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神谷内香織は自分を知りたい

 自分ほど信用ならない存在はこの世にないだろう。
 自分を理解しなければならない。監視しなければならない。制御しなければならない。
 そうしなければ、そいつは、自分の大切なモノを、損なってしまうから。


最終更新日 : 2015-06-07 00:40:06

 一人の学生が目に入った。

 気だるい昼下がり。
 いまいち爽やかとはいえない半地下の食堂。
 二週間前よりは、ややましになった学生たちの喧騒。
 お昼を一足早く食べ終わった僕は、図書館で時間を潰そうかと階段を登っていた。
 何気なく、本当に無意識に、ふと階下のホールに向けた視線が。

 奪われた。

 僕の目は、彼女に釘付けになった。

 

 喧騒が一気に遠ざかる。視野が、意識が狭窄する。彼女の姿以外の全てが、意識から消える。

 手をやや大きく振って、軽やかな足取りで歩く女子学生。
 赤いネクタイにブラウンのジャケット、それと合わせたパンツルックは、いかにも彼女が着ていそうな服装だ。いつも同じ所が跳ねている短い黒髪、いや、光の加減によっては灰色にも見える、不思議な色合い。そしてよく動く大きな目。

 それは間違いなく。

 間違いなく、神谷内(かみやち)香織、その人であった。

 つまり、僕はその日、学生食堂の吹き抜けから。


 僕自身を目撃した。


最終更新日 : 2015-06-07 23:16:10

 いびつな階段を上り詰めてゼミ室に入ると、先輩二人が先に来ていた。三階まで階段を登るとじわりと汗が出てきていて、僕は上着を脱いだ。これは夏が思いやられるなぁ、と思う。
 外観こそ文化財っぽいが中はただの老朽化物件であるところのこの建物は、夏暑く冬寒い。ゼミ室の冷房はもちろんついておらず、大きな扇風機がガタガタと震えながら首を振っていた。冷房のリモコンには、『単著の数だけボタン操作可能』と書いた紙が貼ってある。単著の数か。指を折って数えてみたところ、指が折れなかった。ゼロだった。僕は冷房を諦めた。
「おお? うーん?」
 僕がカバンを置くか置かないかのうちに、みとはちさんが僕の前に立ちふさがり、全身を舐め回すように見つめる。
「おはようございます……あの、舐め回さないでください」
「舐め回してはいない」
「でも視線が」
「じゅるり」
 舐め回していた。
 背の低いみとはちさんが僕を見上げる。眼鏡の奥の瞳は、なにやら好奇心に満ちている。僕の格好がそんなに面白かっただろうか。
「香織っちは、一日に何度も着替えたりしないよね」
「え。そんなに何回もということはないですが」
「具体的には何回着替えるのかな?」
「えーっと……普通は朝と」
「着替えの手順を説明してもらっていいかな?」
「いえ」
「下着を脱ぐときは右足からかな?」
「あの」
 みとはちさんが僕に迫るが、ちょっと距離が近すぎるので部屋の反対側から草苅さんがめっちゃ怖い目で見ている。命が危ない。殺すのはよくない。
 みとはちさんはそこで言葉を切って僕から離れ、ソファに小さな身体を投げ出す。

 ブゥウン……と、扇風機の首がこちらを向く。
 生ぬるい風が僕の汗を冷やす。ボタンのところに『今まで食ったパンの枚数』と書いてある。扇風機は自由に使っていいらしい。

「……いやね、香織っちにものすごく似た人を見かけたんだよね」
 僕の心臓が一拍跳ねる。彼女はさっきよりも幾分低い声で続ける。
「それはもう、ものすごく似ててさ。いや似てるっていうか、むしろ最初、香織っち本人だと思ったんだけど、なんか私を無視して行っちゃったし、それに今の服装と違うからさ。一応早着替えの可能性をさ」
「みとはちさん、そこは普通に、『さっき中央食堂にいた?』とか聞くべきなのでは」
「そう言われてみればそうだねぇ」
 どうやらさっきのは、見間違いではなかったようだ。
「あれ、でもさ」
 みとはちさんが身体を起こして言う。
「中央食堂って、言ったっけ?」
「……いえ? 僕がさっきまで中央食堂にいただけです」
 僕はしらばっくれる。
「あそう? でも早着替えしてないんでしょ? じゃあやっぱ他人の空似で、しかもニアミスか」
「私はそんな人見たことないけどな」
 言ったのはもう一人の先輩、草苅はるかさんだ。僕とみとはちさんとの距離が危険水域から脱したのでもう睨んではいない。ちなみにあの睨み機能は無意識らしいのではるかが悪いわけではない、愛ゆえに仕方ないことなのだ、はるかが悪いわけではないのだ、と、みとはちさんが言っていた。じゃあ悪いのは貴方だ。
「そんなに大きいキャンパスじゃないし、そこまで似てる人なら会ったことありそうなものだけどね」
「まぁそうなんだよねぇ。新入生かな」
 新入生という可能性は、ある。
 まだ五月。連休明け。
 新入生たちが大学に毎日通う必要性の有無について認識を改め始める頃合い。やっと生協や食堂が少し空き始める季節。大学が大学らしい平常運行に戻る季節。
 いや。
 ありえない。
 あれは似ているなんてもんではない。
 他人の空似では説明をつけられない、と僕は思う。
「しかしまぁ、本当に似てたから、あれは」
「いるものなんですね。似てる人って」
 ははは、と僕は笑ってごまかす。
 どうして僕は、ほかならぬ僕自身がその人物を目撃したことを、先輩に伏せているのだろうか。
 それはもちろん、見てはいけないモノを見た、という感覚に囚われているからだ。
 あれは普通ではない。
 普通ではないものに触れてしまった時のあの感覚。
 胃が引き攣る感覚。
 脳の内側がざらつく感覚。
 彼女は普通ではない何かであり。
 僕だ。
 自分だ。
「そうだねえ。香織っちはちょっと気をつけないと」
「……気をつける、というのは」
 みとはちさんはソファにだらしなくもたれかかったまま、眼鏡をくいと上げてこちらを見る。
「自分のドッペルゲンガーに出会うと、死ぬっていうからさ」

 ブゥウン……と、扇風機が首を振る。

 ガチャリ、と戸が音を立てて開く。
「遅くなりました」
 長い髪をゆらゆらさせながら、稲荷木燈花(とうかぎとうか)がゼミ室に入ってきた。相変わらずの細い声に消えてしまいそうな透明感で、あの階段を踏破してきたとは思えない。本当に重量があるのだろうか。地面から五センチくらい浮いてないだろうか。絶対浮いていると思う。燈花の足元を見る。可愛いブーツだった。浮いていなかった。
「揃ったね」
 草苅さんが立ち上がって言う。背が高くて背筋がピンと伸びている草苅さんが立ち上がると、なんとういか、涼し気なSEが鳴る気がするな、と思って、いやでも暑いけど、と僕は頭のなかで付け足した。もう冷や汗は引いている。
 この自主ゼミのメンバーは、草苅さん、みとはちさん、燈花、そして僕の四人。
 先輩二人が四年生、僕と燈花が三年生。
「今日のテーマは、えーと? ドッペルゲンガーだっけ?」
「……ドッペルゲンガー?」
 相変わらずソファに気だるげに身体を預けているみとはちさんの軽口に、燈花がきょとんとする。目をぱちくりとする。
「ドッペルゲンガー。生き写し。影患い。自己像幻視。自分と同じ姿形をした人物が、もうひとり」
「いえ……ドッペルゲンガーは知っていますよ。でも、あれ、今日って私の番ですよね?」
 燈花が首をかしげる。
「うん、今日は和風だ。八恵、もういいから始めるよ」
 八恵(やえ)というのはみとはちさんのことである。というか八恵が本名である。へーい、とみとはちさんが返事をしてソファに座り直す。
「なんか、僕にそっくりの人を見たんだってさ、みとはちさんが」
 まだ首が傾いたままの燈花に声をかけてやる。
「香織にそっくりな人、ですか」
 角度がかえって増した。首をまっすぐに立てなおしてやる。僕が細い首をぐいと触ると、燈花は小さく「ん」と鳴いた。は、なんだこのいきもの。
「あっれ!」
 紅茶コーナーに手を伸ばしていた草苅さんが叫んだ。紅茶コーナーというのは学部生一同の共同出資により設置された非営利事業の通称である。
「私が楽しみにしていたマンゴーフレーバーティーが!」
「あー、はるか、それなら昨日最後の一袋を香織っちが」
「心当たり無いですね。ひょっとして僕のドッペルゲンガーでは」
 昨日ゼミ室に来なくてよかった、来たら鉢合わせて死んでましたね、と僕は言った。
 死ぬのは良くない、とみとはちさんが応じた。

 *

 なぜ自主ゼミか。
 僕たちの担当教員であるところの藤木先生が、もう二ヶ月も大学をあけているからだ。サバティカル休暇だそうだ。僕たちにそれを通知した教務課によれば、失踪癖があるとのことだった。失踪はサバティカルではなかった。
 先生の専門は西洋の半人半獣伝承。特に、人狼。ゲームに出てくる、村人を襲って、逆に村人に処刑されて、占われたり狩人に阻まれたりするやつ、あれだ。ルーマニアの山奥とかそういう所に行っているのではと巷で噂である。ルーマニアの山奥に何があるのかは知らない。どちらかというと人狼よりも吸血鬼とかがいそうだが、どうだろう。生きて帰ってくるといいのだが。帰ってきてくれないと僕たちの学位はどうなる。
 だが、先日みとはちさんのパソコンに連絡してきた時に添付されてきた自撮り写真は、背景の町並みにどう見ても中国語が映り込んでおり、みとはちさんが即座にグーグルマップで香港であることを特定していた。ルーマニアの山奥ではなかった。研究室に席が残っているうちに帰ってくるといいのだが。帰ってきてくれないと僕たちの学位はどうなる。自撮り写真の藤木先生は無精髭でマンゴータピオカジュースを吸っていた。ルーマニアの山奥ではなかった。あとみとはちさんは、先生が使用している自撮り棒のモデルも無意味に特定していた。ブルートゥースでシャッターが切れる、ちょっといいやつだった。みとはちさんはそれをほしい物リストに登録して、「はるかぁ」と言った。草苅さんがにこにこしながらスマホをいじっていた。僕はちょっと引いた。お急ぎ便だった。みとはちさんがはるかは悪くないのだと言った。悪いのは貴方だ。三日後、飽きられた自撮り棒はゼミ室の棚に安置された。
 授業に関しては他の科の教授陣もいるし、頼れる院生とかもいるし、まあなんとかなるのだが、それにしたって勉強できることが少ないではないかということで、学部生だけの自主ゼミも始めることにした。というか真面目な草苅さんが勝手にそう決めており、何しろ学部生は四人しかいないし、僕だけ参加しませんというわけにもいかない。
 始まりはそんなだったが、これがなかなか面白い。
 順番を決めて各自文献を持ち寄り、それについて検討や文献調査をしていく。今のところフィールドワークまで行くほどの熱意と資金力が足りていないが、それでも毎回盛り上がって、僕は楽しかった。まあ、最初の目的意識からすれば、かなりラフな会になりつつあり、学科の外の友達とはなかなか話せないマニアックな話をする場、と化している感もあったが。いやマニアックな話にすらならずただお茶とお菓子でだらだらしている可能性さえあったが。というかさすがに自主ゼミって言ったって本当に学部生だけしかいないんじゃゼミなのかどうか甚だ怪しい。ただの自習グループである。猫の集会と変わらない非合法組織である。だからこそ楽しいのかもしれない。せっかくゼミに入った瞬間に藤木先生がどっかへ行くと聞いて初めはかなり落胆したけれど、今は毎週楽しみだった。

「今回の私のは、ちょっと皆さんのとは違うのですが」
 そう言いながら今回の担当である燈花が資料を配った。A4の分厚い紙束がホッチキスで止まっている。
「あれ、文献じゃないの?」
 配られた資料は文献のコピーとかではなく、パソコンから打ち出したもののようだった。最初のページはレジュメのようだったので、初めの数枚だけがレジュメなのかと思ったが、最後のページまで同じ調子の印刷だ。
「はい、実は今回のお話は、私が収集してきたものです」
「え」
 一同固まった。
「収集してきた?」
「はい」
 燈花は普通の表情で言ってのけた。
「これは××県の××という地域に伝わっている民話です。先週のサバティカルを利用して、行ってきました」
 それは多分、サバティカルではなかった。
 ゴールデンウィークだ。


最終更新日 : 2015-06-10 22:32:33

 藤木ゼミ 自主ゼミ
 担当 学部三年 稲荷木燈花
 二〇××年五月十一日

 ××地域における妖狐伝承について

 今回の自主ゼミでは、××地方における妖狐伝承について扱いたい。担当者は今年五月初頭、××県××において当該伝承の収集を行った。
 ××における妖狐伝承は、その時代設定が比較的新しいことからして、背景には江戸時代に流行した玉藻御前伝説があるものと思われる。オサキや管狐のような、「人に憑く」「家に憑く」というものではなく、あくまでこの妖狐の特定個体についての物語であるという点も、この推定を裏付けるだろう。
 また、今回議論の題材としたい興味深い点であるが、この妖狐伝説の変形したものは現代においても現地の小中学生の間で語られており、いささか都市伝説にも近い様相を見せる。(といっても、××郡は小さな集落の点在する土地であり、『都市』とは程遠いのだが)
 以下、地域の高齢者に取材したA群と、小中学生に取材したB群にわけて紹介する。


