれたじゃない!」
 沙奈はまたベッドの頭上に下がっているナースコールのスイッチを押す。
 やがて看護師が駆け込んで来る。床に寝て頭から出血している真次郎を見ると驚いて沙奈に手伝わせ、両腕を抱えて真次郎を起こす。
 頭の包帯が赤く染まっている。二人は真次郎を支えて病室を出ると、治療室へと真次郎を運んで行く。

 パックリと開いてしまった後頭部の傷口を医師が縫合する間、真次郎を殺そうとした沙奈の母親が医師に説明している。
「急にベッドの上で暴れ出して、床に転げ落ちたんですよ」
 ……違う、この女が俺を引き摺り落として、殺そうとしたのだ……しかし今この医者にそう言っても、多分信じて貰えないだろう。何しろこの女が俺を殺さなければならない理由が無い。説明しようにも俺にも解からないのだ。何よりも俺はボケて勝手に施設を抜け出して徘徊し、こんな遠い所まで来てしまったボケ老人という認識で見られている。
 それよりも何故俺を殺す必要があるのか、そっちが知りたい。俺はこの女に何をしたと言うのか。
 ふと見ると、医師に真次郎がベッドから落ちたことを説明している母親の顔を、沙奈が不審に満ちた目でじっと見つめている。

 真次郎は治療を終えると沙奈と母親に支えられて、再び元の病室へと戻される。
「大丈夫ですか、いきなりベッドから落ちたので、驚きましたよ……」と言いながら、沙奈の母親は様子を伺う様にしてじっと真次郎の顔を覗き込んでくる。
 真次郎は何も言わない。沙奈と母親が話し掛けてもただ虚ろな目で、二人の顔をながめている。
 それを見て安心した様に母親が言う「驚きましたけど、でもご無事で何よりでしたね」
 沙奈はそんな母をじっと見つめて口を開く。
「……ねぇお母さん。もしかして母さんが相沢さんをベッドから落したんじゃないの?」
 母親の動きが止まる。
「……何言ってるの。そんなことする訳ないじゃないの」
「だって、考えてみたら、旅館の部屋で倒れたっていうのも。母さんがやったんじゃないの?」
「なんでよ、何の為に私がそんなことしなきゃならないのよ。バカなこと言うもんじゃないよ」
「だって、転んで頭を打ったにしては怪我が酷すぎるもの……」
「どうして私がそんなことするのよ」
「それは……何か相沢さんのことを、恨んでることがあって」
「な、何言ってるのよ! バカなこと言うもんじゃないよ……」
 と言いながらも、激しく動揺しているのが解る。
「……ねぇ、お母さん。私、相沢さんをお祖母ちゃんに会わせてあげたいんだけど」
 瞬間母親はギクリとした様に身体を震わせ、沙奈の顔を見る。
「……どうしてよ。何の関係もないのに」
「例え関係なくたって、相沢さんの思ってるマリさんとお祖母ちゃんが別人だったとしても、こんなに苦労してここまで来たんだから、別人なら別人だっていうこと、相沢さんにもちゃんと納得させてあげた方が良いと思うのよ」
「そんなことは絶対にダメだよ」
「どうしてよ」
「どうしてもよ」
「だから何でよ!」
「……」
「どういうつもりなの?」
「なにがよ」
「本当に何も関係ないの?」
「だから何がよ?」
「相沢さんとお祖母ちゃんだよ」
「当たり前じゃないか」
「じゃどうして殺そうとしたの?」
「だからそんなバカなこと言うんじゃないよ!」
「そんなに相沢さんとお祖母ちゃんを会わせちゃいけない理由でもあるの?」
「無いよ」
「だったら会わせてもいいじゃない」
「ダメだよ」
「だから何で?」
「だから何でもだよ」
「だって何の関係もないんでしょ」
「勿論だよ」
「嘘!」
「……」
 母親は何か弱気になったのか泣きそうな表情になり、懇願する様に言う。
「……沙奈、私がお前に隠し事なんてしたことがあったかい?」
「だって……」
「……何よ」
「……ねぇお母さん。たとえ相沢さんの勘違いだったとしても、私は相沢さんにお祖母ちゃんと会わせてあげたいのよ。だって、こんな思いまでして、一人ぼっちで、無茶してこんなに遠くまで来たんじゃない。だから、勘違いだったなら勘違いだったってこと相沢さんに納得して貰ってから、帰った方がいいと思うのよ。お祖母ちゃんはたまたま同じ名前だっただけで、相沢さんと深い関係があった麻里恵さんとは別人だっていうことを」
「……」
「だって本当に関係ないなら別に会ったって何も問題無いじゃない?」
「……」
 母親は追い詰められた様な表情になり、震えているのか強張っている。
「……ねぇ、何があったの? 私もう解ったよ。ねぇお母さん。もう誤魔化そうったって無理だからね。相沢さんが思ってた麻里恵さんて人は、本当にお祖母ちゃんのことだったんでしょう?」
「違うよ」
「嘘よ!」
「そんなのお前には関係のないことだろう」
「なんでよ」
「もう遠い昔のことなんだから」
「でも相沢さんはまだしっかり生きててここにいるじゃない」
「……」
「ねぇどうして! なんで教えてくれないの?」
「ねぇもう、勘弁しておくれよ……お祖母ちゃんのことに、お前が関わることはないんだから」
「嫌だ」
「なんでよ」
「だって私は、相沢さんの力になってあげたいんだもの」
「このお爺さんがどうしたって言うのよ」
「相沢さんは……本当に麻里恵さんていう人のこと愛してたんだよ。私はそのこと良く知ってるから、羨ましかったの、男の人から、こんな風に生涯思われる女性がいるなんて」
「この男は愛してなんかいないわよ!」
「どうしてよ!」
「……」
「ねぇどうして? 相沢さんはお祖母ちゃんのこと愛してなかったっていうの? どうして? そんなの信じられない。だって相沢さんは私のことお祖母ちゃんと間違えて、いつも愛してる愛してるって、手を握って涙流してたんだよ」
「……」
「ねぇ、お母さん。お母さんだって本当は相沢さんのこと知ってるんじゃないの?」
「……」
「ねぇ、知ってるんでしょう。もう誤魔化し切れないよ。観念しなよ、もう私は騙されないからね」
「……お前バカじゃないの? 何でそんな男にお祖母ちゃんのこと教えたのよ! 騙されてるのよ、この男がどんな人間だか解ってないんだよ」
「どんな人間って、どういうこと? やっぱり母さんは相沢さんのこと知ってるんだね」
「……」
「ねぇ、黙ってないで答えてよ、相沢さんとお祖母ちゃんはどういう関係だったの?」
 遂に観念した様に母親は、ベッドで虚ろな目をしている真次郎の顔を覗き込んで言う。
「貴方は……もう本当に、何しに来たのよ!」
「だからそれは相沢さんにも、解らないんだって。相沢さんは自分のことが解んなくって、だから、それを知りたいから自分が名前だけを憶えてたお祖母ちゃんに会いに来たんじゃない」
「そんなのは嘘だよ、それじゃうろ覚えの人に会う為にわざわざこんな遠いところまで苦労して来たっていうの? そんなこと信じられないよ」
 そう言われても、真次郎には本当に解らない。自分と麻里恵とがどんな関係だったのか、それを一番知りたいのは真次郎自身なのだ。
 ぼ~っと横になっている真次郎が言葉を発する「貴方は……」。
 急に喋り出した真次郎に母親はギョッとした顔をする。
「貴方……は俺と、麻里恵が、ど……ういう関係、だった……か、知ってるんです……ね? 知ってる……んなら、教えて、下さい」
「貴方は本当に、本当に解らないの?」
「……」
 母親は真次郎の顔をまじまじと見る。しかしどんなに見られても真次郎にさえ、どんな顔をしていいのかも解からない。
 そして、母親は遂に何かを見極めたのか、それまでの猜疑心に満ちていた表情がスッと緩み、何か安堵した様な穏やかな顔になる。そして言う。
「そう……じゃこの人は、うろ覚えにお祖母ちゃんのことを覚えてはいても、自分が何をしたのかってことまでは思い出せないってことなのね」
「そうだよ」
「そう……」
 そして母親はしばし考え込む様な表情をした後、よしという様にひとつ頷いて、沙奈に言う。
「……沙奈は、本当にこの男がどういう人間なのか知りたいのかい?」
「だから相沢さんもその為に来たんだって言ってるじゃない」
「それじゃ教えてあげるわよ……この人はね、あなたのお祖父ちゃんを殺した人なんだよ」
 真次郎は目を見開く。
「そんな……」
 真次郎の脳裏に、血しぶきを上げて倒れていく人の姿が再生される。そして「きゃー」と叫びをあげて顔に鮮血を浴びる少女。
 血しぶきを浴びて泣いている少女の顔が、沙奈の母親の顔に重なっていく。
 ……そうか、この人は……あの女の子なんだ……。お祖父ちゃん……今この人はお祖父ちゃんと言った……お祖父ちゃん。つまり沙奈さんのお祖父ちゃん。この人の父親、麻里恵の夫だということか。そうか、俺の記憶の中で血を噴き出して倒れていく人は、麻里恵の夫だったのか、俺は……麻里恵の夫を殺したのか……。
「殺されたって? お祖父ちゃんが? お祖父ちゃんは戦争に行って亡くなったって言ってたじゃない、戦争から帰って来たの? それから殺されたの?」
「そうだよ」
「私そんなこと全然知らなかったよ」
「お前が知らなくてもいいことだったんだよ」
 真次郎は呆然として沙奈と母親の言い合いを聞いている。そしてその内容を理解している。
「相沢さんは、何でお祖父ちゃんを殺したの?」
「それはお祖母ちゃんを自分の物にしたかったからだろう。この人の身勝手なんだよ」
「ねぇ、どんな成り行きでお祖父ちゃんは殺されたの? それまでお祖母ちゃんと相沢さんはどんな関係だったの? どうして相沢さんはお祖父ちゃんを殺さなくちゃならなかったの?」
「………」
「お祖母ちゃんにとって、相沢さんは自分の夫を殺した憎い相手だったっていうこと?。でも相沢さんはこんなに愛してたのに、お祖母ちゃんにとっては単なる横恋慕してきたストーカーみたいな人だったってこと? お祖母ちゃんにとって相沢さんはそんなに嫌な存在だったの?」
「だからもう解ったろう? 怪我が治ったらサッサとその人を連れて帰りなさいよ」
「嫌だ。だって、そんなのあんまりじゃない」
「あんまりったって悪いのはこの人の方だろう。ホントのことなんだからしょうがないじゃないか」
「相沢さんはお祖母ちゃんと何処で知り合ったの?」
「もうそんなことどうだっていいじゃないか」
「よくない! だって相沢さんはこんな身体なのにこんなに遠くまで一人で来て、やっとお祖母ちゃんのところに辿り着いたのに……」
「だからそれが迷惑だって言ってるんだよ」
「だから殺そうとしたの?」
「……なんだって? バカなこと言うもんじゃないよ」
「そうなんでしょう。旅館のことだって……」
「だからそれはテーブルに頭をぶつけたから……」
「背中に沢山痣があるのだって、施設にいた時は無かったもの、転んだあとでまたお母さんが蹴ったりしたんじゃないの?」
「何言ってるのよ」
「私警察に言うよ」
「バカなこと言うもんじゃないよ!」
「私ホントに言うよ。今のままだったらただの事故で済むかもしれないけど、昔お祖母ちゃんと相沢さんに関係があったってことが解ったら、警察の人だって本気で調べてくれるかもしれないじゃない」
 母親は怒りに満ちた目でブルブルと震えながら、沙奈のことを睨む。
「……アンタって人は、一体母さんと、自分のお祖父ちゃんを殺したその人と、どっちが大事なんだよ」
「どっちでもないよ、ただ私は昔何があったのか知りたいだけ、お祖母ちゃんと相沢さんは何処で知り合ったの? だって知り合わなきゃ好きになるわけもないじゃない。それじゃお祖母ちゃんはどうなの? 相沢さんのことが好きだったんじゃないの?」
「だからそんなことはもう済んだことなんだから、どうだっていいじゃないか」
「相沢さんとお祖母ちゃんはどんな関係だったの? お母さん知ってるんでしょう? 教えてよ、もう私だって大人なんだから教えてくれたっていいじゃない!」
「……」
 母親はじっと沙奈の顔を睨みながら、何か考えあぐねている様子である。そしてまたふぅっと観念した様にため息をつくと、病室に置かれている椅子に腰を降ろす。
「よし……もうそれじゃ、私が覚えていることと、私が今までにお祖母ちゃんから聞いたことを、全部話してやるから、そこへ座んなさいよ」
 沙奈はもうひとつある椅子を母親の前に置き、向い合う様にして腰を降ろす。


 


第三章 3~4

 

    3

 

 母親は頭の中を整理する様に考えながら、沙奈に話を始める。
「……それはまだ戦争が始まる前の、もうずっとずっと昔のことだけどね、元々この人とお祖母ちゃんとは、アンタも通ってた長町小学校に通ってる同級生だったんだよ。その頃はまだ尋常小学校って言ってたけどね」
 ……長町小学校……真次郎の脳裏にその名前がこだましていく……広い校庭が見えてくる。小学生の真次郎は校庭を駆けずり回っている。青い空と、遠くに山々が見える。あれは六甲山だろうか。振り返ると横長の木造校舎に教室が並んでいる。
 沙奈に話している母親の声が続いている「……この人は悪くってね、お祖母ちゃんはよく苛められたって言ってたよ。お便所に閉じ込められて、ドアの上からホースで水をかけられたりしたって言ってたよ」
 小学生の真次郎は麻里恵を木造の便所の個室に閉じ込めている。押さえて中から出られない様にして、ドアの上からホースでジャバジャバと水をかける。
 中で「いやだ! やめてよ」と麻里恵が言っても真次郎はやめない。中から出て来た麻里恵はびしょ濡れになっている。それでも麻里恵は怒らない「もう~やめてよ」というだけで、困った様に笑っている。
  他にも捕まえて来たバッタを背中に入れようとしたり、お弁当のオカズを取ってしまったり、真次郎の脳裏に、小学生時代の麻里恵を苛めている数々の悪行が映し出されていく。
 でも麻里恵は真次郎に何をされても怒らない。机に落書きをしても、教科書を取り上げて校舎の外へ放り投げてしまっても「もぅ~何でそんなことするのよ」と困った様に言っては取りに行く。
 真次郎がどんな悪さをしても、麻里恵が怒らないので、真次郎の悪さは一層度を増していく。靴箱から麻里恵の履いて来た靴を盗み、校庭の隅にある池に浮かべてしまう。靴は池の縁から離れて手の届かないところに浮いている。それを見た麻里恵は困って立ち尽くしたまま泣き出してしまう。
 真次郎は笑っていたが、麻里恵が泣いたのを見ると仕方がないと思い、裸足になってズボンを濡らしながら池にジャブジャブと入っていく。
 やっとのことで麻里恵の靴を取り、池の外へ投げてやる。麻里恵は「ありがとう」と言って靴を拾う。
 そんな光景が次々と走馬灯の様に脳裏に映し出されて行く。沙奈に話している母親の声が続いている。
「小学校の頃はず~と苛められてたって言ってたけど、一度他所の学校の生徒に苛められそうになった時にね、この人が取っ組み合いの喧嘩をして助けてくれたこともあったって言ってたよ」
 放課後の帰り道、他校の生徒が三人で麻里恵を通せんぼしている。それを見た時、真次郎はいつもは自分が苛めているのに、麻里恵が他の生徒に苛められていると思った途端にムカムカと腹が立ち、走り出して有無を言わせず殴り掛かり、そのまま三人と取っ組み合いになる。
「早く、マリちゃん逃げろ!」
 麻里恵は走り出して角を曲がる。相手が三人なので思う様にやっつけることが出来ない。
 真次郎は地面に倒されて上からのし掛かられてしまう。三人は良い様に真次郎の顔を殴る、足で踏み付けにする。
「ちくしょう、ちくしょう~」
 と暴れながら見ると、麻里恵が曲がった角から顔を出して心配そうに見ている。
 散々にやられた後、三人は行ってしまったが、真次郎は自分が負けたことが恥しくて、麻里恵が出て来て「大丈夫?」と声を掛けても無視してズンズン歩いて行く。

「小学生の頃はそんな感じだったらしいけど、小学校を卒業した時に、この人は二年間の高等小学校へ行って、お祖母ちゃんは五年間の高等女学校へ入ったから、別々になっちゃったんだよ。でもね、この人の父親は植木屋の職人さんで、この人も高等小学校を出てからは植木屋の見習いになって、ウチの旅館にも時々お庭の木の剪定に来てたらしいのよ」
 ……庭の、剪定……十四歳になった真次郎はモミジの木に立て掛けた梯子に登り、選んだ小枝を手で折っては、下に落としていく。そこは麻里恵の実家である桜華園の庭である。他の木でも同じように職人が作業している。その中には真次郎の父親もいる。
「それでちょうどお祖母ちゃんが旅館にいる時に、この人が梯子に乗って枝を切ってるのを見つけてね、お祖母ちゃんが窓から手を振ったら、この人も手を振り返してくれたんだけど……」
 真次郎が梯子の上で枝を切っている時、ふと見ると旅館の二階の窓から十四歳の麻里恵が手を振っている。学校から帰ったところなのか、女学校の制服を着ている。驚いて笑いながら真次郎も手を振り返す。
「でもね、この人は後でそれを見ていたお父さんから殴られてたって言ってたわ」
 真次郎が梯子を下りて来ると、後からいきなりゴツンと頭を殴られる。見ると父親である「コラッ! 旅館のお嬢さんに気安く手なんか振るんじゃない!」
 殴られたところを手で押さえてしょんぼりしていると、物陰から麻里恵が父親や他の職人たちに見つからない様に、そっと手を振り、口の形が「だいじょうぶ?」と言っている様に動く。真次郎は強がって笑顔を作り、大丈夫だという風にそっと手を振る。

「でもそれから何年かしてアメリカとの戦争が始まって、それがだんだん激しくなるに連れて、食べ物も無くなって、旅館の経営も苦しくなっちゃったんだよ。戦争が始まって三年くらい経った頃、お祖母ちゃんが十九歳の時に、旅館に出入りしてた伊丹町の造り酒屋の谷本さんのところへお嫁に行くことになってね」
「十九歳って、お祖母ちゃんはそんなに早く結婚したの?」
「昔はそれが当たり前だったんだよ。谷本さんの息子さんは兵隊さんで中国に行ってたんだけど、満洲から一時帰国してまた南方へ出発することになってたから、その間にお嫁さんを貰わなきゃならなくて、祝言もかなり慌しかったらしいよ」
「ふぅ~ん」
「それからこの人も、十九歳で徴兵検査を受けて、お祖父ちゃんと同じ部隊で神戸の港から船に乗って行ったんだよ」

