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プロローグ

 ”地球は青かった”
 世界で初めて宇宙を飛んだその男は、窓からその星を眺めてそう呟いたという。確かに、その星をそこから眺めれば、誰もがそう感想を述べたに違いない。地表の七割を占める海の青さは目が覚めるほどに鮮やかで、森林の緑は色濃く陸地を覆い、空を漂う雲は撫でるようにその星を優しく包み込み、漆黒の空間の中、太陽の光を受けて輝くその姿は、それはもう、なんとも筆舌しがたい美しさだろう。故に、単純で捻りも飾り気もない言葉ではあったが、その星の姿を形容するのに、これ以上に最適な表現はなかっただろう。
 そんな奇跡の星が今、雪合戦のそれのように、真っ白な雪玉へと姿を変えていた。それは突如として始まった寒冷化によって、極地の氷が急速にその勢力を拡大し、やがて赤道付近の一部を残して、地表をすっぽりと覆いつくしてしまったのだ。過去にこのようなことがあったことは、地層の中に眠るその痕跡から知ることはできる。しかし、寒冷化のメカニズムはよくわかっておらず、そして、地球は温暖化に向かっていると思われていたから、このような事態が起こるとは予想だにしていなかった。これはまさに、人類にとって、青天の霹靂と言って良かった。
 このような急激な変化に、人類は対応すること事ができず、多くの者が命を失ったが、それでもなんとか生き残った人々は、かつての人類がそうしたように、陸地を或いは海を渡って、安住の地を求めて移動を始めた。しかし、それとて容易なことではなく、その地へと向かう間にも、一人、二人と死の淵へと落ちていった。この命がけの旅路はまさしく、現代の”出アフリカ”とも言えた。
 そこは人々にとって、希望の地となるはずだった。熱帯に属する気候は気温も高く湿潤で、迫る氷もここには手を出せずにいた。だから彼らにとって、安住の地となるのは間違いないと思われた。しかし、この気候変動は、徐々に乾燥化を引き起こし、ほとんど雨も降らなくなって、やがて、森林の大部分は消失して、木々は歯抜けのようにぽつぽつと生えるばかりとなった。このような乾燥した土地では植物も満足に育たず、食糧を手に入れるのも事欠く次第となって、広がる飢饉は容赦なく人々の命を奪っていった。また、氷床の発達により海水面は下降して、陸地は若干の広がりを見せたものの、そもそも、赤道付近は陸地自体が多くはないから、その狭い土地に、人類と動物たちがぎゅうぎゅうとひしめくような状態となった。そうすると、なんらかの軋轢が生じるのは必然だ。動物たちは人間を餌として襲い、人間たちは身を守るために、食料を得るために動物たちを殺した。そして人間同士もまた、土地や水や資源を巡って対立し、それはやがて争いへと形を変え、ついには戦争へと発展していった。こうした環境下において、人類が生きるのは容易なことではない。彼らは生きることに疲弊し、将来への希望を失った。もはや、人類に未来はないと思われた。
 そんな時、彼らはふと、空に浮かぶ天体の姿に気がついた。それは、かつては地球の一部であり、創世の歴史の中において分かれた兄弟で、常にそばに寄り添い付き従って、地球の歴史と、背負ってきたカルマを見守ってきた、荒涼として、水も空気もないでこぼことしたあばた星。しかし、そんな星ですら、危難にあえぐ人類にとっては楽園に見えた。
 いつか、地球を覆う氷も消えるだろう。そのことは、土の中に眠る幾層もの歴史が証明している。この星はそれを何度も繰り返し、生命はその度に、絶滅の危機に陥っては復活を遂げてきた。チャンスはいずれ必ずやってくる。だからいつかくるであろうその時まで、月へ逃れよう。その時が来たら、地球へ戻ろう。そしてそこから、再び歴史を謳歌するのだ。人類はそう考えて、彼らは月へと旅立った。


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「いらっしゃいませ」
 女性店員の元気ではつらつとした声が、店内を木霊して男の耳へと届いた。二十代の中程、彼と同じくらいの年頃だろう。女性の快活な様子は見ていて気持ちがいい。男は少し気が落ち込み気味だったから、彼女の明るい声は彼をほっとさせた。男は軽く微笑んで言った。
「予約を入れているんですが」
「お名前を教えていただけますか?」
「神谷といいます」
「神谷様ですね」
 女性は予約リストを指でなぞり、その名を見つけると笑みを浮かべた。
「承っております。少々お待ちください」
 女性は奥へと消えた。
 店員が戻ってくるまでの間、彼は店内をぐるりと眺めた。店はこぢんまりとしていて、街角にある小さな花屋さんといった具合だが、花屋と呼ぶには華やかさがなく、むしろ殺風景で味気ない。本来あるはずの花の陳列がないからだ。
 花を育て維持するには水や日光が必要だ。しかしこの月面では、日光はともかく、水を確保するのは容易なことではない。だから花は全て専門の施設で育てられ、要望に応じて用意することになっていた。
「お待たせしました」店員が手に花を持って戻ってきた。「こちらでよろしかったですね?」
 彼女が差し出したのは、ひまわりで作られたブーケだ。太陽を思わせる鮮やかな黄色の花びらは、見ているだけで元気が出てくる。
「ええ、これで結構です。ありがとうございました」
 神谷は礼を述べるとブーケを受け取って代金を支払った。そして店員の「またのお越しをお待ちしております」との声を背に店をあとにした。
 神谷は病室に入る前に髪に手櫛を通して、軍服の襟を正してしわを伸ばし、身だしなみを整えた。恋人に会うからというわけではなかったが、その相手が大切な人であることには変わりなく、また、心配をかけたくないというのもあって、ぴしっとした格好をしなければと、そう考えたのだ。彼は万端準備が整うと、ドアをノックして中へと進んだ。
