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受験

 鳳凰山は、まだ冬の寒さが残る初春。木々のつぼみもまだ固い。

 道場での稽古を終えて寮に帰る途中、ラシャの隣を歩くカミュはなんとなく元気がないし、表情も暗い。
 このごろずっとそんな調子だ。

 カミュの沈んだ様子にはラシャも気がついていたが、あえて何も言わなかった。
 相談してこないということは、聞かれたくないのかもしれない。
 そう思って、カミュが何か言い出すのを待っていた。
 しかし、何度も大きなため息をつかれると、デモンストレーションかとも思えてくる。
 とうとうラシャのほうから聞いた。
「何か悩みでもあるの?」
「ど、どうして?」
 と驚いたように言いながら、目が嬉しそうだ。
 実は、聞いてほしかった。
「どうしてって……浮かない顔をしているからさ」
 カミュには、このところ毎日、心の底にへばりついて離れない一事があった。
「来月……、昇級試験があるよね」
「そうだね」
 何食わぬ顔をしているラシャも、実は気になっていた。
「ラシャさま、受ける?」
「うん。カミュは?」
「受けるよ」

 剣山の入門は随時だが、昇級試験の時期はだいたい決まっていた。ほぼ半年に一回、春と秋。
 それがまもなくやってくる。

 カミュはまた、ふうっとため息をついた。
「あまり自信がないんだ」
「なに言ってるの。カミュなら大丈夫」
 ラシャが軽く微笑むと、カミュは明るい笑顔を見せた。
「そう? ラシャさまにそう言ってもらえると受かるような気がするよ」
 ラシャは正直で、仲良しのカミュにも気休めなど言わない。それに人の実力を見る目も確かだ。

 当のラシャは、しかし
「僕はどうかな……」
 などと言うのだった。
 カミュは耳を疑った。
「ええっ? 珍しいなあ」
「何が?」
「ラシャさまがそんなこと言うなんて。うちらの中じゃ、ケインにつぐ実力者じゃないか。落ちるわけないよ」
「でもまだ一年経っていない」

 剣山の課程は入門・初級・中級・上級という四段階に分かれていた。各段階を最低一年過ごすのが通例だ。入門・初級を短めに終える者はいたが、その多くがかえって中~上級で伸び悩み、結局修了までに長くかかってしまうケースが多かったため、各段階を一年過していない受験者には審査が厳しいと言われていた。


 剣山本堂奥には、会議などに用いられるやや広めの部屋がある。
 入門担当師匠ゴンはそこで一人、椅子に座っていた。拳を顎に当て、まるでロダンの彫刻『考える人』のよう。
 初級担当のスズリが部屋に入ってきて、難しい顔をしているゴンに近づいた。
「今回の入門者はどうかな」
 教える側でも昇級試験のことが話題となる時期であった。
 しかし、ゴンは意外そうにスズリを見上げた。
「弟子に無関心な君でも、興味があるのかい?」
「おいおい、無関心なわけないだろう? いちおう師匠なんだから」
「スズリ師匠は弟子の名前を覚えないことで有名だ」
「名前を覚えなくても、関心がないわけじゃない」
「ふ~ん。まあ、なかなかいいのがいる。ケインのことは聞いているかな」
「ああ。入門組で一番優秀だという話だね」
 ゴンは眉を上げた。スズリが今回の入門組に限っては予備知識まで仕入れている。ますます驚きだ。
「それに、ジンとトールの年長コンビもよくできる」
「そうらしいな。で、ラシャさまは?」
 ゴンは納得の笑みを浮かべた。
「なるほどね。君が今回の入門組をことさら気にするのはラシャさまがいるから……というわけか。実技は優秀だ」
「『実技は』というと? 何かほかに問題でも?」
「まだ一年たっていない。それに……」
 ゴンは口ごもった。
「それに?」
「ケインと仲が悪く、ことあるごとに対立している」
「相性の良し悪しは、どこにでもある」
「しかし、尋常ではない。二人は離したほうがいい。同じ組に入れるべきでない」
 それは、毎日、二人を見てきたゴンの実感だった。
「それはお互いさまというもので、仲が悪いからといってラシャさまを落とすというのは……」
「どちらかを落とすとすれば、ラシャさまだ」
「そんなに言うなら、受験許可を出さなければよかったのに」

 昇級試験を受けるには担当指導者の許可がいる。受かる見込みがそもそもない者は受けられない。
 もともと剣山に昇級試験など無かったのだが、指導者内に弟子を昇級させる基準の差が見られ、その弊害を正すために、普段の師匠ではない者の目を通す場として昇級試験を設けた。
 したがってゴンが許可を出さなければ、ラシャはそもそも試験を受けることができないし、許可したということは、入門担当のゴンはラシャに合格点を与えたということだった。

「ラシャさまは優秀だ。ケインとの仲がこれほど険悪でなければ、何の問題もない。会主シエラさまの弟君だし、私の一存では決めかねる。だから、この件に関しては君たちの判断を仰ぎたいと思ったのだ」
「でも、基本的に優秀なら、今回落としても、半年後には上がる。そうすれば、また一緒になる。入門はともかく初級を半年で終える者はごく稀だからな。ケインがいくら優秀でもラシャさまが初級に上がってくる前に中級に上がるというのは無理だろう」
「半年でもいい。あの二人はなるべく離したほうがいいと私は思うのだ」

 二人の背後に、長衣を羽織った人影がぬっと立ち現れた。
「まあ試験の結果を見てみようじゃないかね」
「総長!」
 入門者の昇級についての話し合いに剣山総長ナグールが興味を示すことは珍しい。これも、おそらく今回はラシャが含まれているためであろう。
「試験には集団行動を見る課題がある」
「はい」
「二人とも昇級させるのか、一人を落とすのか、それで決めようじゃないか」
 試験では、各自の能力を見た後に、入門組一同に団体で課される課題があった。
「それはご名案!」
 間をおかずに賛意を示したのはスズリ。
「それによっては両方落とすということもあるかもしれん」
 総長の厳しい一言にゴンは首をふった。
「いや、それは……。あんなのが二人も留まったら入門組の実力差が開きすぎて、指導が困難になります。実技の主席と次席を昇級試験で落とすなど、前代未聞です」
 ナグールは嫌味な目をゴンに流しながら、
「次席を落とすだけでも、十分、前代未聞だと思うがね」
「はあ……それは……そうですが」
 ゴンは、ばつ悪そうに、頭の後ろに手をやった。


 入門から受験許可が下りたのは、ジン、トール、ケイン、ラシャ、カミュのほか、ケインと仲のよいゲタとボードーの合計七名だった。

 試験科目のうち、実技は剣・短刀・槍・素手ほか。対戦相手は剣山の上級者やまれに師匠が勤める。弓は的当て。立った状態で静止した的、馬上から静止した的、立った状態で動く的、馬上から動く的を狙う課題があった。
 筆記試験もある。鳳凰山の歴史・地理など、会士として知っておかなければならない規則や禁止事項の確認などが問われる。
 そのほか変わったところでは、趣味や特技を披露する場が与えられ、採点者の判断により加点される。加点がまったくない場合もあるが、少なくとも、これで減点されることはない。
 マイナス評価となりうるのは人物評価だ。これは普段点とも言え、担当師匠(入門の場合はゴン)や寮長ほか、受験者を知る複数名の意見を参考にする。

 そして最後に受験者全員を一団にまとめ、そのチームワークを問う課題が出される。


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狩り

「やあ~、終わった、終わったあ!」
 トールは歩きながら伸びをしていた。
「何を言っているんだ。まだ試験中だぞ」
 横を歩くジンはいつも通り、いや、試験当日とあって、いつも以上の緊張感を漂わせていた。
 だが、ジンのまじめさが例外的なのであって、トールだけでなく、ほかの五人もまた、個人競技および筆記試験を終えた今、ほっと一息ついていた。大失敗した者はいなかったようす。個々人が、がんばらなければいけない試験が終わったことで、もう受かったような気分なのだった。

