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ぼくの大学生活

 

 大学では周りは優秀な学生ばかりだった。

 彼らは授業に出ることなく単位を取り、勉強することなしに試験をパスした。バイトもしていないのにお金を持っていて、遊びと恋愛を楽しみ、それでいていつの間にか難しい資格を取得しているのだった。

 ぼくはと言えば、電車を三本乗り継いで二時間近くかけて大学まで来てみれば、授業は休講だった。試験前の最後の講義で、初めて会った男に「ノートをコピーさせてほしい」と頼み込まれて仕方なく貸すと、男は二度と戻ってこなかった。キャンパスを歩いていると、物陰からモデルガンでぼくを狙い撃ちしてくる奴までいた。どういうつもりなのか分からなかったし、かなり痛かった。

 ぼくは、心理学の女性客員教授に参ってしまった。彼女はくらくらするような脚線美の持ち主で、いつも小気味よくヒールを鳴らして歩いた。論述試験で彼女と彼女の脚に対する熱烈な想いを打ち明ける文章を書くと、その答案は下読みの大学院生の目に留まり、学部掲示板に貼り出されてしまった。

 ぼくは、大学生活における諸々の悩みをスクールカウンセラーに相談した。ところが、彼女はいつも話の途中で寝てしまうのだった。

 

 あるとき、中庭のベンチで一人お昼を食べていると、友好的な笑みを浮かべた男女二人組がやってきてぼくに声をかけた。上下とも白い衣服に身を包んだ彼らは、この大学の生徒ではなさそうだった。

「楽園に興味はありませんか?」男の方が穏やかな口調で言った。

 聞けば、そこに行けばどんな悩みも解決され、漫画は読み放題、ゲームはやり放題、お菓子は食べ放題で、おまけに女の子も選びたい放題だというのだった。

あります」ぼくは言った。

 何だかよく知らないが、大学よりはずっとマシに思えた。

「では、私たちと一緒に参りましょう」男の方がすっと手を差し伸べて言った。

「参りましょう」女の方も微笑んで手を差し伸べてきた。

 人に親切にされたことのなかったぼくは、頭がぼうっとなって二人の手を取った。

 ベンチから立ち上がったときだった。雲の隙間から太陽が顔を出し、二人組の影が地面にくっきりと映し出された。はっとなって見ると、彼らの影には頭に角が二本生えているのだった。ぼくは二人の手を振り払い、慌てて逃げ出した。

 

 午後の講義で一緒になった顔見知りに、二人組が言っていたことを話してみた。この世のどこかに、漫画読み放題で、ゲームやり放題で、お菓子食べ放題で、女の子選び放題の楽園があるらしいと。

「そいつはオレのいつもの生活だぜ」彼はニヤニヤ笑いを抑えきれない様子で言った。

「そこに行くとどんな悩みも解決されるって」

 ぼくは気おされたようになって慌てて付け加えた。そいつが必要な条件をすべて満たした生活を送っていると、にわかには認めたくなかった。

「おれには悩みなどない」そいつは請け負った。

「ない?」

「全然ない。まったくない。一ミリもない」彼はそれをほとんど嫌悪しているかのように言った。

「女の子も、選び放題?」ぼくは強烈な劣等感を覚えながら、一番大事な部分について確かめた。

「だいたいそんなとこだな」彼は得意げに言って笑った。「楽園なんて嘘っぱちさ。だが、ほとんど同じものがここにある」

「どこに?」ぼくは不意をつかれたようになって辺りをきょろきょろ見回した。

「ここに」そいつは漠然と床を指した。

 そこは十三号棟の大教室だった。大学の校舎だった。大学の敷地だった。ぼくたちは大学にいた。ぼくたちは大学生だった。

「見つけられないんだ」ぼくは恥じ入りながら小声で打ち明けた。

「聞きたくないね」そいつは首を振って言った。「そんな話は聞きたくない」

 彼は二度とぼくの言葉に答えなかった。

 周りの学生たちを見てみると、ぼくだけがその楽園を見つけられないようだった。見つけられない限り、誰も相手にしてくれないのだ。ぼくは居たたまれなくなってこっそり授業を抜け出した。

