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会社を辞める・・・・・・?/ 最初のリストラ

 会社を辞める・・・・・・? 

 

夫の口から「会社を辞めることにしたから」と聞かされたのは、今から二年前。息子を連れて近所の交通公園に遊びにきている時でした。 

初夏の日差しが心地よい日曜日の昼下がり。市内には珍しく周囲に多くの自然が残るその交通公園には、たくさんの家族づれが訪れていました。 

「僕これにする!」 

受付を済ませるや否や、息子は早速気に入った自転車にまたがり、スイスイ走り出しました。 

交通公園というのは、ご存知の通り敷地内に本当の信号機や横断歩道があり、それらに従って自転車やゴーカートを走らせることで、交通ルールを子供たちに学んでもらう目的で作られた公園です。 

まだ息子が小さいときには、私や夫も彼に付き添って歩いたり走ったりしたものですが、小学生になった今は息子は一人で自由に公園内を走り回っています。 

私たち夫婦は、少し離れたところに並んで立ちながらそんな息子の様子を見ていました。 

「パパー、ママー、見て見て~」 

息子が目の前を得意気に通り過ぎるたびに、 

「気をつけてね。ちゃんと信号守りなさいよ」 

そう言葉をかけながら、私は横に立つ夫の横顔をチラチラと盗み見ていました。笑顔いっぱいの息子とは対照的に、時折ふさぎこむような彼の様子が少々気になっていたからです。 

「隼人、うまいぞ」 

息子には笑顔で応えるものの、息子が行ってしまうとまたすぐに険しい表情になる夫。いくら普段鈍感な私でもさすがに何か変だな、と感じました。 

「ねえ、どうかしたの?」 

私はたまりかねてそう切り出しました。正直に言えば夫のことを心配してというよりは、せっかく家族で遊びに来ているのに、あまり楽しそうに見えない彼の様子に少々腹が立っていたというほうが正しいかもしれません。何かおもしろくないことがあるならはっきり言ってちょうだい。そんな気持ちでした。 

夫は、はっとしたように私の顔を見て、すぐに目をそらし、少し考え込むようなそぶりのあとで、ようやく口を開きました。 

「会社、辞めることになると思う」 

「えっ? またなの?」 

とっさに自分でもおかしくなるほどの裏返った声が出ていました。 

そうか、夫はそんなことを考えていたのか――彼の様子がおかしい理由はこれではっきりしましたが、同時にそれまでの楽しい気持ちがいっぺんに吹き飛んでしまいました。何も知らずに、今の今までのほほんとしていた自分自身にも腹が立つ思いでした。 

「どうしてそういうことになったの」 

一応聞いてはみたものの、夫は横を向いたまま、 

「いろいろあるんだよ」                                                                                                  

 と言うだけです。 

そんな重い会話をしている私たちのことなどおかまいなしに、周囲は相変わらず楽しそうにざわめいています。まさかこんなところで、それ以上「どうしてどうして」と問い詰めるわけにもいかず、私も彼と一緒に黙り込むしかありませんでした。とたんに、ここに集う人たちの中で自分たちだけが「幸せな家族」という目には見えない資格を剥奪されてしまったような気がしました。 

「おーい。ここここー」 

向こう側の信号を渡って、また息子が近づいてきました。いつの間に乗り換えたのか、今度はゴーカートを運転しています。 

私は心の中の影を息子に気づかれないよう、必死で笑顔を作りました。 

何も知らず無邪気に遊ぶ息子を見ながら、私たち夫婦はいつまでも同じ場所に暗い顔で立ち続けていたのでした。

 

 

最初のリストラ 

 

私が思わず「またなの?」と反応した通り、実は夫が「会社を辞める」と言ったのはこの時が初めてではありませんでした。結婚してから二度目の失業。この時勤めていた会社は一年前に再就職したばかりでした。 

――一年前の秋。夫は大学を出てから長く務めた信販会社を辞めました。 

その会社は、元々は地元企業だったのですが経営難から外資系の大手企業に買収されていました。景気の低迷が続き、いわゆるM&Aが国内で急速に増えだした頃です。夫の口から会社に対する不満が多く出るようになったのはそれからでした。 

アメリカ人は合理的過ぎる。日本の仕事のやり方を何もわかっていない・・・。 

今まで義理や人情を重視した営業スタイルからひたすら数字のみが優先される――夫も営業マンとしてそれなりのキャリアを積んでいますから、結果重視は企業の姿勢として当然だとわかってはいても、あまりに人の感情を無視した経営方針には反発を覚えたようでした。 

達成率だけでなく、コスト削減の徹底に取り組んでいた会社は、普段からリストラ策を積極的に推し進めていたようです。常に雇用が不安定な状況の中で仕事をしなければならない。それでも数字だけは求められる。 

夫から間接的に話を聞いているだけの私にも「それはきついだろうな」と容易に想像がつくくらいですから、当事者である社員たちにとっては本当に過酷な状況になっていたと思います。 

ある時、夫が会社から「社内カウンセラーの案内」と題された資料を持ち帰ったことがありました。 

「へえ、こんなのがあるの」 

興味を惹かれてざっと中を見てみると、社員宛に発信されたもので、本社に社員のためのカウンセリング室が設置されており、何か不安なことがあればぜひカウンセラーに相談してほしいという内容でした。 

「社員のためにカウンセラーを置いているなんてなかなかいい会社じゃないの。 社員の心の問題にも気を配っているということでしょ」 

私は素直にそう言いました。さすが大企業だと感心さえしたのです。 

すると夫は、すかさず厳しい顔になり、 

「冗談じゃない」 

はき捨てるように言い放ったのです。 

「バカ正直にこんなところに行ってみろ。すぐ人事に通告がいくんだよ」 

「そんな・・・・・・だってこういうのは普通秘密にすべきものでしょう」 

「そんなに甘いもんかよ。人を減らしたくてやっきになってる会社が本気でこんなことやるわけないだろ。相談内容も全部人事に筒抜けなんだよ」 

「どうしてなの?」 

「リストラするやつを探すためだろ。カウンセリングなんて冗談じゃない。こんなもの利用なんかできるかよ」 

そんなものなのだろうか――私はため息が出る思いでした。社員のためにカウンセリングを、と謳いながら実際には相談にきた社員をリストラ名簿にのせるのが目的だなんて・・・。まるで詐欺みたいなものです。 

そのうち、夫の上司で私も何度かお会いしたことのある方が、仕事の重責からかうつ病になってしまい、退職に追い込まれるという事態が起きました。人が減っても補充などあるはずがありません。彼の分まで仕事を任されるようになった夫はますます多忙になっていきました。 

そんな時です。夫から、人員削減の案が具体的に提示されたという話を聞かされたのは。いよいよリストラが実践され出したのです。会社側はリストラ対象者のリストを発表。このリストは入社の古い順に名前が並んでいて、入社十四年目の夫もギリギリでそのリストに含まれていました。会社側が示した条件は、多めの退職金支給の他に、会社が費用を負担する形で、退職者を人材バンクに登録し、離職後一年間はパソコンなどの技術講習が無料で受けられるというものでした。 

また、このリストラ策は来年以降も引き続き実施される予定で、つまり、今年リストに含まれなかった社員も順次対象者になっていくというわけですが、ここまでの好条件が来年以降も同じかというとその保障はなく、下手をすれば全く分が悪いままでリストラされることにもなりかねないということです。 

要はどうせ辞めるなら、会社が条件を約束している今が一番得なのだという話です。 

もちろん、断るという選択肢は当然あったのですが、 

「この話に乗ろうかと思っているんだ」 

私に話した時点で、夫は既に心を決めているようでした。 

「いいんじゃない。そうしなさいよ」 

妻である私もすぐに賛成しました。 

条件より何より、帰宅時間は深夜の一時、二時が当たり前。本来は休日であるはずの週末も毎週のように出張があり、息子と触れ合う時間も取れない。父親がいながらまるで母子家庭のような生活に(本当の母子家庭の方には失礼ですが)、私自身も疲れ切っていたのです。 