 一同は最後の試験科目である《集団行動》の受験中。
 ジンとトールは集団の真ん中に。ケインはゲタ、ボードーを引き連れて先頭を切り、ラシャとカミュが後についていた。

 課題は毎回異なるが、たいてい受験者は集団で小さな旅をする。つまり、一時的に剣山と呼ばれる一角を出ることになる。途中、偶然に人と会うこともあるが、外部の人間との接触は最低限に抑えるよう指導される。食料は少なめに支給され、足りない分は途中で山野から調達しなければならない。
 一定期間のうちに定められた目的地にたどりつくことが最優先事項であり、これが達成されないと、最悪、全員不合格という場合もありうる。そして、その間に起こる問題にうまく対処できたか、特に仲間との助け合いが重視される。
 今回の入門組の課題は四日以内に、黒岩岳頂上の小屋に達すること。原則徒歩であるが、怪我人が出て歩行不可能になった場合は馬などを調達してもよいことになっていた。乗れるのはもちろん怪我をした者のみである。 

 ジンはいつものように、まぶたはほとんど閉じたまま闊歩しながら、全員に気を配っていた。
 どんどん遠のく前方の三人に大声で呼びかけた。
「お~い、最初から、あんまり飛ばすな。後で、持たなくなるぞ!」
 先を歩くケインとボードー、ゲタの三人は速く進みすぎるきらいがあった。
 ケインが振りむき、叫び返した。
「こんなの全然速くない!」
「ペース配分ほか、この四日間は私の指示に従ってもらう。それは最初に決めた約束ごとだ」
「ちっ、距離は稼げるときに稼いでおいたほうがいいのに……」
 ケインは舌打ちしたが、不服を言いながらも、後方の仲間が見えなくなるほど速く進むことはなくなった。

 試験前にはびくびくしていたカミュも明るさを取り戻していた。
「僕って、けっこう本番に強いかも!」
「やっと調子よくなったね!」
 カミュとラシャ、二人とも爽快な笑みを浮かべていた。
「後ろの二人、もう少しペースを上げてくれ」
 遅れがちだった後方の二人に、ジンの催促が入る。
「は~い」
 二人は素直に従い、小走りに寄ってきて、ジンとトールの後ろについた。

 トールはジンの肩を叩いた。
「リーダーだからって、あんまり気負いすぎるなよ。今まで、この《集団行動》で落ちたって話はあんまり聞かないから、そんなにピリピリしなくても、大丈夫だろ」
「油断は禁物だ。それに、私はピリピリなどしていない」
「じゃあ、その眉間のしわ、なんとかしろよ」
「こういう顔なんだ! 毎日、見ているんだから、わかってるだろう?」
「いつもに比べて、一段としわが深まっているような気がする」
「君の気のせいだ」
「ああ、そうかい。なら、いいんだが……」

 一日目は、ジンを除いて、みなピクニック気分。試験後のレクリエーションでもあるかのようなノリだった。

 しかし、旅の二日目、
「腹減ったな……」
 トールは始終腹をすかせているが、その他大勢も空腹感が増していた。
 持ち合わせの食料は非常食としてある程度とっておく。
 道中、食べられそうな木の実などを見つけると、取って食べたが、一日中早足で移動する少年たちの食欲を満足させるものではなかった。
「あっ、鹿だ」
 トールが弓を構えたが、ラシャが押さえた。
「だめ!」
「なんでだよ」
「あれは、僕の友達」
「はあ?」
 トールはラシャがふざけているのかと思った。
 が、鹿は軽やかに飛び跳ねながらやってきて、ラシャの前に立った。
「ひさしぶりだなあ。シャフィー。元気か?」
 ラシャが鹿に頬ずりすると、鹿はラシャをなめた。
「シャフィー? って、そいつの名前か?」
 トールはあきれたように、ラシャと鹿を交互に見やった。
「そうだよ」
 ラシャはシャフィーの背をなでながら、弓を手に持ったままのトールをぎろりとにらみつけた。
「よくわかるな。俺には鹿はどれも同じに見える」
「匂いとか、感じとかが違うよ」
「ラシャさんの鼻、動物並だな」
「ありがとう」 
 本当のところは、ラシャにもどうやって区別しているのかよくわからない。匂いが違うと言ったが、鼻でかぐ通常の「匂い」が決め手ではないような気がする。

 トールは褒めたわけではなかった。鹿を見ながら、口からはよだれがあふれ出そうであった。
 ラシャはシャフィーの尻を叩いた。
「ほら、もう行け。しばらく僕のところに来ないほうがいい。こいつらに食べられちゃうかもしれない」
 シャフィーは軽やかに駆け去り、茂みの手前で一旦止まって、ラシャを振り返った。
 そして、木々の中に消えていった。
 ラシャはその気配を追いながら、名残惜しそうにしていた。
 ほかの仲間たちもまた鹿の去った森を見つめていたが、その表情はまた別の意味で名残惜しそうだった。

 ラシャには人間の友達があまりいなかった。
 会主の息子として育ち、今は会主の弟、それだけでも距離があるのに同年の子どもに混じると、なにかにつけ抜きん出て優れていた。それで、他の少年たちは、悪気がなくとも、ラシャとは一線を置いてつきあおうとすることが多かった。
 その分、ラシャは山の動物たちとよく遊んだ。剣山に入る前は毎日のように動物とたわむれていた。剣山にも動物はいるが、遊んでいる暇が無くなった。ひさしぶりに剣山の外で会った昔なじみとはもっとゆっくり「語り合い」たかったが、今は試験中。そういうわけにもいかない。

 その後も入門組は何度も獲物を発見したが、狩りをしようとするたびにラシャの抵抗にあった。
 彼らには《肉》にしかみえない動物だが、ラシャにとっては友達なのだ。 


「おっ、猪じゃないか」
 ケインが弓を取って構えた。
「だめ!」
 またしてもラシャが立ちはだかる。ケインの弓の正面で手足を広げた。
「また友達とか言うんじゃないでしょうね?」
「だったら何だよ?」
「このへんの動物全部と友達なんですか?」
「全部じゃないけど……」
 ケインは弓を下ろした。
 だが、ラシャが安心して油断した隙に、もう一度すばやく構えて矢を打った。
 ギューン
 勢いよく飛んだケインの矢は猪のわき腹にささった。
「ルル!」
 ラシャはカッと目を見開くと、ケインに飛びかかって押し倒した。
 ケインは叫んだ。
「ゲタ、ボードー、矢を放て」
 二人は躊躇していたが、ケインはなおも促した。
「早くしろ。獲物に逃げられる!」
 ケインの矢を受けても猪はまだ動いていた。
 ゲタとボードーは顔を見合わせ、そして、弓をつがえた。
「やめろ!」
 ラシャはケインを抑えていた両手を離した。ゲタに体当たりし、ボードーの弓を押さえた。
 しかし、その間に、またケインが起き上がって、矢を射かけた。
「ケイン、よせ!」
 三人の射手をラシャ一人で止めることはできない。
 ラシャは剣を抜いた。
「ルルを傷つけるやつは……、斬る!」
 ジンがさっとケインとラシャの間に身を入れた。
「ラシャさま、よせ。仲間を傷つけたら失格だぞ」
 ジンとしては、ケインが猪を射ることより、ラシャが仲間を傷つけることのほうを制止したい。ケインよりラシャに寄っていた。
「ルルを傷つけるやつは許さない。ルルは僕が守る」
 ケインは「ふふん」と笑いながら弓をつがえた。
 ラシャがケインに剣を振り上げる。
「やめろ!」
 止めようとするジンにも、ラシャは食ってかかった。
「邪魔をするな。斬るぞ」
「仲間を傷つけたら失格だ」
「そんなことは、わかっている」
 その間にもケインは猪に向かって矢を射ていた。
 ゲタやボードーも加わった。
 ジンとトールは弓を取らなかったが、三人を止めもしなかった。
 むしろ、ラシャから三人をかばうように立ちふさがった。
 カミュはおろおろしながら、ラシャとケインらを交互に見るばかり。

 ラシャは猪ルルに向かって駆けだした。
 ケインは弓を構えながら叫んだ。
「どかないと当たりますよ」
 猪は何本もの矢を受けながら、まだ倒れていない。矢は、とどめをさすにはいたっていなかった。
 ケインはさらに弓を引き、放った。
 矢は、猪に向かって全速力で駆けていくラシャの背を狙って射たかのようにも見えた。
 トールほか、一同は息を呑んだ。
 カミュは叫び声を上げた。
「ラシャさま!」
 迫る矢を、ラシャは振り返りざまに剣で払った。
 ケインに何か言ってやりたいところだったが、そんな暇はない。
 猪ルルを助けなければ!
 走り続けるラシャを見ながらケインは
「強情だな」
 とさらに矢を飛ばした。
 猪は何本もの矢を体に受けながら、ズルズルと逃げて行き、崖の下に下りていた。
 このときラシャは猪ルルを追って崖を降りている最中で、さらに射掛けるケインの矢はラシャの上を飛んで猪に向かった。
 ラシャは石を拾って投げた。矢は反れ、猪には当たらなかった。