 病室は狭く窓もないためにひどく殺風景だった。その奥まったところにベッドが一つあり、女性が起き上がって本を読んでいた。彼女は訪問者の姿を認めると、瞬時にして華やいだ笑みを浮かべた。
 女性は十代の中程といったところだろうか、髪はショートで肌は色白く、小さい顔とは対照的に、大きくてはっきりとした目が印象的だ。彼女は本をベッド脇のテーブルに置くと、明るい口調で言った。
「こっちにはいつ?」
「ついさっきだよ」
 神谷はひまわりのブーケを差し出した。
「憶えてくれてたんだ」
 女性は少し驚いたような顔をした。
「大事な妹のことだからね。忘れたりしないさ」
 神谷は当然といった顔をした。彼は椅子を引き寄せて腰を下ろした。
「うれしい」
 妹は喜びの色をその声に込め、目を閉じてひまわりの花の香りを嗅いだ。
 大気のほとんどない月では、有害な宇宙線が直接、地表に降り注ぐ。そのため、研究者とか建物の修繕のための作業員でもなければ、建物外に出ることもない。従って、ほとんどの者が、太陽をその目で直接見たこともなく、太陽の光をまぶしいと思ったことも、その熱を肌に感じたこともない。ひまわりからは、ジャスミンやラベンダーのような香りは感じないだろう。だが、その姿は太陽そのものを想起させ、見ているだけで、華やいだ気分にさせる。だから彼女がそうやって香りを嗅いだのも、ひとえに、ひまわりの花から、太陽の存在を感じ取ろうとしてのことかもしれない。
 女性はひまわりの香りで胸をいっぱいに満たすと、ゆっくりと目を開け、ブーケを膝の上に置いて尋ねた。
「お仕事の方はどうだったの?」
 すると、それまで微笑ましげな笑みが浮かんでいた神谷の顔が、雨にしこたま叩かれでもしたかのような、しかめっ面へと変化した。
「良くなかったんだね」
 妹は兄の表情からその心中を素早く感じ取り、声を落として悲しげに言った。
「防ぎきれなかった……。迎撃に失敗したんだ」
 神谷は悔しそうに唇を噛み締めた。
 月にも地球と同じく、日々、宇宙の彼方より隕石が飛来する。ただ地球の場合は、大気があるために、大概は地表に到達する前に燃え尽きてしまう。しかし、月の場合は、大気がほとんどないので、燃え尽きることなくそのまま地表に激突する。その様は月面に残された無数のクレーターに見て取ることができる。隕石がもし街へ落ちたなら、被害は計り知れないものとなるだろう。事実、月では度々そういうことが起きている。なんとか被害を食いとめようと、隕石を迎撃するためのシステムが構築されてはいるが、高速で移動する隕石を地表から破壊するのは簡単なことではない。迎撃に失敗することもあって、その結果として、街の一部、或いは小さな街ならそれ一つが、丸ごとなくなってしまうなどということも少なくなかった。
「ところで、体の具合はどうだ?」
 神谷は憂色をその表情から吹き飛ばそうとでもするかのように、ふうっと、一つ息を吐き出すと話題を変えた。
「うん。今日は調子がいいみたい。起きてても苦しくないの」
 妹は明るく笑って、力こぶを作るようなしぐさをして見せた。
 事実、本当に調子が良さそうに見えた。ただそれが、一時的なものに過ぎないことはわかっていた。
「でも、調子がいいからって、無理するんじゃないぞ」
「わかってる」妹は不満そうにほほを膨らませた。そして意地悪そうな目を向けて「お兄ちゃんの方こそ、心配かけるようなことはしないでよ」
「わかってるよ」
 兄は苦笑いを浮かべた。そして腕時計をちらりと見やると立ち上がった。
「もう行くの?」
「呼び出しを受けてるんだ。先生に会ってから基地へ向うよ」
「今度はいつ?」
 妹は寂しさを覗かせた。そんな彼女の様子を見ると、彼は心が苦しくなる。
「すぐだよ。そんなに長くはかからないと思う」
「……わかった」
 妹は小さく頷いて微笑を返した。
 神谷は労るように妹の頬を優しく撫でると、微笑みをその場に残して病室を後にした。
 主治医はほっそりとして背が高く、神谷と同じくらいに若かった。月では食糧に乏しいために大抵は細身で、低重力であるが為に高身長の者が多かった。また、月の環境は高齢者には負荷が高く、そのため、概して短命の傾向にあり、故に、平均年齢も地球に比べるとぐっと低かった。だから経験などがものをいう職業においても、若輩の者が多いというのも仕方のないことだった。
「妹さんの病状ですが……」
 医師はバインダ上の紙面に目を這わせた。そして視線を神谷に向けた。
「ここ最近は非常に安定しています。治療の成果が現れているのでしょう。しかし、残念ながら、回復に向っているというわけではありません」
 神谷は唇を真一文字に引き絞って医師の言葉を咀嚼した。そして飲み込んではみたものの、消化不良となってしまったそれを、吐き出すように尋ねた。
「どのくらい、持つんでしょうか」
「この病気は、低重力の影響で心筋が薄くなり、その結果、心肺機能が低下し、不整脈による突然死や心不全をもたらす可能性のある病気です。妹さんはお若いので、今はまだ大丈夫でしょうが、加齢による体力低下などと重なると、寿命を迎えられない場合もあります。事実、長く生きられない方がほとんどです」
 医師の言葉が津波のように押し寄せてきて、神谷は奥歯を噛みしめた。妹が自分よりも先に逝ってしまうことなど考えたくもないし、その瞬間を迎えたくもない。代われるものなら代わってやりたい。
 医師が言った。
「この病気は私やあなたも例外ではありません。これは言うなれば、月における生活習慣病と言えるでしょう」
 医師の言うとおり、これは人類が月で生きる上で逃れることのできない宿命だ。これから先も、この苦悩はずっと続くだろう。だが、妹だけは、なんとか助けてやりたい。
「なにか、方法はないんですか?」
「あるとすれば、たった一つでしょう。完治するかどうかは、わかりませんが」
「それはなんです?」
 期待をこめて神谷は医師を見つめ返す。
「地球ですよ」
 医師は頷いて答えた。
「地球?」