毎日ご主人が夕方には帰宅して、家族揃って食事ができるお宅がどんなにうらやましかったか。たくさん兄弟でもいるのならともかく、うちは一人っ子。夫がいなければうちには私と息子の二人っきりです。ご近所から聞こえてくる団欒の声を聞きながら、母子二人きりでの食事がどんなにわびしいものか。父親っ子の息子も本当にかわいそうでした。 

こんな生活は人間の生活じゃない。ここまで社員を酷使するような会社は辞めた方がいい。休みもほとんど取れず、倒れないのが不思議なほどの激務。夫の体も心配でした。ここらで一度ゆっくり休息を取って体勢を整えた方が、彼のためにも私たち家族のためにもいいことだと思いました。 

自主退職ではないため、失業保険も翌月から支給されるとのことで、とりあえず生活の心配はありませんでしたし、不安などはこれっぽっちも感じませんでした。 

話を聞いた知人からは、 

「あなたは珍しいね。大黒柱のご主人が会社をやめるとなれば、普通奥さんなら反対したり心配したりするものだけどね」 

と半ば呆れたように言われましたが、私自身もまだ、夫が会社を辞めるということの本当の意味がよくわかっていなかったのだと思います。それに、この人ならきっとすぐに次の仕事が見つかるだろう、という確信もありました。なぜそう思ったか、理由は自分でもうまく説明できませんが、そう信じきっていました。そして、結局その通りだったのです。

 

信販会社を退職してほどなく、人材バンクから何社か紹介を受けた夫は、同時に退職した人たちの中で一番先に次の就職先が決まりました。お給料の額も全くダウンすることなく、夫は朝早く家を出て帰るのは深夜。付き合いと称する連日の飲み会。急に飛び込んでくる出張のため、夫不在の週末――。私と息子にとっては以前と何ら変わりのない生活がまたすぐに始まったのです。 

今思えば、この最初の転職があまりにもスムーズに行き過ぎたことが結局はいけなかったのかもしれない――のちにそんなふうに思う日々が来るなどとは、この時の私には想像さえつかないことでした。  

 


二度目のリストラ/失業

 二度目のリストラ 

 

夫が再就職した会社は、通信関係の会社で、当時始まったばかりのマイラインや携帯電話などを扱う若い会社でした。最初のうちは、夫のことを気に入って採用してくれた上司ともうまくやっているようでしたし、もちろん夫自身は新しい仕事に慣れるのに大変だったでしょうが、表面上は特に問題もなく過ぎていきました。 

その夫の顔が曇りがちになることが多くなったのは、入社して半年も過ぎた頃でしょうか。 

とはいえ、夫も世のご主人と同じく仕事のことを家庭でごちゃごちゃと話す方ではありません。話すことでストレス解消する私と違って、ストレスがあればあるほど黙り込むタイプです。ただ深夜、遅い食事に付き合いながら彼から断片的に聞く話を総合すれば、どうも自分の能力以上の仕事を任されているようで、あまりいい結果が出せず、そんな状況から上司との関係も微妙に変化してきているようでした。 

夫にすれば、自分にとっては異業種なのだからそんなに何もかも完璧にできるはずはない。もっと長い目でみてほしいという思いがあり、会社側は即戦力として雇ったのだからもっと役に立ってくれなくては困る――。そんな両者間のズレが広がり、次第に夫の会社での居場所はなくなっていったようです。

 そんな折、夫が新しくできる携帯ショップの店長に抜擢されることが決まりました。本来なら出世コースということになるのでしょうが、夫の話によればどうもそんな単純な話ではなさそうでした。 

夫は、これは自分を失脚させる理由作りのための抜擢だと言うのです。立地などの条件から見ても店の売り上げが伸びないことは初めからわかっていることで、すべて仕組まれていることなのだと。 

私などは単純な人間ですから、初めからそんなに斜めに構えず、たとえそうだとしても逆の意味で会社の期待に応えなくてすむように、がむしゃらにがんばればいいじゃないかと思うのですが、夫は妙に冷めていて、その点がどうも気がかりでした。 

大体、夫一人を失脚させたいためだけの理由で会社がわざわざ新しい店を作るはずもなく、店の業績が上がることは会社にとってもいいことなのだし、逆にチャンスを与えようとしているのかもしれない。だからあまりマイナスに考えず、一生懸命取り組めばいいのではないか。そんなことをやんわりと話してみたりもしましたが、

 「おまえにはわからない。そんな簡単な問題じゃないんだよ」 

そう言われてしまえば、返す言葉もありません。私から見れば会社の思惑がどうのというよりも、当の夫自身が最初から「あんな場所では人が来るはずがない」「携帯なんかもう売れない。頭打ちだ」などと悲観的な態度でいることのほうに引っかかりを覚えました。が、そうは言っても夫のことですから、いざ仕事が始まればしっかりやるだろう、と私はあまり深刻に考えてはいませんでした。夫が言うようにいくら売り上げが悪かったとしても本当に辞めさせられてしまうなんてことはまずないだろう、と思っていたのです。 

ただ、何かの時に夫がひょいと口にした、 

「店長なんて表に出るのは何かあったときだけでいいんだ。普段は女の子たちに任せて俺は裏に引っ込んでいるよ」 

この言葉を聞いて一抹の不安を覚えたことは、はっきりと記憶しています。 

私は、結婚前はずっと販売の仕事に就いていました。営業の苦労はわかりませんが、じかにお客様と接する現場の厳しさは身にしみて知っています。店長職にある人間が初めから「何かあったときだけ出て行けばいい」などという考えではその店はうまくいかない――直感的にそう感じました。 

もちろん店長というのは総合的に業務をこなさなければいけませんから、実際にバックで仕事をすることが多くなったとしても、必然的にそうなるのと、本人自らそれでいいと思っているのとでは意味が違います。店のトップである店長の仕事に対する姿勢は、そのまま下で働く従業員のそれに反映されるものです。常時後ろに引っ込んだまま、自分たちと同じ現場に立とうとしない店長に対し、スタッフたちがどんな感情を抱くか。そして結果として、彼らの仕事ぶりがどういうものになってくるか。答えは簡単にわかります。 

でもそのことは夫にはとても言えませんでした。

 

準備期間が終わり、いよいよ夫が店長を務める店がオープンしました。そのオープンセレモニーを終えた夫が帰宅するなり、 

「もうだめだ。失敗した」 

かなり落ち込んだ様子なので、一体どうしたのかと聞くと、式で従業員の名前を間違えて紹介してしまったというのです。夫は普段から「人の名前を間違えることは何より失礼なことだ」という考えの持ち主で、たとえば明らかに違う名前と間違われるのは当然としても、名前のうちの漢字一つ違えられただけでもひどく気分を害します。 

息子が生まれた時に、友人から頂いたご祝儀の表書きの字が本来のものとは違っていたことがあり、相手が親しい友達だったからということもあるでしょうが、 

「あのさ。悪いんだけど菊地の地は池じゃないんだよね」 

などと、わざわざ電話で指摘していたこともありました。 

一方私は、名前のミスについてはそこまでこだわりません。もちろん自分が人さまの名前を扱う時は、失礼のないよう細心の注意を払うようにしていますが、世の中の人すべてがそうだとは限らないし、人間ですから時にはうっかりすることもあるだろうと思っています。私の名前はユキコと読みますが、アキコと発音されたり、ユの字を有ではなく由とされてしまうことはしょっちゅうです。或いは、なぜか「由美子」さんなど全く別の名前に変わってしまうこともあります。でも私にとってそんなことはどうでもいいことで、ましてやキクチの地が地になろうが池になろうが全く意に介しません。でも夫にとっては大変なことらしいのです。 

式に臨む前に、夫が従業員の名前を必死で暗記していることも知っていましたが、私はなぜそんなところにそこまで神経を使うのだろう、と不思議で仕方がありませんでした。お客様の名前を間違えれば確かに大ごとですが、相手は身内である従業員。まして気づいてすぐに訂正したということだし、そんなに気にすることもないのに・・・と思ったのです。 

