閉じる


軍艦ビルの中のラビリンス

                                         1 章

                           http://p.booklog.jp/book/97575/read

 


 数日ぶりの澄み切った蒼空だった。淡い雲が漣のような模様を描いている。

 アパートの外に出ると大気の冷えが首筋を刺した。

 深呼吸すると、かすかにつーんとした冬の匂いがしている。風景の色合いもなんとなく淡くなり、灰色がかっていた。

 その日はひさしぶりの「出勤日」だった。僕は原稿をまとめあげてそれをチェックしてもらいに総務部へと顔を出すこと、それから丹下会長からヒアリングをする日を一緒にして、あらかじめ予定を組んでいた。

 もちろん、クライアントの都合が優先的なスケジュールだ。

 約束の十一時に間に合うように、小田急線から新宿に出て、いつもの地下鉄の出口を上がって、昭和通りを越え、丹下建設の軍艦のような厳めしいビルへ向かう。 

 しばらくすると、舗道脇を数人のボランティア隊の社員たちが、箒を片手にぞろぞろと帰ってくる風景に出くわした。『一社一丸報恩道』の腕章をつけている。

 その集団の中に、今日は副社長の丹下伸雄はいなかった。「ファミリー」がいないためか、雰囲気がこの前よりも和やかで、女の子を笑わせている男性社員もいた。明るい菫色の空に街路樹の枯葉が透いて、温かく洩れた光線が社員の肩を斑になぞった。彼らだけ見ていると、普通の会社のように見える。その上の層に、自分たちを一種の王族のように見ているおかしな家系と、不吉な歴史が仄見えているのだ。

 話したことはないけれども、幾人かの顔を見たことのある若い女子社員が軽く会釈をしてくれた。僕はどきまぎして、挨拶を返した。もしここに、幹部や一族の者が混じっていて、律子専務のいう「たかが、ぺいぺいのライター」である僕が無視していたとしたら、とんでもないことになってしまうだろう。

 

 お掃除部隊を横目に過ぎて、丹下建設株式会社前の遊歩道脇の竹林にさしかかった。蒼みがかったハーフミラーのガラス壁を背景にして林立している竹の緑は美しい。こういう演出は建築家が企画するのか、それともその後で庭や周辺部の演出のプロが装飾するのか、ちょっと興味が湧いてくる。その奥が本社ビルのエントランスとなっている。

 と、その時、通りの方から、シルバーグレイに耀く新車が、滑るように敷地内に入ってきた。
 社員たちはその場で立ち止まり、たちまち話をやめて一列に並び、慎妙な顔を作った。 

 ぴかぴかに磨き上げた一台のジャガーが、ゆっくりと停止した。陽光がそのシルエットをつややかになぞった。
 少し離れた周辺には、社員たちが挨拶する瞬間を逃さないように控えている。

 運転手は、その曖昧な時間を楽しむかのように、ハンドルの上に顎をのせて、助手席の若い女に何か冗談をいった。女は笑いながら言い返した。二人とも揃ってサングラスをかけ、チューインガムを噛んでいた。

 扉が開いた。女は赤いヒールを履いたきれいな足を斜めに伸ばし、後ろをむいて、ドアから降りた。そして大きなサングラスを外すと、髪の上にのせた。

 彼女は空をまぶしそうに見上げ、後ろ手で豊富な栗色の髪をかき分けると、どこかのデパートか老舗和菓子店で買ってきた真新しい包みを横に抱え、距離を置いてみている社員を、ちらりと一瞥した。

 それから、運転席からイタリアンファッションに身を包んだ若い男が現れて、車の外にするりと立つと、腰に両手を当て、悪戯っぽい顔で辺りを見渡した。

  この二人は義彦夫婦だ、と僕は思った。

 丹下喜作の孫の丹下義彦と、その奥さんの麻由美だろう。

 義彦は、律子専務の息子で、お調子者で甘ったれで、会議では劣等生のように黙り込んでいる青年なのだ。

 この世代になると、喜作会長のDNAの毒々しさはずっと漂白され、あっさりとした淡泊なものに変わっている。つまり普通の苦労知らずのぼんぼんなのだ。その若い妻も、遊び好きな女子大生か、アイドルタレントにしか見えない。有名スターではないが、渋谷や青山あたりを歩いている若い女性という雰囲気だ。しかしこの二人の服装は、会社に来るような恰好じゃない。

 この三代目夫婦は、麻布十番の高級マンションに住んでいるという。二人とも二十代の後半ぐらいだろう。
 二、三の古株社員がさっそくジャガーの前に馳せ参じ、にこやかに微笑みながら荷物を預かった。人気ファッション誌の読者モデルあがりだという麻由美の素顔は、とても若く、子供っぽくすら見えた。小さな瓜ざね顔で、眼が大きい。プロポーションは抜群で、コートの下にはぴったりとした薄いセーターを着ていた。

 社員たちは距離を置いて、憧れとも反発とも卑屈さともつかない、歪んだ笑顔を作っている。ここにちょっとした階層の差、カースト制度があるらしい。少なく見積もっても、まるで芸能人がいきなり街中に出現したかのようなまぶしそうな視線で、社員は見ている。
 麻由美っていう女は、どう見てもあの怪物・晴臣の母親には見えない。ほんとうにあんな不細工な作りの赤ん坊を、このほっそりとした彼女が生んだのだろうか。

 ひょっとして、丹下喜作の毒素が地下を流れる伏流水として、二世代を超えて噴出したのが、あの怪物的赤ん坊の晴臣なのではあるまいか。猛獣の子のような粗雑さや、得体の知れないエゴの物凄さ。僕はその思い付きにちょっと得意になり、今度、色川さんや辛島さんに会ったときに披露してやろうと思った。
 丹下ファミリーの血でも、この孫夫婦の世代になると、叩き上げの臭みや田舎者の無骨さは、ずいぶん希薄になっているようだ。

 先日、一応は名刺を交わして挨拶したのに、彼らは僕がそれほど離れていない位置にいるのに、気がつかない。もっとも、ファミリーでも役員でもない社員や関係者などは、彼らの眼中にないのだろう。
「ねえ、ヨシちゃん。お爺いちゃまのお土産も、取ってよ。後ろに入れてあるんだから。あたし一人じゃ、持てないよォ」
 麻由美は、鼻に皺をよせて、なじるようにいった。そして額に下がった髪を上眼使いでいじりながら、甘いかすれた声で言った。

「早く。重たいってば!」
「うるさいよ。……まいったな。打ち合わせ、あと四分後だよ。またオフクロに怒鳴られちゃうよ。途中、事故があって渋滞してたとか、何とか、いうしかないな」
 義彦は、肘を大きく曲げて青空に腕時計をかざした。

「麻由美が寝坊するからだよ。だいたいさ、オマエさ、いつも出るとき、時間かかり過ぎ」
 「シャラップ! 夕べあんな変な店に、連れていくからよ。やばいよ、あんなオカマちゃんと話が合っちゃって、あたしって一体、何者? ……って悩んだもん。すっかり悪酔いしちゃったし。だいたい、七時に鳴った時計をとめたの、義チャンじゃない。あのあと、もう二回鳴るはずだったんだから。言っとくけど、と今日はあたしのせいじゃないからね。いいから、はぁやく、荷物取ってよう」
 荷物を抱えた妻は、親指を立てて夫を指さした。社員が二名、おろおろしている。そのうち一名は、この後車を代わりに地下の駐車場へ入れてくれる役割だろう。