 資料A1

 語り手 七十代 女性
 取材日 二〇××年五月一日

 ※資料中の方言は共通語に適宜置き換えた。

 昔々、このあたりの山には一匹の九尾の狐がいた。この狐、もともとは九尾の力を持つ強い妖怪ではあったが、いたずらに人々を化かしたり襲ったりすることはなく、むしろ山奥で静かに暮らしていた。人と関わることは稀であった。
 けれどもある時、藤吉郎という猟師の男が山でこの妖狐とはち合わせてしまった。ふつう、そういうとき猟師たちは腰を抜かして死に物狂いで逃げたものだ。だが藤吉郎は変わった男で、なんとこの妖狐に一目惚れしてしまったという。妖狐が美しい女に化けて誘惑したというわけでもない。妙な男である。初めは相手にしなかった妖狐だが、毎日毎晩と山に通う藤吉郎に最後には根負けし、妖狐は藤吉郎の子を身ごもってしまう。
 九尾の妖狐ではあったが、長年の隠遁でその力も弱まっていたのであろうか、人の子を無事に産むことは出来ず、赤子を残して妖狐は死んでしまった。妻を失った藤吉郎は、半分人間、半分狐の赤ん坊を育てかね、すぐに森に捨てて去ってしまった。藤吉郎はそれから一年もたたぬうちに病に臥せるようになり、やがて死んだ。九尾の妖狐の祟りだと噂された。
 それで、十年ほど経ってからであろうか、村に不思議なことが起こり始めた。
 仲違いである。
 これまで仲が良かったはずの夫婦が大げんかをする。家同士のつきあいが悪くなる。猟師たちの組合が揉めに揉める。青年団の喧嘩が大抗争に発展しけが人まで出てしまう。
 言った、言わない、の争いであることが多かった。すれ違いざまにとんでもない暴言を吐かれたと思ったら、翌日相手は知らん顔をしている、などというのが争いの始まりになっていた。ある時など、親子の仲違いが村全体を巻き込んで、息子が縁を切られて村を出るまでになったこともある。
 噂が流れた。
 半妖狐の娘が人間を恨んでいる。
 このところ人の争いが多いのは、彼女が人に変化し、人々の仲を引き裂こうと悪さをしているのだ、と。彼女は人間に裏切られたと考えている。事実、彼女とその母親は藤吉郎に裏切られたのだから無理もあるまい。だから人間同士を引き裂こうとする。人間が人間を裏切るように仕向ける。この半妖狐、すこぶる人に化けるのがうまく、姿形だけでなく、喋ることも何から何まで本物そっくりになれるのだという。物陰から一目見れば、姿の見分けがつかぬほど化けられる。二歩歩くのを見れば、動きまで余すところなく写し取る。三言喋るのを聞けば、物言いから頭のなかまで真似られて、誰にも区別が付けられなくなってしまう……。


取材者註
 この妖狐伝承における原型とも言えるストーリーを最も簡潔にまとめているものとして、この女性の話を一つ目の資料とした。以下、資料A2からA9まで、多少の差異があるものの同様であると認められる民話を取材した。後半については実際に起こった事件として語られているため、民話というよりも伝説に近い。いずれも、「妖力を持つ狐と人間の猟師の間に生まれた半妖狐が人間を恨み、人間に化けて仲違いさせるという陰湿な嫌がらせを行う」という点が共通している。
 また、この半妖狐を退治したというエピソードは一件も収集されなかった。A7においては退治を試みたが失敗している。したがってこの妖狐は未だ生ける怪異ということになる。ただし、資料Aの語り手である高齢の方々は、小さい頃から伝わっている話だが、さすがにこの二十年ほどは出たという話は聞かない、と話した。逆に言えば二十年と少し前という具体的な時期に対して出現の情報があることになり、これもまたこのエピソードの伝説性を強調している。


 資料B1

 語り手 十代(小学校五年生) 女性
 取材日 二〇××年五月三日

 ※資料中の方言は共通語に適宜置き換えた。

 うちの学校では、アシキっていう狐の妖怪が出ます。アシキは人のふりをするんです。けれど、本当は大きな尻尾が九本ある、白と金色の狐で、人間を恨んでいて、人間の友情を壊しにやってくるんです。アシキは人に化けるのが上手いので、人に化けて、その人の友達にひどいことを言うんです。
 私も三年生の時に、クラスの友達に化けたアシキが出たことがあります。Aちゃんが友達と三人で、放課後の校庭で遊んでいたら、Bちゃんが来て、一緒に遊ぼうと言ってきて、でもそうしたら突然、Aちゃんに悪口を言い始めたんです。もともと二人は仲が良かったので、周りの友達も、Aちゃんも、びっくりしました。Aちゃんにはその時クラスに好きな男の子がいたので、Bちゃんはそのことをからかうようなことを言ったり、Aちゃんは性格悪いとか、男の子たちもそう言ってたとか、ひどいことを言ったんです。それでAちゃんは怒ったんですけど、Bちゃんはすぐどこかへ行ってしまいました。でも実はその日、Bちゃんは具合がわるくて放課後はずっと家にいたそうです。校庭でBちゃんがどこかへ行ってしまった後、地面に白と金色の長い毛が落ちていて、だからきっとあれはアシキに違いないって噂が流れました。
 アシキは人に本当にそっくりに化けるので、見分けることは出来ないけれど、突然ふらっと現れるので、「ここに来る前にどこにいた?」と聞かれると、答えられないんだそうです。だから、突然悪口を言われた時は、私も友達もみんなそうやって聞きます。


取材者註
 資料B1以下、B6までが現地の小中学校の生徒に取材した内容である。「妖狐が人に化けて悪口を言い、仲を引き裂こうとする」という点で明らかに資料Aの半妖狐伝説が元になっていると考えられるが、その出自部分、半人半妖ゆえの恨みといった設定は抜け落ちている。
 資料Aではこの妖狐に名前はついていなかったが、子どもたちの間では「アシキ」という名前で呼ばれていた。都市伝説化にあたって名前がつけられたものと考えられる。


問題
 以上の資料を受けて、今回のゼミにおいて以下の問題を提起し、議論の題材としたい。
 資料A群からB群への伝承の変化について考えたい。
1.取材者はB群を都市伝説的であると感じたが、何がそう感じさせているのか。
2.また、なぜそのような『都市伝説化』が生じたと考えられるか。

 *

「面白いじゃん!」
 みとはちさんが叫んだ。
「何で一人でこんな面白い事やってるのさ、燈花ちゃんは! 抜け駆けはずるいよ!」
 僕も驚いた。それなりに量があるし、時間がかかる作業だったはずだ。取材日の記録を見ても、連休をいっぱいいっぱい使ったことがわかる。
「どうして××県なの? 実家とか?」
 草苅さんが尋ねる。
「はい、父の出身の近くです。といっても、父の実家とは元々ほとんど交流がなくて、今回も親戚のところに泊まったとかいうことではないのです。ただ、父からこの話の断片を聞いたことがあって、面白そうだなと思いましたので」
「へええ……」
 僕は感心してしまった。
「しかし、だ」
 草苅さんが言った。
「これ、特にこの問題提起なんだけどさ、これはつまり都市伝説を考察しようという提案だよね。うちのゼミ的に若干外れるような気が」
「えーいいじゃん面白いし。せっかく燈花ちゃんが持ってきてくれたんだし。だいたいうちのボスの専門だって怪しい系だし。このゼミも都市伝説みたいなもんだし」
 このゼミは都市伝説みたいなもんではなかった。多分。
「あ、いえ、この問題提起は軽く書いてみたものなので……」
 燈花は自信満々のテキストを提出した割には腰が低かった。
「うーん。香織はどう思う?」
 草苅さんが僕に振る。
「僕は、いいんじゃないかと思いますよ。Bは都市伝説ですけど、民話がどう都市伝説っぽいものに繋がるのかを考察しようという話ですから」

 用語法は時代や学派によってそれぞれではあるのだが、伝説というと、民話や昔話と比べると多少の信憑性を持って語られるものであるとされている。実在する人物に関するものであったり、特定の時期が設定されていたりと、少なくとも語る側はそれなりに真実であると思って語るのである。『むかしむかし、あるところに』の昔話とは正反対の特徴だ。
 それが一般的な『伝説』という用語への定義付けであるのだが、そこに『都市』とつけると、意味はややずれてくる。都市伝説は現代、それこそ都市の時代において口承される話だが、信憑性は薄れてくる。登場人物が『友達の友達』とかであることは多いし、語る人々も本心から信じているのではなく、よりゴシップ的に語る。
 とはいえ、語りたい、伝えたいという欲求があるから語るのだ。その点では古典的伝説も現代的都市伝説も、根っこに存在する人間の心としては同じだろう。

「じゃさー、今日は1番をちゃちゃっとまとめて来週2をやるということにしよう。1はあくまで感じ方の問題だし、答えがあるわけじゃないよね。2のほうが謎っぽいし、考える時間が必要だよ。とりあえず私は、対処法があるのが都市伝説っぽいと思う」
 みとはちさんが勝手に始めた。この人は提出されたテキストに対しては躊躇がない。
 燈花がホワイトボードに『対処法』と書いた。達筆だった。
「妖怪系の都市伝説ってその伝播の過程で、だいたい何らかの対処法が付与されることが多いんだよね。そうしないと殺られるから。対処法が付いている方が、情報として価値が出てくるわけで、口に上る事になるんだよね。怖い存在ってだけで語りたくなるけど、それから逃れる方法もあるんだよっていうと、なおさら伝えたくなるし聞きたくなる。口裂け女のポマードみたいな」
 口裂け女。おそらく日本で最も有名かつ歴史的な都市伝説。
 彼女の弱点は『ポマード』だ。ポマードと三回唱えれば、口裂け女が怯むので、その隙に逃げられる。
「ただ、この対処法、バラバラです。A群にはなかった対処法がついているけれど、それを実際に使って退治した話は出てこないし」
 僕は言った。実際バラバラなのである。『ここに来る前にどこにいたか』という質問の他に、犬の鳴き真似をすると追い払える、『キツネキツネキツネ』と唱えると変身が解ける、などなど。
「そこが逆に怪しいとは言えるよね。いかにも後付けっていう感じ。そこが『都市伝説っぽさ』なのかも知れない。口裂け女だって対処法って色々あったよね。ポマードの他にも」
「僕はポマードとべっこう飴しか知らないです」
「ポマードでしょ、べっこう飴でしょ、他にもニンニク、ハゲ、百円玉、犬、リキッド、建物の二階、とか」
 みとはちさんが指折り数えた。
「さすが八恵」
 はるかさんが褒めた。さすがなのか?
「みとはちさん、都市伝説マニアなのですか?」
 燈花が頑張ってホワイトボードを書きながら首を傾げた。口裂け女の対処法を板書する必要はなかった。
「私、実は都市伝説マニアだからさぁ、すぐにウィキペディアで調べられるんだよね」
 みとはちさんがスマホをいじっていた。都市伝説マニアではなかった。ただのすぐ検索する人だった。燈花がホワイトボードに『ウィキペディア』と書いた。書かなくてよかった。
「さすが八恵」
 さすがではなかった。
「あと、AとBの違いですけど、Bでは名前がついてますよね。これってどうですか?」
 僕は話の流れを変えてみた。
「アシキ、ね。まぁ、素直に考えたら悪いと書いて悪しき、だよね。名前が付いている方が都市伝説らしいかどうかは……なんとも言えない気がする」
 みとはちさんの指が、スマホの画面をア・シ・キ、の動きで滑った。
「燈花ちゃん、これ誰か表記について言ってなかったの?」
「はい。聞いてみましたが、みんな話で聞いただけだからなんて書くのかは知らない、と言っていました。『悪』の字を使って悪しきだと思うと言っていた子もいましたが、それもその子がそう思っただけみたいでしたね」
「ああ、それは私読んだ時、忌み言葉の逆みたいなやつかなと思った」
 草苅さんが言う。こくりと頷きながら燈花が板書する。多分彼女も同じことを考えていたのだろう。
 忌み言葉というのは日本的な考え方だ。一番わかりやすいのは、植物のアシだろう。アシは元々漢字で葦だが、音が『悪し』に繋がるので、それを嫌ってヨシと言い換えられることがある。実際、いまでは漢字の葦にもヨシという読み方が辞書に載っている。少々捻ったもので言えば、魚の河豚のフグの音が『不具』に通じるのを嫌って、フクと濁らずに発音する地方があったりする。
 しかし、悪い妖怪に対して逆のことが起きた、つまり、あえて悪い意味に繋がる音を使ったという仮設は、この場合は少々都合が悪い。
「つまり、元はヨシキだったけど、縁起が悪いものを表すために変化して、アシキになったってことですか? ヨシキだと、なんか男の人の名前みたいですけど」
「普通、妖狐は陰の妖怪だから、女なんだよねぇ。仮に男だったとしても、ヨシキっていうのはなんか、現代的な名前すぎて合わないよ。ボーカルとかやってそう。ないない」
 ヨシキはボーカルではない。
 燈花が『トシ』と板書した。そういうことではない。
「むむむ」
 草苅さんの忌み言葉説は怪しくなった。みとはちさんが草苅さんの説を真っ向否定しておきながらなんか隣の草苅さんの腕に絡み始めた。スマホいじってない方の手で撫でている。意に介さない草苅さん。だからそういうのやめろ。燈花が『また始まった』と板書した。するな。