 神谷は眉をひそめた。その顔には狐につままれでもしたような表情が浮かんでいる。
「地球に戻るんです。本来あるべき環境に身を置けば、或いは……」
 医師はそこまで言って口を噤んだ。それが難しいことだとわかっていたからだ。だから彼はこう付け加えた。
「あくまで、可能性の話です」


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 神谷はカートを降りると胸ポケットから身分証を取り出して兵士に提示した。兵士はそれを目視で確認したのち、コンピューターに照会して、確認が取れると返却して敬礼をした。神谷は身分証を胸ポケットに滑り込ませて敬礼を返し、ゲートの両側に立つ警備の兵士の間を抜けて中へと入っていった。
 しばらく歩いて行くと、小さなラウンジがあり、軍服を纏った軍人たちが、真剣そうな顔や愉しそうな顔で、立ち話に花を咲かせていた。
「神谷じゃないか」
 呼び止める声が聞こえて振り向くと、雑談の輪の中から男が首を伸ばしてこちらを見ていた。彼は仲間に一言、断りを入れてから、一歩、二歩とステップを踏むようにして歩いてきた。
「久しぶりだな。どうしてたんだ?」
「いろいろと忙しかったのさ。ケイン」
 神谷はそう答えて、猫の手みたいにグーを突き出した。
 ケインは拳を握りゴツンと神谷の拳にぶつけた。これが、互いの無事を称え合うときの彼らの挨拶だった。
 神谷はケインの背後を覗き見て、少し意地悪そうな表情を浮かべた。
「君は暇そうだな。おしゃべりなんかして」
 ケインは不服そうに眉を吊り上げた。
「俺が暇だって? 言ってくれるじゃないか。これでも一応、地球から戻ってきたばかりなんだぜ」
「補給任務で?」
「ああ」
「どんな様子だった?」
「なかなか厳しい状況だね」ケインは顔をしかめた。「力の上ではこっちが上回っているはずなのに、なかなか敵の拠点を攻略できないでいる。連中、地下に潜んでるから、空爆も効果が薄いんだ。おまけにゲリラ戦をやってくるから、こっちの方が被害が大きいくらいさ」
 月と地球との間に起きた戦争は、初めこそ月が有利だったが、地球が戦力を整えていくにつれ、戦況は膠着し、被害ばかりが増大していった。月は何とか現状を打開しようと試みてはいるものの、地球の抵抗は強く、一向に解決の糸口が見えなかった。
「そうか……。歯がゆいな」
「ああ、全くだ」
 ケインは苦々げに同意した。彼はしばらくその苦さを租借したのち、話題を変えた。「ところで、どこに行くんだ?」
「司令部に呼ばれてる」
 司令部とは、月の政治の中枢であり、すべての意思決定機関のことで、月面基地と呼ばれる、地球で言うところの首都にあった。もっとも、月には国家という概念がないので、首都というのは正確ではない。ただ、月面基地は、人類がこの地に初めて築いた街であり、月面基地を中心にして、あちこちに街が築かれ、政治だけでなく、経済の中心地となっていたことから、首都と呼称するのもあながち間違いではない。しかし、月の人々も地球の人々も、あえてこの街を月の首都とは呼ばず、単に月面基地と呼んでいた。司令部はその中心にある。
「ははぁ」
 ケインは頷きつつ、訳知ったような顔をした。
「なにか知ってるのか?」
「いいや、俺が知るわけないさ。ただ、お前が呼ばれたってことは、なにか重要なことに違いない」
 そこでケインを呼ぶ声がして、彼は頑張れよと神谷の肩を叩いてその場を去って行った。
 神谷はなにかに化かされでもしたかのような顔でケインを見送ったのち、ラウンジを抜けて通路を更に奥へと進んだ。
 会議室では、政府の重鎮たちがテーブルを挟んで座り、隣の者と互いの顔を寄せ合って、なにごとかをひそひそと話し合っていた。左手に並ぶ制服組はどこか得意げで、右手に並ぶ背広組は不安感をその顔に覗かせていた。神谷は足をきちんと揃えて立ち、誰かが話し出すのを待った。
 やがて、話題に途絶えたのか話し声がやんで、制服組の中で唯一、スーツを来た男が口を開いた。
「中尉。君は我々がおかれた現状をどう思うかね?」
「現状、ですか?」不意を突かれたような、思いもよらない質問に、神谷は思わず聞き返した。
「地球との戦争も、もうじき百年になる。その間、多くの者が傷つき、多くの者が命を失い、多くの者が家族を無くし、多くの者が、悲しみに打ちひしがれている。私はこの状況を、なんとかしなければならないと考えている」
 氷期が終わり、地表を覆っていた氷床が減退を始めると、月の人々は、故郷への帰還を果たすべく、地球へと向かった。ところが、地球の人々は、彼らが帰ってくることを良しとせず、交渉に応じるどころか、突然、攻撃を始めた。月の人々は拒否されたことに衝撃を受け、また、攻撃を受けたことに対して強い憤りを覚えた。それは怒りへと変化し、彼等の手に武器を取らせて、こうして、地球と月との間に戦争が始まった。
 男は続けた。
「だが、戦争を終結させようにも、彼らの抵抗は強く、被害は増大するばかりだ。現状を打破し、戦争を終わらせるためには、この形勢を逆転させるための策が必要だ」
「私に何をしろと?」
「ふむ。よろしい」男は満足げに微笑み、続けた。「秘密裏に地球に潜入し、軍事情報を手に入れてきてもらいたい」
「軍事情報、ですか?」
「そうだ。軍の規模、装備、基地の情報などだ。我々はそれらの情報を元に、一気に攻勢にでるつもりだ」
 するとすぐさま、背広組の一人が机をバンと叩いた。彼は立ち上がらんばかりにテーブルに両手をついて、体を前のめりにした。
「ヨウ司令官。我々はその考えには反対だ。そんなことをすれば、双方に甚大な被害がでる。そしてそれは、深い憎しみを地球の人々に植え付けることになる。そうなれば、いずれ取り返しのつかないことになるぞ。真にこの戦争を終結させたければ、平和的解決へ向けて、対話の場を設けるべきだ」
 ヨウは馬鹿にしたような目で見つめ返す。