「いっけねえ。手帳忘れた!」
 義彦は指をパチンと鳴らした。何か思いつく度、いちいち刑事ドラマのようなポーズをとってみせる。意味なく腕を鋭角的に曲げたり、からだをひねったりしている。何だか見ていると面白いけど、この前、会議室でしゅんとして、母親にネクタイを結び直されていた若者と、同一人物とは思えない。

 妻の麻由美は、薄く目を閉じて、風が褐色の髪を、ふんわりと靡かせながら笑みを浮かべ、顎をあげ、さっそうと左右に腰を振って、先に歩き出した。何だか東京コレクションか何かのステージで、モデルが気取って舞台を歩くような雰囲気だ。エントランス前にとまると、荷物をそこでいったん下した。

 よく磨かれたガラス面に映り込む自分の姿を満足げに見ながら、髪を両手で整え、少し顔を近づけて、仔細に点検している。それから、調子にのって、クラブかどこかにでもいる時のように、軽くからだをくねらせ、ちょっと踊ってみせ、一人で悦に入っているのだ。たぶん、いつもここで、この儀式をやっているのだろう。
 彼女を足早に追い越してエントランスに入りかかった夫は、片手を出し上下に激しく振って睨みつけた。

「おい麻由美、何やってんだよ。早くしろよ。馬鹿」

 彼らの屈託のない立ち振る舞いを見ながら、僕は一種の羨望を感じていた。

 義彦の方はトレンディ・ドラマの主人公を気取っているようだし、麻由美の方も雑誌の表紙を飾ったモデル気分が抜けきらないらしい。持ち物のすべてが新しく、彼らのナルシズムが独特のオーラを放散しているように見えた。お金の苦労はまったくないのだろう。仕事を終えたらどこの街に繰り出そうか、週末はどこに旅行に行って誰とパーティーをやろうか、そんなことばかり考えているような顔つきだ。あくせくと部屋代を払うために徹夜で仕事をしている僕の人生とは、まるで違った世界だろう。そんなことを考えていると、何だかやるせない溜息が洩れてきた。

 見上げると、ハーフミラーのエントランスの内側に、斜めに太陽光線が差し込み、幾何学的な光の模様が投影されていた。

 一階のアトリウムには、鷲巣数光の設計による光の演出が施されていた。まるでカテドラルの内部に映るステンドグラスのように薄い色彩が重なっている。透明な青から薄い紫、そこに少しだけ赤の混じる抽象画のような模様。その向こうにちょっとした屋内庭園がしつらえてあり、浅い水が石畳の上を流れ、その白い光をダイヤモンドのようにきらきらと散乱させている。

 高い大理石の壁下の受付には、椹野花枝がひっそりと座っていた。ほっそりとした色白の彼女は、何となく品良く可憐に見えた。彼女は僕の姿に気がつくと、少し笑いを噛み殺し、形式的な挨拶をしてみせる。会長の名前を告げると、電話をかけてくれた。先日のような間違いがないと良いのだけれども。

 普通に喋っていてもまるで怒鳴っているように聞こえるあの喜作会長特有のささくれ立って割れた声は、少々しんどい。

 

 エレベーターに乗った。妙に天井が明るく、箱の中には誰もいない。

 扉がゆっくりと開くと九階のフロアに進み、そこにも受付があった。すでに下から連絡は入っており、初対面の受付嬢に案内された。

 廊下の奥へと進むにつれて、次第にどきどきしてきた。

 会長室の手前の角で、秘書の芳田慶子と、誰か会長ではない男性がやり合う声が響いていた。

 九階の受付嬢は、そこでマニュアル通りのスタイルで、両手を丁寧に前で重ね、深々と頭を下げて、少し足早に戻って行った。
「いいかげんにしてください。この間も、はっきりとお断りしたはずです」
 ドアの前で僕が躊躇していると、濁ったダミ声が聞こえた。
「ほら、お客さんですぜ。あんまり大声出すと、みっともないじゃないのよ」
「大声を出させたのは、陳先生の方じゃありませんか」
「いいじゃないのよ、減るもんじゃなし。コップ一杯三千円、いや五千円出そうってんだ」
 手前にいるずんぐりとした派手な格好の小太りの人物は、この前社員食堂にいた輸入業者の陳一徳という男らしい。五十代ぐらいだろうか。血色の良すぎる丸顔で、頭はてかてかと禿げあがり、口元には薄い八の字髭を蓄えている。あの時も、芳田さんからは、あまりいい印象では語られていなかった。

 口元の薄い髭が、何だかとても嫌らしい。黒い背広にオレンジ色のシャツ、太くて黒いネクタイといういで立ちで、何だか毒蛇みたいな俗悪な印象だ。こんな恰好でなければ、中華料理屋やトンカツ屋の店主によくいそうである。

 芳田秘書は意味ありげに笑顔を作ると、さっさと会長室のドアを開け、すぐ脇にある照明のスイッチを幾つかつけた。

 取り残された陳は、照れたような顔をして、薄い八の字髭を舌の先で舐めた。それからひどく薄っぺらな笑みを浮かべた。
「あ、失礼。中に入ってください。どうぞどうぞ。……あなたが、例の会長の自叙伝のお手伝いを。そうですか。貴方様がおいでなすったんで、あたしの方は、追い出されちゃうというわけだ。会長、大陸ではいろいろ武勇伝があるそうですな。そういえば、白元先生の話とか、会長からお聞きになったでしょう」

「ええ。白元先生、お聞きしました。仙道とか気功の達人の。芸者さんがひっくり返ったとか」

「私の師匠なんですよ。あのナマグサ仙人。なあに、あんなのは気の操作で、誰だって練習とコツさえつかめばできるんです。あたしゃ、あの方には随分と世話になったんだ」

 さっそく僕に名刺を渡されたので、僕も名刺を返した。そのごつい指には、幾つも指輪が嵌め込まれているのが異様であった。

「……ちッ、秘書嬢の扱い方みりゃ、あんたの方が上客らしいや。まあね、あたしなんかは、ただ会長さんのところに、遊びに来ただけですんでね。ときどき、ゴキブリとかいわれてますよ。ひどいもんだ。会長の体を心配してやっているのにさ。今日はもう帰りますわ。どうやら会長、あんたの方に時間を割きたいらしいからね」

「それはどうも、すいません」

 いかにも油断のならない面倒臭そうな奴だと思ったので、僕は謝っておいた。しかしいちいち、嫌味ったらしい。

「なあに、あんたが謝る必要はない。あたしが勝手に僻んでいるだけですから。僻むのが趣味なんですよ、あたしゃ。この人生で、意味のない苦労ばかりしたんでね。ねえ、芳田さん。あたしゃ、僻みっぽくて、性格の悪い男ですよねえ。……ん? どうです」

 声が少し大きくなっている。

「誰もそんなこと、いってません」 

 秘書は背中を向けたまま、ブラインドを上げながら、苛ついたように答えた。大きな窓ガラスが現れ、室内が明るくなった。

 陳は、鼻の下の赤くて分厚い唇を重ねると、うっすらと目を細めた。

「そうやってさ。ぷりぷりして怒ってると、また、たまらなく、可愛いねえ。会長がなんだかんだいって、手放さないわけだ。あの人、気の強い女、大好きだから。そして頭のイイ女は、自分がどこまでわがままに振る舞っていいか、本能的にわきまえていいる。お殿様にとっては、これがまた、たまらないんだねえ。図星でしょ、芳田さん。……ええと。さあ、馬鹿言ってないで、あたしも、こうもしちゃいられないんだわ。これから、ある有名企業の社長サンにね、大陸仕込みの房中術を伝授する約束でしてね。えヘヘ。あたしのは白元先生の秘伝に、台湾式のをちょっと混ぜてましてね。一応、オリジナルなんです」