 グォン、グォン~ゴ~ゴゴゴゴゴゴゴ……。
 地鳴りの様に船のエンジン音が響く。軍服を着た真次郎たちを乗せた輸送船はユラリと動き出し、港を離れて行く。真次郎は大勢の兵隊たちと共に、狭い船室の中でギュウギュウに詰まって座っている。
 これから一体何処へ連れて行かれるのか、上官からは南方にある島だとしか聞かされていない。神戸の街も何度も空襲されているので、敵の飛行機を見たことはあるが、まだ実際に戦場で敵と戦ったことはない。
 兵隊として戦地へ行くことは当たり前のことなので、もう日本へは帰れなくても仕方がないと思っている。恐いとか行きたくないという気持ちが浮かぶこともない。それはすし詰めになって座っている他の兵隊たちも皆同じだろうと思う。
「なにしろお祖父ちゃんは一週間しか神戸にいられなかったからね、祝言を挙げたお祖父ちゃんとお祖母ちゃんの新婚生活は、三日間しか無かったのよ」
「三日間って、そんなの酷い」
「でも当時は出征する前に慌てて結婚する人が多かったから、そんなの珍しいことじゃなかったんだよ。それでもお祖母ちゃんは妊娠してね、お祖父ちゃんが戦争に行ってる間に私が産まれて、お祖母ちゃんはお祖父ちゃんが無事で帰って来るのを信じて待ってたんだよ。お祖父ちゃんは戦地から何枚も葉書を送ってくれたらしいよ。日本の為に自分は死ななきゃならないのに、お祖母ちゃんと私を残して行くのが心残りで、自分は死んでもずっと二人のことを見守ってるって、遺書みたいな内容ばっかりだったらしいよ」
 母親の話を沙奈は神妙な顔をして聞いている。
「それから戦争が激しくなって、神戸もどんどん激しく空襲される様になってね、お祖母ちゃんがお嫁に行って住んでた伊丹町の谷本酒造の家も酒蔵も焼かれてしまって、お祖母ちゃんはまだ赤ん坊だった私を連れてお祖父ちゃんの親戚の家へ非難したらしいよ。だけど食べ物もろくにないし、厄介者みたいに扱われてね、その頃の話を聞くと、ずい分苦労したらしいわよ」
「ふぅ~ん」
 沙奈は母親の話を聞きながら、遠い昔に思いを馳せている様子である。
「その頃お祖父ちゃんの方は南方の戦地で大怪我をしてね、そのまま終戦になって、船に乗って帰って来たんだけど、船着き場に辿り着くまで担架に乗せられて運ばれて、ろくな食べ物も無いし、何日も山の中のジャングルを歩いて、大変な思いをして帰って来たらしいわよ」
 ……ジャングル……そうだ。俺も歩いた。何日も何日も……。
「きっとこの人も、同じ思いをして来たんでしょうねぇ」
 真次郎の視界にジャングルが広がる。そう、それは良く知っている。何度も見ているあのジャングルだ。
 ……もう何日も草の根や木の芽しか食べていない。そして何日もこうして草木の生い茂る中をさ迷っている。軍服もボロボロである。それでも歩くしかないから、俺はこうして歩いている。
 ……途中で道端にうずくまっている戦友を見つけて声を掛ける「おい、大丈夫か?」そいつは顔も上げずに「……大丈夫だ、後から行くから……先に行ってくれ」と言う。こいつはもう歩けない。ここに置いてったら、そのままここで死ぬんだろう。それでも、俺は自分だけ歩いて行く。だって自分だけで精一杯じゃないか……。
 沙奈の母親の話は続いている。
「それでお祖母ちゃんが親戚の家で私を連れて苦労してるうちに、やっと終戦になってね、それからふた月くらいして、お祖父ちゃんたちを乗せた復員船が神戸に着いたんだよ。お祖父ちゃんは大怪我して担架に乗せられてたけど、お祖母ちゃんは何しろ生きて帰って来てくれたことが嬉しくて、おいおい泣いたって言ってたよ」
 真次郎も今、何日も海の上を揺られてやっと戻って来た神戸の港へ、他の戦友たちと共にタラップをガチャガチャ鳴らしながら降りて行く。
「それがね、その時は声を掛けなかったらしいんだけど、実はこの人も同じ船に乗っていて、後から聞いたらその時お祖母ちゃんがお祖父ちゃんにしがみついて泣いてるのを見たんだって言われたらしいんだよ」
 タラップから桟橋へ降りる。出迎えに来た沢山の人が見つめている中を、復員した兵隊たちは皆ボロボロの軍服をまとい、足取りもおぼつかない調子で歩いて行く。
 見ると先に担架に乗せて降ろされていた伍長さんがいる。その身体に赤子を背負った女がすがり付いて泣いている。
 ……ああ、あの人は確か怪我の具合が大分悪くて、船の中で寝たままずっと唸り声を上げていた人だな……無事に帰り着けて良かったな……。
 と思って側を通り過ぎながら、ふと寄り添って泣いている女を見てハッとする。
 ……あれ? この人は……この人はマリちゃんじゃないのか……。
 担架に乗せられた夫の身体に顔を伏せて泣いているので横顔しか見えないが、よく見ると確かにそれは麻里恵である。
 マリちゃん……そうか、マリちゃんはこの伍長さんの奥さんになっていたのか。背中に背負ってる赤ちゃんはまだ一歳くらいかな、旦那さんは怪我をしたけど、でも生きて帰って来れて良かったね。
 思いがけずこんな形で再会したことに、切なさと懐かしさがない交ぜになっている。
 真次郎は泣いている麻里恵の側を、声も掛けずに通り過ぎるとそのまま歩いて行く。真次郎は思う。ああ、本当に日本に帰って来たんだ……。
「どうしてその時は声を掛けなかったの?」
 と沙奈が母親に質問する。
「さぁねぇ、きっと夫婦が涙の再会をしてるから、自分が邪魔しちゃいけないとでも思ったんじゃないのかねぇ、ねぇ相沢さん?」
 とベッドに寝ている真次郎に言うが、真次郎は解かっているのかいないのか、宙を見つめたまま黙っている。
「それでね、そのまま相沢さんは自分の家があった場所まで歩いて戻って行ったらしいんだけど……」
 真次郎はまだ焦げ臭い匂いが漂う中を歩いている。街があった筈の土地が、一面荒涼たる瓦礫の山になっている。一体何処が道だったのか、何処から何処までが一軒の家だったのか、どの瓦礫がどの家の物なのかも解からない。足の踏み場もなく焼け焦げた残骸が、何処までも地面を覆い尽くしている。
「神戸もすっかりやられてたからねぇ、この人の家も全焼して無くなってしまってたんだよ」
 辺りにはまだ燻ぶっているのか煙を立てているところもある。真次郎はボロボロの軍服のまま、ゲートルを巻いた足で歩いている。
 時おり残っている電柱に書いてある番地や、崩れてしまっている見覚えのある建物をたよりに、道を辿って行く。
 ……確かこの辺り……そうだ。確かに、ここだ。家は燃えて無くなっているけれど、焼け残った布団の切れっ端の柄に見覚えがある。玄関と便所の穴がある場所も合ってる……ここに間違いない。
「でもね、家にいるはずのご両親と妹さんが見つからなくて、この人は方々に聞いて回ったらしいよ」
 真次郎は近くを歩いている人に尋ねる「すいません。私は相沢という者ですが、ここに住んでた人が何処にいるか知りませんか?」だがその人は返事もせずに行ってしまう。
 また別の人に尋ねる「あのう、ここにあった家に両親と妹がいた筈なんですが、相沢と言います。何処にいるかご存じないでしょうか?」するとその人は「隣町にある小学校の校庭に避難してるかもしれませんよ」と教えてくれる。
「そうですか、ありがとうございます」と言って真次郎は教えられた方向へトボトボと歩いて行く。歩く先にもずっと焦げた瓦礫が広がっている。
 暫く歩いて、やっと広い校庭の様なところに人が集まっているのが見えてくる。だが近付いて行って真次郎は愕然とする。そこには大きな穴が掘られており、その中に山積みにされた人々の遺体が燃やされている。
「……」
「でも結局ね、この人が散々聞いて回って分かったことは、空襲の時にご両親と妹さんが避難してた防空壕が爆弾で埋まってしまって、中にいた人は全滅したらしいのよ。そのご遺体も全部荼毘に伏された後で、遺留品も何も残ってなかったんだって……」
「そんな、酷い……」
 沙奈が見ると、真次郎はぼ~っとしている。その目には荒涼たる焼け跡が映っている。
 真次郎はただ呆然として、瓦礫の中に佇んでいる。これからどうしたらいいのかも解からない。
「それから暫くしてお祖母ちゃんたちは谷本酒造の家を建て直して、お祖父ちゃんと一緒に住むようになったらしいんだけど、お酒を造る設備も焼けちゃってたからね。すぐにはまた商売を始めることが出来なくて、酒蔵の職人さんたちを使って大阪や三宮に出来た闇市にトラックで荷物を運ぶ仕事を始めたそうだよ。お祖父ちゃんの家は元々トラックでお酒の原料を仕入れたり、作ったお酒を配達したりしてたから、その時の伝手を頼りにずい分派手にやったらしいよ」
「ふぅ~ん」
「その一方でこの人はね、南方の戦地で知り合った人の伝手を頼って、東京に行って運送会社に就職したんだよ」
 運送会社……そうだ。俺は、一人で汽車に乗って東京へ出た。
 駅のホーム。汽笛が鳴り響く。ガコッと衝撃があって、ゆっくりと列車は走り出す。
 真次郎は客車に座って窓外を見ている。生まれ育った神戸の街を離れて行く。メチャメチャに破壊され、黒い焼け野原になった神戸が流れて行く。もう何の未練もない、ここにいても、家族はいない。だが悲しくて涙がポロポロこぼれてしまう。
「さようなら……神戸」
 と真次郎は呟く。見る見る後へと飛び過ぎて行く廃墟の様な神戸に別れを告げる。戦争が神戸の街をこんなにも酷い風景にしてしまった。
「お祖父ちゃんたちは暫く闇市の仕事で荒稼ぎしてたらしいけど、でも四年くらいして占領軍が闇市を廃止にしちゃったからね、また家業の酒造りを始めるしかなかったんだよ」
「ふぅ~ん。皆大変だったんだね」
「そうだよ。それからまた何年も掛かってようやくお酒の製造と販売が戦前と同じくらいの規模に戻って来たのよ。それで東京の問屋さんからも注文が来る様になってね。そしたら東京でこの人が働いてた運送会社で、東京から大阪まで荷物を運送するトラックの直行便が始まって、この人はその運転手になったのよ」
 真次郎はトラックのハンドルを握っている。助手席では同僚が眠っている。潮風が匂う。フロントガラスには青い海が広がっている。
 ……そうだ。これは清水の港だ。
 真次郎はもう二度と、神戸へは帰らないと思っていた。思い出は何も無い。全ては瓦礫になってしまった。でも、今こうしてまた神戸に近付いて来ると、否応も無く懐かしさが込み上げてしまう。
 同僚が寝ている横でハンドルを握りながら、頬を涙が流れては落ちる。
「それでね、伊丹町のお祖父ちゃんの会社から東京の問屋さんまで、お酒を運ぶのに頼んだ運送会社のトラックに乗って、この人が現れたのよ」
「それでまたお祖母ちゃんと会ったんだね」
「そうだよ……」
「オーライ! オーライ! オーライッ……」
 真次郎は運転席から身を乗り出して後方を見る。同僚が声を上げながら手を回すのを見て、慎重にアクセルを踏んでトラックをバックさせる。
 トラックは谷本酒造の酒蔵の中へ入って行く。出来るだけ一升瓶の入ったケースが積まれている側まで、トラックの荷台を近付けたい。
「オーライ……オーライ……はいストーップ!」
 エンジンを止め、手動ブレーキを引くとドアを開けて飛び降りて行く。
 そして同僚と二人で瓶詰にされた日本酒のケースを荷台に積んでいく。木枠で作られたケースひとつに一升瓶が十本ずつ。それを荷台に隙間なく積み上げて行く。
 今真次郎は、その時ケースの縁を握った手の感触も、そのひとつひとつの重みも感じている。額を流れる汗を拭う暇も惜しんで、次々にケースを積んで行く。
 コツン……コツン……と音がするのでふと見ると、酒蔵の入口から誰かが入って来る。その男は杖を突いて、片足を引き摺って歩いている。
 あっ……この人は、あの時の伍長さんじゃないのか! 戦争が終わって帰って来た時、俺と同じ復員船に乗って神戸に着いて。怪我をして担架に乗せられていた。その身体に子供を背負ったマリちゃんがすがり付いて泣いていた……。
 この人がここの社長なのか……とすると、マリちゃんもここにいるっていうことか? 何処に?
 思わず辺りを見回しても見当たらない。ここは仕事場だから、奥さんがここへ来るということはないのかもしれない。
 ようやく荷台への積み込みが終わって一息入れていると、真次郎たちに出すお茶をお盆に乗せて、三一歳になった麻里恵が入って来る。だが最初は真次郎にも分からなかった。その姿は、見る影もなくやつれて別人のようだ。 
 ……この人が本当にあのマリちゃんなのか?
 でも目を凝らしてよく見ると、真次郎には分かる。ああやっぱりこの人は間違いなく麻里恵だ。
 あれから怪我をしたご主人と赤子を抱えて苦労したんだろうか、社長の奥さんと言ってもやっぱり戦後の混乱の中で、大変な目に遭って来たんだろうか。
 じっと見つめていても、目が合っても麻里恵は一向に真次郎に気付いてくれない。それは一生懸命に給仕をしているからなのか、それとも長い年月が経っているので真次郎の顔も変わってしまっているからなのか。それとももう覚えていないのか。いや、そもそもこんなところに真次郎がいる等とは思いもしていないだろうから、無理もないのかもしれない。
 小学生の頃毎日の様に苛めていた麻里恵。そして復員船が着いた時、港で泣いていた麻里恵が、今はこんな風になっていたのかと、言い知れぬ感慨と愛おしさが込み上げて来る。
 真次郎は社長がいなくなってから機会を見計らい、思い切って声を掛ける。
「あのう」
「はい?」
 麻里恵は運送屋の運転手が私に何の様なのかと、ビックリした顔をして真次郎を見る。
「……失礼ですが、奥様。昔、長町小学校に通っていらっしゃいましたよね?」
「はぁ?」
「私の顔に見覚えはございませんでしょうか?」
 麻里恵はきょとんとして、考える様な顔をする。
「実は、俺も同じ学校に通ってまして、奥様の隣の席に座っていたこともあるんですよ」
「えっ……」
「思い出せませんかね」
 そのうちに真次郎を見つめていた麻里恵の目はみるみるドングリの様に見開かれていく。
「あっ……ああ! 相沢君! 相沢君なの?」
 そう言って笑顔になると、途端にあの頃の麻里恵に戻る。
「そうだよ、マリちゃんだろう? 俺同級生だった相沢真次郎だよ」