 そんな感じで概ね集中力を欠いた自主ゼミは、『都市伝説っぽさ』をいくつか挙げることに成功するにとどまり、紅茶を飲み終わることには解散となった。ま、2番が本番だしね、とみとはちさんが言った。
「こういう謎っぽいやつはわくわくするよねぇ。でもこれもまた香織っちが解いてしまうのかな?」
 どうも、この人はこのゼミでの議論を、謎かけとして捉えている節がある。というか今回の燈花の問題設定がそういう感じになっているのは、明らかに前回みとはちさんが謎かけ形式で議論をふっかけたからである。燈花は意外に影響されやすいな、と思う。
「まあ、考えてみますけど」
 僕は答えた。

 僕は謎解きというより、説得力の問題だと思う。
 別に正解があるわけでもない。いや、一応あるのだけれど。あったとしても、その正解を確定させることが出来ない、あるいは極めて難しい話なのだ。最も説得力を持つ仮説を提出して、それに対する攻撃を退けられるかどうか、だと僕は捉えている。
 まあ、ある時代に説得力を持ったいかにもな仮説が、後に完全にひっくり返ることもあるのが、面白いところでもあるけれど。

「香織っちには期待しているから」
 前回のみとはちさんの出題した謎を僕がたまたま解いたことで、この人は僕を高く買ってくれているらしい。
 はぁ、と僕は曖昧に答えた。それを横で見ていた出題者の燈花は、微笑んで首を傾げた。やっぱり出題なんだな、と僕は思った。
 彼女はきっと、自分なりの何かを持っているのだ。


最終更新日 : 2017-04-17 21:31:18

 稲荷木燈花と初めて話したのは、半年前。

 二年生の冬といえば、所属するゼミを決める時期であり、その選択が大体そのまま卒論の指導教官を決めるということになる。経済学部なんかだとゼミで就職の良し悪しがどうのこうのとあるらしく、熾烈な競争が繰り広げられると聞く。
 文学部はそういうのは残念ながら無縁で、のほほんとしていた。就職の良し悪しを気にするなら文学部に来たのが間違っている。諦めてサークルリーダー経験を捏造すべきだ。バイトリーダーでもいい。途上国に学校を建てるのも悪くなかろう。学生時代に力を入れるのをやめろ。
 ぬるい雰囲気のゼミ希望者向けガイダンスの後、僕は彼女と一緒の帰り道になった。というかそもそも、ガイダンスに僕たち二人しか二年生がいなかった。
「神谷内香織さん、ですよね」
「ああ、うん、えっと」
「稲荷木燈花です」
 以前も姿は何度か見かけたことがあったけれど、名前は出てこなかった。稲荷木燈花は、どこかぼんやりとしていて、ふわふわと透明感があって、儚げな可愛さがある子だった。これまで話すきっかけはなかったし、彼女が誰かと話している場面の記憶もなかったから、話しかけられたのは少し意外だった。
「神谷内さん、珍しいお名前ですね?」
「君が言えたことでもない」
 稲荷木さんは、ふふ、と笑った。
「そうですね」
 稲荷木も神谷内も珍しい。どちらも地名姓だ。
「神谷内さん、どうしますか?」
「なにが?」
 稲荷木燈花はきょとんとして首を傾げる。
「なにって、ゼミですよ。どこに入るか決めました?」
 少々気が早い質問だ。新年度が始まったのが昨日からだから、まだ半分以上のゼミは説明会をやっていない。と、いっても実際には僕たちの専門では、選択肢は多くないが。
 けれど、実はもう僕は決めていた。
「藤木ゼミ、入るよ」
「本当ですか」
 稲荷木さんの顔が微かに明るくなった。それは並んで歩いているくらいの距離でなければわからないような、おしとやかな喜び方だった。
「私も入ります。よろしくお願いしますね」
 そう言って稲荷木さんはぺこりと頭を下げた。
「よろしく」
 なんで敬語なんだ、と僕は思った。まあ、僕が言えたことでもないけれど。
「嬉しいです、私、一人だけだったらどうしようかと思ってました。なんか先輩二人怪しい感じでしたし」
「あー」
「あれは多分……私思うんですが……あの距離感……Dくらいまでいってます」
「激しいな」
 先輩は二人だけだったが、その二人は、なんか普通にいちゃついていた。あれは確かに、その、アレだ。最近の女子大生は進んでいるのだな、と僕は思った。

「で、そうと決まればですね、神谷内さん」
 稲荷木さんは立ち止まって、にこりと微笑んで言った。
「お近づきになるために、いまから一杯、いかがでしょう?」
「Dまでは勘弁願いたいのだけれど」
 Aならいいという意味ではない。
「U、しましょう」
 最近の女子大生は進んでいるのだな、と僕は思った。

 *

 出汁の香り漂う店内。

 稲荷木燈花は油揚げを心底幸せそうに頬張った。
「普通、一杯いかがって、お茶とかじゃないの。もしくはお酒」
「でもこの辺りで一杯といえば、やっぱりおうどんじゃないですか?」
 おうどん。
 丁寧か。
「そんなことはない」
 おをつけたらもうUじゃないし。
「そんなこと言って、神谷内さんそれ、釜めんたいバターじゃないですか。一見さんは釜めんたいバターとか頼みませんから。結構来てるんでしょう」
「だから、僕のことは香織でいいよ?」
 お近づきになるためにさん付けをやめようとさっき言った。
「香織、さん」
「香織」
「釜めんたいバターさん」
「釜めんたいバター」
 釜あげうどんの上にのった明太子、海苔、紫蘇、半分溶けたバターをかき混ぜて、粉チーズをかけて食べる。このメニューは、確かに初見にはハードルがやや高い。素人は温冷二種うどんでも食ってろ。
「まあ、好きなんだけどね……」
「私も結構好きで時々頼みますよ、釜めバ」
「釜めバ?」
「釜めバ」
「君こそ絶対常連だろう」
「たられば」
「わかる」
 コシの強い細めのうどんに、明太子とバターがよく絡んで、口の奥まで大きく広がる。黒胡椒が良いアクセントだ。油が舌を撫で、うどんが喉で跳ねる。邪道と言われようが、こういう現代的なメニューが美味しいのだから仕方がない。この店、内装は結構本格的でうどん屋とは思えないおしゃれさだけれど、真骨頂はこういう邪道メニューだと思う。釜カレーとかも好き。
「で、そういう燈花は、きつねうどんなんだね」
 きつねうどんはうどん界の定番ではあるが、この店では頼んでいる人があまり多くない印象だった。
「好きなのです」
「みてればわかるよ」
 清楚で透明感のある美少女だと思った燈花のほっぺたは完全に剥落しかけていた。大学の講堂なんかで見かけた時の印象とはずいぶん違う。
 それにしても、近くで見るとやっぱり可愛いなぁと思う。前髪の間から、二重で少し眠そうな、けれども楽しげな瞳が覗く。楽しげなのは単に好物を食べているからか。小さな肩に、華奢な鎖骨に、透き通るような白い肌。柔らかな髪が、小さなうどん一口ごとにふわふわと揺れる。僕は自分の短く切った硬い髪を無意味に撫でて、それからお茶を一口飲んだ。
 ……人間の身体って違うよなぁ。僕は思う。僕は自分の髪がふわふわしている状態というのが想像つかない。
「ところで香織さ……香織は、どうしてあのゼミに?」
 燈花がもぐもぐしながら言った。
「藤木先生のところで学びたいからかな」
「先生の研究に興味があると。私もですよ。ではどうして先生の研究に?」
 目があった。僕は髪の硬さのこととかを考えていて、ちょっとぼんやりしていたのだと思う。
「まあ、一言で言うと……自分を知るため、かな……」
 言ってしまって恥ずかしくなった。目を逸らす直前、燈花の目がキラリと光ったような気がした。彼女は早く喋りたそうに、口に入れたうどんをもきゅもきゅと噛む。
「いや、自分のためっていうか。先生の研究は、ほら、人間とは何か、みたいなところに通じてるから」
 その隙間を埋めたくて、僕は言い訳みたいに言った。燈花がうどんを飲みこんで、言う。
「私、香織さ……釜めんた……香織と仲良くなれそうな気がします」
「もう香織さんでいい」

 ともかく、それが僕と燈花のはじめてのUだった。
 以来、僕と燈花は時々、人目を避けて二人でUをした。別に人目を避けるべきことではなかった。最近じゃ、女子大生が二人でおうどん食べるのは別に珍しくもない。珍しいか。
 まあ、僕たちはその程度の距離感の関係だった。僕はそれがよかった。この距離のままどこへもいかず、どこへも辿り着かない。
 僕はそれなりに燈花のことを知っている。彼女の昔のことまで知っている。小さいころ、良いことがあった時にはお祝いのために、悪いことがあった時には励ましのために、彼女のお母さんが彼女の大好きなきつねうどんを作ってくれたエピソードだって知っている。そして燈花も僕のことをそれなりに知っている。僕のそういう、当り障りのない昔話を、彼女も知っている。
 それなりだ。
 そこまでだ。


 春になって自主ゼミが始まってからは、僕たちは毎週のようにUだった。爛れた生活だ。


最終更新日 : 2015-06-16 22:59:48

 その日、ゼミの後はシフトが入っていた。
 僕のバイト先、『衣装のウラヅキ』は、いうなれば「え、こんなところに?」と言いたくなるような場所にある。昭和通りと靖国通りと神田川に囲まれる東京のド真ん中であるが、ほとばしる場末感。細い路地の向かいは怪しい中華料理屋『饗宴楼』である。僕がバイトを初めてから一度も営業しているのを見たことがない。
 店名から貸衣装屋であることはすぐ知れよう。しかしこんなところで成人式や結婚式の衣装を借りようという人が何人いるものか。僕は働きながら数えたので知っている。一人ひとり思い出しながら指折り数えてみると、指が折れなかった。ゼロ人である。
 店には無限に近い数の衣装が置かれている。貸出も販売もやっているのだが、これ借りて(あるいは買って)どうするんだろうというタイプのものと、これ借りて(あるいは買って)そうするんだろうなぁというタイプのものばかりである。前者は例えば電磁波完全遮断サイバーパンクコートであり、後者は例えば都内女子校全制服シリーズである。まあ後者に関しては、神田川を超えればコスプレ用品を取り扱う店なども多い土地柄というところがあるのかもしれない。

「でさぁ」
 クリーニング業者から返ってきた目黒女子学院の制服(冬)をしまっていると、奥からのそのそと出てきた店長が話しかけてくる。店内は薄暗く、バックヤードだけが煌々と明るい。
「神谷内さんは、何でこのバイトやってるの」
「それ、店長が聞くんですか」
 現れた店長が、小説で主要キャラに語らせたい内容を引き出すきっかけを提供するためのセリフみたいなことを無理やり言った。無理があった。僕は自分が小説の主人公だった場合に備え、意地でもバイトを始めたきっかけを想起しないようにする。
 店長は白髪痩身年齢不詳のちょっとヤバい感じの男性だ。変な色のサングラスとかかけている。
「だってほら、この店怪しいし、僕も白髪痩身年齢不詳のちょっとヤバい感じだし」
「それ、店長が言うんですか」
「あと変な色のサングラスとかかけてるしね……。神谷内さんが辞めたくなったら、いつでも言ってくれて構わないからね」
「辞める予定はないですが」
 大した仕事が無い割に時給は良い。大学からも近いし、シフトもかなり自由が効く。自由が効くというか、たいして客が来るわけでもなく、僕が急用で抜けても店長が適当に店番していれば済むわけで、じゃあそもそも僕は必要なのかが甚だ怪しい。だがわざわざそこを指摘する必要もないと思う。雇用は創出した方がいい。
「ところで店長」
「うん?」
「ドッペルゲンガーってわかりますか」
 店長が座っている丸椅子の上でわざとらしくずっこけた。うざかった。
「えぇ……なに神谷内さん、急にオカルトに目覚めたの?」
「そういうわけではないんですが」
 店長くらいヤバい感じの人だと、ちょっとヤバい感じの話でもできる気がする。だから僕は、先輩にはドッペルゲンガーを見たと言い出せなくても、店長になら抵抗はなかった。とはいえ、いきなりドッペルゲンガーを見たというのもさすがにヤバい感じがするので、一般論で話を振ってみただけだ。
「まあ、そっか。神谷内さんイマドキの女の子って顔してるけど、学校だとそういうのが専攻だったもんね」
「オカルト専攻ではないです」
「あれだよね、ちょっとヤバい感じの専攻」
「ちょっとヤバい感じではないです」
「オカルトな衣装が着たいお友達とかいたら、連れてきてね」
「そんな友達はいない」
 以前一度だけ、語学クラスの忘年会の余興で仮装衣装がいるというので、うっかりこの店を友達に教えてしまったことがある。そこから一時期うちの学生の間でこの店が静かなブームとなった。といってもほとんどは金を出す客にはならない。せいぜいTwitterに投稿する画像の狩場にされていただけだ。僕は写真撮影禁止の札を作成して店内そこら中に貼り付けた。効果がなかったので、商品を盗撮する奴の顔を盗撮して店の公式Twitterで晒しますと書き足したら効果があった。公式Twitterは炎上した。それでも店長は、もう一度ああいうのを期待しているらしい。店に人が溢れてる感じがいいんだとか。
「ドッペルゲンガーねぇ……自分と同じ姿の人間でしょう。それってちょっとヤバい感じだよね……」
 確かに店長のドッペルゲンガーならちょっとヤバい感じになるだろう。
「でも僕見たことあるな、ドッペルゲンガー……」
「え、ホントですか」
 それはちょっとヤバい感じだなと僕は思った。
「あー、うん。あるよ。もうずいぶん昔だねぇ。僕はその時あるビルにいてね、ビルというか、なんだろう、なに、こう、『会場』みたいなところかな。それで、トイレに行こうとしたら僕のドッペルゲンガーがいてね」
「急だな」
「そう、急だったんだよ。急にこう、ぐわーっときてさ。ぐおーっていう感じで。それで本当にそっくりなんだよ!」
 表現が雑だった。
「鉢合わせたんですか?」
「そうそう、もうホントそっくりでさ。黒くてさ、触覚というか角というかみたいなのが二本生えてて、目も口もない顔の真ん中が黄色く光ってて」
「それ店長じゃないでしょ」
「いやいや、そっくりだったんだよ! 変な鳴き声を発していてね、例えるとゼットンみたいな」
「ゼットンでしょう」
「ゼットンだね」
 僕はレジの裏に吊ってあるゼットン特撮衣装を見た。バックヤードの蛍光灯に反射してその目だかなんだかわからないところと胸だかなんだかわからないところが妖しく光っている。
「ゼットン」
「うん」
「要するに仮装パーティーみたいなのにゼットンで行ったら衣装が被ったっていう」
「あれだけ派手にかぶったのはあの時だけだなぁ……」
 店長はサングラスの奥で目を細めた。
「衣装というのは、装いだからね。自分とは違うものになる。意味を装う。それが他人とかぶってしまうというのはねぇ、あいでんてていがねぇ」
「大変なんですね」
 大変であるとは露ほども思っていなかったがそう言った。
「パワードにしておけば違ったのかもしれないなぁ」
 多分こういう無意味な会話によって時給が発生しているのだろうなと思う。僕は時計を見て、なんとなく今日の労働時間と時給を掛け算した。大した額にならない。三兆円欲しい。
「つまりね、ドッペルゲンガーに出会った時というのは、相手が偽物で自分が本物、偽物である相手が自分の姿に化けている、相手がコピーで自分がオリジナル、と思ってしまいがちなのだけれど、実は化けているのは自分の方かもしれないよ、ということだねぇ」
 この人やっぱりちょっとヤバい感じだなぁ、と僕は思った。