「ケイン、ラシャさまに当てるなよ」
 ジンはそう警告したが、ケインが猪を射ることを止めはしなかった。
 止めに入ったのはカミュだけだ。
「ねえ、やめようよ。ラシャさまの友達なんか食べられないよ」
「俺は食べられるぞ。俺の友達じゃないからな」
 トールはすでに負傷している猪をかばう気はないようだった。
「そんなあ」
 カミュは仲間を見渡した。
 ケイン、ゲタ、ボードーは矢を打ちつづけている。
 ゲタとボードーはときおり、あざ笑うようなゆがんだ顔でカミュを見た。
 ケインとラシャが対立したときにいつもは頼りになるジンやトールも今回はケイン側だった。
 トールはカミュの肩に手を置いた。
「この調子じゃあ、俺たちは肉にありつけない」
 情に厚いトールも食欲には勝てないようだった。

 ケインらは文字通り矢継ぎ早に矢を射かけ、ラシャもそれら全ての矢からルルをかばいきることはできなかった。
 猪は打ち続く矢に倒れ、やっとラシャが猪にたどり着いたときには息絶え絶えだった。
「ルル、ルル……」
 ブフブフ。
「まだ息はある。手当てをすれば助かる」
 ラシャは慎重に矢を抜き、猪の傷に手を当てた。

 ガサッ
 ラシャの背後に入門組の面々がやってきた。
 ラシャは猪の手当てを続けながら、ケインを睨みつけた。
 ケインは勝ち誇ったように
「そんなことをしても無駄です。そいつは俺たちがしとめた獲物」
「ルルは渡さない」
 ラシャは矢傷に手を当てたまま、かばうようにルルに覆いかぶさった。
「俺たち全員を相手にするおつもりですか?」
 ラシャはケインの後ろに立つ仲間たちを見回した。

 ジンは何も言わずにラシャを《見つめて》いた。その閉じた目とクールな表情からも同情的であることがうかがわれる。
 トールはラシャと目を合わさないようにしていた。肉は食べたいが、ラシャの《友達》を殺すことに良心の痛みを感じているようだった。
 カミュがラシャに近づいた。
 ラシャは恨めしそうに言った。
「カミュ、君も……」
 ラシャの瞳がうるんでいた。怒りより、悲しみのほうが勝っていた。
「僕は食べないよ」
 カミュもラシャのそばに座って、一緒に猪の傷に手を当てた。
 鳳凰会士の介抱は《手当て》という言葉がよく当てはまる。薬部の医術系会士ほどではないが兵部の武術系会士もそうやって軽い怪我は治癒することができる。

 ジンが一歩、前に出た。
「ラシャさま、その猪は譲ってもらえないか? みんな腹をすかしている。肉も食べないと、力が出ない」
「ルルは渡さない」
 手当てを続けるラシャの目からは涙がこぼれ落ちていた。
「腹を満たすものならその……ルル……でなくてもいいんだが、どうやらここらの動物は、みなラシャさまの友達のようだし……」
「みんなじゃない」
「しかし、今まで遭遇した大型動物はすべて友達のようだった」
 ラシャがかばったのは「友達」だけではなかった。ここ鳳凰山にいる動物は今友達でなくても、いずれ友達になるかもしれない。友達の家族かもしれない。そう思うと殺せないのだ。
「この猪はもう助からない。弱っているから、たとえ我々が見逃しても他の肉食獣に食べられるだけだ。君たちの技では、すぐに傷を治すことはできないだろう?」
 ラシャはじっと右手を見つめた。

 《手当て》で軽い傷は治癒することができるといっても、武術系の、しかも入門組のラシャやカミュにとってルルの受けた無数の矢傷は軽い怪我のうちには入らない。二人が手を当ててもそれらの傷をすぐに完治させることはできない。


 剣山の寺院では、そんな様子を《千里眼》カズを通じて師匠たちが見守っていた。
 地図を広げた机を囲んでカズの隣に総長ナグール、向かいにゴンとスズリが座っていた。
「これは意図した課題ではありませんが、興味深い展開になってきましたな」
 初級担当のスズリはあごひげを撫でつけながら、カズの報告に聞き入っていた。
「ラシャさまには酷なことになりましたね」
 ラシャを進級させないほうがいいと言っていたゴンだが、ここは同情的だ。
「鳳凰山育ちの人間なら鳳凰山の動物を口にしないことは習慣として心得ていますが、今回の入門組は外からやってきた者が多いですからね」
 ゴンは、さりげなく総長ナグールを見上げた。
 ナグールは眉ひとつ動かすことなく、
「鳳凰山の動物が会士の食卓に上がらないのも、元はと言えば開祖ジュートさまのラシャさまへの配慮に端を発している。会主のご家庭でのみ、そうであったのが、鳳凰山全体の習慣となってしまったのだ。絶対に守らなければならない決まりごとではない。ラシャさまには、もっと大人になっていただかねば。後に鳳凰山を背負っていかれるお方だ。人間より動物が大事では困る」
「このまま続行ですか?」
「当たり前だ。彼らの身が危険にさらされているわけではない」
「介入もなしですか?」
「我々に何ができる?」
「山の外から動物をつれてきて放つとか」
「その必要はない。会主の弟ということで特別扱いしないでほしいとは、ラシャさまご本人の言でもある」
「そう……でしたね」
 カズは再び報告に専念した。


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鳳凰山くずれ

 トールは満足気に腹を撫でていた。
「ああ、食った食った」
 あたりには焼けた肉の香ばしい匂いがただよっていた。
 火はもう消えていた。
 肉もほとんど消えていた。
「さすがの君でも満腹になったか」
 ジンはからかうように顎をしゃくった。
「大きな猪だったからなあ」
 久しぶりの肉に受験者の五人は元気を取り戻した。
 そう、ここにいるのは全受験者七人中五人だけ。ラシャとカミュがいない。

「ラシャさんには申し訳ないが、うまかったな」
 トールはまだ残っている肉に目をやった。腹いっぱいと言いながら、すでにすっかり冷めてしまった焼き肉の残りを、まだ食べたそうだった。ちらちらとジンを見やる。
 ジンはそんなトールに釘をさす。
「これはカミュの分だ」
「とっておいても食べないんじゃないか……?」
「かもな…・・・」
 ジンは遠くを見るように顔を上げた。
「あの二人、どうしてるかな……?」
 トールもまたジンと同じ方角に目をやった。


 ラシャはジンの説得を受け入れたものの、やはり《友達》が引き裂かれるところを見ていられず、逃げるようにその場から走り去った。
 崖をのぼり、山を越え、川をわたった。
 そんなラシャをカミュは必死で追いかけた。

 ラシャは足が速い。特に長距離は速い。短距離走そのままに走り続ける。
「どこに行くの? 待ってよ~」
 ラシャは止まらなかった。
 どんどん先に行ってしまい、カミュはついにラシャを見失ってしまった。

 それでも、カミュはラシャを探し回った。
「ラシャさまの行きそうなところは……」
 草原、眺めがいい高台、川のほとり……。
 見当をつけて行ってみたがどこにもいない。
「ラシャさま、どこに行ったんだろう?」
 ラシャにとっては、生まれ育ったこの鳳凰山は庭のようなもの、一人でも生き延びることはできるだろう。だが、これは昇級試験なのだ。しかも、今問われているのはチームワーク。それを放棄したとなれば、失格となってしまう。

 あたりは暗くなりかけていた。これ以上、ラシャを探していては仲間のところに帰れなくなる。
 カミュは戻ることにした。
 背を向けて引き返しながらも、何度も後ろを振り返った。
 ラシャさま……早く戻ってきて!
 そう願いながら。


 カミュを振り切ったラシャは三方を岩壁に囲まれた窪みを見つけ、そこに倒れこむように身を投げ出すと、大声を上げて泣いた。
 あふれるように出てくる涙はなかなか止まらなかった。