「なんだ~本当? いやだどうしてたのよ」
 と麻里恵は真次郎の手を取って喜ぶ。
「酷いよなぁ、ちっとも分かっちゃくれねぇんだもの」
「だってぇ、まさかこんなところにいるなんて……」
 病室で沙奈の母親の話す声が続いている。
「……お祖母ちゃんとこの人は元々が小学校の同級生だったから、その頃の懐かしさが手伝って、仲良くなってしまったのかもしれないね」
 小学生の頃あんなに苛めてたのに、麻里恵はそんなこと微塵も気にしていない様子で、真次郎の手をとってぴょんぴょん跳ねながら、懐かしい懐かしいと言って笑っている。真次郎も物凄く嬉しくなって、麻里恵の手を握る。
「おい! 麻里恵!」と怒鳴る声が響く。二人は咄嗟に手を離す。
 カツンカツンと杖を突く音を響かせて社長が現れる。途端に麻里恵は黙ってしまい、小声で「ごめん、また会えるわよね」と真次郎に言って社長の方に向き直ると「はい、只今」と返事をして、小走りにその場を離れて行く。
「……この人のいた運送会社はね、お祖父ちゃんの谷本酒造と契約してたから、それからこの人は月に二~三回トラックで神戸の会社にお酒を積みに来る様になったのよ」
「ふぅ~ん」
 沙奈は興味津々といった顔で聞き入っている。
「それで、この人はお祖父ちゃんの目を盗んでお祖母ちゃんに手紙を渡したりしてね、二人で待合せして会う様になったんだよ。最初の待合せは三宮の花時計だったらしいわよ」
 大通りの脇にある円い花畑が時計の文字盤になっている。長い針と短い針が既に約束の時間を過ぎていることを示している。
 真次郎は神戸までトラックを運転して来たままの作業着姿で待っている。一緒に来ている同僚には知人に会うからと言い、同僚を残して一人で宿を出て来ている。
 カチャンと音を立てて、また長い分針がひとつ動く。時間だけが過ぎてなかなか麻里恵は現れない。
 これ以上ないくらいの大きな時計を見てそわそわしていると、視線の先に駅の方から駆けてくる麻里恵が見えてくる。
 麻里恵は精一杯に着飾って来た。お化粧もして、あの酒蔵で見たやつれた感じとは全く違っている。その表情が、出で立ちが全て真次郎に会うことの嬉しさに満ちている。真次郎は驚き、そんな麻里恵をお花みたいに綺麗だなと思う。
「ごめん、待たせちゃって……」とハァハァ息を切らせて笑う顔が眩しい。恥かしい様な気がしてまともに見ることが出来ない。
 小学生の頃、いつも苛めて泣かせていた、あの麻里恵は大人になって、こんなにも綺麗な女になったのだ。
「そこから二人でタクシーに乗って、六甲山のケーブルカー乗り場へ行って、六甲山へ登ったのよ……」
 山の中の急な斜面をゴトゴトと揺れながらケーブルカーが登って行く。
 真次郎と麻里恵は並んで座っている。こうして二人きりになると途端に会話が弾まなくなってしまい、ただ時々麻里恵が真次郎を見ると、真次郎も微笑みを返す。
 頂上へ着くと外へ出る。すぐ側にある展望台へと歩いて行く。
 麻里恵と並んで、展望台の縁に立ち、遥かに広がる神戸港を見下ろしている。心地良い風が微かに吹いている。並んで見ているマリの横顔、白い項。黒い髪が風でそよいでいる。
「そこでこの人は、実は復員船を降りた時にお祖父ちゃんにすがり付いて泣いてるお祖母ちゃんのことを見たってことを話したのよ」
 真次郎は風に吹かれながら、遠い海を見つめて言う。
「あのなマリちゃん。俺あの日神戸港に帰って来た時、マリちゃんのご主人と同じ船に乗ってたんだよ」
「えっ、本当?」
「うん、あの時、マリちゃんご主人の身体に寄り添って泣いてたよね。あの時俺、本当に戦争が終わって帰ってきたんだなぁと思ったんだよ」
「……」
「御主人は大怪我をしたけれど、こんなに思って帰りを待ってくれる人がいるなんて、ご主人が羨ましいと思ったよ」
 そう言うと、麻里恵は黙って俯いてしまう。どうしたんだろうと顔を覗き込むと、ボロボロと涙を流している。でもその時はまだ、その涙が意味するところは解らなかった。
 麻里恵には酒造会社を経営している立派なご主人がいる。真次郎は麻里恵が自分と恋仲になるだろうなんてことは全く思いもしていない。
 麻里恵は綺麗で、大好きだったが、初めは幼い頃から知っている親戚の様な感情だった。
 そう、真次郎にはもう家族と呼べる人は一人もいなかったから、その寂しさからも真次郎は麻里恵の優しさに魅かれていったのかもしれない。
 その次に会った時、真次郎と麻里恵はそれが当然のことの様にして、また六甲山に登る。
 そこへ行けばまた、二人きりになれることを知っているから。二人並んで、港を見下ろして、そしてキスする。
「相沢君……相沢君……いけないわよ、夫のいる私を好きになっちゃいけないわよ……」
「マリちゃん……好きだよ」
 真次郎にはもう解かっている。麻里恵のご主人は、あの社長は、戦争で怪我をした谷本伍長は、麻里恵のことを女中の様にコキ使い、辛く当たっているのだ。それはまるで、怪我で体が不自由になった苛立ちをぶつける様に、麻里恵に辛く当たっているのだ。
「いけない、いけないわよ……」
 そう言われれば言われる程、真次郎は気持ちを抑えられなくなって、激しくキスする。
 麻里恵は「いけない、いけない……」と言いながら、遂には真次郎の激しさに応えてしまう。真次郎は夢中になって、麻里恵の柔らかい唇を吸う。
「……それからこの人は、東京からお祖父ちゃんの会社にお酒を積みに来る度に、秘密でお祖母ちゃんと会う様になったのよ」
「ふぅん……」
 と沙奈は深く頷く。
「それからついにお祖母ちゃんは、お祖父ちゃんには東京にいる高等女学校の同級生の家へ行くって嘘をついて、東京の阿佐ヶ谷ってところに住んでたこの人のアパートに行ったのよ」
 その日、前もって麻里恵からの手紙で来ることを知らされていた真次郎は、ノックの音に胸を躍らせてドアを開く。
「私、来ちゃった……」
 そこには麻里恵が立って笑っている。真次郎はまるで世界が自分の物になった様な気がする。
 部屋に入れるなり麻里恵を力の限り抱きしめる。麻里恵が「ちょっと、苦しいわよ」と言っても力を緩めない。
 ……好きだ、好きだ、大好きだよ麻里恵……その一心で真次郎の身体の全部が一杯になる。
 麻里恵の温もりを感じている。真次郎の心臓と、麻里恵の心臓の鼓動が重なり、ひとつになっていく。
「ちょっと……苦し……い……」
 真次郎の腕の中で戸惑っている麻里恵の唇を塞ぐ。夢中になって唇を吸う。
「んぐ……んん……っ……」
 二人の唇がクチュクチュと音を立てる。言葉は無くなり、そのまま縺れ合って、畳に転がる。
 それまで二人が会っていたのはいつも外で、展望台ばかりだったから、服を脱ぐのは初めてなのだ。ひとつずつブラウスのボタンを外していく。麻里恵の白い肌が露わになっていく。麻里恵の温もりが、匂いが、生きた女の生々しさが六畳の部屋一杯に広がっていく。
 麻里恵の肌に夢中になって唇を擦り付ける「あっ、ああ~」と麻里恵は呻く。見ると瞑った目から涙が流れている。
「マリ……どうしたの」
「嬉しい~嬉しいよぅ。でも恐い……」
「大丈夫だよ。これからはずっと、ずっと俺が一緒にいるからね。マリ、好きだよ」
 と言って真次郎は麻里恵の身体を開き、自分自身をヌルヌルと麻里恵の身体の中に入れていく。そうして心も身体も、全部が麻里恵と一体になる。
「ああ~~わぁ~~」
 麻里恵は白目を剥いて呻きながら、真次郎の身体に手足を絡ませ、ギュウギュウとしがみ付いている。その力に真次郎は、もう離さない、もう離れないという麻里恵の強い気持ちを感じる。
 真次郎は麻里恵から受け止めたその意志を倍返しにして、麻里恵の身体に撃ち込んでいく。
「マリッ、マリ、マリ、マリ、わあーーーーーっっ……」
「ひぃ~~~~~~」
 真次郎と麻里恵の繋がりを中心にして、世界が回り出して反転する。真次郎と麻里恵はもう離れられない。
「……こんなことは下世話な話だけどねぇ、お祖父ちゃんは怪我をしたせいで性的には不能者になってたんだよ。お祖母ちゃんはまだ三一歳だったから、そんな時にこの人がチョッカイを出して、お祖母ちゃんも幼馴染みだと思って気を許しちゃったんだろうね」
「そんな、偶然そうなっちゃったってこと?」
「そうだよ。この人がまた神戸に来て出会うなんてことがなければ、そうはならなかったでしょうに」
「まあ、それはそうだけど」
「ふん、まさかアンタはまだ男と女のことを、運命だとかなんだとかって考えてんじゃないでしょうね?」
「だって運命には違いないでしょ」
「ふん、だからいつまで経っても子供だっていうんだよ」
「うるさいよ。それで? それからどうなったの?」
「お祖母ちゃんはそれからもお祖父ちゃんに嘘をついては何度も上京したりしてたんだけど、この人もお祖母ちゃんにのめり込んで行って、遂にはお祖母ちゃんは私とお祖父ちゃんを置いて、この人のところへ行っちゃったんだよ」
「へぇ~」
「阿佐ヶ谷にあるこの人のアパートで二人で暮らす様になって、お祖母ちゃんは駅前の商店街にあるスーパーでレジ打ちのパート勤めをするようになったのよ」
 真次郎は都内や近郊までの日帰り運送の日は、仕事が終わると日本橋にある本社にトラックを停めて、そこから阿佐ヶ谷まで電車で帰って来る。
 そして阿佐ヶ谷の駅の改札を出て来ると、スーパーの仕事を終えて待っていた麻里恵が走ってくる。
 麻里恵は銭湯へ行く為のタオルと着替えを用意して来ている。真次郎はそれを受け取り、そのまま手を繋いで商店街を歩く。
 二人で商店街の途中にある風呂屋へ入る。出て来ると一緒にラーメン屋に入り、ビールを飲んで、餃子を食べる。風呂上がりの麻里恵はツヤツヤしていて、屈託なくキャッキャと笑う。真次郎は醤油ラーメン。麻里恵は味噌ラーメン。途中でドンブリを交換して食べる。
 麻里恵のパートが早く終わる日には、麻里恵はアパートで手料理を作り、真次郎の帰りを待っている。夕方帰って来ると部屋の窓から煮物を作る匂いが漂って来る。そして包丁でトントンと野菜を刻む音。
 麻里恵が注いでくれるビールを飲み、暖かい手料理を食べながら真次郎は思う……自分は使われの身の運転手で、家族もいない、これと言って生き甲斐もなく、これからの人生に何かを望むということもない。でも、俺には麻里恵がいる。それだけでいい、他には何もいらないと思う。
 もし真次郎が運転手になって神戸に行かなかったら、再会することも無かった。真次郎と麻里恵は元々家柄も違うし、まともに一緒になろうと思っても、なれなかったに違いない。
 六畳一間の布団で抱き合って寝る。マリの素肌。身体の温もり、心臓の鼓動……流れている汗、荒い息遣い。目を瞑ったまま、麻里恵が呟く。
「いいのかしら……」
「えっ? 何がだい?」
「……私たち、こんなことしてて……」
「いいんだよ」
「でも、晴美は大丈夫かなぁ、今頃ひとりで泣いてるんじゃないかしら」
 麻里恵は神戸に置いて来てしまった娘のことを心配している。
「大丈夫だよ、きっと晴美ちゃんは、お父さんに大事にされてるから、心配いらないよ」
 真次郎は麻里恵にこのままずっとここに居て欲しいので、そう言って宥めるしかない。
「でも私、やっぱり悪いことしてるんじゃないかしら……」
 麻里恵は泣いて、真次郎の身体にしがみ付いてくる。
「大丈夫だよ。俺がついてるよ」
 ……そりゃ世間から見れば、俺たちは許されないのかもしれない、でも、もうそんなことはどうだっていいじゃないか。麻里恵は俺が守ってやらなきゃ、一人じゃ何も出来ない。俺が引っ張り出してやらなきゃ、ずっとあのまま不幸せな人生を歩いていたんだ……嫌、それは違うかもしれない。俺がチョッカイ出しちまったばっかりに、人生を狂わせちまったのかもしれない。そうだとしたら、悪いのは俺だ。
「マリごめんな。俺がお前に手を出しちまったばっかりに、こんなに苦しませることになっちゃったのかな」
「そんなこと言わないでよ。私はこうしてるのが幸せなんだから。私、何も後悔なんてしてないんだから……」
 そう言うとまた抱きしめる腕に力が入り、夢中になってキスする。このまま永遠に時が止まってしまえばいい、このまま二人で死んでしまってもいいと思う。
「でもね、それから二年経って、この人の家にお祖母ちゃんがいるってことが、会社の人にバレて、お祖父ちゃんのところに連絡が入ったんだよ」
「それで?」
「その時私は十五歳だったんだけど、お祖父ちゃんは私を連れて東京に行って、この人とお祖母ちゃんのいるアパートに乗り込んで」
「それで?」
「それで、お祖母ちゃんを連れ戻そうとしたら、この人に包丁で刺されたんだよ」
「!……」
「あの時、この人は父さんの杖を蹴飛ばしたんだよ。そして、父さんが転んで仰向けになったところを、上から包丁で突き刺したんだ。こんな風に!」
 と言って沙奈の母親は立ち上がり、ベッドに寝ている真次郎の胸に拳をドンと叩き付ける。
「ウゲッ」と言って真次郎が身をよじる。
 瞬間「きゃああああ~~~きゃああああああーーーーー!!!!」と叫んでいる一五歳の晴美の顔に真っ赤な鮮血が飛び掛かる。
「ちょっとお母さん何するのよ」と言って沙奈が真次郎の胸に打ち下ろされた母親の拳をつかんで持ち上げる。
 カッと見開いた真次郎の目に、鮮血を浴びて叫んでいる一五歳の晴美の顔が、現在の沙奈の母親の顔に入れ替わっていく。
 ……この人が……晴美ちゃんなんだ。……俺が殺した男と、マリの娘。沙奈さんのお母さん……。
「お父さん! お父さん!」と叫びながら、十五歳の晴美は倒れた谷本の身体を揺すっている。
 そして呆然と立ち尽くしている真次郎の顔を見上げる。血を浴びて真っ赤な顔で、物凄い目をして真次郎のことを睨む。
 アパートのドアをドンドンと叩く音がする「相沢さん? どうしました? 相沢さん? 大丈夫ですか」
 開かれたドアから中を見た近所の住人は仰天して走って行く。暫くするとサイレンを鳴らしてパトカーが来る。外が騒然とした雰囲気に包まれていく。
 雪崩れ込んで来た警察官に、晴美が血みどろの顔のまま真次郎を指差して言う「この人が刺したんです」。