 *

 地下鉄で家に帰る。駅前のタジマで食料品を買って、闇夜に浮かぶ扁平な団地を眺めながら家に帰る。一人暮らしも時が経つと買い物も大分うまくなってくるものだ。安い肉を手に入れた僕は今晩のメニューを考える。僕はとりあえず肉と野菜を炒めればいいだろうと考えた。要するに具材があって味付けがあって火が通ることによって何らかの食べ物が発生する。簡単だ。一人暮らしも時が経つと料理も大分めんどくさくなってくるものである。
 身体のこともあったし、はじめ母は僕の一人暮らしをかなり心配していたけれど、僕に言わせればこちらの方が余計な心配をしなくていいのだし、気持ちは楽だった。

 マンションの四階の自室に入ると、そこに僕がいた。

 神谷内香織が僕を見つめていた。

 一瞬どきりとするが、もちろん玄関に置いた鏡に写った自分だ。
「ただいま」
 僕は言ってみる。鏡からはもちろん答えは返らない。

 肉と野菜を炒めて食べた。オイスターソースとマヨネーズを合わせてみたがわりといける。ちょっと塩辛いかな。まあ大体なんとかなるものである。食後の薬を飲む。白い錠剤。やや大きな正円。舌に乗せるとビリビリと苦い。多めの水で飲み込む。飲み下す。飲み干す。自分の中の怪物を飲み込む。水を飲む。もう少し水を飲む。胃に悪い薬だから。
 厄介なものだが、薬を適切に服用していれば、問題なく日常生活を送ることができる。薬は飲み続けなければならないし、月に一度はどうしても困ることがある。けれど、それもいずれは、きっと解決されるだろう。それがどれほど先か、わからないけれど。どのみち僕はもう、慣れてしまった。

 それでも不安が完全に消えるわけではない。

 このマンションの壁は音を吸う。

 僕は自分を知りたい。僕は自分を知らなければならない。

 僕はドッペルゲンガーについて考える。
 僕自身。
 生き写し。
 影患い。
 もう一人の自分。

 気持ちが悪いのは、僕が僕自身を目撃した上、みとはちさんもどうやら僕を目撃しているという点である。
 みとはちさんが目撃したというだけでは、みとはちさんの勘違いだとか、見間違いだとか、あるいはまた質の悪い冗談だとか、そういう可能性をあげることができるだろう。
 逆に僕が見ただけであれば、僕の頭が狂ってしまったものとして処理できる。できないけど。
 自分を含めた二人の目撃者がいたら、普通はそれを疑わない。
 ならば。
 ならば彼女は、そこにいたのだろう。
 もう一人の神谷内香織はそこにいたのだろう。
 僕はそこにいたのだろう。

 僕は自分を知りたい。僕は自分を知らなければならない。
 自分の知らない自分が怖い。

 図書館で借りてきたドッペルゲンガーの本を取り出して表紙を撫でる。シャワーを浴びて、歯を磨いて、ベッドサイドの小型カメラの電源を入れて、部屋の照明を落として、ベッドに寝転んでそれを読み始める。
 いつ眠ってしまってもいいように。
 僕はベッドサイドのカメラのレンズを見つめる。

 ぼんやりと、思念を漂わせる。
 都市伝説化した半妖狐について。
 なんだか今日の議論はうまく議題設定に乗せられたというか。都市伝説の話しかしていない。資料A群に対する読み込みが甘すぎるのではないだろうかと感じた。
 あの話はやけに新しい。
 本当に玉藻御前伝説に影響を受けているのだとすれば、玉藻御前の話が庶民に流行したのは江戸時代であるし、相当に新しい。二十年前に最後の出現の記録があるというようなことが触れられていたが、資料中そのことが語られていない。普通に考えて二十年前なら色々検証が可能だ。それをしないわけがない。したはずだ。なのに載せていない。何か隠しているのだと思う。
 ……まあ、そんな現代よりの超常現象を検討していたら、本当にオカルト研究会になってしまうけれど。
 半人半妖として生まれ、人間からも妖怪からも疎まれて生きる存在に対して、僕は少しの哀れみを感じる。それは人間を恨んで悪さをしても仕方ないのかもしれない。でもきっとそれも悲しいはずだ。心は貧しく、そんなことでは決して満たされない。悪さをして、悪さをして、それでも満たされない。乾いている。空虚だ。けれどやめられない。やめたら何をしていいかわからないからだ。
 それに共感するの?
 意識の向こうで、僕が言った。
 僕は答えなかった。共感、だろうか。そうなのかもしれない。
 自分も似たような境遇だから。
 違うと思った。
 親の話じゃなくて。心当たりはあるくせに。
 僕は答えなかった。
 僕は冷たく見下すような目で、薄笑いを浮かべて僕を見ていた。そんな表情をしているから、時々怖がられるのだ。「神谷内さんってちょっとこわい」、時々そう言われる。怖い、というかそれは、単に疎んでいるだけだろう。邪魔に感じているだけ。
 君もそう思うの?
 僕が言った。
 僕は答えなかった。喧騒が戻ってくると周囲は学校の教室になっている。赤紫の斑点がリノリウムの床に張り巡らされて僕たちを待っている。顔のない生徒たちが笑う。笑う! 僕だけが一人薄笑いを浮かべて君を見ている。
 踊ろう。
 僕が言う。
 僕は答えなかった。君は机の上に立ち上がる。机が汚れた教科書を地面に吐き出す。さあ、君はそう言って僕に手を伸ばす。僕の手が指先までぴんと伸びて。君の海が広すぎるからいけないんだよ。僕たちは何人でも飼えるんだ。

 僕と君は同じだから、体温は同じで、触れる手の間で熱は移動しない。

 僕は僕にリードされて教室の海をゆっくりと回転する。波打つように重心を上下させる。僕と君は同じだから、体温は同じで、触れる腕の間で熱は移動しない。僕と君は同じだから、体温は同じで、抱いた肩に熱は移動しない。僕と君は同じだから、体温は同じで、触れる頬と頬で体温は移動しない。
 彼女から、僕のにおいがする。
 けれどね。
 僕が言う。
 いま、君は僕のことが分かる?
 分かる。
 いま、君は僕が次にどうするか分かる?
 分かる。
 ほんとうに?
 ……わからないかもしれない。
 そうだよ、分からないんだ。
 僕がステップを反転させる。予想外の動きに僕はぐいと引かれ、なんとかそれについていく。
 僕は自分のことなのにわからない。
 僕は自分のことなのにわからない。
 怖い?
 怖い。
 怖いよね。
 怖い。
 たとえば。
 僕がぐいと近づく。
 僕の目の前に僕の顔がある。僕のにおいがする。僕の息遣いが二人分漂う。
「たとえば」
 僕の唇だけが動く。
「学校を」
 爆発の大音声が広場に響き渡り、建物の窓ガラスが弾け飛んだのを一瞬遅れて理解する。大学だ。大講堂が燃えている。これはあのころの学校じゃない。大学だ。空が焼けている。耳障りなサイレンが響き渡り、僕が芝生の広場を横切っていく。置いていかれた僕は呆然とする。放射してくる熱で、顔が、髪が、燃えそうに熱い。炎が講堂を舐め上げる。表皮が熱で剥がれて落ちる。
 なにを。
 いま、君は僕が次にどうするか分かる?
 みんなの悲鳴が聞こえる。僕は冷たく見下すような目で、微笑を浮かべて僕を見ている。
 怖い。悲鳴。サイレン。炎で柱が倒れる音。ヘリコプターの音。怒号。熱。人間の皮膚が焼けるにおい。絶叫。知っている声。知らない声。僕の声。


 僕は汗だくになって目を覚ました。
 叫び声と赤い光が頭のなかにちらつき、僕は天井を見上げて荒い息を吐いた。

 ドッペルゲンガーは、監視カメラでは見張れない。
 僕はそのことに気付いて愕然とした。

 僕は肩で息をする。携帯のランプが緑色に点滅している。午前二時半。手にとって液晶のバックライトに目を細める。目に突き刺さる光の向こうで、メールが届いている。メールなんて滅多に送ってこないのに。
 たった一行だけのメールだった。

「夜に外を出歩かないように。殊に危険だ」

 夜に外を出歩かない。そんなことは分かっている。
 それでもわざわざ送ってくるからには、何かあるのだろうなと思った。『殊に』とはなんだろう。変な言葉だ。いつもよりもっと危険ということだろうか。昼も危険だが夜はもっと危険、というふうには解釈できまい。夜はいつも危険だが、今は特別危険だと言いたいのだろう。なぜ。わからない。

 僕も一行だけのメールを返す。ほんとうは二十行くらい打った。けど消した。

「気をつけます。いつ戻りますか」

 返事は返ってこないだろうなと思う。そうして少しの間ぼんやりとベッドの上でうずくまっている。表通りを車が一台、通って行く音が聞こえる。消防車のサイレンの音は聞こえてこない。この携帯電話だけが世界と繋がる糸口で、そしていま携帯電話は何も応えてはくれない。僕のところに助けは来ない。だめだ。もう一度眠れそうにない。僕は明かりをつけて、また本を読む。
 小さな監視カメラが僕を見ている。

 そのカメラの向こうにいるのもまた僕だ。僕は自分を監視する。


最終更新日 : 2017-04-17 21:32:35

 木曜日と金曜日のことはよく覚えていない。
 なにしろこれは急展開である。
 燈花に休日に呼び出された。

 結構早めに来たつもりなのに、待ち合わせ場所には既に燈花の姿があった。
 急に休みの日に会おうだなんてどうしたの、と僕は聞いた。
「デート?」
「何を言っているんですか」
 燈花が首を傾げるとふわふわした綺麗な髪が揺れる。ワンピースに気合が入っている。なんだそれ。デートか。
「休みの日に二人で遊びに行くのですよ。デートに決まっています」
「そ、そうですか」
 僕は会おうと言われただけで、どこに行くとかは聞いていない。今まで何度もうどんを食べたりしているが、だいたい平日、大学帰りだ。それが急に休日にデートである。どうした。
「それで、どこへ?」
「デートにふさわしい場所です」
 ううむ、と僕は考えた。どこだ。
 僕は最近インターネットで美味しいうどん屋とかを調べたりしているので、燈花と行きたいうどん屋リストみたいなのが実はある。クラウド上に保存されている。クラウドバンザイ。その情報は、しかるべきタイミングで取り出せば、きっと燈花は喜ぶだろう。しかし多分、これは多分なのだが、今は、しかるべかない気がする。
「どうしました、香織」
「しかるべかないよね……」
「は」
「いや、普段はうどんとかだから、何かあったのかなって」
「そうです、二人はまだUまでの関係でしたが、今日はその一歩先へ」
「一歩先へ」
「その向こう側へ」
「向こう側へ」
「もうもどれない」
「いや、そんな取り返しの付かないようなことは」
「もどりたいんですか」
「え、まあ」
「いくじなし」
「いや」
「香織は私のことはただの遊びだったのですか」
「あの」
「おうどんさんが目当てだったんですね」
「さんをつけるな」
「様」
「敬称略」
「おうどぅん」
「北欧神話とかで出そうな響きをやめろ」
「香織」
「なに」
「スイカの残額は十分ですか」
「え、うん、今朝チャージしたけど」
「この世で二番目に賢明な行為です」
「え、一番は」
 燈花は無言で財布を改札機に押し当てた。
 軽やかな電子音と共に、彼女のカードに三千円がオートチャージされた。

