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第一章 6


    6

  

「はい、じゃあ相沢さん。今日もお風呂に入って温まりますよ~」
 と言って、この前真次郎に小声で悪態をついた職員が笑顔で車椅子を押していく。見ると今日はもうひとり、どうやら新人らしい見知らぬ若い職員がついて来る。
「今日は初めてだから俺のやり方をよく見ておけよ」と偉そうに新人の職員に言う。
「はい」
 と新人の職員は少し緊張した面持ちで頷く。車椅子はいつもの脱衣所に入っていくと、シャッシャッと周りをカーテンで囲まれる。
 職員は新人に手伝わせながら真次郎を全裸にすると、入浴用の椅子に座らせる。
 そして浴室に入ると新人に手伝わせながら身体を洗う。洗い終わると椅子を移動し、浴槽へ向かう。
「さぁ、相沢さん、今日もお風呂で暖まりましょうねぇ~」
 ガシャンと音を立てて椅子を浴槽に合体させると、機械を操作する。足元からみるみる湯が沸き上がってくる。職員は新人に耳打ちする様に小声で話す。
「いいか、ここからよく見とけよ、この人ジェットバス入れると助けてくれ~って暴れるからヨ」と面白がって言う。
「はい……」と新人が答える。
「はい、それじゃ相沢さん。前から泡が噴き出しますからねぇ」
 と言ってスイッチを入れる。途端に前からズボボボ~と泡が噴きかかってくる。
 しかし、真次郎はもう前の様に暴れたりはしない。今の真次郎には、コレがジャングルの濁流などではなく、ただの風呂だということが解っている。
「……」
 職員は、自分が言った様に真次郎が暴れないことが癪に障ったのか、新人に向って吐き捨てる様に言う。
「……ふん、もうこんな、自分が何をされてるのかも、何処にいるのかも、何を喰わされてるのかも解らなくなってよぉ、コレで生きてるって言えるか? 俺だったら、もうこんなになったら殺してくれって家族に頼んで書いとくけどな」
 ……そうとも、俺だってそう思う。だが俺にはそう頼んでおく家族もいないんだ。若造、分かってるなら今すぐ俺の息の根を止めてくれよ……そうだ。今ここで湯の中に身体を沈めてそのまま溺れ死ぬことは出来ないだろうか。それにもしそうなればコイツの責任になってクビになるかもしれない。そうなればザマァ見ろじゃないか……。
 真次郎は膝を曲げ、椅子に座った状態の身体が前にズリ下がる様にする。上半身が前へずり下がり、顔が泡立つ湯の中に沈んでいく。そうすることに何の迷いもない。ただ単に、今こうすることが至極当然のことの様に頭を湯の中に沈めてしまう。
 ゴボゴボゴボゴボ……。
 途端にザバァーっと脇の下から身体をつかまれて引き上げられる。
「ゲホッ、ゲホッ、ゲホッ、ゲホーッ、ハアッ、ハアッ……」
 途端に真次郎はむせてしまう。
「冗談じゃねぇよジジイ! お前みたいなくたばり損ないでもな、死んじまったら俺等の責任なんだぞ、一応人殺しになんだからなぁ」
 慌てふためいた様子で職員は真次郎を怒鳴りつける。
 真次郎は何の感情も沸かない目をして職員を見つめる。
 ……ふん。若造、なんだかんだ言っても気の小せぇヤツだな。

 真次郎には、自分の命が存在する価値があるとは全く思えない。人を殺して、人生の半分以上も刑務所にいて。今はもう自分では歩くことも出来ない。文字通りのくたばり損ないなのだ。
 家族もいないし、大切な物など何も残ってはいない。早く死んでしまった方が良い。こんな自分には、死ぬことにさえ意味が無い様に思える。
 ……俺が今ここにいても、誰にも何も意味は無い。どうやったら死ねるだろうか。いや、死ぬというのは正しくない。消えるとでもいおうか。消したい、無くなればいい。俺はただ無くなればいい。

 その方法をあれこれと考えてみる。近頃のリハビリの効果により、その気になれば人の手を借りなくても一人でベッドから立ち上がり、左手で壁を伝わって歩くことは出来るだろう。
 ここは建物の四階である。窓から外へ飛び降りれば死ねると思うが、それを見越してなのかサッシにはストッパーが付けられていて、人の身体が通る程には開かないようになっている。
 右足を引きずりながら歩くことが出来るのだから、この部屋を出て、歩いて廊下の端まで行って、階段から落ちれば……でもそれでは首の骨を折るとか、よほど上手い落ち方をしなければ、大怪我をしたとしても確実に死ぬのは難しい気がする。
 そうだ、職員の目を盗んでエレベーターに乗り、屋上に行くことが出来れば、そこから飛び降りることが出来るかもしれない。理学療法士の原先生に連れられて一階まで降りた時に乗ったエレベーターは、浴室に行く時に通る廊下の先、職員たちの詰所の様な部屋の向うにある。そうだ、それが良い……。

 そう思いつくと、今すぐにでも行きたいと思う。三時のおやつが終わったところなので、夕食に職員が迎えに来るまでにはまだ時間がある。その間に屋上まで行ってしまえばいいのだ。
 思い立つと真次郎は左手でベッドの柵をつかみ、グイと力を入れて上半身を起こす。そして動かすことの出来る左足の膝を立て、動かない右足を左手で持ち上げる。左足を動かしてベッドの脇に両足が下りるように身体を回す。
 ベッドの縁に両足を下げて座っている様な格好になる。足元にはスリッパが置かれている。左手で柵を持ち、左足を床に降ろしてスリッパを履く。右足は多分スリッパを履いても引き摺ってしまうので途中で取れてしまうだろうと思い、履かなくても良いと思う。
 左足に力を入れて、右足も床に降ろし、左手でベッドの柵をつかんで立った格好になる。それから左手で柵を握って徐々に移動させながら、動かない右足に体重を掛けて少しだけ左足を前へ踏み出す。そうして一歩、また一歩……とベッドの端まで身体を移動させる。
 ベッドの端まで来ると、柵を握っていた左手をパッと離し、身体の重心を壁の方に傾けて、ドンと左手を壁につく。そのまま左手で壁を伝わりながら、動かない右足と動く左足で一歩ずつ入口のドアへ近付いていく。
 入口の側まで来るとドアの取っ手を握り、スライド式のドアを押して開く。同じ部屋にいる老人たちは何も言わずに黙っている。
 スライドドアをいっぱいに開けたまま、左手で壁を伝い、身体を外へ出す。廊下には何かを台車に乗せて運んでいる職員の姿もあるが、足腰が丈夫な老人がフラフラと歩いている姿もある。誰も特に真次郎に気付いたり感心を寄せる様子は無い。
 そのまま壁を伝わって、エレベーターのある方へと歩いて行く。一歩歩く度に右足を引きずって引き寄せながら、左足だけで少しずつ進んで行く。
 エレベーターのところまで行くには、浴室へ向かう角を通り過ぎて、職員たちの詰所になっている部屋を通り過ぎなければならない。
 もし誰かに見つかったら「自分のリハビリの為に練習してるんです」と言い訳しようと思っている。
 エレベーターに乗って、屋上へ出ることが出来れば、そして縁まで行って、そこから飛び降りることが出来れば、全ては終わる。
 もう何も思い悩むことはない、俺なんか誰でもいい。ただ面倒臭い、今ここで、こうしていることはただ面倒臭いだけなのだ。コレが消えればそれでいい。
 やっと職員たちの詰所になっている部屋の前まで来る。その部屋は廊下に面して大きなガラス窓になっており、中から外のフロアーの様子が見える様になっている。見ると休憩しているのか、テーブルでお茶を飲んだり雑誌を見たりしている職員たちがいる。その奥にはカーテンで仕切られた中にロッカーが立ち並んでいる。
 どうやら沙奈の姿は無いようだ。他の職員たちも壁を伝って通り過ぎる真次郎に注意を向ける者はいない。
 詰所を通り過ぎて、エレベーターの前まで来る。原先生がしていた様にボタンを押して待つ。もしエレベーターが着いてドアが開いた時、誰か職員が乗っていれば止められてしまうかもしれない「屋上で少し新鮮な空気を吸いたいんです」等と言ってもきっと連れ戻されてしまうか、もしくはその職員が一緒について来てしまうだろう。そうなれば飛び降りることは出来なくなってしまう。
 どうか、誰も乗っていませんように……と祈っているとエレベーターは到着し、ドアが開く。誰も乗っていない……。
 左手で壁を伝い、途中で閉まりそうになるドアを左足で遮りながら、乗り込むことに成功する。
 真次郎にも、それは当然刑務所に入る前のことなのだろうが。きっと遠い昔にエレベーターというものに乗ったことがあるのだろう。何処で乗ったのかは解らないが、昔のエレベーターには操作する専門の女性が乗っていた様な気がする。だが今のコレは自分でボタンを操作するものなのだということは解かっている。この前原先生がボタンを押しているのを見ていた。あの時原先生は「1」のボタンを押した。そしてエレベーターは一階に降りた。
 1、2、3……と数字が並んでいるのは、一階、二階……ということなのだ。だから一番大きな数字の書かれているボタンの上にある「R」と書かれたところがおそらく屋上ということなのだろう。
 今ボタンが光っているのが「4」なので、真次郎のいる階は四階なのだ。迷わず数字の一番上にある「R」を押して動き出すのを待つ。途中で誰か職員が乗って来てしまえば、屋上まで行くことは出来ないだろうと思いながら、上がって行くのを待っている。
 ドアの上に表示されている数字の光が、一階上がって行くごとに移動して行く。一番大きな数字は「6」で、その次が「R」。
 エレベーターは「R」に着いた。ドアが開くと小さな部屋になっており、ドアがあって外に出られる様になっている。エレベーターを降りるとドアの脇から壁を伝い、外へ出るドアに近付く。
 ガチャガチャ……左手でドアノブを握り、回してみるが、どうやら鍵が掛かっているらしい。ドアの横に数字がならんだ小さな箱状の機械が取り付けられている。
 この前原先生と中庭に出ようとした時、ドアの脇にあったのと同じ機械だ。原先生はボタンを押していた。それは確か「1、2、3、4」と数字を押して、それから左下にあるアルファベットの「E」だ。
 同じ様に押せば開くだろうか「1、2、3、4、E」……ピーッ、ガチャッ! 音がして鍵が外されたようである。
 ドアノブを回してみると、すんなりと回る。そのまま前へ押すと外に向ってドアが開く。
 やった……途端に風が吹いてくる。先日原先生と中庭に出た時にも感じたが、今また外に出たということが、何か特別なことの様に感じられる。コレは何なのだろうか。
 ……きっと俺は、ずっと長いこと刑務所にいたり病院にいたり、そして今はこの施設に閉じ込められて、こうして自分で歩いて外の空気を吸うということが何年も、いや何十年も無かったから。だからこうして外に出るということには、特別な感慨を持つのかもしれない。
 踏み出して行くと、建物が大きいだけにかなり広い屋上が広がっている。物干し台が立ち並び、収容されている老人たちの物であろう寝間着や下着、シーツ等が干してあり、風になびいてパタパタと音を立てている。
 出て来た塔屋の壁を伝い、そのまま端の欄干につかまって歩いて行く。嬉しくて顔が綻んでしまう。
 ……でももう、俺には何も意味がないんだ。俺にはもう、こんなことを感じていても、この瞬間に自分が生きているのだという実感があったとしても。それ以外には何もない。過去がない。自分が誰なのかも解らない、生きていてもその意味が解らない。だからもう未来も無い。
 さっさと飛び降りよう。この左手と、左足だけで、あそこに欄干の前に置かれたベンチがある。アレの上に乗ることが出来れば、上半身を欄干の外に倒れさせて、下へ落ちることが出来そうじゃないか。なんとかあそこまで行ってベンチに登り、欄干を乗り越えるのだ。そうすれば、全て終わる。終わりにすることが出来る。この意味もない瞬間を……。
 左手で欄干を伝い、右足を引き摺って歩きながら、どうにかベンチのあるところまで来ることが出来た。身体を欄干にもたせ掛け、動かない右足の膝の下に左手を入れ、グイと持ち上げてベンチに乗せる。そしてまた左手で欄干を握り、身体全体を持ち上げる様にして左足もベンチの上に乗せる。
 やった……ベンチに登ると欄干は腰より少し高い位置にまで低くなった。あとは、上半身を欄干の外へ出して、そのまま前に倒れれば……。
 背後でガチャガチャと扉のノブを回す音がする。ドアが開き、誰かが出て来た様子である。
「ちょっと! 何してるんですか!」
 バタバタと慌てて走って来た女性の職員が真次郎の身体をつかみ、ベンチから引きずり降ろし、そのまま自分もろともコンクリの床に倒れ込んでしまう。
「あ、相沢さん! 貴方何考えてるんですか! ちょっと、誰か、誰か来てぇーっ!」
 その職員の大声を聞き付けた他の職員たちも現れて、真次郎は抱き抱えられる様にして四階の居室へと連れ戻される。
 その時脳裏に同じ体験が重なっている。真次郎は身体の自由を奪う拘束服を着せられて、紺色の服を着た四~五人の屈強な男たちに手足をつかまれ、そのままズルズルと廊下を引き摺られている。
 真次郎は叫んでいる「や、やめろっ……放せ、放せぇーーーーーーっつ!」
 だが誰も真次郎の叫びに耳を貸す者はいない。男たちは有無を言わせず真次郎を引き摺って行く。
 真次郎は居室に戻され、ベッドの上に乱暴に寝かされる。
 そこへ騒ぎを聞き付けたのか沙奈が入ってくる。
「相沢さん」
「……」
 沙奈が声を掛けても真次郎は眼を合わそうともしない。
「相沢さん。どうしたんですか」
「うる、さい」
「えっ?」
「うるさい! うるさい! 放っといて、くれ……」
「でも……」
「だから……放っといて……くれっ! って、言ってんじゃ、ねぇかぁ!」
「……」
 まるで取り付く島も無い。沙奈は悲しい顔をして真次郎を見つめるばかりで、何も言えなくなってしまう。

 だが真次郎はまだ、この世から消えるという希望を失った訳ではない。
 前回は昼間にやろうとしたので失敗した。だが今度は職員が屋上に来る可能性のない夜中に実行すれば、きっと飛び降りることが出来るのではないかと思う。
 その日から真次郎は、夜中に職員が見回りに来る時間を測ろうと思う。今までの感覚だと九時の就寝から朝七時の起床時間まで、四~五回くらい部屋に職員が見回りに来ている感覚である。
 だとすれば、九時から朝の七時までの間が十時間だから、少なくとも一回の見回りから次の見回りまで二時間くらいの間が開く計算である。夜中眠らずに起きておいて、職員が見回りに来た後に部屋を出れば、屋上へ出て飛び降りるには充分な時間がある筈ではないか。
 躊躇う理由は何も無い。今夜実行しようと思う。
 夜九時の就寝時間が来て、職員たちが詰所へと引き上げて行く。真次郎は毛布を被って寝たフリをしているが、眼をしっかりと見開いたまま、眠る気は全くない。
 今すぐにはまだ、職員たちが何か片付けをしたり、詰所で仕事をしている可能性がある。だが次の見回りが来る頃にはかなり夜遅くになっている筈である。その時間にはさすがに当直の職員たちも休んだり、眠ったりするのではないかと思う。その頃がチャンスだと思っている。
 毛布にくるまったまま、じっと待っている。一体どれくらいの時間が過ぎたのか、時間の感覚はつかめない。
 やがてパタパタと廊下を歩く音が聞こえて、ガラガラと扉が開く。入って来た職員が他のベッドのカーテンをシャッと開け、眠っている老人たちを確認していく。
 他の三人を見回った後、真次郎の寝ているベッドのカーテンを開け、上から覗き込んでいる気配がする。真次郎は頭を少し毛布から出して、じっと目を瞑っている。
 やがて職員はドアを閉めて出て行き、隣の部屋のドアを開ける音が聞こえてくる。そのドアが閉まると、またひとつ向こうのドアが開かれる音が小さく聞こえる。それを何度か繰り返すうちに音は聞こえなくなり、シンと静まり返ったまま何の物音もしてこなくなる。
 今だと思い、真次郎はそっと毛布を持ち上げ、ベッドの柵を握る。力を入れて上半身を起こしていつもの手順で両足を縁に降ろし、左足にスリッパを履かせる。そして柵を握った左手で重心を取りながら、左足だけでベッドから床に降り立つ。
 その時遠くから何かパタパタと走って来る様な音がしたかと思うと、途端にガラガラとドアが開き、職員の男が入って来る。
「相沢さん。どうしましたか?」
「……」
 瞬間真次郎には何が起こったのか分からない。何故だ? 何故今職員が来てしまったのか。また捕まって廊下を引き摺られた恐怖が蘇える。
「い、いや……俺、は、何も……」
 誤魔化す言葉が何も思い浮かばない。
「勝手にベッドから離れてはいけませんよ。解かりましたか!」
 いつになく強い口調で職員は言う。
「さ、ベッドに戻って下さい、まだ起床の時間じゃありませんからね」
 職員は腕をつかむと、痛いくらいに力を入れて、真次郎をベッドに戻してしまう。
 真次郎は訳の分からないまま元の様に寝かされ、毛布を掛けられる。
 職員はシャッとカーテンを閉めると、ガラガラとドアを閉めて出て行く。
 ……部屋から出てもいないのに、どうして職員に分かったのか……。
 考えてみると、何か部屋の中に仕掛けがしてあるとしか思えない。もしかしたら真次郎がベッドから起き出したのを察した同じ部屋に寝ている誰かが、無線でも使って連絡したのだろうか。とも考えたが、この部屋にいる老人たちにそんなことが出来るとは思えない。
 だとすれば、このベッドに何か仕掛けがあるのだろうか……。
 ふと真次郎は、ベッドの布団をめくり上げてみると、布団とマットレスの間に灰色をした分厚い板の様な物が敷かれている。それには端から電気のコードの様な物が繋がっている。
 ははぁ……きっとコレなのだと思う。真次郎がベッドから降りた途端に、物音も立てていないのに職員が走って来たのはコレのせいなのだ。多分この板は、その上に寝ている人がいなくなると、コードで繋がっているところに知らせる仕組みになっているのだ。
 それはきっと人間の重みに反応する様に出来ているのだ。寝ている人の重みが無くなって軽くなると反応する仕組みになっているのだろう。
 ……きっと俺が屋上から飛び降りようとした時に、また俺が勝手に部屋を出て行かない様に職員たちがベッドに仕掛けたのだ。

 次の日の朝食の後、職員がいつもの様に真次郎の口を開かせ、処方されている錠剤を飲ませようとする。だが真次郎は口を真一文字に結んだまま開こうとしない。
「どうしたんですか相沢さん。さぁお薬ですよ」
「……」
 真次郎は職員の手を振り払い、口を引き結んだまま無言である。
「しょうがないですねぇ相沢さん。折角川柳先生が処方して下さったのに、どうしてお飲みにならないんですか」
「……」
 職員は諦めたのか錠剤を容器に戻し、そのまま車椅子を押して川柳の診察室へと真次郎を連れて行く。

「川柳先生すみません」
「はい」と机に向ったままの川柳が答える。
「相沢さんが朝のお薬をお飲みになってくれないんですが」
「あら……そうですか、どうしたんでしょう」
 と言って川柳は椅子を回転させて真次郎の方を向く。
「どうしたんですか相沢さん」
 問いかける川柳に真次郎はしっかりと答える。
「もう……飲まない……」
「はい?」
「もう薬……は、飲まない」
 真次郎の顔を覗き込んで川柳は不思議そうな顔をする。
「どうしてですか? 相沢さん。このお薬のお陰でこんなに回復なさったのに、私にも信じられないくらいなんですよ。だからこうしてお話まで出来るようになったんじゃないですか、なのに……」
「その薬……のせいで、苦しんで、るんだ…もう頭なんて……ハッキリしない方が、いい……」
「どうしてです、症状がこんなに改善されて」
「改善……しなくて、いい!」
「どうしてですか?」
「……何も、解りたくな…い。ま……た、何も……分からなくなった方、がいい……」
「でも……」
「俺、はもう……薬は、飲まない……」
 余りに断固とした真次郎の態度に、川柳も唖然としてしまう。
「でもそれじゃ、ヒハビリの方はどうするんですか」
「やらない……もぅ、やらなくて……いい……」
「……」

 午後の団欒の時間になり、老人たちはフロアーに集まり、テレビの画面を眺めている。
 昨日まで真次郎は原先生についてリハビリに励んでいたのだが、止めてしまったので時間を持て余してしまい、フロアーの隅でぽつんと座っている。
 そこへ通り掛かった沙奈が真次郎を見つけ、側へ歩いて来る。
「相沢さん……」
「……」
 真次郎は沙奈の顔を見ても、もう何の感情も沸かずにぼ~っとしている。
 沙奈は心配そうな顔をして真次郎を見つめる。
「……朝のお薬を飲まなくなっちゃったって聞きましたけど」
「……」
「ねぇ、相沢さんどうしちゃったんですか?」
 真次郎は何も見ていないかの様にただ宙に目を泳がせている。
「相沢さん……」
「いいんだ……もう」
「えっ?」
「俺なん……かもう、死んだ方、が良い……」
「ええっ?」
「生きて、いて……も意味がな……いから……」
「そんな、何言ってるんですか、そんなことないですよ。生きていれば楽しいことだってありますよ」
「いい……加減な、こと言うな!」
 急に怒鳴ったので沙奈は驚いてしまい、涙目になって真次郎を見る。
「そんなこと仰らないで下さいよ。相沢さんにそんなこと言われたら、私だって悲しくなるじゃないですか」
「……」
「……そりゃ、こんなところで申し訳ないと思うけど、人手不足でいき渡らないところもあると思うけど。でも私にとってはこれが仕事で、頑張ってやってるんですよ」
 そう言って沙奈が余りにも悲しそうな顔をするので、真次郎も少し狼狽してしまう。
「そ、そうじゃ……ないよ、沙奈さんに……は感謝してるよ……」
「あのね相沢さん。私なんかに、偉そうなことなんて言えないですけど、でも……」
 沙奈は言葉に詰まってしまい、どう言えば真次郎に解って貰えるだろうと考えている様子である。
「ねぇ、相沢さん。ここで働いている職員の生き甲斐は、相沢さんの様な利用者さんに幸せを感じて貰うことだけなんですよ。生きていて良かったって、感じて貰うことだけなんですよ。それなのにそんなこと言われたら、私だってもう、頑張ろうっていう気が無くなるじゃないですか」
「いや……そうじゃない。ごめん……よ君には感謝してる、んだ……よ、いつもありがとう……よ、こんな老いぼ……れの相手、をしてくれて……」
「私たちもここの利用者さんたちの暮らしをもっと良くしてあげたいとは思ってるんです。でもこれ以上職員の数を増やすことは出来ないらしくて、いつもギリギリの人数でやっていくしかないんですよ。でもどうしても手が回らなくて、利用者さんたちにしてみれば、雑に扱われたり、放ったらかしにされてるみたいに思われるのかもしれないけど」
「いや……俺はそんなこと言ってる……んじゃない…んだよ……」
 確かにここにいる老人たちは、自分も含めて、まるで物の様に扱われていると思う。でも、それは仕方のないことなのだと真次郎は思っている。
 必ずしも職員たちが老人を物の様に扱っているという訳ではない。実際ここにいる老人たちは物に近いのだ。
 それは沙奈が苦しむべき問題ではないと真次郎は思う。誰が、何が悪いというのでもない、これは必然的にある現実なのだろう。
「でも君は、どうし……てそんな……に俺のことを?」
「だって私、相沢さんみたいな人に会えて、この仕事して良かったって思ったんです」
「ど、うして……?」
「どうしてかな……それは、人のことが信じられる様になったっていうか……」
「……?」
 真次郎は沙奈の言っていることが理解出来ずに、ただ沙奈の顔を見つめている。
 沙奈の表情が思い詰めた様になっていく。真次郎にはその顔が酷く悲しそうに見える。
「施設長が最近、二人で会ってくれないんです。私……施設長のこと好きだけど、やっぱり施設長は、奥さんや子供と別れてまで私と一緒になりたいとは思ってないと思うんです。だから相沢さんみたいに、マリさんて人のことを生涯愛してたって話を聞くと、憧れるんです。私もそんな恋愛がしてみたいって思うんです。一度でいいから、そんな風に男の人に思われてみたいなって。人を愛するっていうけど、それってどういうことなのか、本当に人から愛されるってどんな気持ちなのか、私も感じてみたいです」
「……」
「相沢さん。私、いけないことだって解ってても、施設長を好きになっても幸せにはなれないってことも解ってても、でも気持ちが凄く魅かれてしまうんです。辛いです。でも、これが人を好きになるっていう気持ちなんですかね。私、こんなに男の人を好きになったの初めてなんです」
 その言葉が真次郎の脳裏にこだまする。
「……私、こんなに男の人を好きになったの初めてよ」
 そう言ったのが麻里恵であることは間違いない。そしてその言葉の後に麻里恵はこう続けた。
「私、真次郎さんのところに行っちゃおうかな……」
 真次郎は沙奈の顔を見て話す。
「でも俺……はその相手、が誰だっ、たのかも……思い出せない、んだよ……情けないよ……」と自分の頭を叩く。
「相沢さん。いいんですよ、もう、いいじゃないですか、相沢さんの中に今でもそんな強い思いが残ってるってだけでも素敵じゃないですか。だからもう無理に思い出さなくてもいいじゃないですか」
 だが、沙奈にそう言われても、真次郎の中にはどうしても思い出したいという強烈な衝動がある。
「ねぇ相沢さん。生きててもつまんないなんて言うけど、私だって、どうやって生きたらいいか解らなくって、ジタバタあがいてるんですよ。相沢さんと同じなんですよ」
 その言葉に真次郎は不思議そうな顔をして沙奈を見る。
 ……こんなに若くて、可愛らしい顔をして、それで一体何が詰まらないというのか……。
「相沢さん、私まだこの仕事を始めてから二年目なんです。その前はOLをしてたんですけど、その会社が倒産しちゃって、仕方なくてこの仕事を始めたんです。元々何がしたいとか、ハッキリした目標があって生きて来た訳じゃないですけど、気が付いたらこんな良い歳になっちゃってて、まだ自分が本当にやりたい事もなくて、でも取りあえずこの仕事に就いたから、今は頑張ってやるしかないって感じで」
「……」
 真次郎は沙奈が何故自分にそんな話をするのか理解出来ない。キョトンとしている。
「ねぇ相沢さん。私ね、元々は兵庫県の宝塚市に住んでたんです。知ってますか? 神戸の近くです」
「……」
「そこで短大を出た時、ひとりで東京に来たんです。私の実家は古い温泉旅館をしていて、両親は離婚して、旅館は母が社長になってるんですけど、母とはあんまり仲が良くなくて……」
 沙奈が話すのは、きっとそうすることで真次郎が死にたいと言う気持ちを少しでも慰めようとしてくれているのではないかと思う。
 でも、そんなことは意味の無いことなのだ。真次郎が死にたいと思うのは、生きることに希望を持とうとか、まだ楽しいことがあるかもしれないとか、そんな次元で解決出来ることではない。
「でも私……正直に言って、もう死にたいなんて言う相沢さんの気持ちも解るんです……」
「……」
「本当はこんなこと利用者さんに話しては絶対にいけないと思うけど。実は、私も思ったことがあって、認知症になってもう自分では右も左も分らなくなって、身体も動かせずに自分でご飯を食べることも出来なくなってしまったら、こんな風に、まるで植物みたいに生きてるくらいなら、尊厳死させて上げた方がずっと救いになるんじゃないか……って。思ってしまうこともあるんです」
 ……そうだよ、それは、その通りだ。
「これから先、もっと高齢化が進んで、介護職員の数はどんどん足りなくなるんだから、利用者さんたちは今よりもっと酷い扱いになるって、そんなこと私たちが心配しててもどうにもならないって上の人たちは言うんですけど。でもきっと利用者さんたちの家族は、一日でも長く親御さんたちに生きていて欲しいと思ってると思うんです」
「俺……にゃもう家族なんて、いない、俺に生きて、て欲しいなんて、思ってる人……は誰も……いない……」
「でも、ここに私がいるじゃないですか、それに何処にいるか解らないけどマリさんていう人だって、まだ何処かで真次郎さんのこと思って生きてるのかもしれないじゃないですか!」
「……」
 沙奈も珍しく語気を荒げる。どうしてそこまで熱を入れて語ってくれるのかと思う。そのことにはずっと忘れていた人の温もりの様な物を感じる。
「さ、沙奈……さん……」
「何ですか」
「お母さ……んとは、連絡……してないの?」
「時々電話だけはしてます。仲悪いけど、元気でいることだけは知らせとかなきゃと思って。私の両親は、私が小さい頃に離婚して、ずっと母子家庭だったんです」
「そう……でも、なんで、お母さん……と、仲が悪い……の?」
「母は男性に対して凄く疑り深い人で、父のことを、他に女がいるんじゃないかって、凄く疑ってて、私は父は浮気なんかしてなかったと思うんですけど、母は信じなくて、そんな母に父は我慢出来なくなって、出て行っちゃったんです」
「ふぅん……」
「そんな母も、子供の頃に戦争で父親を亡くしてて、旅館の女将だった祖母と二人だけで暮らしてきたらしいんですけど」
 そんな沙奈の話を聞きながら、真次郎にはずっと引っ掛かっている物がある……さっき沙奈の言った言葉が脳裏にこだましている。それは宝塚市……神戸の近く……という言葉である。でもそれが何だというのかは解らない。
「それで地元の短大を出た時に、父は母と離婚して東京に住んでたので、私は母の元から離れたかったのと、父のことが可哀相だと思ってたので、東京に行こうと思ったんです。それでこっちにあった会社に就職して、そこで十年も働いてたんですけど、倒産しちゃったんで、職業安定所に行ったら、良い仕事はあんまり無かったんだけど、介護の仕事にだけは沢山の募集が来てて、それじゃやってみようかなって。私がこの仕事に就いたのは、そんな風に、本当にたまたまだったんです」
「……」
「だから私、前から介護の仕事がやりたかった訳じゃないけど、でも私にもまだ地元で元気に暮してるお祖母ちゃんがいて、私母とは仲が悪いけど、お祖母ちゃんのことは大好きなんです。小さい頃から、母に怒られて落ち込んでる時も、お祖母ちゃんはいつも優しくて、慰めてくれたんです。だから私、もしこの先お祖母ちゃんに介護が必要になったら、旅館を継ぐのは嫌だけど、神戸に戻って、お祖母ちゃんの面倒は看てあげたいなぁと思ってるんです」
「おばあ、ちゃん、は何歳……なの?」
「来年九十歳になるんです。あ、ちょうど相沢さんと同い年ですね」
「ま、まだ元気……なの?」
「はい、今でも旅館で働いてるんですよ。もう女将は引退したんですけど、女将の仕事は母に譲って、今でも仲居さんをしてるんです。でも昔からのお客さんからは、祖母は大女将って言われてて、地元じゃちょっと有名なんですよ」
「そう……」
「そうそう、そう言えば相沢さんの大切な人はマリさんて言うんですよね、私の祖母はマリエっていうんですよ」
「!……マ、マリ、エ……マリエっていう……のか? 君のお祖母……ちゃん、も」
「そうですけど、それが何か?」
 キョトンとした顔をして、沙奈は真次郎を見ている。だが真次郎は慌てふためいた様に問い質す。
「そ、その字……を書い……て、名前を……漢字で、書いて……」
「あ、はい、いいですけど……」
 沙奈は胸のポケットからメモ帳を取り出すと、新しいページを開き、ボールペンで出来るだけ大きく文字を書き、真次郎に見せる。

