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自転車

 薄ラベンダー色の自転車に
 こがれんばかりになりながら
 またがり走る少女がいた
 視線の先には娘を案じ
 幾度も振り返る父
 少女は新しい友だちを

   必死に飼い慣らそうとしながら
 父を真っ直ぐに追いかけていた

 

 金木犀が満開だ
 天がどこまでも青くて
 このまま離陸できそうだ

 

 一人ぼっちの私は

   買い物袋を籠に投げ込み
 往く手を阻む休日の恋人たちの

   いくつもの繋いだ手に
 爽快なベルをりんりん鳴らしてやった

 

 香りはいいのに花粉がなあ と
 目を掻きくしゃみをする私を
 愛車が赤黄色の顔をして笑っていた


午前五時四十五分の鳥たち

 鳥たちはいつだって
 自分の起きる時間を
 正確に把握している

 

 山側にあるうちの近く 
 今の時期なら
 最初に啼き始めるのは
 歌をすっかりマスターした鶯だ


 ほーーーおっ ほけきょっ
 けけけけけ 

   けきょけきょけきょけきょ


 五時きっかりに働き始める

 

 夏至の前の朝日がきらきらとまぶしい
 なんだかいてもたってもいられなくて
 歌声につられるように散歩に出た
 すぐそこのコンビニまで歩こう
 たまにはあんパンでも買ってこよう

 

 雨上がりの町は白く煙って
 私の寝乱れた黒髪を濡らしたが
 頭上の空は薄青色に晴れ渡り
 今日の暑さを予言した

 

 その空を大胆に横断する何本もの電線を
 燕たちがせわしなく往き交っている


 くるるるる ぴぴぴぴぴ 

   くるるるる


 そうか
 遠くから聞こえてきたあの早口は
 彼らのおしゃべりだったのだ
 ぎこちなく群れる姿を見ると
 まだ飛び方を覚えたばかりの

   若鳥なんだろうか

 

 ――いや 違う
 私は知っている 
 夫婦たちはたった二人で
 やっとこさ巣作りの仕上げに

   取り掛かったばかりなのだ
 ついこないだも

   店々のアーケードを覗いたが
 どこの新居も留守にしていて
 黄色いくちばしのひなはおろか
 卵を温める母親の姿すら

   見かけなかったのである

 

 そのとき私は見た
 
 寝坊な人間が

   不用意に持ち出したばかりのごみを狙って
 目ざとく山から降りてきた烏たちを
 そしてその漆黒の戦闘機に向かって
 無数の燕たちが

   弾丸のように攻撃するのを

 

 かあ あぁあぁ あぁあぁあぁ

 

 大きく鋭い嘴を持った脅威が
 巨大な翼を慌てて開き
 ばさばさと羽を散らかしながら

   逃げるのを

 

 あぁ かあかあ あぁかあ あぁあぁあぁ

 

 本能的に団結した

   血のつながりもない群衆に
 交差点の向こうへ見えなくなるまで
 不本意な鳴き声を漏らしながら

   追い立てられるのを

 

 あぁ あぁ かあ あぁあぁ あぁああ

 

 帰り道
 うちの隣のマンションで
 しずくの宝石をつけた

   小さな赤いばらのつぼみが
 はにかみながら私に挨拶した
 私たち二人は
 大いなる空の聖戦を仰いだ

 

 帰宅した頃にはいつの間に
 お宿から呑気な雀が起きだしてきて
 戦いのことなんてつゆとも知らずに
 道端で幅を利かせ始めていた

 

 ちゅん ちゅん ちゅちゅちゅ

 

 さあ コーヒーを淹れよう
 鳶が天頂から高らかな第一声を落とし
 私の出勤の合図を出すのは
 まだあと一時間ほど経ってからである


横須賀スキーリフト

 背中の窓から差す日だまりの下で
 向かいに広がる灰色の雲を仰ぐ

 

 凍りついた鉄骨のアーチが
 無垢な白銀の上に幾重も連なる

 

 モノトーンの街を走る電車は
 上昇しないが下降もしない
 運休路線をよけながら
 あっちへこっちへ乗り継いで
 今日のゴールを目指していく

 