「ホセ局長。貴君たちは甘すぎる。我々はこれまでもずっと、停戦へ向けて交渉を求めてきた。しかし彼らは、頑として聞く耳を持たなかった。それは今後も変わらないだろう」
「平和とは”和をもって平らかにする”と言うことだと私は考えている。戦争の行く末に、平和はない」
 ヨウは鼻を膨らませた。
「そもそもこの戦争が始まったのは、彼らの先制攻撃が発端だ。初めから話しを聞くつもりなどなかったのだろう。そんな連中に、これ以上なにを話しても無駄だ」
 ホセは口を噤んでしまった。ヨウの言っていることも一理あるのだと、心のどこかで理解しているからだ。しかし、なんとか戦禍の拡大だけは避けたい。彼はそう考えていた。
 ホセは神谷に意見を求めた。
「中尉。君はどう思う?」
 神谷はちらりとホセに目を向けてから、視線を前方の空間へと戻した。どう思う、と聞かれても、正直、なんと答えて良いかわからない。被害が拡大していることを思えば、戦争を早期に終結させるべきとの考えに異存はない。しかし、攻勢に出るということは、今以上に被害が出るということだ。それを考えれば、平和的解決を模索するべきというのも理解できないではない。ただ、彼は軍人だ。軍人ならば軍人として、答えるべき言葉は一つだ。
「私は、軍の命令に従うのみです」
 ホセの顔に落胆の色がありありと現れた。気持ちはわからないでもなかったが、神谷は、軍人として間違った選択をしたとは思っていなかった。
 一方で、ヨウの顔には充足感が広がって、口の端が鋭くつり上がっていた。彼は向かいに居並ぶ面々を見据えた。
「君たちもこれ以上、犠牲を増やしたくはないだろう。それに、身内の中にも病に苦しんでいる者がいるはずだ」
 彼らは観念したというような様子でうつむいた。ただ一人、ホセだけが、ヨウをひっしと睨まえていた。ヨウは、ホセをさらっと見やってから続けた。
「ならば、戦争を終わらせようではないか」
 背広組の面々は顔を上げた。ヨウは舐めるように睥睨し、更に言った。
「我々の故郷を取り戻すのだ」


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 月は地球の六分の一しか重力がない。だから月の人間が地球上で活動をするためには、それなりの準備が必要だ。月の重力下では、それほど大きな筋力を必要としないため、地球に降りた際、その重力の影響をもろに受ける。筋力が弱いから、地球の重力に耐えられず、歩くどころか、立っていることもままならないのだ。だから地球の重力に体を慣らす必要があった。そこで月政府は、地球のとある場所に、トレーニングを行うための基地を建設し、そこで鍛錬を行うことで、筋力の増強と心肺機能の強化を行い、地球上での活動に支障がないように配慮した。軍事活動を行う軍人は皆その過程を経た上で部隊へと加わることになっていて、それは神谷も同様のことだった。
 そうして、訓練を終えて、任務へと赴く準備が整った。
「街へ行くには森を抜けて、この道路にでる必要があります。そのあとはまっすぐ北へ向かってください」
 ジョバンニは地図上を指でなぞりながら言った。彼は神谷よりいくらか若く、若干、小柄ではあったが、地上任務に就いているからだろうが、その体躯はしっかりとしているように見えた。ジョバンニは少し不安げな面持ちで続けた。
「本当に、一人で行かれるんですか?」
「これは俺が一人でやらなきゃいけない任務なんでね」
「それはつまり、極秘任務、と言うことですか?」
 神谷はジョバンニを鋭く見つめた。
「そう思うなら、察してもらいたい」
「わかりました。もう、なにも言いません」
 ジョバンニは申し訳なさそうな顔をした。
 神谷は地図に視線を落として「街まではどのくらいある?」
「二十キロです。遠いですよ。どうするんです?」
「歩くさ。地球の大地というものを、踏みしめてみるのも悪くはないだろう」
「気をつけてください。以前ほど、森は安全ではありません」
 神谷は苦笑を浮かべた。
「俺は以前がどうだったかを知らない。森がどれほど安全だったのかをね」
「おっしゃる通りですね」ジョバンニもまた苦笑を漏らす。「馬鹿なことを言いました」
「無理もないさ」神谷はバッグをたすき掛けした。「さて、世話になった」
「作戦の成功を祈っております。中尉」
 ジョバンニは敬礼をした。
「ありがとう。軍曹」
 神谷は敬礼を返した。
 いわゆる自然というものを映像の中でしか知らない月の人間にとっては、この森というのは憧れの場所だ。見渡す限りの草花と高々と聳える樹木、さわわと風に揺れる木の葉の擦れ合う音……。草や花くらいなら、月面でも見ることはできる。が、この木というものを見るのは難しい。これほどの木を育てようと思えば、大量の水と空間が必要だ。しかし、月面では流石にそれは不可能だ。だから一生のうちに一度は、その目で本物を見てみたいと誰もが思っていた。それは神谷も同様で、実際にその中を歩き目の当たりにして、それがまさに”自然”に存在することを不思議に思いつつ、その存在にありがたさというか、愛おしさすら感じた。それはきっと、自然というものを身近に感じることのできない月の人間ならではの感想であり、地球の人間であるならば、そこにあるのが当たり前のことで、これといって特別な感情など浮かんでこないのかもしれない。
 そんなことを考えながら、三十分ほども歩いたところで、神谷は、なにかの気配を感じて振り向いた。それは刺し貫くような殺気を放ち、一直線に彼に向けられていた。ここはまだ基地からだいぶ近い。敵が潜んでいてもおかしくはない。神谷は右手をバッグの中へと滑り込ませ、銃のグリップを握った。視線を鋭くし、五感を総動員して周囲に注意を向ける。ほどなく、風にさわわと草木が揺れ、静けさがさざ波のように広がっていく。その波紋を追うように、彼は周囲を見回した。鬱蒼とした茂みが広がり、草木は気持ちよさそうに日の光を浴びている。特に変わったところはなさそうだ。神谷は首をひねった。そして再び歩き始めた。