「麻里恵」

 !……真次郎の目が見開かれる。
「麻里、恵……!? 沙奈さんの……お祖母ちゃん、は、麻里恵って、言う……の?」
「はい、そうですよ」
「今、何歳……な、の?」
「だから相沢さんと同じ八九歳です」
「……」
「……どうしたんですか?」
 愕然とした様に真次郎は宙を固視する。それはまるで遠く時空を超えたところを見据えている様な目をして。
「……それ……はマリ、じゃないのか!……いやそ、れはマリ……だ。解った。麻里恵、それは、麻里恵……なんだよ、それ……は……」
「えっ、相沢さんのいうマリさんも、麻里恵っていうんですか、でもそんな、相沢さんのいつも言ってるマリさんが私のお祖母ちゃんだっていうんですか? そんなことはないですよ」
 確かに何の根拠もない。たまたま同い年で同じ名前だったというだけなのかもしれない。だが何の疑問もなく、真次郎には沙奈の祖母だという麻里恵が、自分の記憶の中にいる麻里恵に間違いないのだと信じられてしまう。
 ……麻里恵……お前は生きていたのか、麻里恵……そうか……この子は麻里恵の孫だったのか、だからこんなに似てたのか……。
「ね……ぇ、お祖母ちゃんの……こと聞かせ、て……どんな……お祖母ちゃん……なのか」
「お祖母ちゃんは、ずっと宝塚市に住んでましたけど」
「宝塚っていう……それは、何処なの」
「兵庫県ですけど」
「兵庫、県……」
「兵庫県は、大阪と京都の隣にある県です」
「それじゃ、ここは……ここは何処なの……」
「この施設があるところですか、ここは東京の杉並区っていうところですよ」
「東京……杉並」
 どの地名にも聞き覚えがある。かつて真次郎はその地名のどれをも良く知っていたに違いない。だが今はそれらの場所が何処にあって、どれくらいの距離なのかも、全く思い浮かべることが出来ない。
「それに、相沢さんの覚えてる麻里恵さんて、苗字は何ていうんですか?」
「苗字……は、苗字は……分ら、ない……」
「それじゃ何処でお知り合いになったんですか……それも分らないか……」
「……」
「うちのお祖母ちゃんは、一度結婚したけど、私のお母さんを生んだ後すぐに戦争でご主人を亡くして、それから実家に戻ってずっと、母と二人で旅館を切り盛りしながら暮らして来たって言ってました。それ以来宝塚市から出たことは一度もないはずですけど。相沢さんも神戸の方にいらしたことがあるんですか?」
 神戸……宝塚市……温泉旅館……それ等の言葉に引っ掛かるものを感じるのは確かなのだが、それが何なのかは解からない。
「う……うう……」
 やはり真次郎にはただ、唸り声を上げて頭を抱えることしか出来ない。
「戦時中に祖母は地元の作り酒屋の息子さんだった人と結婚して、その方は戦争に行って亡くなられたって言ってました。今は旧姓に戻って三浦っていう名前ですけど」
「三浦……」
「はい、私は母が離婚してもそのまま父の名前で通してきたので吉田ですけど」
「どんな……お祖母ちゃん。どんな……人なの?」
「お祖母ちゃんは……」
 ちょっと考える顔をして、沙奈は思い出している。真次郎の方から尋ねる。
「いつ……も優しくて、弱弱し……い感じがして……人に何か……強く言われると、逆らえない……」
「……はい、確かにそんな感じはあると思いますけど……」
 ……そうだ。麻里恵は弱弱しい女だった。俺がどんな理不尽なことも、横暴なことを言っても逆らいやしない、ちょっと大きな声を出しただけでも涙ぐんでやがった……。
「私が母と喧嘩した時も、お祖母ちゃんは優しくて、いつも慰めてくれました。私にとっては、フカフカの綿みたいに優しいお祖母ちゃんでした」
「よく……泣いて、なかった……かい?」
 そう言われて沙奈も何かに気付いたのか、ちょっと気味が悪そうな表情を見せる。
「……は、はい、確かにお祖母ちゃんは、私が相談に行くといつも優しくて、ニコニコしてくれるんですけど、でも仕事を休んでる時とか、一人でいる時は、なんだか物悲しい感じっていうか、普段から黙っていると泣いてるみたいな顔してて……旅館の敷地にある離れで寝起きしてるんですけど、夜中に時々シクシク泣いてる様な声が聞こえたりしてました」
 ……シクシク声を殺して泣いている!
 その言葉に、真次郎の胸の奥で呼応する記憶がある、それは何なのかは解らない、だが酷く懐かしい様な感情が込み上げてくる。
「それで気になって次の日に、昨夜は何を泣いてたのって聞いてみても、お祖母ちゃんは悲しそうに笑うだけで、教えてくれないんです」
「マリだ……そ、れはやっぱり、麻里恵だ、それは……」
「でもそんな偶然って……」
「いや、ま、間違い、ない……」
「でも、じゃ何処で知り合ったんですか? お祖母ちゃんはずっと宝塚市にいて、戦争で亡くなったご主人がいたんですよ、相沢さんとはどんな関係だったんですか」
「……それ……が、分からな、いんだよう、うう~ああ~何なん……だ! 何だ……っていう、んだ! うううううー」
 ブィーーーンンンンン……。
 途端に材木を削っていく電気カンナから木屑が噴き上がる。
 そして顔面に血しぶきを浴びて絶叫する少女「きゃあああああーーーーーーー」だが、今回はその映像に、血飛沫を噴き出して倒れて行く人間の影が見える。少女に噴きかかる血液は、その倒れていく人の胸元から噴き出している。
 真次郎はカッと目を見開く。
 ……俺は、一体何をしたんだ……。
 自分の左手を開いて見つめる。
 真次郎は、沙奈の祖母が自分の記憶にある麻里恵であるということを確信している。だが、それを沙奈に信じて貰える様に説明することは出来ない。
 何一つ麻里恵との具体的な関わりを思い出すことが出来ない。だから何をどう説明すれば良いのかも解らない。自分自身にさえ麻里恵がどういう存在だったのか分からない。
「お祖母……ちゃん、は、今何処……にい、るの?」
「神戸の近くの宝塚市の武田尾温泉っていうところにある桜華園っていう旅館ですけど」
「おう……か……?」
「……えん。桜の、華の、園、って書いて桜華園です」
「桜……の、華の……園、神戸の近く、宝塚市……に、ある……」
 今真次郎の胸の奥に、ポッと小さな炎が点いた様な熱さが宿る。

 

 

 


第二章 1~4


    第二章

 

    1

 

「先生……あの薬……を、もう、一度、飲ませて、下さい……」
「はい、分かりました。相沢さんがその気になられたのならそれに越したことはないですけど、でもなんでまた急に気が変わったんですか? 何か心境が変わることでもあったんですか?」
「もっと、思い出……したいから……記憶が戻るか……もしれない、から……」
「……そうですか、では挑戦してみましょう。でもこれだけは申し上げておきますが、この薬は飽くまでも症状を緩和したり、認知症の進行を抑える効果はありますが、相沢さんがいくら思い出したいことがあるとしても、死んでしまった脳細胞はもう元には戻りませんからね。完全に失われてしまっている記憶を思い出すことは出来ないんですよ」
「……はい」
 それでも、真次郎は信じている。頭の中にはまだ記憶が残っている。絶対に。
 断片的にではあるが、時折頭の中を過って行く数々の光景は、自分の中にそれらの記憶がまだ残っているという証拠なのだと思う。
「それでは前回中断してしまった時に試そうと思っていた薬の比率配分にして、また再開したいと思います。私が思うには今度こそ、グラマリールとアリセプトの比率が一番良い比率になると思うんです。これならきっと、今までよりも一層の回復が見込めると思いますからね」
 と言って川柳は張り切った様子で処方箋の用紙にサラサラとボールペンを走らせ、数値を記入していく。

 真次郎は先日壁に投げつけたままベッドの下に放置されていた日記帳を拾い上げる。
 ベッドの脇にある台の上でシワを伸ばし、ページを開く。そしてボールペンを取り、左手で苦労しながら最後の日に書かれている「死にたい」という言葉に線を引いて消す。
 そして、新しいページの上にさっき職員に教えて貰った今日の日付けを「平成二六年九月十七日」と書く。左手はブルブルと震えて上手く書けないが、真次郎はゆっくりと、時間を掛けて、一文字一文字を書き入れていく。
 今日から自分について、分かったことを書いて行こうと思っている。

「俺の名前は相沢真次郎である。
 今八九歳である。
 若い頃、戦争で何処か外国の島に行っていた。
 帰国してから誰かを殺してしまい、長い間刑務所に入っていた。
 十年くらい前に刑務所で脳梗塞を起こし、医療刑務所へ移され、そこで頭がボケてしまい、この施設へ移されて来たのが八年前。
 俺には後見人になっているという遠い親戚がいる。たまに俺と面会に来ているらしい。
 俺の人生には麻里恵という女がいた。しかし麻里恵は俺の妻ではなく、戦争で死んだ他の男と結婚していたらしい。
 ここの職員の吉田沙奈さんは、きっと麻里恵の孫娘であると思う。
 麻里恵は未だ健在で、神戸の武田尾温泉というところにある桜華園という旅館で仲居をしているらしい。
 俺がいまいるこの施設は東京の杉並区というところにある。
 頭の中に時折り、俺が殺した人から噴き出したと思われる血を顔に浴びて絶叫している少女の顔が見える」

 

    2

 

 その日真次郎は、今までには入った覚えのない「応接室」というプレートが掲示された部屋へ連れて来られる。
 職員に車椅子を押されて入って行くと、そこには施設長の野崎と、もう一人見知らぬ男がソファに座っている。
「相沢さん。今日は相沢さんの後見人をして下さっている町倉さんがいらして下さいましたよ」
 と野崎がその男を紹介する。
「こんにちは相沢さん」
「……」
 年齢は四十代くらいだろうか、じっと見ても、その顔には一向に記憶がない。
「あ、貴方……は、誰……ですか」
 真次郎がハッキリとそう言葉を掛けたことに、町倉という男は驚いた顔をして真次郎を見る。
「相沢さん……」
 黙っている真次郎に代わって、野崎が答える。
「最近うちの嘱託医が相沢さんの飲まれている薬の処方を変えたのはご存じですよね」
「はい、ケアマネージャーさんから伺いましたが」
「どうもその薬が凄い効果を発揮したらしくって、私たちも驚いてるんです」
「そ、そうですか……」
 その町倉という男は何故か狼狽した様子で真次郎を見つめる。真次郎は訊ねる。
「あ、貴方……は誰、なんだ……?」
「この方は相沢さんの成年後見人をして下さっている方なんですよ」
 ともう一度野崎が説明する。
「せ、成年、後見人……って何だ」
「相沢さんの代わりに、相沢さんがお持ちになってる財産を管理して下さってる方です」
「ざ、財産……俺に、財産……がある、のか?」
 その質問には後見人だという町倉が答える。
「はい、それは心配しなくても。私がしっかり守って管理してますから大丈夫ですよ」
「貴方と、俺と……は、どういう関係……なんだ?」
「私は、相沢さんの従妹に当たる人の、義理の息子です。八年くらい前に家庭裁判所の方から依頼がありまして、それからずっと相沢さんの後見人をさせて頂いてます」
「……」
 そう言われても、真次郎には俄かには理解出来ない。
「俺は、アンタに、教えて……欲しい」
「はい、何でしょうか」
 身を乗り出して質問する真次郎に、町倉は少し圧倒された様に身構える。
「お、俺には家族……はいたのか?」
「はい、それはいましたよ。相沢さんにはご両親と、妹さんがいました」
「そ、それ……はどうなった、の?」
「それは、その頃相沢さんの御家族は神戸に住んでいたんですが、戦争で空襲にあって、全員亡くなられたと聞いています」
「こ、神戸……でぜ、全員……死んだ……」
 ……神戸……やはり、俺も、神戸にいたのか……。
「はい。その時相沢さんは戦争に行っていて、終戦になってから復員して来たと聞いてます」
 ……戦争……。
 真次郎の中で何か自分の記憶の、離れていた断片が少しだが、繋がっていく様な気がする。真次郎は尚も町倉に問い詰める。
「それから……俺は、刑務所……にいた、んだろう?」
「はい、そうですよ」
「お……教え、て欲しい……俺は、誰を殺……したんだ?」
「はい?」
 町倉は再び驚いた顔をして真次郎を見る。そして野崎と顔を見合わせる。
「……だから、どうして、誰を……殺したんだ? アンタ、知って……るんだろ……う」
「覚えてらっしゃらないんですか?」
「思い……出せない、だから、聞いてる……」
 俄に町倉の表情が真剣になる。
「本気で言ってるんですか?」
「ああ……」
「自分のしたことを忘れてしまったんですか?」
「だか、ら……教えてくれって……言ってんじゃ、ねぇか」
「今更そんなこと、もう思い出さない方が良いんじゃないですか」
「なんで、だ……?」
「もういいんですよ相沢さん。貴方は長いこと刑務所に入って、立派に罪を償われたんですから。もう安らかな日々をお過ごしになって良いんです。忘れてしまわれたのなら、それで良いじゃないですか」
「……」
 ……どうやらこの男は、それについては教えてくれないつもりらしい。
 町倉はそんなことよりも早く自分の用事を済ませてしまいたいと思っているのか、真次郎の問い掛けには答えず話題を変えてしまう。
「それでですね、相沢さん。施設長さんから今度貴方が身体のリハビリをお始めになったということを伺ったものですから、今日はそのお話をしに伺ったんですよ。というのはですね、こちらの施設の中に、相沢さんのお金でリハビリに使う専用の道具を買って置いて貰おうと思っているんです」
「俺の……金でリハビリ……の道具?」
「はい、そうです。こちらの理学療法士の先生とも相談してですね」
「そ、それは、幾ら……なん、だ?」
「はい、それはこちらできちんと管理してお支払いもしておきますので、ご心配なさらなくても大丈夫なんですよ」
「幾ら……なんだ? 俺の金……なんだろ」
「……ですからそれはですね」
「俺……の金は幾ら、幾らある……んだ?」
「それは、こちらでちゃんと管理していますので、お気になさらなくてもいいんですよ」
「いい、幾ら……ある! って聞いてん、じゃ……ねぇか!」
 そう言われて町倉は鞄から預金通帳らしき物を出しかけるが、ちょっと困った顔をして野崎を見る。
 真次郎は左手でバーンとテーブルを叩く。町倉は大きな音に驚く。
「見せろ! 見せろっ……俺の金を、見せろ……」
 真次郎は左手を伸ばし、町倉の持っている通帳を渡せとせがむ。
 町倉が野崎を見ると、野崎が仕方ないという風に頷いたので、真次郎に通帳を渡す。
 真次郎は通帳を受け取って見る。表紙に「相沢真次郎様」と記載されている。開いて見る。
 細かな数字が並んでいる。一番最後に記載されている数字が今の残金なのだということは無意識に分っている。
 最後に並んだ数字の列の、数の位を数えていく、一、十、百、千、万、十万……それは五百万円を超える金額になっている。
 通帳の最初の金額は六百万円を超えており、そこから幾らかずつが引き落とされて現在の金額に至っている。
 真次郎の金銭感覚は逮捕される以前の、昭和三十年代のままである。当時の物価からすれば、五百万円は途方もない金額である。
 ……こんなに金があるのか、俺の金が、これは刑務所で四五年間働いていた賃金なのか、こんなにあるというのか。
「……な、なんでこんなに……こんなに俺に、金が、あるんだ……俺は、何をして、こんなに金を、溜めたのか……」
 驚いている真次郎に町倉が説明する。
「私も事情はよく知りませんが、五十年前に相沢さんが捕まって刑務所に入られた時に、持っていらした預金通帳に二百万円の貯金があったそうです……」
 ……逮捕された時、俺に二百万円も貯金があっただと?……一体俺は、どうやってそんな大金を貯金することが出来たんだ。それとも、俺が犯した殺人と、その金とは何か関係あるのか。
「それを長い間銀行に預けているうちに利息がついて、バブルの頃は景気が良かったですから倍くらいになって……」
 ……バブルって? それは何だ?
「……それと相沢さんが長年勤められた刑務所での作業報奨金というのが二百三十万円くらいあったんです」
 町倉の話を聞いている真次郎は、放心した様に考えに浸っている。
「相沢さん。私は家庭裁判所の方から命令を受けて貴方の財産を管理していますから、貴方の為に必要な経費だけをそこから出して大切に使ってるんです。ですからご心配なさらなくても大丈夫なんですよ」
 その言葉が真次郎には何か全く胡散臭い、信用出来ない言葉に聞こえてくる。
「は、判子……は?」
「はい?」
「判子だ。ここに……押して、ある。コレと……同じ判子」
 と真次郎は通帳の最初のページに押してある届け出印の印影を指差して言う。
 この通帳の金を管理するには、ここに押してある印影と同じ印鑑がなければならないということを潜在的に覚えている。
「それは……」
「何処? にある……? 判子はある、のか……?」
「は、はい、そりゃありますけど」
「見せろ」
「はい?」
「見せろ……よ、俺のだろ?」
「いえ、でも」
「早……く判子を、出せ」
 真次郎は左手を出して催促する。
「いや、大丈夫ですよ。相沢さん。判子は私が持ってますから」
「いいから! 出せよ!」
「……」
「出せ! 判子を! 出せよ……コラァーっ!」
 まるでヤクザが恫喝している様に叫び、激しくテーブルを叩く。バン! バン! バーン! そうしながら、そんな自分に驚いてもいる。
 ……コレも俺なのか。俺の中に、こんな俺もいるのか……。
 だがそれと同時に、自分の中から蘇えってくるエネルギーの様な物を感じている。それは生命の炎とでも言った物だろうか。
 思いがけない真次郎の迫力に圧倒された町倉は、仕方なく鞄の中から印鑑の入ったケースを取り出し、真次郎に渡す。
 真次郎はそれをもぎ取るとテーブルに押し付けながら左手で器用に開き、印鑑を取り出す。それは年季の入った、見るからに何十年も前に作られた印鑑だということが分かる。顔に近付け、その印面と通帳の印影とを比べて見る。
「……どうですか、同じ判子でしょう? 納得されましたか?」
 と言って町倉が真次郎から印鑑を返して貰おうとすると、真次郎はその手を跳ね除ける。そして通帳と一緒にパジャマの懐に入れてしまう。
「ちょっと、相沢さん。それは大事な物なんですよ。失くしたりしたら大変ですから。ねっ、私が保管しておきますから、ね、返して下さいよ」
 取り戻そうとする町倉の手をバシバシと叩く。
「うるせぇ……俺の……俺の金だろう! ふざけんな……俺のだ!」
「ちょっと、相沢さん」
 取り戻そうとする町倉は真次郎の左手をつかみ、真次郎はそれを払いのけようとして暴れ、町倉の手を叩く。二人はつかみ合いになる。
「まさか、こんなに回復するなんて、ちょっと野崎さん」
「いいです。大丈夫ですよ町倉さん」
 と言って野崎は側に来ると、無理に取り上げようとする町倉の手を制する。
「快復したといっても、飽くまで一時的なことですから。そう長くは続きませんから。今は薬が効いて停滞していますけど、もう少し経てば認知がもっと進行して、そうしたらもういくら薬を飲んでも効果はなくなりますから。お金のことも解らなくなってしまいますよ」
「そうですか……」
 野崎の言葉に町倉は諦めて手を放すと、まるで今までとは別人を見ている様な目で真次郎を見つめ、改めて真次郎の快復ぶりに驚いている様子である。
 真次郎は思う……刑務所の労働が四五年間で二百三十万円。でもその前に、刑務所に入る前に自分がしていたという貯金が二百万円……それは何をして稼いだ金なんだろう? 俺は大会社の社長でもしていたというのか……。
 しかし、この後見人の町倉という男は怪しい。今まで俺が何も分からなくなっているのを良いことにして、俺の金を管理していると言いいながら勝手に俺の金を自由にしてきたのではないのか……。
 そう思うと、何かメラメラと腹の立つ思いが沸き上がってくる。これも暫く忘れていた感覚である。
「もう俺の金を……お前の……好き勝手に、させないからな!」
「……はい? 何を言ってるんですか、好き勝手になんて出来る訳ないでしょう? いいですか相沢さん。私は裁判所から依頼されてですねぇ……」
「冗談じゃねぇ……テメェ、人の金かすめ……取ろうと思いやがって、老いぼれと……思って、舐めんじゃねぇぞ!」
 その言葉にはさすがにムッとした様に町倉は目付きを厳しくして言う。
「ちょっと、落ち着いて下さいよ。いいですか、私はこんなことしても何の得にもならないんですよ。それなのに……」
「帰れっ、バカ野郎! 俺の金だ……お前なんかに……ビタ一文、やらねぇからな!」
 そんな乱暴な物言いが、自然に口から流れ出てくる。
 今までろくに話も出来なかった真次郎が、まるでゴロツキかヤクザの様に啖呵を切るのを見て、町倉はついにポカンと口を開けたまま黙ってしまう。
 そう言いながら真次郎自身も、そんな言葉を吐きだしている自分に驚いている。
「町倉さん。今日のところは仕方がないですから……」
 と野崎が声を掛け、町倉に帰る様に促す。
「は、はぁ……」
 と言いながら町倉が席を立つと、野崎が真次郎に背を向けて、聞こえない様に小声で話す。
「大丈夫ですよ。また折を見て取りあげておきますので……」
「そうですか、解かりました。それじゃ、宜しくお願いします」
 と言うと、町倉を連れて野崎も部屋を出て行く。
 真次郎はそれらの会話を全て理解している。