 *

 快速アクティー熱海行き。東京駅で乗り換えたのはそんな電車だった。
「え、熱海行くの」
 焦る。熱海の温泉宿とかだろうか。それは確かに一線を超える気がする。巨大な東京国際フォーラムがゆっくりと流れていく。
「そこまでは行きません」
 一線は超えないらしかった。助かる。
「じゃあ、横浜あたりまで?」
「横浜よりはもっと先まで行きます。具体的には大船まで」
「どこだそれは」
 私は神奈川方面の地名には疎かった。電車が品川を出る。
「ここが東京だとしたら」
 燈花が空中を指差す。
「ここが品川で」
「わかる」
「この辺りが川崎」
「……わかる」
「この辺りが横浜で」
「わかるよ」
「こう下って大船」
「ごめん、わからん」
「そしてここが一線」
 ぴっと線を引く。
「なにそれ」
「ここから先は、めくるめく大人の世界です」
「ええ……」
「まだ学生である私たちには早いと思います」
「そうだね」
「香織はそういうのに興味はありますか?」
 熱海。うーん。よく広告が出てくる貸し切り露天風呂とかそういうやつか。ちょっと憧れないでもないけれど、お泊りはちょっと困る。真面目に申し上げて、僕が燈花を襲ってしまう危険がある。
「まあ、全く無いとは言わないけれ」
「ヘタレですね」
 かぶせ気味だった。
「何が」
「まあいいでしょう。そして一線(さがみがわ)を超えるとここが平塚」
「いまなんか器用な発音を」
「さらに小田原」
「あの」
「ぐーんと伸びて、このへんが熱海です」
 最終的に燈花の右手は下方にピンと伸び、ペンギンみたいなポーズになった。

 今日の燈花はいつもより元気な気がする。いつもよりよく動く目、微かに上気した頬。いつもよりかわいい。

「燈花、何かいいことあったの?」
 燈花はゆっくりと、不思議そうな目で首を傾げる。
「……別に、そういうわけでは」
 電車が新橋を出る。

 *

 大船駅で電車を降りた僕は、燈花の後をついて歩き、ルミネの中を貫通してモノレールの改札についた。
 燈花が立ち止まる。何かと覗けばカフェの前とかに立っている小さい黒板みたいなのがあり、『PASMO・Suicaは使えません』と大書されている。おい。
「切符を買います」
 燈花が決然と言った。さっきのオートチャージは何だ。
「現金こそがこの世で一番目に頑健な手段です」
 懸垂式のモノレールはガタゴトと揺れた。下の視界が開けていて、街路の上を電線と並んで走っていくのでまるでアトラクションだ。しかも結構スピードがある。信号が足元を過ぎていく。想像の何倍も気持ちいい。
「香織、江ノ島に都市伝説があるのは知っていますか」
 都市伝説。
 そうだ、僕たちの今週一週間の課題はそれなのだ。
 燈花は何か、都市伝説に関して思うところがあって僕を連れ出したのかもしれない。とするとこれはヒントだろうか。彼女が僕に、ヒントを送っているのだろうか。
「いや、知らない」
「結構有名なのです。まさに私たちにぴったりのやつなのですよ」
「そんなものが?」
 江ノ島は一応霊験あらたかな土地だから、あの妖狐の話みたいに、何か化物とかがいるのかもしれない。すくなくとも龍はいるし。
「はい。『初デートで江ノ島に来るカップルは別れる』という」
「ダメじゃん!」
 化物じゃなかった。思わず叫んでしまった。モノレールがガタゴトと揺れた。
「何がダメなのですか」
「え、だって、初デート」
「そうなのです。残念ですね香織、私たち、別れることになりそうです」
「いや、まあ、そもそも考えれば、別に僕たちはカップルというわけで」
「回避策があります」
 燈花が食い気味に言った。
「あるんだ」
 まあ、回避してあげてもいいけど?
「『江ノ島に行く前に龍口明神社に参拝する』です」
 江ノ島に行くと別れるが、その前に龍口明神社というところに参拝すれば回避できる。
 カウンター。
 キャンセラー。
 僕はピンとくるものがあった。
「……弁財天と龍神か」
「さすがですね」
 燈花が感心した目で僕を見た。

『江ノ島で初デートすると別れる』、『不忍池で初デートすると別れる』、『井の頭公園で初デートすると別れる』、その手の都市伝説は色々ある。あと『ディズニーランドで初デートすると別れる』みたいなのもあるがこれはとりあえず無視する。というか不忍池で初デートするの渋すぎないか?
 なぜ別れるかについて、色々言われる。原因を歴史的というか民俗学的というか、そういうところに求めるとするならば、少なくともいま並べた三箇所に共通するのは、弁天様になる。
 弁財天といえば七福神の紅一点で、芸能、学芸、財宝を司る女神だ。色々と複雑に神仏習合で混ざってしまっているが、とりあえず日本ではそういうイメージを持たれている。そして同時に、その性格は嫉妬深いものとして語られる。だから、参拝してきたカップルに対して嫉妬する、そして別れさせる、というわけだ。なんだそれ。無茶苦茶なやつだ。神だからといってやって良いことと悪いことがある。
 芸能財宝の側面が強調される一方で、弁財天は水神としての性格も持っている。だから祀られる場所は水場だ。江ノ島も、不忍池も、井の頭公園も。ついでに言えば、江ノ島と合わせて三大弁天と言われる竹生島も、厳島も、水辺だ。
 そして水神は、龍と縁がある。江ノ島の弁財天の由緒は、元々この土地に住み着いて人々を苦しめていた龍がいた所、ある時大地が鳴り響いて島が現れ、そこに弁財天が降り立って、龍を鎮めた、というものだったはずだ。
 水神が龍を従え使う背景には色々な説がある。説明としてわかりやすい一つは治水だ。龍とは河川の氾濫を表したものであり、それを支配することはすなわち治水。水神がこれを司るのだ、などと言われたりする。

「その龍口明神社って、弁財天が退治した龍を由緒にしている神社だよね」
「退治というか……。もともとこの土地には悪い龍がいたという話で。大地が震え、江ノ島が湧き出し、そこに弁財天が降り立った時、彼女に一目惚れした悪龍が求婚した。しかし逆にその悪行を戒められ、改心し後に夫婦となった、というものです」
「だから本来夫婦である両方の神社に参拝することで、無用な嫉妬を回避し、別れなくて済む、ということ?」
 燈花はそうですね、と頷いた。
「両方参拝したら嫉妬されないという理屈は結構無理がある気もしますが、この回避策はそう解釈するしかないでしょう」
 両方参拝したら嫉妬されない理由は確かにイマイチ不明だった。まあ、回避策なんて後付けだし、そもそも嫉妬されて別れさせられるのも理屈にはかなってないし、そんなもんだろう。
「だから我々はこうして大船で降り、湘南モノレールでガタガタと移動しているのです。江ノ島に直行するならば、しかもそれが初デートとあらば、藤沢まで行って江ノ電でコトコト江ノ島を目指すほうがいいと誰もが思うでしょう。そんな情弱カップルは江ノ電がなんか思ってたのと違うという罠にハマる上、都市伝説トラップで別れるわけです。私と香織はそれを華麗に回避し結ばれます」
「いや、結ばれるのはちょっと」
 燈花は首を傾げた。
「香織は誰かと結ばれたくないのですか」
 僕は苦笑する。
 ずるいな、君は。

 僕と燈花は西鎌倉駅で地上に降りた。曲がりくねった坂道を登る。また僕は暑いなと思う。坂とか階段は苦手だ。
「こんなところにあるの、その神社は」
 高級住宅街だ。神社がありそうな古い土地には思えないのだが。燈花は携帯で地図を見ている。
「そうです。元々はもう少し江ノ島に近い側にあったのが、移転してきたそうですね。あ、そこを曲がったところです」
 それは住宅街に突然現れた。移転してきたというだけあって、龍口明神社の建物はそれほど古くないように見えた。
 境内は驚くほど人気がない。江ノ島に由緒のある神社なら、もっと観光客がいて良さそうなものだけれど。周りに高い建物がないので、空がやたらと広い。無人で小綺麗な境内は、人工的なようにも、霊気に満ちているようにも感じられた。
 僕たちは一通り参拝を済ませた。
「全然人がいないけど、本当にこれが対処法なの?」
「この世は情弱だらけということです」
 燈花は力強く言い切った。これでバリア張れましたから、さっさと行きましょう、と言って、僕たちは参拝もそこそこに再びモノレールに乗る。逆にバチが当たったりしないか、と僕は思う。

 *

「私はこのしらす二色丼というのにします」
「二色? 何色と何色?」
「白と白ですよ。しらすですからね? 紅白とか金白とかにはなりませんよ」
「両方しらすってこと?」
「そうです。釜揚げしらすと生しらすです」
「なるほど……」
「香織はしらす知識が少なすぎるのでは?」
 僕は確かにしらす知識が不足していたが、それをなじられるのは理不尽だと思った。僕も同じしらす二色丼にする。
 江ノ島につくとお昼時だったのである。僕と違ってしらす知識が豊富な燈花がしらす丼を食べるしかありませんというので僕たちはこの店に入った。
 程なくして運ばれてきたしらす二色丼は素晴らしかった。
「いただきます」
 声を揃える。
 うどんもそうなのだけれど、僕は燈花と食事をするのが好きだ。なんか楽しそうだし、一緒に食べると、少し距離が近づくような気がする。本当は、それほど話をしなくても間が持つからというのもあるかもしれない。お互い口数が多いというわけではない。
 純白肉厚の釜揚げしらすと、透き通る白銀の生しらす。出汁の効いた醤油に生姜と大根おろしを溶いて、タップリとかける。やわらかな釜揚げしらすの塩み。さわやかな食感と甘みの生しらす。追いかけてくる生姜の香り。
「おいしい……」
 僕の口から、素直に言葉がこぼれ出た。
 燈花も一口食べて、目を輝かせている。
「最高案件です」
 その笑顔はふにゃふにゃで。初めて会った時、僕が同じゼミに入ると知った時の彼女の喜び方を、僕はすごく控えめでおしとやかだと思ったのだけれど、そこからは想像の付かない破顔っぷりで。
 江ノ島の縁結びの神様よりも、美味しいご飯のほうが効くんじゃないかな、と僕は思った。
 そのあと僕たちは江ノ島神社に実際に参拝して、これが縁結びですとか燈花が熱心にしゃべっていたけれど、僕は正直、燈花のあの笑顔の「最高案件です」のほうが最高案件だったと思っている。保存したい。

 *

「そういえば、香織はゴールデンウィークは何をしていましたか?」
 イルカショーの開始を待つ。ちょうどいい時間だったので、入場してすぐスタジアムに来た。
「いや、たいして何も……」
「え、香織ってひょっとしてつまらない人間なのですか」
「あんまりだ」
「しらす知識が著しく欠如している上、ゴールデンウィークも無為に過ごしているなんて」
「それを並べるな」
 スタジアムにはそれなりに人が多く、直前にやってきた僕たちの席は端っこだったが、濡れる心配がないからそれで良かろう。中央のプールは相模湾をバックにして、左手にはさっきまでいた江ノ島が伸びている。
 あれ。
 何で水族館に来ているのだ。
 新江ノ島水族館。
 休日に二人で。
 デートかよ。
 隣に座る可愛らしいワンピースの女の子からいいにおいがする。
「あ、イルカあそこにスタンバイしてる」と彼女が言った。
 かわいい。
 デートだった。

「まあ、読みたかった本を読んだり、やらなきゃいけない雑用を済ませたり、買い物したり、だらだらしたり、そんな感じだよ。特に遠出したりはしなかった」
 実際、山奥の村を訪れて民話を収集し、小中学生の都市伝説を収集してきた燈花と比べれば、大変つまらない連休を送ったものだとは思う。つまらない人間は言い過ぎである。酷い。
「燈花は連休中ずっと××に行ってたの?」
「はい、まるまる一週間」
「すごいな……一人で行ったんでしょ?」
「そうです。なかなか大変でしたよ。いきなりやってきた怪しい大学生に話をしてくれる人はあまりいませんし」
「え、知り合いとかもいなかったの?」
 お父さんの実家があるけれど親戚づきあいがない、とは言っていた。けど。
「はい。ゼロではないですが、まあ、あまり。私の苗字も知らせないほうが良さそうでしたから、偽名を使いましたし」
 偽名。
 偽名を使うほどまずいのか?
 僕は躊躇する。
 口を曖昧にぱくぱくする。
 偽名を使わなければならないような出来事が。
「まあ、偽名を使ったというのは嘘ですが」
「嘘は良くない」
 嘘かよ。力が抜ける。燈花が少し申し訳なさそうな顔をする。申し訳ないなら嘘をつくな。
「みなさーん、こんにちはー!」
 大きな音と声、楽しい音楽、大ジャンプするイルカたち。ショーが始まった。
「始まりましたね。あ、イルカが……ゴンドウが……」
 燈花が身を乗り出す。楽しげに髪が揺れる。最高案件だ。