もちろん正確なのに越したことはないし、夫が心配していたように式に出席していたお偉いさんたちには少しばかり心象を悪くしたかもしれないけれど、そもそも身内のみを集めたセレモニーをぬかりなく済ませたところで大した意味はない。夫は自分がこれから携わっていく仕事がどんなものか、現場にとって一番大切なものは何なのか、本当にわかっているのだろうか。見ているところが根本的に違うのでは……私が口をだす問題ではないと知りつつも、ついそんなことを思わずにはいられませんでした。 

実際部外者である私には、夫の会社の内情は見えませんし、いくら販売職に就いていたとはいっても責任者としての経験があるわけではないので、夫のしょっている責任の重さまでは到底わかりません。 

「お前に何がわかる」と言われればその通りです。 

ただ私が自分の経験を通して確実に言えることがあるとすれば、お客様とじかに接する仕事は人によって向き不向きがはっきりと分かれるものだということ。夫は私が見る限り、接客業には向いていません。 

夫は優秀な営業マンかもしれませんが、優秀な営業マンがいい販売員になれるとは限りません。店長だの何だのといったところで、お客様から見れば店にいる人間は誰でもただの販売員なのです。下の者の模倣になるような、お客様に満足感を与え、かつニーズに沿った的確な接客ができなければ、誰もついてはこないでしょう。 

自分の夫に対してずいぶん厳しいことを言う奴だ、と思われるかもしれませんが、販売、接客という分野に対しては、私はプロとしてのささやかな自負を持っています。いくら相手が身内でもその評価はどうしても厳しいものになってしまいます。商品知識がどの程度あるか、いかに数字に強いか、コスト感覚が身についているかといった要素も大事ですが、販売の仕事はそれだけではなく、資質というものが大きく関係してくるのは事実です。ましてや責任ある立場の人なら尚更でしょう。 

もちろん夫も慣れない分野での仕事を任され、私などには計り知れない苦労があったと思います。親会社が合併し、社内に人が増えたことで人間関係もより複雑化してきていたようです。 

夫自身が予想していた通りになったというべきなのか、まもなく夫は売り上げ不振の責任を取らされる形で店長職から降ろされることになりました。 

先に書いたように、遊びに行った先の公園で、夫が「会社を辞めることにした」そう思いつめたように口にしたのはそれからほどなくしてのことです。

 

 

失業 

 

一度目の退職の際には、二つ返事で快諾した私でしたが、今度ばかりはそうもいきません。私もパ―トで働いてはいましたが、それで家族全員が食べていけるはずもなく、根が楽天家の私は、ここで初めて不安になったのです。 

最初の転職はたまたまラッキーだったけれど、今度はそう簡単に仕事は見つからないのではないか。新卒の若者でさえ就職先がないというこのご時勢に、四十近い人間にそんなに次々といい仕事が見つかるはずがない。いつまでも夫の職が決まらなかったらどうしよう。私のパート代などたかが知れているし、僅かばかりの貯金なんかすぐに底をついてしまう。これからの生活はどうなるんだろう。子供の学校は?習い事は?新しい服だって・・・いや、それよりも食べていくことすらできなくなるかもしれない。家族の誰かが病気になったら、医療費だって払えない。どうしよう。 

私たち家族はこのまま底なし沼に沈んでいって二度と這い上がれなくなるのではないか。そんな底知れない不安が胸に湧き上がってくるのを抑えることはできませんでした。 

私は普通の妻らしく、夫を説得にかかりました。 

「もう少し頑張ってみたら? また状況も変わるかもしれないし」 

家庭を守ろうとする妻としての本能でしょうか。今夫に辞めてもらっては困る。今回は絶対に阻止しなければ――そんな気がしたのです。私は必死でした。 

でもよくよく夫の話を聞いてみると、店長職を降ろされた後の彼は本当に悲惨な状態にあったのです。毎日上司から「責任を取れ」と責められ、重要な仕事は全く回ってこない――会社にいてもやるべき仕事がない、ということが健康な人間にとっていかに辛いことか、私には手に取るようにわかりました。 

「だったらどこかの支店に移動させてもらったら? 私はかまわないから」 

会社をやめなくてもいいなら子供に転校させてもかまわないと本気で思ったのです。しかし夫の反応は意外なものでした。 

「そんなのとっくに聞いてみたよ」 

上司から「全部の支店に聞いてみたけど、どこからもいらないと言われた。おまえの受入先はない」とはっきり断言されたというのです。愕然としました。すでに彼の居場所は会社のどこにもなかったのです。

もう私が説得するだの反対するだのというレベルの話ではなく、夫は会社を辞めるしかない状況だったのです。私も「ああ、それでは仕方がないな」と納得する他にどうしようもありませんでした。とはいえ、夫に同情する反面、せっかくいい再就職ができたのに一体どうしてこんなことになったのかという腹立たしさもあり、内心複雑な思いでした。

妻の私が言うのも変な話ですが、夫は決して仕事のできない男ではありません。頭も回るし、人間を見抜く力もあり、彼が長年キャリアを積んできた営業という分野においては相当仕事のできる人だと私は思っています。ただ自分でも認めているように、上司におべんちゃらを言ってうまく取り入るとか、状況に応じて親しくする人を換えるとか、そういうところはひどく不器用なのです。

なぜ夫がここまでの状況に追い込まれたのか、本当のところは私にはよくわかりませんが、要するに上司との関係がうまくいっていなかったということが大きいのではないかと思います。ただ人間関係を円滑にこなす能力も仕事ができるうちに入る、といわれればその通りで、また異業種からの転職であったため、即戦力としての能力が足りなかったのも事実でしょう。会社との相性というものもあるかもしれません。

とにかく、季節がまっしぐらに夏へと向かう時期、夫は二度目の会社を辞めました。

それからの約一年間続いた地獄のような生活を、私は絶対に忘れることができません。

 


どん底の日々/生活の見直し―― リストラにありがとう

 どん底の日々 

 

今度は以前のように恵まれた条件での離職ではありませんでした。退職金もないし、失業保険も支給されるのは三ヶ月先です。前は退職した翌日からパソコン講習に通うことができましたが、今回は当然そんな条件はありません。ということはー―夫は毎日どこにも行くところがないということです。 

本当の意味で彼は「無職」になってしまいました。働き盛りの健康な男性が毎日何をするでもなく家に居る――このことがどんなに家庭を暗くするものか。私は他の誰よりよく知っていました。

 私の父親はまともに働かない人でした。別に病気がちだったわけではなく、ただ外で働くことに向かない人だったのです。父親が働かなければ、必然的にもう一方の親が働いて生活費を持ってくるしかありません。 

大の男が昼間からただブラブラと家にいるということがどういうことか。そして家計を支えるために、母親が年がら年中家にいないということが子供の成長にどんな影響を与えるか。普通の家庭で育った人には絶対にわからないと思います。 

女親が家計を支えるということは、一般の主婦のように夕方までのパートでいい、というわけにはいきません。朝から晩まで、それこそ家庭のことなど忘れて働かなければそれなりの給料をもらえるはずがありません。母親が仕事に没頭して家にいる時間が少なければ、その家の子供は必然的に母親から受けるはずの細かいケアなど何もしてもらえずに放っておかれることになります。 

もしこれが父親が病気であるとか、或いは初めから父親がいなければ、母親が忙しく働いている状況を子供もきちんと理解するでしょう。でも私の家には健康な父親がちゃんと存在していたのです。母親がいつも仕事で家にいないこと、母親が常に疲れていること、母親が父親の愚痴ばかり垂れ流していること、それから、友達を家に呼べないのも、私が家を一日も早く出たいと思うのも、みんなみんな父親が働こうとしないせいだ――そんなふうに、私の中で父親に対する恨みの感情が、いろいろなことがわかってくる年になればなるほどどんどん大きくなっていきました。 

私は何も父親だけが必ず働かなければいけないものだとは思っていません。母親が働いて、父親が家で家事をする――それも一つの家庭の形でしょう。ただそれは、その家で成長していく子供の感情を無視したものであってはいけないと思います。 

私と父親は決していい親子関係ではなく、その嫌いな父親がいつも家の中を支配していて、同性としていろいろなことを教えてもらいたい母親とは全くといっていいほど関われない、という状況は私にとっては辛いものでしかありませんでした。 