「俺には、今五百万円の貯金がある」

 新たに真次郎の日記帳に書かれる項目が増えた。しかし何故刑務所に入る前に二百万円もの大金を持っていたのかは分からない。それまでに働いて溜めていたのか? では一体どんな仕事をしていたと言うのか。五十年前の当時にそんな大金を溜めるには、それこそ会社の社長か何かをしていたとしか考えられない。
 刑務所に入る以前にしていた仕事の記憶と言えば、何か荷物を積んでトラックを運転していたことくらいしか思い浮かばない。だがトラックの運転手ごときでそんな大金が稼げるとは到底思えない。そうではないとすれば、一体何をして手に入れた金なのか。
 ……もしかしたら……俺は誰かを殺して、その時に金を奪い、逮捕される前にその金を銀行に入れていた……ということなのかもしれない。
 俺はそんなに悪い奴だったのか……でもだとしたら、どうして警察に捕まった時にその金は没収されなかったのか……何か上手い手を使って誤魔化したとでもいうのか……解からない。
 だがいずれにしても、コレが今俺の金であるということは紛れも無い事実なのだ。コレは俺にとって有力な力になる筈だ。もう絶対に奪われてはならない。取られない様に大切に持っていなければ……。
 真次郎は、これからはその通帳と印鑑を常にパジャマの懐へ入れて、片時も離さずに持っていようと思う。夕食の時も、ベッドへ入ってからもずっと懐の中に入れておくことにする。

 その日の深夜、何か違和感を感じて目を開けると、暗い中で何者かが、恐らく職員が掛布団を剥がし、パジャマの懐に手を入れようとしている。
「何すんだー! ふざける、なぁ……泥棒ー!」
 真次郎は左手でその男の手を払いのけ、叩いてやろうと手を振り回すが届かずに宙を切ってしまう。
「チッ……」
 と舌を鳴らすと職員の男は諦めて部屋を出て行く。
 危なかった……通帳と印鑑が無事なのを確かめて、懐をかき合わせ、掛布団を被って身を丸くする。

 その翌日は週二回の入浴のある日である。真次郎は脱衣室へと車椅子を押して行かれ、いつもの様にパジャマを脱がされていく。
 だが、職員がパジャマの上着を脱がせようとしても、真次郎はそこに入っている通帳と印鑑を守る為に、頑なに胸を抑えた左手を外そうとしない。
「さぁ、相沢さん。お風呂に入りますからね、寝間着を脱がないと入れませんよ」
「……」
「相沢さん……」
「入ら……無い、風呂は、入らなくていい……」
「そんなこと言って、入らなかったら不潔になりますよ、さぁダダ捏ねてないで手を離して下さいよ」
 強情な真次郎に苛立ってきたのか、職員の語調が厳しくなり、真次郎の左手を外そうとする手に力が入る。
「さぁその手を離して! 相沢さん!」
「う、う~~止めろ! 泥棒~泥棒~!」
 意地でも手を放そうとしない真次郎は、左手を引き剥がそうとする職員の手に噛み付いていく。
「痛っっ……ったく。もう本当にお風呂入れなくなりますよ!」
 そこへ騒ぎを聞き付けた沙奈が入ってくる。
「相沢さん、どうしたんですか?」
 駆け込んで来た沙奈に、真次郎に手を噛まれた職員が答える。
「この業突く張りのジイサンがよ、どうしても通帳と印鑑を離そうとしないんだよ」
「相沢さん」
 と沙奈に見つめられると、真次郎には無視することが出来ない。
「相沢さん、そんなに大事な物なんでしたら。お風呂に入ってる間は私が預かっておきますから、それでどうですか?」
「……」
「それで、お風呂から出て来たらもう一度お返ししますから、お約束しますから。私のこと信じて貰えませんか?」
「……」
 真次郎は考える。沙奈の言うことは信じることが出来る。しかし、沙奈に預けている間に、他の職員が沙奈から取り上げてしまうということも考えられるではないか。
 逡巡しながら沙奈を見つめていると、何か思い立ったのか沙奈は部屋の隅の棚へ行き、スーパー等で商品を入れるビニール袋を持ってくる。
「それじゃ、相沢さんの通帳と印鑑をこのビニールに入れて、水が入らない様にしっかり口を縛っておきますから、それに紐をつけて首から下げておいたらどうですか? それなら入浴の時もずっとご自分で持っていることが出来るじゃないですか」
「……」
 暫く考えて、沙奈の顔を見て真次郎は頷く。懐から通帳と印鑑ケースを出し、差し出されている沙奈の手に乗せる。
 沙奈はそれをビニール袋に入れると口を堅く綴じ、紐で縛って真次郎の首に下げる。
 そのまま職員は真次郎のパジャマを脱がせ、下着のランニングも剥ぎ取る。
「はいはい、良かったね相沢さん。これで誰も貴方のお金は取れませんからね」
 と忌々し気に言いながら、全裸になった真次郎を入浴用の椅子に移乗させ、ガチャガチャと音を立てて浴室へと押して入って行く。

 

    3

 

 真次郎は沙奈に車椅子を押されながら施設長室に連れて来られる。
「どうしたんですか施設長。ここに呼んでくれるなんて久しぶりじゃないですか」
 野崎は黙って微笑むとドアに鍵を掛ける。そして沙奈の側へ来て肩を抱くと、顔を近付けてキスしようとする。
 咄嗟に沙奈が顔を避ける。
「あれ、どうしたの?」
 と野崎は不思議そうに沙奈の顔を見る。
「だって、相沢さんがいるし」
「またそれか、心配するなって大丈夫だよ」
「だって本当に最近は意識がハッキリしてるから。周りのことも全部理解してるんですよ」
 そんな沙奈の言葉にひるみもせず、野崎は沙奈の両肩を抱いて顔を近付けてくる。
「ふん、そんなの本当に解かってたって、気にしなくたって平気だよ」
「それに……施設長は暫く私のこと避けてたじゃないですか」
「そんなことないよ」
「じゃ、今日はどうして急に呼び出して下さったんですか」
「……」
「やっぱり何か特別な用事があったからなんですよね」
「……まぁね、君にしか頼めないことがあったから」
「何ですか?」
「こないだ相沢さんが後見人の人から通帳と印鑑を取り上げちゃって、それからずっと自分で持ったまま取ろうとすると暴れるだろ。それでこの施設の利用費とか相沢さんの為に必要な経費の支払いが出来ずに困ってるんだよ。でも沙奈ちゃんの言うことなら相沢さんも聞き入れてくれるんだろう? だから君から相沢さんによくお話して、通帳と印鑑をこちらに戻してくれる様に頼んで欲しいんだよ」
「そんな、相沢さんのお金を取ってどうするつもりなんですか?」
「取るって? ヘンな言い方するなよ。何も横取りする訳じゃないんだから」
「だってこの前、後見人の人と何か相談してたじゃないですか」
「相談って、そりゃこの施設の相沢さんの利用費だってあの通帳から払って貰わなきゃならないんだから」
「それならここでちゃんと相沢さんに説明すれば解って貰えるんじゃないですか。最近相沢さんは物事をちゃんと理解出来るようになってるんですから」
「そんなの川柳先生が薬の処方を変えたからだろう。一時的にそうなってるだけだよ。どんな薬だって認知症の進行を止めることは出来ないんだから」
「でも今は解るんだから、きちんと説明して理解して貰えば良いじゃないですか」
「そんなの無理だよ。だって相沢さん、コレは俺の金だから誰にも渡さないって、その一点張りだからな」
「相沢さんは、施設長と後見人の人が一緒に考えてることくらい薄々気が付いてるんですよ」
「何だよ考えてることって」
「……それじゃ言いますけど、施設長は後見人の人と相談して、介護の経費とか言って相沢さんの通帳から沢山お金を使わせて、途中で金額を操作して差額を取ってるんじゃないんですか?」
「な、何言ってんだよ、そんなことしたら只じゃ済まないだろう」
 慌ててそう答える野崎の様子には、明らかに狼狽した様子が伺える。
「……」
「なぁ、俺がそんなことする訳ないじゃないか」
「だって、信じられないんだもん」
「どうしてだよ」
「……施設長は、本当に奥さんと別れて私と結婚してくれる気あるんですか?」
「何で急にそんな話になるんだよ」
「だって、全然その話進めてくれないじゃないですか」
「それと今話してることとは関係ないだろう」
「……」
「いいかい沙奈ちゃん。離婚して君と一緒になるにしても、その為にはお金が必要なんだよ。女房に慰謝料だって払わなきゃならないし。子供だって離婚したらそれでハイさよならって訳にもいかないんだから。成人するまでは養育費とかも払わなくちゃならないんだからね」
「だからその為に相沢さんの持ってるお金を使おうっていうんですか?」
「そんなこと言ってないだろう」
「でも相沢さんの為に必要な経費だとか言って、後見人の人と結託して実際に掛かる費用に上乗せして差額を盗んでるんじゃないんですか」
「人聞きの悪いこと言うなよ」
「だって、施設長には今だって借金があるんでしょう」
「それはあるよ、でもそれとこれとは別問題だろう。まぁでも確かに、それを先に解決しないと離婚の話も先へ進めることは出来ないけどな」
「やっぱり狡い」
「どうして!」
「だって私が相沢さんから通帳を取り上げないと、私との関係も終わってしまうって脅迫してるみたいじゃないですか」
「そんなこと言ってないよ」
「言ってる」
「言ってないっ!」
「嘘……」
「嘘なんかついてない」
「いいえ、私解ってます」
「だったら何て言えば良いんだよ!」
「……」
「それなら沙奈ちゃんの方こそ、もう俺と一緒になろうって気はないっていうのか?」
 そう言われて、沙奈は言葉に詰まってしまう。
「いいかい、それでなくとも今俺は大変なんだよ。二年前に起こした事故の賠償金があと二百万円。それは金融業者に借りてて女房にも内緒にしてる」
「それだってどうせ奥さんに言えない様な状況で事故を起こしちゃったから内緒にしてるんじゃないんですか? 誰か奥さんに秘密の女の人と一緒にいる時に事故っちゃったから内緒なんでしょう?」
「……」
 野崎は忌々しそうに頭を掻きむしりながら、遂には開き直った様に溜め息をつく。
「だからどうだって言うんだよ、施設長って言ってもねぇ、他の職業に比べたら給料が安くてどうにもならないんだよ。兎に角もう支払いがギリギリで間に合わなくなりそうだし。もし間に合わなくなったら君との結婚どころじゃない、大変なことになってしまうんだよ。いいかい、コレは全く俺の不運なんだよ。何で俺がこんな目に遭わなきゃならないんだって思うよ……」
 野崎の言葉が真次郎の脳裏に響く「何で俺がこんな目に遭わなければならないんだ……」真次郎もいつかそう吐き捨てた。そしてその横では麻里恵が、悲しそうな顔をして真次郎を見つめている。
「いいかい、もし相沢さんが亡くなれば、残ったお金は全てこの施設に寄付するってことで話はついてるんだ。そうなればどうにでもして俺が自由に出来る金になるんだよ。そうすれば事故の賠償金だって返せるし」
 そう話す野崎の顔を沙奈は凄い目をして睨んでいる。
 そんな沙奈に訴える様に野崎が言葉を繋ぐ。
「だってこんな稼ぎの少ない仕事じゃ何年経ったって借金なんて返せっこないんだぜ。正直なところ早く相沢さんの認知が進んで死んでくれれば良いと思うよ」
「!……そんな、酷いですよ」
「ふん。だってね、沙奈ちゃんよく考えてごらんよ。そもそも今あるこの相沢さんのお金だって、半分は刑務所に入る前に持ってたものなんだぞ。今から五十年も前の二百万っていったら物凄い大金だぞ、そんなの相沢さんが悪いことして誰かから取ったに決まってるじゃないか」
「だからってそれを野崎さんが取ってもいいってことにはならないでしょう」
「だからそんなことしないって、飽くまでも施設の為に寄付して貰うんだから」
「酷い……」
「もう話にならないな」
「やっぱり……嘘なんですよね、奥さんと別れて私と結婚しようだなんてこと、考えてないですよね」
「もうやめてくれよ、ウンザリなんだよ!」
「最初は相沢さんみたいに優しかったのに。もう奥さんとは別れたいって、私と一緒になりたいって言ったのに。私のことず~っと好きだって言ったのに!」
 その声は麻里恵の言葉として真次郎の胸に突き刺さってくる「私のこと、ず~っと好きでいるって言ったのに!」
「ふっ……子供じゃあるまいし、何をいつまでも解んないこと言ってんだよ。いずれにしたって、相沢さんが通帳握ったまま施設の利用費を払わないって言うんなら、ここから出て行って貰うしかないんだからな」
「そんなことしないでしょう」
「なんで?」
「だって、施設長は元受刑者で認知症になった相沢さんを受け入れたことで、この施設の評判を良くしたかったんでしょう? 全部計算づくでやってるのに、施設にとってマイナスになることなんかする訳ないじゃないですか。それに一番の目当ては相沢さんの持ってるお金なんだから……」
 そう言われて野崎の顔がみるみる怒りに震えてくる。
「うるせんだよ! もう黙ってろ!」
 そう怒鳴ると野崎は乱暴にドアを開くとバンと叩き着け、部屋を出て行ってしまう。
 瞬間シンとしたかと思うと、真次郎の耳にうううううう~とくぐもった声が響いてくる……麻里恵が泣いている……いや違う。泣いているのは麻里恵じゃない、沙奈だ。でも真次郎の中では麻里恵が泣いている……六畳一間のアパートで、麻里恵は真次郎に背を向けて泣いている。小刻みに肩を震わせて。
 ……可哀相に、俺が泣かせたんだ……ごめんよ麻里恵、ごめんよ。俺はちっとも優しくなかったね。麻里恵のこと泣かせてばかりいて、俺は悪い男だったね……そうだ。悪いのは俺だ……解ってる。解かってるんだよ……でも、男には譲れない時もあるじゃないか……ごめんよ麻里恵。お願いだよ。もう泣かないでおくれよ、お願いだから……。
 やがて麻里恵の泣き声は、また現実の沙奈が泣いている声に戻っていく。
「沙奈、沙奈ちゃ……ん。どうした、の? 大丈夫かい? 可哀相に……大丈夫、かい?」
「……うっ……うっ……うう……やっぱりそうだった。ずっと好きでいるって言ってたのに……やっぱり嘘だった……そんなの分かってた。でもやっぱりハッキリ言われると、悲しいですよね……あんなに優しかったのに……あんなに優しくしてくれたのに……ううううううう~……」それはまた時空を超えて、真次郎の中で麻里恵の言葉になっていく。
 畳に座り、顔をうつむけて麻里恵が泣いている。
「……酷いわよ真次郎さん……あんなに優しかったのに、もう私のこと何とも思ってないんでしょう? 私のこと、捨てないでよ、捨てないでよう。うっうっうっううううう~」
 可哀相に、俺が泣かせた。俺のせいだ……。
「……ごめんよ、泣かない、で……もう、泣かない……で、おくれよ、俺……が、悪か……ったんだよ、ごめんよ……」
 と言いながら真次郎は左手で沙奈の背中を摩っている。

「沙奈さん……俺はね、君に、お世話になったから、恩返しが、したいと思って……るんだよ、俺は、もうこの……先、長くないから、自分の、持ってる、お金を使って、しまいたい、んだよ……だから、君の……お祖母ちゃんの為に……俺の金を、使って欲しい……」
「えっ? そんな、どうしてですか?」
「俺には……家族も無いから……君と、お祖母ちゃんの、力になりたい、んだ……。もう命が、短い、俺……の願いを、聞いてくれ、よ」
「そんなのいけませんよ相沢さん」
「どうして……だい?」
「だって、そのお金はこれから先まだ相沢さんが生きて行くのに必要なお金じゃないですか」
「俺……はもう、生きて、いたいと……思わない……俺は……麻里恵に、酷いこと、を……して、しまったから……麻里恵に、罪滅ぼし……を、したいから……」
「でもね相沢さん。私のお祖母ちゃんは相沢さんの思っているマリさんとは違うんですよ。この前実家の母に電話してみたんです。もし相沢さんの言うことが本当なら、母が相沢さんのこと何か知ってるかもしれないと思って。それからお祖母ちゃんにも、相沢真次郎さんっていう人のこと知ってるかどうか聞いてみてって、そしたらお祖母ちゃんもそんな人のことは知らないって言ったらしいですから」
「……え、そんな」
 そう言われてしまっては返す言葉もない。だが真次郎の心の中には、そんなことでは誤魔化されない確信がある。何故そう思うのかと問われても、説明する術もないのだが。
「だって、相沢さんのいう麻里恵さんて、苗字も分からないんでしょう? 何処で知り合ったのかも覚えてないんでしょう? お祖母ちゃんは産まれてからずっと宝塚市で暮らしてましたけど、相沢さんもあの辺りにいたことあるんですか?」
「あ、ああ……それは、こないだ、後見人の人……が言ってた。俺……の家族も、神戸にいた……って」
「本当ですか? でも神戸って言っても広いですからね、やっぱり人違いだと思いますよ。だって相沢さんがそんなに強烈に覚えてるなら、もしうちの祖母がその麻里恵さんなんだとしたら、祖母も相沢さんのこと覚えてる筈じゃないですか」
「……」
「だからやっぱり、違う人なんだと思いますよ」
「そ、それで……も、いい。それでも、いいんだ……君のお祖母ちゃん……が、麻里恵……じゃなくても。俺は君に……お世話に、なった……お礼がしたい……から、俺の金を……お祖母ちゃんの為……に使って欲し……いから。頼むから、お願いを聞いて、くれよ……」
「そんなこと……」
「でも……それには、ひとつ、お願いが……ある。俺を、君のお祖母ちゃんの……ところへ、連れて行って。会わせて……欲しい」
「えっ」
「お願い……だよ沙奈さん。俺は……麻里恵に、会いたい。俺は……行きたい。神戸、桜華園……お願いだから……連れて行って……おくれよ……」
「そんな、何言ってるんですか、今の状態で相沢さんを神戸までお連れするなんて、どんなに大変なことだと思います? 私にそんなこと出来る訳ないじゃないですか。それに施設の外出許可だって取れないと思いますよ」
「……」

 

    4

 

 ……俺は、どうしても生きてるうちに麻里恵に会わなければならない。それには、沙奈さんが連れて行ってくれない以上、自分で行くしかない。それには、ここを抜け出してひとりで行くしかない。
 ……それにしても、俺は一体、どんな男だったのだろう。昔何処で何をして、どんな仕事をしていたのか……思い出すことは出来ない。でもこう思う。俺は、自分の意志がハッキリしてさえいれば、どんなことだろうと一人で行動出来る。根拠はないが、俺はそういう男なのではないかと思う。
 麻里恵に会うことさえ出来れば、俺が誰を殺して刑務所に入ったのかも、何故殺さなければならなかったのかも、全てが解るような気がする。
 いずれにしても、このままここで生活していても何も変わることはない、そのうち朽ち果てて死んでお終いになるだけだ。でも俺はまだ、辛うじて歩ける。この施設の廊下を歩けるということは、外へ出たって歩けるってことだ。それに俺には今五百万の金がある。
 この足と、金があれば……行けるかもしれない、神戸まで。でもその前に、ここから出なければならない。でも普通に「俺はここを出ます」と言っても、ここの連中は誰も俺を一人で行かせてはくれないだろう。
 だから……逃げるしかない。誰にも見つからずに。でも、そんなことが出来るだろうか。
 まず第一に、神戸の近くにあるという桜華園という旅館の住所を調べなければならない。沙奈さんに聞いても教えてくれないかもしれない。ではどうすれば良いか、それは電話を掛けて聞くのが良いと思う。昔もあった、電話番号案内というものに掛けて、それから神戸の桜華園という名前を言えば教えて貰えるのではないだろうか。
 電話番号案内の番号は何番だったか……警察は百十番。救急車は百十九番、確か番号案内の番号もそんな三ケタの数字だった気がする。だが思い出せない。コレは誰か職員に聞いて教えて貰うしかない。
 そして、その電話を何処で掛けるかが問題だ。施設の廊下には公衆電話が置いてあるが、電話に入れる小銭が無い。若い職員がよくポケットから出してコチョコチョいじっているのはどうも無線の電話機らしいのだが、アレを貸して貰うことは出来ないだろうか。
 そうだ、沙奈さんとは全く接点のない職員を捕まえて、個人的に思い出があって、どうしても桜華園という旅館の電話番号を調べたいのだと言えば、貸してくれるかもしれない。
 真次郎は若くて比較的いつも優しくしてくれている男性の職員を捕まえて、その旨を頼んでみる。
 するとその職員は「ええ? 住所が知りたいんですか、でもそんなの知ってどうするんですか?」と訊ねてくる。
「は、ハガキを、出したい……から」と真次郎は言う。
「へぇ~ハガキですか、良いですよ解りました。え~と神戸の近くにある……桜華園……ですね」
 と言って、その職員は電話を掛けるのではなく、その小さなメモ帳の様な機械の画面を指でなぞったり指先でチョンチョンと突ついたりするうちに「ハイ、コレですね」と言って真次郎の前に画面を出して見せる。
 どうやらその小さな画面に桜華園という旅館の写真や住所が載っているらしいのだが、真次郎には小さすぎてよく見えない。
「あ、あの、お願い……住所を、教えて……貰えない、だろうか」
「住所ですか、え~とねぇ、兵庫県宝塚市玉瀬……神戸って言っても宝塚市の山の中の方みたいですね」
「あ、ありが……とう。住所……を、メモに……」
 と言って真次郎は用意しておいた紙とボールペンを取り出し、桜華園の住所を書いてもらう。
「兵庫県、宝塚市……玉瀬……」
 ……ここに、桜華園という旅館があって、麻里恵が今も働いている……いや、別人かもしれない。でも、そうかもしれない。確信はない……でも、俺はどうしても、ここに行かなければならない。他に選択の余地は無い。
 しかし、果たしてひとりでそこに辿り着くことが出来るのか。俺のこの身体で、行けるだろうか……全く自信がない、というより無理ではないのか。いや、それでも俺は、行くしかない。

「は、原先生、お願い……しま、す。またリハビリ……をして、下さい……」
「分かりました。相沢さん。またやる気になられたんですね。良かったですよ」
「お、俺は……もっと自分、で歩ける……ように、なりたい……」
「はい、それは頑張って毎日続ければきっとなれると思いますよ」
「は、はい……頑張ります……」

 その日から真次郎は、理学療法士の原先生の元で、再び熱心にリハビリに励むことにする。
 原先生が言うには、頑張れば壁に手を着いたり歩行器を使ったりもせずに、杖を使って一人で歩ける様になるというのだ。
 ……俺はどうしても、一人で歩ける様にならなくては、ひとりで何処へでも行ける身体にならなければならない。そして遠くまで行ける体力を養うのだ。
 沙奈の祖母が本当に麻里恵であるという保障は何も無い。やはり単なる思い込みなのかもしれない。でも行かずにはおれない。
 ……麻里恵という女はきっと、俺の人生だったのだ。そうに違いない、でなければ、今こんなに強い衝動に駆られる訳がないんだ。
 ここから脱走する計画は周到に用意しなくてはならない。またこの前の屋上の時の様なことになれば、更に俺に対する警戒が厳重になって、それこそ身動きが取れなくなってしまうに違いない。
 ではどうすれば良いのか、取りあえずは職員たちが、俺が脱走なんていうことを考えているとは思いもしない様に、また前の様に何も解らないフリをして、油断する様にしておこう。
 決行するのはやはり夜中が良いと思う。職員たちに見つからずに部屋を出て、エレベーターに乗って一階に降り、表へ出るのだ。
 どうにかして通過しなければならない難関は沢山ある。まずは屋上から飛び降りようとして見つかって以来、ベッドに敷かれているセンサー付きのマットだ。コレは寝ている状態でスイッチを入れられると、起き上がった時に作動して何処かへ知らせる様になっている物だから、夜中でもベッドから離れればすぐに職員が飛んで来てしまう。
 電源を抜いてしまえば作動しなくなるのかもしれないが、勝手に抜くとバレてしまうかもしれない。
 もうひとつの手としては、寝ている人間の重みが無くなることで反応すると思われるので、自分に変わる何か重みを乗せて、起きてもまだ人間が寝ている様に機械が勘違いさせることが出来れば良いのではないかと思う。
 夜中に見回りに来る職員のことは、一度見回りに来ると次の見回りまで二時間くらいの間があることは分かっている。その来ない間のタイミングを見計らって外へ出れば良い。
 そして、コレが一番難しいと思われるのは、真次郎はここではいつも着の身着のままでパジャマしか着ていないので、このまま外へ出たのでは往来の人に見られると不審に思われるかもしれないということだ。
 なので出来れば、外から通って来ている職員の着替えが置いてあるらしい詰所に入って、ロッカーから職員の着て来た私服を盗んで行くことが出来ないだろうかと思う。
 夜中とは言えいつも二人の職員が常駐している。だがきっと昼間と違って、人数は少ないし、ずっと起きているのはどちらか一人だけなのではないだろうか、ならば側に隠れてチャンスを見計らって忍び込み、ロッカーから衣服を盗んで行くことが出来るかもしれない。だが、もしそれが無理だとしたら、パジャマのまま外へ出て行くしかないと思う。
 もし外へ出て銀行に行くことが出来れば、この通帳と印鑑で金を下ろすことが出来るだろう。そうすれば何処か洋服を売っている店に行って服を買うことが出来る。
 まず誰にも見つからずにエレベーターに乗ることが出来れば、一階までは行くことは出来る。そして、リハビリの為に中庭に出た時に通ったドアへ行く。
 ドアは原先生が機械の数字を押すのを見ていた「1234E」の番号を押せば開けることが出来る。中庭に出ることが出来れば、リハビリで歩いた時周りに建っている建物の間に外側へ出る道が見えたから、あそこを通って行けば。敷地の外へ出られるに違いない。
 しかし、そこにはまだ行ってみないと解からない点が幾つかある。まずは、職員に見つからずに一階まで降りられたとしても、夜中に一階のフロアーの様子がどうなっているのか解らない。もしかしたらずっと電気が点いて警備員等がいるのかもしれない。
 そして建物の外に出られたとしても、この施設の敷地の広さがどれくらいなのか解からないから、敷地を出るまでどれくらいの距離があるのかも分からない。
 それに、敷地の出入り口にはきっと門がある筈だ。高い門が閉まったまま鍵が掛けられていれば、外へ出ることは出来ないかもしれない。
 考えてみると、決行するには無謀な要素が多すぎるのではないかと思う。でも一度失敗したとしても、また次があるはずだ。そうだ。例え何年掛かったとしても……。
 何年掛かったとしても……その感覚に、真次郎は何か合致する深い記憶を感じる。いや記憶というよりは、長年持っていた感覚といおうか。何年掛かったとしても、きっといつか……そうだ。俺は何かをずっとそう思って生きて来た気がする。でもそれが具体的にどういうことだったのかは解からない……でもソレもコレも、神戸へ行って麻里恵に会うことが出来れば。解るのではないかという気がしている。
 何を根拠にといわれても解からない。本当にそうなのかという確信も無い。そもそもこんな脱走計画が成功する筈は無いのかもしれない。でも、もう火が点いてしまった衝動を止めることは出来ない。
 俺はこのまま進んで行く。それより他は無い。でも何か、俺の中に生きているということが戻って来た気がする。