「はあ……」

「お宅、何歳」

 僕は年齢を告げた。
いいですなあ。まだ三十代ですか。それじゃ、まだまだ、あっちの方はお盛んですな。あたしの客になるのはまだまだ早い。羨ましいねえ。……おっと、こりゃどうも、初対面で妙な話をしてしまって。失礼。何、あたしの悪い癖でしてね」
「いえ、別に。かまいませんけど」

 薄気味悪い男だ。おでこに右手を当てて、意味ありげに「失敬」といって、洋々と帰って行った。

 ところが陳は、途中で何か思いついたように、ふと立ち止まり、いぶかしそうに、つつつッと、廊下を戻ってきた。
「あれ、あんた肝臓でも悪いの? ちょいと、気の流れが滞ってますなあ。あたしぐらいになると、気配でわかるんだ。いえ、こう見えてもね、鍼灸と整体と気功の腕の方は、かなりのもんでね。芳田さんが疲れてるようなんで、親切心で、ちょっとマッサージしてやろうとしたら、この騒ぎだ。こう見えても、白元先生譲りの秘伝の施療術で、癌だって直したことあるのにさ。信用ないんだよね、ここの社員には」
 陳一徳は苦笑いすると、指輪だらけの両手をぱちんと打ちつけ、その手を卑しげにさすった。そして秘書嬢の方に向き直った。

「じゃあ、このあいだ申し込まれた特製磁気マットだけ、さっき業者に言って、奥の部屋に運ばせておきましたからね。くれぐれも、会長によろしく言っといてくださいよ。あと、専務と副社長ご夫婦にも。いつでも電話一本で、飛んできますからって」
 陳は、ギロリと芳田慶子を睨みつけると、足早に会長室を出ていった。

 

「あー、疲れた。いらっしゃい。早いわね、今日は」

 秘書はうんざりしたような顔で言った。

「なんだか、妙に馴れ馴れしい人ですね」

「そうなのよ。良かったわよ、羽木さんが来てくれて。いま会長、奥でお風呂入ってているわ」

「お風呂、ですか」僕は戸惑った。

「朝風呂が趣味なのよ。ええと、それに、まだ十五分ほどあるわ。コーヒー飲むでしょ」 

 僕が下で見た義彦夫婦の印象について何か言おうとしたら、陳一徳が、また舞い戻って来た。エレベーターがまだ来ないらしい。
「ええと。清水の舞台から飛び降りた気持ちで、一万円だ」

「はい?」

「あんたの健康体だったら、一回で三杯分は取れるだろう。へへへ。楽ないいバイトじゃないの。ね、考えといてよ」
 陳は芳田嬢にウインクをしてみせた。何のことかよくわからない。そして踵を返して、あわてて扉の開いたエレベーターに乗り込んだ。
 秘書は下を向いて、目を閉じ、額に片手をやっていた。

「もう、かんべんしてよォ」
 会長室の壁際に飾ってある虎や鷲などの剥製の肉食獣たちが、こちらを仰々しく見下ろしている。
「妙な奴。陳さんて、鍼灸の腕の方は本物なんですか」
「まあね。治ったという人もいるし、ぜんぜん効かないという人もいるし。本人が自慢しているほどには。あいつ、ウチの会社のコバンザメみたいなもんよ。チュウチュウおこぼれ啜って生きてるの。ここの社員の客を増やしたいだけ」

「ところで、一回で三杯分て、何のことですか」

「だからァ……」

「献血とか」

「違うわよ」

「何です?」

 むっとして前を向いた。

「おしっこ」
「ハア」
「あたしの、おしっこを売ってくれって。トイレで待っているからって」
 怒ったように赤面しながら、秘書は言った。

 そして、丹下BARのカウンター脇に設置してあるコーヒーメーカーに嵌めた紙コップにコーヒーを淹れて、こちらに差し出した。
「飲尿家なのよ、あいつ」
「……何です、それ」
「毎朝、尿を飲む健康法よ」

 僕と秘書は一緒に、モーニングコーヒーを一口飲んだ。話の文脈からすると、この紙コップコーヒーは何だか変な感じがした。僕は冗談をいおうかと思ったが、叱られそうなのでやめにした。

いるのよ、そういう変人。何でも人間の血液とか体液の中には、ソマチットとかいう微小な生命体がいて、それが免疫力の増強にとてもいいんですって。癌や成人病では、そのソマチットの数や活力と関係しているというの。その話じたいは面白いの。本当だか嘘だかわからないんだけどね」

「へえ。微小な生命体ねえ」

「そう。学界では認められていない微生物で、生物から生物へ、自然の生態系を渡り歩いていて、決して死なない存在だとかいうわ。満州の何とかいう河の崖の貝の化石にもその微生物はたくさんいるんだれけど、生きている若い娘のはとくにいいとか、何とか。……知らないわよ、何であたしがこんなこと、羽木さんに説明しなけりゃならないの。馬鹿みたい!」

「自分から言い出したくせに」

 さすがに僕も、ムッとした。

「芳田さんが、困っているみたいだから、味方になろうと思って質問したのに。できるだけ内部の事情や、社内の人間関係知っておいた方がよいと思って。なにも、そんな、怒らなくてもいいのに」

 芳田秘書は、目をぱちぱちさせて、少し冷静になってきた。

「……ちょっと当たっただけよ。わざとね。だってさ、羽木さんてさ、当たるのにちょうど都合がいいキャラなんだもの。それにほら、いまこのコーヒーを紙コップでのみながら、なんかつまんない冗談言おうと思ったでしょ。言わなくて正解だわ」

「そんな、冤罪ですよ」

「ほら、自白した。あのセクハラおやじ。自分の飲んでりゃいいのに、若い娘の尿が効くとか言い出すの。だいたい私、もう若い娘じゃないッつーの。羽木さん、この話、言っちゃダメよ他の人に」
 当たるのに都合がいいキャラって……。どうせ優柔不断だと思われているのは、わかっているけど。
「あいつが言うんで、会長までその気になっちゃって。百まで生きられるとか、インチキばっかり。ジジイたちふたりで、あたしのおしっこ狙ってるの。会社辞めようかしら。なァにが、あんたみたいな健康体よ!」
「一回で、紙コップ三杯分とか言ってたな……。あ、痛ッ」
 僕はいきなり、二の腕を抓られた。

 秘書嬢は時計を見ると、「あ、そろそろね」と言って、コーヒーカップを片付けた。

「会長、今日は何か、羽木さんに言うことがあるという話よ」
 ぎくりとした。まさか辛島さんたちとの密談が、嗅ぎつけられたのではあるまいか。興信所とか探偵事務所とかいっていたし、辛島さんは妙な人物に尾行されているようだった。僕は新宿の飲み屋で見た陰気な平家蟹のような四角い顔をしたコート姿の男の影を思い出した。

 しかし、何よりも真っ先に、面倒なことに巻き込まれるのだけはごめんだ、という考えが頭をよぎった。だんだん、こんな立派なビルを構えている丹下建設が、ロクなものではないと、思うようにもなってきた。
(闇の組織か何かに、コンクリート詰めにされて東京湾に沈められたら、たまったもんじゃないぜ)
 昔見たヤクザ映画の暴力シーンを思い浮かべた。

 横浜か横須賀あたりの倉庫街で、殺された後箱詰めにされ、コンクリートをドボドボと流し込まれるのだ。しかし僕みたいな平凡な人間の人生には、そんな極端なことは起らないはずだ。そこだけは確信している。……多分。

 それにしても、このままゴーストライターの仕事を続けていいものかどうか。『年収の半年分』などという言葉に惑わされ、取らぬタヌキの皮算用をしているうち、変なことに巻き込まれつつあるのではないか。 