他にも何かと満たされないことの多い子供時代を過ごしたせいなのか、私はずっと心の中にどんと居座ったまま動かない「寂しさ」という名の塊を抱えながら生きているような、そんな気がするのです。 

とにかく私は、将来自分が育ったような家庭だけは築きたくない、わが子にだけは自分が経験した寂しさを味わわせたくない。そう強く思いながら大人になりました。そのためには、普通に仕事をする男性と結婚しよう。仕事の長続きしない男性は絶対に選ばない。そして、その通りにしたはずでした。

 

結婚して十年。夫と私の関係は正直いい時ばかりではありませんでしたが、真面目に働くという点に関しては信頼していたのに。なのにどうしてこんなことになってしまったのだろう。 

「これからどうするの」 

「仕事探すさ」 

「探すなんて簡単に言うけど、二回もリストラされた四十男なんかどこも雇ってくれるわけないじゃない。世の中そんなに甘くないんだから」 

「とにかく、探すしかないんだよ」 

「だからやめなきゃよかったのに。どうしてやめちゃったの」 

「それは仕方がなかったって何回も説明してるだろ」 

「本当にこの先どうするつもりなの。もう一家心中するしかないかも」 

「バカ。何で死ななきゃなんないんだよ。そんなことになるわけないだろ」 

「だってお金が一銭もなくなったら死ぬしかないじゃない」 

「二人で働けば何とかなる」 

「私に働くことを押し付けないでよ。今のパートだっていつまで続けられるかわからないんだから」 

「こういう状況なんだから、とりあえず仕方がないだろ」 

「ああ、もうどうしてこんなことになっちゃったの。どうするの? ねえ、どうするのよ」 

「もういい! 何回も同じこと言わせんなよ」 

朝から激しく言い争いをする毎日。責められる夫も辛かったでしょうが、私も自分でどう扱っていいかわからない苛立ちを夫にぶつけるしかできませんでした。私が朝仕事に出かけ、夫が家にいる――というその構図が、あまり幸せとはいえなかった自分の子ども時代と重なり、平常心ではいられなかったのです。 

仕事が続かず稼ぎのない父親。その父親の愚痴を子供に垂れ流しながら、生活のため、しゃにむに働く母親。あの、嫌で嫌でたまらなかった両親の関係と同じになってしまう。結局私も母親と同じような人生を送ることになるのだろうか。仕事人としては成功しても、女としては決して幸せそうには見えなかった母親と。 

いや、夫は一生懸命職を探しているのだ。父親とは違う。と頭ではわかっていても、夫がこのまま働かずにズルズルと家にいることになったら――という強い不安がどうしても消えませんでした。 

繰り返しますが、私は何も男性ばかりが働いて生活を支えなければいけないとは全く考えていません。たった一人で家族の生活費を稼ぎ続けることが、どれほど大変で責任の伴うことか。仕事か家庭かと悩むのは女性の専売特許で、男性にだけその選択肢がないのは本当に不公平でおかしいことだと思います。 

私の知り合いに女性参画活動をライフワークとし、いつも声高に「夫も家事を平等にやるべきだ。なぜ女だけが家事をやらなければいけないのか」と訴えている女性がいます。彼女いわく「女性から家事の負担を解放する」ことが生涯のテーマだそうで、会うたびそんな話を聞かされていました。 

それがいつだったか、彼女が沈んでいる時があり、わけを聞くと、彼女の夫が勤務する会社の経営が悪化し、深刻な状況になっているというのです。 

その頃、私のほうはすでに夫がリストラされた後だったので、内心(まだリストラされているわけでもないんだから、うちよりましじゃないの)などと思っていたのですが、彼女は、 

「夫の給料が下がったらどうしよう」 

「夫がどこかに飛ばされたら・・・」 

「もし夫がリストラされたらこれからどうやって生活していけば・・・」 

などと本気で心配しているのです。 

その時私は、正直彼女に強い違和感を覚えました。普段あれほど「男女平等。夫にも家事を」と騒いでいながら、生活費を稼ぐという役割だけは夫のみに押し付けている不平等さに気付かない、ひどく手前勝手なものを感じたからです。 

普段彼女が豪語しているように男女平等を本当に実践しているなら、夫の会社がどうなろうと何もあたふたする理由はないはずです。妻である彼女が稼げばいいだけの話ですから。それとも男女は同権だと主張しながら、生活費を稼ぐのは夫一人の責任だとでもいうのでしょうか。 

経済的にきちっと自立している人がフェミニスト論を語るのは大いに結構。もっともだと思います。ただそうではなく、経済の主たる部分を夫に依存していながらの男女平等論などはちゃんちゃらおかしいというのが私の持論です。 

夫に家事参加を望むなら、妻のほうも生活費の分担に真面目に取り組むべきです。夫が家事労働をあくまで「妻を手伝ってやっている」としか思っていないことに腹が立つと言うのなら、妻のほうも自分のパート代は私のものなどという意識は捨て去るのが筋です。もちろん主婦の中には、子育てや介護など働くことが困難な事情を抱えている場合も多いでしょう。要は意識の問題です。 

働くのは夫。でも家事を私だけがするのはおかしい、などという論理はただの我がままとしかいえません。 

彼女に限らず大抵の女性は、生活費を稼ぐ行為も生活することの一部だということに思いがいっていません。賃金格差や育児環境の問題など社会的な不備はわんさとあるものの、基本的に生活費は男女どちらが稼いでもいい。少なくとも男性だけが責任を負うものではない。普段からそう考えていた私は、結婚し、子供が生まれてからも、可能な範囲で仕事を続けていました。それが私の僅かな誇りでもあったのです。 

それなのに――いざ夫が会社をやめ、家にいるようになったとたん、ひどい言葉を夫にぶつけている自分は一体何なのか。結局いくらえらそうなことを言ったところで、私も知人の彼女と同じ、自分に都合のいい論理を振りかざしているだけの女だったんだ。夫が会社を辞めたことにより、それまで見えずにいた自分の弱さやずるさが陽の下にさらけ出されてしまったようでひどくみじめな気分でした。

 

夫が失業中だという事実はどんなに親しい友人にも話せませんでした。友人からランチに誘われれば、実際そんな余裕がなくても、それまでと同じように付き合いました。ボーナスで指輪を買ってもらった、ハワイに行った、記念日に外食した……夫への軽い愚痴をこぼしながら、いつものようにそんな話に花を咲かせる友人たちに合わせて笑いもしました。なんだかんだ言ったって、まともに働いているダンナがいるんだから幸せじゃないか。私だってついこの前までは同じ立場だったのに、どうして私だけこんなことに――そうひがめばひがむほど彼女たちと自分の距離が遠くなった気がしてたまらなくなったものです。 

パートに行けば行ったで同僚はみな自分と同じ年代の主婦ばかり。休憩時などに交わす会話は自然とお互いの家庭のことが中心になります。 

「ダンナが今度転勤になるかもしれないの」 

「うち、今日会社の飲み会なのよ」 

私と違って何も心配のないように見える彼女たちが妬ましく、そんな思いを抱えながら仕事をするのはかなりの忍耐が必要でした。気持ちを抑えて外で精一杯愛想を振りまいた分、家に帰れば夫に激しく当たる。そんな日々の繰り返し。家庭内の明るさの度合いが数値で表せるとしたら、当事の我が家は間違いなく最低値を示していたことでしょう。

夫もさぞ苦痛だったと思います。私には顔を合わせるたびひどい言葉で罵られ、仕事は思うように見つからない。心の休まる暇など全くなかったはずです。私は文字通り鬼のような妻でした。

仕方がない、私が働けばいいんだという気持ちと、母親のような生き方は嫌だという思いが自分の中で相反し、精神的におかしくなってしまいそうで、夫に感情を投げつけていなければバランスが保てなかったのです。

夫の気持ちを推し量る余裕など全くなく、お金がなくなっていく不安。それに伴う将来への不安。そんなものが一気に押し寄せてきていました。  

 

 

生活の見直し―― リストラにありがとう 

 