 真次郎は熱心にリハビリに励む。歩行器につかまっての歩行は、かなりの早足でも進める様になり、歩幅も広くなってきている。そんな様子を見た原先生は「それでは次は杖を使って歩く練習をしてみましょう」と仰る。
 初めの杖は地面に突くのが一本ではなく、杖の先が4本に枝別れしており、安定性の高い「四点杖」というものを使ってみるという。
 その杖は左手一本で体重を掛けてもかなり安定性がある。そこへしっかり体重を掛け、左足を前へ踏み出す。そして後ろに残った右足をズルズルと引き寄せ、杖を突き出す。また左足を前へ踏み出し、右足を引き寄せる。それを繰り返して、どうにか一歩ずつヨロヨロと歩く。
 ヨロめいて、バランスを崩しそうになると原先生がガッシと抱き抱えてくれる。
「大丈夫ですか? 最初は少し杖の感覚を覚えるだけでも良いんですよ」
 原先生が忠告しても、真次郎は額に汗をかいたまま拭おうともせず、再び杖に力を入れてバランスを取り直し、ブルブルと震えながら一歩、またもう一歩と杖を突き出し、左足を前へ進めて行く。
 ガッチャッと杖を突き、左足をタッと踏み出す、そして右足を引き寄せる、ズズ~ッ……。
 ガチャッ、タッ、ズズ~ッ……ガチャッ、タッ、ズズ~ッ……。
 額に汗を浮かべながら、真次郎は必死の形相で前へ前へと進んで行く。
「もうそんなに無理しない方が良いんじゃありませんか」
 余りにも頑張る真次郎の様子を心配して、原先生が声を掛ける。だが真次郎はまるで耳に入らないという様に続ける。杖を前に突き出しては歩いて行く。
 ……行かなければ、俺は行かなければならない……。
 原先生はそれを半ば呆れる思いで見つめている。

 左腕を鍛えることにも努力する。左半身しか身体を動かすことは出来ない。だから歩くことも、洋服を着替えたり、物を持ったり、物を食べたり、その他の生活の何もかもを左手と左足だけで出来る様にならなければならない。それは自分を取り戻す為に、ひとりで麻里恵に会いに行く為に。

 真次郎は時間は掛かるがトイレへもひとりで行き、自分で用を足すことが出来る様になった。
 前まではオムツの中に垂れ流すに任せており、職員にオムツを替えて貰っていたのだが、今はオムツではなく紙で出来ている吸水性の高いリハビリパンツと呼ばれる物を履くようになり、失禁することも無くなった。そのことにも職員たちは驚かされる。
 川柳医師が処方する薬の新しい比率の効果なのか、並行して行っているリハビリによる身体活動の活発化が脳の機能をも活性化させているのか。真次郎の頭脳は以前より一層の明晰さを取り戻している。身の回りで職員たちが会話している内容や、フロアーで観るテレビのニュースの内容等もほぼ理解出来る様になっている。
 そこで見せられているテレビの画像には驚かされることばかりである。
 その画面の大きさは、昔の映画館を思い出させる。映像は写真の様に鮮明であり、まるで自分もそこにいる様な臨場感がある。
 そこに映し出されている街並みや走る自動車。若者たちの姿や言動を見ていると、何か見知らぬ未来の世界に来たような感覚である。
 ただ、真次郎にはそれがテレビであるということが分り、そこに映っているのが同じ日本人で、話している内容も理解出来ている。なので驚かされることが多くとも、コレはかつて自分が生きて来た時代と地続きにある現代なのだということも理解している。
 そして、何より真次郎がテレビの画面から知ろうとしていることは、この施設の外の世界の様子である。自分が病院で頭が呆けてしまい、正気を失っていたのは十年くらいの間のことなのだろうということは解かっている。だがその前に四五年間という、世間とは隔絶された刑務所暮しの期間がある。その間に自分は世の中の移り変わりから取り残されていたのである。
 その間に世の中はどう変わっていたのか、普通の人たちは今どんな暮らしをしているのか……。そんな興味で真次郎はテレビに見入っている。
 何より一番に着目するのはニュースやドキュメンタリー番組で流れる一般の人々の様子や、ドラマで描写される生活の様子である。
 親や兄妹がいて家で一緒に暮らしている。父親は仕事に行き、子供は学校に行く。そこには友達がいたり、恋人が出来たりする。
 それ等はきっと、真次郎が刑務所に入る前に暮らしていた頃と基本的には変わっていないのだと思う。見ていると懐かしい感じがする。確かに外の世界はこんなだったと思う。

 真次郎は原先生を呆れさせる程の執念でリハビリに打ち込み、遂には練習を続けていた四点杖を卒業し、一般的な一点杖で歩けるまでに回復する。そして毎日の職員たちの行動をつぶさに観察し、誰にも見つからずに施設を出る方法を考えている。
 真次郎は出来る限り周到に計画を立てる。そしてその計画は実行に移せるまでに出来上がった。後はいつ実行するかである。
  出来れば職員の私服を盗んで行きたいと思う。背丈が自分とほぼ同じくらいだと思われる職員の男に狙いをつけ、その男が大体何日置きに夜勤に入っているのか目星を付けている。実行する日はその男が夜勤に入っている夜にしようと思っている。
 そして最も重要なのは天候である。外へ出ればひとりで杖を突いて歩いて行かなければならない。傘等は勿論持つことは出来ない。なので決行するのは雨の降らない、天気の良い夜でなければならない。
 夕方の団欒の時間にフロアーで見ることの出来るテレビの天気予報に注目している。九月も終わり十月に入っても台風が発生して、日本に近付いているという予報が続いている。
 台風が去るまでは待たなければならない。だがあまり延ばしていても冬になってしまう。まだ温かく軽装で身体も動き易い季節のうちに行かなければと思う。

    


第二章 5

 

   5

 

 そして遂にその夜が来た。台風も行ってしまい、もう新たな台風が発生しているという予報はない。今晩はずっと良い天気で雨の降る確率はゼロパーセント。そして洋服を盗む為に目を付けておいた浜矢という名前の職員が今日夜勤に入ることも確認している。
 真次郎は全ての準備を整えて、毛布を被り、寝たフリをして職員が最初の見回りにくるのをじっと待っている。
 九時の就寝から二時間くらいが過ぎたのだろうか、パタパタと足音がして、職員が今夜最初の見回りに来る。ガラガラとドアを開けて入って来ると、懐中電灯の光が壁を過る。職員は歩いてカーテンの仕切りをそっと開きながら、それぞれのベッドに眠っている老人たちの様子を確かめていく。
 当直の職員は二人いる。見回りはそれぞれが分担する部屋をひとりで回っている。入って来たのはそのうちのどちらかなのだろうが、真次郎は毛布を被っていなければならないので、それがあの真次郎と体型の似ている浜矢という名札を付けた男なのか、それとも他の職員なのか、男なのか女なのかも解からない。
 その職員は他の三人の老人たちの様子を確かめると、真次郎のところへも来る。真次郎はじっと寝たフリをしている。スーッとカーテンを開けるとそっと毛布の縁を持ち上げ、真次郎の様子を確かめるとまた毛布を被せ、部屋を出て行く。
 隣の部屋のドアを開ける音が聞こえてくる。少ししてそのドアが閉まると、またひとつ向こうのドアが開かれる音が小さく聞こえる。それを何度か繰り返すうちに音は聞こえなくなり、何の物音もしてこなくなる。
 真次郎はそっと起き上がる。掛けていた毛布を左足で蹴り、足元へ押しやる。うっかりベッドから腰を浮かせるとシーツの下に敷いてあるセンサーが作動してしまうので、そのまま左手でベッドの脇に用意しておいた折りたたみ椅子を持ち上げる。真次郎の左腕は原先生にリハビリの時に掛かる負荷を上げて貰い、鍛えた成果でかなり力が入る様になっている。
 持ち上げたパイプ椅子の縁とベッドの柵が当たってカーンと音が鳴る。ハッとして耳を澄ませるが、他の老人たちは静まり返ったまま反応はない。
 そっと身体を脇へずらし、寝ていた場所に折りたたみ椅子を寝かせる。でもこれだけでは重みが足りないと思われるので、そっと腹ばいになってベッドの下に手を突っ込み、隠しておいた二つの水枕を引っ張り出す。それは部屋の入口脇にある戸棚にあるのを見つけ、水道の水をいっぱいに入れておいたのだ。タプタプと音を立てる二つのそれを、寝かせた折りたたみ椅子の上に乗せる。
 それからそっと腰をずらしてベッドの縁に両足を降ろす。このまま腰を浮かせてベッドから降りた時、センサーが反応してしまえばそれまでである。
 左足を伸ばして床においてあるサンダルを履き、ベッドの柵に立て掛けておいた杖を手に取る。原先生からもう普通のステッキ状の一点杖でも充分に歩くことが出来るとお墨付きを貰っている。この杖は施設からお借りしている物だが、このまま持って行こうと思う。
 床に杖を突き、ベッドに座っている自分の体重を杖の方へと傾けていく。
 ここでセンサーが反応すれば、警報を聞いた職員が飛んで来るだろう……心を決めるとベッドから腰を浮かせる。脇に立ったまま暫く待つ。
 ……誰もやって来る気配はない。どうやら折りたたみ椅子と水枕の重みとで誤魔化せたのだろうか。動かない右足を引き摺ってサンダルを履かせると、体勢を変えてもう一度ベッドの下に手を入れ、これも戸棚から盗んでおいた予備の毛布を引っぱり出す。
 その毛布をベッドの折りたたみ椅子と水枕の上に乗せ、人型に盛り上がる様にして、その上から自分が被っていた毛布を被せる。全ての作業を左手だけで、しかも物音を立てない様に注意してやらなければならないので時間が掛かる。だが今度見つかればそれこそ何処かに監禁されてしまい、身動きが取れなくなってしまうだろう。そう思うとやはり慎重に行動しなければと思う。
 これでパッと見には真次郎が毛布を被って寝ている様に見える。毛布を被って寝ていることを職員が不自然に感じない様に、ここ最近真次郎は毎晩寝る時に顔を出さず、毛布をスッポリ被って寝るようにしていた。
 首からヒモで下げているビニール袋の中の通帳と印鑑を確かめる。それと若い職員に書いて貰った麻里恵が働いている旅館「桜華園」の住所が書かれたメモ。そして何故かは解らないが、気が付くといつも何処からか盗んではガリガリと削っているスプーンは、どうしても持って行かなければならないものだと思っている。何故かは解からないが、それが自分にとってとても大事な物の様に思えるのだ。なのでそれも一緒に首の袋に入れる。

 今夜は真次郎と体型の似ているあの浜矢という職員が当直している筈なのだ。だから今職員詰所のロッカーには浜矢の私服が入っている筈だ。これからこの部屋を出て廊下を歩き、始めは職員たちの詰所へ行って、浜矢の衣服を盗むのだ。
 ヨロヨロと杖を突きながら、ベッドの脇を離れてドアの側へ来る。なるべく音を立てない様に注意しながらそっとスライド式のドアを開く。
 ガラ……ガラガラ……。
 ドアの隙間から顔を出し、暗い廊下の両側を見る。誰も人影が無いのを確認し、自分が出られるくらいにまでドアを開く。
 まず杖の先端を外へ出し、体重を支えながら左足を外へ踏み出す。
 身体の全部が外へ出る。辺りは暗く、天井に等間隔に付いている常夜灯だけが小さく光っている。ドアを閉める。
 職員の詰所のある方へ一歩ずつ歩みを進める。先に杖を突き、左足を踏み出し、後に残った右足を引き摺って引き寄せる。
 コツン……タッ、ズズズ、コツン……タッ、ズズズ……。
 音を立てない様に気を付けても、辺りがシンと静まっているので音が響いている様に感じる。
 暫く進み、角を曲がると長い廊下に出る。その先に明るく電気の点いている部屋がある。アレが職員の詰所だ。あそこへ行くまでに職員が廊下に出て来てしまえば、その場で見つかってしまう。しかしもうこの期に及んではイチかバチか進んで行くしかない。
 コツン……タッ、ズズズ、コツン……タッ、ズズズ……。
 詰所の前まで来る。廊下に面した大きな窓の枠に近付き、縁からそっと覗いて見る……職員が一人椅子に座ったまま眠っている。そしてもう一人、それは確かにあの浜矢という職員である。浜矢はテーブルに書類の様な物を広げて一心に何か書き込んでいる。
 職員の私服が入っているロッカーは部屋のテーブルの奥にある。この状態ではとてもあの職員に見つからずに奥へ取りに行くことは出来ないだろう。
 だが浜矢は何か集中して書いているので、気付かれずにそっと窓の前を通過することは出来るかもしれない。洋服は諦めるか……。
 先ほどの見回りからどれくらい時間が経っているのだろう。次の見回りの時間になれば二人ともこの部屋から出て行くのかもしれない。それまで見つからない様に近くで隠れていることが出来れば……。
 詰所を通り過ぎた向こうにエレベーターのある場所があり、ここからは窪んで死角になっている。あそこへ行って隠れていることが出来れば、次の見回りの時、二人が出て行った間にこの部屋に忍び込んで衣服を盗むことが出来るかもしれない。
 よしと決心して歩き始める。詰所の大きな窓の前を歩く。職員の一人は眠っており、浜矢は書類を書くことに集中しているので、こちらに顔を向けない限りは見つからないのではないか。音を立てない様に、細心の注意を払いながら、少しずつ歩く。
 詰所の窓を通過してしまうとエレベーターホールになっている。その一番奥の隅まで行き、暗がりの中に身を潜める。しかしここには身を隠す物が何もない。暗いので前の廊下を誰かが通っても見えないかもしれないが、誰かがエレベーターから降りて来れば見つかってしまうだろう。そうならないことを願いながら暗い中に身を潜めている。
 どれくらい時間が過ぎたろうか、意識もボンヤリし始めて、今いるここは本当にこの世のことなのかと思い始めた頃、不意にガチャリとドアの開く音がして、懐中電灯の光が床や壁にチラチラと走る。そして無造作な足音がスタスタと近づいて来る。ドキリとして息を潜めていると、詰所にいた二人の職員が、それぞれの手に懐中電灯を持ってエレベーターホールの前を通り過ぎて行く。暗がりにいる真次郎には気付かない様子だ。
 今だ……杖を突き出し、右足を引き摺って歩き出す。職員たちの足音は角を曲がって遠ざかっている。この施設はかなり広いし、何十人もの老人たちが眠っているのだ、そんなに早くは帰って来れない筈である。
 詰所の窓からそっと中を見る。誰もいない。ドアを開いて中へ入る。浜矢が座って作業していたテーブルを通り過ぎ、部屋の奥に並んでいるロッカーへ行く。
 端から扉に付いた名札を見ていくが、名札の付いていないロッカーもある。焦る気持ちを宥めながら見ていくと、あった。マジックの汚い文字で "浜矢" と書いてある。しかし鍵が掛かっていればそれまでだろう。カシャン……開いた。
 中にシャツとズボンがハンガーで吊るされている。ズボンは青い色をしたジーパンで、シャツは薄いオレンジ色で襟の付いた半袖である。如何にも若い男が着そうな感じの物だが、そんなことは言ってられない。
 それを左手で引っ張り出して自分の肩に掛け、扉を閉める。さぁ外へ出なければと杖を突き、右足を引き摺って出口へと向かう。職員たちが何か忘れ物でもして戻って来たら……もしくは部屋のベッドの細工がバレてしまったら……と思う気持ちを抑え、詰所を出て廊下を歩き出す。
 職員たちの影は何処にもない。エレベーターホールへ向かい、下へ降りるボタンを押す。エレベーターの横に表示された数字の列の一階に光が灯っている。その光が二階、三階と登ってくる。
 早く、早く来い……頼むから、あの男たちが戻って来る前に……。
 エレベーターは四階に辿り着き、チンと音がしてシャーっと扉が開く。途端に中から光が溢れ出て一気に辺りが照らされる。焦って杖を突くと転んでしまうので、気を付けながら急いで乗り込み、すかさず扉を閉めるボタンを押す。扉がしまると、一階のボタンを押す。
 見つからなかったろうか……エレベーターの扉が開閉した音を聞かれなかったろうか……。
 三階、二階と表示は下り、一階に着くとシャーっと音を立てて扉が開く。扉の外は真っ暗である。辺りを確認しようにも真っ暗なので何も見えない、とにかく外へ出なければと歩き出す。リハビリで原先生と中庭へ出た時の、外へ出るあのドアのある方へと歩いて行く。
 背後でエレベーターの扉が閉まると完全な暗闇に包まれてしまう。自分の歩いている脚さえ見えない。平衡感覚も失われてフラフラとよろけそうになりながら、それでもなんとか進んで行く。
 コツン……タッ、ズズズ、コツン……タッ、ズズズ……。
 暗闇に目が慣れてくると、中庭へ出るドアがあると思われる辺りのもっと先に、明かりの灯った部屋がある。警備員か誰かが常駐しているのかもしれない。とにかく前へ行くしかないと歩を進めて行く。
 四階の詰所で盗んだ浜矢の洋服は肩に掛けたままだ。着替えるのは何処か誰にも見つからない場所に行ってからにしようと思う。
 左側に中庭に面した窓を見ながら歩いて行く。なかなかドアが見つからない。まだかまだかと歩いて、やっと見つける。ドアの脇に取り付けられた機械を開くと、文字盤が明るく光る。
「1、2、3、4、E」ボタンを押すとジーッ、ガチャッ! と音がしてロックが解かれる。杖をドアの脇に立てかけ、ドアノブをひねり、外へ押して開くと、外の空気が流れ込んでくる。
 ドアを開いたまま身体で押さえ、杖を取り、外へ突きだして左足を踏み出す。支えていた身体を離すとドアが自動的に戻り、ガチャッと音を立てて閉じる。
 ドアの閉まる音に気付いた誰かが追って来るのではないか。早く遠くへ歩いて行かなければ。と杖を前へ突き出して行く。コツッ……左足を踏み出し、ザッ、右足を引き付ける、ズズ……また杖を突く、コツッ……夜の闇に包まれている中庭を歩く。
 良かった……そう寒くはない。もう十月も終わりに近いのだが、まだ冷え込んでいく気配はなく、清々しい空気に身体の細胞が蘇えっていく感じだ。
 見上げると建物の遥か頭上にまん丸だが小さな月が光っており、辺りを照らしてくれている「ああ、月だ……」と言葉を漏らしながら、真次郎は先を急ぐ。
 コツッ、ザッ、ズズ……コツッ、ザッ、ズズ……。
 暗くてよく見えないが、ここは地面が煉瓦を敷き詰めたような石畳になっており、左足を出す時になるべく宙に浮かせて踏み出さないと僅かな凹凸にサンダルを履いた足を引っ掛けてしまいそうになる。
 中庭の真ん中が大きな丸い花壇になっている周囲を回り、建物の切れ目になっているところを目指して歩く。真次郎が出てきた建物と別棟の建物の間に通路があり、通れる様になっているのだ。
 コツン……ザッ、ズズ……コツン……ザッ、ズズ……。
 石畳の地面に杖を突く度に音が響く。もし左右にそびえ建っている施設の窓から誰かが見下ろせば、真次郎が歩いているのを見つけてしまうだろう。
 早く、もっと早く……と急いだ余り、石畳の凹凸に左足を引っ掛けてバランスを崩してしまい、倒れそうになる。マズイと思って態勢を立て直そうとするのだが、なかなか重心が整ってくれない。あっと思う間もなく左足でケンケンするように脇の植え込みに近付き、そのまま低い仕切りを超えて頭から植込みの中に倒れ込んでしまう。
 ドサーッ……瞬時に顔が草と土にまみれる。草の臭いが鼻を突く。それは記憶の中にある臭いだ。そうだ、コレはジャングルを歩いた時の臭い……。
 ……くそう、早く立ち上がらなくては、こんなところで寝ている訳にはいかないんだ。俺は、行く……何としても、俺は起きなければならない。
 ガサゴソと地面に左手を突きながら、どうにか上体を起き上がらせる。浜矢から盗んで肩に掛けていたシャツとズボンにも、汚れて土が付いてしまった。拾い上げると振るい、足にぶつけて土を払い、また肩に掛ける。
 乗り越えてしまった植込みの仕切りの外に左足を出し、左手で地面を押して立ち上がろうとする。だが上手くバランスが取れない。
 ヨイショ、ヨイショと身体を揺すりながら、ようやくバランスを取って身体が持ちあがる。植込みの外に身体を出して石畳にゴロンと転がる。
 地面に腰を降ろした格好になる。さぁここから立ち上がらなければならない。杖を使って身体を引き上げるのだ。杖をつかんだ左手に力を入れ、弾みを付けて立ち上がろうとする。
 ヨイショ、ヨイショ……せーの! それっ……。
 グラグラとよろめきながら、何とか左足一本で立ち上がる。バランスを取って呼吸を整える。前方へ杖を突き出し、左足を前へ踏み出す。そして後に残った右足を引き寄せ、また杖を突き出す。コツン……ザッ、ズズ……コツン……ザッ、ズズ……一歩、また一歩……。
 やっと中庭を過ぎ、建物と建物の間にある通路へと来る。石畳は終わり、ここからは舗装されたコンクリートの地面になる。
 建物の間を抜けると、施設の玄関に車を乗り付ける為のエントランスへ続く道があり、その先に門が見える。そこまではまだ遠く、二十~三十メートルはありそうである。門は閉まっている様だが、ここからは鍵が掛けられているのかどうかまでは見えない。とにかく行くしかない。倒れない様に気を付けながら歩いて行く。
 ベッドのある居室を出てからここまで来るのにどれくらいの時間が掛かったろうか。エレベーターの脇に隠れていた時間も含めて、少なくとも職員たちが二回の見回りに来る間が過ぎているのだから、二時間以上は掛かっているだろう。
 振り返って見ても施設の中はひっそりと静まり返っている。この様子だと真次郎が寝ている様に施したベッドの細工はまだ見つかっていないらしい。
 でもそういえば、職員が最初の見回りに来た時は、寝たフリをしている真次郎の毛布を持ち上げて確認していた。次の見回りではアレをしなかったのだろうか。
 もう見回りで発見されることが無いのだとすれば、このまま朝七時の起床時間まで誤魔化せるのかもしれない。そう思うと、初めてまんまとしてやったりという様な気持ちが湧き上がってくる。
 ……でも、まだまだ喜ぶのは早いぞ。あの門を出なくては。どうか鍵が掛かっていないように……。
 ズルズル……ガチッ、ズザッ。ズルズル……ガチッ、ズザッ……。
 急がなければと思うが、焦ればまたバランスを崩して倒れてしまう。真次郎にはこのスピードで精一杯なのだ。落ち着いて、確実に一歩ずつ足を進めながら、急いで行くしかない。
 ようやく門のところまで辿り着く。想像していた様な、真ん中から左右へ開く観音扉の様な門ではなく、アコーディオンの様に横に伸び縮みするスライド式の門になっている。
 鍵は掛かっているのか、近くへ来て、門の左端に着いているレバーの様な物を操作してみると、カチャンと音がしてロックが外れる、そのまま左手で右の方へ押しやると、すんなりと開き、人が通れるくらいの隙間が出来る。
 真次郎は門の外へ一歩を踏み出す。夜の闇の中に見知らぬ街が広がっている……なんだ? 身体の中から、何か大きな興奮がせり上がってくる。
 空気が変わった。真次郎の身体を包み込むこの空気は……「娑婆」という言葉が頭に浮かぶ。そうだ、コレは長く捕らわれの身だった自分が、初めて解放された気分なのだ。
 ビュウーと風が吹き抜ける。踊り出しそうなくらい胸の中が弾んでいる。自分の足で、こうして施設の外を自由に歩くのは何年振りなのだろう。
 ……沙奈さんの言うには、俺はこの施設に来る前、四五年間も刑務所にいたのだと言う。それからボケてしまって、ここへ来てから八年。だから、俺がこうして自分の足で外に出て歩くのは、五十年以上振りのことなんだ……これが外だ……俺は、やっと自由になった。今やっと自由の身になった! 俺は自由になって、俺のやりたい事をやる時が来たんだ。

 辺りには暗い中に沢山の家々が立ち並んでいる。もう深夜の一時~二時くらいにはなっていると思うのだが、まだ明かりの灯っている窓も見える。アスファルトの道は静かで、ところどころに立っている電柱についた街灯が道路を照らしている。
 ……何処か大きな道へ、車が沢山走っている様な大きな道路へ出なくては。
 今の時代にもタクシーという物があることは施設のフロアーで観たテレビで確認している。真次郎の計画は、どうにかこの住宅街を抜けて、何処か大きな車道へ出る。そこでタクシーを拾い、運転手に預金通帳を見せて、代金は必ず払うからと言って神戸まで乗せて行って貰おうということである。
 電車等で行く方法もあると思うのだが、真次郎には何処に駅があるのかも、どの電車に乗って行けば良いのかも解からない。出来ることならタクシーに乗って、運転手にあの若い職員に教えて貰った旅館の住所を見せて、連れて行って貰えたらと思う。
 ここが東京の杉並区というところであることは解かっている。果たしてここから神戸まではどれくらいの距離があるのか、かなり遠いのではないかと思う。
 お金さえ払えばタクシーは何処へでも連れて行ってくれるのではないかと思うが、もしかしたら神戸なんて遠すぎるからダメだと言われるのかもしれない、もしそうなら行けるところまで行って貰い、そこからまた別のタクシーに乗って行くしかないと思っている。
 ここから神戸までタクシーで幾らくらい掛かるものなのか解からないが、きっと何十万円も掛かるということは無いだろう。
 俺には五百万もの金があるのだから、きっと日本中何処へでも連れて行って貰えるはずだ。
 一歩ずつ歩く自分の足元を見つめ、ヨタヨタと歩いている。するとまたアスファルトの地面が土色に変わり、道の脇には緑の草が茂っている。辺りは野生の草むらと木々に覆われて行く。コンクリートの建物が立ち並ぶ風景が、鬱蒼たる夜のジャングルに変わっている。
 着ている物はボロボロの軍服となり、月明かりを頼りに真次郎は歩いている。時折り暗闇の中にうずくまっている戦友がいる。
「……大丈夫だから、先に行ってくれ」と力の無い声で戦友が言う。
 ……あの戦友はそう言ったけれど、あの戦友には自分がもう歩けないということが分かっていたんだ。それは俺にも分かっていたのに。俺はあの戦友を置いたまま歩き出してしまった。
 その時は、そうすることも仕方が無いのだと思っていた。どうしようもないのだと納得してもいた。しかし、内地へ帰って来てから何年もその罪悪感にさいなまされて来た。でも、それでも何年かするうちには忘れていたのに、何故今俺はそれを思い出すのか……。
 一緒に歩いていたのに倒れてしまい、そのまま動けなくなってしまった戦友もいた「はぁ、はぁ……俺は大丈夫だから、後から行くから……お前は先に行ってくれ」アイツもそう言っていたけれど、俺には解っていた。コイツももう歩けないんだ。
 それでも俺は歩いて行った。あの時は仕方がないことだと思ってた。でも俺の心はしっかりと覚えているんだ。思い出したいことは他にも沢山あるのに、一番強烈に覚えているんだ。
 あれは何処の国でのことだったのか。何処の国との戦争だったのかも解からないクセに、思い出される。俺に妻の話をした戦友。子供の話をした戦友、妹の話をした戦友もいた……。
 ……そうだな、お前たち、お前等はみんなあの時のあの場所で、今も歩くことも出来ずに泣いてるんだな。俺だけが、こうして歩ける様になって済まん。でもな、俺は行くよ、俺は、まだ生きてる。お前等の分まで俺は、俺のやりたいことをきっと成し遂げてやるからな。