 うりんぼうの頃から知っている雌の猪だった。成獣になってからはよく背に乗せてもらった。子ども達も知っている。子らに会ったら何と言ったらいいのだろう? 多産な猪で毎年のように子どもを産んでいた。今年もおそらくお腹には子がいたのではないだろうか。
「ごめんよ。守ってやれなかった……」
 《敵》ではなく、仲間に殺され、しかも食べられたというのがショックだった。

 そのとき、遠くから獣の声が聞こえた。
 オオオオ~ン
「あれは……」
 狼の遠吠えだ。
 ラシャも吼え返した。
 オオオオオ~ン
 なかなか堂に入ったもので、本物の狼そっくりの吼え声だった。

 しばらくするとカサッという物音と共に、灰色の狼が現れた。
 岩壁に囲まれた森の一角、すでに薄暗くなっていたが、二つの瞳が光っていた。
「アスリー!」
 ラシャは近づいた狼を抱き寄せた。


 もう、すっかり夜がふけて辺りは真っ暗になっていた。
 夕食の燃えカスがまだくすぶっている。
 入門組の晩の食事も、やはり肉だった。
 生肉では保存がきかないから、なるべく早く食べてしまわないといけない。
  ラシャもカミュも、まだ帰ってこない。
 トールは心配で落ち着かない。立ったり、座ったりを繰り返していた。
「探しに行ったほうがいいかもな」
「いったい、どこを探す?」
「そ、それはだな……」
 トールにしてもラシャの行く先に目星がついているわけではない。
「それに、下手に動かないほうがいい。こっちが大きく移動したら、二人が帰ってこられなくなる」
「ジン、お前は心配じゃないのかよ」
「心配ではあるが、騒いでも仕方がないだろう?」
「帰ってくるかな」
「帰ってこなかったら、勝手な行動をとったかどで失格だ」
「探さないと、仲間を見捨てたかどで失格ってこともあるかもしれないぞ」
 ジンとトールの言い合いにケインが口を挟んだ。
「全員が失格? 初級のスズリ先生はこれから暇になるね」
 ケインが笑うと、ゲタとボードーも一緒に笑った。
 そんなことはあり得ないというわけだ。

 ガサッ
 茂みの物音に全員が武器を構えた。
 大型の獣!?
 しかし、その大型獣は、すっかり疲労困憊の上、意気消沈していた。
 現れたのはカミュ。
 一同は再び武器を置いた。
「やっと帰ってきたか。心配かけんなよ。肉、冷めちまったぞ。ラシャさんは?」
 言いたいことは一気に言う。聞きたいことも一気に聞く。順序だててゆっくり質問するということができないトールだった。
「ラシャさまには追いつけなかった。どこに行っちゃったかもわからない」
 カミュはうなだれていた。
「ずっと探してたのか?」
「うん」
「何か食ったか?」
「途中で果物を拾ったりしたけど……」
 トールは串刺しになった肉の残りを拾い上げ、
「じゃあ、ほら、食え!」
 とカミュに差し出した。
 そう言いながら、本当は自分が食べたかった肉なので、手が少し引けていて、カミュに届いていない。「食べてもいいよ」とカミュが言ってくれるのを待っているかのようでもある。

 トールの手から肉を取り上げ、その串をしっかりカミュの手に握らせたのはジンだった。
「よかったな。もう少し遅かったら、これもトールに食べられているところだ」
 昼間の肉はカミュの分もトールが食べてしまっていたが、この夕飯の肉はかろうじて残っていた。
 ジンは大きな石に座り、左隣を示して、カミュに着座を促した。
 カミュは勧められるまま肉を受け取り、ジンの隣に座ったものの、じっと串刺しの肉を見つめたまま、いつまでも口にしようとしなかった。
 トールがカミュの左にやってきて座った。ジンとトールの間で、がっくり肩を落としたカミュは、ただでさえ小柄なのに、いっそう小さく見えた。
「腹、減ってないのか?」
 食わないのなら俺が食うとばかりに顔を寄せ、肉のそばで口を開けてみせた。
「おなかは空いてるけど……」
「ラシャさまはここにはいない。帰ってきても、君は食べなかったことにしてやる」
 ジンにそう言われて、カミュはためらいながら肉に口を近づけた。
 涙があふれてきた。友を裏切るような後ろめたさがあった。ラシャには自分は猪を食べないと言った。でも、今はラシャを探し回って、疲れと空腹が最高潮に達していた。
「ごめんね……」
 猪とラシャに謝りながら、カミュは思い切って肉にかぶりついた。そのあとは一気に食い尽くした。ゆっくり食べたら、それだけ良心の痛みも長くなるような気がした。


 満月の明るい夜。時折、月は雲に隠れ、また皓々とした姿を現す。
 オオオオオ~ン
 オオオオ~ン
 その夜はやたら狼がよく吠えた。 
「うるせえなあ。眠れやしない」
 入門組の六人は、何度も起き、寝返りを打った。

 
 空が白みはじめたころ、まずジンが起き上がった。
 続いてカミュ、そして、ケイン、ボードー、ゲタの三人が起き出した。
 狼の声はもはや聞こえないが、寝入り際の遠吠えが異常にうるさかったので、いずれも睡眠不足の感がある。しきりにあくびが出る。
 一人いつまでも起きようとしないトールは、ジンに揺すられて、やっと薄目を開けた。
「ん? もう朝か? ふわあああ」
 一同、すっきり目覚めたとは言えないが、もっと寝たいと言う者はいなかった。昨日の遅れを取り戻さなければならないことがわかっているからだ。
 ラシャはまだ戻っていない。
「どうする? やっぱ探しにいかねえと……」
 トールは腰を上げた。
 ジンはしばらく考え込むようにしていたが、
「いや、その必要はないだろう。敵に捕らわれたとか、怪我や病気の場合はともかく、ラシャさまは勝手に隊を離れたんだ。この場合、わがままな脱落者より課題遂行を優先すべきだと思う。与えられた時間はあと二日だ。目的地は黒岩岳山頂の小屋。我々の足で一日半はかかるだろう。少し余裕をみて二日はほしい。人探しをしている時間はない」
「つまり、少し余裕があるんだよな」
「試験だぞ。何の障害もなしに黒岩岳にたどり着けると思うか?」
「で、でもよ~」
 昇級試験の行程には困難な道が指定されるか、なんらかの障害が設けられていることが多い。彼らは道の指定は受けなかった。その分、《障害》を覚悟しなければならないということだった。
「目的地はラシャさまもわかっている。そこに向かう道も限られている。我々がラシャさまの行方を追うのは至難の業だが、ラシャさまが我々を追うのはたやすいはずだ。そのうち合流してくる」
「隊に戻る気があれば……だけどね」
 ケインは昨日大活躍だった弓の手入れをしていた。例によって嫌味な口調。
「ケイン、私にはあえてできなかった猪狩りをしてくれたことには感謝するが、もう少し仲間への思いやりがあってもいいんじゃないか?」
 冷静なジンにしては荒い語気がこもっていた。
「ジンさんは甘いよ。人間は食べないと生きられない。あのラシャだって完全菜食主義者というわけじゃない。いつも肉を食べてたじゃないか」
「鳳凰山では鳳凰山の動物は食卓に供されない」
「そうだったね。不思議な習慣だ」
 さすがにジンが平常心を失うことはないが、かなり我慢していると見て取ったトールが宥めるように言った。
「この先は鳳凰山からは離れる。ラシャさまの友達はもういないだろう。こういう問題はもう起こらないと思うぜ」
 しかし、カミュが一言。
「でも、人間の地理と動物の行動範囲って一致しないよね」
「うっ」
 と固まっているトールの後ろから、パチパチパチとケインの拍手。
「珍しくおりこうさん」
 その一言でジンとケインの間に調停に入ったはずのトールのほうが切れてしまった。
「馬鹿にしてんのか、お前!」
 とケインを突き飛ばした。
「とんでもない」
 ケインは後方によろめきながら、薄ら笑いを浮かべた。
「こいつ~~~~」
 一歩進んだトールをジンが抱えて止めた。
「仲間を殴ったりしたら、減点だぞ」
「う~、わかってる。離せ!」
 トールはジンを乱暴に振り払うと、黒岩岳方面に向かって歩き出した。
 ジンほか五名もトールの後に続いた。