 *

「燈花、あの問2、君は自分なりの答えみたいなものはあるのかな?」
 僕は聞いてみた。燈花はゼミの途中、板書に徹していて自分の主張はしなかった。でもあれだけの分量の資料をまとめる熱があるのだ、何も考えていないわけがない。
 燈花は髪をふわふわと揺らして、微笑んだ。
「答えかどうかはわからないけれど、考えたことはあります。でも、それを先に言うのはやめようと思って」
「どうして?」
「香織に解いて欲しいから」
「な、なぜ僕に」
 なぜそこで僕が出てくるのか、よくわからなかったし、ちょっとどきっとしてしまう。
「香織は差し出された謎は解かずにはいられない人ですね」
「……確かにあのゼミは好きだけれど」
 僕は確かに、謎に対する好奇心は強いほうだと思う。確かに、ゼミで何度か、他のみんなより早く、それらしい答えにたどり着いた事があると思う。けれどそれはたまたまだし、燈花にそういうふうにすごい人みたいに言われるのは落ち着かなかった。

 ここはクラゲファンタジーホールというらしい。
 小部屋の周囲にクラゲの水槽がたくさんあり、幻想的なライトアップに輝いている。ライトの色はくるくると変わる。
 僕と燈花は端のソファに腰掛ける。
 ライトの色がくるくると変わる。
 天井がクラゲみたいにドーム型になっていて、この丸い小部屋全体が海の中をフワフワと漂っている。
「さっきの話ですが」
「うん?」
「偽名は嘘というのは嘘です」
「え」
 僕の心臓は気持ち悪くうねった。
「実は私の父親は、実家とはかなり揉めて地元を出てきたので、絶縁状態なのです」
 燈花が語りだす。
「母との結婚を反対されたそうです。両親は同郷なのですが、父の実家は、なんというのでしょう、格式を重んじる家で、母親との結婚は身分違いだ、と祖父が猛反対したそうなのです。すごい喧嘩だったそうです。父は怒って、母と二人で東京に出てきました。だから私は今まで、あそこに行ったことはなかったのです。祖父母には会ったこともありません。何かが一つ違っていれば、私もあの村で、あの学校で育ったかもしれません。そうすれば、アシキの話は私にとってひどく身近なものだったかもしれない。そう思うと少し不思議です」
 今回帰った時、実家というか、祖父母の所には立ち寄ったのだろうか。泊まってはいないと言っていたけれど。いや、偽名を使ったくらいだ。近寄らなかったのではないか。
 燈花の両親は、そのことについてなんと言ったのだろう。娘がその村を訪れることになんと言っただろう。
 身分違いって、お母さんはどういう人なんだろう。
 僕の頭の中にいろいろの疑問が浮かぶ。でも僕は相変わらず、それを口に出さない。
 どこまで聞いていいものか、わからない。
 そもそもそれだけ障害のある場所になぜ民話を収集しになんて出かけたのだろう。
 どうして今日、急に僕を江ノ島になんか誘ったりしたのだろう。都市伝説の話のためだろうか。
『香織に解いて欲しい』というのはどういう意味だろう。
 燈花は何を僕に伝えたいのだろう。
 燈花は何を考えているんだろう。
 燈花は何を見ているんだろう。
 僕は無数の疑問を飲み込んだ。
 僕は自分が何を考えているのか判断するのすら苦労する人間だ。他人の心の中なんて、手を出しちゃいけない。
 ふと気づくと目の前に、そのサラサラと落ちる前髪の向こうに、二つの底の見えない瞳があった。
「不思議です」
 稲荷木燈花は、深い鳶色の目にクラゲの淡い光を反射させながらつぶやいた。光の加減で、それは金色みたいに見えた。僕は美しいと思った。
「……何が?」
「香織は差し出された謎には飛びつくくせに、『解いていいよ』と言ってもらえれば全力で解くくせに、そういう許可がないと近付こうとしませんね」
 僕は苦笑した。色々疑問が浮かんだのに、何も言わなかったのを、すっかり見透かされている。
「香織は私には興味は無いですか?」
「……」
「香織は他人には興味を持てない人間ですか。それとも何か理由があって、自分のことだけを考えているのですか」
 僕は自分を知りたい。僕は自分を知らなければならない。それは確かだ。
 けれど。
「あるよ、興味。燈花のこと」
 深い紫色だったクラゲたちが、一斉に淡い空の色に変わる。
 燈花は微笑んだ。
「私は香織になら、解かれてもいいですよ」

 *

 結局あの日、どうして僕たちは江ノ島に行ったのだろう。何かのヒントにしたって、よくわからなかったな。
 僕は水を多めに飲む。
 僕はその日の夜、いつもなら一錠でいい白い錠剤を、二錠飲み込んだ。


最終更新日 : 2015-06-28 22:06:07

 連休明け二週目。
 すなわち、もはや連休明けという言い訳も効かない普通の平日。
 中央食堂を出た僕は、総合図書館へ足を向けた。銀杏並木は青々と茂り、日差しも暖かい。昼休みの時間帯にしては人通りが落ち着いてきた。さすがゴールデンウィークの力だ。新入生諸君、大学になんか来るな。

 僕はドッペルゲンガーのことを考えた。妖狐のことも考えなければいけないし、江ノ島のことも考えなければいけなかったけれど、もう一人の自分のこともまた、気がかりだった。
 僕は読み漁った文献の中でも一際記憶に残っている一つの資料、いや小説のことを思い浮かべた。

 芥川龍之介『二つの手紙』。
 この小説は、佐々木信一郎という大学の教師が警察署長に宛てた手紙の形式をとっている。佐々木信一郎は、変なところに教養のある男なのか、手紙の中で古今東西のドッペルゲンガー現象をいくつも引用する。ドッペルゲンガー現象が如何にして起こりうるのか、それが如何に本人の死につながる重大なものであるのか。そして彼は、自身が三度にわたって遭遇したという、『自分自身と妻のドッペルゲンガー』の現象を警察署長に訴える。彼は世間に対する怨嗟を語る。曰く、世間は彼の妻の不義を疑っている。世間が彼の妻の不品行を責める。世間が私たちを迫害している! きっと世間は、彼自身と妻のドッペルゲンガーを目撃し、それを持って妻の不貞を疑っているのであろう。事実無根である! なんという残酷な世間! 世間の中傷からの庇護を求める一通目の手紙が終わり、二通目の手紙が始まった時、読者の疑念は確信に変わる。
 この佐々木信一郎という男は狂っている。
 彼は自分の妻の不貞という事実をどうにかして弁明しようとし、解釈しようとし、正当化しようとし、ドッペルゲンガーという妄想を生み出しているに過ぎない。
 彼にとってのドッペルゲンガーは、現実を捻じ曲げるための調度良い道具なのだ。

 僕は自分が狂ってしまった可能性について検討する。
 僕はドッペルゲンガーを見たことで何を捻じ曲げたいのか。
 しかし、あのドッペルゲンガーは、僕だけではなく、みとはちさんも目撃している。
 何十回か繰り返した反駁。
 逆に言えば、これしか反駁はない。これが崩れた時、僕は自分の発狂の可能性の高まりを否定することが出来ない。みとはちさんが、やっぱりあれは見間違いだったんだ、この間見た人は一年生の某さんという人で、結構香織っちに似てるんだよ、今度一緒にご飯でも食べようよ、などと言い出そうものなら。

 その時、僕はなんとも言いようのない気持ちの悪さが背中を走るのを感じた。
 悪寒。
 振り返ると、十メートルほど先に立っていたのは、紛れも無く。

 神谷内香織だった。

「待て!」

 叫んで走る。一瞬頭がこんがらがる。違う。叫んではいない。いや叫んでいる。いま「待て!」と叫んだのは僕ではない。いや叫んだのは僕だ。でもこの僕ではない。叫んだのはもう一人の方の神谷内香織だ。そして僕たちは走っている。僕も向こうの僕も走っている。僕は走っているが、だがこの僕は追いかける側ではなく、逃げている側だ。もう一人の神谷内香織が僕を追いかけてくる。なぜ? なぜ僕は逃げている? なぜ僕がにげなければならな   あ       わ


 やってしまった。
 頭を抱える。派手に見られたな。
 ちょっと、油断した。

  *

 あー。見失った。僕は医学部前のベンチにへたり込んだ。
 顔をしかめ、肩で息をする。
 二限に単位稼ぎでとっている社会学の授業が燈花と草苅さんと三人一緒なので、そのままの流れでお昼を食べた。デュルケムの後はあまり食欲が湧くものではない。アノミー的食欲に駆られた僕はカレーライス(味噌汁付きません)を食べた。燈花はきつねうどん(裏メニュー)、草苅さんは冷やし中華(はじめました)に何故か追加で冷奴を食べていた。食べ終わった後、燈花は図書館へ、草苅さんはゼミ室へ行くと言い、僕は本屋さんに行きたかったので、そこで三人別れた。が、理学部のあたりを歩いている時に妙に胸騒ぎがして、銀杏並木の方に戻ってみれば、案の定、僕は目撃してしまった。
 僕自身を。
 しかも今度はしっかりと目があった。
 神谷内香織はまっすぐこちらを見た。
 なんなんだ。
 一体なんなんだ、あいつは。
 どうして僕ではない自分がいるんだ。
 僕は思わず追いかけたが、タイミング悪くやってきたキャンパスツアーの高校生の群れに行く手を阻まれているうちにすぐに見失ってしまった。もう一人の僕の逃げ足は、僕の全力ダッシュに引けをとらない速さだった。というか同じなのだろう。あれがドッペルゲンガーなのだとするならば。

 ――自分のドッペルゲンガーに出会うと、死ぬっていうからさ。

 ドッペルゲンガーに鉢合わせた。
 しかし僕は死んでいない。
 そして厄介なことに、あいつも死んでいない。
 それこそが問題だ。
 僕は頭の中でカレンダーを計算した。日数を数えた。いや数えるまでもなかった。本当は知っていた。今日だ。恐怖がふつふつとこみ上げてくる。走ったときに上がった息が、全く整わない。寒気。指の先が冷たくて震える。
 あいつは死んでいない。
 あいつは今もこの街を歩いている。
 あいつは今夜だって。

「……香織?」

 どれくらい時間が経った後だっただろう。
 見上げると、本を携えた燈花が心配そうにこちらを覗き込んでいた。
 その時の僕は、ちょっと参ってしまっていたのだと思う。満月が近かったのも悪かったかもしれない。きっとそうだ。「どうしたのですか」と言いながら、ゆらゆらと燈花の顔が近づいてくる。ベンチからそれを見上げるのに目がしょぼしょぼして、自分が涙目になっていることを意識する。
 ううう、と唸って目をそらし、俯く。背中を丸める。
「よしよし」
 そう言って、燈花が僕の頭を撫でる。その甘い手が触れた瞬間、ふわっと力が抜けてしまう。僕は息を吐いて、そのまま目の前の彼女のお腹に頭を預ける。
 いつもふわふわと重量感のない燈花だったけれど、しっかりと僕の頭の重さを支えてくれる。
「大丈夫、大丈夫」
 ゆっくりと頭を撫でられていると、少しずつ呼吸が落ち着いてくる。けれども不安が静まると逆に涙がこみ上げてくる。このまま両手を燈花の腰に回したい、引き寄せたいと思ってしまう。さすがに恥ずかしい。よくわからない一線がそこにはある。
 ……。
 落ち着いてきたら少し恥ずかしくなってきた。なんだろうこれは。なんで僕は燈花に頭を撫でられているのだろう。燈花の手がゆっくりとゆっくりと、一定のリズムで僕の頭の輪郭をなぞる。それは丸い輪郭で、変なものが生えていたりはしない、きちんとした人間の頭だ。燈花の手が僕の頭を確認してくれる。僕はここにいる。ここにいるのが僕だ。今や身体がじんわりと熱い。どうしよう。どれ位時間がたったんだろう。え、これどうやったら終われるんだろう。え、タイミングがないでしょ。これ最高案件か。あ、いや終わらなくてもいいんだけど。いいのか?
「もう落ち着きました?」
 ぽんと手が頭に乗せられる。僕は弱い人間だ。
「……もうちょっと」

  *

 僕は燈花に始まりから話した。
 自分のことを話すのはとても恥ずかしかった。
 先日みとはちさんが目撃したという『僕によく似た人』を自分も見ていたこと。それが完全に自分自身にしか思えなかったこと。そして今日、今度は『それ』と正面から鉢合わせたこと。追いかけたが、逃げられたこと。自分がもう一人存在するのが恐ろしいこと。自分の知らない自分が何をしでかすかわからないこと。もちろん、具体的に自分が何をする危険があるのかは言っていない。
 それでも。
 とても怖いということ。
「自分のコントロールが効かなくなる瞬間っていうか、あるいはそのあとふと我に返る瞬間とか、忘れているけれど何かひどいことをしでかしたんじゃないかとか、無意識に人を傷つけてるんじゃないかとか、そういうのが、とても怖い。だから、そこに自分の管轄外の自分がいるっていうことが、怖い。あれがドッペルゲンガーなのかとか、あるいは妖狐でも、その他いかなる妖怪でも、超常現象でもいいけれど、それが未知の存在だからではなくて、それが自分であるということが、怖い」
 昼下がり。学生の通りはまばらで、犬の散歩のおじいさんが横切っていく。
「でもそれは、香織じゃないでしょう」
 横に並んで座っている燈花が静かに言った。
「それが何者であるにせよ、いま私と話している香織とは違う存在で」
 燈花の言うことはわかる。
「それは、頭ではわかってるんだけど……」
 それでも怖いのだ。自分ではない、別のものだと思っていた物事が、実は自分の一部で、自分がしでかしたことの一部かもしれないという恐れ。
「逆に、そいつのせいにしてしまえば?」
「え?」
「マンゴーフレーバーティーみたいに。悪いことはそいつのせいに」