 ヘッドフォンからピアノの音つぶが
 ぽろぽろと耳へ落ちていく


 普段の三倍くらい

   乗車時間を見積もっていたら
 安心してなんだかうとうとしてきた

 

 隣の席で文庫を開く彼も
 ドア際でケータイを叩く彼女も
 どうしてそんなに眉間にシワを寄せ
 ぐったりと口角を垂らしているんだろう

 

 枕木がごとごと全身を揺らす
 カーブの振動が

   ごぅと胃の空洞に共鳴する
 重ね着の身体は

   指先までぽかぽかとしている

 

 雪が解けてもこうしていよう
 明日も明後日も
 
 まっさらな雪原の上に
 ぽつんと最初の一滴


教えてアル子さん

 ねえアル子さん

   どうしてお酒は

   あたしを淋しくするの

 

 お酒って
 辛いのや甘いの
 苦いのや酸っぱいの
 夏は顔に花火が上がって
 冬はお腹に焚き火がともる
 からだが大きくなったみたいに
 ごはんもたくさん食べられちゃう

 

 でもねアル子さん
 すぐにあたしは淋しくなるの

 

 毎日の独りの夕飯はもちろんだけど
 大切な誰かと酔っぱらっていたのに
 ひとりぼっちの家に帰るときっていったら!
 そうなのアル子さんそのとおりよ
 もしその大切な誰かと

   朝まで一緒だとしても
 あたしは淋しいの
 お酒を口にするそのときから
 あたしはもう淋しいのよ

 

 そんなときあたしは泣くの
 あたしは蒸留するの
 エタノールが

   体液に溶けきれない不純物を溶かしてくれて
 溶液はふつふつ沸騰して
 吹き出す気体を冷やして涙にするのよ

 

 でもねアル子さん
 あたしうまくできないの
 エタノールはちゃんと78度で沸騰するの
 あたしの体液は100度で沸騰してくれるの
 それにねアル子さん
 結局流れる涙は

   水とアルコールの混ぜ物だけで
 ごみは体に残ってしまう

 

 ごみを排出する涙は痛いの
 痛いのよアル子さん
 肺と喉が締め付けられるの
 息苦しいの
 そうしてようやく絞り出されるの
 そんな無理できっこない

 

 淋しさを紛らわすために

   お酒を飲むという人がいるわ
 でもあたしは違うのアル子さん
 あたしは淋しくなるために

   きっとお酒を飲むのよ
 どうしてかしらねえどうしてかしら

 

 胸を貸してアル子さん
 ぽつぽつ
 髪を撫でてアル子さん
 ぽつぽつぽつぽつ
 キスしてあたしにキスしてアル子さん
 ぽつぽつぽつぽつ
 ぽつぽつぽつぽつ

 

 教えてアル子さん明日こそは

 

 今夜はもう牛乳を飲んで

   お風呂に入ってしまうから


ストッキングの足

 駅に着いたときには

   深夜を回っていた
 晩秋の海風が乱れた髪を煽り
 ノースリーブにショール一枚の肌を刺した

 

 学生時代の後輩がめでたい式を上げた夜
 当時の仲間と三軒の店を飲み歩いた
 もういい年だからと遠慮するあたしの前で
 同年代のあいつらは

   その五倍も十倍も酒を煽った

 

「会社なんて

 内部からぶち壊すもんでしょ」
「採用初日から机に新聞と専門書積んで

 バリケード作りましたよ」
 
 同志たちは悪がきのままだった
 なのに私は
 何を大人になろうとしていたのだろう

 

 財布の中は空っぽだ
 ははっ
 乗り越しの清算をする小銭すらないなんて
 仕事熱心な駅員が聞いて呆れる

 

 むろんタクシーなんて呼べないあたしは
 ヒールの高い靴を脱ぎ
 むき出しのストッキングの足で
 よそいきのドレスを翻して夜の町を闊歩した

 

 胃と胸の中に火がともる
 毛穴中から発散されるアルコールの臭気までをも
 コートみたいに小気味よくまとった
 
 アスファルトの凹凸が
 指からかかとまで刺激する
 冷たい夜が

   しっとりと地面にしみ込んでいる
 あたしはそれを確かに踏みしめる
 
 そう
 あたしもまだそんな足を持っている
 これは一生莫迦な者たちの足だ



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