    4

 

 ベッドに横たわったまま目をうつろに開き、宙を見つめている真次郎の顔を、じっと睨む様に晴美が見つめている。
 ……そうか、俺は、この人の父親を殺してしまったのか。まだ子供だったこの人は、目の前で父親を殺されるなんて、どんなに悲しかっただろう。俺はなんて酷いことをしてしまったんだ。
 真次郎の胸にとてつもない後悔の波が押し寄せてくる。真次郎は自分の顔を見つめている晴美に向って言う。
「俺は……マリの夫を、殺したの……か? それじゃ、娘の貴方に……殺されても、文句はいえな……い」
 晴美は驚いた様に暫し呆然とする。そして真次郎の顔を見つめて言う。
「貴方本当に、本当にそう思うんですか? 自分が悪いって、そう思うんですか?」
「はい……本当……に本当に申し訳、ありません。でした……俺は……何かを、謝らなければ、ならないと、感じてた。んです。謝らなきゃって気持ちが、ずっとあった……それが、何なのか……分からなかった。でもやっと、分かり……ました。俺は、麻里恵に、ご主人を、殺してしまったことを……謝らなければ……ならなかった、んですね……」
 ……俺はそれ程までに。麻里恵の夫を殺してまでも、麻里恵を自分の物にしたかったのか。
 ……でも俺は、自分のしたことを後悔してはいなかった。きっと自分の取るべき行動として仕方が無かったんだ……。
 脳裏に「これでいいんだ……これでいいんだ……」と呟きながら木材を電気カンナに掛けている自分が蘇える。
 それが真実なのだ。良くも悪くも自分の人生が解かった。合点がいった。
 晴美はたたみ掛ける様に言う。
「解りましたよ相沢さん。でももう、謝るとかそんなことは結構ですから、どうかこのまま帰って下さい。もう今後は母のことには一切関わらないで、そっとしておいてください、お願いですから」
 ……そうだ。俺は麻里恵には会わせて貰えなくても仕方がない。晴美さんには深く謝って、このまま帰るしかない。
「は、はい、解り……ました。俺は身の程……も知らずに、会わせてくれなんて、本当に……申し訳、ありま……せんでした。諦めて帰ろう……と、思います……本当に取り返しのつかな、いこと……をしました。貴方には、何と……お詫びしたら、いい……のか、も分かり……ません。本当に、ごめんなさい。これ……で俺が何故、刑務所……に入ってたのか……も分かり……ました」
 そう話す真次郎をじっと見ている沙奈は目から涙を流している。
「相沢さん。相沢さんは、本当に私のことを、若い頃の麻里恵お祖母ちゃんと間違えて、お話してたんですね」
「……」
「相沢さんがお祖父ちゃんを殺したのは、お祖母ちゃんを自分の物にする為だったということなんですね」
 黙っている真次郎を横目に、晴美が口を挟む。
「分かっただろう。この人はね、私にとっては、父さんの仇なんだよ。アンタにとっては、お祖父ちゃんの仇」
「でも、そうだとしても、相沢さんはもう刑期を務めたんだから、警察の判断で釈放されたんじゃないの。もう許されたんじゃないの?」
「違う……俺は、こんな、か、身体になった……から、見放され……た。だけ……だ」
「相沢さんは確かにお祖父ちゃんを殺したのかもしれないけど、それだけお祖母ちゃんを好きだったってことでしょう? それならお祖母ちゃんだって、相沢さんに会いたいと思ってるかもしれないじゃない」
「何言ってるの! まだ分かんないのかい! お前は自分のお祖父ちゃんよりもこの人に味方するっていうの!」
「沙奈さ……ん。もういい……んだ。施設、へ帰ろう。俺はもう、解かったから、これで、いい……んだ。俺は、あそこ……で死ぬ……それでいい……」
 その言葉を聞いた晴美は、ホッとした様に安堵した顔で真次郎を見つめる。だが沙奈は諦めずに晴美に言い募る。
「私、今初めて解ったの」
「何がよ?」
「お祖母ちゃんが、どうしていつも、ひとりでいる時は物静かで、今にも消えてしまいそうなくらい儚ない感じがしたのか、不思議だった。なんでお祖母ちゃんは、いつも自分がそこにいるのが申し訳ないみたいにしてたのか。身体を小さくして、悲しそうに笑ってた。お祖母ちゃんも、もしかしたらずっと相沢さんのこと思ってたんじゃないの?」
「そんなことある訳ないじゃないか」
「どうしてよ。お祖母ちゃんは相沢さんのことを好きになってしまったから、相沢さんがお祖父ちゃんを殺すことになってしまったことを、自分のせいだと思って、自分が悪いのにって思って、罪の意識に苦しんでたんじゃないの?」
「そんなの違うよ!」
「それじゃお祖母ちゃんには何も罪は無かったっていうの? お祖母ちゃんだって母さんとお祖父ちゃんのことおっぽり出して相沢さんのとこに行ったんじゃない。お祖母ちゃんにだって罪はあるじゃない」
「沙奈、お願いだよ。もうお願いだから許してよ。ねぇもう許してやっておくれよお願いだから」
「許してって、変じゃない? どうして? だって殺したのは相沢さんなんでしょう? それで何故お母さんが許してなんていうの? 相沢さんはもう充分自分のしたことが解って、反省して帰ろうって言ってるんじゃない」
「だからもうお願いだから、もうお終いにしてよ」
 そう言いながら晴美はボロボロと涙を流す。その言葉は泣き声になっている。その声を聞いていると真次郎には、また申し訳ないことをしてしまったという思いが込み上げてくる。
 病室に晴美がすすり泣く声が響き、沙奈も黙ってしまう。沈黙が流れる。沙奈が気持ちを落ち着けて話し始める。
「……ねえお母さん。恐いことだけど、相沢さんは、お祖父ちゃんを殺してでも、お祖母ちゃんと一緒になりたかったんでしょう? お祖母ちゃんだって、駆落ちするくらい相沢さんのことが好きだったんだから。また会いたいと思ってたのかもしれないじゃない。相沢さんだってもうこんなヨボヨボのお爺ちゃんなんだから、私会わせてあげてもいいんじゃないかと思うの」
「そんなことしたら、お祖母ちゃんまた気を失って、下手したら今度こそ死んでしまうかもしれないよ」
「最初はきっとびっくりし過ぎて気を失ったんだよ。でも落ち着いてからちゃんと話しておけば、大丈夫かもしれないじゃない」
「違うよ、死んじゃうよ、今度こそ死んじゃうよ。お祖母ちゃん死んじゃうよ~」
 懇願するように言う晴美を余所に、沙奈は真次郎に話し掛ける。
「ねぇ相沢さん。今お祖母ちゃんもこの病院の中にいるんだよ。今私がお祖母ちゃんのいる病室まで連れて行ってあげるから、ね、一緒に行こうよ」
「ダメだよ! お祖母ちゃんはまだ意識も戻らないんだから」
「それじゃ寝顔だけでも見せてあげてもいいじゃない」
「沙奈さん……」
「なぁに相沢さん」
「……ダメだよ……俺には……マリに会う、資格は……無いから……」
「……分かりました。それじゃ相沢さん。お祖母ちゃんの意識が戻ってから、聞いてみて、もしお祖母ちゃんが会ってもいいって言ったら、会ってもいいでしょう?」
「いや……」
「お医者さんが言うには、お祖母ちゃんは精神的なショックを受けて一時的に意識を失ってるだけだから、点滴して意識が戻れば大丈夫だって仰ってるんです」
「だけど……そんな……」
「相沢さん。私は無理にでも相沢さんをお祖母ちゃんのところまで連れて行くからね」
「沙奈! アンタはどうして私の言うことが解らないの!」
「だって、会うのが本当に嫌かどうかお祖母ちゃんに聞いてみなけりゃ分からないじゃない!」
「だからもう、お祖父ちゃんのことはお祖母ちゃんに思い出させたくないって言ってるじゃないか!」
「そんなこと、もう相沢さんに会っちゃったんだから思い出しちゃってるでしょう?」
「もうやめておくれよお願いだから」
「だってお母さん。お祖母ちゃんだってホントは相沢さんに会いたいと思ってるかもしれないと思わない?」
「そんなことある訳がないじゃないか。だったら何で見た途端に気絶したんだよ」
「だからそれは、突然だったからビックリしたんだよ。私が前に電話で相沢さんのこと話した時も、お母さん本当はお祖母ちゃんに相沢さんのこと言わなかったんでしょう」
「当たり前じゃないか」
「だから、まさかここに相沢さんが訪ねて来るなんて思ってもみなかったから、ビックリして倒れちゃったんだよ」
「お祖母ちゃんが今更この人に会いたいなんて思ってる訳ないよ」
「どうして解るのよ! 私ね、こんなこと言っちゃ悪いけど、相沢さんもお祖母ちゃんも、もうこの先そんなに時間が無いと思うの。だからね、最後に悔いが残ら無い様に。人生にやり残した後悔が無い様に会わせてあげた方がいいと思うんだよ」
 晴美は顔を激しく横に振ると、沙奈が訴えることを吹っ切る様にして言う。
「お前が何を言ったって、この人は父さんの仇なんだから、絶対にお祖母ちゃんに会わせる訳にはいかないよ!」
 そう言われた沙奈は、真次郎の顔を見て尋ねる。
「ねぇ、相沢さん。相沢さんはお祖父ちゃんを殺してでも、お祖母ちゃんと一緒になりたかったんですよね。それくらいお祖母ちゃんのこと愛してたんだよね、そのことは私がよく解ってます。だからもう一度お祖母ちゃんに会いたいと思ったんですよね。それだけですよね、お祖母ちゃんに謝りたいんですよね。今更お祖母ちゃんに何かして、苦しめてやろうなんて気持ちがある訳ないですよね」
「……沙奈さん。俺は……もういい、もう……何も望まない……もういい……いいんだよ」
「何がいいんですか! せっかく施設を抜け出してまで、ここまで来たんじゃないですか、駆け落ちしたくらいなんだから、お祖母ちゃんだって相沢さんに会いたいと思ってるかもしれないじゃないですか!」
「ごめん、なさい……沙奈さん。俺は悪いことを、しまし……た。本当に、ごめんなさい……こんなところへ、来なければ、よかった……んです。本当に、ごめんなさい……ごめん、なさい……」
「うっ……くっ……くくっ……ううううううう~~~~」
 驚いて見ると、晴美が突然呻き声を上げて、身体を前へ折り曲げて椅子からドタリと転げ落ちる。
「うう、うううう……ああああ~~~」晴美は泣き崩れる。病室の中に号泣する声が響き渡る。
 驚いて沙奈は晴美を見る。
「あああああああ~~~~~も、もう、いいじゃありませんかぁ~もういいじゃありませんかぁ~~~~お願いですよう。もう許して下さいようお願いだからぁぁぁぁぁぁぁ~~~~」
「許してって、何が? お母さん、おかしいでしょう。許して欲しいのは相沢さんの方なんじゃないの?」
「ごめんなさい! ごめんなさい相沢さん……貴方を恨むだなんて、まったく逆ですよね……でも私は、折角ここまで来た貴方を殺そうとまでしました。ああもう絶対に……私は、私は許して貰えませんよねぇ……」
「お母さん。どういうことなの? 許して貰えないって? どうしたっていうの? なんでそんなに泣いてるの?」
「ごめんなさい……はあごめんなさいごめんなさいいい~~~~~」
「だからどうしたって言うのよ!」
「お祖父ちゃんを殺したのは……お祖父ちゃんを殺したのは、この人じゃなかったんだよう……この人じゃ……」
「えっ、相沢さんじゃなかったって、どういうこと……?」
「うっ、うっ、うっ、うううううう~……」
 泣き崩れた晴美はくぐもった声を出して呻きだす。言葉を発することが出来なくなっている。
「……ねぇお母さん。説明してよ。お祖父ちゃんを殺したのは相沢さんじゃないって、どういうこと?」
「……」
 俯いたまま黙っていた晴美は、ようやくむっくりと顔を上げると、疲れ果てた顔をして沙奈を見つめる。
「……解ったよ。それじゃもう、本当のこと話すから……でも、これから話すことは、絶対誰にも言わないって約束してくれるかい?」
「そんなの聞いてみなくちゃ分からないけど」
「……それじゃ話す訳にはいかないよ」
 そう言われて沙奈は考える顔をする。
「……分かったよ。そのことは誰にも言わないって約束する。けど、それを聞いたからって相沢さんをお祖母ちゃんに会わせるのをやめるかどうかは分からないからね」
 晴美はじっと真次郎の顔を見つめる。何か決心を固めるように眼を瞑り、深呼吸をする。そしてひとつ大きく頷いて眼を開くと話始める。
「それじゃ話すから……私の父さんは確かに殺されたけど、本当はね、父さんに包丁を刺したのは相沢さんじゃないのよ」
「それじゃ誰が刺したの?」
「……」
「ねぇ誰よ!」
「だから……お祖母ちゃんだよ……」
「……どういうこと?」

 バリバリバリガガガーン!

 真次郎の中に雷鳴が轟き渡り、目の前が真っ白になる。身体に電流が駆け巡る。それは麻痺している筈の右半身にも伝わり、全身がビクビクと震える。
 ……お祖父ちゃんを殺したのはお祖母ちゃん……お祖父ちゃんを殺したのは……俺じゃなく、沙奈さんのお祖母ちゃん、マリ……麻里恵が刺した……。
 真次郎のアパートで、あの男が、谷本が片手で麻里恵の腕をつかみ、外へ連れて行こうとしている。嫌がる麻里恵の顔を谷本は何度も殴りつける。麻里恵が暴れて、弾みで谷本の杖を蹴飛ばし、谷本が倒れる。
 恐怖に引き攣りながらそれを晴美が見つめている。
 麻里恵は流しから包丁を持って来て、転んだ谷本の上に馬乗りになる。
 真次郎は叫ぶ。
「バカ! やめろー」
 麻里恵は振り上げた包丁を突き下ろす。
 ズブーッ……。
「ぎゃあーーーーーーー!!!」
 谷本の絶叫が響き渡る。
「麻里恵ーーーっ!」

 

 

 


第三章 5~6

 

    5

 

 小さな部屋で、向かい合っている刑事が机をバンと叩く。
「お前がやったんだろうが!」
「違いますよ、俺じゃない! 俺じゃないよ!」
 病室のベッドで真次郎の目は相変わらず虚ろに宙を見ている。だが脳裏には晴美の言葉がもたらした衝撃が電流の様に駆け巡っている。細分されていた記憶の細胞が繋がり、全てがせり上がる様に蘇えってくる。
「ねぇお祖母ちゃんが刺したって、どういうことよ……」
 晴美の言ったことが理解出来ないという様に、混乱しているのか沙奈は頭を抱えて晴美に尋ねるが、晴美は答えに窮した様に沙奈を見つめる。
「……ねぇ、お祖父ちゃんを殺したのは、お祖母ちゃんだったの? それじゃ何で相沢さんが逮捕されたの? だって、相沢さんは四五年も刑務所に入ってたんだよ。ねぇ母さん、それってどういうことなの……私怖い……身体が震えてるよ……」
「許して……ねぇ、もう許してくださいよ相沢さん……」
 真次郎はただ、虚ろな目をして遠くを見ている。
「どうしてよ!」
「それは……警察が勝手に相沢さんが犯人だと決めつけて……」
「そんな訳ないでしょう! だってお祖母ちゃんが刺すところを、お母さんだって見てたんでしょう。なんでそれを警察に言わなかったのよ」
「だって、もしあの時、私の母さんまで捕まってしまったら、まだ中学生だった私はどうすれば良かったのよ、一人じゃ生きてくことも出来なかったじゃないか」
「でもそんなこと」
「それに私は、お父さんが死んじゃったのを見た時は、誰よりもこの人のことが憎いと思ったんだよ」
「だけど、自分がやってない罪を着せられて、相沢さんは、人生の半分以上も刑務所に入れられてたんだよ。酷すぎるじゃない。相沢さんの人生はメチャクチャになったんじゃないか!」
 倒れた谷本から流れ出る血液が、狭いアパートの台所に広がっていく。胸元から谷本が自分で引き抜いた包丁が落ちている。その刃にも木の柄にも血がベットリと付いている。
 真次郎はただ呆然と立っている。麻里恵は側に座って泣いている。
 晴美は谷本から噴き出した血を浴びたままの顔で、真次郎の顔をじっと睨んでいる。
 サイレンを鳴らしてパトカーが来る音がする。外は騒がしい、駆け付けて来た警察官がドカドカと入ってくると、狭い部屋が一杯になる。
「この人がやったんです。この人です。この人です……」
 と晴美が真次郎を指差して言う。
「違う、何言ってんだ。俺じゃないだろう、何言ってんだよお前は! 俺じゃない、刺したのはその女だよ、俺じゃないよ!」
「事情はちゃんと説明して貰うから、取りあえず出て、一緒に来て貰うから」
 両側から二人の警官が真次郎の腕をつかみ、そのままアパートの部屋を出る。辺りに集まっている住民たちにジロジロと見られながら、停めてあるパトカーへ乗せられる。
 ……そうだ。あの時はまだ。まさか俺が犯人にされて何十年も刑務所に入れられることになるなんて思ってもみなかった。
 俺がやったんじゃないってことは、調べればきっと解かって貰えるだろうと思っていた。
 何よりも麻里恵が、自分がやったことを警察に話すだろうと思ってた……。

「刺したのはマリですよ!」
 狭い取調室で、机を挟んで座っている刑事に真次郎は訴える。
「何言ってんだ。お前が刺したって、奥さんも言ってるぞ」
「……そんな! そんなのおかしい。刺したのはあの女だよ、俺じゃないですよ!」
「そんな言い逃れが出来ると思うのか。中学生の娘さんがな、ハッキリお前がお父さんを刺すのを見たと言ってるんだよ!」
「違うよ、あの子は母親のことかばってるんですよ!」
「まだ言い逃れようとするのか、お前みたいに卑怯な男は見たことがない」
「誤解ですってば」
「それじゃこの写真見てみろ」
 と刑事は机の上に数枚の写真を並べて見せる。それには引き伸ばされた指紋が写っている。
「よく見てみろよ、これは谷本さんを刺した包丁の柄についていた指紋を写した物だ」
 写真に写っている指紋を指差しながら刑事は説明する。
「コレが谷本さんの指紋。お前がいう様に谷本さんが胸に刺さった包丁を自分で引き抜いた時に着いたと思われる。それからコレがお前の指紋。コレは握っていた指の向きからして突き刺す様な持ち方をしていたと推定出来る」
「だからそれは……」
「黙って聞け!」
「それから奥さんの指紋は、その一番下にある。つまり奥さんの指紋は普段料理をする時に使っていて着いたものであり、その指紋の上から被さる様にしてお前の指紋が着いている。さらにその上に谷本さんが自分で引き抜いた時の指紋が着いてんだよ」
「だからそれは、谷本さんが刺さった包丁を抜こうとするから、俺は抜かない方が良いと思ってそれで……」
 バーンと刑事が机を叩く。
「下手な言い訳するんじゃねぇよ! この卑怯者が!」
「……」
 そして次に預金通帳を広げて見せる。
「コレ解るな、お前の預金通帳だろ?」
「……」
「ここ見てみろよ。事件の起きる直前に入金されてるこの二百万の金はどうしたんだ? お前が谷本さんから脅し取った金なんじゃないのか?」
「脅すって、どうしてですか」
「だから、金を渡せば奥さんを返すとか何とか言って、脅して取ったんだろう?」
「違いますよ、コレは、人から貰ったんです」
「ほう、誰からだ?」
「……」
「言ってみろよ!」
「……」
「答えられないか」
「……とにかく、刺したのは俺じゃないんだから帰して下さいよ!」
「ふざけるなっ!」
 ……なんという理不尽なのか。真次郎は一刻も早くこの狭い部屋から出たいと思う。
「とにかく俺じゃないんだよ! お願いしますから! もう帰らせて下さいよ!」
 思い切って立ち上がると、隅にいた警官が両側から腕をつかむ。
「離せ、このバカ野郎が!」
 腕を振り解こうとするが、警官たちは力づくで腕をねじ上げ、真次郎の身体を床に叩き着ける。
「くっそう、俺じゃない! 俺じゃないんだよう! 何で分かんねえんだよ、放してくれっ!」
 警官たちは無理やり真次郎の腕に厚い布の袖を通し、拘束する為の服を着させようとする。逃れようとすると腕の関節が折れそうになる。
「痛っ、痛いっ、いててててっ……」
「暴れるな、大人しくしてないと腕が折れるぞ」
 と言って警官たちは背中にねじ上げた真次郎の両腕を拘束服の袖に通してしまうと、そのまま両腕が上下から背中に回した状態のまま動かせなくなる。
 気が狂いそうな怒りが全身に込み上げてくる。
「うおっ! うぉーーーっ! やめろっ! 放せっ! 放せバカ野郎ーーーーっ!」
 聞く耳を持たない警官たちはそのまま真次郎を取り調べ室から引っ張り出し、廊下を引き摺って行く。
「ちくしょっ、くそう。やめてくれ、やめてくれお願いだよーっ」
 真次郎の声は泣き声になっている。そのまま留置室へ放り込まれる。地面に顔が擦り付けられる。両手が背中に回ったままなので起き上がることが出来ない。
 ガシャンと音を立てて扉が閉められる。コツコツと警官たちが離れて行く足音が響く。
「うぉっ! はあっ! ううっ! わあっ! わあーーーーーーーーーあああああああああ」
 身動きが出来ない暗闇であらん限りの力で絶叫する。泣いても喚いても無駄だということを身体が理解出来ない。もがけばもがく程顔が汚い地面に擦り付けられる。

 晴美の話を聞いている沙奈の身体が小刻みに震えている。
「でも……それじゃお祖母ちゃんは? お祖母ちゃんはどうして本当のこと言わなかったの? 自分がやりましたって、相沢さんじゃなくて、自分が刺したって言わなかったの?」
「それは、私が言うなって言ったからだよ」
「どうしてよ」
「だからお祖母ちゃんまでが捕まっちゃったら、私はこの先どうしていいか分からなかったからだよ。それにあの時は、私は一番悪いのはこの人だと思ってたんだよ」
「だけど……」
「だから警察の事情聴取の時も、私はお母さんと一緒じゃなきゃ嫌だって言ってね、私はまだ中学生だったし、母さんもショック状態で只でさえ喋れる状態じゃなかったから、私は母さんに言ったわよ、絶対何も喋らないでって、私が全部話すからって。それで私は、相沢さんが刺したところを見てた話をして、裁判でもそのまま相沢さんがやったってことになったのよ」
「だけど……」
「だから悪かったって謝ってるんじゃないか! 相沢さんが刑務所に入った後もお祖母ちゃんはずっと言ってたわよ、本当のこと言わないと相沢さんに申し訳ないって、警察に言わなきゃ悪いって、でも私がね、そんなことは絶対に言っちゃダメだって、言わせない様にしてたんだよ」
「そんな……だけど、お祖母ちゃんは、お祖父ちゃんのことそんなに憎んでたの? お祖父ちゃんは、そんなに酷い人だったの?」
「……」
「……ねぇ、お祖父ちゃんて、どんな人だったの?」
「私の父さんはね、いつも怒ってて、私のこと可愛がってくれたことなんて一度もなかったよ」
「いつも怒ってるって、どうして」
「だから怪我のせいなんだよ。元は大人しい人だったらしいけど、戦争に行って身体が不自由になってから、人が変わって、恐い人になっちゃったんだよ」
「……」
「地元でも有名な造り酒屋の息子さんで、戦後は闇市商売だったけど、お酒造りを再開してからは、また羽振りが良くなって、財産はあったけど、身体の自由が利かなかったからね。何より男性としての機能がね、今思えば、それをお母さんに当たり散らすことで鬱憤を晴らしてたんじゃないかと思うのよ」
「そんなの酷い、戦争で怪我をしたのはお祖母ちゃんのせいじゃないのに」
「父さんは母さんのこと奴隷みたいにコキ使って、何か少しでも気に入らないことがあるとすぐ怒って、母さんのことをよく叩いてたよ。私は怖くてね、父さんとはまともに話も出来なかったんだよ」
「お祖母ちゃんは、そんなにいつもぶたれてたの?」
「殴られて、蹴飛ばされて、そのうち殺されちゃうんじゃないかって、私はいつも震えてた」
「酷い、自分の奥さんを殴るなんて」
「お祖母ちゃんは、ずっと我慢してたんだよ。でも私はお祖母ちゃんがひとりで泣いてるところを見つけてね、聞いたことがあるんだよ。なんでお父さんはあんなにいつも怒って、お母さんのこと苛めるのって。そしたらお祖母ちゃんはね、父さんの方がずっと辛い思いをしてらっしゃるのよ、だからね、これくらいのことは辛抱しなきゃいけないんだよって」
「酷いよ、お祖母ちゃんあんなに優しいのに、可哀相……」