 悪いことは、そいつのせいにしちゃえばいい。

 自分ではないものの行いが自分のせいになる。

 自分ではないものの行いをそいつのせいにする。

 それだ。
 頭のなかで何かが回り出した。
 火花が散って、エンジンが唸りを上げる。
 ピストンが撃ち、
 クランクシャフトが回転し、
 ピースが組み合わさって、
 像が作り上げられ、
「それだ」
「え」
「それだよ、燈花。分かった。ゼミ室に行こう」
 燈花の方を向く。顔を見る。……あれ? 燈花がなにか、つらそうな顔をしている。声は明るい声だったのに。ちょっと涙目になってはいないだろうか? 何がつらいのだ。いや、これはつらいんではなくて、あのときと同じ顔。偽名は嘘だと、嘘を言った時と同じ顔。嘘? 申し訳なさそうな顔? 何に対する、申し訳なさ? 回転数が上がる。映像が巻き戻る。情報が流れだす。

 あー。

 すべてが解ける。


最終更新日 : 2015-06-30 00:44:33

「今日は来るのが早いねぇ」
 ゼミ室にはみとはちさんがいた。みとはちさんは悪役っぽく逆光の中に座っていた。
「その顔だと、解けたんだね?」
 みとはちさんはニヤリと笑って、眼鏡を上げた。
「分かるんですか」
「分かるよ。私、占い師の家系だから」
「初耳ですが」
「なんでも分かるよ」
「そうですか」
「香織っち、今日は……水色だね」
 みとはちさんはニヤリと笑って、眼鏡を上げた。
 こいつ、何を当てに来ている。
「まぁとりあえず、解けましたよ。僕なりの仮説を持ってきました」
「さすがだよ。香織っちはいつも謎を解いてしまうね。さすが水色のしましま」
 しましまではなかった。
「あれ、二人早くない?」
 草苅さんが戻ってきた。カバンは置いてあったし、手にした電気ポットを見るに水を汲みに行っていたのだろう。
「香織っちがなんか解いたって」
「本当?」
「はい」
「さすが香織」
 この人の『さすが』にはやや不安が残るが。
 紅茶を淹れて。僕たちは話し始める。

 問2。
 なぜそのような『都市伝説化』が生じたと考えられるか。
「色々考えましたが、僕の考えだとその理由は、このアシキが便利だからです」
「便利」
 三人が復唱する。
「怖い話だからでも、笑える話だからでもなく、便利だから。それが理由だと思います」
 僕は言う。
「都市伝説が語られるのは、語られる必要があるからです。江ノ島の都市伝説を知っていますか」
「江ノ島?」
 三者三様にわからないといった顔をする。燈花もどうして江ノ島の話が、という顔だ。
 上手いもんだね。
「『江ノ島に初デートに行ったカップルが別れる』というものです」
「あぁ、それなら知ってる」
 草苅さんが言った。
「あの都市伝説に何か関係が?」
「僕は関係があると思いました。というか、そこから思いつきました」
「あー、それで二人は週末江ノ島デートだったの?」
 みとはちさんが言った。
「なぜ知っている!」
 思わずテーブルを叩いた。カップとソーサーがガチャンと音を立てる。
「分かるよ。私、占い師の家系だから」
 みとはちさんはニヤリと笑って眼鏡を上げた。
「さすが八恵」
 さすがではなかった。
「まあ、香織、私たち別に隠して付き合っているわけではないですし」
 隠してはいないが付き合ってもいないぞ。
「え、で、その都市伝説ってなんか関係あるかな? 元ネタは弁天様でしょう? 神話や伝説が世俗的な都市伝説に変化した、っていう点が共通しているということかな」
 みとはちさんはさっさと話を進めようとした。
 えふん、と僕は咳をした。燈花の発言に突っ込んでおくか迷ったが流すことにした。みとはちさんがにやにやした。こいつ。
「そうです。はい。週末にこの都市伝説を燈花に教えてもらいましたが、まさにそういう共通点があると思ったのです。それで、なぜ江ノ島の都市伝説が生まれたかを考えました」
「私が聞いたことあるのは」
 草苅さんが言う。
「江ノ島って結構急な坂とか階段とかが多いから、そういうところに付き合って日の浅い男女が来ると、どうしても女の子の方が疲れちゃったりしてあまり雰囲気が良くならないんだ、みたいな」
「それは違います」
 燈花が言った。
「確かに結構坂がきつかったですが、香織は私のペースをちゃんと気にかけてくれました」
「そういうことではない」
 なんかいやな汗出てきた。
 みとはちさんがニヤニヤしつつ、言う。
「はるかが今言ったのは、都市伝説に対する解釈だよ。香織っちが聞いているのは、なぜ都市伝説が必要なのか、だよね」
「そうです。必要だった。必要だったから語られた」
「デートすると別れるという都市伝説が必要だったの? つまり、別れる理由を作りたい人がいた?」
「確か行くと回避できる神社が近くにあったよね。その神社の陰謀か」
 みとはちさんが陰謀論を唱えた。分かっていて冗談を言っている顔だ。
「そういうことではありません。龍口明神社による回避策は後付でしょう。みとはちさんが先週言ったように、回避策というのは都市伝説がある程度人口に膾炙したとき、突如追加されるものであって、つまり都市伝説が語られた後からついてくる」
「でも、それじゃあますますわからない。この都市伝説が必要とされるのは、別れたい時か、江ノ島に行きたくない時じゃないのかな」
「デートを前提とするなら、ですね。他の場所でデートすればいいわけですから」
「……デートではないことが目的だとしたら、違うのか」
 みとはちさんが言った。この人は気付いたな、と思った。
「そうです。調べたんですが、この都市伝説が生まれたのは、一説には江戸時代からと言われています。案外古いんです。その時期というのは、七福神ブーム、弁天様ブームが巻き起こった時代ですね。人々は財産を増やそうと、弁天様にあやかろうと、競って参拝するわけです。江ノ電も湘南モノレールもありません。そんな時にこんな伝説があったら、どうでしょう。『初』デートかどうかは、おそらく、後からの追加というか条件の緩和です。そのころは、単に『江ノ島には男女で訪れてはいけない』ということを言っていた、としたらどうでしょう」

 江ノ島まで参拝する人間が、『カップルで来てはならない』という話を必要とする理由。
 男女で来てはならないなら、どうやって来ればいい?

「女遊びだ……」
 草苅さんがつぶやいた。
「そうです。男女で来てはいけないのなら、一人で来ればいい。江ノ島街道は遊女の集まるスポットでした。男たちは江ノ島まで出かけるのに、妻についてきて欲しくない。だからこういう話が語られた。申し訳ないけれど、お前と一緒に行って弁天様に嫉妬されちゃかなわん、留守番していておくれ、と。もちろん一説に過ぎません。本当のことはわかりません。この由来話自体が都市伝説ということもあると思いますが、まあそこはちゃんと検証してません。しかし、僕が面白いと思うのは、この便利な都市伝説が、決してゼロから作られたわけではないということです。龍と弁天の話は、正しく伝統的な伝承であって、遊女遊びより昔からあの土地にありました。それを、都市伝説が都合よく拾い上げたというわけです」
「なるほど……」
 みとはちさんと草苅さんが頷いた。燈花も微笑んでいる。
「それと同様のことが、この妖狐伝説でも起きた、というのですか」
「そう、このアシキは、便利なんだよ。便利だったから活用された。便利だったから拾い上げられた。嫉妬深い弁天様と同じように」
 僕は言う。
「このアシキの話は、都市伝説とはいいつつ、『口裂け女』みたいな典型的な妖怪都市伝説とは少し趣が違います。口裂け女に出会うと殺されますが、アシキに行き合っても死にはしない」
「友情が破壊されるだけで、命までは取られない、ということ?」
「そうです。しかも、それがアシキのしわざだと、その場であれ後からであれ気づくことができれば、実際に友情は破壊されないわけです。ああなんだ、アシキのせいだったのか、怖い怖い。それでおしまいです」
「なるほど?」
「草苅さん、草苅さんは失言って経験ありますか」
「え?」
 燈花は失言とかしなさそうだし、みとはちさんは別の意味で失言とか無さそうなので草苅さんに聞いた。
「あるよ?」
 なのにみとはちさんが答えた。
「みとはちさんではなく」
「いや、はるかは失言するよ? 失言っていうかなんていうか、朝弱いからさ、こないだもなんか寝起きで不機嫌なときに、私が熱い目玉焼きだして塩胡椒振ったのになんかキレてさ、『いらない、捨てて』とか暴言を」
「あー! あー!」
 草苅さんが柄にもなく真っ赤になって大声を出した。
 ていうかなに、二人同棲でもしてるの……。燈花と目が合った。燈花が耳打ちしてきた。
「(だからDまで行ってるって言ったでしょう)」
「(Dって同棲か)」
「(ところで香織は目玉焼きには何派ですか)」
「(ケチャップ)」
「(少し教育の必要がありそうですね)」
 そんな必要はない。
「でね、はるかも、それだけならただの好き嫌いと暴言だけどね、だんだん目が覚めたら青ざめてきてさ、どうやって謝ろうみたいもぐ」
 みとはちさんの口にカントリーマアムがねじ込まれた。
「そのもぐやっちゃったっていうマジな顔もぐが失言もぐ可愛もぐ」
 度重なるサイズダウンによる実質値上げが響き、一枚のカントリーマアムでは口をふさぐのに足りなかった。草苅さんは四枚ほど追加した。みとはちさんが、お茶もぐが怖もぐい、と言った。僕はポットに残っていたパッションフルーツティーを注いであげた。
 そろそろ話を戻そうか。
「草苅さん、そういう時に、彼女は便利なんですよ」

 ブゥウン……と、扇風機が首を振る。

「なるほど、ね」
 嚥下の完了後、みとはちさんが頷いて言った。
 燈花の表情にもはっとしたものが浮かんでいる。

「つまり……失言をアシキのせいにできる」
 草苅さんが言った。

「そうです。簡単です。自分の失言を悔いる気持ちがあるのなら、友情を傷つけたくないのなら、翌日すっとぼければいいだけです。その上で、自分は本心ではそんなことは考えてもいない、と説明すればいい。相手はきっとわかってくれますよ。相手からしても、そんな酷いことを本心から言われるはずはないんだという考えは魅力的ですし」
「資料B1には友達の悪口を言って去ったアシキが出てきます。もちろんこの話だけから何も断言できませんが、こういうシチュエーションは子どもたちの間では普通に起こることでしょう。B群の資料は他も似たようなものですね。普段は仲良くしているけれど、ふとした拍子に友達への不満が爆発する。酷いことを言ってしまう。そうしてそれを後悔する。本当はあんなこと、言うつもりじゃなかった。あれは自分の本心ではない。そう、あれは自分ではない。自分そっくりの、偽物だ、と」
 それが僕の仮説。
「物語には、必ず語られる理由がある、目的がある。ハッキリ言ってアシキの話は口裂け女みたいにセンセーショナルなものではありません。それでも語られるとしたら、こういう理由なんじゃないかなと僕は思います。小中学校の子どもたちにとって、人間関係は切実ですから」
 出題者の稲荷木燈花への、答えだった。

 僕は彼女の顔を見ないようにして、仮説を語り終えた。


最終更新日 : 2015-06-30 00:52:49

 ゼミで回答編をやらかし、さんざんみとはちさんに絡まれた後、急いだのだけれど、それでも家につく頃には日が落ちていた。しかし今回は家を離れる時間もなかった。自宅しかない。
 額の汗を拭い、玄関の扉に鍵をかける。チェーンもかける。コップに水をくんで、薬を飲む。白い正円。二錠飲み込む。もう一錠飲む。さらにもう一錠口に含んで、今度は水で流し込まずにゆっくりと舌の上で転がす。ビリビリとした苦味が頭痛を押し戻す。吐き気をこらえながら僕はすべての窓の鍵がしっかりとかかっていることを確認し、遮光カーテンを閉めていく。閉めていく。ベランダに出られる一番大きなサッシには防犯用の追加錠を取り付ける。口の中の錠剤が消えているのでもう二錠口に放り込む。いま全部で何錠飲んだ? 頭が痛い。頭の奥が引きつって、頭蓋骨が締まる。脳が頭蓋骨という水槽の中に浮かんでいるのを僕は想像する。水圧で脳が押しつぶされそうだ。目をしっかり開けていられない。もう一度玄関に戻り靴箱から大きな電子錠と手錠を取り出す。錠前の方はドアの取っ手部分に取り付けることで内側からドアが開かないようにすることができる。手首の骨にしっかりと嵌る手錠にも連動しているので、同時に僕の両手を拘束し、翌朝までこの場から動かさない。一度ロックすれば規定の時間数が経過するまで外す方法はない。設定は十時間。十時間後、夜が明けるまで、ロックは外れない。頭が割れるように痛みだす。錠剤の瓶を取り落としてしまい床にぶちまける。白い錠剤がバラバラと廊下を満たす。小瓶から吐き出される錠剤は止まらない。呪われた薬壺のように毒を吐き続ける。錠剤たちが無限に床を転がる。ザラザラと耳障りな音が鳴り続ける。錠剤たちの震えは止まらない。僕の細胞一つ一つが不快な震えを続けている。細胞と細胞の間の隙間がギシギシときしみ、表面を撫でればその隙間が引き千切られ、ボロボロと剥がれてしまいそうだ。吐き気と悪態を喉の奥に抑えながら、散らばった錠剤を集めるのは諦めてただ床から一掴み拾ってポケットに突っ込む。頭頂の左右がムズムズと痛み、頭蓋全体が締め付けられる。僕は叫んでしまわないように口を拘束する金具を用意する。最後に錠剤を三錠ほど追加して飲む。口の中いっぱいに刺すような苦味が広がり頭痛が一瞬遠ざかる。長い夜の前半だけでも昏倒して過ごせるよう、僕は落としたのとは別の薬瓶の蓋を開け、その中の強力な睡眠薬を、