 デスクの上の電話が鳴った。芳田嬢が出た。

「わかりました。それではそちらにお連れします」

 ここから移動するらしい。僕たち二人は会長室を後に、薄い明かりの射しているひっそりした廊下を歩いていった。


「大体、他人の自分史を書いて金を貰うなんて、変な仕事ですよね」
「今更そんなこと言ったって、知らないわよ。最初からそういう約束なんでしょう」
 秘書のくせに言葉の使い方を知らない。というか、僕にだけ、こんな風にぞんざいな喋り方をするような気もする。

 廊下の奥のドアを開けた。非常階段の脇にさらに奥に廊下が始まり、秘書嬢は扉に鍵を差し込んだ。

 左側に狭い階段が現れる。斜め上から、監視カメラが睨んでいた。
「この辺から、ちょっと雰囲気が変わって来るわよ。この建物、わたしたち従業員には知らされていない部屋が、いっぱいあるの。専務なんてまるで、壁でも通り抜けるみたいに、離れた場所に突然現れたりするのよ。この建物全体が、忍者屋敷かメイズみたいなものだわ」
「メイズ」

「迷路のことよ」

「……ああ」

「エッシャーって知っている?」

「エッシャーって、あの、階段が上や下や斜めに続く、変な建物の絵ばかり描いた画家のこと?」

「そう。あの絵の中に迷い込んだように、平衡感覚がわからなくなるの」

 なるほど、忍者屋敷にしても、迷路にしても、いかにもあの鷲巣数光が設計した建物らしい。

 というのも、僕はこのときすでに、鷲巣という建築家の建築論を幾つかの資料ですでに読んでいたのだ。彼はいろいろな雑学を自分の設計思想の中に散りばめるのが好きらしくて、ギリシャ・ローマ神話や、新旧約聖書や、未開人の伝承から借りた文化人類学の比喩を引用する癖がある。

 僕は、鷲巣氏が北陸のある地方図書館の設計をしたことについてのインタビュー記事で、ギリシア神話にあるクレタ島のラビリントスの逸話を引用しているのを思い出した。クレタのミノス王の造った迷宮の奥には、牛頭人身の怪物ミノタウロスが棲んでいるのだ。鷲巣氏設計のその地方図書館では、機能性よりも、「書物」の持つ物語性を意識したと語っていた。ラテン・アメリカ作家のボルヘスや、フランスの詩人マラルメの言葉をを引用したりしていて、ちょっと気障にも思われた。

 彼がいうには、空間は何らかの神話や幻想に満たされなければならず、宗教のない現代においては、建築家が自前でそれを用意しなければならない――のだそうだ。設計図も掲載されてあったが、階段の交錯する中心部から少し奥に入ったところが、謎めいた館長室の部屋であった。

 びっくりしたのは、そこの年老いた館長が、このインタビューの数年後に、小児性愛事件で捕まったことであった。僕は古い新聞記事を検索して知ったが、たまたま図書館のある北陸の市の名を憶えていたので気がついた。この元国立大学の教授で、国文学者としても著書を持つ温和そうな老紳士が、長年、少年少女たちを、厖大な書庫の奥の小部屋で、凌辱していたというのである。もし秘密を洩らしたら、お前のことが写真入りの本となって、この図書館の本棚に永遠に残ってしまうと脅したらしい。ちょっと賢い生意気な子供だったら、「そうなったら、お前の顔写真もバレるだろうな」とでも言い返しただろうが、そうはいかなかったらしい。とんだミノタウロスもあったものだ。

 ちなみに牛頭人身のミノタウロスは、クレタ島の伝説で、少年少女の生贄を要求した異形の化け物で、ピカソの絵にもよく描かれている。しかし、僕が興味を持ったのは、この図書館という空間に鷲巣数光の与えたミノタウロスの物語が、そんな人物や事件を呼び込んだのか、あるいは館長のそのような所業を建築家が予感していて、コンセプトを作り上げたのか――ということであった。どうも偶然とは思えないのだ。


「社員の知らない部屋なんて、あまり民主的じゃないですね」
 僕たちは、先を急いだ。
「でもあなた、妙に会長に気に入られてるわ」
「まさか。青大将の平八郎じゃあるまいし」
「つまんない冗談。でも気に入られているというのは本当よ。もっとも会長、羽木さんの人柄を、何かいい方に勘違いしてるのかもしれないけど。実際は違うのにねッ」 

 口の悪い女だ。

 扉を開くと、さらに新しい廊下と階段が現れた。上の方から朧げな光が注がれている。確かに迷路の中を上下しているようで、目眩いに襲われる。斜め奥の方には太い木で組み上げられた狭い梯子段があって、さらに奥へと続いている。僕は松本城や姫路城の天守閣付近の暗がりを思い出した。企業のビルというよりこれは丹下城だ。

「そうだ」と突然、芳田慶子が小さく叫んだ。

「男性社員のおしっこを貰って、陳の奴に、一杯一万円で買わせてやろうかしら」
「あ、それはいいや」
「手近なところで、あなたのでもいいのよ」
「え、あっ。いやそれは、お断りします」

「あはッ。うっそ、よぉー」
  完全に、遊ばれている。

 次の扉を開くと、いきなり長い板張りの廊下が現れた。 

 そこに出現した空間は、まるで高級料亭の内部か、京都の寺の午後の境内のようであった。

 片側には障子が張られ、白い紙を透いて人工的な明りが射し込んでいた。左側は襖になり、渓谷や釣り舟や楼閣など、漢詩の風景のような山水画が淡い墨で描かれている。

 少し狭くなった黒光りした板張りの廊下は、遠く一直線に奥まで続き、鈍色の艶を帯びていた。古刹の廊下を思わせるようなその遠近法に、僕は一瞬気が遠くなった。
「ここで、靴を脱いでね」

 秘書は腰をかがめて、スリッパを出した。右手に小さな下駄箱があった。澄まし顔で僕の顔を観察している。板張りの廊下の手前で、段差がある。
「この辺になると、噂でしか知らない社員がほとんどよ。羽木さん、光栄に思うべきだわ」

「思ってますよ。言われなくても」
 少し行くと、右側の障子が開けられていて、明るい坪庭が見えた。自然光のような光線が射し込み、緑が明るく輝いて見えた。

 白い清潔な砂が敷いてあり、淡いレモン色の光に照らされて細やかに耀いている。竹林を繊細にしたかのようなひとつまみの木賊の緑が美しい。龍安寺のそれのような萌黄色の低い土塀が、細長い庭を囲んでいる。

 東京郊外や、北鎌倉のあたりならば、感心はしてもさほど驚かないかも知れない。しかしあの禍々しい軍艦ビルの内部に、こんなひっそりとした日本庭園があるというのは、意外だった。

 小さな築山には碧緑色の岩が組まれて、下半分は、ビロードのように濃緑の苔に覆われていた。冷たく沁み出すような清水が、細く流れている。苔の起伏の脇を通る小さなせせらぎが美しい。この建築家は、水と光の効果を実によく知っている。 
「凄い」
「そんな形容しか出てこないの、ライターのくせに」
 揶揄するように、芳田慶子は笑った。