 行く手を遮るように張り出す木の枝や草の葉に足を取られるなどして、森を歩くのは決して楽なことではなかったが、そもそも森を知らない月の人間にとっては、それでもなかなか楽しいものだった。見たこともない草花が咲き誇り、聞いたこともない不思議な鳴き声が響き渡って、なんとも言えない不思議な感覚が体を駆け巡っていくのは、神聖な場所に身を置いたときと似てもいるが、しかしそれとは根本的に異なるものであるようで、憑きものが落ちて、心と体が綺麗さっぱりと洗われたように感じた。そうすると、自分がこれからしようとしていることがばかばかしいことのように思えてきて、すべてを放り出してしまいたくなるが、課せられた使命感がなんとかそれを押しとどめて、神谷はため息を吐き出して、森と言うところは本当に不思議なところだと、そんな感想を心に浮かべた。そうしてやがて、彼は森の外れへとやってきた。木立を抜けた向こうに、二車線の道路が見える。神谷は森を出て、アスファルトに足を踏み入れたところで、地図と方位磁石を取り出して、行くべき方角を確かめた。左の方を見て、陽炎に揺れる白いラインを見つめる。森は途中で途絶え、その先には赤茶けた大地が広がっていた。彼は地図と方位磁石をバッグにしまった。
 三歩ほど足を踏み出した時、ガサガサっと草木の擦れ合う音が聞こえて、神谷は振り向いた。そしてそこに見たものに息をのんだ。黄色と黒の、縞模様の毛皮を纏った獣が、体をしなやかに波打たせながら、のそりと姿を現した。以前、地球の生き物を紹介するビデオで見たことがある。確か虎と呼ばれる猛獣だ。見た目はそれに間違いない。しかし、その体躯は映像の中のものとは異なり、馬ほどにも大きく、波が迫ってくるような威圧感がある。それは虎と言うよりは、別種の生き物と言っても良さそうだ。獣は荒々しい鼻息の中から絞り出すように唸り声を上げ、上目遣いに神谷を見つめた。その様子から、物見遊山で、人間とやらを見てやろうというのではなく、その肉塊で、腹を満たしてやろうと追いかけてきたのだろう。初めに感じた視線は、この猛獣のものに違いない。基地を出発するとき、ジョバンニが、森は以前ほど安全ではないと言っていた。それはきっとこのことなのだと、彼は今になって初めて理解した。
 この猛獣がどれほど腹を空かせているのかは知らないが、おいそれと餌になってやるつもりはない。神谷はわずかに腰を落とすと、ゆっくりと後ずさった。そうしながらバッグに手を伸ばし、銃を取り出して獣に向けた。獣は敵意を察知して、首を落として探るような目で神谷を見つめた。その様子は、傍目から見ると、躊躇してるようにも思えたが、それはただ単に、相手の出方を窺っているだけだった。獣は笑うかのような唸り声を上げると、ゆっくりと歩いて、足音もなく静かに間合いを詰めた。そしてその鼻息が間近に感じられるほどに近づいたとき、神谷はいよいよかと覚悟を決めて、引き金に掛ける指に力を込めた。と、それを待っていたかのように、獣は地に這うように体勢を低くすると、その刹那、素早く跳躍して獲物に飛びかかった。準備を既に終えていた人差し指は、迷いなく引き金を引き、銃声が三発とどろいて、獣が覆い被さるようにして、一人と一匹は倒れ込み、動かなくなった。
 暫しの沈黙が訪れて、ほどなく、猛獣の腹の下から、腕がにょきりと飛び出して、なにかを探すように宙をぐるりと一巡りしたのち、もぞもぞと、イモムシが歩く時みたいに、神谷が這い出てきた。彼は立ち上がって一つ大きく息を吐き出すと、猛獣の骸を冷めた視線で見下ろした。獣の精気は既に無く、真っ赤な鮮血が地面を濡らしている。到着早々、猛獣に襲われるとはついていない。前途多難といったところだろうか。彼は銃をバックに戻してため息を吐き出すと、やれやれと頭を降りながら衣服についた汚れを払い落として旅の続きへと戻った。
 三十分ほども歩いたところで、ファンファーレにも似たクラクションが鳴った。赤い乗用車が神谷の横を通り過ぎ、五メートルほど先で停車した。車はぶるんぶるんと音を上げ、体を小刻みに左右に揺らして、彼が近づいてくるのを待っている。見たところ官憲関連の車両ではないようだが、いったいなんの用だろうか……。神谷は警戒を向けつつ、車の脇を通り抜けようとした。すると、助手席の窓が開いて、運転手が声をかけてきた。
「こんにちは」
 アジア系であろうか、長い黒髪を後ろで束ね、黒縁のめがねを掛けて、ベージュ色のカーディガンを羽織った、全体を通して地味な印象の女性だ。見た目に違わず大人しそうな感じで、彼に対して警戒を抱いた様子もない。彼女は続けた。
「こんなところで、どうされたんですか?」
 こんな場所を一人で歩いていたら、当然、こういう質問になるだろう。
「ああ……実は……」神谷は困った素振りを見せ、相手が心配そうな顔で続きを待っている僅かな時間に、素早く思案を巡らせて、それらしい答えを言った。
「迎えの車が故障してしまいまして……修理に時間がかかるそうなんですよ。でも、こんな場所で、じっと待っているわけにもいきいませんから……それで……」
「そうですか。それは大変ですね」女性は本当にそう感じている様子を顔に滲ませた。「どちらまでいかれるんですか?」
「シアトルへ」
「私もそこへ向かうところなんです。よろしければ、お送りしますよ」
 実のところ、先ほどの出来事のこともあり、目的地まで車で行けるならありがたい。
「いいんですか? 私なんかが乗っても」
 女性はくすりと笑った。
「かまいませんよ。私には、あなたはそんなに悪い人には見えませんから」女性はそこで、僅かに表情を曇らせて「あなたが月人なら別ですけど」
「月人、ですか」
 地球の人々も、月の人々も、元は同じ地球人のはずではあるが、まるで別種の生き物であるかのように、地球では、月の人々のことを月人と呼んでいた。その言葉の裏には、侮蔑と憎悪が込められている。
