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気紛れを 許して

 

(椎名林檎『本能』)

 

 

 

 完全防寒装備が仇になった。先程軽くシャワーを浴びた所為で寒いと思ったのである。失敗した。この夜空の下マフラーにぐるぐる巻きにされた私の首筋は、もう11月も終わると言うのに薄く汗をかきはじめていた。私はブロック塀に挟まれた、ちらりちらりと星の瞬く夜空を仰いでどうしようかと途方に暮れた。

 

 しかし今更家に戻る訳には行かない。

 

「どうしました?」

不意に後ろから声を掛けられた。

 

 声の主は長身の青年である。ジャケットにマフラーの、私よりはいくらか軽装な身体に項を覆うくらいの髪を無造作に生やした頭が、細い眼鏡の向うで微笑んでいる。

 

「確か・・・・滝沢さんでしたね?」

青年はそう訊いた。私は舌がもつれて返事が上手く口から出てこないので、代わりにこくこくと頷いた。

「貴方は・・・・狛さん?」

私はようやく青年の名前を思い出した。一週間ほど前に近所に越してきた人だ。家に挨拶回りに来た時に、名刺をくれた筈である。

 名刺には『狛 輪鼓 職業:探偵』――とあった。

 

「滝沢さん、どうしたんですこんな時間に? もう8時を超えますよ。」

狛は腕時計に目をやった。成程、大して寒くも無い晩秋の夜空の下を大層な防寒装備をしてうろついている四十男なんて、探偵にとっては胡散臭さの塊に見えるに違いない。私は何と説明したものか解らなかった。

 

「え、ええと――そういう狛さんこそ何を?」

「僕はペットの散歩です。ほら、イユンクス!」

狛は空中に声を掛けた。するとばさばさと大きな羽音がして夜の闇がずずうと鳥の形をとり、やがて一羽の鴉になって狛の肩に止まった。

 鴉は胡散くさげに私を見ると、一声かあと鳴いた。

 

「それで滝沢さんはどうなさったんです?」

私ははっと我に返った。

「あ、ああ、そうなんです、聞いて下さい。大変な事が――」


私の営んでいる下宿に布施 里美が引っ越してきたのは2日前である。近くの某女子大学一年生で、快活で可愛らしい感じのお嬢さんであった。

 その里美が今、首を食い千切られて死んでいるのである。

「食い千切られて?」
狛は怪訝そうに訊いた。
「ええ、間違いありません。だってやったのは――家の八房なんです。」
私は目を伏せて答えた。八房の口が血にまみれていたのである。

 八房は私の家で飼っている犬である。種類は良く解らないが、日本犬の雑種だそうだ。身体が人間の小学生くらいある大きな賢い犬であった。
 その八房も今また里美の横で、身体を滅多刺しにされて息絶えている。

「・・・・その――里美さんと八房は、今里美さんの部屋に?」
「ええ、両方とも彼女の部屋で死んでいます。」
室内は惨状を呈していた。引越しの片付けも十分に済んでいないワンルームの部屋は凄まじい格闘の所為だろう、物が散乱した床の中央で里美が苦悶の表情を遺していた。

「八房は――そんな凶暴な犬だったんですか?」
「いえ、大きいからそれなりに力は強かったし、私にこそなつきませんでしたが割合人好きのする、むしろ大人しい犬でした。それに里美さんに始めて会った時も八房の方からじゃれついていったくらいで、里美さんも犬が好きとの事で丁度良かった・・・・と思っていたのですが・・・・。」

私は改めて事態の異常さに気付き言葉を詰まらせた。

 狛は顎に手を当てて軽く首をかしげ考え込む態勢を取った。


「八房を殺した人物の事も考えなければなりませんねぇ・・・・里美さんが誰かの怨みをかっていた、という様子はありませんでしたか?」
「いえ、何分つい最近越してきたばかりですから・・・・心当たりはありません。」
「何でも構いませんよ、家族関係などでは?」
「は、家族・・・・里美さんには御両親がいらっしゃいませんし、家族と言えるような人は思い当たりませんが。」
「御両親がいらっしゃらない?」
「ええ、叔母夫婦と暮らしていたとかで。」

私は知っている限りの里美の身の上を説明にかかった。里美には父がなく母と二人で暮らしていたが、二年前にその母が里美をおいて不倫関係にあった既婚男性の下へ走ってしまったのである。気の毒な里美はその後叔母夫婦に預けられたのだそうだ。

「それで、里美さんのお母様は今何処に?」
「さあ、知りません。行方知れずになってしまって。」
「相手の男性も結婚していらっしゃったんですよね、その方の奥様は?」
「さあ、それも・・・・やはり何処かへ行ってしまったようですが。」
「うーん・・・・。」

狛は首を反対方向に傾げた。


「事件を見つけられたのは何時頃ですか?」
「ええと・・・・買い物から帰ってきた後ですから、夕方の六時くらいです。専門家でないので良く解りませんが・・・・そんなに時間が経っている様ではありませんでした。」

「誰か室内に侵入した形跡はありませんでしたか?」
「何しろめちゃくちゃだったので・・・・でも窓は全て鍵を掛けてありました。」
「扉は?」
「それには鍵がかかっていませんでした。里美さんは何処かへ出かけようとしていたみたいでした。」
私は里美がマフラーをしていた事を説明した。大方八房と共に散歩でもするつもりだったのだろう。

「じゃあそこから誰か部屋に入ったかもしれませんね・・・・イユンクス、聞き込みに行ってきてくれないか?」
イユンクスはかあと一声鳴くと、再びばさと鷹揚な羽音を立てて夜に還っていった。私は少し面食らった。狛は済ました顔で質問を続けた。

「他に下宿している方や滝沢さんの御家族など、他に異変に気付いた方はいらっしゃらなかったんですか?」
「他の下宿人はその時出払ってしまっていましたし、私には家族はいません。」

「でも八房は元々貴方が飼っていらした犬ではないんでしょう?」

図星だ。私はぎくりとした。

「どうして解ったんですか?」
「貴方があまり八房の事を好きではない様だから。」
狛は微笑んでみせた。私の今迄の八房についての口調から読み取ったのであろう、流石探偵である。私は以前に離婚した妻が飼っていた犬である事を告げた。妻には大変なついていたのである。


「八房は――意味もなく人を襲うような、そんな犬ではなかったんですね?」
狛はもう一度質問を繰り返した。

「はい、兎に角賢くて大人しい絵に画いたような忠犬で、理由もなく人を噛むなんてとても――考えられません。」

「うーん・・・・。」
狛は傾げていた首を正位置に戻した。その時上空でばさばさと羽音がして、再び闇が鴉の形になって狛の肩に戻ってきた。

「お帰り、どうだって?」
かあかあとイユンクスが鳴き、狛はそれに一々面白そうに頷いて、そして私に向かってにっこりと微笑んでみせた。

「里美さんが自室へ戻ったのが午後4時、それ以降の訪問客はいなかったようです。また貴方のおっしゃる通り他の下宿人は全員今日一日自室にいらっしゃらなかったみたいですね。」
そして狛は腕を組みなおした。

「貴方も嘘をついていらっしゃらないようですし、これで大体解りました。」

「嘘をついていないって・・・・」

狛は人の心の中まで見通せるのか? 私は驚きを通り越して空恐ろしくなってきた。狛はうふふ、と人差し指を軽く下唇に当てて笑みを浮べた。

「僕には解っちゃうんですよ。」



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