 電話が鳴った。

 非通知設定。

 普段の僕ならもちろんこんな状態の時に電話などでない。電子音がガンガンと頭に響く。また、こんな状態とか関係なく、非通知の着信なんて怪しいし、出たくない。電子音がガンガンと頭に響く。しかし、電子音がガンガンと頭に響く僕は出る前から、電子音がガンガンと電話をかけてきたのがガンガンと頭に響く誰か、想像響くが電子音が響く頭電子音がガンガンと響く頭想像非通知ガンガンと頭に響くついて

「……もしもし」
 言葉を発すると自分の息で口の中の苦味が増幅されるようだった。
「僕だよ」
 電話の相手は、紛れもなく神谷内香織の声色でそう言った。
「話したいことがある。君の家のすぐ近くまで来ている。出てこられるかな」

 *

 アパートから徒歩一分の公園。それが、彼女の指定した場所だった。本当にすぐ近くだ。いくらすぐ近くであっても今夜外に出るのはものすごく怖かった。それでも僕は、そこに自分がいるということに我慢がならなかった。

 一目見て確認する必要がある。

「夜遅くにごめんなさい」
 ベンチに腰掛けていた神谷内香織は僕を見て立ち上がり、言った。それは紛れも無く神谷内香織らしい神谷内香織だった。ただ、この満月の夜には、本物よりも出来過ぎていた。
「話って何? こんな夜中に」
 僕は荒い息で言った。
「具合、悪いの?」
 神谷内香織は心配そうな顔をした。
 その瞬間、僕の中で一気に何かが冷めていった。
 馬鹿め。
「……それではっきりしたよ。お前は偽物だ。中身までコピーできていない」
 僕は大袈裟にため息を付いた。偽物の表情からは何も読み取れない。
「化けるっていうのは、その時の体調までコピーするわけではないよ。体調悪く見せようと思えば、そう見せることはできるけれど」
「違う。君は神谷内香織のことがわかっていない。僕ほどには」
「君、ずいぶん自意識過剰だ」
 偽物の神谷内香織はそう言った。
 僕はポケットから錠剤を取り出して噛み砕きながら微笑んだ。そうだ。僕は自意識過剰だ。
「僕は自分が知りたい。知らなければならない。自分の罪は自分で背負いたい。あれはアシキでした、偽物でした、なんて都合の良い都市伝説で言い逃れしたくない。だから今すごく安心したんだ。君は僕じゃない。劣化コピーですらない。偽物以下の偽物だ。僕は君を知る必要すらない」
 錠剤の苦味を感じない。舌のしびれを感じない。夜風にあたり、月の光に撫でられる皮膚が燃えるように熱い。皮膚が軋む。ダメだ、もう抑えきれない。一瞬恐怖を感じるけれど、すぐにそれが、興奮に取って代わられる。きっと後悔する。それすらも愛おしい。
「そこまで言われてしまうとは心外だなぁ。これでも『三言喋るのを聞けば、物言いから頭のなかまで』だ。神谷内香織を完全に体得したつもりなんだけれど。君がそんなにヤク中みたいになってるとは知らなかったけどさ。もしかしたらそのせいかな? 薬で人格が変わってしまった、とか」
 僕は半分唸り声になりながら言う。

 いいよ、もう。
 言ってやる。

「『三言喋れば』は、それは君の母親の話だ。君には伝説の妖狐の血は四分の一しか流れちゃいない。君の変身はそれ自体が劣化コピーだ」

 偽物はきょとんとして首を傾げた。

「さすがだ。そこまで分かってたんだ」
 当たり前だ。僕は吠えそうになった。それに気付いてもらうための茶番劇だったはずだ。わからないほうがおかしい。
「その首を傾げるの、僕の友達の癖だよ」
 偽物は首を傾けたままだ。
「その子は僕が君を目撃した二回とも、直後に僕の前に姿を表した。まえに両親はもともと××方面の出身だと言っていた。彼女が民話を収集してきたのは××県だ。みんなの前では父親の実家、としか言わなかった。けど、お父さんはお母さんと結婚するのを実家に反対されて、ひどく喧嘩して家を出た、とその子は僕に教えてくれた。半人半妖狐伝説の絶頂期を飾る事件として、『親子の仲違いが村全体を巻き込んで、息子が縁を切られて村を出るまでになった』と、資料に書いてあった。それが多分二十年くらい前の出没事件なのだろうけれど、そのことは不自然に資料にまとまれていない。僕はこの縁を切られた息子というのが、彼女の父親かもしれないと想像する。だから民話の収集に際しては、絶対に本名を名乗れない。騒動の当事者だからだ。では、母親は誰だろう?」
「これは本当にただの想像なんだよね。見方を変えてみる。そもそもなぜ彼女の問題意識は資料B群、現代に生きる都市伝説の方にあったのだろう。妖狐伝説そのものだって十分面白いのに、そしてその伝説が二十年ほど前に途切れているのだって十分検討の価値があるのに、彼女はそこを避けて、僕たちを都市伝説の方に誘導した。理由は単純なんじゃないだろうか。彼女はBのほうが気になった、それだけだ。なぜ気になるか。彼女はもう、その妖狐が村にいないことを知っているからだ。Aは終わった話だと知っているからだ。けれど、Bは違う。既に妖狐がいなくなった後も、伝説が生きている。改変されて子どもたちに語られている。なぜだろう、一体どういう機能があるのだろう。それが彼女の問題意識だったんじゃないかと思う。そう考えると自然だ。だから僕は彼女が、半妖狐のアシキを母親に持つ、妖狐のクオーターなんじゃないかと想像する」
「その上で、僕のドッペルゲンガー問題は、君が投げ込んだヒントだ。偽物がうろついている時に、本物は偽物の存在をどのように言い訳に利用できるのか、それに気づかせるための餌だ」
 偽物は首をかしげたまま、問う。
「それだけで? 君にしては、なんとなく論理性にかける気がするよ」
「僕もそう思うよ。だからただの仮説なんだけれど、それにしてもあからさまだし、これしか信じられない。それに一つ、決定的な要素がある」
「なにかな」

「その子の大好物は油揚げだ」

 神谷内香織の姿をした稲荷木燈花は、にこりと笑った。
「さすがですね、香織は」
 稲荷木燈花はツクリモノの声で喋る。
「本当は周りの人たちに見られて、噂されるくらいに留めるつもりでした。あそこで香織本人に姿を見られるつもりはなかったのです。それでヒントを出したかった。それだけです。姿を直接見られてしまうと、さすがに香織はこっちの謎を解きに来てしまうだろうと思ったので。案の定そうなってしまったわけですね。昼間この姿を見てから気付いたのでしょう」

 嘘だ。
 はじめから僕に見せつけるつもりだったくせに。

「今日呼び出したのは、謝ろうと思ったのです。あの時、怖がらせてしまったようでしたから。その通りですよ。質の悪い偽物と言われてしまったのは悔しいですが、そうです、私は香織ではありません」

 事故みたいな言い方をしている。
 嘘だ。
 君ははじめからそのつもりだった。
 そうじゃなきゃ、僕に化ける理由なんてない。動機がない。

 僕はイライラした。
 もうとてつもなくイライラした。
 錠剤を飲んでも飲んでも足りないくらいにイライラした。
 叫んでもおかしくないくらいイライラした。
 この子相手にこんなにイライラするなんて想像しなかったくらいイライラした。

 今僕が並べ立てただけの理由で、彼女が狐だなんて気づけたもんじゃない。
 そのことは燈花だってわかっているくせに。

 物語には語られる理由がある。目的がある。

 僕は他人の秘密に土足で立ち入るのを何より嫌う。『解いていいよ』と言われないと謎を解こうとしない。そのことをわかっているから彼女は、それをゼミの場で出題した。そうすれば僕が彼女の秘密に辿り着くだろう、辿り着いてくれるだろう、『解いて』くれるだろうと見込んでのことだ。

 けれどそれだけではまだ足りない。
 僕の興味の向く先を、彼女はもう一つ見抜いていた。

 自分だ。
 だから彼女は、僕になった。
 そしてその姿を僕に見せた。
 僕に解き明かしてもらうために。

 そうして彼女は僕になおも甘える。僕にその行為を受け入れてもらえると期待している。僕が彼女の嘘を暴いて、問い詰めたりしないと思っている。ああ、しないよ。しないさ。そうでなければ殴り飛ばしている。いや、これからするかもしれない。もっと酷いかも。
 ほとんど八つ当たりだとはどこかで分かっていた。でも頭が沸騰している。どうしてこんな、僕を試すようなやり方にしたんだ。普通に打ち明けずに。僕に変身して。普通に相談してくれれば、僕だってこんな身体だ。少なくとも話を聞くくらい出来たはずだ。なにしろ藤木先生のゼミだ。多少、人外がいたところで不思議はないだろう。驚きやしなかったさ。それをどうしてこんな。

 僕は試されるのが大嫌いなんだ、と自覚した。
 その嫌悪は、この回りくどい告白みたいなものを塗りつぶして余りある。

 本当は、燈花が普通の人間ではない可能性を考えていたけれど、さすがにこんな茶番をやる意味がわからないと思っていた。そんな手間とかリスクとかかけて、僕に化けたりするだろうか、と思っていた。知らないふりをしていた。でもここまでやられたら無視はできない。そこまで韜晦を気取ってはいられない。それをわかっててやっているんだろう。僕がそうやって結局受け入れてくれる、それに期待しているんだろう。イライラする。本当に。
 血が燃えている。背後に月が輝いているのがしっかりと分かる。偽物の僕の顔をキラキラと照らしている。偽物の僕は満足げだ。目論見通りうまくいったからだろう。見込みは正しかった。しかし。しかし彼女は日を間違えた。今日にすべきではなかった。全身がガクガクと震えだす。
 知らなかったのだろう。そりゃそうだ。知るわけがない。
 そもそもなぜ僕が、自分を知りたいと思っているのかを。
 知らなければ怖いと思っているのかを。
 なぜ毎晩寝る前に寝室のカメラを起動して、自分がベッドを抜け出していないことを確認しているのかを。
 なぜ満月の夜にはありったけの道具で自分を拘束しているのかを。
 なぜ藤木先生の研究に興味があるのかを。
 そりゃそうだ。僕が彼女には伝えていないんだから。
 僕が秘密にしているんだから。
 知らなかったから、まさか僕がここまで自分がもう一人存在することに対して神経質になるとは思わなかったから、あの時あんな顔をしたのだ。僕と鉢合わせてしまった後のあの顔は、僕の精神状態をひどく悪化させてしまったことへの申し訳なさだ。偽名を使わないといけなかった、ということを軽率に言ってしまい、僕を混乱させた時と同じ顔。
 馬鹿か。僕に化けるのはよくて、僕に心配させるのはダメなのか。どうかしている。

 そして僕は、馬鹿な彼女が、少し妬ましかった。
 妬ましかったのだ。
 こんな馬鹿げだやり方にせよ、自分から秘密を開示できる彼女が。
 僕とは違う馬鹿な彼女が。

「……香織?」
 いつしか彼女は稲荷木燈花の姿に戻っている。その方がいい。彼女のふわふわしたロングヘアーには神谷内香織風の服装がおそろしく似合わない。しかし何にせよ、自分自身の姿をしたやつを襲うのはゴメンだ。いくら室の悪い偽物とはいえ。いくら、満月の夜の僕の本性をコピーしきれていなかった偽物とはいえ。僕は自分が何を考えているのかについて考えて慄然とする。全身が粟立ち、興奮で口の中に唾液が溢れてくる。
 ううううう、と低く唸り声を上げる。目をつむって、拳を握りしめ、歯を食いしばり、声を絞り出す。

「ゲームの世界だと、妖狐っていうのは、噛めないって言うけれどさ」

 背骨がガリガリと音を立てている。
 僕の身長が伸び上がる。
 身体が一回り大きくなって、焼けた皮膚にザワザワと灰色の毛が沸き立つ。
 ぐいと顔を上げれば天の満月が飛び込んできて、顎が広がって牙が口の中を埋める。
 狼は夜目が効く。鼻もいい。小さく悲鳴を上げて後退りする稲荷木燈花のにおいが分かる。月明かりに照らされた白い肌に牙を突き立てる数秒後を想像する。一歩一歩にじり寄る。稲荷木燈花が尻もちをつく。声にならない悲鳴が吐息になってその小さな口から漏れる。
 君と僕、二人分の吐息が混じる。君からはもう、僕のにおいはしない。もっと甘いにおいがする。

「四分の三が人間だったら……」

 噛めるだろうか。きっと噛める。僕は知っている。

 狼が、狐に襲いかかる。


(第二部につづく)

 


最終更新日 : 2017-04-17 21:33:05

第二部『稲荷木燈花は貴方が知りたい』はこちら。

http://p.booklog.jp/book/114287


最終更新日 : 2017-04-25 23:42:58