 一団が山を下りていくと、中腹から川が見えてきた。川幅が広く、今日のように晴れた日でも向こう岸がやっと見える程度である。二日以内に黒岩岳に至るには、この川を渡らなければならない。
「山を降りたら、いかだを作るぞ!」
 いかだを作るには木を切らなければならない。木を切るのは重労働。働けば腹が減る。
 トールはそんなことを考えながら、腹ごしらえの算段ばかりしていた。
 道を歩きながらも獲物はいないかと鵜の目鷹の目で探し回る。
「こう言っちゃあなんだが、せっかくラシャさんがいないのに、今日は鹿も猪も見えねえなあ」
 鹿や猪ばかりではない。昨日までは何度も狐や猿、野生馬などの中型から大型の動物に遭遇したが、今日の道中には影を潜めたように何も現れない。ウサギやリスなどの小動物もいない。狩りの対象になりそうな動物の気配がまったくしない。
「気味が悪いな。この辺、なんかあるんじゃないか?」

 一行は結局、肉食にはありつけなかったが、川には魚がいる。
 それでなんとか力をつけて樵(きこり)仕事にとりかかることとなった。
 所持する武器はめいめい違っていたが、野宿には薪が必要であるし、いかだ作りは前もってわかっていたことだったので、斧だけは全員が持っていた。
「さあ、さっさと作って、さっさと渡ろうぜ!」
 真昼の太陽を浴びながら六人は作業に精を出した。
 
「出来た!」
 トールは筏に飛び乗った。
 ジンは、冷ややかにトールを見下ろしていた。
「では、川を渡ろうか。トール、下りろ!」
「なんでだよ。これから渡るんだろ」
「まず川に出さなくてはいけない。それは全員で押すんだ。君が乗っていては動かない」
「あっそうか」
 トールはそそくさと筏から降りた。
「君は……わざとボケているだけなのか、本当にバカなのかときどきわからなくなる」
「わざとボケたに決まってるだろ!」
 トールは筏の横に立ち、掛け声をかけた。
「さあ、出すぞ~、そ~れっ」
 要所要所で方向づけするのはジンだが、実行段階で音頭を取るのはトールなのだ。

 
 筏が川のほぼ中央を過ぎたときだった。
 ヒュン!
 矢が飛んできてトールの目前を通り過ぎた。
「な、なんだ?」
 ジンは向こう岸に目をこらした。
「ひょっとして鳳凰山くずれか?」
「鳳凰山くずれ?」
「話は後だ」
 次々と飛び交う矢を避け、一同はみな伏せた。あまり流れの速い川ではなかったが、それでもいかだが目的の岸から離れていく。
「漕がないと、いかだが下流に流される」
「だが、こう矢が飛んでくるようでは……立ち上がれない」
 射手は物陰に隠れていてよく見えないが、一人や二人ではなさそうだ。
「いったい、どこから矢を放っているんだ?」
 ボードーは矢の合間に身を起こし、弓を構えようとしたが、狙いが定まらないので撃てずにいた。無駄撃ちするほど多くの矢を持ち合わせていない。
「向こうの姿は見えないが、向こうからこっちは丸見えだ」
「いったん戻るか?」
 トールはジンに話しかけたのだが、ケインが先に答えた。
「戻って、どうする。ここを渡らなければ二日で黒岩岳になんかつけない」
「少し下ったところで岸にあがろう。遠回りになるが仕方がない」
 ボードーは癇癪を起こした。
「昨日、やつを待たないでさっさと川を渡ればよかったんだ」
「昨日渡っても、矢は飛んできたかもしれないぞ」
 トールはボードーを睨みつけ、
「迂回しよう」
「だめだ! これ以上遅れるわけにはいかない」
 ケインは迂回に断固反対。
「やつらの矢はたいしたことなさそうだ」
 ゲタもケインに同調。
「そうだ。何本も飛んできたけど、全然俺たちに当たっていない」
 ボードーの一言に、ケインとゲタは大きくうなずいた。
「まだ遠いからだろ。近づいたら当たりやすくなる」
 普段は大雑把で豪快なトールだが、意外にもこのときは慎重派。
「カミュ、君はどう思う」
 カミュがジンから意見など求められることは珍しいので、頬が少し紅潮した。
「僕も……命のほうが大事かなあ」
「迂回か?」
「うん」
「三対三だな」
 トールは両手の指を三本ずつ上げた。
「こういうことは本来多数決で決めるもんじゃない」
 ケインは苛立っていた。
「なら、私が決める。我々は生き延びて合格する。迂回だ。このまま岸に向かえば、必ず怪我人が出る。そうなれば思うように進めなくなる。迂回すれば、その後の行程は強行軍になるが、無傷なら多少の無理は利く」
 こういうときのジンの一言はいわば鶴の一声だった。入門組の誰も逆らえない。
 ケインも舌打ちしただけで、それ以上何も言わなかった。


 剣山の寺院内、師匠らは剣山の《目》カズの報告に聞き入っていた。
「あの連中、間に合いますかね」
 このときも顎鬚をなでつけるスズリ。
「間に合わなかったら不合格だ」
 ナグールは冷たく言い放つ。
「と受験生には言ってありますが……」
 ゴンは上目遣いにナグールを伺う。
「あのジンとトールの二人は慎重すぎるな。いつもの受験生なら多少の危険には向かっていくところだ」
 スズリはどうやら格闘シーンを楽しみにしていたらしく、やや残念そうである。
「あの二人、面倒見が良すぎるのでしょうなあ。自分達だけなら突っ込んでいったと思いますよ。他の仲間、特にカミュの安全を第一に考えたんでしょう」
 受験生各人をよく知るゴンはフォローに懸命だった。担当師匠としては、基本的に全員合格させてやりたい。
「迂回路をとれば、このあとは駆け足で行かないと間に合わないぞ」
「そうかもしれませんね」
 ゴンとスズリはカズの報告の続きを待った。
 カズは目を閉じている。そのほうがよく《見える》ようだ。
「岸についたようです」


 川岸に上がった六人はすぐに山を登り始めた。
 本来予定していた岸より、だいぶ下流にずれてしまったので急がなければならない。
「ところでさっきの話の続きだが」
 ほとんど駆けるような早足でザクザク進みながらも、トールはジンに話しかけた。
「鳳凰山くずれって何だ?」
「鳳凰山の訓練についていけずに脱落したり、追放されたりした者たちだ」
「落ちこぼれか?」
「それでも並の山賊よりは腕が立つ」
「始末が悪いな」
「会にはよく勘違いしたやからがやってくる」
「勘違い?」
「鳳凰会を格闘技の道場か何かと思っている」
「え、違うのか?」
 ジンは不愉快そうに
「そんな冗談は面白くないぞ」
 たしなめられたトールはおどけたように肩をすくめた。
 ジンの解説が続く。
「そういう連中は元々の入会動機が不純だから、会を追い出されてもまともな職につかず、鳳凰会を逆恨みして、この近辺で悪さを働いているんだ」
「鳳凰山《くずれ》なら鳳凰会の正式な会士にはかなわないだろ?」
 トールは自らの服を指差した。
 一行の服はいわゆる会服ではなく、動きやすい稽古着だったが、鳳凰会士の稽古着であることは内部にいた者ならわかるはずだった。
「まあな。俺たちは未熟な若者と目されて襲われたんだろう。剣山の修行者は剣山の外に出ないからな」
 二人の会話を聞いていたケインが横槍を入れてきた。
「そんな鳳凰山くずれを相手に勝つ自信がなかった?」
「ケイン、勝つことはできたかもしれないが、私たち全員が無傷でやりすごせたとは思えない」

 それまで上りだった道がやや平らになった。
「駆け足で行くぞ」
 ジンが歩を進めると、トールが「よっしゃ」と先頭に出た。
 基本的にジンのリーダーシップを認めながら、ほとんど意味なく存在感を示したがるところがトールにはある。
 そんなときジンは一歩引いて、トールの鼻をくじかないようにしてやるのだった。
 残る四人もトールとジンに続いた。
 このように上りは速めに歩き、平地および下りはなるべく走って距離をかせいだ。
 満足な食事もとれない。ときどき食べられそうな草や木の実をとって食べるだけだ。
 そうやって断続的に走り続けた。