 まだまだ何処までも家が立ち並ぶ住宅地を歩いて行く。不意にブォーとエンジンの音がして前の角から強い光が伸びてくる。驚いて見ると一台の自動車が曲がってくる。そのまま凄いスピードで真次郎の脇を走り抜けて行く。
 ……あの車が出てきた、あの角の方に大きな道路があるのかもしれない……そう思い、車が出てきた角を曲がって行く。やがてゴゴーと沢山の自動車が走っている様な音が響いてくる。勘を頼りにそちらの方へと近付く様に角を曲がって行く。
 遂に道の前方を次々に車が横切って行くのが見えてくる。やっと大通りに出た。こんな夜中だというのに双方向に凄い勢いで見たこともない自動車が走り去って行く。
 神戸に行くのはどちらの方角なのかも解らない。とにかく今いる側でタクシーを止めなければと思う。テレビで見て知っている。タクシーは屋根の上に電気を点けている。見ていると時々屋根の上に光る電気を点けて走っている車がある。アレがタクシーなのだ。今度電気を点けた車が来たら手を上げて合図してみよう。
 暫く待っていると、ビュンビュンと通り過ぎる車の後方から、屋根に電気を点けた黄色い車が走って来る。真次郎は左手を出来るだけ高く上げて、掌を振る様にしてみる。だが、その車は真次郎のことなど全く目に入らないという風に走り過ぎてしまう。
 ……あれ、ダメなのか、何がいけないのか。
 何故止まってくれないのかは分からない。気を取り直してまた次を待ち、遠くから走って来るのを認めると出来るだけ車道に近付き、左手を上げて手を振る。
 キキィーーッツ! タイヤの軋み音を立てて、真次郎の立っている場所から少し通り過ぎてしまったが、そのタクシーは止まる。真次郎のいるところまでバックして近付いて来る。そして後部座席のドアがひとりでにカチャリと開く。
「……」
 このまま勝手に乗れば良いのだろうか、佇んでいると「乗るんですか乗らないんですか」とぶっきら棒に言う声が響いてくる。
「の、乗ります……」
 と言ってヨタヨタと車に近付き、車の中のシートに尻を乗せて入ろうとするのだが、車内に右足を引っ張り上げることが出来ずに戸惑ってしまう。
 そうしているとバタンと音がして運転席から下りた男が車の後ろへ回り込んで来る。
 四十歳くらいだろうか、緑色の背広を着ており、懐かしい匂いがしている。少し考えるとそれは煙草の匂いだった。
「大丈夫ですか御爺さん。ああ土だらけじゃないですか。ちょっと待って、まだ乗らないで下さい」
 と言って半分乗り掛かった真次郎の身体を外へ出し、肩や尻についている土をパタパタと手で払う。
 その間もタクシーの脇をかすめる様にして次から次へと凄い勢いで車が通り過ぎている。
「貴方寝間着のままじゃないですか、大丈夫なんですか」
「す、すみませ……ん」
 土の汚れを払ってしまうと、もう一度真次郎の尻をシートに乗せ、右足を持ち上げて中へ入れる。左足は自分で動かせるので真次郎は車内へ入れるが、サンダルが落ちてしまう。運転手はサンダルを拾い、ポイと放り込む。
 そして押し込む様に真次郎を車の中へ入れ、バタンとドアを閉める。車の後ろを回って運転席に乗り込む。
「どちらまで行かれますか」
「こ、神戸まで……」
「神戸? 神戸って、あの神戸パンとかじゃなくて、ホントのあの神戸ですか?」
「はい……」
 運転席から振り返って真次郎の顔をまじまじと見つめて、運転手は言う。
「神戸の何処ですか?」
 真次郎は首に下げている袋からメモ用紙を取り出すと、運転手に渡す。
「そ、その旅館……まで」
 運転手は真次郎に渡されたメモを見ている。
「宝塚市、玉瀬……武田尾温泉……」
 そしてまた真次郎のことをまじまじと見る。
「お客さん、失礼ですけど、こんな時間にタクシーに乗って神戸までって、何か事情でもおありなんですか」
「……」
「お身体もあんまり健康そうじゃないですけど、大丈夫なんですか?」
「は、はい……大丈夫です、よ」
「でも神戸まで行くとなると6~7時間は掛かりますよ」
 運転手は真次郎が本当にそこへ行くつもりだとは受け止めていない様子である。
「それに運賃も凄く掛かりますけど」
「い、幾らくらい……ですか」
「そうですねぇ、そんな長距離やったことないから分かんないけど、高速代も入れて十万か、ヘタすりゃ二十万以上いくと思いますけど」
「だ、大丈夫……です。時間掛かっても……お金も、あります」
 と言って首の袋から預金通帳と印鑑を出し、運転手に渡す。渡された運転手は通帳を開いて見る。そして最初のページに押してある届出印と渡された印鑑の模様とをまじまじと見比べている。
「て言うかお客さん、キャッシュカードは持ってないんですか?」
「キ、キャッシ……?」
「持ってないんですか、それじゃお金は銀行の窓口で下ろすしかないですよね。だけど朝の九時にならないと銀行は開かないですからね、その時間だと今から出発したらもう神戸に着いちゃってますよ」
「そ、そうな……んです、か……」
 運転手は真次郎の渡した預金通帳のページを捲ったり裏返したりしてまじまじと見る。
「まぁでもコレつい最近もお金引き出してる記録が残ってるし、大丈夫かなぁ」
「……」
「しかし御爺さん随分おカネ持ちなんですねぇ」
「は、はぁ……なんとか、お願いします……連れて行って下さい……」
「神戸か……なんだか信じられない話だけど、もし本当だったら勿体ないからな。でももし何かの間違いだったとしても、乗せて走った分の料金はしっかり頂きますからね」
「は、はい、お願い、します……」
 運転手は通帳と印鑑を真次郎に返すと前に向き直り、ハンドルを回す。グラリと車が少し動く。運転手は窓から顔を出して、横をすり抜けて行く車の列を見ている。タイミングを計り、グィンと車を走らせる。瞬間辺りが後方へと動き出し、真次郎は眩暈を覚える。
 ……麻里恵、俺はきっと行くからな……麻里恵に会えば、きっとすべてが分かるんだ。……俺がこの五百万の金のうち、最初に持っていたという二百万をどうやって手に入れたのかも、時々脳裏に見える血飛沫を浴びて叫んでいる女の子のことも、何故俺が殺人を犯したのかも。そして俺が誰なのかも……。

「え~っと神戸だから、用賀から乗って東名高速、名神か……」
 運転手は独り言の様に呟きながら車を走らせている。
「だけどこんな夜中に神戸までおひとりで行かれるなんて、そーとー急な用事なんですねぇ」
「……は、はい、人に会いに……行くもんですから」
「寝間着を着替える暇も無かったんですか」
「は、はぁ……」
 まだ運転手は真次郎に対して、少なからず不審を抱いている様子である。
「あ、あのう……ここで服を、着替えても……いいですか」
「え、はい、いいですよ」
 真次郎は施設から着たまま出てきたパジャマを左手だけでなんとか脱ぎ、盗んで来た浜矢職員の青いジーパンとオレンジ色のシャツを、シートに寝転んだりして悪戦苦闘しながら身に着けて行く。
 土だらけになっているパジャマはもういらないので、丸めておいて後で何処かに捨てて貰おうと思う。
 車は大通りから高速道路へ入り、真次郎には見たことも無い広々とした道を快調に走って行く。
 運転手は真次郎に話し掛けてくることも無くなり、まだ苦労してシャツのボタンを留めている真次郎のことは気にも止めない様に黙って運転している。
 長い時間が掛かり、やっとボタンも留めて着替えが終わると、ようやく一息ついて、シートに身体を横たえる。ぼ~っと窓外を過って行く景色を眺めている。この広い道には信号もない。只々走り続けていることが不思議になり、運転手に訊ねてみる。
「あのう、この道路は……信号が無い、のは何故です……か」
「えっ、コレは高速ですから、信号は無いですけど。あの、神戸まで行くとなると当然だと思って高速に乗っちゃいましたけど」
「こうそく……?」
「はい、高速道路ですけど」
「そうですか……」
「車の運賃の他に高速料金が掛かっちゃいますけど、良かったですかね? もし高速乗らないで行ったら倍くらい時間掛かって料金も高くなっちゃいますので」
「ああ……はい」
 真次郎には運転手の言うことが良く理解出来ない。だが運転手がそう言うのならそうなのだろうと思う他はない。きっとこの「高速道路」という物は自分の知らない間に作られた特別な道路なのだろう。
 走っている道路の向こうには、行けども行けども高いビルが立ち並び、キラキラと光る無数の灯りが流れて行く。一体この街は何処まで続いているのか、この世界はこの世のことなのか……。
 そんなことを思いながら窓を眺めていると、自分は本当にあの施設から逃げ出すことに成功したのだという実感が沸き上がってくる。
 真次郎がいなくなっていることは、きっと七時の起床時間になるまで気付かれないだろう。その頃にはもうかなり東京を離れてしまっているに違いない。

 少しウトウトしただろうか、ふと気が付くと窓に広がる空が明るくなってきており、夜が明けてきたことを告げている。
「あ、あのう……今はどの辺り、ですか……」
 黙って運転している運転手に聞いてみる。
「静岡県に入ったところですよ」
「あっ……」
 窓の先には遠く青い海が広がっている。真次郎は思わず息を飲む。
 海……海……そうだ、アレは海だ。ああ、懐かしい。俺は海を知っている。戦争に行く時も、帰って来た時も、そうだ。俺は船に乗って海を渡って行ったんだ。
 やがて道路がもっと海に近付き、窓の外の海が膨らんでいく。車は大きく弧を描いて海沿いを走っている。運転手は「ここは清水の港ですよ」と教えてくれる。
 海に沿って走る窓外を見ていると、真次郎の脳裏に記憶が蘇ってくる。そうだ……俺も昔、この道を自分で運転して走ったんだ。窓の隙間から匂ってくる潮の香りも、あの頃と同じだ。
 真次郎はトラックを運転している。そして、フロントガラスの外にこの港の光景を見ていた。この風景、広がる海……過ぎて行く清水港の風景に懐かしさが込み上げてくる。
 ……俺は、この道を何度も走っていた。繰り返し繰り返し、トラックで荷物を積んで東京から神戸へ行き、そしてまた神戸から、荷物を積んで東京へ走った。それはきっと、それが俺の仕事だったからだ。それは、刑務所に入る前の。
 俺は孤独だった。一人ぼっちで、家族もなくて。ただハンドルを握ってた。助手席には同僚がいたと思うけど、誰だったのかも思い出せない。途中そいつと運転を交代しながら、自分が運転しない時は寝ていた。
 無意識にそんなことが脳裏に展開されてくると、真次郎は一人で運転しているこの運転手とも交代しなければならない様な気になってくる。
「あのう、運転手さん……大丈夫……ですか?」
「えっ? はぁ、ありがとうございます。大丈夫ですよ心配しないで下さい。でもちょっと、もし良かったら、後で三十分くらい休憩させて貰っても良いですかね」
「はあ、どうぞ……勿論そうして、下さい」と答える。
 それからまたしばらく運転手は黙って運転を続ける。そして少し細くなった脇道へ逸れてスピードを落し、広い駐車場へと入って行く。
 広々とした駐車場には、朝早いせいか空いているところが沢山ある。運転手はその中の一つの枠に車を止めてサイドブレーキを掛け、エンジンを止める。
「それじゃここで少し休憩させて貰いますね、その間はメーター上がらないようにしときますんで」
 と言ってハンドルの脇にある数字の表示された機械を操作する。
「あのう、ここは……何処です、か」
「浜松ですよ。もう神戸までの半分以上来てますから」
「そうですか……料金は、ここまでで……幾らくらい……掛かってますか」
「え~っと結構掛かってますね」
 運転手は数字の表示された機械を見ながら考えている。
「コレと高速代も足すと、もう九万以上いっちゃってますね」
「そうですか」
 運転手は思っていたより料金が高くなっていることに恐縮した様に言うが、ここまで神戸までの半分が九万円で来たのなら、あと九万で目的地に着けるのだと思えば、何も問題はないと思う。
「それじゃ、三十分くらい止めてますんで、その間にお客さんもお手洗いとか行かれて下さいね」
 と言ってドアを開くと外へ出て行く。真次郎もトイレに行っておこうと思い、ドアを開いて身体をひねり、左足を外へ踏み出す。身体を外へ傾けながら杖を突き、車内から右半身を引っ張り降ろして外へ出る。
 広い駐車場の前にレストランの様な店や売店があり、その脇にある白い建物がトイレの様だ。真次郎は杖を突きながら駐車場を横切ってゆっくりと歩いて行く。
 トイレの中は杉並区の施設とは比べものにならないくらい広くなっており、ズラリとならんだ個室スペースのひとつに入ると、左手だけで上手くズボンとリハビリパンツを膝の下まで下げ、便座に座る。
 用を足し終えて外へ出て来ると、広い駐車場にまばらに停まっている車の、どれに乗って来たのかが解らなくなってしまう。
 ……ええっと、どの車だったろう。そうだ、タクシーだ、タクシーに乗って来たんだから……ああ、アレかな。アレだきっと。
 ようやくタクシーを見つけて近付いてみると、椅子を後ろに倒して、運転手が鼾をかいて寝ている。やっぱりコレだと思い、ああ良かったと後のドアを開けてガチャガチャと乗り込む。
 見ると運転手が買って来て食べたと思われるパンかサンドイッチの袋や飲み物の空き缶が置いてある。真次郎も空腹を感じているのだが、預金通帳はあっても現金が無いので何かを買って喰べるということが出来ない。運転手が起きるのを待って当座の金を貸して貰うしかないと思う。
 三十分くらい休憩すると言っていた運転手は、一時間を過ぎても全く起きる気配がない。その鼾を聞いていると、かつて自分がトラックを運転している時に、隣で同僚が寝ていたことが思い出される。
 さっき見た清水の港の風景に感じた懐かしさ。そしてこの男の鼾で思い出される同僚運転手の鼾。
 ……俺は、トラックを運転する仕事をしていた。そして、東京から神戸に向かって走っていたんだ。そこで俺は麻里恵という女と出会ったのか。麻里恵、もうすぐ解かる。お前に会えば……。
 その後も運転手は寝続けて、一向に起きる気配は無い。しかしこの先また今までと同じくらい運転して貰わなくてはならないのだし、無理に起こしてしまうのも悪いと思い、真次郎は腹が空くのも我慢してじっと待っている。
 待つということにそれ程の抵抗を感じないのは、自分は永年生きて来たので今更急ぐこともないということなのか、ここまで来た以上はもう誰にも連れ戻される心配も無いという余裕からなのか。何よりまだ遥か遠くにある桜華園という旅館まで行く為には、この運転手だけが頼りなので、少しは時間を浪費しようとも機嫌を損ねてはいけないと思う。
 外がすっかり昼の様に明るくなると、運転手がようやく目を醒ます。すみませんと恐縮するが、真次郎は怒りもせずに現金が無いことを説明して金を貸して貰い、頼んでパンと牛乳を買って来て貰う。

 ようやく出発したタクシーは再び高速道路を走り出し、真次郎は後で運転手が買って来てくれたパンをモグモグと食べる。
 暫く走ると運転手が口を開く「お客さん、もう銀行が開く時間なので、もし良かったら一度高速を降りて銀行に寄らせて貰ってもいいですかね。疑う訳じゃないんですけど、神戸までですとかなり高額な運賃ですから、やっぱりお持ちの現金を確認させて貰いませんとちょっと心配なもんですから」
「あ、そうですか。いいですよ……それなら是非、そうして……下さい」
 そう答えると、運転手は長いカーブをグルグルと回る道へ入り、高速道路を出て信号機のある普通の道路へと入って行く。
「お客さんのお持ちの通帳の銀行があるところを探しますので、ちょっと待って下さいね」
 そう言うと市街地の道路を走り廻り、鉄道の駅の様なところへくると車を停める。
「ちょっと交番で聞いてきますので、待ってて下さい」と言って車を降りて行く。
 戻って来ると車を走らせ、すぐに小さな駐車場へ入り、車を停める。
「お客さん、すぐそこにお客さんがお持ちの通帳の銀行があるんですけど、一緒に歩いて行って貰えますか」
「あ、はい……勿論、いいですよ」
 車を降りて、運転手と共に銀行へ向かう。小さな商店街の中に綺麗なガラス張りの店があり、横の看板には確かに真次郎の通帳と同じ銀行の名前が書いてある。
 グィンと開く自動ドアを通って中へ入ると、広いフロアーに長椅子が並んでおり、まばらに人が座っている。前方に横に広く延びたカウンターがあり、番号で仕切られている中に制服を着た女の人が座っている。
 運転手は真次郎を長椅子に座らせると「整理券を貰って来ます」と言ってカウンターの横にある機械へ行き、ボタンを押すと出てきた小さな紙を持って戻って来る。その紙を真次郎に見せる。
「この番号が呼ばれたら、一緒に窓口に行きますので、そしたらお客さんがお持ちの通帳と印鑑を出して、お金を降ろして貰える様に頼んで下さい」
「はい、分かりました……」
 間もなくピンポーンという機械の音と共に女性の声でその番号が呼ばれ、運転手は真次郎を促して窓口へ連れて行く。窓口へ着くと真次郎はシャツの中から首に下げたビニール袋を引っ張り出し、通帳と印鑑を窓口の女性に差し出す。
「あ、あのう……この通帳から、お金……を、降ろしたい……んですが」
「はいかしこまりました。それではこの用紙に金額をご記入して頂けますか」
 と女性から用紙とボールペンを差し出されて、真次郎は左手でボールペンを取るが、手がブルブル震えてしまう。
「私が代わりに書きましょうか」と言って運転手がペンを取り、受付の女性に説明する。
「私はタクシーの運転手なんですけど、今この方を東京からお連れして来てまして、この人料金を払うのに預金を降ろさないと払えないと仰るものですから、お手伝いしてるんですよ」
 受付の女性はちょっと黙り、運転手を見つめる。
「そうですよねお客さん」
 と運転手は真次郎にそのことに間違いないことを確認する様に求める。
「は、はい……そうです。そうなん、です……」
「作用でございますか。承知いたしました」と受付の女性が答える。
 運転手は真次郎に「降ろす金額は幾らにしますか?」と聞いてくる。
「タクシー、の……料金は、幾ら……ですか」
「そうですね、今十万くらいですから、ここからの高速料金と宝塚市まで行くのと合せても二五万まではいかないと思いますけど」
「それじゃ……五十万、降ろして……下さい」
「そんなにですか」
「他に……も、いろいろ、お金が……掛かると思うので……」
「そうですか、分りました」
 と言って運転手は用紙に金額を記入して、受付の女性へ差しだす。
「それではご用意出来ましたらお呼びしますので、そちらにお掛けになってお待ち下さい」
 と言われて、二人はもう一度先ほどの長椅子に腰を降ろす。
「相沢様、お待たせ致しました」
 と呼ばれて運転手と真次郎は受付へ向かうと、受付の女性は一万円札の束をプラスチックの皿に乗せ、通帳と印鑑を添えて真次郎に差し出す。
「五十万円と通帳とご印鑑です、ご確認下さいませ」
 真次郎は運転手に「代わりに……数えて、下さい」と頼む。
「はい、分かりました」と運転手は答え、真次郎によく見える様に札束を扇状に広げ、端から一枚ずつ「一、二、三、四……」と声に出して数えて行く。それを見ながら真次郎は、ああ自分には確かにこれだけの金があるのだと実感して行く。
「はい、確かにありますね、それじゃ目的地に着いた時に料金は精算させて頂きますので、コレは通帳と印鑑と一緒にお客さんがお持ちになっていて下さい」と運転手は受付の女性に聞えよがしに言う。
 そして現金を女性が一緒にくれた封筒にしまうと、通帳と印鑑と一緒に真次郎の首の袋に入れていく。その時袋の中に少し縁が削られたステンレスのスプーンが入っているのに気付き「なんでスプーンなんか入れてるんですか?」と不思議な顔をして訊ねる。
「コレは……大事な……もの、ですから」と真次郎は答えてスプーンを受け取ると、ジーパンのポケットに差すが、長い柄が収まり切れずにポケットからはみ出してしまう。
 真次郎は袋をシャツの中にねじ込む。五十万の現金が増えた分袋は大きくなり、シャツは胸元が不自然にボコッと膨らんだ格好になる。
「ありがとうございました。お気を付けてお帰り下さいませ」
 と愛想よく言う女性に送り出されて、二人は銀行を出る。
 真次郎は運転手に礼を言う「あ、ありがとう……ござい、ました」
「いーえ、こちらこそ、安心しましたよ。私タクシーの運転手になってこんなに長距離のお客さん乗せたの初めてですから、良い経験になりますよ」心なしか運転手は前よりずっと機嫌が良くなった様に思える。真次郎が引き出した現金を見たお陰だろうかと思う。
 運転手は、真次郎が杖を突いて歩くのが遅いことにも嫌な顔ひとつせずに、歩調を合わせてゆっくりと歩き、駐車場まで戻る。
「ここは、どの辺りなんですか?」と尋ねると「もう大阪には入ってますからもう少しですよ」と運転手は答える。
 後部座席に真次郎を乗せ、運転席に乗り込むと、運転手は最初に真次郎が見せたメモ用紙をもう一度見て、ダッシュボードに取り付けられた小さな画面のある機械に、メモに書かれた住所を打ち込んで行く。
「それは、何……ですか」
「これはカーナビと言って、目的地の住所を打ち込んでおくと、そこまでの道順を教えてくれる機械なんですよ」
「……」
 一体どんな仕組みでそんなことが出来るというのか、真次郎には驚くより他はない。
「それじゃ、出発しますね」
 と言って機械を操作し終わると左手でギアを入れて車を出す。しかし、走り出してから一向にギアを入れ直す様子が無いことに初めて真次郎は気付き、コレもおかしいと思って見ている。
 ローギアで発進させたらスピードが上がると共に重いギアにチェンジしていく筈なのに、運転手は最初にギアを入れたきりずっと変えようとしない。
 それも不思議に思ったが、きっと時代が変わり、車の構造というものも変わってしまったのだろうと思う。
 元来た街中を走り始めると「二十メートル先、左折です」と先ほど運転手が住所を入力した機械から女の声がしたので驚いて見る。運転手がその通りに左に曲がるとまた「次の交差点を右折です」と喋る。運転手は機械の指示に従ってハンドルを切って行く。
 そうするうちにタクシーは再び高速道路に乗り、神戸を目指して走り始める。
 神戸が近くなったのだと思うと、それに触発されてか、今まで思い出せなかった記憶が意識の上に浮かんでくる様な気がする。
 仄かに思い出される記憶によれば、かつては東京から神戸までトラックで来るのに、一日では来れなかったのではないかと思う。
 それと、施設にいた頃から時折り断片的に見えていた、かつて麻里恵と一緒に行ったのではないかと思う場所について、運転手に尋ねてみる。
「あのう……この辺りで、山の上から……港、が見える、ところ……があります、か?」
「山の上から港ですか? そりゃ六甲山じゃないですかね、夜景が綺麗だって有名ですよ」
「六甲……山ですか」
 タクシーはまた大きなカーブを回って違う道に入ったりしながら、高速道路を数時間走り続ける。そしてまた脇道に入るとスピードを落し、信号のある普通の街路へと出る。
 運転手は機械の発する女の声に従って角を曲がったりしながら、市街地を走り抜けて行く。
 そうして徐々に山の中へ登って行く様な道路を進み、やがては道の両側が山で囲まれた中を走り始める。
「さぁお客さん。もうすぐですよ」
 もうすぐ……もう近くに、麻里恵はいるんだ。
 また何か記憶に呼応する様な物が無いかと真次郎は一心に景色に見入っている。車は山の中を曲がりくねった細い道を右へ左へと揺れながら走り、眼が回りそうになってくる。
 まだかまだかと思っていると、道の上に大きく「武田尾温泉」と書かれたアーチが現れ、そこを潜ると河を渡る橋になっている。車は橋を渡り、さらに河に沿った道を走って行く。
 見ると紅葉になっている木々に囲まれた中を河が流れている。とても美しい所だと思う。
 真次郎はこの風景をかつて見た筈なのだと思う。何かを思い出せそうな感じはするのだが、具体的なことを思い出すことは出来ない。
 河の流れはやがて狭くなり、小さなせせらぎの様になって行き、その周囲に懐かしい風情の家屋が並んでいる。
 車はスピードを落として狭い路地を進んで行く「まもなく目的地に到着です」という女の声と共に、広くなった場所へ出る。
 そこには何十年も前の家屋であろう古い旅館がある。車はその前に停車する。
「お客さん、着きましたよ」と運転手が真次郎を振り返って言う。
 見るとその旅館の玄関の上に「桜華園」と書かれた木の看板がある。
 ……桜華園……来た。俺はやっと来たんだ。
「ありがとう、ございます……」
 真次郎はここに来るまでに掛かった運賃と、高速道路の料金、それに立て替えて貰ったパンや牛乳の代金等も足して計算して貰う。金額は二二万円を超えている。
 シャツの中からビニール袋を引っ張り出し、その中から金の入った封筒を出す。運転手に渡し、ここまで無事に連れて来てくれたお礼の意味も込めて、その金額に三万円くらい上乗せして二五万円を受け取ってくれと運転手に言う。
「あ、いやーそんなに上乗せして貰っては申し訳ないですよ」と恐縮しながらも運転手は二五枚の一万円札を数えて、残りを真次郎に返す。
「今夜はここにお泊りなんですね、お帰りはどうなさるおつもりなんでしょうか?」とニコニコして訊ねてくる。
 あわよくばまた東京までの帰りも真次郎を乗せて行きたい。と考えているのであろう。
 そう思って初めて真次郎は気付く。ここからまた東京まで帰るなどということは全く考えてもいなかった。ここに来て麻里恵に会えれば、もうそれだけで良い。その後のことは何も考えていない。
「いえ、もう……いいんです。ここまで来られた……のだから……後のことは……何も、解りません……」
「そうですか、分りました」
 と言って運転席を降りると、車の後ろを回って後部座席のドアを開き、真次郎が降りるのを手伝う。
「それではお気を付けて」と旅館に向って行く真次郎を名残惜しそうに見送ると運転席に乗り込み、ドアを閉じて走って行く。


 


第三章 1~2

    第三章


    1

 