あのどん底の日々から約二年半。夫は現在、再度の転職を経て建築関係の会社で働いています。安定した生活は何とか戻ってきましたが、お給料の額はぐんと減ってしまいました。以前の夫の給料は、多いときで手取りで三十五万ほど。それが今では約半分の十八万五千円。親子三人、毎月ぴったり十八万五千円でやっていかなければいけないのです。以前は毎年二回、必ずそれなりにまとまった額のボーナスが支給されていましたが、今は一文もナシ。夏が来ようが冬になろうが、我が家には全く関係ありません。我が家の家計費は一年中ひと月十八万五千円。変わることはありません。 

家計を預かる私もいやおうなしに生活の根本的な見直しをせまられました。それまでも、私は自分なりに家計管理はしっかりやってきたつもりでいましたが、いざ半分の額でやっていかなければいけなくなってみると、今までいかに無駄の多い生活をしてきたかを、まざまざと思い知らされることにもなりました。 

日本ではまだまだ転職はマイナスです。よほどいい条件での引き抜きでもない限り、転職を繰り返すたび給料は下がり、多くの人が手にして当然と思っている退職金やボーナスといったものとは無関係になっていきます。私は、それなりの大学を出ていながら仕事人として悲惨な末路を迎えた父親の生き方を間近で見てきたことと、母親からこれらの愚痴を散々聞かされてきたため、小さい頃からこうした社会のしくみは自然と頭に叩きこまれていました。新卒で入った会社を勤め上げるのが一番間違いのないことだと信じていたので、結婚前OLをしていた頃もどんなに嫌なことがあっても、転職など考えもしませんでした。とにかく父親とは真逆の生き方をしたかったのです。あの人と反対のこと、つまり仕事をころころ変えたりしなければ、少なくともそう不幸な人生にはならないだろう。そう思っていました。 

まして今はこのご時勢です。高度成長時代に働き盛りであった父親より状況はもっと悲惨でしょう。夫は私の実家とは違い、勤勉な勤め人である父親と専業主婦の母親というごく普通の家庭で育っていますから、安易な転職の怖さが実感としてなかったことは否めないでしょう。前述した通り、たまたま一度目の転職がうまくいったことも、結果としてこうなってしまった原因の一つだったかもしれません。要するに甘かったのです。 

それでもあの夫が失業中だった一年間を思えば、夫が毎日会社に行ってくれているということが本当に有り難いとしみじみ思います。夫が健康で真面目に働いてくれている――私たち主婦は、ついそんなことは呼吸するのと同じくらいに当たり前のことだと思ってしまいがちですが、それは傲慢というものです。いくら家事だの子育てだのと声を張り上げてみたところで、それができるのも夫がお金を運んできてくれてこそのこと。夫が家族のために働いてくれること。それは決して当たり前ではなく、本当に素晴らしいことなのです! 

そういう私も、一連のことがなければきっと感謝するどころか、彼の稼いだ給料をさも当然のように使い、更にはそれを妻の特権などと思い込み、少ないだの何だのと不満を募らせたりしていたことでしょう。 

今はリストラに「ありがとう」と言いたいくらいです。平凡という名の日々にどっぷりつかった暮らしの中で、つい忘れかけていたことに気付かせてくれただけでも感謝しなければいけません。 

夫の給料が激減してから、私は様々な工夫をこらして生活しています。必要にせまられてのこととはいえ、慣れてくるとそれも暮らしの大事な一部分となり、なかなか楽しいものです。 

バブルの頃はもう遠き昔。たとえ今何も心配がないとしても明日にはどうなるかわからない時代です。お金を上手に使いこなせる人が本当の意味で生き方が上手な人といえるのではないでしょうか。 

お宅によっては、我が家と家族構成が違っていたり、生活スタイルが明らかに異なっていたりして、あまり参考にならない場合もあるとは思いますが、この本がほんの少しでも皆様のお役に立てることができれば幸いです。 

 


家計簿のない家庭は、経理のない会社と同じ /家計簿の選び方

  

家計簿のない家庭は、経理のない会社と同じ 

 

私は結婚してからずっと家計簿をつけています。家計簿というとどうしても「続かない」「面倒」といったイメージがあり、つけてはみたけどすぐに嫌になってやめてしまった、という人が大半かと思います。周りの友人たちを見てみても、家計簿をつけることを習慣にしている人はそう多くはいません。 

家計簿をつけるという行為は、家庭を運営していく上において非常に重要であり、かつ基本的な業務の一つです。商品を売りっ放しで経理業務を行わない会社などどこにもありませんし、PTAでも市民サークルでも必ず会計の仕事があります。家庭だけがどんぶり勘定でいいというのはおかしい話ですし、家計を任されている人間の怠慢といわれても仕方がないと思います。 

もしあなたが一人で生計を立てていて、「家計簿なんか面倒。適当でいいの」というお考えのもとに暮らされているならそれはそれで筋が通った話かもしれません。でもそうではなく生活費のすべて、あるいは大部分を他者に委ねて生活をしているならば、お金の管理をしっかり行うことは働き手に対する礼儀です。当たり前ですがお金はその辺から沸いてくるものではありません。お金を丁寧に扱う、即ち管理を徹底させ、日々無駄を省くよう心がけることが、働き手に対する感謝の気持ちを具体的に表すことに繋がるのではないでしょうか。 

家計簿をつける目的は、家計簿をつけるそのこと自体が目的なのでは当然ありません。それによりひと月の収支を把握し、問題点を認識し、次回に生かすことが目的であり、家計簿をつけるという行為はそのための手段です。 

おいしい料理を作ることや、洗濯物をきれいに仕上げることも主婦にとって大事な仕事ですが、食材や洗剤を買うために必要なお金を管理することがすべての家事の基本です。いい加減では済まされません。私も夫がリストラにあってから、より一層そのことを実感するようになりました。 

さあ、あなたも今日から早速家計簿をつけ始めましょう!

 

家計簿の選び方  

 

・外見も大事  

 

毎年暮れになると、書店や文房具店、スーパーの書籍コーナーなどに様々なタイプの家計簿が並びます。その中からそれぞれご自分の使いやすいものを選べばいいのですが、ご参考までに私の使っているものをご紹介しましょう。私が初めて利用したのは、日本能率協会マネジメントセンター社の「メモリー家計簿」というシリーズです。これは表紙一面に花の絵が使われていて見た目も美しく、毎回「今度はどの柄にしようか」と選ぶのが楽しみでお気に入りだったのですが、どういうわけか最近手に入らないので、ここ数年は他社のものを代用しています。 

家計簿は、つけやすい、見やすいなどといった内容の出来はもちろんですが、装丁がきれいで手に取るのが楽しみになるようなものを選ぶことも長続きするコツです。小さなことですが、長く自分のそばに置くものですから、どうせ使うなら味気ないものより、好みの色や絵柄のものを使った方が気分も華やぎますし、あとで見返す時も楽しい気持ちになるものです。「何でもいいわ」などと妥協せずに、ぜひとっておきの一冊を選んで下さい。それがあなたの家計簿生活の大切な第一歩になるのですから。

 

 

・サイズは統一して 

 

様々なタイプの家計簿  

 

私はずっとA5判の大きさで揃えています。初めて買ったものがたまたまこのサイズだったので、以降同じ大きさで統一しているのですが、人によってはこれより大き目のB5版サイズのものも使いやすいかと思います。最近は手帳と家計簿が一体になったタイプのものが出ているのをよく見かけますが、あまり小さいものは避けた方が無難です。家計簿は使い終わったらそれで終わりではなく、あとから収支を把握したり、分析する作業が大事なので、小さいものですとあとから見にくいし、ある程度の厚みがないと保管もし難いものです。 

そもそも予定を書き込む手帳と、その日に使ったお金を記録する家計簿は用途が全く異なるものなので、一緒にする意味はないと思うのです。家計簿は手帳のように持ち歩くのに便利である必要はありません。せっかく家計簿をつけ始めようと決めたのですから、何かのついでのようにして使うのではなく、ぜひ専用のものを用意してほしいと思います。 