 思い悩みながら歩いていると、またしてもモデルガンの男がぼくを撃ってくるのだった。「痛っ!」ぼくは尻を押さえて飛び上がった。頭に来て、男が身を潜めている植え込みに飛び込んだ。しかし、時すでに遅し。男の姿はなく、タバコの吸殻が残されているだけだった。男の正体は分からなかった。

 

 日本文学史の講義を取っている女の子と親しくなった。小麦色の肌をした、おかっぱ頭のかわいらしい子だった。

 彼女だけがぼくの救いだった。彼女が出席できないときは代返をし、彼女の分のレポートも書いた。日本文学が好きな彼女の気を引くために、図書館で日本の小説を読み漁り、話すときにあちこちから名文句を引用した。

「人間には早すぎる死か、遅すぎる死しかない」ぼくはそうキメると彼女に流し目をくれた。

「え?」彼女はよく聞いてなかったという目でぼくを見た。

「山田風太郎」ぼくは出典を明らかにした。

「あぁ」彼女は曖昧に相づちを打った。

 

 日本文学史で教鞭をとる客員教授が、彼女に接近した。

 客員教授は詩人でもあった。詩集も何冊か出していた。まずいことに、彼女は詩人に弱かった。

「先生が本くれるって」

 彼女はそう言ってはしゃぐのだが、ぼくは危険を感じた。教員室まで一緒について行くことにした。

 客員教授はぼくたちの前で自作の詩を朗読した。彼は、ときに声を張り、ときにそっと呟き、ときにたっぷり間を取って鼻から息をふーんと吹き出した。鼻息までも詩の一部なのだった。

 ぼくは詩を聞いてもどんなイメージも思い浮かばなかった。ただ愛想笑いを凍りつかせているしかなかった。しかし、彼女は違った。彼女はうっとりと聞き入っていた。詩と詩人に夢中になっていた。

 ぼくは手遅れになる前に彼女に迫った。学生と寝ることしか考えてない教授と、彼女に真剣に恋をしているぼくと、一体どっちがいいのか単刀直入に聞いてみた。

「先生」

 それが彼女の率直な答えだった。

 途方に暮れて表に出てくると、ぼくはまたモデルガンで狙い撃ちされた。

「あいたっ!」ぼくが悲鳴を上げると、近くを歩いていた女子学生二人がくすくす笑いながら通り過ぎていった。

 

「あいつは誰なんです!」

 ぼくはスクールカウンセラーに訴えた。

「考えてみましょう」カウンセラーは落ち着き払って言った。「なぜ、その人はあなたが大学に来たときだけ現われるのでしょう」

「ここの生徒だからでしょ」

「あるいは」カウンセラーは言った。「もう一人のあなたなのかもしれない」

 ぼくはカウンセラーの顔をじっと見た。彼女の言わんとすることが分かったような気がした。「ぼくは、双子だった?」

「いや、まさか」カウンセラーは答えた。

 カウンセラーは、モデルガンの男はぼくの心が作り出した幻影だと言いたいのだった。ぼくの心は大学を嫌悪しており、嫌悪している場所にわざわざ来るぼく自身をこそ最も嫌悪していた。ぼくは自分に銃を向ける架空の人物を作り上げてでも、ここから出ていきたがってるというのだ。

「じゃあこれは何なんですか」

 ぼくはシャツの裾をめくって赤くなった脇腹を見せた。架空の人物によって架空のモデルガンで撃たれたにしては、弾の跡がくっきりと残っていた。カウンセラーは黙って微笑むだけだった。

 

 帰りがけ、ヤケになったぼくは大学図書館で読みたかった本を盗んだ。しかし、出入り口で警報が鳴ってしまい、飛んできた司書のおばさん二人に捕まって殴る蹴るされたのだった。

 遅れて駆けつけた警備員は、ぼくがうずくまって戦意喪失しているのを見てとると、自分も少しだけ殴る蹴るして、それからぼくを摘み上げて外に放り出した。

 

 

了 


この本の内容は以上です。


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