「ねえ。羽木さんてさあ、だいたい子供の頃、イジメられっ子だったでしょう。とくに女の子にいじめられてなかった?」
「それは、ない」

 「ほんとかしら」

 「本当ですよ。何でまたこんなとこで。どうでもいいじゃないですか、そんなこと」 

 なんだか勝手なイメージを作られているような気がする。

「嘘。あたし、しょっちゅう男の子いじめてたから、直感でわかるもん。どういう奴がイジメやすいかって」
「あのさ。なんでそういう話になるわけ。僕はねえ、この会社の何ていうか、いわば出入りの業者。そうでしょ。それで芳田さんは、会長秘書。いまの会話はまったくそんなスタンスじゃないじゃありませんか」
「ほら、あわてている。ふふふ。ごまかしてない、あんた。虐められっ子の忌まわしい過去を」
「あのねえ」
「ストップ、私語はやめ。この辺から気をつけた方がいいわ。続きはまたあとでやりましょ」
 なんて女なんだ、こいつ……。


  筧が水の重さに堪え切れなくなって、ゆっくりと傾くと、高く抜けるような竹筒の音を響かせた。
 砂が白金色に耀いている。岩の窪みの水が、ゆらゆらと幾条もの金色の光を、土塀に柔らかく反映している。正面の扉を左右に開くと、沈鬱な空気の畳の間が控えていた。
 桔梗や荻や枯芒が壷に生けてある和室を、そのまま二間ほど通り過ぎると、十畳ほどの部屋があり、その奥に丹下喜作会長が老猿のように胡座をかいていた。

 老猿というのは、昔、歴史の教科書に載っていた高村光雲の彫刻だ。光雲は高村光太郎の父親である。僕は斜めに体を傾けて座っている喜作会長の姿から、あの目つきの悪い老いさらばえた猿のポーズを連想した。

 風呂あがりなのか、浴衣姿で片肌を脱いでいる。色艶のない洗濯板のような肋骨が覗いている。腕のない方の肩は、たらりと袖が下がっていた。
 会長は床の間を背にして、片手で黒い茶碗を抱えている。
 ここが到底ビルの内部だとは思われない。東京ですらないような気がする。石塀の上が竹林で隠されているせいか、まるで古都の屋敷町の私邸としか見えなかった。
「陳の奴が、来てたらしいな」

 会長は片手で茶碗を弄びながら、鬼の笑顔を作った。
「ここはごく内輪の客しか招かんのだが。今日はあんたに、言い含めたいことがあってな」 

 秘書は、三つ指をついてお辞儀をし、部屋から去った。僕は目で意味ありげに合図を送ったが、無視された。何だか、取り残されたような気がした。
「おい、小夜子。お茶をもう一杯」
 和服を着た品の良い女性が現れ、にこやかに挨拶して、お茶と和菓子を持ってきた。
(小夜子というと、社長夫人か)
「ここは、ハァー、その昔、角さんも金丸さんも、招いたことがある。いい時代だった。もうずいぶん昔の話だが」
 無理に正座をしながら、僕は肉厚の茶碗でどろりと濃い抹茶を啜った。
「――わしも、そう馬鹿ではない。自分の寿命があとどのくらい残ってるかは、見当がついとるさ。ゆっくりとだが、ここで(といって胃の脇あたりを押さえた)癌も進んでおる。

 ふむ。だがなァ、癌細胞のやつも、わしの毒っ気に当てられ、なかなか仕事が捗らんのだろうよ。わしはこの世の、表も裏も見た。世間がひっくり返るような政治家や官僚どもの裏話も、たくさん知っておる。元県知事や、局長クラスの役人どもがな、わしの最後っ屁ひとつで、お縄ちょうだいさ。どうだ、面白いだろ」

 片腕の白髪鬼は、ニッと笑った。

 こちらを値踏みするような目つきをしながら、肘を曲げて茶を啜る。この恰好のまま賭場で壷でも振ったら、似合いそうだ。

「おい、小夜子、酒を持ってこい」
(従業員は働いているし、まだ明るいのに)僕は息苦しくなってきた。
「あんた、飲めるんだろう。かまわんから、一杯つきあえや。……わしはな、まだこの東京が焼け野原だったときから、バラックをこさえたんだ。この辺り一帯も、無残な瓦礫ばかりだった。昭和二十年、三月十日の東京大空襲で、わしが昔知っていた東京は、何もかもみんな焼けてしまった。

 ハー、あんたらまだ、影も形もない頃だ。B29でしたたかにぶっ潰された跡の、灰かき作業から始めたんだ。汗まみれ、灰まみれになりながら、ボロボロの鉄材や、焼け棒杭をどけてな。戦争で生き残った荒くれどもを集めて、にわか人夫に仕立て上げたさ。奴らはまだ、飢えた兵隊の顔しとったよ。南方で、蜥蜴や蛇を食ってるような顔をな。毎日がケダモノ相手の喧嘩さね。なめられたら最後だ。わしもニッカボッカを履いて、この片腕にツルハシ抱えてな。いつも腹巻きの下には、ドスをのんでいた。金や資材がなくなるのは、日常茶飯事だった。うまい具合に進駐軍の整地作業が入ったと思った途端、気性の荒い人夫がアメ公と殴り合いをやらかすわ、メチルで酔っ払った特攻隊崩れが、在日のヤクザと喧嘩をしてくれるわで、その度にわしが、頭を下げて示談しに行かなければならなかった。あるとき新宿の一角で、米軍相手の売春宿を作るってんで、わしらの組も駆り出された。後のゴールデン街さ、花園の。下は飲み屋で、階段を登ると床が用意されておる。二階や屋根裏の隠し部屋で、客は女とヤルのさ。そのうち、進駐軍への女の斡旋までやった。上の連中の名前はいえんが、日本人とアメリカ人で、その後、みんな大層出世した。そういう人脈がコネとなって、後で思わぬところで会社の発展の投資になっていたことに、そのときは気がつかなかったがね。昼は泥まみれ、夜は酒まみれ、女まみれだ。おい、この辺も景気よく書いといてくれよ。焼け跡時代の頃の話をな」

「聡太郎さんはその頃、お幾つぐらいだったんですか」
 僕はメモを取り出した。たぶん、今回も話があちこち前後することだろう。
「ああ、聡太郎のことか。三つにはなってなかったろう。

そうだ、終戦の話をしてやるか。ハー、ソ連軍が攻めてくるという噂をキャッチするなり、関東軍や満鉄のお偉方は、みんな逃げちめえやがった。わしは陛下の声を、新京の自宅で聞いたよ。――日本が、終わったと思ったな。同時に、これは大変なことになったと思った。なにしろ現地の反感は、凄まじかったからな。ハルピンの張周明のドラキュラの城みたいな楼閣にも、火が放たれた。暴動が起こるのは眼に見えていた。案の定、八月十五日の午後から、あちこちで騒ぎが始まった。まあ、張周明はその時、リンチにあって殺されたということになっておるがな。これは実は、後日談がある。フフフ。その辺の裏を知っているのはごく少数の連中さ。

 現地の奴らの眼つきが、一変した。関東軍は恐ろしいという神話も崩れた。おい。酒はまだか、小夜子」
 遠くを見る老人の眼が、据ってきた。

 ハルピンの張周明とは、ラストエンペラー溥儀の真似をして、黑メガネをかけて写真に写っていたニヒリスティックで残虐な大陸ヤクザのことだ。
「あんなにわしを裏では利用したのに、満州政府のお偉方連中は、さっさと自分たちだけ逃げちまった。偉い奴なんてのは、そんなもんだわ。ただその前に、わしらは重要な大仕事があった。こうなることを見込んで病院の始末をつけなきゃならん。あとで面倒が起るからな」

「会長……」

 小夜子さんが目を伏せながら、人差し指で膝をつついた。

「爆破しなければららんのよ、ダイナマイトでな」

「お父さん、もう、その辺で」

 まるで幼児を叱りつける時のように、細い眉をしかめて、「め!」という顔つきをした。たちまち老人は、嬉しそうに顔を崩した。

(ははん。これは、七三一細菌部隊の研究所の後始末のことだな)