また、食材などを記入するスペースを広く取った「お料理家計簿」というものもよく見ますね。確かに食費は人間の生活の根本に関わる重要なもので、またこれほど心がけ次第で増減が可能になる費目もないのですが、当然ながら毎月の家計は食費だけで占められているわけではありません。毎日料理の研究をしているとか、たまたま食費しかかからない恵まれた生活をしているというなら別ですが、普通の家庭なら特に「お料理」をメインに取り上げたものでなくても、一般の家計簿で充分だと思います。家計は全体を見て始めて成り立つものだと思うので、食費だけに焦点を絞り過ぎると、かえって偏った結果になってしまう危険性もあります。もちろん料理が好きで自分に合っていると判断されたならそれでかまいません。私のように、普段料理に特別力を注いでいるわけではない人がわざわざそういったものを選ぶ必要はない、ということです。 

それから、市販のノートを家計簿の代用にすることもお勧めしません。日記のようにただ文字を書き連ねていくだけならいいのですが、家計簿は買ったものと使ったお金を単純に並べていけばことが済むというわけではないので、(それでは単なる一日の収支記録帳にすぎません)横線しかないノートを家計簿として使う場合、罫線を引いたり表を作成したりする作業が不可欠になってきます。そういうものを手書きしているとどうしても雑になりがちですし、第一時間が無駄です。 

また、パソコンの家計簿ソフトを使うというのはどうでしょうか。今更、パソコンより手書きがいいなどと言うつもりは全くありません。現に私も、パソコンは市場に出回ったごく初期の段階から愛用していたクチで、今ではもう立派な必需品。パソコンなしの生活はとても考えられません。日常の連絡はほとんどメールですし、FAXでさえ最後に触ったのがいつかもわからないほどパソコンに依存しています。 

ただ家計簿に関してだけは、私はアナログ派なのです。後にくわしくお話するように、一年に一度収支の計算表を作る時にはエクセルにお世話になりますが、普段の作業は絶対にパソコンではだめです。 

日常生活の中で、過去のちょっとしたことを確認したい時には必ず家計簿を開きます。旅行の日程。旅先で食事したお店。物の値段。購入した日。学校行事。いつ誰と会ってどこに行ったか。ランチのお店。飲み会の会費。去年のクリスマスの過ごし方――。これらのことはすべて家計簿をめくれば「ああそうだった」と完璧に思い出すことができます。これをいちいちパソコンの電源を入れ、立ち上がるのを待ち、ソフトを開き、更に目当ての部分を探す――といった作業をしなければいけないとなると、考えただけで気が遠くなってしまいます。それにこれだけの情報を限られた誌面に盛り込めるのは、自由が利く手書きだからこそで、数字が整然と並ぶパソコンでは無理でしょう。 

確かにパソコンは便利ですが、書き直したり後から追加したり、そんな苦労の痕が履歴に残る家計簿もいいものです。家計簿は日記や手紙のように別に文字をたくさん書くわけでもありませんから、パソコンに頼るメリットはあまりないと私は考えますがいかがでしょうか。

また、「記入するだけでやりくり上手に」とか「月に○円節約可能」などと主婦にとっての甘い文句?をうたったものも多いですね。思わず手を伸ばしてしまいそうですが、よく考えて下さい。当たり前ですが、魔法ではないのですから、ただ記入するだけで自然にやりくりができたり、へそくりが可能になったりすることなどはありえません。問題点を見つけ改善策を練り、実行して初めて結果がでるわけです。ただ指示に沿って収支を垂れ流しに付けているだけでは何も変わりません。定期健診を欠かさず受けているからといって、必ず病気にかからないわけではないのと同様に、家計簿をつけているからといってそれだけでは何の保障もありません。ここのところをお間違えのないように。 

また、そんなに多くは見かけませんが、予め日付けが印刷されているタイプのものもあります。いつから使い始めてもいいように、日付け部分は空白になっている(フリータイプ)ほうが使いやすいのですが、他に難点がなくどうしてもそれを使いたいという場合は、その印刷部分は無視してしまいましょう。印刷された数字の余白に手書きで実際の日付けと曜日を書き入れてしまうのです。数字がだぶってまぎらわしいのでは?とご心配かもしれませんが、自然と自分で書いた文字のほうに目がいきますから大丈夫。 

 

ところで、先程二冊目以降を一冊目のサイズに合わせていると書きましたが、このことについて少し詳しくお話しましょう。 

前述の通り、最初の数年は日本能率協会のシリーズを使っていました。 

ある時、近所の店に新しいものを買いに行くと同じシリーズはあるのですが、いつものA5判がなく、それより大きいB5判のサイズしか置いていなかったのです。店に在庫はなく、他を回る時間的余裕はありません。さてどうするか。迷いましたね。A5判の中から書式が似たものを選ぶか。それともあくまで同じ社の「メモリー家計簿」シリーズにこだわるか。サイズをとるか内容を取るかの二者択一です。私は店先で何度も家計簿をめくったり手に取ったりしながらしばらく考え込みました。ずっと気に入って使っていたので、メモリーシリーズにも大変未練があり、今更他のものはできるなら使いたくありません。 

そして悩んだ末、結局前者を選びました。「同じシリーズを使う」ことを捨て、「大きさを揃える」ほうを選んだのです。結果としてこの時の選択は正しいものでした。 

家計簿は、後で説明しますが、使い終わったらそれっきりというものではなく、あとで頻繁に見返す機会が多いので、手に取りやすい場所にまとめて保存しておくというのが原則です。この「保存する」という視点で考えると、大きさが揃っていたほうが見た目にもキレイですし、整理もつきやすいという利点があります。 

その時々で違うサイズのものを使うと、収納が困難ですし、場合によっては一部だけ分けたりしなくてはならず、使い勝手が大変悪くなります。家計簿を一冊使い終わるごとに、各家庭の、そして記入者自身の人生の記録が増えていくわけですから、きちんと整理しておきたいものです。 

私はリビングの棚に料理の本や辞書類などと一緒に並べて置いています。大抵のものは、背表紙もローマ字でかわいくデザインされていますし、一見して家計簿とわかるようなものはまずないので、リビングに置いても違和感はありません。それでもあまり目につきやすい場所では「お客様の目に入って嫌だわ」と思われる方もいるかもしれませんね。私は見られても気にしませんが、気になる方は外から背表紙が見えないように方向を変えて(たとえば背表紙を下にするとか)収納してもいいと思います。要は自分が納得して、取り出しやすければそれでいいわけですから。 

サイズを揃える際、なるべくそれまで使っていたものと様式が大きく変わらないものを選びましょう。 

メーカーが違えば全く同じというわけにはいかないので妥協も必要なのですが、項目の位置や記入の方向など基本的な要素は押さえておくべきです。様式が完全に違うものを選んでしまうと、書く時だけでなく、後から見る時にも目が慣れなくて大変です。 

何度も言いますが、家計簿は付けることそのものではなく、「あとで見返す行為」が重要なのです。記入方法は一度決めたら大きく変えないことが家計簿を効果的に活かすコツです。 

ずっと気に入ったものを使い続けられればそれが一番いいのですが、メーカーが生産を止めたり小売店が倒産したりして特定のものが手に入らなくなる場合も多いに考えられますので、その際の参考にしてください。 

家計簿はまとめ買いする性格のものではないし、実際、去年まで普通に買えたものがもうどこにも売っていないということがよくあります。 

そもそも年末以外の時期に、ほとんど家計簿が取り扱われないのはどうしてなのでしょう。これは「家計簿はお正月からつけ始めるものだ」ということを前提にしているのでしょうか。 

私の場合は、家計簿をつけ始めた時期が秋ですし、節約して本来の場所でないところにも記入したりしているので、十二月の末にぴったり一冊使い終わるとは限りません。なので、毎回新しいものを手に入れるのに大変苦労しています。大抵は店の隅っこのほうにおまけ程度にしか置いてなく、店員さんには「年末にはたくさん入るんですけどねえ・・・」と、まるでこちらが冬のさなかにスイカをくれ、とでも要求しているかのような顔で言われてしまいます。 