 神谷は探るように女性を見つめた。彼女の様子から、彼のことを月人とは思っていないようだったが、それでも、神谷は確かめずにはいられなかった。
「私が月人だったらどうするんです?」
 女性は引き潮のように笑みを消した。まずいことをしたかと、神谷は思った。が、一旦は消えた微笑みが再び現れて、次に放たれた言葉で、彼はそれが杞憂であることを知った。
「そんな、冗談言わないでくださいよ。月人が、こんなところにいるはずないじゃないですか」
 神谷は愉快そうに満面に笑みを浮かべた。
「ええ、そうですね。もちろん冗談ですよ。それじゃ、お言葉に甘えさせていただきます」
 女性はにこりと微笑むと、ドアを開け、神谷を招き入れた。
 車は軽快なエンジン音を響かせて、川を泳ぐ魚のように快調に進んだ。時折、対向線をトラックが通る以外には、他に車両の姿はない。いかにものんびりとした風情ではあったが、それらのトラックの前後を、機関銃を備えた四輪駆動車が、睨みをきかせるように走る姿は、やはり戦時中なのだと実感させた。
 走り始めて暫くは、二人とも無口で、エンジン音と風を切る音だけが聞こえていた。お互い顔見知りというわけでもなく、交わすべき話題もないわけだから、当然と言えば当然だ。だが、こうして二人きりという状況で、会話がなく静寂だけがあるというのは、どうにも居心地が悪い。それで、我慢できなくなったのか、とうとう女性が口を開いた。
「そういえば、来る途中で虎が道路に倒れていましたけど、もしかしてあれはあなたが?」
「えっ?」一瞬、神谷はなんの事を聞かれているのかわからなかった。が、すぐに質問の意図を理解して「ああ、あれですか。ええ、そうなんですよ。突然、襲われまして。護身用に銃を持っていましたので、それでなんとかなりました」
「そうですか」
 女性はまるで自分のことのように言って、安堵のため息を漏らした。彼女は続けて尋ねた。
「でも、どうしてそんなことに?」
 もちろん、本当のことを話すわけにはいかないので、一部の事実を元に、彼は話を創作した。
「実は、私は植物学者でして、生育状況について調べていたのです。氷期が終わってからのち、植物がどれくらい戻っているのかを知るのは、私たちの今後にとっても、とても重要なことですからね。で、調査が終わって帰ろうとしたとき、あれがじっと睨んでいるのに気がついたんです」
 女性はまっすぐ前を見て、頷きつつわずかに眉を吊り上げた。その彼女の横顔には、好奇心の色が浮かんでいた。神谷は続けた。
「それで、恐ろしくなって、なんとか森の外まで逃げてきたんですが、そこまで追いかけてきたんです。きっと、私を食べるつもりだったんでしょうね。うなり声を上げて、いまにも飛びかかってきそうでした。私は持っていた銃を手に身構えました。すると、虎は笑うように一つ唸ると、猛然と襲いかかってきました。私は逃げ出しそうになりましたが、なんとか踏ん張って、銃の引き金を思い切り引きました。銃弾は虎の心臓を打ち抜いて、そして、獣は動かなくなりました」
 女性の目がくわっと見開かれていた。疑っている様子はなさそうだ。
 神谷は頬を緩ませて「いや、一時はどうなることかと思いましたが、なんとか助かって良かったですよ」
「ええ、本当ですね。実際、虎に襲われて亡くなる人も多いですから。時折、森の外まで出てくることもあって、とても危険なんです」
「ええ、まったくですね。私も、森に入るのは初めてというわけではないのですが、あそこまで大きいのは初めてです」
「虎だけではないですよ。巨大化しているのは……。詳しいことは分かっていませんけど、酸素の量が増えたことが理由だとか……。もっとも、すべての動物が大きくなったわけではありません。でも、凶暴性を増しているのは共通していますね。餌が不足しているので、当然と言えばそうかもしれませんけど」
「なるほど」
 神谷はあえて大きく頷いて、同意を見せた。もちろん、そのようなことは月の住人である彼には知る由もない。しかし、話を合わせておく方が、なにかと都合が良いだろう。
 話が一段落して、彼は窓の外を眺めた。遠くに、林立するビルの群れが見えてきた。「あれがそうですか?」
 神谷はそのビルの山をみつめて尋ねた。
「ええ、そうです」女性はちらりと神谷を見てから答えた。「シアトルは初めて?」
「ええ」
「とてもいいところですよ。あれさえなければ」
 女性はそう言って顔をしかめる。
 神谷は怪訝そうに女性を見やり、次に視線を転じて道路の先へと目を向けた。シアトルの街並みは立派で、住むのに問題などなさそうに見える。
「あれとは?」
「空爆ですよ」
「ああ、なるほど……」
 今も昔も、東でも西でも、政治、経済の中枢とされる都市は、戦時においては、その攻撃対象となるのが常だ。だからどんなに風光明媚で発展した都市でも、それがあっては、魅力は半減どころか失われたと言って良いだろう。神谷は同情を込めて、そしてその深層においては、本音をその言葉に覗かせた。
「早く戦争が終わるといいですね」
「……ええ」
 そんなことあるはずもない、とでもいうように、女性は力なく答えた。
 街に入ったところで、神谷は車を降りた。女性はもう少し先まで行くらしく、街の中心部へと向けて車を走らせていく。彼はそれを見送ると、バッグを肩に掛け直して、車を追いかけるように歩き始めた。
 とある公園で彼は公衆トイレに入り、バッグから作業着を引っ張り出して着替えた。銃と身分証は帰りに回収するため、ビニール袋に入れてタンクの中に沈め、先程まで着ていた服はゴミ箱に捨てた。バッグを肩に掛け、鏡の前に立ってその中の自分をじっと見つめ、一つ息を吐く。蛇口をひねって手を濡らし、顔を覆って湿らせる。冷たい水滴が火照りと共に緊張感を適度に解いて、彼は”よし”と気合いを入れると、トイレを出て、公園を取り囲む木立の向こうに見えるビルの方へと歩みを進めた。