 僕は二人の気配で察知した

 小夜子さんがわざとらしく、乱れた浴衣を直すようにして、会長の前に両手を伸ばした。

「あらら、お父さん。こんなに汗おかきになりはって、もう。暖房効き過ぎでっしゃろか、この部屋。いま、冷っこいタオルで、拭きますよってにな」

 わざと甘えて体重をあずけるようにして、体をしならせ、会長の体を僕から覆うようにしながら、小夜子は何か耳打ちしている。

 ――「律子はんに、ウチもきつう言われてますよってに」「おお、そうじゃった、そうじゃった。あの女憲兵か。酒が入るとな、ついつい口が滑ってのう」「まあ、憲兵だなんて、口が悪い。お気をつけなさいまし。ここが会長のお城でも、どこに敵が潜んでいるか、わかりゃしまへんよってなァ」

 小夜子は僕がうつむいているのを横目で見ながら、小声でそんなことをいった。 

 しかし、僕にはちゃんと聞こえている。あるいはこの賢い嫁さんは、わざと聞かせて、こちらを牽制しているのかも知れない。

 

「玉音放送の数日後、世話になった満映の甘粕さんも、青酸カリで自殺したな。チョビ髭生やした小男で、普段は冷静な皮肉屋だったが、いったん宴会となると、狂ったかと思うほど無茶な飲み方をする。みんな黙ってたが、憲兵時代にアナーキストの大杉栄を殺した男だということで、一目も二目も置かれていたな。満州より他に、生きる場所のなかった男さ。凄みと殺気を帯びていたわさ」

 老人は、すわった目をしてお茶を啜った。

「――暴動では、日本人の警察官や元特務機関の連中まで、嬲り殺されたりした。とりあえず、自分と小さな聡太郎の隠れ場所を、探さなけりゃならんかった。背中のリュックに聡太郎を背負って、新京郊外に疎開したが、疲れて口も聞けなかった。雨が何度も降ってな、からだが冷えるんじゃ。聡太郎もピーピー泣いておった。日本まで逃げるため、いっそその場で首絞めて、殺してしまおうかとも思ったさ。ぎゅうぎゅう詰めの無蓋列車で、背中の聡太郎がしきりに泣くんだ。一歳ちょっとで、母親はいないし、ロクに乳も与えられなかったからな。列車は深い大きな大陸の闇を進む。

 ――このまま暗い地の底に向かって、吸い込まれるんじゃないかと思ったわな。周辺の丘陵地には、暴徒が隠れ潜み、弾丸をばらばら撃ってくる。列車の腹には、ミシンのように点々と穴を空けられるんだ。必死で外にしがみついてた奴は、どんどん落とされていく。誰が撃たれたのかすりゃ分かりゃしない。生きた心地もせんわ。速度が変わると、どっと乗客が塊りになって押し寄せてくる。赤ん坊など潰されちまっても、不思議じゃない」 

 酒が来た。

 僕の前にも徳利と二、三品の酒肴が並べられた。
「泣いている赤ん坊は、髪の毛が茶色で目が水色。目立つわな。だからボロ頭巾を被せておったが、なにしろ鮨詰めの列車だ。いつのまにか頭巾が脱げてしまい、周りから、憎悪をひしひしと感じた。聡太郎はますます怖がって、ピーピー泣く。『おい、黙らせろ』と隣の男が言うんだ。『赤ん坊を黙らせろと言ってんだ。ポイと捨てちまいな』外に何時間も出られない列車で、中で小便もらす女や、下痢便をもらしたままの負傷兵もいて、吐き気のするようなひどい匂いがムッと立ち込めていた。皆、心が殺伐としていた。

 別の男が『何だこのガキは。外人じゃねえか』と言った。『目が青いぞ』『ロスケのガキだ。捨てちまえ』とな。条約を破って突然南下してきたソ連に対する反感は、強かったからな。男の腕が、あちこちから伸びてきた。わしは聡太郎をを片手で押さえながら必死で哀願したよ。そのとき、バリバリバリバリと激しい音が列車の外から響いた。マンドリンと言われる自動小銃さ。二、三発の流れ弾が飛んできて男が一人、こめかみからゴボゴボ血を噴いて崩れた。それで、聡太郎は救われたのさ」
 老人は杯を啜り、浴衣の右肩をもう一度大きくはだけた。

「あのう」

「なんじゃい。何でも聞いてくれ」

「失礼ですけど、いつ、その左手は」

「――なにを?」

「片腕を失ったのは、聡太郎さんを抱えて列車で満州から逃げる前ですか。それとも、日本に帰ってきてからですか」

 僕は「病院」の爆破の時に、腕を吹き飛ばされたという噂の信憑性を、何とか確認したかった。片腕しかない状態で背中に幼児を背負って満州から逃げて来たというのは、かなり難しいのではないかとも思う。

 黄色い顔をした白髪鬼は、ぐいと身を引くと、まるで初めて僕の顔を見るような目つきで、ジロリと睨んだ。

「あのう。あれはなァ、確か、日本に戻って来てから、でっしゃろ。工事の時に重機に挟まれた事故でな。ずいぶん昔に、その話、お父さんから聞きましたやろか」

 急に嫁さんが、割り込んできた。酔っぱらって何を言い出すかわからない爺さんを、脇からガードしようというのだろう。

「……小夜子。お前は黙ってろ」

「いえ、ウチもよう覚えてまへんけど、確かな、そんなふうにお父さんからお聞きしましてん」 

「あのう、すいませんけど。僕は、会長に聞いてるんですよ」

「あら、そうどすか。お喋りはあきまへんなあ。でも、ついつい昔から、知ってること、知らないこと、言うてしまう病気でな」

 こりゃもう、確信犯だ。どうやら小夜子さんは、気が気ではないらしい。

 しかし丹下会長の方は、顔を低くして、僕の目をじっと直視した。

「お前、ひょっとして。あの辛島の野郎とウラで、通じてるんと違うか?」

 ぎくりとした。

 老人は、奇妙な動物でも眺めるように、こちらを観察していた。僕は話を逸らそうとして何か言いかけたが、緊張で喉がこわばり、声が出なかった。

「……まあ、いいわ。フフフ。飲めよ、小僧」

 ふっと息を抜いて、苦笑いするように片手を伸ばして、僕のお猪口に酒を注いだ。

 そこで緊張がとけ、有難くいただくように盃を両手で持った。何かを誤ると、とつぜん、火を噴いたように怒鳴り出しかねない爺さんなのだ。

 しかしその間も、会長の右脇から、白い女狐が、じいっ僕のことを覗っている視線を感じていた。

 それにしても、老人の話は飛び飛びで、曖昧なところがたくさんある。文を再構成する際に、これでは作業的にも困ってしまうだろう。

「ええと。それで、もうひとつ質問させてください。戦後尋ねて行った人物というのは、具体的に言いますとどのような方達でしょうか」
「馬鹿ヤロー。それは言えんわ」

 またしても、凄みのある目つきで睨まれた。

 しかし、すぐに老人は、ニタリと笑った。

「わかるだろうが、その辺は。わしも、きれいごとばかりで生きてきた人間じゃないんだよ。清濁あわせ飲んで、むしろ濁の方が多いクチだ。いまだに生きとる奴もいる。満州のお偉いさんたちで、戦犯追究を逃れた連中だ、とだけは言っておく。だがなァ……。最後の最後で、わしは見捨てられた。あんなに危ない橋を渡って、阿片じゃずいぶん稼いでやったのになァ。わしは戦後、奴らの家の玄関を、ひとつひとつ尋ねていったさ。ハハハ。死神に会ったような顔しとったわ。こっちも、どうせ大陸では死んだつもりの命、腹くくって行ったからな」