 六甲山の展望台で、真次郎は麻里恵の顔にそっと手を触れている。よく見るとアゴの脇や、おでこの生え際が痣になっている。
「酷すぎるじゃないか。マリちゃん可哀相に……」
 病室で晴美の話は続く。
「でも母さんが一番嫌だったんじゃないかと思うのは、会社にお客さんが来た時に、父さんが母さんにお酒や料理を持って来させるんだけど、その時父さんはお客さんの前で凄く威張ってね、お母さんのことをコレはダメな女ですとか、役に立たないんですとか言ってバカにするのよ。私はまだ子供だったけど、その時のお母さんの顔はとても悲しそうだったわよ」
「そりゃそうだよ。そんなじゃお祖母ちゃんだって逃げ出したくなるよ」
「それがね、父さんは母さんにあんなに酷いことしてた癖に、母さんがいなくなると今度は警察に捜索願いを出したり、興信所に頼んで母さんの交友関係を調べたりして、もう必死になって探したんだよ。それでも近所の人には女房に逃げられたなんて言うと恥ずかしいと思ったらしくって、妻は病気で入院してるって嘘をついてね。でも一人でいる時はお酒飲みながら、麻里恵、何処に行ったんだ~って、もう泣きべそかいちゃって。まさか自分の会社に出入りしてる運送屋の運転手と母さんが幼馴染みで、そんな関係になってるなんて、夢にも思ってなかったからね」
「でもお祖母ちゃんが逃げちゃって、母さんは置き去りにされたんでしょう? 母さんはお祖母ちゃんのこと恨まなかったの?」
「そりゃ寂しかったわよ、でも私だってまだ中学生だったけど、子供ながらにお母さんのこと可哀相だと思ってたからねぇ、それよりも、もしお母さんが見つかって戻って来たら、また父さんにどんな目に遭わされるのかと思うと、その方が心配だったわよ」
「ふぅん……」
「でもそれから二年経って、ようやくお祖母ちゃんがこの人のところにいるって分かった時は……もう父さん怒り狂ってね、そりゃもう恐ろしかったわよ。本当にお祖母ちゃん殺されちゃうんじゃないかと思ったわよ」
「お祖母ちゃんが相沢さんのところにいるってことは何で分かったの?」
「もうこの人は会社を辞めて神戸には来なくなっていて、代わりにトラックを運転して来る様になった運転手の人が教えてくれたんだよ。でもその時はもう阿佐ヶ谷のアパートも引っ越して違う所に移ってたんだけどね、父さんは東京の興信所に頼んで居場所を突き止めたんだよ」
「ふぅん……」
 ベッドの真次郎は眼を見開いている。その頭では晴美の話す内容を全て理解している。
 そして、麻里恵の夫を刺したのが自分ではなかったということを聞いた時、鳴り響いた雷鳴によって繋がり、照らし出された自分の記憶と晴美の話す内容とを照らし合わせている。
 そして、真次郎には全てが解った。自分がいつもそうしなければならないと思い、食事の時に盗んでは削っていたスプーンは、麻里恵に突き刺す為だった。
 ……そうか、そうだったのか……俺がここへ来たのは、麻里恵に恨みを晴らす為だったんだ……。
 ジーパンのポケットに入れておいた筈のスプーンはあるだろうか。通帳と印鑑の入った袋は真次郎が施設で盗んで着て来た浜矢の衣服と一緒にベッド脇の台の上に置かれている。横目で見ると衣服の上に少し光っている小さな棒状の物がある。あった、アレがきっとスプーンだ。
 ……俺は刑務所の中で、何十年も掛かって、アレを麻里恵に突き刺してやる為に、ずっと先端を削っていたのだ。
 沙奈が真次郎を見て言う。
「相沢さん……このことは、長い間相沢さんが刑務所に入れられていたのは、お祖母ちゃんの罪を着せられてたんだってことは、覚えてなかったんですか?」
「この人はねぇ、本当にもう昔のことが解らなくなっちゃってるみたいだけど、本当は、心の奥底では、お祖母ちゃんのこと恨んでる筈なんだよ」
「そんな……ねぇ相沢さん。相沢さんがここに来たのは、お祖母ちゃんに恨みを晴らす為だったの?」
 ……その通りだ。
 でも真次郎は、そのことを口に出しては言わない。
「解っただろ、だからどうしてもこの人をお祖母ちゃんに会わせる訳にはいかないんだよ」
「でも、あんまり酷いじゃない……お母さんは、相沢さんの人生を奪ってしまったんだよ。取り返しのつかないことをしたんだよ」
「……」
「ねぇ解ってるの? もう謝っても取り返しがつかないんだよ!」
「解かってるよ……だけどねぇ、母さんが父さんを刺してしまったのは、相沢さんだって悪かったんだよ」
「どうしてよ」
「だって、そもそも相沢さんがお祖母ちゃんにチョッカイを出して、駆け落ちまでさせたからそんなことになったんだろ」
「そりゃそうだけど」
「それに、そうまでしておいてこの人は結局お祖母ちゃんのことを捨てようとしたんだよ」
「捨てようとしたって? どういうこと?」

 

    6

 

 晴美は真次郎の顔を見る。心を覗き込もうとでもするかの様にまじまじと見る。
「ねぇ相沢さん、貴方がお祖母ちゃんのこと捨てようとしなかったら、あんなことにはならなかったんじゃないですか?」
 その言葉がまるで納得出来ないという様に沙奈が聞く。
「どういうこと? だって愛し合ってたんじゃないの?」
「お祖母ちゃんはあの時、相沢さんに追い詰められてたんだよ」
「どういうことよ」
 晴美は沙奈には答えず、真次郎に対して問い詰める様に言う。
「ねぇ相沢さん、貴方が本当に最後までお祖母ちゃんのことを大事にしてたなら、あんなことにはならなかったんじゃないですか?」
「……」
 真次郎はじっと黙って天井を見つめたまま答えない。
「それは本当のことなの?」と沙奈が晴美に訊ねる。
「駆落ちしてから相沢さんとお祖母ちゃんの生活はね、結局上手くいかなかったんだよ」
「どうしてよ?」
「東京の阿佐ヶ谷で、相沢さんとお祖母ちゃんは一緒に住み始めたけど、正式に結婚出来る訳じゃないだろう。勿論子供だって作れないし。お祖母ちゃんは相沢さんの会社のお得意さんの奥さんなんだから。会社の人たちにも隠してひっそり暮らしてるしかなかったんだよ。でも相沢さんに上司から取引先のお嬢さんとの縁談話があってね、でも当然受ける訳にはいかないし、断るしかなかったんだよ。でもそうしたらその話が他の同僚のところへ行って、その人が結婚したんだけど、そしたらその人は相沢さんよりも後輩だったのに、相沢さんを追い抜いて出世してね、相沢さんはそんなの平気だって言ってたらしいけど、内心はやっぱり悔しかったんだと思うよ」
 ……そうだ。そんなこともあった。そうだ。確かにあのことは、俺と麻里恵が行き詰まる原因のひとつだったのかもしれない……。
「そのうち今度はまた別の同僚の人に、相沢さんが女の人と一緒に暮らしてるってことを嗅ぎ付けられてね、そこまでは良かったんだけど、その女は誰だってことになって、相沢さんが決して紹介しようとしないもんだから余計に怪しまれてね、とうとうアレは神戸の谷本酒造の社長の奥さんなんじゃないかって、噂になって、それで慌てて相沢さんは会社を辞めてアパートも引っ越したんだよ。それで転職して、今度はずっと規模の小さい運送会社の社員になったんだけど、そこでは自分よりも若い先輩に苛められてね、給料もずっと低くなるし、その上お祖母ちゃんも誰かに見つかるのが怖くなって、外へ仕事に出ることが出来なくなって、生活が苦しくなっちゃったんだよ」
「でも、そんなの生活が苦しくたって、我慢してやっていけば良いじゃない」
「そんなこと言ってもね、実際に職場で苛められたり、お金に困ったりすれば気持ちが荒んで人にも優しく出来なくなるものだろう」
「まぁそれは、そうかもしれないけど……」
「それでね、相沢さんは自分がこんなに酷い境遇になってるのは、お祖母ちゃんと一緒にいるせいだって、思う様になって」
「そんなの半分は自分の責任じゃない」
「終いには働かないで一日中アパートの部屋にいるお祖母ちゃんのことが疎ましくなってきたんだよ」
「酷い……それじゃまるでお祖父ちゃんと同じじゃない……」
 と言って沙奈はジロリと、今までとは違った目で真次郎を見る。
 ……真次郎は六畳間の卓袱台でビールを飲んでいる。麻里恵は隅に座っている。
「お前みたいに一日中家でゴロゴロしてるだけの女の為に、何で俺だけこんな苦労しなきゃならねぇんだよ」
「……すみません。私も出来ることなら働きたいと思うんだけど、でもまた誰かに見つかったらと思うと、怖くて出られないんですよ」
「俺が外でどんな思いしてるか解かってるのか!」
「はい、本当に、どうもすみません……」
 苛立ち紛れに真次郎はビールのコップを壁に叩き着ける。麻里恵は顔を覆ってシクシクと泣いてしまう。
 ……そうだ。その通りだ。あの頃俺は、酷かった。自分が不遇なのを全部麻里恵のせいにして、辛く当たってた。俺はそうやって麻里恵のことを追い詰めてた。
「それにお祖母ちゃんは、それは家に置き去りにして来た私に許して欲しいって気持ちからの言い訳じゃないかと思うんだけど、私のことが心配になって、毎日泣いてばかりいて相沢さんに怒られた。って言ってたよ」
 ……それは嘘ではない。
 真次郎の脳裏に、泣いている麻里恵の姿が浮かぶ……家に置いて来た晴美のことが心配だと言って、あの頃麻里恵は毎日泣いていた。メソメソ泣いてばかりいるので、俺は一層イライラして怒鳴っていた。
「そんなこと言ったって、しょうがねぇだろう? 晴美ちゃんをここに連れて来る訳にもいかねぇし、だったらお前が帰るしかねぇじゃねぇか? それも出来ねぇくせにメソメソしやがって」
「だって、今更帰れる訳ないじゃないの!」
「それじゃもう二度と晴美ちゃんのことくどくど言うのやめろよ、解ったのか!」
 夫と娘を捨ててきた麻里恵としては、今更後戻りは出来ない。なので真次郎がどんなに辛く当たっても我慢して生活を取り繕うしかない。そんな麻里恵に真次郎は一層甘えて、辛く当たった。
 どうせコイツは俺の為にならどうなっても良い女なんだから……と思っていた。
 どんなに辛く当たっても、麻里恵は真次郎から離れようとしない。
 真次郎に捨てられない為に、本当は辛いだろうに我慢して、せっせと真次郎の身の回りの世話をする。
 しかしそのことは、結局は自分の身を守る為だけにしているのだろうと真次郎には思われて、益々疎ましく思われる。
 その頃になるともう麻里恵の身体を求めることも無い。散々やり尽くして飽きてしまったのと同時に、関係を持ち始めた頃よりも張りの無くなった麻里恵の身体に食傷気味にもなっている。
 それでも麻里恵は真次郎の身体を求めてくる。それはきっと麻里恵にしてみれば、そのことによって真次郎に自分に対する愛情が残っているのかどうかを確認する行為なのだろう。そして真次郎に少しでも喜んで貰えれば、自分への思いを繋ぎ止めておくことが出来るのではないかと思っているのだ。
 でも真次郎は、そんな麻里恵の気持ちも知らずに、仕事を終えて疲れて帰って来た時に求められて、邪険に突き放してしまう。そんな時夜中にふと目を覚ますと、麻里恵が背中を向けて泣いている。
「そ、そうです……俺は、確かに……マリにひ、酷いことを……しました」
 黙っていた真次郎が言葉を発する。それを聞いた晴美は尚も追及する。
「でもそれだけじゃないでしょう?」
「はぁ……」
「貴方は、お祖母ちゃんのことほったらかして、若い女と浮気したでしょう!」
「……」
 ……真次郎が転職した小さな会社のプレハブで帳簿を付けている女の子。由紀……真次郎が出先から戻り、駐車場にトラックを停めて入って来ると、顔を上げてニッコリと笑い「お疲れ様です」と声を掛けてくれる。
 眼鏡をして事務服を着ていると野暮ったく見えるけれど。よく見るとまだ子供っぽさが残る可愛らしい顔立ちの中に、微かに芽生えた女の色気が感じられる。
「この人はねぇ、会社の事務員だった若い女の子と浮気してたんだよ」
 ……確かにそんなこともあった。しかしそんなことまで知っているなんて、これまでの長い年月の間に麻里恵は、本当に全てのことを晴美ちゃんに話していたんだな……。
 事務員だった由紀は他の社員に接する時よりも、真次郎に接する時の方が愛想が良く、嬉しそうにしている様な気がする。
 自分が勝手に思っているだけかとも思っていたのだが、仕事終わりが一緒になった時に「飯でもどうだい?」と誘ってみると「本当ですか? 行きます行きます」と嬉しそうに言ってついて来る。
 でも他の同僚に見つかるのは嫌だと思い、駅から少し離れたところにある食堂で飯を喰いながらビールを飲む。真次郎はこの会社でも独身であるということで通しているので、由紀にも勿論麻里恵のことは話していない。
「相沢さんはまだ結婚なさらないんですかぁ」
 コップを傾けてビールを飲む由紀の白い喉元に見入ってしまう。まだ二十代の前半で、三四歳の麻里恵に比べてずっと若い。若いから酒の回るのも早いのか、二~三杯飲んだだけで白い肌がほんのりピンク色になって、喋り方も甘ったるくなっている。
「相沢さんったら結婚したらもう他の女の人と遊べなくなっちゃうと思って、実はいろんな女泣かせてるんじゃないんですかぁ?」
 と言って顔を寄せてくると、真次郎の中に激しい欲情が沸き上がってくる。
 店を出ると由紀は真次郎の腕をつかんでくる。真次郎はわざと駅とは方向の違う暗い道の方へと歩いて行く。
 前後に人気が無いのを確かめてギュッと抱き締める。口を近付けてキスする。
 ムンとした温もりのある柔らかい唇をブチュブチュと吸う。まだ小娘だと思っていたのはとんでもないことで、自分から口を押し付けてベロベロと舌を絡ませてくる。
 その次からは由紀のアパートへ行き、肉体関係になる。
 真次郎は由紀に入れ込んでいく。それは自分の不遇な境遇を振り払う様に、また麻里恵に当て付けてやろうという底意地の悪さから。
 でも、真次郎は本気で由紀を好きだった訳ではない。結局は自分の欲求を満足させるにすぎなかったのだ。
 ……頭ではそのことを分かってたのに。俺は酷い男だった。
「その上貴方は浮気してることお祖母ちゃんに隠そうともしなかったでしょう」
 ……そうだ。俺は麻里恵にわざと浮気していることが解る様な態度を取った。
 朝出掛ける時に「今日は早く帰れるから」と言っておいて、実際に帰るのは日付けが変わった夜中になってから。しかもシャツの胸元に由紀の口紅が着いていても素知らぬ顔をして帰って来た。
「お祖母ちゃんは、ご飯の用意して、何時になっても自分も食べないで毎晩貴方の帰りを待ってたんですよ」
 もう先に寝てるだろうと思ってアパートに近付くと、部屋に灯りが点いている。黙ってドアを開くと当たり前の様に「お帰りなさい、お疲れ様でした」と明るく言う。そして卓袱台には食事が用意してあり、布巾が掛けられている。
 俺は口もきかずに洋服を脱ぎ捨て、卓袱台の前にあぐらをかく。
 俺の脱いだ服を片付けている麻里恵の動きが一瞬止まる……ああ、口紅に気が付いたな……と思う。だが麻里恵は何事も無い様にそのまま服を片付けてしまう。
 俺は冷蔵庫からビールを取ろうと立ち上がり、台所へ向かう。麻里恵が「あ、ビールなら私が……」と言うのを無視してビールの栓を抜き、持って来ると卓袱台のコップを残して他の料理を全部畳の上になぎ払ってしまう。
 麻里恵は急いでゴミ箱と雑巾を持ってくると、撒き散らされた料理を片付ける。
 ……俺がこんなに酷いのに、何故責めないんだ? 真次郎はビールを飲みながら、そんな麻里恵の殊勝な態度にむしろ疎ましさを感じている。
 そもそも麻里恵は人に怒ったり、責めたりすることが出来ない女なのだ。小学生の頃から、どんなに苛めても、困った様に笑ったり泣いたりするしか出来なかった。そして子供時代にあんなに酷いことをした俺と大人になって再会しても、懐かしがって喜んでくれさえした。そんな女だから、俺は好きだったんだ。
 由紀とのことは飽くまで浮気だから、と割り切っている。そのことはきっと麻里恵も理解してるのだろうなんて、俺は身勝手に思っていた。
「貴方にそんなことされて、お祖母ちゃんがどんなに辛い思いをしたか解かりますか?」
 ……解かる。今は、でもその時には解からなかった。解かる様になったのは刑務所に入ってからだ。あまりにも考える時間があり過ぎて、それまでの麻里恵とのことを考えているうちに、俺にはやっと解った。
 あの頃の俺には、麻里恵がどんなに悲しい思いをしているかなんてことには考えが及んでいなかった。
 俺は不運な自分の境遇を嘆いて、麻里恵に辛く当たることで憂さを晴らそうとしていた。
 しかし俺がそうすればする程麻里恵は一生懸命俺の世話をして、いつも笑顔を絶やさない。
 そうやって麻里恵が俺との間を取り繕おうと必死になって尽くせば尽くす程、俺は辛く当たる。
「母は家族を捨てて貴方のところに行ったんですよ。なのに貴方に捨てられたら、もう母には生きていく場所なんかなかったじゃないですか!」
 その通りだ……麻里恵には他に行くところがなかった。それはそうだ、夫と娘を捨てて飛び出して来てしまったのだから、今更帰る訳にもいかない、そもそもあの酷い夫に見つかることを恐れているので、帰れる訳がない。
 だから、どんなに俺に邪険にされても、ここにいるしかない。我慢してるしかない……。
 酔っぱらって俺がそのまま寝てしまっても、翌朝になるとちゃんと俺は寝間着に着替えて、布団に寝ている。麻里恵が寝ている俺の服を着替えさせ、布団を掛けてくれたのだ。
 俺は麻里恵に出て行けとは決して言わない。辛く当たる一方で俺は、麻里恵がこうしているのは俺の責任だし、麻里恵がここにいるのは当たり前のことなのだと思っている。
 それはある意味惰性に陥った結婚生活みたいなものだったのかもしれない。俺は勝手に、これからもずっと一緒にいるのだろうと思っていた。
「だけどねぇ相沢さん。それでもお祖母ちゃんは、貴方にどんなに酷いことをされても、それでもお祖母ちゃんは、貴方のことが好きだったんですよ」
 そうだろうか……本当に? あの頃俺は、麻里恵が俺に愛想を尽かさないのは、ただ他に行くところがないからだろうと思っていた。
「貴方の為に何もかも捨てて来たお祖母ちゃんが、貴方に大事にされないことがどれだけ悲しかったと思いますか?」
 ……そうか。麻里恵にしてみれば、俺の為に全てを捨てたのだから、俺にも全てを捨てて自分のことを守って欲しいと思うのは当然のことだったのかもしれない。でも俺はそんな麻里恵の重圧に耐えられなくなってしまった。麻里恵の人生を受け止めることが出来なかった。俺は麻里恵にどれだけ心細い、酷い悲しみを与えてしまったのか……。
「そうでしょう相沢さん?」
「はい。思い……だしまし、た。そうで、す……」
「お祖母ちゃんはお祖父ちゃんのところへ戻るくらいなら死んだ方が良いと思ってたのに、お祖父ちゃんが貴方とお祖母ちゃんの居場所を突き止めて、私を連れてお祖母ちゃんを連れ戻しに行った時、貴方は何もしないでお祖母ちゃんを引き渡そうとしましたよね」
「……」
「だから、お祖母ちゃんはお祖父ちゃんに無理やり連れ出されそうになった時、咄嗟に台所にあった包丁を持って……」
「はい……全て俺が……悪かった……んです……だからもう……麻里恵のこと、恨んだり、して……いません……」
 その言葉を聞いて晴美は立ち上がる。
「本当ですか? その言葉は、本当なんですか?」
「は……はい……」
 それを聞いた沙奈が口を開く。
「だけど、相沢さんは自分がやっていない罪の為に四五年も刑務所に入ってたんでしょう」
「それは……もう、いいんです……本当に、いいです。麻里恵に、あんなことをさせたのは、全て俺が、悪かった……ん、ですから……」
 晴美も信じられないという様に問い質す。
「でも相沢さん。長い人生を無駄にされた恨みはそう簡単には消えないんじゃないんですか」
 ……当たり前じゃないか! 消える訳がない……俺の人生だぞ! 消えるわけがないじゃないか!
 真次郎の目に、ベッドの脇に通帳や印鑑と一緒に置かれているスプーンの鈍い光が見える。
 ……ちくしょう……アレを、俺の恨みの篭もったアレを、何としても、麻里恵の胸に突き刺してやらなければ。俺は死んでも死にきれないぞ。生きているうちに……。
 でもその為には、今この病院にいるという麻里恵の病室まで、何としても連れて行って貰わなければならない。その為には、この二人に、俺がもう本当に麻里恵のことを恨んでなどいないということを、信じて貰わなければならない……。