これではせっかく思い立って家計簿をつけようと決心しても、それがたまたま十二月だったというケースでない限り、非常に限られたものの中から選ぶしかなく、気に入らないものを渋々使わざるをえないということにもなりかねません。家計簿を途中で挫折せず、長く続けるためには一番最初に出会ったものとの相性も大事なポイントです。経験上、「何となく使い難いな」と感じるものを無理に使用していても長続きしません。 

そもそも手帳を暮れに買うのは当然として、家計簿も新年に新しくするもの、と仮定するのはどういうわけなのでしょうね。普通は結婚した時や、親元を離れて一人暮らしをスタートさせる時などにつけ始めるものではないでしょうか。その時期は個人によって異なるので、何も一斉にお正月にピントを合わせて売り出さなくてもいいような気がしますが。 

とにかく、年々暮れ以外に気に入ったものを手に入れるのが難しくなっているのは事実です。昨年の夏には店で売っている家計簿自体の数が非常に少なく、炎天下の中、十件近く回りましたが、どうしても適当なものが見つからず、最後にはかなりの妥協が必要でした。かといって市場に合わせて、まだ使い終わらないうちに新しいものを買うというやり方は私のポリシーに反します。 

家計簿をつけるという行為には、丸々一冊使い切ったという充実感と、あれこれ選ぶ楽しさも含まれるのです。ぜひ、ある一定の時期だけではなく、一年を通して家計簿が手に入りやすい状況になってほしいものです。  

 

・手帳と家計簿


ちなみに私は、手帳は前年までのものにこだわらず、その都度気に入ったものを買っています。

その年によって、メーカーはもちろん、大きさも様式も色もバラバラです。選ぶ楽しみを満喫しているということもありますが、逆にいえば心底気に入ったものにまだ出会えていないともいえます。毎年、使っている手帳に何かしらの不満が出てくるので、次回こそはこうじゃないものを――という気持ちが消えたことがないのです。いつか「もうこれ以外は使えない」と思えるほどの素晴らしい手帳に巡り合えればいいのですが、しばらくは選ぶ楽しみが続きそうです。

家計簿と違い、手帳は形態を揃えていないせいもあり、棚に体裁よく並べるということは不可能なので、使用済みのものはチェストの引き出しの中に入れっ放しにしています。

考えてみれば、手帳を持ち始めたのはたしか高校生の頃からですが、使い終えたものを保管しておくようになったのはごく最近です。前は、「終わったものを後生大事に取っておいても仕方がない」という合理的な考えからパッパと捨てていたのですが、近頃は抵抗を感じるようになりました。過去を残しておくことに大して意味を見い出さず、未来だけを見据えていた頃に比べるとやはり年を取ったのかもしれません。

大抵、予定を丁寧に書き込むのは最初のうちだけで、途中からは自分でも判別できないほど乱雑になっているとはいえ、一年間使い込んだ手帳は私の大事な記録なので、あっさり処分してしまうのは何とも忍びないのです。

手帳は普段しまい込んだままで、「見返す」という行為を行うことはめったにありません。

これは、私が手帳を日記代わりとしては使っていないせいでしょう。予定を書き込んでいる時点では、それはあくまで未来のことであり、その予定が実際どうなったのかまではわかりません。当日キャンセルがあったかもしれないし、日付を間違えて書き込んでいたかもしれません。もともと普通の使い方をしているだけでは、手帳は日記の機能までは果たせません。のちに詳しく述べますが、終了済みの事柄を書き込む家計簿のほうが、日記を兼ねるのには適しています。

それはそうと、そろそろ手帳の保管方法を新しく考えなければいけません。引き出しの空間にも限度があり、この先年を重ねて役目を終えた手帳が増えてきたらどうするか。頭が痛い問題です。

その点家計簿は大きさを揃えていますので、増えればスペースを広げる工夫をすればいいだけのことで本当にすっきりとした収納が可能になっています。 


  • 付け方は自分式で

家計簿によっては、最初の数ページを割いて記入方法を手取り足取り説明しているものもあります。が、私はこうした部分は一切読みません。それに従う気はサラサラないからです。マニュアルは所詮他人が考えたものですので、それが自分にとってベストな方法とは限りません。主体者はあくまで私たち使用者自身なのですから、自分なりにどんどんアレンジしてかまわないのです。説明書はあくまで参考程度にしておきましょう。

巻末に付録として付いている各種表や控えのリストなども、まず使いません。何かを書き込む場所としては使用しますが、素直に決められたタイトル通りに使うことはありません。

個人差もあるでしょうが、あまりガチガチに使用法が固定されているものはいずれ飽きがきます。家計簿だけでなく日記帳や手帖などでもそうですが、製作者のカラーや意図が出すぎているものは、眺めている分には楽しいのですが、実際使ってみて満足したためしがありません。「ここには何を書き入れましょう」「こっちにはこれを――」などと事細かに指示されたものは、楽しいのは最初だけでだんだん嫌気がさしてくるのがオチです。それが科学的にいかに優れたものだとしても、結局は人から押し付けられたやり方を機械的に実践しているにすぎないからでしょう。そうした点からも使用法が限定されず、自分の自由に使える範囲がなるべく広いものを選ぶことをお勧めします。

私たちはこの日本社会の中で、皆多かれ少なかれ他人に気を使いながら生きているのですから、せめて家計簿くらいは思い切り自分に都合のいいように使いましょう。それで誰に文句を言われることもないのですから。 

 

 

家計簿の選び方  ~ まとめ ~

 

 ・家計簿との出会いを大切に。装丁のデザインや色は徹底的に自分の好みにこだわる

二冊目以降はサイズを揃えて。書式も同じタイプのものを

・付属品や市販のノートではなく、専用の家計簿を用意

特に食費だけに大きくこだわる必要はない

パソコンより手書きの方が絶対に便利

使用方法が固定化されず、フレキシブルに使えるものを


挫折しないために

 挫折しないために 

 

・レシートは必需品 

 

家計簿をつけることを自分に課した日から、必ずレシートをもらう癖をつけましょう。 

実は、かくいう私も初めから何の苦労もなしにここまで長く続けられたわけではありません。人並みに何度か挫折も経験しています。 

原因はいくつかあるのですが、レシートをもらわなかったために正確な金額を忘れてしまい、続けるのが嫌になってしまったー―というのも、主な理由のうちの一つです。私はかなり大雑把な人間なのですが、変に完壁主義のところもあって、家計簿をつける以上は一円たりとも間違ってはいけない、という思いにとらわれ、それがかなわないと今度はたちまち嫌になってしまう、という悪循環に陥っていたのです。 

お店で金銭の受け渡しをした段階ではちゃんと覚えているつもりでも、その日の夜には大抵忘れています。端数まで完全に覚えていられることはめったにありません。まして何日か過ぎてからでは絶望的です。 

人間の記憶力ほど当てにならないものはありません。 

 

・毎日つけようと思わない

 

「家計簿は毎日つけるもの」と決め込まないようにしましょう。毎日家計簿に向かう時間が取れればそれが一番いいのですが、現実にはなかなか難しいと思います。初めの二、三日は張り切って家計簿を開いたものの、だんだん日が空いてしまい、嫌になってそれっきり――というパターンの方も多いのではないでしょうか。家計簿は何も毎日頑張ってつけなくてもいいのです。生きていればひどく疲れていたり、一刻も早く眠りたい夜や、家族の誰か、或いは自分が病気でそれどころではない日もあるでしょう。私も毎日などはとても無理です。時には一ヵ月近くの分をまとめてつけることもあります。それでかまわないのです。別にノルマのある仕事ではないのですから。要は、毎日つけるか否かよりもいかに継続することができるか、です。

そこでレシートの存在が大変重要になってくるわけです。レシートさえあれば何日分ためても大丈夫。怖いものなしです。たとえ缶ジュース一本、ガム一枚の買い物でもレシートはしっかりもらいましょう。それがすべての基本です。

私も最初のころは、ついボーッとしてしまい、よくもらい忘れたものですが、習慣が付いてしまうと必ず意識するようになります。それでも、今よりもう少し若かった頃は、レジの人に「レシート下さい」と言うのが何だか気恥ずかしくて、そのまま黙って帰ったこともありました。(現在はもちろん堂々と要求しますよ。これも年の功でしょうか)これってどういう心理なんでしょうね。店の人に「ちょっとしか買わないくせにレシートがほしいなんてセコイ人」と思われることが恥ずかしかったのかな? でもきっと誰もそんなこと思いませんし、相手はただの客でしかない私やあなたのことなど次の瞬間には忘れているでしょうから、家計簿ライフを成功させるためにも、変に躊躇せずしっかりレシートをもらいましょう! 

