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「おフネがいるよ、黄色いおフネ。けむりを出して、浮かんでいるよ」

 黄昏時のベランダで、息子のエイタが口を開く。緩やかな曲線を描く赤みをおびた頬、睫毛が長いのは夫譲り。その下、群青の揺らぎを映すのは、丸い硝子球のような瞳。まばたきひとつすることなく、息子は海を見ていた。

 私は蛇口をひねり、持っていた皿を、溜めた水に沈める。緋色のエプロンの端で手を拭って台所を後にする。潮の薫りが髪を攫う。私は窓枠から腕を伸ばし、小さく熱い左手を握りしめた。夕陽の光が目に入り、視界が眩む。息子の影が伸びていた。

 エイタは海を見つめたまま、右手を上に伸ばし、大きく横に振る。いつまでもいつまでも。

 私には見えないその船に。

 

 エイタは船乗りの夫の影響か、海が好きな子だった。港町の高台に建つこの家のベランダからもいつの頃からか、毎日欠かさず海を見ていた。黄昏時になると、ふと何かを思い出したようにベランダに行く。絵本に夢中になっている時も、クレヨンを握りしめ、赤い円をひたすら描いている時も(何故だか赤ばかり使うので、それだけが不自然に短かった)、ソファの周りを走り回っている時も。ピタリと動きを止めたかと思うと、ウミネコの声に誘われるように、ベランダでただ黙って海を見ていた。

 私は海が嫌いだ。あのうねりが、揺らぎが、水面が、酷く恐ろしいものに見えた。この家の窓から見る海は特に。この家に住む前からだったのか、住んでからなのか、それはなにやら曖昧で、ただ漠然と鈍色の満たされた虚構に沈みそうになった。

 陽が海面に消える前に、早々に帳をおろさなくては気がすまない。夏の日が長いうちも夕刻には蛍光灯の下で過ごした。簡素に食事を済ませ、夜が来る頃には床につく。ぼうっと聞こえる、遠くの船の声に耳を貸さぬよう、布団の中にくるまって。

 

 エイタが黄色いおフネを見始めたのは、いつの頃だったか。黄昏時の夏の終わり、海風に冷たさを感じ始めた頃だろうか。

「おフネがいるよ、黄色いおフネ。けむりを出して、浮かんでいるよ」

 エイタはある時、唐突にそう言った。右手を前に伸ばし指を指す。視線の先は揺らがない。

 けれど、私に船は見えなかった。黄色いおフネというぐらいだ。海から距離があるとは言え、黒い水面の上では目立つはず。それでも、私に船は見えなかった。

 エイタは真剣な眼差しでとても嘘を言っているようには見えない。エイタの顔と海との間を視線で何往復もするうち、エイジは右手を宙に伸ばした。そしてそれを一定の速さで半円を描くように動かす──手を振っている。存在の主張か別れの合図か。どちらにせよ見えない何かに向かってしていることであり、その意図などを考える間もなく、私はその身体を抱きかかえ、窓の鍵を閉じた。エイタの身体が軽かった気がした。

 それから毎日、エイタは黄色いおフネを見るようになった。その度に私は駆けつけて、ベランダにいる彼を抱きかかえる。けれどもエイタはその時ばかりは泣きわめいて騒ぎ出し──この子はぐずったことが記憶にないぐらい、おとなしく控えめな子だ──何遍やっても、いつの間にかそこにいた。

 今はエイタが黄色いおフネを見る度、私は家事の手を止め、その傍らに行き、小さな手をしっかりと握ることにしている。

 遥か彼方にある船に手を振る息子が、どこかへ行ってしまわぬように。ただ、押し黙って、繋いだ手を見続けながら。もう、失わないように。

 

 夏の日、猛暑。扇風機を稼働させるもそれらはただ蒸し暑い空気をかき混ぜるばかりで、あまり意味を成していなかった。いつからかベランダへ続く窓は開けていない。グリルに入れた魚を菜箸で掴む。熱気が腕を伝ってくる。 皿に一匹魚を移す。しっぽが焦げて黒くなっていた。

「おフネがいるよ、黄色いおフネ。けむりを出して、浮かんでいるよ」

 くすんだ硝子に手をあて、いつもと変わりない言葉を繰り返す息子。でも、それを言う彼の口元はもう薄ら青く、少し角張った頬に夫の面影を感じた。首筋を汗が一筋流れる。線を引くように冷たい指でなぞられる感覚。瞬間、熱から放り出される。グリルから取り出した魚のように。

「エイタ、もういいかげんになさい。そんなものどこにもないでしょう」

 そう言ってから、はたと気づく。皿にある魚は一匹で、グリルの中にはなにもいない。菜箸が床を転がり、乾いた音を立てる。白く濁った魚の目には何も映らない。もつれる脚で台所を抜け出して。

「おフネはいるよ」

 腕を伸ばす。 影が焼けつくように濃くなっていく。 ああ、早く彼の手を──…… 

「だって今も、乗っているんだもの」

 窓硝子にはもう、あの子は映らなかった。窓の向こうは、黄昏の海。黄色いおフネが燃え上がり、煙を上げて朽ちていく。

「お母さん、今日、お父さんのおフネに乗せてもらうんだ」

「海が赤色になる頃にはお魚いっぱい乗せて、帰ってくるから、窓から見ていてね」

 あどけない声の残響と満面の笑み。黄色いおフネが、紅と化す。

 ああ、そうだった。膝をつく。埃が積もった硬い床。

──黄色いおフネはもう、いないんだ。

 この窓からはよく見える。にぎわう市場、船着き場に集う船、鮮やかな黄色はもうないことも。

 部屋にはもう家具はない。タンスも机も椅子も絨毯も。あるのは外しかけたカーテンと窓に映る老けた私。

「引っ越しの準備……しなきゃ……」

 明日にはもう、何もない。エイタももう、どこにもいない。

 

 そうしてやっぱり、私の目には黄色いおフネは映らなかった。


この本の内容は以上です。


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