 老人はそこで、疲れたようにうなだれた。
 「ああ、年取ると、この丹下喜作といえども、しんどいわ。おい、ここに当てるの、何か持って来い。小夜子。早くせい。早く!」

 会長は座布団を脇に当てて、横になった。

「アー、建物を作るってのは、どういうことだ? ビルディングを作るとは。小僧、考えてみいや」

「ええと。建物を作る意味、みたいなものですか」

「そうよ。みんな自分の巣箱を作るために、生きておるんじゃ。権力も金も政治も、みな最終的には、箱作りに行く。面白いと思わんか。己の栄光を飾るためにな。ピラミッド、凱旋門、万里の長城。寂しいもんだ。つわものどもが夢の跡ってな。権力を握った者は、形を残したがるんだ。ひとかどの男はな、みんな己の城を残したいんじゃ。そして城だけ残して、この地上から一人残らず死んで行く。しょせんは、波打ち際の砂の城さ……」 

 和服の丹下小夜子が、枕と毛布を持ってきた。白足袋が目立つ。
「おい、小夜子、少しここを揉んでくれ。腰の辺りだ。おお、そうそう。そうだ。わしはなあ、あんた、若いの。意味がわからんのだよ。この人生の意味が。どうも何かに騙されているような。情けないが、八十にもなってなァ。おい、この人生とは、結局、何かね」
「人生の、意味ですか――」
「あんた知っとるかな? 本とか、読むクチなんじゃろう」
「い、いえ。そんなには」
「学者に聞いても、答えられん。ずいぶん昔、自民党のある政治家の祝賀会で、東大の哲学の先生を紹介された。何でもドイツの哲学者の難しい本を訳した教授らしい。髭を生やした気取った小男さ。それでわしは、酒の勢いもあって、『人間とは、何のために生きているのですか』と、素直に聞いたんだ。するとだ、野郎はニヤニヤ含み笑いをするばかりでな、軽蔑したように、こちらを見おった。『それはさまざまな考え方があって、いちがいにはいえませんがね。そのことを問うのが哲学なのです』と、澄まし込んでほざいてみせたわ。なんだ、アンタ知らないんですか、というと、『まず、知るとはどういうことでしょう。知らないとは、どういうことでしょう。ギリシャ以来、そこから哲学は始まるのです』と惚けやがった。馬ッ鹿ヤロメ。人間は何千年も哲学やってて、いまだに答えがないらしい。だけどな、満州のゴロツキの親分どもは、みんなひとかどの哲学を持っておったぞ。牛や、馬や、羊の糞の匂いのする哲学をな。ところがインテリどもは、知ったかぶりしおってるだけだ。税金で無駄飯食っているだけじゃねえか。ふざけやがってナァ。

 ……ちゃんとそのとき、チョビ髭の東大教授が教えてくれたら、わしはその場で百万円、ポーンと耳を揃えて渡してやったのに。わざと小汚いチラシか何かに包んでな。ほんとうに、生きていることの意味を、わしが得心がいくように教えてくれたら、さらに加えて、もう百万円のチップだ。わずか三十分の講義で、二百万円だぞ。おおよ、便所紙に包んでくれてやる。ああ? 何のために人間は、こうしてあくせく……。わしらは、どこから来て、どこへ行くんだ。ああん? 単にちょろよちょろ泳ぐ精子から、みすぼらしい火葬場の灰になるだけなのか、この一生は。結局のところ、この世ってやつは、どんな仕掛け、どんなカラクリ、どんな設計図になっておるんじゃ。フム、知らんだろうなあ、アンタも。……おう、そこそこ。気持ちいいのう」
 老人は亀のように首をあげ、目を細めた。

「誰も教えてくれんからなあ。坊主も、牧師も。金ばかりふんだくりおってなァ。そういえば、満州でも白元先生が、無だの、空だの、気だの、訳のわからんことをいって、最後はヒェーイとかいって、気合いでコップ倒して誤魔化したもんだな。変な仙術が使えるから、手品を見せて騙すんだ、あの人は。でもそれだけのもんだ。それにしてもなあ、律子や聡太郎を見ていて、何のためにわしが血と汗を流して……。おうおう、極楽極楽、そこじゃそこ」
 小夜子さんは僕と眼が会うと、軽く微笑み「ごめんなさいましな」と言った。

 なるほど、この流し目は老人キラーだな、と僕は思った。

 この何を考えているのかわからない白狐のような京女は、芳田慶子嬢とは違ったところから、狷介なヒヒ爺の丹下喜作の孤独な心をくすぐっているようだ。脇で見ている僕ですら、見ているとそのさりげない、しめやかな色気のようなものに、くらくらと来てしまう。

 
「小夜子、聡太郎を頼むぞ。お前だけが頼りだ。あの馬鹿はな、子供の頃はあれでもっと、賢かったんだ。苦労かけるわ」
「なに言うてはりますのん。ウチの大切な旦那様のことを、馬鹿とかアホとかいわんといてくださいましな。サヨはな、聡さんのこと、心の底から尊敬しとります。いっつも、お父さんにも聡太郎さんにも、よくしてもらってますよってになァ。ウチは本当に幸せもんやなあと、毎日毎日、手を合わせて拝んでおります」

「馬鹿とは言ったが、アホとはいっとらんぞ。そんで、誰に手をあわせとるんじゃ、おまえ」

「もちろん。会長さんと、聡さんと、神様仏様どすえ」

 老人の肉の薄い肩を揉みほぐしながら、彼女は薄く微笑んだ。

 なるほど、完璧な答えだ。

「毎朝、屋上の丹下神社にお詣りに行って、ウチがお水と御供え物してますの、知っとりますのん?」 
「知っとる、知っとる。そうかそうか。そう言ってもらえるとナ、わしも……」

 といって老人は、息子の嫁の片手を取って、目を閉じて頬ずりをした。

「おう、お前の手は、魚の腹のように柔らかじゃのう。めんこい、めんこい。水揚げしたころと、いっしょじゃのォ。おっぱいもこのくらいで、ほんのおぼこで、まだあっちの毛も、ほんのりと薄かったわな。もっとも薄いのは、そのままじゃったようだが」
 喜作老人は、嫁の白い手の甲を、何度も何度もさすっていた。ということは、息子にはお下がりを与えているということか。
「もう、厭やわァ。お客さん見てはります」

 ぴしゃりと軽く老人の肩を叩いた。

 そしてもう片方の手で、顔を隠すようにして、困ったような潤んだような目で、僕をみた。ドキリとする。これはやばい。
「かまわん。こいつはゴーストライターと言ってな、まあ幽霊の親戚みたいなもんじゃ」
 幽霊の親戚。他に言いようがあるだろう。

 小夜子さんのなまめかしい手や表情の動きを見ていると、歌舞伎などの女形を連想してしまう。たとえば、玉三郎の優雅でおっとりとした仕草などを。
「小夜子。律子とうまくやってくれ。な。頼む」
「そんなァ。うち律子はんのことも、尊敬しとります。難しい女子大出てはって、えらいもの知りで、学問もあって。それにくらべたら、ウチなんて何も知らずに、古い世界からいきなり東京に出て来て、もう、目ぇまわしているだけですやろ。……新宿なんて、いまだに会長に連れてって貰わないと、迷子になってしまいますわ」
 「そうか、そうか。また連れて行ってやろう、新宿でも、六本木でも、赤坂でも。お前は言うとやること、めんこい女じゃのう。……そうか、律子のこと、そう思ってくれているなら、いいんじゃが。せめて律子が男に生まれておれば、このわしもなァ。あいつは兄の聡太郎のこと、馬鹿にしとるんじゃからな。それにのォ、むかし無茶した因果が祟って、わしの体だって、いつ何どきどうなるのか、わからんのだよ……。それを思うと、わしは、夜もハッと目が覚めてしまってなァ」
 老人はそれから涙の滲んだ眼をこすり、意味不明のことを小声でぼそぼそと呟いた。