 日が落ち、あたりは暗くなってきた。月明かりの中、真っ暗にはならなかった。
 そのため夜もペースを落としながら進んだ。
 ときおり休みを取ってはいたが、今日の行程はきつかった。
「そろそろ小屋があるはずだ」
 ジンの言葉通り、一軒の小屋が見えてきた。
「今晩はあそこで寝るとしよう。このあたりからなら黒岩岳山頂になんとかあと一日で到達できるだろう」
 みな体力の限界に来ていたが、もう少しで休めると思うと元気が出たようだった。一同のフットワークが急に軽くなった。
 カミュだけは前方の小屋ではなく後方を気にしていた。
 トールが声をかけた。
「どうした?」
「ラシャさま、もう来ないのかな……」
「まだ一日ある」
 今更だが、トールはラシャの《友達》をガツガツと食べてしまったことを後悔していた。ほんの数日肉を絶つぐらい、やってやれないことはない。


 剣山ではスズリがしきりに髭をいじりながら、にやりとしていた。
「いよいよ、始まりますな」
「うれしそうだな」
 ゴンはどちらかといえば教え子たちに感情移入しがちだった。楽しそうなスズリに不満顔だ。
「武術系はやっぱりこうでなくちゃあ」
「意地の悪い……。彼らはすっかり疲れきっている」
「迂回なんかするからだ」
「受験生、小屋に入ります」
 カズの一言で師匠らは押し黙った。


 ケイン、ボードー、ゲタの三人は小屋のすぐ前まで来ていた。
「もう一息だ」
「ついたぞ」
 ボードーが戸口に手をかけようとしたそのとき、
「待て!」
 ケインがボードーの襟首を引いた。
「ぐげっ」
 ボードーは首が締まってゴホゴホと咳き込んだ。
 ケインはボードーの口に手を当てて、押さえ込んだ。
「な、何すんだよ!」
「しっ、中に誰かいる」
 ボードーとゲタも、急に気を引き締め、全身目耳となって小屋を探る。
「そういえば妙な気配がするな」
「一人や二人じゃない。もっと大勢だ」

 遅れてジン、トール、カミュの三人も上がってきた。
 ケインたちが小屋の手前まで行きながら、徐々に下がってくるのを見て、ジンとトールは身構えた。
 しかし、カミュは無邪気に大声を出した。
「あれっ、どうしたの? なんで中に入らないの?」
「バカ!」
 トールがカミュの口を押さえたが、遅かった。

「ばれたか」
 小屋の戸がバタンと開いた。
 中からは刀や槍を持った屈強な男達が次々と現れた。全員、目の部分だけ開けた布で顔を覆っている。
 ケインはササッと目を左右に動かした。
「山賊か。五人出てきたが……中にもまだいる」
 外に出てきた賊のうちの二~三名が動いた。
「うおりゃあ~」
 ゲターとボードー、そしてケインが剣を抜き、応戦した。
 ジンの眉間のしわが深まる。
「こいつらも鳳凰山くずれか……」
 相手の無駄のない動きと太刀筋が一定の訓練を受けた者たちであることを物語っていた。
「まずい。こいつら、本当にできる。引け! ケイン、ボードー、ゲタ、引け!」
「引く? 冗談じゃない。もう逃げないぞ」
 山賊の五人や十人ものの数ではない。そう思ったケインだったが、その読みが甘かったことが、じきにわかった。
 すでにかなり体力を消耗していたケインらは苦戦を強いられた。逃げようとしても相手はぴったりついてくるので、もはや、引くにも引けない。
 ケインら三人を見捨てるわけにはいかず、ジンら残りの三名も加勢に出ようとした矢先、ゲタとボードーが賊につかまってしまった。
「剣を捨てろ。こいつらの命はないぞ」
 山賊の首領らしき男がゲタに刃物をつきつけた。
 その隣でも別の男がボードーの喉元にナイフを当てていた。
 ケインは動きを止めた。
「どうする?」
 トールとカミュは戸惑いながら、視線をジンに。
 ジンは剣を土に突き刺した。
「わかった。仲間を……」

 その瞬間、つむじ風が舞った。
 ボードーにナイフを当てていた男が倒れた。
 したたる血。何者かに斬られていた。
 とっさにボードーは身を翻し、ついでに武器も拾った。
 ケインも、ゲタを抑えていた男に斬りかかった。
 男は身を翻し、ケインの刃は届かなかったが、ゲタは解放された。
 山賊たちはうろたえた。
「マスールが斬られたぞ」「本当に斬られたのか?」「もう一人いるぞ。七人目だ」
 カミュはきょろきょろと辺りを見回した。
「え? ひょっとして……」
 山賊が一人、そして、また一人、倒れた。

 山賊たちが見えない七人目に気をとられている隙に、ケインは首領らしき男に剣を構えて飛びかかった。慌てた首領もまた剣で応戦する。
「鳳凰山くずれなどものの数では……」
 ケインは自信を持って挑んだのだが、相手は意外にも強い。
「できるじゃねえか。こいつが何で鳳凰山くずれなんかに……」
 一人でも余裕がないのに、背後からもう一人の賊が近づいてきた。
 やられる!
 そう思った瞬間に加勢が入った。
 ゲタにしても小さい。ボードーにしては細い。こんなちっこいのはカミュ、いや、違うな。もっと小さい。あいつだ!
 二人刀を構えながら、背と背を合わせた。
「戻ってきたんですか?」
「うん」
 ラシャとケイン、互いに互いを信頼しきれないものの、背を預けあっていた。
 いつも、稽古で敵味方に分かれて戦うときは、ほとんど加減なしにやりあった。
 逆にケインとラシャが味方として組むと、同士討ちのようなことを始めるので、そのうちゴンは二人を組ませなくなった。
 つまり、この二人が成功裏に共闘したことは今までに一度もない。
 だが、このときは本物の敵を前に、さすがに力を合わせて闘わざるを得なかった。
「行きますよ」 
「ああ」
 ケインとラシャ、同時に前に出て、それぞれの敵と刃をまじえた。

 ラシャが参戦と同時に不意打ちをくらわせる形で三人を斬ったが、その後は敵も戦意・形勢ともに立ち直り、簡単にはいかなくなった。
 ケインもラシャも押され気味。「鳳凰山くずれ」と馬鹿にできる相手ではなかった。

 ジンの瞼はこんなときにもほとんど閉じている。いつもよりやや広めに開いているというだけで、瞑想をしているかのような薄く開いた伏し目。それで正確に刃を受け止めるものだから、相手は気味悪がった。

 トールは力まかせに押して押して押しまくる。その勢いに山賊の一人はたじたじとなっていた。三人欠けたとはいえ、未だ数で勝る山賊たち、力強いトールの優勢を見た山賊仲間が駆けつけ、トールの相手は二人になった。

 ゲタとボードーはうまく共闘していた。背高のっぽで手足の長いゲタと小柄だが骨太筋肉質で力のあるボードー、普段から仲がいいので気心も知れて阿吽の呼吸。この二人は三人を相手に立ち回っていた。

 カミュはといえば、「ひょえ~」「ぎゃあ~」「うわっ」などと悲鳴や奇声をあげながら、逃げたり追ったりしながら、とりあえず一人と曲がりなりにも互角に戦っていた。

 ケインとラシャはそれぞれの敵一人と戦っていたが、新手が一人加わった。ラシャの相手が二人なら、ケインは一人と、ケインが強いと見れば、ケインの相手が二人になった。つまりラシャとケインは三人の敵と相対していたのだが、ゲタとボードーのようなチームワークはとれていなかった。とはいえ、互いの危機にはそれなりに援護しあった。
「こいつら、俺らを生け捕りにするつもりなのか……」
「僕もそんな気がしてきた」
 ケインとラシャが再び背を合わせた。
 相当腕のたつ山賊であったが、なぜか殺気が感じられない。
「ふん。なめるなよ。そんなに甘くはない」
 ケインが急に動きを速めた。
 ラシャはヒューと口笛を吹いた。
「へえ~、意外と元気が残ってんだな。僕もがんばるか」 
 その瞬間、ケインが「ああっ」っと叫び、左太ももに手を当てた。
「しまった」
 と言ったのは敵方。思わず口を押さえている。
「引け!」
 首領の声とともに山賊はたちまち消えた。その引き際は見事だった。