 街の中心に近づくにつれて、建物に刻まれた破壊の爪痕はだんだんと大きく、そして深くなっていく。荒廃の度合いも色濃くなって、生の気配も感じられない。本来なら賑やかなはずの繁華街も、まるでゴーストタウンのように寂れ廃れていた。街の中心部には、大概、重要な施設や建物が集まっていて、故に、月の攻撃も必然的に、こうした場所に集中していて、そのために、街の郊外よりも被害が大きかった。そんな場所にいったいどんな用事があるのかと、不思議に思えるが、そこにこそ、彼の目的があった。
 その建物は背の高いのっぽと言うよりは、ずんぐりとした体型の建物で、五階ほどの高さしかなく、天井はかろうじてその形を保ってはいたものの、壁面のガラスはところどころ砕け落ちていた。その姿はまるで、過疎化の波に押し流されて、学ぶ者のいなくなった廃校のようだ。かつては多くの企業がここに籍を置き、世界を相手に戦っていたに違いない。が、今はその面影すらない。そこにあるのは、熱意を失った、ただの抜け殻だ。
 神谷は、半開きの自動ドアを抜けて中へと入った。床に散らばったガラスの破片をじゃりじゃりと踏みつけながら少しばかり進むと、左手に受付があって、その向かいには、待合のための椅子がずらりと並び、正面のエレベーターホールの右手に、コーヒーショップがあった。もちろん、受付には笑顔振りまく女性などいないし、椅子に座って待ち合わせをしている人の姿も、コーヒーにほっと一息をついている人もいない。この建物自体、現在はその目的を果たすためには使用されていないから、ここを訪れる者もいないのだ。ではなぜ、彼はここへ来たのか。それは、この地下に秘密があった。神谷はコーヒーショップの方へと向かい、その左手の細い通路へと入って、重い防火扉を開けて、階段を降りていった。
 ドアを抜けて再び通路に出たところで、左に少し歩くとエレベーターがあった。ボタンは下降を示すものが一つだけある。ドアが開いて中へと入り、あらかじめ用意しておいた身分証をパネルにかざして、無事に承認が下りると、彼は目的の階数のボタンを押した。エレベーターはゆっくりと動き出し、徐々に加速を始める。神谷は僅かに顔を上げて監視カメラを視界の端に捕らえた。緊張感を気取られては不審がられるかもしれない。彼はバッグの位置を直してみたり、眠そうにあくびなどをしてそれをごまかした。そうしてエレベーターは数秒後に目的の階に到着した。
 エレベータを降りて通路を進み、扉の前で認証装置に身分証をかざすと、ピピッという音と共にガシャッと鳴って、セキュリティは解錠された。そうやって、通路を進んでは認証を繰り返して、ようやく彼は、目的の部屋へとやってきた。
 中へと入ると、明かりは付いてなく、室内は暗闇のように真っ暗だった。その暗がりの中、緑やオレンジ色の光が忙しそうに点滅を繰り返していて、その様はまるで、宇宙空間を漂っているかのような錯覚を覚える。神谷は、壁をまさぐってスイッチを入れた。手前から奥の方へと順繰りに明かりが付いて、一気に現実世界が現れた。彼はぐるりと見回した。ビルのように並ぶラックの中に、コンピューターが押し込められて、慌ただしくチカチカと、ランプを明滅させている。人の姿はなく、空調が風を吐き出す音だけが聞こえた。
 神谷はラックの番号を確かめながら、迷路のような通路を部屋の中程まで進んだ。そして立ち並ぶラックの列の中に目的の番号を見つけると、扉を開けて目当てのコンピュータを確認した。バッグを下ろし、しゃがみ込んで、携帯型の装置を取り出してコンピューターと接続する。教えられた通りに操作して、該当の情報へと辿り着くと、ダウンロードを開始した。進捗を知らせる数字がゆっくりと値を増やしていき、五分後、八十パーセントに達した。ダウンロード完了までもう少しだ。
 その時だった。
「そこで何をしてるの?」
 鋭い声が聞こえて、神谷はぴくりと体が震えて固まった。そのまま視線だけを動かして、開け放たれたラックの扉に目を向けると、うっすらと女性の姿が映っていた。
 彼女は続けた。
「ここに入るには許可がいるのよ」
 もちろんそうだろう。だからいるはずのない人間がそこにいるとわかれば、彼女はすぐに警戒行動へと動くはずだ。それは阻止しなければならない。彼はゆっくりと立ち上がる。
 女性はその動きを目で追いながら「今日は私以外にはいないはず……」と言いかけたところで、その顔に驚きの色が浮かんだ。つい先ほどまで、車の助手席に座っていた男がいたからだ。
「あなた……どうしてここに……」
 そう言いながら、女性は一歩、後退した。神谷が足を踏み出したからだ。彼女の顔から血の気が引いて、みるみると青みを帯びていく。限界は近そうだ。神谷は更に一歩を踏み込んだ。
 そこまでくると、女性の動きは素早かった。ライオンを前にして、危機を感じ取ったインパラのように、くるりときびすを返すと、一目散に出口へと走った。神谷は慌てて駆け出すが、ラックの陰から飛び出したときには、彼女の姿はもうどこにもなかった。部屋を抜け出るほどの時間は無かったはずだから、どこかラックの陰にでも隠れん坊をしているのかもしれない。神谷はゆっくりと歩きながら、慎重にラックとラックの間を確かめていった。
 そうして数十秒ほどたった頃、警報がけたたましく鳴り響いた。隙を見て、女性が警報ボタンを押したのだろう。神谷は舌打ちをして、急ぎ取って返すと、荷物を引っつかんで出口へと走った。外へ出て、廊下を全速力で突っ走り、反応の鈍い認証システムに苛立ちが沸き上がってきて、それをぶつけるようにして扉を肩で押し開き、もと来た道を戻っていく。そしてエレベーターホールに飛び込んだとき、ドアが開いて、警備員が二人、降りてきた。神谷はびっくりして急ブレーキを掛けたために、つるりと滑ってしまい思わず転びそうになった。それでもなんとか体勢を立て直すと、くるっと体の向きを変え、引き返そうと足を踏み出した。だが、勢いよく扉が開いて、別の警備員が入ってきて、扉をしっかりと閉めるとその前に仁王立ちになった。神谷は立ち止まり、振り向いた。二名の警備員が警棒を手にじりじりとにじり寄ってくる。もはや前にも後にも逃げ場はない。降参するより他になかった。彼は両手を挙げた。背後に気配を感じたが、あえて振り向くようなことはしなかった。後頭部に鈍い痛みが走って、彼は気を失った。