 

 

 


第四章 1~2


    第四章


    1

 

「本当なんです。俺は、長い間……刑務所に入っている間に……恨みは、消えた、んです……」
「でも、その言葉は、私にはちょっと信じられないです」
「本当……です。そりゃ最初は怒っていました。恨んでた、けど……」
 ブォーンと音を立てて削られた木の粉が舞い上がる。機械の反対側から押された板がスベスベになって出て来る。真次郎は山積みにされた中から次の木材を持ち上げ、機械の位置に合せて押していく。ギィーーン……と甲高い音を立てて木材が削られていく。
「……それは最初のうちは……余りにも、酷いと思って……何で、俺が、こんなところへ入らなきゃ、ならないんだ……と思って。怒って、ました。だか、ら刑務官の先生にも、反発して……」
 時空を超えて刑務所にいる真次郎が叫んでいる。
「だからそれはさっきアンタが先にやれって言ったんじゃないか!」
 若い刑務官の指示に従ってしたことを、年配の刑務官に咎められて、頭にきた真次郎は口答えをしている。
「何だと? お前そんな口のきき方して許されると思ってんのか?」
「口のきき方もくそもねえだろうが! そっちが間違ってんのに何で俺が悪いことになってんだよ!」
 ピィーッ! ピィーッ!
 年輩の刑務官が笛を吹くと、沸いて出た様にドカドカと四~五人のトッケイ(特別警備隊)と呼ばれる屈強な刑務官たちが雪崩れ込んで来る。そして四方から真次郎につかみ掛かってくる。
「何すんだよ! 俺が悪いのかよ!」
 トッケイたちは何も言わずに真次郎の手足を取り押さえていく。
「何で俺がやられんだよ! 何でだよ! 放せよ、止めろバカヤローッ!」
 他の受刑者たちは作業の手を止め、面白い見世物が始まったとでもいう様に遠巻きに見ている。
 トッケイたちは暴れる真次郎の手足を抑え込み、床に叩き伏せて無理やりに拘束服を着せていく。
「放せっ、放せこの野郎っ! アイタタタ……止めろーっ!」
 腕を袖に通させようとするのに抵抗すると関節を逆にねじられ、痛さに耐えられずに腕を通されてしまう。
「馬鹿だなぁ、反抗したって同じなのに……」と受刑者の誰かが呟くのが聞こえる。
 真次郎の右腕は肩の上から、左手は腰から背中に回され後ろで結ばれてしまう。
「うぉっ、うおっ! うお~~~~おおお……」
 こうなってしまうと、もうどんなにもがこうが暴れようが一切腕を解くことは出来ない。
 トッケーたちは両側から真次郎の身体を抱えると作業場から引き摺り出して行く。
 そのまま廊下を引き摺られ、懲罰房に連れて来られると、部屋の床へ叩き付けられる。
 ズザーン!
「ここで三日間頭冷やしてろ!」
 ガシャンと扉が閉められ、ガチャガチャと扉を施錠する音が響く。
 拘束服を着せられて床に転がされると、自分ではなかなか起き上がることが出来ない。
「ちくしょう~~っ、ちくしょう、ちくしょうっ……放せっ、放せ、うわあああ、ああああああーーーーーー!!!」
 どんなに叫んでも喚いても、耳を貸す者は誰もいない。それでも叫ばずにはおられない。叫ぶことで頭がどうにかなってしまえば良いと思う。このまま気が狂ってしまえば、訳が解らなくなってしまえば良いのにと思う。
「わあああああーーーーーひゃあああああーーーーー!!!!!!!!」
 どんなに叫び続けても、気は狂わない、正気を失うことはない。あるのはただ怒りだけである。
 真次郎には、その時のことが、その時の自分がハッキリと今頭に浮かんでいる。
 ……施設で嘱託医の川柳先生は、失われた記憶はもう二度と思い出せないと言ったけど、やっぱりまだあったじゃないか、頭の中に、俺の記憶が、まだちゃんと残っているじゃないか……。
 今真次郎の目にはありありと自分が閉じ込められている懲罰房の様子が見える。叩き付けられた床の臭いも、拭うことも出来ずに顔を流れる涙の感触も蘇えっている。
「……そんな風に、俺は……何度も懲罰房……へ、入れられて……いました……もう……悔しくて、悲しくて……叫んでも、叫んでも誰も……聞いてくれない……んです……俺じゃないのに、俺がやったんじゃないのに……悪いのは、麻里恵なのに……」
 そう話す真次郎の顔を、晴美は申し訳なくて堪らないという様子で見ている。沙奈も居た堪れない顔をしている。
「その、時は……俺が、こんな思いを……しているというのに、どうして……麻里恵の、ヤツは……本当のこと、を言わない……んだ。と思って……ました」
 そう言われて晴美はまた深く頭を下げる。
「ごめんなさい。本当にごめんなさい……」
 それから数日後に懲罰房から出された真次郎は、また作業場で木材を電気カンナ機に掛ける作業に戻っている。
「ちくしょう、ちくしょう、ちくしょう……なんで俺がこんな思いをしなきゃならないんだ。何で俺が、何で……」
 工場の脇にある食堂で、他の受刑者たちと昼食を食べながらブツブツ言っていると、隣に座っている顔見知りになった受刑者が訊ねてくる。
「おい兄弟、どうしたんだよ?」
「実は俺はなぁ、やってねぇんだよ。俺は自分がやってねぇのに罪を被せられて、身代わりになって捕まっちまったんだよ」
「あーそうだったのか、それじゃ俺と同じだな。俺だって悪いことなんてひとつもやってねぇんだぞ」
 その受刑者は真次郎の肩をバンと叩いて言う。
「そんじゃお互いに無実同志ってことで、仲良くしようじゃねぇか、なっ、ワッハハハハハハハ……」
 刑務官の先生たちは勿論、他の受刑者たちでさえも、真次郎が本当は殺人など犯していないのだということを信じてはくれない。皆真次郎のことを、自分の欲の為に人を殺した悪人だという目で見ている。誰に何を言っても無駄なのだ。
 余りの情けなさに、夜雑居房の中で他の受刑者たちと並んで布団にくるまりながら泣いている「うううう~」と嗚咽を漏らしていると「うるせえぞ! 黙って泣きやがれこのタコが!」と他の受刑者に怒鳴られる。

 どんなに頭にきても、理不尽な状況に怒りを燃やしても、何もどうにもならない。どうすることも出来ない。真次郎の気持ちは無視されている。そして生活や作業等、全てにおいて強制される日々だけが過ぎる。
 そうして真次郎の人生はどんどん無くなっていく。作業中に嫌気が差して、仏頂面をしているだけで「おい、一五七番、目付き悪いぞ、何か文句でもあるのか!」と刑務官に怒鳴られる。
 何か言い返せば、また屈強なトッケイたちが雪崩れ込んできて、あの拘束服を着せられ、地獄の三日間になる。だから文句はあっても何も口に出さない。
 嫌気が差すとかいうよりも、嫌気は常に差している。でもそれを他の誰にも表現してはならない。ここでは自分の思いを表すことは全て罰になるのだ。
 他の受刑者たち六~七人と共に過ごす舎房の中での生活は、起床、トイレ、食事、工場での作業、就寝など、全て時間がしっかり決められており、その各々について細かく規則ややり方も守らなければならない。
 自分の意にそぐわないことがあっても我慢しなければならないし、他の囚人たちとも上手く付き合っていかなければならない。
 ここでの真次郎は、あくまでも、人妻と駆け落ちをして、追って来た夫を殺害した罪人として振る舞わなければならない。
 嫌でも、納得がいかなくても仕方がない。作業も、生活も、全てが遣り込められて、遣り込められて、それでもまた遣り込められる。
 どんなに泣いても喚いても、何もどうにもなりはしない。そのことを思い知らされるだけ。それが真次郎にとって「この世」というものなのだ。
 同部屋の受刑者たちと硬い布団を並べて眠る。朝は一分と違わずに飛び起きて、素早い動きで布団を畳み、着替えから洗面とトイレを済ませる。全員扉に向って正座して並び、扉から覗く看守の点呼に答える。
 当番の受刑者が扉越しに配る朝食を受け取り、テーブルの上に並べて食べる。
 食事を済ませると舎房の扉が開かれ、受刑者たちは廊下に整列し、刑務官に番号をがなり立てる。刑務官が掛け声を掛け始める。
「行進~開始っ、ヒダリッ! ヒダリッ! ヒダリミギッ、ヒダリッ! ヒダリッ……」
 その掛け声に合わせて真次郎たちは足踏みをしながら両手を大きく振り、声を上げる。
「オイッチニィ! オイッチニィ! オイッチニィ! オイッチニィ……」
 そのまま前へ進み始め、一糸乱れぬ行進で工場へと向かう。
 その声は刑務所内のあちこちから立ち上がり、行進する足音と共に群衆の声が地鳴りの様な響きになり、刑務所内を覆い尽くしていく。
 そのまま行進して工場へ到着すると、舎房で着ている服から工場での作業着に着替えるのだが、その際看守たちの見守る中で素っ裸になり、両手の平を開いて振り、両足を持ち上げて足の裏を見せる。同時に大きく口を開いて舌を上下に出して見せる。身体の何処にも何も隠してはいないということを確認して貰うのだ。
 受刑者たちが「カンカン踊り」と呼んでいるこの儀式も、真次郎の自尊心を砕くのに大いに力を発揮する。毎日やっても決して慣れるということは無い。
 何も考えずに済ませてしまおうと思っても、全裸で両手を振り上げ、片足を上げて舌を出す瞬間にどうしても我に返ってしまう。
 だがそのことで真次郎には、まだ自分の中に消すことの出来ない悔しさが残っているのだということを確認させられるのだ。
 カンカン踊りは作業を終えて舎房着に着替える際にも行われる。つまり舎房から工場へ、工場から舎房へと何か武器になる様な物品の持ち込みを許さない為にされているのである。

 朝更衣室で作業着に着替えると作業場へ入り、自分の受け持ちの箇所へ行く。そして担当官の「作業開始!」の掛け声と共に機械のスイッチを入れる。
 受刑者たちは「オヤジさん」と呼んでいる全体の作業を指揮する担当刑務官の指示に従い、作業を分担している。
 作る製品によって、使用する材木を運んで来る者、材木の長さや厚みを揃えて加工する者、仕上がった材料で図面通りに組み立てる者、サンダーという機械で表面を滑らかに擦る者、塗料で塗装する者等、それぞれの受刑者がいろいろな作業を受け持っている。
 真次郎に割り振られている作業は電動ノコギリで長さや幅を揃えられた木材を電気カンナに掛けて厚みを揃える作業である。
 ブィーンと唸りを上げて作動する機械の盤面に位置を合せて木材を乗せ、そのまま位置がズレない様に真っ直ぐに押して行く。
 機械からスベスベになって出て来る木材を反対側で待っている受刑者が受け取っていく。
 キィーン……と甲高い音を立てて木材が削られていく。機械の横から噴き出された木の屑が空中に舞い散る。
 真次郎は作業をしながらどうにも小便が我慢出来なくなってしまい、作業を中断する。前で作業を見守っているオヤジさんに手を高々と上げ、大声で叫ぶ。
「願います、願いまーす!」
「よしっ、そこ!」
 とオヤジさんに指を差された真次郎は「用便願います!」と言ってオヤジさんの前へ走って行く。
 オヤジさんから渡される「使用中」と書かれた木札を持って便所へ行き、入口の上にその木札を下げて中へ入る。

 一二時になると昼食になる。作業の日は工場の脇にある食堂で昼食を食べる。休憩が終わるとまた作業に戻り、夕方作業が終わると舎房に戻って夕食を食べる。九時に就寝。そしてまた朝起きて、作業場に行き、夕方戻って飯喰って寝る……。
 土曜日の午後と日曜、祭日は作業は休みであり、舎房で本を読んだり同部屋の受刑者たちと囲碁や将棋も出来るのだが、この時間にも規則はしっかり働いているし、他の受刑者たちに気も遣わなければならず、自由は無い。
 くる日もくる日も作業して、少しでも点呼の時間に並ぶのに遅れたり、布団の畳み方が悪いだけでも刑務官に怒鳴られる。それでもまた我慢して作業に行く。
 受刑者たちには決められた時間にテレビを見ることくらいしか楽しみがなく、同部屋の受刑者同士は自分が犯した罪状等を互いに話して聞かせることが通例になっている。
 だが真次郎の場合には、自分がやっていない殺人のことを自分がしたこととして話さなければならない。
 それは苦痛で耐えられないことなのだが、話さないと仲間外れにされ、苛められることになってしまう。
 同じ舎房の刑期を終えた受刑者が出所して、新しい受刑者が入って来る度にそれは続く。
 そうして長い年月が過ぎて行く。それ等のことを真次郎は晴美と沙奈に訴える様に話していく。
「……それは、まるで……自分が、どんどん、無くなって、いく様でした……でも、そのうちに、怒っていることにも……疲れてしまい……もう、どうにでもなれという、気持ちに……なって、いきました……」
 最初のうちはいっそのこと発狂して何も解からなくなってしまえばいい等と思っていたのだが、そうはならないことが解り、やがて怒ることにも疲れてしまう。
 自殺も考えたが、他の受刑者もいる舎房では不可能なことは勿論、独居の懲罰房に入っても首を吊るせる様な紐状の物がない。
 工場での作業中に回転しているノコギリに首を突っ込むこと等も考えてみたが、作業中は前の高い場所からオヤジが受刑者たちの一挙手一投足に眼を光らせているし、衝動的にそれをやる様な勇気もない。
 そうしているうちに月日は流れ、どんなに嫌だと思っていたことにでも、繰り返していくうちに諦めが生じてくる。
 気力も萎えて、もうどうでもいいという感じになってくる。
 工場での作業には熟練し、嫌々ながらやっている生活にも慣れが生まれてくる。

 そんなある日刑務官から「お前には自分の犯した罪に対する後悔が全く感じられないんだよ」と言われる。
 それはそうだと思う。真次郎にしてみれば、反省するも何も、やっていないのだから。やっていないことを反省しろというのも無理な話ではないか。
 真次郎が長年勤めている間に、刑期を終えたり、仮釈放になった有期刑の受刑者が同じ舎房から出所して行く。
 真次郎の様に無期懲役の受刑者にも、仮釈放になる望みはあるのだが、真次郎の場合戦争で家族が全滅しているので、身元を引き受けてくれる者がいない。
 自分が犯した殺人の罪を、心から反省しているという態度をしているつもりでも、やはり本当に自分が殺した訳ではないので、反省している態度にも真実味が欠けてしまうのか、真次郎の服役態度が評価されて仮釈放の審査に登るということも無い。
 勿論面会に来る者などはいないし、手紙をくれる者もいない。真次郎にはこの理不尽を受け入れて平静を保っていることだけで精一杯である。
「……もう、何を訴えても、何を思っても無駄なのだ……と思いました。しかし……俺がここにいなければならないということは、これは一体何なのだ? これは……神様に強いられた一生の懺悔なのか……と思う様になりました……ねぇ神様、これが、俺がしてきたことへの、報いだって……いうんですか? って問いかけたり、しました……」
 真次郎はそんな風に考えていた。それが本当にそうなのかどうかは解からない、でもその時の真次郎にとっては、自分の生涯の意味とは何なのかと問われれば、何かを償う為だけにあるのだという様にしか答えられない。