 入門組一同は一瞬あっけにとられたが、小屋の前に集まった。
 怪我をして、しゃがんでいるケインの横には、ラシャが立っていた。
「ラシャさま!」
 カミュは飛ぶようにラシャに抱きついた。
「よかった。追いついたんだね」
 しかし、ラシャは冷めた口調で、
「ここに来たのは僕のほうが先だ。追いついたのは君たちのほう」
「偉そうな口ぶりも相変わらずだな。ま、いっか。助かったぜ!」
 トールはラシャに近づくと大げさに両手を広げ、ラシャを抱擁した。
 カミュと違い、勢いがよすぎて、ラシャとしては抱きつぶされそうに感じた。
「ううっ、苦しい!」
「すまん、すまん。つい」
 と今度は背中をドンドン叩くものだから、ラシャは咳き込んでしまった。
 ラシャが合流してきて、トールとしては胸のつかえが、とれたようだった。

 ケインはまだ足をかかえてうずくまっていた。嫌味の一言を言うでもなく、ただ黙ってラシャを見つめていた。
「怪我をしたのか?」
 ジンがケインに寄ろうとしたが、
「ああ。だが、たいしたことはない」
 と立ち上がり、さっさと小屋に入ってしまった。
「なら、いいんだが……」
 そして、ジンは立ちすくむラシャの背に手を当てた。
「中に入ろう」
 だが、ラシャは動かなかった。
「何か?」
「ずいぶん変わった山賊だよね」
「ああ。私も気になった」
 ほぼ互角に戦っていた。
 最初にラシャとケインが三人を無力化したとはいえ、それでも山賊側が有利だったのではないだろうか。
 山賊側の仲間ではなく、ケインの負傷と同時に、号令一下、瞬時に消え、しかも斬られた仲間も運んで行った。
「鳳凰山《くずれ》だと思っていたのだが……」
「あれは鳳凰会士そのものだね」
「黒岩岳という目標地点を設定すると、どの道を通っても鳳凰山くずれの拠点が多い地域を通過することになる。だが……」
「もっと確実な《敵》を用意してたんだ」
 ラシャは地面を見つめていた。血痕が残っていた。
「大丈夫、会士なら医務方がすぐに処置するだろう。大事には至らない」
「そうだね」
 ジンとラシャも小屋に入った。


 試験を伺っていた剣山の師匠たち。
「思わぬ展開になりましたな」
 ゴンの声が心なしか明るい。入門組の活躍に内心狂喜しながら、その喜びをかみ殺していた。
「最初、ラシャさまは何をしたのだ?」
 スズリは手の油ですっかりつややかになった顎鬚を、このときはむしるように指でつまんでいた。
「けが人は大丈夫なのか?」
 そう低い声でうなるようにつぶやいたのは、いつのまにか部屋に入ってきていた上級担当のカブトだった。
「あの~、私はどっちを見ればいいのですか? 入門者ですか? それとも上級者のほうですか?」
 千里眼のカズも生身の人間。重点は一つに絞りたい。
「両方だ! いつも山全体を感知しているだろう? 二箇所見るぐらい造作もあるまい」
 ナグールは興奮していた。特にラシャの活躍に。
「はあ。見るだけなら……。しかし、同時に何箇所もの報告はできません」

 山賊は実は剣山の上級修行者が変装したものだった。上級者のほうもそれが訓練の一部になっていた。
 課題は山賊を装い、入門者が期間内に目的地に達することを阻むこと。
 ただし、入門者に怪我をさせてはいけない、正体を悟られてもいけない、襲撃は二回まで。なお、川岸から矢を打ったのも彼らだったので、今回が二回目である。その襲撃も一定時間以内とするなどさまざまな条件がついていた。
 予定のシナリオは、いくつかあった。受験者全員を捕縛する。縄抜けできればよし、できなければ黒岩岳にはたどり着けない。あるいは、一部を捕縛して連れ去り、残りの受験者にそれを追わせる。いずれも受験者は時間とエネルギーを消費する。
 つまり、ケインの怪我は、あってはならない事故であった。ケインの速攻に危険を感じた上級者が余裕をなくした瞬間の出来事である。上級者にとっては、入門者に怪我をさせてしまったことも評価に響くが、まして、最初の三人のように入門者の反撃に負傷するなど大幅な減点である。
 唯一、上級者の狙い通りになったのは、向こう岸から矢を射て受験者たちを迂回させたこと。それによって入門組一行は余裕を持って黒岩岳に到着することができなくなった。


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黒岩岳

 小屋の中ではジン、トール、カミュがラシャを囲んでいた。ラシャの合流にカミュは喜び、それまで険しかったジンの顔もややほころんでいた。
 ケインとゲタ、ボードーも小屋の中で座っていたが、この三人とほかの四人の間には見えない一線が引かれていた。

 ラシャが最初に三人を倒した以外、誰も敵に一太刀も浴びせることができなかった。
 ケインら三人にしてみれば、すべてがラシャの手柄であるかのような場の雰囲気がおもしろくない。
「会士にしては弱かったな」
 とつぶやいた。
 トールはあくびをしながら横になった。
「こちらは敵と思って本気でかかったが、むこうは加減していたんだろう」
「いや、ラシャさまの動きは速かった。私にも見切れなかったし、おそらく上級者もそうだったんだろう」
 ジンはちらとラシャを伺ったが、ラシャは黙っているだけだった。ジンはラシャの隠された実力に気づきはじめていた。
「暗かったしな」
 トールの声は今にも寝入りそうにふにゃふにゃしていた。
「なにはともあれ、明日は全員そろって黒岩岳に到着できそうだな」
 ジンはそのことに何より心からほっとしていた。この行程では狩りおよび炊事をしている暇はない。したがって、肉食問題も起こらない。
 ケインはといえば、足に手をやりながら、難しい顔をしていた。
「痛むのか?」
 ゲタがケインの傷を見ようしたが、
「いや、たいしたことはない」
 と追い払われた。

「猪はうまかったな」
 せっかくくつろいでいた場の雰囲気が、ケインのこの一言で、一気に硬直した。
 ゲタとボートーですら、頬がひきつった。
 うとうとしかかっていたトールだが、飛び起きてケインの襟をつかみ上げた。
「今、その話をするか?」
「うまかったから、うまかったって言っただけだ。トールだって、うまいうまいって食べてたじゃないか」
「いやっ、それはっ、そのっ……うまかったが……」
 言ってから、しまったとラシャを振り返った。
 ラシャは横になって背を向けていた。小さな背中が震えているように見えた。
 カミュが寄り添うようにラシャの肩を抱いた。

「もう遅い。寝よう」
 ジンが横になると、トールはそのそばにドスッと腰を下ろした。
 ゲタ、ボードーも横になった。
 カミュとラシャは寄り添うようにして寝た。

 ケインも横になったが、目はぱっちり開けていた。ラシャのほうを見ているのだが、いつもの挑戦的な目つきというよりは、自分と戦っているような苦悶が浮かんでいた。
 ラシャもまたカミュの寝息を聞きながら、眠れなかった。何度も寝返りを打った。
 暗闇の中、ケインとラシャの目が合った。
(助けたつもりかもしれないが、俺を懐柔しようったってそうはいかない)
 ケインの目はそう言っているようであった。
(いつか、決着をつける)
 とも。 
 だが、ラシャにはケインの《殺意》がこれまでより薄らいでいるように思えた。
 相変わらず憎憎しいことを言ってくるが、ラシャに向かってというよりは、憎まねばならないと自分自身に言い聞かせているようでもある。