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 その小さな部屋に窓はなく、その中程に机がぽつんと一つだけあって、天井からぶら下がった裸電球が、薄暗く室内を照らし出していた。出入り口の扉の隣には男が厳つい顔でぬっと立ち、威嚇するように神谷を睨み付けていた。
 神谷は視線を落として手錠を見つめた。両手を胸元まで挙げて、腕を広げるようにして引っ張ってみる。所々錆びついてはいたが、一つ一つの輪っかはしっかりと繋がり合って、離れる様子はまったくない。手入れが行き届いていないだけで、引きちぎれるほどには腐食してはいないらしい。男の咳払いが聞こえて、神谷は顔を上げた。男は神谷の手元に注意を向けていて、どうやら、無駄なことはやめろと言いたいようだ。神谷は男を見つめたまま、鼻をすすって、敢えてじゃらじゃらと音を立て、机の上に両手を上げた。男はそれを確認して、視線を元に戻した。
 それから暫くして、扉が開いて男が二人と、女が一人入ってきた。女性と男の一人は机を挟んだ正面に立ち、もう一人の男は机をぐるっと回り込んで神谷の隣に立った。神谷はその男を見上げた。眉間に大きなほくろがあって、まるで弥勒菩薩のようではあったが、彼の様子を見る限り、その名とは異なり、神谷を救済へと導いてはくれそうにもない。もう一人の方は、はんぺんみたいな顔に、小さな目と鼻と口がちょこんと乗っかっていて、なんとものっぺりとした印象だ。どうにもそれが可笑しくて、彼は笑いをこらえようと下唇を噛みしめて、そのはんぺんを見つめた。ほくろの男が言った。
「自分がいま、どういう状況に置かれているのか、理解していないのか?」
 やはり、その声からは慈悲深さは微塵も感じない。そのような相手にはなにを言っても意味を成さないだろう。神谷はなにも答えず、はんぺんの男から視線を逸らした。それを確認して、男は女性に尋ねた。
「君が見たのはこの男に間違いないね?」
「はい。間違いありません」
 神谷が視線を向けると、彼女は僅かに怯む様子を見せた。しかし、彼は手錠を掛けられているし、この場には味方が三人もいるので、それで心強いと思ったのか、彼女は胸を張って説明した。
「迎えが来ないと言うので、街まで乗せてあげたんです。あんな場所を一人で歩いているなんて、危険ですから……。それに、植物学者だと名乗っていたので、問題ないと思ったんです」
 しまいには言い訳がましくもなったが、男はそれを咎めることはしなかった。彼女はそこでふと思い出し、付け加えた。
「そういえば、もし自分が本当に月人だったらどうするんだと、そんなことを言ってました」
「なるほど。で、どう答えたんだね?」
「冗談はやめてください、と……。本当に、そうは見えなかったんです」
 男は苦笑いを浮かべた。
「まあ、傍目には区別はつかんからね。おそらく、自分が月人と見破られるかどうか確かめたんだろう。で、あなたはまんまと騙されたわけだ」
「彼が月人だとわかっていれば、乗せてはいませんでした」
 女性は申し訳なさそうにうなだれた。
「あなたが気に病む必要はない。それで、彼をどこで拾ったんだね?」
「街からずっと離れた路上でです。森の中で植物の調査をしていたと言っていました。それで、外に出たところで虎に襲われたそうです。路肩に死骸がありましたから、それについては本当のことだと思います」
「ふむ。森の中か……」
 男はそう言いながら二度ほど頷いて、神谷をじろりと見据えた。なにかを探るような目だ。視線を逸らすと余計に怪しまれると考えて、彼は敢えてじいっと見つめ返した。
「それで、街で彼を降ろした?」
「はい。街を少し入ったところでです。どうしてこんなところで、と思いましたが、あまり立ち入ったことを聞くのもなんでしたので……。申し訳ありません」
 女性はぺこりと頭を下げた。
「いや、誰でもそうするだろう。謝る必要はない。で、その彼が、なぜかあそこにいたと、そういうわけだね」
「はい」
「なるほど、よくわかったよ。ありがとう。ところで、その死骸のあった場所は覚えているかね?」
「はい」
 女性は名誉挽回とばかりにはっきりと返事した。
「では、彼にその場所を伝えてくれるかな?」
 ほくろの男ははんぺんの男を目で指し示した。
「わかりました」
 女性ははんぺんの男と共に外に出て行く。
「さて……」
 ほくろの男は神谷の正面へと回り椅子を引き出した。キイキイと耳障りな音が響く。彼は腰を下ろし、机に肘をついて両手を顔の前で組み合わせ、息を吹きかけるようにして言った。
「君は何者だね?」
 神谷はとぼけた様子で肩をすくめた。
「彼女が言ってたでしょう? 植物学者だって」
「森に入って調査を行うには、事前の申請が必要だ。その報告は受けていない」
「それはあなた方の不手際でしょう。適材適所という言葉がある。考え直した方がいいですね。あなたも含めて」
 男は愉快そうに目を細めて口角を吊り上げた。
「なるほど。なかなか挑戦的だな。私はそういうのは嫌いではない」
 彼は腕を組み、背もたれに身を預けた。男は続ける。
「さて、君が持っていた端末を調べさせてもらったよ。軍事情報にアクセスしていたようだね。なにを企んでる?」
 もちろん、神谷がそれに答えるわけはない。そんなことは、男も百も承知だろう。
「まあ、いい。いずれ全て明らかになるだろう」
 ほくろの男は、扉の前に立っていた男に合図した。彼は神谷のそばにやってくると、腕を掴んで立ち上がらせて、外へと連れて行った。



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