 ここに、この旅館に、麻里恵がいるんだ……。
 真次郎は無意識にジーパンの上からポケットに入っている削りかけのスプーンを握り締めている。何故そうしているのかは解らない。でも何故かそれは手放してはならない大切なお守りである様に感じている。
 コツン……タッ、ズズズ……コツン、タッ、ズズズ……。
 杖を突いてゆっくりと、開け放たれている玄関へ入って行く。誰もいない。中は広く、磨かれた木の柱や梁があって、如何にも何十年もの月日が経ったであろう歴史を感じさせる。
 それは真次郎の生きた時代に寄り添って建っていた様な親しみを覚える造りである。玄関の奥に長い廊下が続いているのが見える。
「ごめん……くだ、さい……」
「はーい」奥の方から声がして小走りに仲居の着物を着た女が来る。
「いらっしゃいませ、ようこそお来し下さいました」と愛想良く頭を下げたその顔は、かなり老け込んでいる老女である。今聞いたその声が身体中に電流の様に流れていく。指の先から足の先までが小刻みに震える。
 老女と眼が合った途端に心臓の鼓動も激しくなる。真次郎は口を開く。
「あのう……」
「はい、お泊りのお客様でしょうか」
「……」
 その老女は、真次郎が杖を使ってかなりヨロヨロしていることと、他に連れの者がいないことに戸惑いを感じた様に言う。
「おひとり様でしょうか?」
「あの、う……こちらに、麻里恵、という人が……いると、思うのです、が……」
「……お客様の中にですか?」
「いえ、ここで……働いて、る筈……なんで、す」
「ここで働いてる? 苗字は何と仰るんですか」
「それは……多分、三浦……三浦というんだと……思うんですが」
 老女はちょっと驚いた様な顔をする。
「……失礼ですが、お客様のお名前は何と仰るんですか」
「相沢、相沢……真次郎……です」
 ドターンと音がして、その仲居の老女が倒れてしまう。
 その音を聞き付けた他の仲居が来て「あら、女将さん! 女将さんどうしました?」と倒れた老女を抱き起す。
 奥からまた別の仲居と男性が走り出て来る。
「女将さん……大変だ、救急車を呼んで!」
 真次郎は呆然としている。何故倒れたのか、もしかしたらこの女が麻里恵なのか、俺の名前を聞いたから倒れたのか、それとも何かの病気で倒れたのがたまたまタイミングが合ったのか。解らない、この女の名前は何と言うのか聞いてみたいが、それどころではない騒ぎになってしまっている。
「脈はあるかい?」「うん、ちゃんと息はしてるよ」と従業員たちの声が飛び交う。
「あ、あのう……すみま、せん。私は……」
 従業員たちの後ろから声を掛けるのだが、皆それどころではなく、全く振り向いてくれない。
 仕方なく真次郎は後に下がり、玄関の隅で成り行きを見守っているしかない。
 程なくしてサイレンの音が道を登って来たかと思うと救急車が到着し、降りて来た隊員が倒れた老女の容態を確認する。
 この老女が麻里恵なのか、このまま病院に連れて行かれてしまうかもしれない、その前に話くらいは出来ないのか。
 隊員が救急車の後部扉を開いてガチャガチャとストレッチャーを降ろして来る。隊員たちは老女をストレッチャーに乗せる。
「大丈夫だよ」「女将さんしっかりして」従業員たちの声に送られながら、老女は救急車に乗せられる。
 バタンと扉を閉めるとサイレンを響かせて、救急車は先ほど真次郎がタクシーで来た河沿いの道を走って行ってしまう。

 救急車が行ってしまった後、気が付くとひとりの仲居の女が真次郎の近くに立っている。さっき倒れてしまった女程ではないが、この仲居もかなり老けている。初老な感じである。
「あのう、お客様、突然のことで大変失礼致しました」
「は、はい……」
「失礼ですが、今日はお一人様でご来館頂いたのでしょうか」
 気のせいか、その女は何か辺りをはばかる様にして、小声で話し掛けてくる。
「は、はい……一人ですが……あ、あのう、こちらに、麻里恵という人が、働いておられると……思うのですが……私は、その方にお会い、しに来た。のです……」
「……あの、失礼ですが、お客様のお名前は」
「あ、相沢……真次郎といい……」
「お部屋へご案内しますのでどうぞ」
 違和感がある。今この女は真次郎の言うことを遮る様に言った。真次郎の腕をつかみ、引っ張る様に力を入れてくる。
 真次郎は促されるままに杖をついて三和土へと近づく。東京の施設から履いて来たサンダルを脱いで、おぼつかない足取りでどうにか三和土に上がると、女は真次郎の足元に館内用のスリッパを揃えて置く。
 真次郎は履こうとするが、足元が定まらずによろめいてしまう。
 女が横へ来て真次郎の右腕の脇の下から腕を通して身体を支えてくれる。だが、その支えてくれている女の腕がブルブルと震えている。見ると顔も強張っている様に見える。
 どうにかスリッパを履いて廊下へ進む。奥まで続く長い廊下に客室のドアが並んでいる。
 女は一番手前にあるドアを開け「こちらへどうぞ」と言って真次郎を中へ入れる。
「すいません……」
 と言いながら部屋に入ると、女はバタンとドアを閉め、ガチャリと鍵を掛ける。
 スリッパを脱いで上がると中はすっきりした六畳の和室に木製の座卓が置かれている。その向こうには外を流れる小川に面して二畳程の板の間があり、小さなテーブルを挟んで藤椅子が置かれている。
「どうぞおくつろぎ下さい」
「あ、あの……う、俺は足……が曲がらない、ので、床には、座れないから……」
「そうですか、それでは窓際の椅子の方へどうぞ」
 と促し、大きなガラス窓の前にテーブルのある板の間へと真次郎を連れて行く。
 真次郎が椅子に近付こうとした時、グインと頭上が回転し、ガコンと音がして真次郎は倒れている。
 何が起こったのか、頭から痛みが沸き上がってきたかと思うと顔面にサラサラと血が流れてくるのが分かる。
 ドカッ、ドカッ! 背中が蹴飛ばされて、テーブルの脚に割れた頭が打ち付けられる。
「あなた、今更、何しに来たのよ! はぁ、はぁ、何だって今更……こん畜生っ!」
 それはこの部屋へ案内してきたあの女の声なのか、背中を蹴る足の衝撃に凄い憎しみが篭もっている。
 カラカラッ……と音がして何かが転がったかと思うと、口から入れ歯が飛び出している。
 うごめいて真次郎は身をよじる。ドカッ! ドカッ! 今度は胸が打ち付けられる。
「ああ、ああ~~」
 胸を打ち付けられて息が出来ない。何が起こっているのか解らない、されるがままになっている。頭と、胸と、身体を激痛が覆い、意識が朦朧としてくる。
「うう~~ああ……」頭から真次郎の残り少ない命の様に血が流れていくのが分かる。そのまま訳が解らなくなってくる。
 ガチャガチャッ……コンコン。失い掛けている意識の中で、誰かがドアを開けようとしてノックする音が響いてくる。
「若女将、いらっしゃいますか、東京のお嬢さんからお電話が入ってます」
 背中を蹴っていた女が慌てた様にドアへ走って行き、鍵を解いて開く。
「こっちも大変なのよ! お客様が転んで頭から血が出てるから、もう一度救急車を呼んでちょうだい!」
 しばし様子を見ている間があったかと思うと「は、はいっ」と慌てて返事をしてその女が部屋から出て行く。ドタドタと廊下を走って行く音がする。
 何が起こったのか解からない。自分がどうなっているのかも解からない。ただ意識は朦朧として、何も分からなくなっていく……そのまま全てが闇に包まれてしまう……。

 

    2

 

 真次郎の目にうっすらと視界が戻ってくる。ここは何処なのか、白い天井がある……東京の施設に戻っているのか……いや、自分はもう死んだのかもしれない。でもスースーと自分が呼吸している音が聞こえている。俺は生きているのか……。
 視界の上に誰かが来て俺の顔を覗き込んでいる……優しそうな女の顔。マリ、麻里恵だ……マリ……会いたかったよ……。
「相沢さん、相沢さん大丈夫ですか……」
 マリが俺を呼んでるんだ。やはりここはあの世なのか……。
「マ、マリ……何処にいた……の? 探したん……だよ」
「気が付きましたか? 相沢さん、私のこと分かりますか?」
 真次郎に意識が戻って来る。
 あっ……これは、マリじゃない、この人は、沙奈さん……沙奈さんじゃないか。でも何故沙奈さんが? そうか、やっぱりここは東京のあの施設なんだ。俺は、折角神戸まで来たのに、結局連れ戻されてしまったのか。
 真次郎はベッドに寝ており、知らぬ間に浜矢のジーパンとシャツも脱がされ、パジャマに着替えている。
「相沢さん、相沢さん、もう……心配したんですよ!」
 そう言って沙奈はベッドの上に紐でぶら下がっているボタンを押す。
 見ると沙奈の横には、あの旅館で客室に真次郎を案内した仲居の女が立っている。
 ……俺の頭はどうなったのか、真次郎はそっと左手で触ってみると包帯が巻かれている。
 ……あの時、俺は誰かに突き飛ばされて、転んでテーブルに頭をぶつけて、それで怪我をしたんだ。その後も誰かに背中を何度も蹴られて……あれは誰にやられたのか、あの部屋に誰かが隠れていたのか? それともこの仲居の女がやったのか? しかし何故俺があんなことをされなければならないんだ……何か俺がここへ来てはならない理由でもあったというのか。
 それに何故沙奈さんがここであの旅館の女と一緒にいるのか、訳が解らないまま考えていると、ドアを開けて白衣を来た女が入ってくる。
「あの、今目を開けて、意識が戻ってるみたいなんですけど」
 と沙奈が白衣の女に言う。
「もしもし、大丈夫ですか、私のことが見えますか? 相沢さん、この指を見て下さい」
 とその看護師は真次郎に言うと、目の前に人差し指を立てて、左右に動かしていく。思わず真次郎はそれを眼で追う。
「私の声が聞こえますか? 聞こえたら頷いて下さい」
 そう言われ、真次郎は縦に顔を振る。
 続けて看護師は真次郎の腕に大きな腕時計の様な機械を巻き付けてスイッチを入れる。するとグィーンと音がして腕が締め付けられる。
 沙奈はずっと心配そうにその様子を見ている。その横では旅館の女が何か神妙な顔をしている。
 暫くして看護師は腕から機械を外し、その数値を見て言う。
「大丈夫ですね、頭の怪我の方もレントゲンの結果、骨には異常は無かったみたいですので、安静にしていれば腫れが引いて傷口も塞がりますよ」
「はい、ありがとうございます」
 と旅館の女が言って頭を下げると、看護師も軽く会釈をして部屋を出て行く。
「さ、沙奈さん……君は、どうして……ここに?」と訊ねる。
「相沢さん。なんて無茶なことするんですか! 今朝施設で行方不明になったって聞いて、もしかしたらって思って、連絡したんです。でもまさか、私が話した実家の旅館に、本当に来てるなんて……電話したら母がそれらしい人が訪ねて来たって言うから。驚きましたよ。こんな大怪我までして。でも無事で本当に良かった。施設では大騒ぎになってるんですよ」
「……こ、ここは、何処ですか?」
「ここは宝塚市にある病院です」
「……」
 真次郎の頭に、筋道を立てた考えが浮かんでくる……俺は昨夜東京のあの施設を抜け出して、タクシーに乗ってここまで来た。そしてやっと桜華園という旅館に辿り着いて、出てきた老女の仲居さんに麻里恵のことを訊ねたら……そうだ。あの倒れてしまった仲居さんはどこにいるんだ。あの人がやはり麻里恵だったのではないのか?
 あの人は救急車に乗って行ってしまって、それからここにいるこの仲居さんに部屋に案内されて、誰かに怪我をさせられて……そうだ。そして俺も病院に運ばれたんだ。
 そして沙奈さんは、朝東京の施設で俺がいなくなったので桜華園に電話をして、俺がこっちへ来ていることを知った。そしてわざわざ東京から駆け付けてくれたって訳か……。
 神妙な顔をして黙っていた旅館の女が、側へ来て真次郎の顔を見る。
「でも本当にご無事で何よりでした。お部屋で倒れられた時には本当に驚きましたよ」
 ……俺が、倒れた? 違う、アレは、誰かが後から突き飛ばしたんだ。やはりこの女ではないのか?
「東京で娘が勤めている施設にいらした方なんですよね、何か娘がいらぬことを言ったばっかりに、遥々訪ねて来て下さったんですね。本当に申し訳ないことを致しました」と言って深々と頭を下げる。
 ……沙奈さんが娘? この人は、沙奈さんの母親なのか、するとつまり、麻里恵の娘だということか? そうだ、俺の目の前で倒れたあのお婆さんの仲居さんは、他の仲居から女将と呼ばれていた。やはりアレは麻里恵だったのか……。
「相沢さん。私施設に電話して来ますね、先生のお話じゃ三日間は安静にしてた方が良いってことですから、それまでここに入院して、動いても大丈夫になってから、連れて帰るって施設には報告して来ます」
 そう言って沙奈は部屋を出て行く。

 病室には真次郎と旅館の女だけになる。女は凄く怖い顔をして真次郎を睨みつける。
「……おい、貴方ふざけないでよ、今更何をしに来たっていうのよ?」
「……」
 だがそう言われても、真次郎には何のことだかサッパリ解らない。
「いや、俺は……ただ……」
「全く貴方は、こんなにヨレヨレになってまで東京からやって来るなんて、なんて執念なのよ!」
 ガッシャーン! 気がつくと真次郎はベッドから引き摺り落とされている。
 女は床に落ちた真次郎の上に馬乗りになると、両手で真次郎の頭を抱え上げ、そのまま床に叩き着ける。
 ガィーン!
 脳天に響く衝撃が炸裂する。
 ガィーン! ガィーン! ガィーン!
「はぅ、ああっ、ひあっ……」
 女は黙って繰り返し頭を打ち付けていく。頭の傷口がまた開いたのか、みるみる包帯が血で湿っていくのが解かる。今度こそ殺されてしまうと思う。
 ムギュギュギュッ……女は立ち上がり、真次郎の顔を踏み付ける。
 ……やっぱり、やっぱり旅館でもこの女がやったんだ。この女……麻里恵の娘が……。
「ねぇ、何を考えてるのよ! もう私たちのことはそっとしておいて下さいよ。お願いだから……」
 と言って尚一層の力を込めて顔を踏み潰す。潰されている口の隙間から血が流れて床に広がっていく。
「ふぁ、ふぁの……」真次郎は必死に口を開く。だが顔を踏まれているので言葉が明瞭に発音出来ない。
「なんですか相沢さん」
「お、お願い……しま、ふ。麻里恵……に、お会わへ、願へ……まへん、で、ひょうか……」
「会ってどうするつもりなの?」
「どう、ふる……って、何も……たら、私、のこと、を……麻里恵に、教へ……て、欲ひい……から」
「貴方のことを、教えて欲しいって? どういうことよ」
「お恥ずかひ……い、こと……でふが、俺……は、自分……の、ことが、思い出へ……なひ……んです」
「……それは本当なの?」
「は……はい」
 女は考える様に黙る。
「……」
 心なしか足の力が弱まった様な気がする。女は踏まれている真次郎の顔を上からじっと見つめる。そして足を外すと真次郎の脇にしゃがみ込む。
「本当に何も覚えてないの?」
「……はい」
「それじゃ聞くけど、麻里恵って人と貴方とはどういう関係だったの?」
「……それが、全く……何も、記憶に、無い……んです」
「それじゃどうしてここまで来たのよ、貴方は旅館に来て、麻里恵という人に会いに来たって言ったじゃないの」
「それは……頭の中に、その名前だけが……あって、それが誰なのか……は思い出せなかった。だから……麻里恵に会って……俺と、どういう、関係だったのか……を、麻里恵に、教えて、貰いたくて……それで、来た……んです」
「……それは本当なの?」
「はい、旅館の名前……は、沙奈さん……が、教えてくれたから……それだけを頼りに、来ま……した」
「そうですか……」
 真次郎の話すことを聞いて何か考えを変えたのか、女の顔つきが違っている。
「……相沢さん。貴方のことは私も沙奈から伺っておりましたけど。残念なんですが貴方が思い出にしておられる麻里恵さんという方と、私の母とは名前は同じでも全くの別人で、何の関係もない人間なんですよ」
 ……嘘だ! 今更何を言ってるんだ……真次郎の頭に直観が走る。あの旅館で、気を失って倒れていく老女の姿が再生される。あの老女は……俺の名前を聞いて倒れたんだ。アレは、あまりにも驚いて気を失ったんじゃないのか!
 ……いや間違いない、俺の名前を聞いて倒れたんだ。名前を聞いて、俺を見たから倒れた……俺のことを知ってるんだ。あのお婆さんは、やっぱり俺の中にいる麻里恵なんだ。
 この麻里恵の娘だと思われる旅館の女は、先ほどの怒りを込めた口調から一変して、優しい仲居さんの様な口調になって言う。
「遠いところを折角来て頂いたのに申し訳ないのですが、きっと貴方の思い出の中にいる麻里恵さんは、ここじゃない何処か余所にいる方なんだと思いますよ」
 もう、騙されないぞ……真次郎は頭の中で必死に考えて、筋道を立ててみる。
 ……この人は、沙奈さんのお母さんで、麻里恵の娘なんだ。そして、この人は俺を殺そうとした。そして麻里恵のことを、俺の記憶の中にいる麻里恵とは別人であると嘘をついている……。
 ……何故だ! 俺はそれ程、ここへ来ちゃいけない人間だったのか? この人にとって、俺は有無を言わさず殺さなければならない程、招かれざる客だったというのか……。
 ガチャリとドアを開けて沙奈が入ってくる。
「どうしたの! 相沢さん!」
「ベッドから落ちたのよ、早く看護師さんを呼んで」
「何やってたのよお母さん」
「自分で動いてベッドから落ちたんだよ」
 そう言いながらまた真次郎のことを凄い目で睨み付ける。
「ナースコールは?」
「えっ?」
「もぅ~お母さんたらさっきもコレ押したら看護師さんがすぐ来てくれたじゃない!」
 沙奈はまたベッドの頭上に下がっているナースコールのスイッチを押す。
 やがて看護師が駆け込んで来る。床に寝て頭から出血している真次郎を見ると驚いて沙奈に手伝わせ、両腕を抱えて真次郎を起こす。
 頭の包帯が赤く染まっている。二人は真次郎を支えて病室を出ると、治療室へと真次郎を運んで行く。

 パックリと開いてしまった後頭部の傷口を医師が縫合する間、真次郎を殺そうとした沙奈の母親が医師に説明している。
「急にベッドの上で暴れ出して、床に転げ落ちたんですよ」
 ……違う、この女が俺を引き摺り落として、殺そうとしたのだ……しかし今この医者にそう言っても、多分信じて貰えないだろう。何しろこの女が俺を殺さなければならない理由が無い。説明しようにも俺にも解からないのだ。何よりも俺はボケて勝手に施設を抜け出して徘徊し、こんな遠い所まで来てしまったボケ老人という認識で見られている。
 それよりも何故俺を殺す必要があるのか、そっちが知りたい。俺はこの女に何をしたと言うのか。
 ふと見ると、医師に真次郎がベッドから落ちたことを説明している母親の顔を、沙奈が不審に満ちた目でじっと見つめている。

 真次郎は治療を終えると沙奈と母親に支えられて、再び元の病室へと戻される。
「大丈夫ですか、いきなりベッドから落ちたので、驚きましたよ……」と言いながら、沙奈の母親は様子を伺う様にしてじっと真次郎の顔を覗き込んでくる。
 真次郎は何も言わない。沙奈と母親が話し掛けてもただ虚ろな目で、二人の顔をながめている。
 それを見て安心した様に母親が言う「驚きましたけど、でもご無事で何よりでしたね」
 沙奈はそんな母をじっと見つめて口を開く。
「……ねぇお母さん。もしかして母さんが相沢さんをベッドから落したんじゃないの?」
 母親の動きが止まる。
「……何言ってるの。そんなことする訳ないじゃないの」
「だって、考えてみたら、旅館の部屋で倒れたっていうのも。母さんがやったんじゃないの?」
「なんでよ、何の為に私がそんなことしなきゃならないのよ。バカなこと言うもんじゃないよ」
「だって、転んで頭を打ったにしては怪我が酷すぎるもの……」
「どうして私がそんなことするのよ」
「それは……何か相沢さんのことを、恨んでることがあって」
「な、何言ってるのよ! バカなこと言うもんじゃないよ……」
 と言いながらも、激しく動揺しているのが解る。
「……ねぇ、お母さん。私、相沢さんをお祖母ちゃんに会わせてあげたいんだけど」
 瞬間母親はギクリとした様に身体を震わせ、沙奈の顔を見る。
「……どうしてよ。何の関係もないのに」
「例え関係なくたって、相沢さんの思ってるマリさんとお祖母ちゃんが別人だったとしても、こんなに苦労してここまで来たんだから、別人なら別人だっていうこと、相沢さんにもちゃんと納得させてあげた方が良いと思うのよ」
「そんなことは絶対にダメだよ」
「どうしてよ」
「どうしてもよ」
「だから何でよ!」
「……」
「どういうつもりなの?」
「なにがよ」
「本当に何も関係ないの?」
「だから何がよ?」
「相沢さんとお祖母ちゃんだよ」
「当たり前じゃないか」
「じゃどうして殺そうとしたの?」
「だからそんなバカなこと言うんじゃないよ!」
「そんなに相沢さんとお祖母ちゃんを会わせちゃいけない理由でもあるの?」
「無いよ」
「だったら会わせてもいいじゃない」
「ダメだよ」
「だから何で?」
「だから何でもだよ」
「だって何の関係もないんでしょ」
「勿論だよ」
「嘘!」
「……」
 母親は何か弱気になったのか泣きそうな表情になり、懇願する様に言う。
「……沙奈、私がお前に隠し事なんてしたことがあったかい?」
「だって……」
「……何よ」
「……ねぇお母さん。たとえ相沢さんの勘違いだったとしても、私は相沢さんにお祖母ちゃんと会わせてあげたいのよ。だって、こんな思いまでして、一人ぼっちで、無茶してこんなに遠くまで来たんじゃない。だから、勘違いだったなら勘違いだったってこと相沢さんに納得して貰ってから、帰った方がいいと思うのよ。お祖母ちゃんはたまたま同じ名前だっただけで、相沢さんと深い関係があった麻里恵さんとは別人だっていうことを」
「……」
「だって本当に関係ないなら別に会ったって何も問題無いじゃない?」
「……」
 母親は追い詰められた様な表情になり、震えているのか強張っている。
「……ねぇ、何があったの? 私もう解ったよ。ねぇお母さん。もう誤魔化そうったって無理だからね。相沢さんが思ってた麻里恵さんて人は、本当にお祖母ちゃんのことだったんでしょう?」
「違うよ」
「嘘よ!」
「そんなのお前には関係のないことだろう」
「なんでよ」
「もう遠い昔のことなんだから」
「でも相沢さんはまだしっかり生きててここにいるじゃない」
「……」
「ねぇどうして! なんで教えてくれないの?」
「ねぇもう、勘弁しておくれよ……お祖母ちゃんのことに、お前が関わることはないんだから」
「嫌だ」
「なんでよ」
「だって私は、相沢さんの力になってあげたいんだもの」
「このお爺さんがどうしたって言うのよ」
「相沢さんは……本当に麻里恵さんていう人のこと愛してたんだよ。私はそのこと良く知ってるから、羨ましかったの、男の人から、こんな風に生涯思われる女性がいるなんて」
「この男は愛してなんかいないわよ!」
「どうしてよ!」
「……」
「ねぇどうして? 相沢さんはお祖母ちゃんのこと愛してなかったっていうの? どうして? そんなの信じられない。だって相沢さんは私のことお祖母ちゃんと間違えて、いつも愛してる愛してるって、手を握って涙流してたんだよ」
「……」
「ねぇ、お母さん。お母さんだって本当は相沢さんのこと知ってるんじゃないの?」
「……」
「ねぇ、知ってるんでしょう。もう誤魔化し切れないよ。観念しなよ、もう私は騙されないからね」
「……お前バカじゃないの? 何でそんな男にお祖母ちゃんのこと教えたのよ! 騙されてるのよ、この男がどんな人間だか解ってないんだよ」
「どんな人間って、どういうこと? やっぱり母さんは相沢さんのこと知ってるんだね」
「……」
「ねぇ、黙ってないで答えてよ、相沢さんとお祖母ちゃんはどういう関係だったの?」
 遂に観念した様に母親は、ベッドで虚ろな目をしている真次郎の顔を覗き込んで言う。
「貴方は……もう本当に、何しに来たのよ!」
「だからそれは相沢さんにも、解らないんだって。相沢さんは自分のことが解んなくって、だから、それを知りたいから自分が名前だけを憶えてたお祖母ちゃんに会いに来たんじゃない」
「そんなのは嘘だよ、それじゃうろ覚えの人に会う為にわざわざこんな遠いところまで苦労して来たっていうの? そんなこと信じられないよ」
 そう言われても、真次郎には本当に解らない。自分と麻里恵とがどんな関係だったのか、それを一番知りたいのは真次郎自身なのだ。
 ぼ~っと横になっている真次郎が言葉を発する「貴方は……」。
 急に喋り出した真次郎に母親はギョッとした顔をする。
「貴方……は俺と、麻里恵が、ど……ういう関係、だった……か、知ってるんです……ね? 知ってる……んなら、教えて、下さい」
「貴方は本当に、本当に解らないの?」
「……」
 母親は真次郎の顔をまじまじと見る。しかしどんなに見られても真次郎にさえ、どんな顔をしていいのかも解からない。
 そして、母親は遂に何かを見極めたのか、それまでの猜疑心に満ちていた表情がスッと緩み、何か安堵した様な穏やかな顔になる。そして言う。
「そう……じゃこの人は、うろ覚えにお祖母ちゃんのことを覚えてはいても、自分が何をしたのかってことまでは思い出せないってことなのね」
「そうだよ」
「そう……」
 そして母親はしばし考え込む様な表情をした後、よしという様にひとつ頷いて、沙奈に言う。
「……沙奈は、本当にこの男がどういう人間なのか知りたいのかい?」
「だから相沢さんもその為に来たんだって言ってるじゃない」
「それじゃ教えてあげるわよ……この人はね、あなたのお祖父ちゃんを殺した人なんだよ」
 真次郎は目を見開く。
「そんな……」
 真次郎の脳裏に、血しぶきを上げて倒れていく人の姿が再生される。そして「きゃー」と叫びをあげて顔に鮮血を浴びる少女。
 血しぶきを浴びて泣いている少女の顔が、沙奈の母親の顔に重なっていく。
 ……そうか、この人は……あの女の子なんだ……。お祖父ちゃん……今この人はお祖父ちゃんと言った……お祖父ちゃん。つまり沙奈さんのお祖父ちゃん。この人の父親、麻里恵の夫だということか。そうか、俺の記憶の中で血を噴き出して倒れていく人は、麻里恵の夫だったのか、俺は……麻里恵の夫を殺したのか……。
「殺されたって? お祖父ちゃんが? お祖父ちゃんは戦争に行って亡くなったって言ってたじゃない、戦争から帰って来たの? それから殺されたの?」
「そうだよ」
「私そんなこと全然知らなかったよ」
「お前が知らなくてもいいことだったんだよ」
 真次郎は呆然として沙奈と母親の言い合いを聞いている。そしてその内容を理解している。
「相沢さんは、何でお祖父ちゃんを殺したの?」
「それはお祖母ちゃんを自分の物にしたかったからだろう。この人の身勝手なんだよ」
「ねぇ、どんな成り行きでお祖父ちゃんは殺されたの? それまでお祖母ちゃんと相沢さんはどんな関係だったの? どうして相沢さんはお祖父ちゃんを殺さなくちゃならなかったの?」
「………」
「お祖母ちゃんにとって、相沢さんは自分の夫を殺した憎い相手だったっていうこと?。でも相沢さんはこんなに愛してたのに、お祖母ちゃんにとっては単なる横恋慕してきたストーカーみたいな人だったってこと? お祖母ちゃんにとって相沢さんはそんなに嫌な存在だったの?」
「だからもう解ったろう? 怪我が治ったらサッサとその人を連れて帰りなさいよ」
「嫌だ。だって、そんなのあんまりじゃない」
「あんまりったって悪いのはこの人の方だろう。ホントのことなんだからしょうがないじゃないか」
「相沢さんはお祖母ちゃんと何処で知り合ったの?」
「もうそんなことどうだっていいじゃないか」
「よくない! だって相沢さんはこんな身体なのにこんなに遠くまで一人で来て、やっとお祖母ちゃんのところに辿り着いたのに……」
「だからそれが迷惑だって言ってるんだよ」
「だから殺そうとしたの?」
「……なんだって? バカなこと言うもんじゃないよ」
「そうなんでしょう。旅館のことだって……」
「だからそれはテーブルに頭をぶつけたから……」
「背中に沢山痣があるのだって、施設にいた時は無かったもの、転んだあとでまたお母さんが蹴ったりしたんじゃないの?」
「何言ってるのよ」
「私警察に言うよ」
「バカなこと言うもんじゃないよ!」
「私ホントに言うよ。今のままだったらただの事故で済むかもしれないけど、昔お祖母ちゃんと相沢さんに関係があったってことが解ったら、警察の人だって本気で調べてくれるかもしれないじゃない」
 母親は怒りに満ちた目でブルブルと震えながら、沙奈のことを睨む。
「……アンタって人は、一体母さんと、自分のお祖父ちゃんを殺したその人と、どっちが大事なんだよ」
「どっちでもないよ、ただ私は昔何があったのか知りたいだけ、お祖母ちゃんと相沢さんは何処で知り合ったの? だって知り合わなきゃ好きになるわけもないじゃない。それじゃお祖母ちゃんはどうなの? 相沢さんのことが好きだったんじゃないの?」
「だからそんなことはもう済んだことなんだから、どうだっていいじゃないか」
「相沢さんとお祖母ちゃんはどんな関係だったの? お母さん知ってるんでしょう? 教えてよ、もう私だって大人なんだから教えてくれたっていいじゃない!」
「……」
 母親はじっと沙奈の顔を睨みながら、何か考えあぐねている様子である。そしてまたふぅっと観念した様にため息をつくと、病室に置かれている椅子に腰を降ろす。
「よし……もうそれじゃ、私が覚えていることと、私が今までにお祖母ちゃんから聞いたことを、全部話してやるから、そこへ座んなさいよ」
 沙奈はもうひとつある椅子を母親の前に置き、向い合う様にして腰を降ろす。


