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 ルビアンには、適わない。
「それ、硝子じゃないのかい」
 二月の昼下がりのまどろみ。僕の家に来ていた従兄弟のルビアンが、手のひらに何かを乗せていた。透明なそれは流線型で、ちょうど今朝スクランブルした卵に似ている。
「暖かいんだよ」
 ルビアンは色素の薄い髪をふわりと揺らす。小柄な彼は、赤い瞳が紅玉のようで、兎みたいに可愛らしい。その瞳は卵のような物に向けられたまま。
「どこで手に入れたのさ」
 肩越しにその手を覗きこむ。やっぱり硝子じゃないか。
「木の下の雪の上。きっと巣から転げ落ちてしまったんだ」
 可哀想に。白い指がその表面をなぞる。
「木の上に巣はあったのかい」
 もしそうなら、連れてきた方が可哀想じゃないか。白い雲のような頭が左右に動く。雪でも降ってきそうだ。
「なかった。だから連れてきたんだ。凍えてしまっては大変だから」
 相変わらずその視線の先は変わらない。いつもそうだ。ルビアンは何かに夢中になると、そればかりを見る。つまらない。僕が見ているのには気付かないくせに。
「だったら氷の塊じゃないかい。ちょうどそれが卵みたいな形になっただけさ」
「でも従兄さん」
 音もなく彼は振り返る。柘榴色の瞳が潤んでいる。ルビアンは、いつもそうだ。
「暖かいんだよ」
 震える声はソプラノで、僕よりひとつしか違わないのに、まるで硝子とアクリルのように似ているようでまるで違う。小さな手を包む。
「あっ」
 彼は一言。僕の手に僅かな重み。手触りが妙になめらかで、なんだか心がカサつく。暖かくなんてないじゃないか。しっとりと水滴が垂れる。
「ルビアン、これは卵じゃないよ。ただの氷だ」
 そう、これは偽物だ。こんな物に惑わされないで。
「かえしてよ、従兄さん」
 途端に彼は飛び上がる。僕の手の氷に手を伸ばして、真っ直ぐに。髪からカモミールの薫り。ルビアンは僕の夜色の髪とは違う、雪のような純白なんだ。
 僕らの間をすり抜けて、透明なそれはカーペットの上を転がった。隠れるように戸棚の陰に入り込む。ルビアンは慌てて駆け寄って、隙間に手を伸ばすが届かなかったようだ。この戸棚は子供の手では到底動かせない。
「従兄さんのせいだ」
 さめざめと泣くルビアンは、雪解け水を零しているようだった。
「父さんが帰ってきたら、戸棚を動かしてもらおう」
 そうでも言わないと、彼はもっと小さく縮んで消えてしまいそうな気がした。

 父さんが帰ってくるまで、ルビアンは戸棚の前から離れなかった。おかげで三時のミートパイは床で食べなければならなかったし(母さんが叔母さんと旅行に出掛けていて本当に良かったと思う)、一緒にテレビを見ることもできなかった。こういう時、子供は損だと思う。
 父さんが帰ってきて真っ先に玄関に向かったのはもちろんルビアンで、父さんは大きな目を弓なりにして、ルビアンの頭を撫でていた(僕の方が年上なので、そこは譲ることにした)。
 戸棚の陰にはあの卵のようなものの姿はなく、変わりに小さな水溜まりができていた。
「やっぱり、あれは卵じゃなかったのさ」
 ルビアンは窓の外を見ている。そろそろカーテンを締める時間だ。隣に並ぶと僕らの姿が窓に映った。ルビアンより頭ひとつ分大きな僕が、碧玉の瞳で見つめ返してくる。視線を逸らす。ルビアンの薄い唇が動いた。
「従兄さん、あれはやっぱり卵だよ」
 枝のような指が空の闇に伸びる。白い点、軽く空を踊るように、雪だ。
 雪は次第に数を増す。まるでそれは羽毛のようだ。ルビアンの眼はどこか遠くを見ている。
「ほら、あすこに鳥がいる」
 僕には見えない鳥と、羽根のような心で飛んでいる。
 ああ、今日も。ルビアンには、やっぱり適わない。


この本の内容は以上です。


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