「あんた。おい! 若いの――」
「はい」
「わしをナ、奉ってくれんか」
「奉るといいますと」
「自分史というのかね、あの『人生連峰』でな。わしを、その……これ以上ないほどの、偉大な創業者、実業家に、描きあげてくれんかのォ」
「……これ以上ないほどの、ですか」
「わしは、それに値する男と思わんか。どうだ――。多くの者がな、わしと初対面で、こんな男、初めて会ったと言ってくれる。そうだろ小夜子」
「はあ、そうどすなァ」

 京女は、袖を口元に当て、おかしそうにクククと笑った。

「皆さん、会長さんの個性には、シビレテおりまっしゃろ。えらい、カリスマですやん」

 老人はそこでまた、嬉しそうに破顔一笑した。
 「出来栄えによっては、もっと色をつけてもいいぞ。一年間、あんたを丸ごと買い取ってやろう。芸者のようにな。どうだ。わしの自分史に、かかりきりになれ。わしを、みんなに拝ませるんじゃ。これが生涯、最後の望みじゃ。……小夜子、聖書のことを、何ていうんじゃった。英語で、何とか言っただろ」
「バイブル、ですやろか」

 嫁は身を乗り出して、即座に言った。
「そうそう。『人生連峰』でな、丹下喜作の、バイブルを作ってくれんかの」

「今度は、神様にでも、なりはりますの? 会長」

「おおよ。砂漠の、あれは、何ていった。アラブの宗教の。あれも分厚い本があるだろ」

「アラブの国の、イスラムさんとこの御本は……。あそこら辺の門徒衆の御本は、たしかコーランとか、いいはりますやろ」

 嫁は真面目な顔をして、大きくうなずいた。

「それだ! バイブルだの、コーランだの、法華経みたいなもんを、書いてくれ」

 いくら何でも、無茶過ぎて言葉が出ない。

 それにしても、小夜子さんのとっさの受け答えには、感心せざるをえない。知識がない、学問がない、などといいながら、相手の欲しい言葉をさっと返してくるのは、さすがに祇園や先斗町できたえたプロの客あしらいというものだ。

「コーランといえばな、むかし大川さんがよく、話していたな。日本人はイスラムを知らんと。あの先生にいわせりゃ、中世の昔はヨーロッパの方がむしろ野蛮で、科学や文化は、みんなもともと、イスラムから習ったんだそうだ」

「あの。大川さんて、有名な大川周明ですか」

「おお、知っておるかね。何とも素っ頓狂な、変なセンセイじゃったな。偉い軍人までどなりつけておった。裁判のときは奴さん、キチガイの振りをしおってのう。世界中が見ているなかで、東條さんの頭、ポカリと叩いての。ハハハ。ありゃあ、千両役者じゃったな」

 大川周明といえば、太平洋戦争のときの理論家で、大変なイスラム学者だ。北一輝と双璧をなす、戦前の右翼のイデオローグとして知られている人物である。一時は満鉄調査部にもいたらしい。

 極東軍事裁判、いわゆる東京裁判のときは、日本のA級戦犯の一人として、他の軍人や政治家とともに階段状になった法廷の被告席に座らせられていた。彼はとつぜん何を思ったか、紙を丸めて手をろそろと伸ばし、一列前の東條英機の頭部を、ポンと叩いてみせた。心神喪失を装ったのだ。たちまち警備のMPに両脇を押さえられて、子供のように法廷から引きずり出され、そのまま戦犯追究から逃れたようだ。

 すでに死刑の決まっていた東條は、後ろから頭を叩かれたとき、くるりと振り向いて、相手が大川だと知ると、奇妙に口をひずませ、何ともいえない苦笑をして見せた。東條英機のあのニヒルな笑いは、妙に印象的なのだった。僕は以前、ドキュメンタリー映画『東京裁判』でこの異様なシーンを見たことがある。

 大川周明は、戦後しばらく世田谷の松沢病院に入れられていたので、あるいは本当の精神病だったのかも知れない。それでもこの入院中に、厖大なコーラン訳を仕上げたそうだ。

 それはともかく、こんな話を聞くと、何だか喜作爺さんを見る目が違ってきてしまう。

「いいか。丹下一族の、末代まで語り伝えられるようにな。社員のすべてが、従業員の家族のすべてが、グループ企業の、出入り業者の家族全員が、日々わしを讃え、わしを崇め、永劫に心に刻みつけるような、そういうバイブルを作って欲しいんじゃ。分かるか。死んだら神社に祀られるようなな。わしは、はァ、すべてを手に入れたが、いまだ、名誉だけがない。心底、名誉が欲しい。それをお前、なんとかせい!」
 僕は背筋が冷たくなっていた。

 この大陸浪人から叩き上げた戦後史の裏面史の生き証人みたいな老人は、自分自身を、神格化したいのだ。

 気持ちの揺れをごまかすため、しきりに僕は酒を注いだ。

 小夜子さんの能面のような切れ長の眼が、いつになく異様に光っていた。薄い上品な笑いが口元に浮かび、じっと僕を眺めていた。

「あらまあ、手酌なんて。だいじなお客様に、たいそう失礼いたしました。堪忍どすえ」 

 彼女はそういって、両手をついて、正座したまま畳の上を、スイっと器用ににじり寄ってきた。そして優雅に袂を押さえると、脇から白い腕を伸ばされ、改めてゆっくりと、お銚子の酒を注がれた。

 にっこりと微笑まれて、柔らかく「どうぞ」といわれた。

 そんな風に丁重に扱われると、なんだか料亭の端でさっきまで拗ねてみせていた京阪あたりの常連客の若旦那か何かのような気分になってしまう。どうも僕までが、妖艶な白狐の魔法にかかってしまったようなのである。

 ――そして、なぜか記憶はそこで曖昧に途切れていた……。

 

                                    (続く)

 

 

『建築家の檻』

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

1   丹下会長は片腕のない白髪鬼で…

http://p.booklog.jp/book/97575/read

 

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

2   そして、戦艦のような建物の中へ

http://p.booklog.jp/book/97692/read

 

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 

3    第一印象で、もう落第

http://p.booklog.jp/book/97717/read

 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

4    前途多難。白髪鬼からのヒアリング

http://p.booklog.jp/book/97734/read

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 

5   父親殺しの建築家。旧左翼ふうジャーナリスト

http://p.booklog.jp/book/97775/read

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

6   満州で馬賊の親分になりたかったのさ

http://p.booklog.jp/book/97814/read

 

 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 7 「ハルピンの悪魔城」を思わせる私邸には

http://p.booklog.jp/book/97885/read

  

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 

 8   最高会議は家族会議。妄想のユージェニクス

http://p.booklog.jp/book/97960/read

 

 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 

9 大陸での忌まわしい出来事。ルイーズ・ブルックスと佐伯祐三

 http://p.booklog.jp/book/98117/read

 

 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 

 10 軍艦ビルの中のラビリンス

http://p.booklog.jp/book/98468/read

 

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 

11  迷宮の中で見る幻――ミノタウロスとデミウルゴスの絡み合い

 http://p.booklog.jp/book/98658/read


 


この本の内容は以上です。


読者登録

草原克芳さんの更新情報・新作情報をメールで受取りますか?(読者登録について