 


第三章 3~4

 

    3

 

 母親は頭の中を整理する様に考えながら、沙奈に話を始める。
「……それはまだ戦争が始まる前の、もうずっとずっと昔のことだけどね、元々この人とお祖母ちゃんとは、アンタも通ってた長町小学校に通ってる同級生だったんだよ。その頃はまだ尋常小学校って言ってたけどね」
 ……長町小学校……真次郎の脳裏にその名前がこだましていく……広い校庭が見えてくる。小学生の真次郎は校庭を駆けずり回っている。青い空と、遠くに山々が見える。あれは六甲山だろうか。振り返ると横長の木造校舎に教室が並んでいる。
 沙奈に話している母親の声が続いている「……この人は悪くってね、お祖母ちゃんはよく苛められたって言ってたよ。お便所に閉じ込められて、ドアの上からホースで水をかけられたりしたって言ってたよ」
 小学生の真次郎は麻里恵を木造の便所の個室に閉じ込めている。押さえて中から出られない様にして、ドアの上からホースでジャバジャバと水をかける。
 中で「いやだ! やめてよ」と麻里恵が言っても真次郎はやめない。中から出て来た麻里恵はびしょ濡れになっている。それでも麻里恵は怒らない「もう~やめてよ」というだけで、困った様に笑っている。
  他にも捕まえて来たバッタを背中に入れようとしたり、お弁当のオカズを取ってしまったり、真次郎の脳裏に、小学生時代の麻里恵を苛めている数々の悪行が映し出されていく。
 でも麻里恵は真次郎に何をされても怒らない。机に落書きをしても、教科書を取り上げて校舎の外へ放り投げてしまっても「もぅ~何でそんなことするのよ」と困った様に言っては取りに行く。
 真次郎がどんな悪さをしても、麻里恵が怒らないので、真次郎の悪さは一層度を増していく。靴箱から麻里恵の履いて来た靴を盗み、校庭の隅にある池に浮かべてしまう。靴は池の縁から離れて手の届かないところに浮いている。それを見た麻里恵は困って立ち尽くしたまま泣き出してしまう。
 真次郎は笑っていたが、麻里恵が泣いたのを見ると仕方がないと思い、裸足になってズボンを濡らしながら池にジャブジャブと入っていく。
 やっとのことで麻里恵の靴を取り、池の外へ投げてやる。麻里恵は「ありがとう」と言って靴を拾う。
 そんな光景が次々と走馬灯の様に脳裏に映し出されて行く。沙奈に話している母親の声が続いている。
「小学校の頃はず~と苛められてたって言ってたけど、一度他所の学校の生徒に苛められそうになった時にね、この人が取っ組み合いの喧嘩をして助けてくれたこともあったって言ってたよ」
 放課後の帰り道、他校の生徒が三人で麻里恵を通せんぼしている。それを見た時、真次郎はいつもは自分が苛めているのに、麻里恵が他の生徒に苛められていると思った途端にムカムカと腹が立ち、走り出して有無を言わせず殴り掛かり、そのまま三人と取っ組み合いになる。
「早く、マリちゃん逃げろ!」
 麻里恵は走り出して角を曲がる。相手が三人なので思う様にやっつけることが出来ない。
 真次郎は地面に倒されて上からのし掛かられてしまう。三人は良い様に真次郎の顔を殴る、足で踏み付けにする。
「ちくしょう、ちくしょう~」
 と暴れながら見ると、麻里恵が曲がった角から顔を出して心配そうに見ている。
 散々にやられた後、三人は行ってしまったが、真次郎は自分が負けたことが恥しくて、麻里恵が出て来て「大丈夫?」と声を掛けても無視してズンズン歩いて行く。

「小学生の頃はそんな感じだったらしいけど、小学校を卒業した時に、この人は二年間の高等小学校へ行って、お祖母ちゃんは五年間の高等女学校へ入ったから、別々になっちゃったんだよ。でもね、この人の父親は植木屋の職人さんで、この人も高等小学校を出てからは植木屋の見習いになって、ウチの旅館にも時々お庭の木の剪定に来てたらしいのよ」
 ……庭の、剪定……十四歳になった真次郎はモミジの木に立て掛けた梯子に登り、選んだ小枝を手で折っては、下に落としていく。そこは麻里恵の実家である桜華園の庭である。他の木でも同じように職人が作業している。その中には真次郎の父親もいる。
「それでちょうどお祖母ちゃんが旅館にいる時に、この人が梯子に乗って枝を切ってるのを見つけてね、お祖母ちゃんが窓から手を振ったら、この人も手を振り返してくれたんだけど……」
 真次郎が梯子の上で枝を切っている時、ふと見ると旅館の二階の窓から十四歳の麻里恵が手を振っている。学校から帰ったところなのか、女学校の制服を着ている。驚いて笑いながら真次郎も手を振り返す。
「でもね、この人は後でそれを見ていたお父さんから殴られてたって言ってたわ」
 真次郎が梯子を下りて来ると、後からいきなりゴツンと頭を殴られる。見ると父親である「コラッ! 旅館のお嬢さんに気安く手なんか振るんじゃない!」
 殴られたところを手で押さえてしょんぼりしていると、物陰から麻里恵が父親や他の職人たちに見つからない様に、そっと手を振り、口の形が「だいじょうぶ?」と言っている様に動く。真次郎は強がって笑顔を作り、大丈夫だという風にそっと手を振る。

「でもそれから何年かしてアメリカとの戦争が始まって、それがだんだん激しくなるに連れて、食べ物も無くなって、旅館の経営も苦しくなっちゃったんだよ。戦争が始まって三年くらい経った頃、お祖母ちゃんが十九歳の時に、旅館に出入りしてた伊丹町の造り酒屋の谷本さんのところへお嫁に行くことになってね」
「十九歳って、お祖母ちゃんはそんなに早く結婚したの?」
「昔はそれが当たり前だったんだよ。谷本さんの息子さんは兵隊さんで中国に行ってたんだけど、満洲から一時帰国してまた南方へ出発することになってたから、その間にお嫁さんを貰わなきゃならなくて、祝言もかなり慌しかったらしいよ」
「ふぅ~ん」
「それからこの人も、十九歳で徴兵検査を受けて、お祖父ちゃんと同じ部隊で神戸の港から船に乗って行ったんだよ」

 グォン、グォン~ゴ~ゴゴゴゴゴゴゴ……。
 地鳴りの様に船のエンジン音が響く。軍服を着た真次郎たちを乗せた輸送船はユラリと動き出し、港を離れて行く。真次郎は大勢の兵隊たちと共に、狭い船室の中でギュウギュウに詰まって座っている。
 これから一体何処へ連れて行かれるのか、上官からは南方にある島だとしか聞かされていない。神戸の街も何度も空襲されているので、敵の飛行機を見たことはあるが、まだ実際に戦場で敵と戦ったことはない。
 兵隊として戦地へ行くことは当たり前のことなので、もう日本へは帰れなくても仕方がないと思っている。恐いとか行きたくないという気持ちが浮かぶこともない。それはすし詰めになって座っている他の兵隊たちも皆同じだろうと思う。
「なにしろお祖父ちゃんは一週間しか神戸にいられなかったからね、祝言を挙げたお祖父ちゃんとお祖母ちゃんの新婚生活は、三日間しか無かったのよ」
「三日間って、そんなの酷い」
「でも当時は出征する前に慌てて結婚する人が多かったから、そんなの珍しいことじゃなかったんだよ。それでもお祖母ちゃんは妊娠してね、お祖父ちゃんが戦争に行ってる間に私が産まれて、お祖母ちゃんはお祖父ちゃんが無事で帰って来るのを信じて待ってたんだよ。お祖父ちゃんは戦地から何枚も葉書を送ってくれたらしいよ。日本の為に自分は死ななきゃならないのに、お祖母ちゃんと私を残して行くのが心残りで、自分は死んでもずっと二人のことを見守ってるって、遺書みたいな内容ばっかりだったらしいよ」
 母親の話を沙奈は神妙な顔をして聞いている。
「それから戦争が激しくなって、神戸もどんどん激しく空襲される様になってね、お祖母ちゃんがお嫁に行って住んでた伊丹町の谷本酒造の家も酒蔵も焼かれてしまって、お祖母ちゃんはまだ赤ん坊だった私を連れてお祖父ちゃんの親戚の家へ非難したらしいよ。だけど食べ物もろくにないし、厄介者みたいに扱われてね、その頃の話を聞くと、ずい分苦労したらしいわよ」
「ふぅ~ん」
 沙奈は母親の話を聞きながら、遠い昔に思いを馳せている様子である。
「その頃お祖父ちゃんの方は南方の戦地で大怪我をしてね、そのまま終戦になって、船に乗って帰って来たんだけど、船着き場に辿り着くまで担架に乗せられて運ばれて、ろくな食べ物も無いし、何日も山の中のジャングルを歩いて、大変な思いをして帰って来たらしいわよ」
 ……ジャングル……そうだ。俺も歩いた。何日も何日も……。
「きっとこの人も、同じ思いをして来たんでしょうねぇ」
 真次郎の視界にジャングルが広がる。そう、それは良く知っている。何度も見ているあのジャングルだ。
 ……もう何日も草の根や木の芽しか食べていない。そして何日もこうして草木の生い茂る中をさ迷っている。軍服もボロボロである。それでも歩くしかないから、俺はこうして歩いている。
 ……途中で道端にうずくまっている戦友を見つけて声を掛ける「おい、大丈夫か?」そいつは顔も上げずに「……大丈夫だ、後から行くから……先に行ってくれ」と言う。こいつはもう歩けない。ここに置いてったら、そのままここで死ぬんだろう。それでも、俺は自分だけ歩いて行く。だって自分だけで精一杯じゃないか……。
 沙奈の母親の話は続いている。
「それでお祖母ちゃんが親戚の家で私を連れて苦労してるうちに、やっと終戦になってね、それからふた月くらいして、お祖父ちゃんたちを乗せた復員船が神戸に着いたんだよ。お祖父ちゃんは大怪我して担架に乗せられてたけど、お祖母ちゃんは何しろ生きて帰って来てくれたことが嬉しくて、おいおい泣いたって言ってたよ」
 真次郎も今、何日も海の上を揺られてやっと戻って来た神戸の港へ、他の戦友たちと共にタラップをガチャガチャ鳴らしながら降りて行く。
「それがね、その時は声を掛けなかったらしいんだけど、実はこの人も同じ船に乗っていて、後から聞いたらその時お祖母ちゃんがお祖父ちゃんにしがみついて泣いてるのを見たんだって言われたらしいんだよ」
 タラップから桟橋へ降りる。出迎えに来た沢山の人が見つめている中を、復員した兵隊たちは皆ボロボロの軍服をまとい、足取りもおぼつかない調子で歩いて行く。
 見ると先に担架に乗せて降ろされていた伍長さんがいる。その身体に赤子を背負った女がすがり付いて泣いている。
 ……ああ、あの人は確か怪我の具合が大分悪くて、船の中で寝たままずっと唸り声を上げていた人だな……無事に帰り着けて良かったな……。
 と思って側を通り過ぎながら、ふと寄り添って泣いている女を見てハッとする。
 ……あれ? この人は……この人はマリちゃんじゃないのか……。
 担架に乗せられた夫の身体に顔を伏せて泣いているので横顔しか見えないが、よく見ると確かにそれは麻里恵である。
 マリちゃん……そうか、マリちゃんはこの伍長さんの奥さんになっていたのか。背中に背負ってる赤ちゃんはまだ一歳くらいかな、旦那さんは怪我をしたけど、でも生きて帰って来れて良かったね。
 思いがけずこんな形で再会したことに、切なさと懐かしさがない交ぜになっている。
 真次郎は泣いている麻里恵の側を、声も掛けずに通り過ぎるとそのまま歩いて行く。真次郎は思う。ああ、本当に日本に帰って来たんだ……。
「どうしてその時は声を掛けなかったの?」
 と沙奈が母親に質問する。
「さぁねぇ、きっと夫婦が涙の再会をしてるから、自分が邪魔しちゃいけないとでも思ったんじゃないのかねぇ、ねぇ相沢さん?」
 とベッドに寝ている真次郎に言うが、真次郎は解かっているのかいないのか、宙を見つめたまま黙っている。
「それでね、そのまま相沢さんは自分の家があった場所まで歩いて戻って行ったらしいんだけど……」
 真次郎はまだ焦げ臭い匂いが漂う中を歩いている。街があった筈の土地が、一面荒涼たる瓦礫の山になっている。一体何処が道だったのか、何処から何処までが一軒の家だったのか、どの瓦礫がどの家の物なのかも解からない。足の踏み場もなく焼け焦げた残骸が、何処までも地面を覆い尽くしている。
「神戸もすっかりやられてたからねぇ、この人の家も全焼して無くなってしまってたんだよ」
 辺りにはまだ燻ぶっているのか煙を立てているところもある。真次郎はボロボロの軍服のまま、ゲートルを巻いた足で歩いている。
 時おり残っている電柱に書いてある番地や、崩れてしまっている見覚えのある建物をたよりに、道を辿って行く。
 ……確かこの辺り……そうだ。確かに、ここだ。家は燃えて無くなっているけれど、焼け残った布団の切れっ端の柄に見覚えがある。玄関と便所の穴がある場所も合ってる……ここに間違いない。
「でもね、家にいるはずのご両親と妹さんが見つからなくて、この人は方々に聞いて回ったらしいよ」
 真次郎は近くを歩いている人に尋ねる「すいません。私は相沢という者ですが、ここに住んでた人が何処にいるか知りませんか?」だがその人は返事もせずに行ってしまう。
 また別の人に尋ねる「あのう、ここにあった家に両親と妹がいた筈なんですが、相沢と言います。何処にいるかご存じないでしょうか?」するとその人は「隣町にある小学校の校庭に避難してるかもしれませんよ」と教えてくれる。
「そうですか、ありがとうございます」と言って真次郎は教えられた方向へトボトボと歩いて行く。歩く先にもずっと焦げた瓦礫が広がっている。
 暫く歩いて、やっと広い校庭の様なところに人が集まっているのが見えてくる。だが近付いて行って真次郎は愕然とする。そこには大きな穴が掘られており、その中に山積みにされた人々の遺体が燃やされている。
「……」
「でも結局ね、この人が散々聞いて回って分かったことは、空襲の時にご両親と妹さんが避難してた防空壕が爆弾で埋まってしまって、中にいた人は全滅したらしいのよ。そのご遺体も全部荼毘に伏された後で、遺留品も何も残ってなかったんだって……」
「そんな、酷い……」
 沙奈が見ると、真次郎はぼ~っとしている。その目には荒涼たる焼け跡が映っている。
 真次郎はただ呆然として、瓦礫の中に佇んでいる。これからどうしたらいいのかも解からない。
「それから暫くしてお祖母ちゃんたちは谷本酒造の家を建て直して、お祖父ちゃんと一緒に住むようになったらしいんだけど、お酒を造る設備も焼けちゃってたからね。すぐにはまた商売を始めることが出来なくて、酒蔵の職人さんたちを使って大阪や三宮に出来た闇市にトラックで荷物を運ぶ仕事を始めたそうだよ。お祖父ちゃんの家は元々トラックでお酒の原料を仕入れたり、作ったお酒を配達したりしてたから、その時の伝手を頼りにずい分派手にやったらしいよ」
「ふぅ~ん」
「その一方でこの人はね、南方の戦地で知り合った人の伝手を頼って、東京に行って運送会社に就職したんだよ」
 運送会社……そうだ。俺は、一人で汽車に乗って東京へ出た。
 駅のホーム。汽笛が鳴り響く。ガコッと衝撃があって、ゆっくりと列車は走り出す。
 真次郎は客車に座って窓外を見ている。生まれ育った神戸の街を離れて行く。メチャメチャに破壊され、黒い焼け野原になった神戸が流れて行く。もう何の未練もない、ここにいても、家族はいない。だが悲しくて涙がポロポロこぼれてしまう。
「さようなら……神戸」
 と真次郎は呟く。見る見る後へと飛び過ぎて行く廃墟の様な神戸に別れを告げる。戦争が神戸の街をこんなにも酷い風景にしてしまった。
「お祖父ちゃんたちは暫く闇市の仕事で荒稼ぎしてたらしいけど、でも四年くらいして占領軍が闇市を廃止にしちゃったからね、また家業の酒造りを始めるしかなかったんだよ」
「ふぅ~ん。皆大変だったんだね」
「そうだよ。それからまた何年も掛かってようやくお酒の製造と販売が戦前と同じくらいの規模に戻って来たのよ。それで東京の問屋さんからも注文が来る様になってね。そしたら東京でこの人が働いてた運送会社で、東京から大阪まで荷物を運送するトラックの直行便が始まって、この人はその運転手になったのよ」
 真次郎はトラックのハンドルを握っている。助手席では同僚が眠っている。潮風が匂う。フロントガラスには青い海が広がっている。
 ……そうだ。これは清水の港だ。
 真次郎はもう二度と、神戸へは帰らないと思っていた。思い出は何も無い。全ては瓦礫になってしまった。でも、今こうしてまた神戸に近付いて来ると、否応も無く懐かしさが込み上げてしまう。
 同僚が寝ている横でハンドルを握りながら、頬を涙が流れては落ちる。
「それでね、伊丹町のお祖父ちゃんの会社から東京の問屋さんまで、お酒を運ぶのに頼んだ運送会社のトラックに乗って、この人が現れたのよ」
「それでまたお祖母ちゃんと会ったんだね」
「そうだよ……」
「オーライ! オーライ! オーライッ……」
 真次郎は運転席から身を乗り出して後方を見る。同僚が声を上げながら手を回すのを見て、慎重にアクセルを踏んでトラックをバックさせる。
 トラックは谷本酒造の酒蔵の中へ入って行く。出来るだけ一升瓶の入ったケースが積まれている側まで、トラックの荷台を近付けたい。
「オーライ……オーライ……はいストーップ!」
 エンジンを止め、手動ブレーキを引くとドアを開けて飛び降りて行く。
 そして同僚と二人で瓶詰にされた日本酒のケースを荷台に積んでいく。木枠で作られたケースひとつに一升瓶が十本ずつ。それを荷台に隙間なく積み上げて行く。
 今真次郎は、その時ケースの縁を握った手の感触も、そのひとつひとつの重みも感じている。額を流れる汗を拭う暇も惜しんで、次々にケースを積んで行く。
 コツン……コツン……と音がするのでふと見ると、酒蔵の入口から誰かが入って来る。その男は杖を突いて、片足を引き摺って歩いている。
 あっ……この人は、あの時の伍長さんじゃないのか! 戦争が終わって帰って来た時、俺と同じ復員船に乗って神戸に着いて。怪我をして担架に乗せられていた。その身体に子供を背負ったマリちゃんがすがり付いて泣いていた……。
 この人がここの社長なのか……とすると、マリちゃんもここにいるっていうことか? 何処に?
 思わず辺りを見回しても見当たらない。ここは仕事場だから、奥さんがここへ来るということはないのかもしれない。
 ようやく荷台への積み込みが終わって一息入れていると、真次郎たちに出すお茶をお盆に乗せて、三一歳になった麻里恵が入って来る。だが最初は真次郎にも分からなかった。その姿は、見る影もなくやつれて別人のようだ。 
 ……この人が本当にあのマリちゃんなのか?
 でも目を凝らしてよく見ると、真次郎には分かる。ああやっぱりこの人は間違いなく麻里恵だ。
 あれから怪我をしたご主人と赤子を抱えて苦労したんだろうか、社長の奥さんと言ってもやっぱり戦後の混乱の中で、大変な目に遭って来たんだろうか。
 じっと見つめていても、目が合っても麻里恵は一向に真次郎に気付いてくれない。それは一生懸命に給仕をしているからなのか、それとも長い年月が経っているので真次郎の顔も変わってしまっているからなのか。それとももう覚えていないのか。いや、そもそもこんなところに真次郎がいる等とは思いもしていないだろうから、無理もないのかもしれない。
 小学生の頃毎日の様に苛めていた麻里恵。そして復員船が着いた時、港で泣いていた麻里恵が、今はこんな風になっていたのかと、言い知れぬ感慨と愛おしさが込み上げて来る。
 真次郎は社長がいなくなってから機会を見計らい、思い切って声を掛ける。
「あのう」
「はい?」
 麻里恵は運送屋の運転手が私に何の様なのかと、ビックリした顔をして真次郎を見る。
「……失礼ですが、奥様。昔、長町小学校に通っていらっしゃいましたよね?」
「はぁ?」
「私の顔に見覚えはございませんでしょうか?」
 麻里恵はきょとんとして、考える様な顔をする。
「実は、俺も同じ学校に通ってまして、奥様の隣の席に座っていたこともあるんですよ」
「えっ……」
「思い出せませんかね」
 そのうちに真次郎を見つめていた麻里恵の目はみるみるドングリの様に見開かれていく。
「あっ……ああ! 相沢君! 相沢君なの?」
 そう言って笑顔になると、途端にあの頃の麻里恵に戻る。
「そうだよ、マリちゃんだろう? 俺同級生だった相沢真次郎だよ」
「なんだ~本当? いやだどうしてたのよ」
 と麻里恵は真次郎の手を取って喜ぶ。
「酷いよなぁ、ちっとも分かっちゃくれねぇんだもの」
「だってぇ、まさかこんなところにいるなんて……」
 病室で沙奈の母親の話す声が続いている。
「……お祖母ちゃんとこの人は元々が小学校の同級生だったから、その頃の懐かしさが手伝って、仲良くなってしまったのかもしれないね」
 小学生の頃あんなに苛めてたのに、麻里恵はそんなこと微塵も気にしていない様子で、真次郎の手をとってぴょんぴょん跳ねながら、懐かしい懐かしいと言って笑っている。真次郎も物凄く嬉しくなって、麻里恵の手を握る。
「おい! 麻里恵!」と怒鳴る声が響く。二人は咄嗟に手を離す。
 カツンカツンと杖を突く音を響かせて社長が現れる。途端に麻里恵は黙ってしまい、小声で「ごめん、また会えるわよね」と真次郎に言って社長の方に向き直ると「はい、只今」と返事をして、小走りにその場を離れて行く。
「……この人のいた運送会社はね、お祖父ちゃんの谷本酒造と契約してたから、それからこの人は月に二~三回トラックで神戸の会社にお酒を積みに来る様になったのよ」
「ふぅ~ん」
 沙奈は興味津々といった顔で聞き入っている。
「それで、この人はお祖父ちゃんの目を盗んでお祖母ちゃんに手紙を渡したりしてね、二人で待合せして会う様になったんだよ。最初の待合せは三宮の花時計だったらしいわよ」
 大通りの脇にある円い花畑が時計の文字盤になっている。長い針と短い針が既に約束の時間を過ぎていることを示している。
 真次郎は神戸までトラックを運転して来たままの作業着姿で待っている。一緒に来ている同僚には知人に会うからと言い、同僚を残して一人で宿を出て来ている。
 カチャンと音を立てて、また長い分針がひとつ動く。時間だけが過ぎてなかなか麻里恵は現れない。
 これ以上ないくらいの大きな時計を見てそわそわしていると、視線の先に駅の方から駆けてくる麻里恵が見えてくる。
 麻里恵は精一杯に着飾って来た。お化粧もして、あの酒蔵で見たやつれた感じとは全く違っている。その表情が、出で立ちが全て真次郎に会うことの嬉しさに満ちている。真次郎は驚き、そんな麻里恵をお花みたいに綺麗だなと思う。
「ごめん、待たせちゃって……」とハァハァ息を切らせて笑う顔が眩しい。恥かしい様な気がしてまともに見ることが出来ない。
 小学生の頃、いつも苛めて泣かせていた、あの麻里恵は大人になって、こんなにも綺麗な女になったのだ。
「そこから二人でタクシーに乗って、六甲山のケーブルカー乗り場へ行って、六甲山へ登ったのよ……」
 山の中の急な斜面をゴトゴトと揺れながらケーブルカーが登って行く。
 真次郎と麻里恵は並んで座っている。こうして二人きりになると途端に会話が弾まなくなってしまい、ただ時々麻里恵が真次郎を見ると、真次郎も微笑みを返す。
 頂上へ着くと外へ出る。すぐ側にある展望台へと歩いて行く。
 麻里恵と並んで、展望台の縁に立ち、遥かに広がる神戸港を見下ろしている。心地良い風が微かに吹いている。並んで見ているマリの横顔、白い項。黒い髪が風でそよいでいる。
「そこでこの人は、実は復員船を降りた時にお祖父ちゃんにすがり付いて泣いてるお祖母ちゃんのことを見たってことを話したのよ」
 真次郎は風に吹かれながら、遠い海を見つめて言う。
「あのなマリちゃん。俺あの日神戸港に帰って来た時、マリちゃんのご主人と同じ船に乗ってたんだよ」
「えっ、本当?」
「うん、あの時、マリちゃんご主人の身体に寄り添って泣いてたよね。あの時俺、本当に戦争が終わって帰ってきたんだなぁと思ったんだよ」
「……」
「御主人は大怪我をしたけれど、こんなに思って帰りを待ってくれる人がいるなんて、ご主人が羨ましいと思ったよ」
 そう言うと、麻里恵は黙って俯いてしまう。どうしたんだろうと顔を覗き込むと、ボロボロと涙を流している。でもその時はまだ、その涙が意味するところは解らなかった。
 麻里恵には酒造会社を経営している立派なご主人がいる。真次郎は麻里恵が自分と恋仲になるだろうなんてことは全く思いもしていない。
 麻里恵は綺麗で、大好きだったが、初めは幼い頃から知っている親戚の様な感情だった。
 そう、真次郎にはもう家族と呼べる人は一人もいなかったから、その寂しさからも真次郎は麻里恵の優しさに魅かれていったのかもしれない。
 その次に会った時、真次郎と麻里恵はそれが当然のことの様にして、また六甲山に登る。
 そこへ行けばまた、二人きりになれることを知っているから。二人並んで、港を見下ろして、そしてキスする。
「相沢君……相沢君……いけないわよ、夫のいる私を好きになっちゃいけないわよ……」
「マリちゃん……好きだよ」
 真次郎にはもう解かっている。麻里恵のご主人は、あの社長は、戦争で怪我をした谷本伍長は、麻里恵のことを女中の様にコキ使い、辛く当たっているのだ。それはまるで、怪我で体が不自由になった苛立ちをぶつける様に、麻里恵に辛く当たっているのだ。
「いけない、いけないわよ……」
 そう言われれば言われる程、真次郎は気持ちを抑えられなくなって、激しくキスする。
 麻里恵は「いけない、いけない……」と言いながら、遂には真次郎の激しさに応えてしまう。真次郎は夢中になって、麻里恵の柔らかい唇を吸う。
「……それからこの人は、東京からお祖父ちゃんの会社にお酒を積みに来る度に、秘密でお祖母ちゃんと会う様になったのよ」
「ふぅん……」
 と沙奈は深く頷く。
「それからついにお祖母ちゃんは、お祖父ちゃんには東京にいる高等女学校の同級生の家へ行くって嘘をついて、東京の阿佐ヶ谷ってところに住んでたこの人のアパートに行ったのよ」
 その日、前もって麻里恵からの手紙で来ることを知らされていた真次郎は、ノックの音に胸を躍らせてドアを開く。
「私、来ちゃった……」
 そこには麻里恵が立って笑っている。真次郎はまるで世界が自分の物になった様な気がする。
 部屋に入れるなり麻里恵を力の限り抱きしめる。麻里恵が「ちょっと、苦しいわよ」と言っても力を緩めない。
 ……好きだ、好きだ、大好きだよ麻里恵……その一心で真次郎の身体の全部が一杯になる。
 麻里恵の温もりを感じている。真次郎の心臓と、麻里恵の心臓の鼓動が重なり、ひとつになっていく。
「ちょっと……苦し……い……」
 真次郎の腕の中で戸惑っている麻里恵の唇を塞ぐ。夢中になって唇を吸う。
「んぐ……んん……っ……」
 二人の唇がクチュクチュと音を立てる。言葉は無くなり、そのまま縺れ合って、畳に転がる。
 それまで二人が会っていたのはいつも外で、展望台ばかりだったから、服を脱ぐのは初めてなのだ。ひとつずつブラウスのボタンを外していく。麻里恵の白い肌が露わになっていく。麻里恵の温もりが、匂いが、生きた女の生々しさが六畳の部屋一杯に広がっていく。
 麻里恵の肌に夢中になって唇を擦り付ける「あっ、ああ~」と麻里恵は呻く。見ると瞑った目から涙が流れている。
「マリ……どうしたの」
「嬉しい~嬉しいよぅ。でも恐い……」
「大丈夫だよ。これからはずっと、ずっと俺が一緒にいるからね。マリ、好きだよ」
 と言って真次郎は麻里恵の身体を開き、自分自身をヌルヌルと麻里恵の身体の中に入れていく。そうして心も身体も、全部が麻里恵と一体になる。
「ああ~~わぁ~~」
 麻里恵は白目を剥いて呻きながら、真次郎の身体に手足を絡ませ、ギュウギュウとしがみ付いている。その力に真次郎は、もう離さない、もう離れないという麻里恵の強い気持ちを感じる。
 真次郎は麻里恵から受け止めたその意志を倍返しにして、麻里恵の身体に撃ち込んでいく。
「マリッ、マリ、マリ、マリ、わあーーーーーっっ……」
「ひぃ~~~~~~」
 真次郎と麻里恵の繋がりを中心にして、世界が回り出して反転する。真次郎と麻里恵はもう離れられない。
「……こんなことは下世話な話だけどねぇ、お祖父ちゃんは怪我をしたせいで性的には不能者になってたんだよ。お祖母ちゃんはまだ三一歳だったから、そんな時にこの人がチョッカイを出して、お祖母ちゃんも幼馴染みだと思って気を許しちゃったんだろうね」
「そんな、偶然そうなっちゃったってこと?」
「そうだよ。この人がまた神戸に来て出会うなんてことがなければ、そうはならなかったでしょうに」
「まあ、それはそうだけど」
「ふん、まさかアンタはまだ男と女のことを、運命だとかなんだとかって考えてんじゃないでしょうね?」
「だって運命には違いないでしょ」
「ふん、だからいつまで経っても子供だっていうんだよ」
「うるさいよ。それで? それからどうなったの?」
「お祖母ちゃんはそれからもお祖父ちゃんに嘘をついては何度も上京したりしてたんだけど、この人もお祖母ちゃんにのめり込んで行って、遂にはお祖母ちゃんは私とお祖父ちゃんを置いて、この人のところへ行っちゃったんだよ」
「へぇ~」
「阿佐ヶ谷にあるこの人のアパートで二人で暮らす様になって、お祖母ちゃんは駅前の商店街にあるスーパーでレジ打ちのパート勤めをするようになったのよ」
 真次郎は都内や近郊までの日帰り運送の日は、仕事が終わると日本橋にある本社にトラックを停めて、そこから阿佐ヶ谷まで電車で帰って来る。
 そして阿佐ヶ谷の駅の改札を出て来ると、スーパーの仕事を終えて待っていた麻里恵が走ってくる。
 麻里恵は銭湯へ行く為のタオルと着替えを用意して来ている。真次郎はそれを受け取り、そのまま手を繋いで商店街を歩く。
 二人で商店街の途中にある風呂屋へ入る。出て来ると一緒にラーメン屋に入り、ビールを飲んで、餃子を食べる。風呂上がりの麻里恵はツヤツヤしていて、屈託なくキャッキャと笑う。真次郎は醤油ラーメン。麻里恵は味噌ラーメン。途中でドンブリを交換して食べる。
 麻里恵のパートが早く終わる日には、麻里恵はアパートで手料理を作り、真次郎の帰りを待っている。夕方帰って来ると部屋の窓から煮物を作る匂いが漂って来る。そして包丁でトントンと野菜を刻む音。
 麻里恵が注いでくれるビールを飲み、暖かい手料理を食べながら真次郎は思う……自分は使われの身の運転手で、家族もいない、これと言って生き甲斐もなく、これからの人生に何かを望むということもない。でも、俺には麻里恵がいる。それだけでいい、他には何もいらないと思う。
 もし真次郎が運転手になって神戸に行かなかったら、再会することも無かった。真次郎と麻里恵は元々家柄も違うし、まともに一緒になろうと思っても、なれなかったに違いない。
 六畳一間の布団で抱き合って寝る。マリの素肌。身体の温もり、心臓の鼓動……流れている汗、荒い息遣い。目を瞑ったまま、麻里恵が呟く。
「いいのかしら……」
「えっ? 何がだい?」
「……私たち、こんなことしてて……」
「いいんだよ」
「でも、晴美は大丈夫かなぁ、今頃ひとりで泣いてるんじゃないかしら」
 麻里恵は神戸に置いて来てしまった娘のことを心配している。
「大丈夫だよ、きっと晴美ちゃんは、お父さんに大事にされてるから、心配いらないよ」
 真次郎は麻里恵にこのままずっとここに居て欲しいので、そう言って宥めるしかない。
「でも私、やっぱり悪いことしてるんじゃないかしら……」
 麻里恵は泣いて、真次郎の身体にしがみ付いてくる。
「大丈夫だよ。俺がついてるよ」
 ……そりゃ世間から見れば、俺たちは許されないのかもしれない、でも、もうそんなことはどうだっていいじゃないか。麻里恵は俺が守ってやらなきゃ、一人じゃ何も出来ない。俺が引っ張り出してやらなきゃ、ずっとあのまま不幸せな人生を歩いていたんだ……嫌、それは違うかもしれない。俺がチョッカイ出しちまったばっかりに、人生を狂わせちまったのかもしれない。そうだとしたら、悪いのは俺だ。
「マリごめんな。俺がお前に手を出しちまったばっかりに、こんなに苦しませることになっちゃったのかな」
「そんなこと言わないでよ。私はこうしてるのが幸せなんだから。私、何も後悔なんてしてないんだから……」
 そう言うとまた抱きしめる腕に力が入り、夢中になってキスする。このまま永遠に時が止まってしまえばいい、このまま二人で死んでしまってもいいと思う。
「でもね、それから二年経って、この人の家にお祖母ちゃんがいるってことが、会社の人にバレて、お祖父ちゃんのところに連絡が入ったんだよ」
「それで?」
「その時私は十五歳だったんだけど、お祖父ちゃんは私を連れて東京に行って、この人とお祖母ちゃんのいるアパートに乗り込んで」
「それで?」
「それで、お祖母ちゃんを連れ戻そうとしたら、この人に包丁で刺されたんだよ」
「!……」
「あの時、この人は父さんの杖を蹴飛ばしたんだよ。そして、父さんが転んで仰向けになったところを、上から包丁で突き刺したんだ。こんな風に!」
 と言って沙奈の母親は立ち上がり、ベッドに寝ている真次郎の胸に拳をドンと叩き付ける。
「ウゲッ」と言って真次郎が身をよじる。
 瞬間「きゃああああ~~~きゃああああああーーーーー!!!!」と叫んでいる一五歳の晴美の顔に真っ赤な鮮血が飛び掛かる。
「ちょっとお母さん何するのよ」と言って沙奈が真次郎の胸に打ち下ろされた母親の拳をつかんで持ち上げる。
 カッと見開いた真次郎の目に、鮮血を浴びて叫んでいる一五歳の晴美の顔が、現在の沙奈の母親の顔に入れ替わっていく。
 ……この人が……晴美ちゃんなんだ。……俺が殺した男と、マリの娘。沙奈さんのお母さん……。
「お父さん! お父さん!」と叫びながら、十五歳の晴美は倒れた谷本の身体を揺すっている。
 そして呆然と立ち尽くしている真次郎の顔を見上げる。血を浴びて真っ赤な顔で、物凄い目をして真次郎のことを睨む。
 アパートのドアをドンドンと叩く音がする「相沢さん? どうしました? 相沢さん? 大丈夫ですか」
 開かれたドアから中を見た近所の住人は仰天して走って行く。暫くするとサイレンを鳴らしてパトカーが来る。外が騒然とした雰囲気に包まれていく。
 雪崩れ込んで来た警察官に、晴美が血みどろの顔のまま真次郎を指差して言う「この人が刺したんです」。