 まるで映画の場面が変わる様に、真次郎の中で記憶の場面が変わっていく。
 その日真次郎は工場の脇にある食堂で他の囚人たちと昼食を食べている。献立はカレーライスで、皆がガツガツと食べている音が響いている。
 食べ終わるとテーブルの隅に食器を集め、皿や器などを同じ種類の食器ごとに重ねて整理しておく。
 その日は配膳の係になっている真次郎は、各テーブルごとにまとめられている食器を集め、炊事場の流しへ持って行き、水を出して洗い始める。
 食器を洗いながらふとステンレス製のスプーンに目を止める。真次郎は自殺を考えていた時に、ナイフか包丁があれば手首が切れるのにと思っていた。
 工場の食堂で使う食器はナイフやホーク等、先端が尖って武器になりそうな物は使われない。だがカレーの時に使うスプーンはステンレス製である。コレを削って先端を鋭利に尖らせることが出来れば、手首を切ることも出来るのではないだろうか。
 顔を上げると流しの前の窓から外のグラウンドが見える。運動の時間に並んで体操をしたり、野球をしたりするところである。
 もしこの窓からスプーンを放り投げておいて、その場所を覚えておけば、運動の時間に何気なく拾って服の中に隠し、舎房へ持ち込むことが出来るかもしれない。
 刑務所では全てが規則でがんじがらめにされており、自分の自由になることは何もない。でも何かひとつでもいい、誰にもバレずに規則違反なことをしてやりたい……。
 それがあれば自殺出来るかもしれない、ということもそうだったが、最初の動機はそんなところだった。
 でもスプーンのことは、麻里恵に突き刺すまでは晴美と沙奈には隠しておかなければならないので、思い出してもこの件は口に出さないでおく。
 舎房と工場との行き来には例の「カンカン踊り」があって工場で使う工具や木材の切れ端でも舎房へ持ち込むことは不可能だと思われる。
 真次郎は次の運動の時間に、グラウンドでブラブラ歩きながら何気なく工場に併設された食堂の側を通り、炊事場の窓の位置を確かめておく。
 ……あそこが食堂の窓だから、この辺の草むらにスプーンを投げることが出来れば、運動の時間に拾うことが出来るかもしれない。
 そして真次郎はその計画を実行し、まんまと一本のスプーンを舎房に持ち込むことに成功する。
 だが、舎房の布団の中に隠しておいたスプーンが、工場の作業に出ている間に抜き打ちで行われた巡検で刑務官に見つかってしまい、真次郎は七日間懲罰房へ入れられ、同じ舎房の受刑者たちも共同責任ということで一ヶ月間テレビの視聴を禁止されてしまった。
 懲罰が終わり、舎房へ戻っても、暫く他の受刑者たちは口もきいてくれない。

 真次郎は晴美と沙奈にはスプーンの件を飛ばして、刑務所での生活について話を続ける。
「……刑務所は……冬は、ストーブも無くて、寒いの……なんのって、いつも、ガタガタ、震えて……いまし、た……それに夏は暑くて、何も、しなくても、舎房に、いるだけで……汗が、ダラダラ、流れて……息を、するの……も、苦しい、くらい……」
 真次郎の脳裏に走馬灯の様に刑務所で過ごした日々が映し出される。
 秋の運動会でリレーの選手になり、走っている自分。お正月の豪華な食事は沢山のお菓子もついて嬉しかったこと。規則違反をせずにいれば月に一回見られる映画鑑賞会のこと。その時に見た映画のシーンさえ脳裏に再現される。
 それ等のことを淡々と晴美と沙奈に話していく。しかし、本当の意志を悟られてはならないので、本当に自分が最早麻里恵のことを恨んでなどいないと信じさせる為に、話してもいいことや、内容を脚色しながら話の筋を作っていく。
 四五年間いた刑務所の中で唯一、真次郎が本当は殺人犯ではないという話を「そうかい、俺は信じるぜ」と、信じたフリをしてくれた受刑者がいた。
「……あの人は……確か傷害罪で……懲役、六年だったかな、今頃はどうしているだろう……」
 同じ舎房で仮釈放になる受刑者に、他の受刑者が外で待っている自分の家族を訪ねて貰うことを頼んだり、ささやかなお祝いをしたりしている。真次郎だけは一人離れて、羨望を噛みしめている。
「……そうして、俺の時間は……無くなって、行きました……四十代を過ぎて、五十代になっても……六十代も……俺の、人生は全部……刑務所の中、だけでした」

 刑務所では、それが嫌でも、とうに飽きてしまっているということでも、他のことがしたいと思っても、それは意味のないことである。
 刑務官にやれと言われたことをする。どんなに自分の意に反することを命令されても、逆らえない。あるのはただ我慢だけ。刑務所にいることは、我慢すること。我慢して、我慢して、ただ日々だけが淡々と過ぎる。
 全ての屈辱に耐えた。いや、もう屈辱ということにさえ感心がなくなるくらい、自分を捨て去らなければ、ここでの暮しを続けて行くことは出来ない。
 そうした生活を送って行くに連れて、いつしか無意識のうちに気持ちの変遷が起きてくる。
「毎日……俺は我慢して……働いて、気を遣って、怒られない、ようにしました……飯を喰って、風呂に入って、寝る……それだけです。でも……それは、世間で……普通に暮らして、いる人だって……仕事を、していれば……同じ様に、少なからず……あることなんじゃ、ないか……と、思う様に、なり……ました」
 理不尽にも慣れた生活を送っていくにつけ、きっと人が生きるのは刑務所の中も外もそう変わりはないんだと、真次郎は自分に思わせてしまおうと思う。
 ……そうさ、人の生きるとは概ねこういうことなのだ。
「……俺は、もう……何かを考える、ということを……止めること、に……しました。だって……何を考えても、何も変わらない……考えても無駄なんです。俺は……ただの、機械の様になって、思ったり、考えたりすることは、もう止めよう……と思い、ました」

 そうして絶望することにも慣れてしまうと、気持ちは大分楽になったのだが、それでも時間は有り余る程ある。考えまいとしても思考が勝手に動いてしまう。そうして真次郎は、今度は落ち着いて今までに自分のして来たことを振り返る様になる。
「……それは、何故、自分は……こんな状況に、なってしまったのだろう……ということでした。そりゃ……マリのことを、憎んではいるけれど……マリと、俺との、経緯を……順を追って、思い返してみると……幼い、頃に出会って……戦争から、戻って、また、会って、愛し合って……ああ、楽しかったな、あの頃は……」
 話を聞きながら、沙奈はハンカチで目を拭う。
「そして……それから、俺が……マリ、にしたこと……を、考える、と……マリが、谷本さん……を刺す、原因を作ったのは、俺だったんじゃ、ないのか……という、考えに……行き当たり、ました。実際に、包丁を、刺したのは、マリだった……とはいえ、俺が、殺させたのも……同然だったのでは、ないか……という考えが、浮かびました……」
 晴美も食い入る様に真次郎を見つめている。
「……いや、そんなことはない……とも思う。でも……そうすると、また自分の中に……激しい、苦しみが……生まれるので、それよりは……俺も、悪かったじゃないか……と思った方が……心が楽になる気がして……俺は、少しでも……楽になりたかった、から……」
 話しながら気が付くと、真次郎はいつの間にか左手を宙に上げている。それを晴美がしっかりと両手で包み込む。
「……そうだよ、俺が……マリの人生を……狂わせちまった……んだから。夫を、殺させたのは……俺だということも……出来るじゃないか……だから、俺が、こうして服役、しているのも……まんざら的を得てないとは……いえなんだ……そうだ、そうだ……」
 だがそれは、自分の中に渦巻く恨みの苦しさを少しでも軽くする為に、自分を納得させなければいられないことから生み出した、自分を騙してでも生きて行く為の手段だったのかもしれない。
 それを続けているうちに、思い込みにしろどうにか自分が刑務所に入っているのは当然のことなのだという気持ちを作り出すことが出来る様になっていった。
「……だって、そうとでも、思わなければ……あんな、理不尽な所で……生きて行く、ことなんて……出来なかった……そうだ。そもそもマリに、谷本さんを殺させたのは、俺なんだ……から、俺が谷本さんを殺したのも……同然なんだから……俺が、こうして、刑務所に……入っているのも、当然のことなんだろう……と、思う様に、なり……ました」
 晴美の目から涙がポロポロとこぼれ、それは握られている真次郎の左手に滴り落ちる。
 そうして長い年月を経て行くに連れ、真次郎が当初言っていた「何で俺が……」という呟きがいつしか「これで良かったのか、こうなるのが自然の流れだったのか?」という呟きになり。それが更には「こうなるべくしてなったのだ……」という呟きに変化していく。
 そして気が付くと「これでいいんだ、これでいいんだ……」と呟きながら作業している途端に「おい、一五七番、ブツブツ言うのやめろ!」とオヤジさんに怒鳴られる。
 いつしかそれは、何故とか、どうしてその言葉を言い始めたのか、という理由を離れて、ただ今この瞬間に、こうしている自分を肯定する為の呪文として定着していった「これでいいんだ……これでいいんだ……」ただその言葉を繰り返すことで、真次郎は日々をやり過ごして行くことが出来ているのだ。

 そんな風に少しでも麻里恵のことを許そうという気持ちが芽生えてくると、優しかった麻里恵との、楽しかった日々のことが思い出される。
 東京での日々。ドアを開けると神戸から逃げて来た麻里恵が立っていたあの光景「私、来ちゃった」と笑って言った顔。
 夕暮れの商店街を歩いて銭湯へ行き、帰りにラーメン屋で二人で丼を交換しながらラーメンを啜ったあの時……ああ、あのラーメンは美味かったな……。
 刑務所に入るまでに真次郎はいろんな女とセックスをしたけれど、それは皆風俗店のプロやホステス等の水商売の女ばかりだった。本当に心も繋がっていると思ったのは麻里恵の身体だけだった。
 一番フィットして、お互いのツボを心得ていた。あの壮絶に混じり合った感覚を、今も全身で思い出すことが出来る「ああ、マリっ……」真次郎は麻里恵とのことを思い浮かべては舎房の硬い布団の中で自慰行為をするようになり、麻里恵が恋しい存在になってくる。
 ……ああ、可愛いマリ、俺だけのマリ、大好きだったよ……でも、もうそんなこと言っても信じてくれないだろうね。俺はお前を傷つけたんだから……。
「……でも……正直に、言うと……刑務所で、嫌なことがあったり……自分には、絶対にない……仮釈放を、して行く……他の受刑者を……見たりすると、忘れていた……怒りが、一気に、ぶり返してしまう……ことも、ありました……」
 ……マリ! ちくしょう! あの女めぇ~! 半分は俺がアイツをそこまで追い詰めてしまったのが悪いのだから、俺にも責任があるのは解る。だけど、やってもいない罪を被って何故俺が刑務所に入らなければならないんだ!
 その考えが戻ってしまった時には、逃れられない逆上に襲われる。それは地獄の苦しみだった。
「……作業していて……抑えられない……怒り、が込み上げて、自分の、手を……動いてる機械に……突っ込んで……」
 ……あれは、刑務所に入ってから十年は経った頃だったろうか、もう四十代も半ばを過ぎて、五十に近くなった頃、絶望も諦めになって、一度は何も考えずに生活出来る様になっていたのに。ある日いきなりぶり返した怒りに耐え切れずに、やってしまった……。
「ぎゃあーーー!!」
 痛みに叫び声を上げて手を引き出すと、血まみれになり、小指が落ちそうになっている。
「大変です、オヤジさん! 相沢さんが、大怪我です!」作業していた受刑者たちが集まり、真次郎は腕を抑えて蹲ってしまう。
 真次郎は包み込んでいた晴美の手を振り解いて、左手で右腕を持ち上げて見せる。今もその傷跡が小指の付け根から手首にかけて伸びている。
「……コレ、が、その時の、傷です……」
 と言って晴美と沙奈に見せる。
 ……そうだ。俺が、またスプーンを盗んだのは、そのことがあってからだった。
 真次郎は思い出す。また工場の食堂で炊事当番になった時、何年か前にやったのと同じ方法で、またスプーンを盗んだのだ。そして今度は、作業中の巡検でも見つからない様に、舎房での隠し場所を変えた。
 それは便所だった。前々から考えて、便所の中の板壁の一部を取り外せる様にしておいた。スプーンはその中に隠しておく。舎房の便所は上がガラス張りになっていて、用を足している最中も上半身は外から見える様になっている。
 真次郎は自分が用を足す時の、ほんの短い間だけそこからスプーンを取り出して、誰にも見えない様に足元の水が流れるパイプに擦り付けて先端を削ることにする。
 その為になるだけ大便をしに行くのをゆっくり入っていられる夕食後の余暇時間にすることにし、それでもせいぜい十分間くらいの間だけ、それも音がしない様にゆっくりとパイプに擦り付けていく。
 一度に削れるのはほんの僅かにすぎないだろうが、それでも毎回やっていれば少しずつでも削れてはいるだろう……何しろこれから何十年も先まで時間はあるのだから。
 今回真次郎にそれをさせているのは、自分の首や手首を切ろうということではなく、いつか麻里恵の胸にこのスプーンを突き刺してやろう。という思いだった。
 それを使って将来現実にここを出て麻里恵のところへ行き、突き刺せる日が来るなどとはとても思えない。だがそれでもその作業をやらずにはおれないのだ。
 そうすることで、ここで地獄の様に麻里恵を恨んでいる苦しみから少しでも逃れることが出来るのだ。
 ……例え何十年か先にでも、いつかコレで麻里恵の胸を刺し貫く時が来るかもしれない。
 一度の用便で削れるのが例え一ミリの何十分の一かだとしても、俺はコレを続けることで、その日に近付いているのだ……俺はきっといつかここを出て、麻里恵に復讐してやるのだ。
 真次郎はそのスプーンを尖らせて、麻里恵の胸に突き刺す瞬間のことをイメージして自分を慰める。毎日根気良く地道に削り、スプーンに思いを託していく。
 ……いつか必ず麻里恵を殺してやる! 絶対にやってやる! 返せ! 返せ! 俺を返してくれ!
 そうして同じ舎房の受刑者たちにも知られることなく、便所でスプーンを削り、心が落ち着いてくるとまた「やっぱり俺も悪かったんだ」という反省に戻る……そんな堂々巡りを繰り返しながら、ただ日々だけが過ぎて行く。

「……それから、何十年も、年月が、進んで行くに、連れて、俺は……思うように、なった……んです。あの時、マリは、晴美ちゃん、を家に置いて来たこと……を悪いと……晴美がきっと、寂しい、思いを……しているから……可哀相と言って、泣いてた……だから。今度は、俺に、罪を被せて……しまった、こと……を悪いと、思って、泣いて、るんじゃないか……って」
 晴美は再び真次郎の左手を握る。
「……マリは、一度も、手紙、もくれなかった……けど、でも俺に、は、マリの、気持ち……が、ちゃんと、解かって、いた……」
 それは長い刑務所生活を強いられる中で、真次郎の心が作り出した幻想だったのかもしれない。それは刑務所で生活する真次郎にとって、初めて見出した救いだった。その確信が、真次郎の刑務所での日々の支えになっていった。
 晴美がまたボロボロと涙を流しながら、ウンウンと大きく首を振って頷く。
「そうですよ相沢さん。その通りです。母さんは、本当に、毎日の様に、貴方に悪いことしたって、泣いていましたよ」
 それを聞いて、黙っていた沙奈が口を開く。
「でもそれじゃなんでお祖母ちゃんは本当のこと警察に言おうとしなかったの?」
「だからそれは私が行かせなかったからだよ。私がね、お母さんに頼んで、もう警察には行かないでくれって頼んだんだよ」
「……」
「もう……いいんです、よ晴美さん……俺には、分かる。マリは昔から……泣きべそだったから、今もきっと、自分の罪から……逃れることが、出来ないで。俺のこと、忘れること、も出来ないで……泣いているに、違いない……って思って、ました……」
 その時は本当に、そうだ、きっとそうに違いないと思っていた。何よりもそう思うことは自分の慰めになった。
 木材を電気カンナに掛けながら思っていた……今この瞬間も、アイツはきっと泣いているに違いない。ざまぁみやがれ。それでも俺の苦しみに比べたら屁でもないだろうが、あの女は、俺の為に一生泣いて暮らしていればいいんだ!
 ……そうさ、麻里恵は俺がいなければ何も出来ない、卑怯で弱い女なのだから……。
 そんな風に憎んだり、恨んだり、許したり、そしてまた怒ったり、長い長い刑務所の暮らしの中で、真次郎の麻里恵に対する感情は変化していく。
 いずれにしても服役中の四五年間、真次郎は片時も麻里恵のことを忘れたことはない。
 そして麻里恵もきっと俺のことを忘れたことはないだろう。と思っていた。真次郎を自分の身代わりにしてしまった罪の意識に苛まれていることも分かっていた。
 かと言って麻里恵は自分で名乗り出る勇気もなく、本当のことを言って警察に行く勇気なんてある訳もない。そんな卑怯な自分を持て余して、結局は泣くことしか出来ないのだ。
 罪を被っている俺に甘んじることでしか生きて行けずに、毎日泣いているに違いないのだ。
「……俺には……マリの、気持ち、が……手に取る様に、分かってました。マリは、そういう……女なんです。俺は……よく知ってる」
 そんな風に思っている間は、ここにいなければならない虚しさから逃れることが出来る。
 だが、暫くはそんな風に思って日々を過ごしても、またふと麻里恵は本当に泣いているのか……という疑問が沸き上がってしまう時も来る。
 ……もしかしたら全くの平気の平左で晴美ちゃんと楽しく笑って暮らしてるんじゃないだろうか……と思うとまたはらわたが煮えくり返り、激しい殺意が沸き上がってくる。
 ……でも今はもう憎しみに包まれてしまう時のことは話さずにいよう。許した時のことだけを話して、そして本当に俺が許していると思い込ませて、そして何とか麻里恵のいる病室まで連れて行って貰わなければ、施設から持って来たあのスプーンを持って……。
「……俺は、思う様に、なり、ました……どれだけ、離れたところにいて……何十年も、会うことが……出来なくても、俺は……マリと、一心同体なんだ、と……俺が、マリをよく、知っている様に……マリも、俺のことを、よく知ってる……俺たちは、今こうしている間にも……心が通じてるんだと、そう……思って、いました……」
 それは本当に思っていたことだった。小学生の時、苛めてた頃と変わっていない。麻里恵は優しい女だから。今も俺のことを思って泣いている。と思っていた。
 ……あの女は、罪の意識はあっても名乗り出ることは出来ない。卑怯な女、いや卑怯といっては可哀そうか、弱い女なんだ、アハハハハハ……。
 ……麻里恵は俺のことが大好きなのに、俺しか頼る者がいないのに、俺が背を向けたことが許せないんだ。今だって自分を蔑ろにした俺に振り向いて欲しいから、俺に甘えて罪を被せてるんだ。ならばお前の望み通りに、酷い目に遭ってやろうじゃねぇか。お前を苦しめた仕返しにこんな目に遭っているのだという苦しみを、存分に味わってやろうじゃねぇか……。
 そして俺はきっと、いつかきっとここを出て、このスプーンを持って、麻里恵に会いに行くんだ……それが俺の、生きる目標になっていた。
 最後に、もう真次郎が麻里恵を恨んでいないことを晴美と沙奈に信じさせる為に、真次郎は頭で作った文章をこう話す。
「ようやく俺は……自分が刑務所に、入ってる意味が、解るようになった……んです。それは……俺が身代わりに、なってやることで……麻里恵、の罪を償い、麻里恵を守ることになっている……同時にそれが、自分の……麻里恵に犯した罪の、罪滅ぼしなんだ……ということを」
 それは確かに今考えて二人を騙す為に作った言葉ではあるが、自分の言っていることは嘘なのか、服役中に本当に思っていたことなのか、頭の中が混乱してくる。
 不意に起きた混乱に戸惑って考えてみると、昨夜夜中に施設を脱走して来たので、毎朝飲んでいた川柳先生の処方した薬を今朝は飲んでいない。
 麻里恵の代わりに刑務所に入れられたのだという事実を聞いた衝撃で一挙に明晰になっていた頭に、また少しずつ霞が掛かってきた様な気がする。
 ……あの薬の効き目が無くなってきているのだ。
 急がなければならない、このまままた何も解からない元の状態に戻ってしまっては、ここまで遥々やって来た目的をやり損なってしまう。真次郎にとって、それは生涯を賭けた目的なのだ。
 コレを絶対にやり遂げなければ、俺の人生は報われない。でなければ、台無しにされた俺の人生が可哀相過ぎるじゃないか……。
 必死になって真次郎は晴美に訴える。
「……俺が、マリに谷本さんを……殺させたような、ものだから……マリの代わりに……服役することで、俺は自分の、生きる道を……通したことになるんだと、弱いマリが、こんな辛い、刑務所生活を……勤められる訳も……ないのだから。麻里恵の、身代わりに……なり、責任を取った……ということが、自分の人生だと……思うように……なった。んです。それ……が人生、の目的……となり、服役生活……を真面目に……勤め、る……こと、が出来るよう、に……なった、んです」
 晴美は涙を拭いながら話に聴き入っている。
「……そうこう、しているうちに……年月は流れて、やがて……俺は、作業中に脳梗塞、になって……半身麻痺に、なりました。医療刑務所……に移されて、そこで頭がボケて……気が、付いたら……あの施設に、いたんです……マリは、自分の夫を、殺して……その罪を……俺に被せて、俺が、服役してる……ということに、毎日……怯えて、泣いてたに違いない……んだ。それを、許してやれる……のは、俺だけ……なんです。だから……今すぐに……許しに、行って、やりたい……んです」
 晴美は泣きながらウンウンと頷く。そして「はい、はい解りました……」と言う。
 ……よし、もう大丈夫だ。あと一押しで、きっと麻里恵に会うことが出来る。
「俺……はもう、全然……マリ、を恨んでない……マリ、はきっ……と、俺、を……身代わり、にしたこと……に今も、心を、痛めている……だから。俺はもう……怒ってないと、言って……やりたい……そもそも……俺が悪かったんだ……って、謝って……やりたい……許して、やりたい……」
 ……殺してやる、殺してやる! 麻里恵よ、待っていろ、今になってまさか俺がやって来るなんて思いもしていなかったろう。
 今俺が遂に、こんな身体になってでも、お前に恨みを晴らしに行ってやるからな……。