それにしても、レジの人が必ずレシートを渡してくれさえすれば、いちいちこんなことを気にする必要もないのですよね。今は数年前と比べて、大抵の店できちんと計算書を渡してくれるようにはなりましたが、それでもまだ時々客側からの意思表示が必要なお店もありますね。せっかく渡しても「いりません」と断られることが多ければ自然にそうなってしまうのでしょうし、一概に店側を責めることもできません。私だって、家計簿などに縁のなかった頃は、「レシートなんか邪魔でいらない」と思っていて、すぐさま捨てていたものですから。 

 

レシートは気付いたときに財布から取り出し(そのまま入れっ放しにしておくと邪魔ですし、財布がパンパンに膨らんでしまうので)家計簿につける時まで、まとめてどこか決まった場所に保管しておきます。

 カバーのところにポケットが付いている家計簿もありますが、そこにただ挟んでおくだけだと紛失する確率が高いので他の方法を考えたほうが賢明です。私は大きなクリップで適当に留めていますが、小さなクリアファイルに入れておいてもいいでしょうとにかくなくしてしまわないように工夫して下さい。

 保管の際、特に日付順に並べるとかはしません。上に重ねてまとめていけば大体は日付順になりますし、たとえバラバラになってもさほど影響はないからです。

 時々、店名の記載がないレシートもあり、金額はわかるのですがどこで何を買ったものかどうしても思い出せず、しばし考え込むこともあります。が、それも頭の体操になると思えば楽しいもの。意外と、子供が「あの時あれ買ったじゃん」などと思い出してくれることも。 

ただせっかく意識付けしていても、「レシートの出ない買い物」というのもありますね。お祭りの屋台や移動販売車での買い物とか、自販機もそうです。

 友達とランチに行って、個別に支払った場合なんかもそうですね。レジの人に「別々で」と無理を頼み、その上一人分のレシートもよこせ、とは常識的な人間なら到底言えません。このへんは臨機応変です。レシートを必ずもらう、というのは、当然ですが「レシートがもらうことが可能な状況では」という意味です。 

レシートや領収書の受領が不可能な場合は、忘れないうちに何かにメモしておくといいと思います。 

あとで自分がわかればいいので、支払った金額と日付けを手持ちの紙に書き付けておくのです。

 とはいえこれは理想論で、現実的には連れがいたり、すぐ移動しなければいけなかったり、書くものを持っていなかったりして「支払ってすぐに」というのは無理がある話です。私も家族だけの時や、その動作が可能な時にはなるべく実践するようにしていますが完全ではなく、実際家計簿をつける段階で忘れてしまっていることも多いです。お店に行ったり何か買ったりしたことは覚えていても、その時支払った金額が七百円だったか七百五十円だったか、或いは八百円だったかわからなくなることはしょっちゅうです。(こういうところにズボラな性格が出ますね)そんな時どうするか。ウジウジせずに割り切ること。これしかありません。これが何を買ったか、とかどの店に行ったかという類のことなら記憶をたどれば何とかなりもしますが、数字だけはどうにもなりません。いくら考えても無駄です。 

私はどうしても金額がはっきりしない時は、家計簿にはおおよその金額を書き入れ、(七百円台だったはず、とか、おつりはこれくらいだったとか、おおまかな金額は大抵見当が付きますので)数字の横に?マークを書き添えます。「この金額は正確ではありません」という自分自身に対する意味づけです。月末の計算時には、この定かではない数字を使うことになります。 

また、時間がたってしまっておおよその金額さえわからないという場合はどうするか。これは記入のしようがありませんので、品名や項目だけを書き、金額は無記入にします。そしてここにも?マークを添え、カッコ書きで「金額忘れ」などと書いておきます。当然計算に含めることはできませんが、仕方がありません。 

こんないいかげんなやり方では意味がない、とお感じですか? でも私たちは皆不完全な人間なので、すべて完璧にいかないのは仕方がないのです。できないならできないで、自分自身と折り合いをつけてやっていくしかありません。敵は自分の中にある「やるからにはパーフェクトでなければ意味がない」という、凝り固まった変なこだわりです。完璧さに固執するあまり、ちょっとしたことで嫌になって「もうやーめた」とならないように、自分をうまくごまかしながらやっていく術を覚えましょう。

大事なことは、完璧にこだわるよりも不完全でもいいから続けること。とにかく続ける。続けていけば形ができてきます。この鉄則を忘れないよう、時々は自分自身に確認しましょう。 

 

先程、レシートが出ない支払いの場合は、その場で手持ちの紙に金額をメモしておけばいい、とお話しました。が、この方法は述べたように状況によっては実行が難しいし、せっかくメモしても紙の所在がわからなくなったり、時間がたてばメモしたことそのものさえ忘れてしまうといった危険性も考えられます。

そこで、「レシートがない支払い金額をメモする紙」を自分で決めておいて、毎日夜に当日使った分をその紙に書いていくという方法はどうでしょう。こうすれば習慣になるので、右に挙げたような問題点も起こりません。

自販機で買った飲み物やタバコ代。ワリカンで支払った飲食代。コインロッカー代に交通費。パーキングに美容院。街角での募金。お賽銭。夫や子供に渡すお小遣い――。細かいものまで入れると、支払いの記録が形に残らないものは割合多いものです。子供の学校の集金なども、大抵は朝にバタバタしながら慌てて用意するうえ、集金袋ごと渡してしまうので、つい記載を忘れてしまいがちです。(もちろん、のちに袋が手元に返ってくれば判明するのですが、かなり日が過ぎてからのことになるし、家計簿は支払い当日に記録するというのが大原則なのでそれを当てにはしません)

こういった、通常レシートが出ない支払いは、正式に家計簿に書き移す時まで、日付と一緒にすべて用意しておいた決まった紙に書き付けておきます。役目が終わればどうせ捨てるものですから、書き方などは適当でかまいません。ただ紙だけはあちこち使わずにちゃんと限定し、置き場所も決めておきましょう。付箋紙を使用して、まとめているレシートに貼りつけておくのもいいかもしれません。

その日のうちになら端数も何とか覚えていられるでしょうし、たとえあやふやでも何日も過ぎてすっかり忘れてしまうよりはずっとましです。

「でも、そんな紙に書いている時間があったら、直接家計簿に記入したほうが手っ取り早いのでは?」と疑問に思われる方もいらっしゃるかもしれませんね。もっともだと思います。ただ、家計簿に書くという作業は、適当にメモするのとはわけが違って「これはどの項目に入れようか」など、いろいろと考える作業も伴います。それよりは、ひとまず単純にメモしておくほうがずっと手軽なわけです。最終的に家計簿に書き写す仕事は、あとで時間を見つけてゆっくりお茶を飲みながら……というのが私のやり方になっています。

正直に白状すると、この「メモをしておく」という方法は頭で考えているだけで、私もまだ実行はしていないのです。何度も裏切られているにも関わらず、なぜか自分の記憶力を過信してしまうのと、夜は忙しくて時間が取れないという物理的な理由からです。でも、これは一度習慣になってしまえば苦ではなくなることもわかっています。このメモ書きを実行することが今の私の課題です。

このように、記録の残らない支払いの扱い方を工夫すれば、毎日家計簿に向き合う時間がなくても、ぐんと精度の高い家計簿作成ができるでしょう。 

 

挫折しないために ~ まとめ ~

 

 ・買い物の際は、必ずレシートをもらうことを意識付ける

レシートや領収書が出ない場合は、忘れないうちに金額をメモしておく

毎日つけようと頑張り過ぎない

完璧主義に陥らない。不完全でもいいと割り切る

重要なのは正確さではなく、続けること 



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