    4

 

 ベッドに横たわったまま目をうつろに開き、宙を見つめている真次郎の顔を、じっと睨む様に晴美が見つめている。
 ……そうか、俺は、この人の父親を殺してしまったのか。まだ子供だったこの人は、目の前で父親を殺されるなんて、どんなに悲しかっただろう。俺はなんて酷いことをしてしまったんだ。
 真次郎の胸にとてつもない後悔の波が押し寄せてくる。真次郎は自分の顔を見つめている晴美に向って言う。
「俺は……マリの夫を、殺したの……か? それじゃ、娘の貴方に……殺されても、文句はいえな……い」
 晴美は驚いた様に暫し呆然とする。そして真次郎の顔を見つめて言う。
「貴方本当に、本当にそう思うんですか? 自分が悪いって、そう思うんですか?」
「はい……本当……に本当に申し訳、ありません。でした……俺は……何かを、謝らなければ、ならないと、感じてた。んです。謝らなきゃって気持ちが、ずっとあった……それが、何なのか……分からなかった。でもやっと、分かり……ました。俺は、麻里恵に、ご主人を、殺してしまったことを……謝らなければ……ならなかった、んですね……」
 ……俺はそれ程までに。麻里恵の夫を殺してまでも、麻里恵を自分の物にしたかったのか。
 ……でも俺は、自分のしたことを後悔してはいなかった。きっと自分の取るべき行動として仕方が無かったんだ……。
 脳裏に「これでいいんだ……これでいいんだ……」と呟きながら木材を電気カンナに掛けている自分が蘇える。
 それが真実なのだ。良くも悪くも自分の人生が解かった。合点がいった。
 晴美はたたみ掛ける様に言う。
「解りましたよ相沢さん。でももう、謝るとかそんなことは結構ですから、どうかこのまま帰って下さい。もう今後は母のことには一切関わらないで、そっとしておいてください、お願いですから」
 ……そうだ。俺は麻里恵には会わせて貰えなくても仕方がない。晴美さんには深く謝って、このまま帰るしかない。
「は、はい、解り……ました。俺は身の程……も知らずに、会わせてくれなんて、本当に……申し訳、ありま……せんでした。諦めて帰ろう……と、思います……本当に取り返しのつかな、いこと……をしました。貴方には、何と……お詫びしたら、いい……のか、も分かり……ません。本当に、ごめんなさい。これ……で俺が何故、刑務所……に入ってたのか……も分かり……ました」
 そう話す真次郎をじっと見ている沙奈は目から涙を流している。
「相沢さん。相沢さんは、本当に私のことを、若い頃の麻里恵お祖母ちゃんと間違えて、お話してたんですね」
「……」
「相沢さんがお祖父ちゃんを殺したのは、お祖母ちゃんを自分の物にする為だったということなんですね」
 黙っている真次郎を横目に、晴美が口を挟む。
「分かっただろう。この人はね、私にとっては、父さんの仇なんだよ。アンタにとっては、お祖父ちゃんの仇」
「でも、そうだとしても、相沢さんはもう刑期を務めたんだから、警察の判断で釈放されたんじゃないの。もう許されたんじゃないの?」
「違う……俺は、こんな、か、身体になった……から、見放され……た。だけ……だ」
「相沢さんは確かにお祖父ちゃんを殺したのかもしれないけど、それだけお祖母ちゃんを好きだったってことでしょう? それならお祖母ちゃんだって、相沢さんに会いたいと思ってるかもしれないじゃない」
「何言ってるの! まだ分かんないのかい! お前は自分のお祖父ちゃんよりもこの人に味方するっていうの!」
「沙奈さ……ん。もういい……んだ。施設、へ帰ろう。俺はもう、解かったから、これで、いい……んだ。俺は、あそこ……で死ぬ……それでいい……」
 その言葉を聞いた晴美は、ホッとした様に安堵した顔で真次郎を見つめる。だが沙奈は諦めずに晴美に言い募る。
「私、今初めて解ったの」
「何がよ?」
「お祖母ちゃんが、どうしていつも、ひとりでいる時は物静かで、今にも消えてしまいそうなくらい儚ない感じがしたのか、不思議だった。なんでお祖母ちゃんは、いつも自分がそこにいるのが申し訳ないみたいにしてたのか。身体を小さくして、悲しそうに笑ってた。お祖母ちゃんも、もしかしたらずっと相沢さんのこと思ってたんじゃないの?」
「そんなことある訳ないじゃないか」
「どうしてよ。お祖母ちゃんは相沢さんのことを好きになってしまったから、相沢さんがお祖父ちゃんを殺すことになってしまったことを、自分のせいだと思って、自分が悪いのにって思って、罪の意識に苦しんでたんじゃないの?」
「そんなの違うよ!」
「それじゃお祖母ちゃんには何も罪は無かったっていうの? お祖母ちゃんだって母さんとお祖父ちゃんのことおっぽり出して相沢さんのとこに行ったんじゃない。お祖母ちゃんにだって罪はあるじゃない」
「沙奈、お願いだよ。もうお願いだから許してよ。ねぇもう許してやっておくれよお願いだから」
「許してって、変じゃない? どうして? だって殺したのは相沢さんなんでしょう? それで何故お母さんが許してなんていうの? 相沢さんはもう充分自分のしたことが解って、反省して帰ろうって言ってるんじゃない」
「だからもうお願いだから、もうお終いにしてよ」
 そう言いながら晴美はボロボロと涙を流す。その言葉は泣き声になっている。その声を聞いていると真次郎には、また申し訳ないことをしてしまったという思いが込み上げてくる。
 病室に晴美がすすり泣く声が響き、沙奈も黙ってしまう。沈黙が流れる。沙奈が気持ちを落ち着けて話し始める。
「……ねえお母さん。恐いことだけど、相沢さんは、お祖父ちゃんを殺してでも、お祖母ちゃんと一緒になりたかったんでしょう? お祖母ちゃんだって、駆落ちするくらい相沢さんのことが好きだったんだから。また会いたいと思ってたのかもしれないじゃない。相沢さんだってもうこんなヨボヨボのお爺ちゃんなんだから、私会わせてあげてもいいんじゃないかと思うの」
「そんなことしたら、お祖母ちゃんまた気を失って、下手したら今度こそ死んでしまうかもしれないよ」
「最初はきっとびっくりし過ぎて気を失ったんだよ。でも落ち着いてからちゃんと話しておけば、大丈夫かもしれないじゃない」
「違うよ、死んじゃうよ、今度こそ死んじゃうよ。お祖母ちゃん死んじゃうよ~」
 懇願するように言う晴美を余所に、沙奈は真次郎に話し掛ける。
「ねぇ相沢さん。今お祖母ちゃんもこの病院の中にいるんだよ。今私がお祖母ちゃんのいる病室まで連れて行ってあげるから、ね、一緒に行こうよ」
「ダメだよ! お祖母ちゃんはまだ意識も戻らないんだから」
「それじゃ寝顔だけでも見せてあげてもいいじゃない」
「沙奈さん……」
「なぁに相沢さん」
「……ダメだよ……俺には……マリに会う、資格は……無いから……」
「……分かりました。それじゃ相沢さん。お祖母ちゃんの意識が戻ってから、聞いてみて、もしお祖母ちゃんが会ってもいいって言ったら、会ってもいいでしょう?」
「いや……」
「お医者さんが言うには、お祖母ちゃんは精神的なショックを受けて一時的に意識を失ってるだけだから、点滴して意識が戻れば大丈夫だって仰ってるんです」
「だけど……そんな……」
「相沢さん。私は無理にでも相沢さんをお祖母ちゃんのところまで連れて行くからね」
「沙奈! アンタはどうして私の言うことが解らないの!」
「だって、会うのが本当に嫌かどうかお祖母ちゃんに聞いてみなけりゃ分からないじゃない!」
「だからもう、お祖父ちゃんのことはお祖母ちゃんに思い出させたくないって言ってるじゃないか!」
「そんなこと、もう相沢さんに会っちゃったんだから思い出しちゃってるでしょう?」
「もうやめておくれよお願いだから」
「だってお母さん。お祖母ちゃんだってホントは相沢さんに会いたいと思ってるかもしれないと思わない?」
「そんなことある訳がないじゃないか。だったら何で見た途端に気絶したんだよ」
「だからそれは、突然だったからビックリしたんだよ。私が前に電話で相沢さんのこと話した時も、お母さん本当はお祖母ちゃんに相沢さんのこと言わなかったんでしょう」
「当たり前じゃないか」
「だから、まさかここに相沢さんが訪ねて来るなんて思ってもみなかったから、ビックリして倒れちゃったんだよ」
「お祖母ちゃんが今更この人に会いたいなんて思ってる訳ないよ」
「どうして解るのよ! 私ね、こんなこと言っちゃ悪いけど、相沢さんもお祖母ちゃんも、もうこの先そんなに時間が無いと思うの。だからね、最後に悔いが残ら無い様に。人生にやり残した後悔が無い様に会わせてあげた方がいいと思うんだよ」
 晴美は顔を激しく横に振ると、沙奈が訴えることを吹っ切る様にして言う。
「お前が何を言ったって、この人は父さんの仇なんだから、絶対にお祖母ちゃんに会わせる訳にはいかないよ!」
 そう言われた沙奈は、真次郎の顔を見て尋ねる。
「ねぇ、相沢さん。相沢さんはお祖父ちゃんを殺してでも、お祖母ちゃんと一緒になりたかったんですよね。それくらいお祖母ちゃんのこと愛してたんだよね、そのことは私がよく解ってます。だからもう一度お祖母ちゃんに会いたいと思ったんですよね。それだけですよね、お祖母ちゃんに謝りたいんですよね。今更お祖母ちゃんに何かして、苦しめてやろうなんて気持ちがある訳ないですよね」
「……沙奈さん。俺は……もういい、もう……何も望まない……もういい……いいんだよ」
「何がいいんですか! せっかく施設を抜け出してまで、ここまで来たんじゃないですか、駆け落ちしたくらいなんだから、お祖母ちゃんだって相沢さんに会いたいと思ってるかもしれないじゃないですか!」
「ごめん、なさい……沙奈さん。俺は悪いことを、しまし……た。本当に、ごめんなさい……こんなところへ、来なければ、よかった……んです。本当に、ごめんなさい……ごめん、なさい……」
「うっ……くっ……くくっ……ううううううう~~~~」
 驚いて見ると、晴美が突然呻き声を上げて、身体を前へ折り曲げて椅子からドタリと転げ落ちる。
「うう、うううう……ああああ~~~」晴美は泣き崩れる。病室の中に号泣する声が響き渡る。
 驚いて沙奈は晴美を見る。
「あああああああ~~~~~も、もう、いいじゃありませんかぁ~もういいじゃありませんかぁ~~~~お願いですよう。もう許して下さいようお願いだからぁぁぁぁぁぁぁ~~~~」
「許してって、何が? お母さん、おかしいでしょう。許して欲しいのは相沢さんの方なんじゃないの?」
「ごめんなさい! ごめんなさい相沢さん……貴方を恨むだなんて、まったく逆ですよね……でも私は、折角ここまで来た貴方を殺そうとまでしました。ああもう絶対に……私は、私は許して貰えませんよねぇ……」
「お母さん。どういうことなの? 許して貰えないって? どうしたっていうの? なんでそんなに泣いてるの?」
「ごめんなさい……はあごめんなさいごめんなさいいい~~~~~」
「だからどうしたって言うのよ!」
「お祖父ちゃんを殺したのは……お祖父ちゃんを殺したのは、この人じゃなかったんだよう……この人じゃ……」
「えっ、相沢さんじゃなかったって、どういうこと……?」
「うっ、うっ、うっ、うううううう~……」
 泣き崩れた晴美はくぐもった声を出して呻きだす。言葉を発することが出来なくなっている。
「……ねぇお母さん。説明してよ。お祖父ちゃんを殺したのは相沢さんじゃないって、どういうこと?」
「……」
 俯いたまま黙っていた晴美は、ようやくむっくりと顔を上げると、疲れ果てた顔をして沙奈を見つめる。
「……解ったよ。それじゃもう、本当のこと話すから……でも、これから話すことは、絶対誰にも言わないって約束してくれるかい?」
「そんなの聞いてみなくちゃ分からないけど」
「……それじゃ話す訳にはいかないよ」
 そう言われて沙奈は考える顔をする。
「……分かったよ。そのことは誰にも言わないって約束する。けど、それを聞いたからって相沢さんをお祖母ちゃんに会わせるのをやめるかどうかは分からないからね」
 晴美はじっと真次郎の顔を見つめる。何か決心を固めるように眼を瞑り、深呼吸をする。そしてひとつ大きく頷いて眼を開くと話始める。
「それじゃ話すから……私の父さんは確かに殺されたけど、本当はね、父さんに包丁を刺したのは相沢さんじゃないのよ」
「それじゃ誰が刺したの?」
「……」
「ねぇ誰よ!」
「だから……お祖母ちゃんだよ……」
「……どういうこと?」

 バリバリバリガガガーン!

 真次郎の中に雷鳴が轟き渡り、目の前が真っ白になる。身体に電流が駆け巡る。それは麻痺している筈の右半身にも伝わり、全身がビクビクと震える。
 ……お祖父ちゃんを殺したのはお祖母ちゃん……お祖父ちゃんを殺したのは……俺じゃなく、沙奈さんのお祖母ちゃん、マリ……麻里恵が刺した……。
 真次郎のアパートで、あの男が、谷本が片手で麻里恵の腕をつかみ、外へ連れて行こうとしている。嫌がる麻里恵の顔を谷本は何度も殴りつける。麻里恵が暴れて、弾みで谷本の杖を蹴飛ばし、谷本が倒れる。
 恐怖に引き攣りながらそれを晴美が見つめている。
 麻里恵は流しから包丁を持って来て、転んだ谷本の上に馬乗りになる。
 真次郎は叫ぶ。
「バカ! やめろー」
 麻里恵は振り上げた包丁を突き下ろす。
 ズブーッ……。
「ぎゃあーーーーーーー!!!」
 谷本の絶叫が響き渡る。
「麻里恵ーーーっ!」

 

 

 



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