 

    2

 

「ウワァー……」
 真次郎の話に聴き入っていた晴美は泣き崩れる。
「……本当ですか……本当ですか相沢さん……私は、貴方になんとお詫びすればいいのか……私の方こそ本当に取り返しのつかないことをしてしまいました。ごめんなさい、ごめんなさい~それに私は貴方が旅館に来た時……殺してしまおうとしたんですよ」
 晴美の言葉を打ち消す様に真次郎は激しく顔を横に振る。
「いいんです……もう、いいんですよ……それは、許してます……そうしようとした、貴方の、気持ちも……解ります。俺は、全部、許して、るんです……」
「ごめんなさい……それに……ありがとうございます。貴方には、本当に申し訳ないことをしました。決して許して貰えることではないけれど、取り返しがつかないことだと思いますけど、それでも、許して下さると言うんですね……」
「はい……」
「私はねぇ相沢さん。母のことが可哀相でした。あの時、母が私を置いて貴方の所へ逃げて行ってしまった時、そりゃ悲しかったけど、でもそれまでずっと母が父に殴られるのを見てましたから。逃げたのも仕方ないと思いました」
 解かる解かると言う様に、真次郎も頷いて見せる。
「でもねぇ相沢さん。貴方は覚えていないみたいだけれど、私はもうひとつ、貴方に打ち明けなければならない事があるんですよ……」
「……えっ?」
 ……まだ何か、俺が思い出していない事があるというのか……もうこれ以上他に何があるというんだ……。
「打ち明ける事って、何よお母さん」
「実はね相沢さん。私の母が連れ戻しに来た父を刺してしまったのは、最初に父が母を連れ戻しに行った時じゃなかったのよ」
「……」
「……えっ? 最初にって、どういうこと?」と沙奈が訊ねる。
「だからね、お母さんは、その前に一度お父さんに実家へ連れ戻されてたのよ、その時は私は東京に行っていないの。お父さんがひとりで行ったの」
 ……真次郎の脳裏で記憶が混乱してくる。映し出されている映像では、麻里恵が連れ戻しに来た谷本に杖で殴られている。真次郎が止めろというのも聞かずに、振り上げてはバシバシと何度も杖を降り降ろし、背中と言わず頭と言わず殴っていく。
「やめて下さい谷本さん! もういいですから、もう連れて帰って良いですから、お願いですからもうそれくらいにして……」
 と言う真次郎に谷本が振り返り、ギロリと睨む。
「連れて帰っていいだと? お前は人の女房を盗んでおいて、お前に良いなんて言われる筋合いはないわい!」
 と言って真次郎に向って杖を振り下ろす。狭い部屋の中で真次郎は身体を交わして逃げる。谷本は足が不自由なので思う様に杖を当てることが出来ず、部屋の中をガンガン叩いて壁や襖に穴を開けていく。
 ……そうだ。確かに、その時の光景には、晴美ちゃんがいない。
 谷本がビュンビュン杖を振り回すので、どんなに避けても身体に杖が当たってしまう。谷本は思う様に歩けないのだから、部屋にある卓袱台や座布団を投げ付けたり、隙を突いて足をなぎ払ったりすればいいということは解かっていても、真次郎にはそれが出来ない。
 それは自分に非があることは勿論なのだが、この場を我慢すれば、麻里恵と別れることが出来ると思ったからだった。
  それと今思えば、自分は戦争から無事に帰って来たのに、重大な怪我をして帰って来た谷本を気の毒だと思う気持ちも少しはあって、反抗する気を失っていたのかもしれない。
 そしてこうなってしまっては麻里恵も観念して夫の元に帰るしかないだろうと思っている。それが一番良いのだと思う。
「真次郎さん! 真次郎さん、助けて!」
「……ごめんな、マリ。俺たち、やっぱり無理だったんだよ。ご主人は本当にお前のことを心配して来て下さってるんだから、やっぱりご主人のところに帰るのが一番なんだよ」
「そんな……嫌だぁ、私、嫌だぁ~」
「黙れ! 黙れぇ~っ!」
 谷本は逆上して尚一層の力を込めて麻里恵の身体を杖で叩く。
 ひとしきり暴れてしまうと、谷本は顔や手から血を流している麻里恵を、杖で追い立てる様にして外へ出そうとする。
「……嫌よ、嫌だよ真次郎さん……ねぇ、お願い連れて行かせないでよ、ねぇお願いだから~」
 真次郎は黙って見ている。
 谷本は麻里恵をバシバシと叩いてドアへ追い立てる。そして遂に外に出すとバーンとドアを閉めてしまう。
 ……確かに、この時麻里恵は、谷本のことを刺したりせずに、連れ戻されて行った。そして晴美ちゃんもそこにはいない……。
 晴美の話は続く。
「それでね、神戸まで連れ戻されて二週間くらい経った時、また相沢さんのところへ逃げたのよ、その時は私を連れて……」
「どういうこと? だってもう、お祖母ちゃんは相沢さんに捨てられてたんでしょう?」
「だからね、もう一度相沢さんの所に行って、関係をやり直して下さいってお願いしようって、私がお祖母ちゃんに言ったのよ」
「お母さんが? またお祖母ちゃんと一緒に相沢さんのとこへ逃げようって言ったの? どうしてそんなこと言ったの?」
「そりゃお祖母ちゃんが可哀相だったからだよ。お祖母ちゃんはね、相沢さんのところから連れ戻されてから、部屋に閉じ込められて、毎日お祖父ちゃんから酷く殴られて、可哀相で見ていられなかったんだよ。それに私も、もうこんなお父さんとは一緒にいたくないって思ったんだよ」
「それで? 一緒に逃げたの?」
「そうだよ」
「それでどうなったの?」
「だからそれで……」
 と言って晴美は真次郎を見る。真次郎の脳裏に、今まで再生されていなかった映像の断片がフラッシュの様に映し出されてくる。
 谷本に暴れられて壁や襖に穴が開いたままの六畳間で、麻里恵と中学生の晴美が真次郎の前に座っている。
「……何でまた逃げて来たりしたんだよ。折角元に戻ったのに、今度は晴美ちゃんまで連れて来やがって、何考えてんだ?」
 それは夜が明けたばかりの早朝で、まだ真次郎は布団の上で寝間着姿である。
 麻里恵の顔は、あの後更に谷本から酷く殴られた痕が見て取れる。目の上や唇が腫れ上がり、見ているだけで哀れである。
 その時真次郎はこう思っている。……やっと麻里恵と縁が切れたと思っていたのに、今度は晴美ちゃんまで連れて戻ってくるなんて……厄介なことになっちまったな……。
「また戻って来たりして、俺にどうしろって言うんだ?」
「お願いします。助けて下さい……」
「助けてって言われてもなぁ……」
「……」
 黙っている麻里恵の横で、晴美がおもむろに鞄の中から取り出した物を見て、真次郎は眼を見張る。
 それは札束である。輪ゴムで縛られた一万円札の束。それを晴美は鞄から取り出して、畳の上に置く。一つ、二つ……百万円の束が二つで二百万円。
 真次郎はゴクリと唾を飲み込む。
「ど、どうしたんだい? この金は?」
「は、晴美!」
 麻里恵も驚いている。どうやら麻里恵も晴美がこんな大金を鞄に入れていたことを知らなかったらしい。
 驚いている真次郎と麻里恵を余所に晴美はまるで落ち着き払った様子で答える。
「これは、私が家の金庫から持って来ました」
「家の金庫って?」
 と思わず真次郎は身を乗り出す。
「お父さんが、家の中に隠してる金庫です。大阪の闇市で稼いでた頃に、税務署にも届けてないお金だから、金庫に入れて隠してたんです。私はその場所を知ってたから、ダイアルの番号が書いてある紙もこっそり見つけて、覚えたんです」
「そんな、それじゃこのことはお父さんは?」
「勿論知りません」
「そんな! なんてこと!」
 と麻里恵が咎める様に言う。
「お願いです。おじさん、このお金で、私とお母さんのこと、連れて逃げて下さい。お願いします。私もうお父さんのところにいたくないんです。お願いします。お願いしますから……」
 と言って晴美は畳に頭を擦り付ける。
「う~ん……」
 二百万の札束を見て真次郎は考え込んでしまう。
「私は、今もあの時の貴方の顔を覚えていますよ」
 と今晴美に言われると、真次郎は居た堪れなくなってしまう。
 真次郎が晴美の言うその顔をしていた時、頭の中で考えていた……この金は谷本さんが戦後に闇市で稼いだ税務署を通っていない金なんだ。だから盗まれたとしても警察には届けられないのかもしれない……。
「ようし、晴美ちゃん。分ったから、ちょっとここで待ってなさいよ」
 と言って真次郎は寝間着を着替えると、札束を自分の鞄に詰め込む。
 そのまま麻里恵と晴美をアパートに残し、金を持って銀行に向う。そして自分の口座に全部預金してしまう。
 真次郎には悪賢い考えが浮かんでいる。麻里恵がまた逃げたと知れば、谷本さんはきっとまたここへ来るだろう。そしてこの前と同じ様に麻里恵を連れて帰るに違いない。そうなれば晴美ちゃんもここにいる訳にはいかなくなる。
 ……そして俺は、金のことは知らないと言う。晴美ちゃんが何を言ってもそんな物は知らないと言い張る。
 もし谷本さんが金を返せと言い出したら、それなら警察に届ければいいじゃないですかと言ってみよう。闇市で稼いだ金だから、下手をすれば没収された上に罰金まで取られるかもしれないのだ。だから谷本さんは警察には言えないかもしれない。そうなれば俺にとってはまたとない幸運じゃないか……。
 晴美の持って来た二百万円を銀行に預けると真次郎はアパートに戻って来る。しかし部屋には入らない。そっと離れた所から見ながら、谷本が来るのを待っている。
 二百万円もの金があれば、すぐにここを引き払って、何処か谷本に見つからないところへ逃げることも出来るのだが、真次郎はそれをしない。金は貰って麻里恵と晴美だけを谷本に返そうと思っている。
 その時の悪い考えは、紛れも無く真次郎自身が考えた悪さである。
 隠れてアパートを見ているうちに午後になり、待ちくたびれたのか麻里恵と晴美が部屋から出て来る。マズイと思い、真次郎も部屋へ戻る。
「何処に行くんだ?」
「何処に行ってたんですか相沢さん! 早く逃げないと父さんが捜しに来ちゃうよ」
「ああ、悪かったな、大丈夫だよ。さ、部屋に入って相談しよう」
 と二人を部屋の中へ戻す。そして内心、谷本さんよ、早く来てくれよ。と思っている。
「早く、ねぇ早く真次郎さん。兎に角ここを出ましょうよ。でないと谷本がやって来ます」
「うん、解かってるよ、でもある程度行き先を決めてからでないと動くにも動けないだろう」
 等と言いながら真次郎は時間を稼ぐ。
「そんなことはここから出てから考えましょうよ、そうしないと、また見つかったら……」
 麻里恵は恐怖に慄いている。そして案の定、そうこうしているうちにバンバンと激しくドアを叩く音が響き出す。
「ああ~! 来たっ! だから言ったのに! だから言ったのに!」
「やめてぇ」
 という晴美の訴えも聞かず、真次郎はドアを開け放つ。
 果たしてそこには恐ろしい形相をした谷本がいる。
「きゃあーー」
 麻里恵は恐怖のあまり叫び声を上げる。
 靴も脱がずにドカドカと上がり込んで来た谷本は、逃げ惑う麻里恵の髪をつかみ、後ろへ引き摺り倒す。
「いやあ~~~っ!」
「やめて、お父さん!」
 腕に縋り付いて哀願する晴美を振り解き、肘鉄を喰らわせて跳ね飛ばす。
 麻里恵の腕をつかみ、外へ連れて行こうとする。嫌がる麻里恵の顔を谷本は何度も殴りつける。麻里恵が暴れて、弾みで谷本の杖を蹴飛ばし、谷本が倒れる。
 瞬間麻里恵の表情が無くなったかと思うと流しから包丁を持って来て、転んだ谷本の上に馬乗りになる。
 傍観していた真次郎は叫ぶ。
「バカ! やめろー」
 麻里恵は振り上げた包丁を突き下ろす。
 ズブーッ……。
「ぎゃあーーーーーーー!!!」
 谷本の絶叫が響き渡る。
「麻里恵ーーーっ!」
 馬乗りになった麻里恵を見つめて、谷本は眼を見開く。
「馬鹿っ……馬鹿な、麻里恵……」
 谷本に突き飛ばされて、麻里恵は床に落とされる。
 谷本の胸には突き刺さった包丁の柄が立っている。
「もう嫌っ、もう嫌なのよ……私嫌なんです……お願いします……許して下さい……」
 と言って麻里恵はその場にヘタリ込む。
 恐怖に引き攣りながらそれを晴美が見つめている。
 気丈にも谷本は胸元に包丁を刺したまま立ち上がろうともがいている。
 真次郎は驚きのあまり声も出せずにいる。
 谷本は胸に包丁を刺したまま杖を床に突き立て、ヨロヨロと震えながら身体を立ち上がらせようとする。
「お前、ら……」
 真次郎は驚きに目を見張る。
「お前等ぁ……」
 遂に立ち上がった谷本は、物凄い目で真次郎を、麻里恵を、晴美を睨み回す。そしてバランスを取ると杖を放し、刺さっている包丁の柄を握り、引き抜こうとする。
 咄嗟に真次郎は言う。
「谷本さん。止めなさいよ、抜いたら血が一杯出て助からなくなりますよ」
 と言って駆け寄り、包丁を引き抜こうとするのを止める。
「放せコイツっ……」
「本当だよ、抜いたら血が止まらなくなって、死んでしまいますよ!」
 柄を握る谷本と揉み合いになり、抜こうとするのを阻止しようと真次郎は包丁の柄を握る。
 しかし谷本が暴れるので、柄を持っていては返って抜け落ちてしまうと思い、手を放す。
「放せぃ、バカ野郎が!」
 仕方なく真次郎は後ずさる。
「お前には関係ないっ」
「関係ないって……」
「お前等の為だろうが」
「えっ?」
 谷本の視線はヘタリ込んでいる麻里恵と、頬を抑えて谷本を見ている晴美に注がれている。
「俺がこうなったのは……」
 麻里恵が顔を上げる。
 谷本は麻里恵と晴美の顔を睨み付けて、柄を握り絞める。
「お前等の為だろうが、俺がこんな身体になったのは! お前等を守る為に戦ったせいだろうがぁ!」
「お父さん……」と晴美が言った瞬間、谷本がズボッと包丁を引き抜く。
 途端にブシューッツと血が噴き出し、晴美の顔面に噴きかかる。
「きゃあーーーーああああああ…………」

 

 



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