 次の日もまた、朝から駆け足の旅だった。下りが続く。前日の疲れからか足が笑う。下り坂は循環器系には楽だが、上り坂より足に来る。怪我をしやすいのも下りだ。

 ジンは珍しく遅れがちのケインに声をかけた。
「ケイン、大丈夫か?」
「うん?」
「足が少しフラついてないか?」
「そんなことない。平気だ」
「なら、いいんだが……」
 ケインは器用になんでもこなすが、足腰が強いほうではなかった。迂回したがらなかったのも、そんな自分の弱さがわかっていたからでもある。しかも、昨日、足に刀傷を受けていた。たいしたことないと思ったが、意外と深かったようで、かなり痛む。「引け」というジンの指示を無視して戦い、受けた傷ということもあって、何でもないかのように見栄を張った。特にラシャには知られたくなかった。「それ見ろ」とバカにされるのが癪だ。
 いつもは先頭に立って組を率いているケイン、このときはどちらかといえば一団の足をひっぱっていた。そのことが実技主席を自負するケインとしてはやりきれない。かなり無理してペースを保っていた。
 しかし、そんな無理がたたって大きな石や岩からなるゴツゴツした道で足場をとらえそこねた。
「あっ」
 ケインが立ち止まると、トールも歩みを止めた。
「どうした?」
「いや、何でもない」
 ケインはかろうじて立っていたが、動けないようだった。
「何でもないって顔じゃないぞ」
「少し……ひねった……かも」
「お~い、休憩だ!」
 トールは前を走る仲間を止めた。
 異常を察知してゲタとボードーがケインを両脇から支えた。
「そんなにしなくていい。大丈夫だ」
 ケインは無事をアピールするために歩いてみせようとしたが、
「いっ……つ……」
「やっちまったな」
 トールは困惑顔。
「目的地までは原則徒歩だが、怪我人が出た場合は馬で運んでもいいことになっている。しかし、このあたりに馬を借りられるようなところは……」
「たとえ馬があってもあまり役に立たない。最後の上りは急な岩場だ。普通の馬には登れない。登れたとしても、その先は人一人やっと通れるぐらいの尾根道で、その左右は深い断崖絶壁。訓練を受けていない馬などしり込みして進まなくなる。進んだところで一緒に奈落の底に落っこちるのが関の山だ」
 ジンの眉間のしわが再び深まっていた。
「このぐらい大丈夫だ。歩くよ」
 とケインは再び進みだした。
「だが、走れないだろ?」
「……」
 さすがのケインも強がってばかりもいられなかった。
「ジンは痛み止めを持ってるだろう?」
 リーダー役のジンには救急用の医薬品が支給されていた。
「まあな」
「それでなんとかしてくれ」
「無理をすれば治らなくなる」
「鳳凰山の医術を持ってすれば、治せるさ」
「そうかもしれないが……」
 ジンはケインの足首に湿布をしてやった。
「ありがとう。すっとする」
「そうか。そっちは大丈夫なのか?」
 ケインは左の太ももを押さえていた。
「かすり傷だ」
「ならいいんだが」
 たった今くじいたのは右足首、太ももの切り傷は左脚、ケインは両足を故障してしまったことになる。
「休んでいる時間はない。行こう」
 ケインは立ち上がり、歩き出した。
「本当に大丈夫なのか?」
 心配するボードーにも、
「たいしたことはない。もう平気だ」
 その足取りは一見しっかりしていたので、仲間たちは、大丈夫そうだと安心して進みはじめた。
 ケインが走り出すと、
「よし、行くぞ」
 とみな走り出した。

 捻挫はくじいた直後には激痛を感じるが、その後は意外と普通に歩けたりする。大丈夫だと思って酷使すると後で《来る》のだ。そして、このときは、走りに走った。
 比較的平らな道はよかったが傾斜のついた道や岩場などではケインの表情にかげりが見えた。
「大丈夫か?」
「ああ」
 しかし苦しそうな表情は隠せない。
「肩をかしてやるよ」
 ゲタがケインの左腕をとった。
「俺も」
 ボードーが右脇から手を差し伸べた。
「いや、それでは遅くなる」
「その足じゃあ、無理だよ。歩くのも、まして走るのは……」
 ボードーの言葉にゲタもうなずく。
「山頂まで、まだ半日以上あるぞ。お前らだって俺をかついで走れるものか」
 ゲタはふとケインの脚を見た。
「あれ? それ血じゃないか?」
 左の太ももを覆う布が真っ赤になっていた。ふさがったと思った傷が開いてしまったようだった。
「見せてみろ」
 ゲタとボードーが抵抗するケインのズボンを脱がした。パクッと開いた傷から血がトクトク流れ出していた。
 それを見たジンの顔色が変わった。
「なぜ言わなかった?」
「昨日は、それに今日も……たいしたことないと思ったんだ」
「これでは歩かせられない」
 トールは思わず神山・剣山方面を振り返った。
「シーボクがあればな……」
 シーボクとはアイベックスのような尖った角を持つ草食動物だ。角があるために騎乗には注意を要するが、馬ほどの大きさで、速さ、力強さともに馬に匹敵する。急な崖の上り下りをものともしないため、山岳地帯では馬よりもむしろこのシーボクのほうが有利である。鳳凰山では家畜化に成功し、飼育・騎乗していた。
「野生のシーボクはめったに人前に姿を現さないし、まして……」
 トールはちらちらとラシャをうかがいながら、そのあとは、わざとらしく大声で言ってみた。
「出てきたところで~、人間を乗せては~、くれないだろうなあ。やっぱり~」
 それまで体をほぐしたり、カミュとマッサージしあったりしていたラシャが顔を上げた。「シーボクを呼んでほしい?」
 冷めた、というより、しらけた声だった。
「呼べるのか?」
 トールの目が輝いた。すすすす~っとラシャに寄る。
「食べないって約束するなら呼んでもいいよ」
「当たりまえだ!」
 トールは手を上げて誓うようなジャスチャーをした。
「ルルは食べたじゃないか」
 亡き友を思い出してラシャの瞳がうるんだ。
「あ~、あれは猪だ。役に立つ動物を殺したりしない」
「ルルは役立たずだって言いたいわけ?」
「ああっ、もうっ、わぁった。いくらでも謝る。とにかく食べないから早く呼んでくれ!」
 トールは手を合わせて拝むように頼み込んだ。
 ラシャは答えなかった。ケインのほうを見た。本来トールではなくケインが頭を下げるべきなのだ。
 当のケインはうんでもすんでもない。
 ラシャは何も言わずに、指をくわえるとヒューヒュルルルルと器用に音を立てた。
 しばらく待ったが、何も現れない。
「この辺にはいないのかな……」
 さらに、ラシャはふところから小さな笛を取り出して、吹いた
 ピー、ヒュルルルル。
 やはり、何も現れない。
 ケインはゲタやボードーが止めるのを振り切って立ち上がった。
「無駄だ。来ない。歩きはじめよう。待っていたら進まない」
 ラシャは笛を見つめながらつぶやいた。
「ここらでは僕より狼のほうが信頼されてるんだな」
「何? 狼がどうしたって?」
 トールをはじめ、ジンやカミュもラシャを注視した。
「おととい狼を使って警告したんだよ。僕らが進みそうな道沿いの動物に、人間に食べられちゃうから近づくなってね」
「はあ? それで昨日も今日も道中に獲物がいなかったのか」
 トールは納得すると同時に恨めしそうにラシャを見た。
「今、来いって呼んでも、友達でない限り来てくれない。この辺には親しい友達はあまりいないんだ。神山近辺のシーボクがこのへんまで足をのばしてくれていたら、つかまるかもしれないけど、あまり期待しないでね」
 怒ったようなラシャの目を受けながらトールは頭をかいた。
「こ、困ったな……」
「とにかく、歩くしかないってことだよな」
 ケインはふてくされたように、左右両足をひきずりながら進みだした。
 ゲタとボードーが支えに回った。
 ケインも仲間の手助けを、もう断らなかった。さすがに限界だったのだ。
 ジンは早足に歩きながら、言った。
「ゲタ、ボードー、ケインを抱えて走れるか?」
「やってみる」
「疲れたら、交代しよう」
 二人はうなずいた。

 それからはゲタ、ボードー、ジン、トールが交代でケインを補佐して進んだ。体格的に小さいカミュとラシャはケインを支えることはできないとしてこの負荷は負わされなかった。
 もちろん、一団はそれまでのようには進めず、ペースが落ちた。
 ラシャはときどき笛を吹いたが、依然としてシーボクは現れない。

 日が傾いて、まもなく夕刻を迎えようとしていた。
 目的の黒岩岳が見えた。強健な剣山修行者の七人。絶好調なら、明るいうちにたどりつける距離だったが、普段のぺースで進めない七人には、黒岩岳頂上は遠く手の届かない天上界のように思われた。
「今日のうちに山頂にたどり着くのは無理か……」
 誰とはなしにそんな弱音が漏れた。一行の誰もが悲観的になってきていた。
「俺をおいていけ」
 とケインが言った。
 しかし、ジンはかぶりをふった。
「それはできない。全員で到達しなければ意味がないんだ」
「俺のせいで不合格になったと言われたくない」
「君をおいていけば、怪我した仲間を見捨てたことになる。やはり不合格だ」
「そうなるとは限らない」
 昇級試験の合格基準は実は曖昧だった。受験者への通達どおりでないらしいことを入門の受験者たちも知っていた。
「不合格なら不合格でいいんじゃないか? みんな仲良く入門をやり直そうぜ。ゴン師匠はいい人だしな」
 トールはこんなときも明るさを失わない。
 しかし、そんな冗談もケインにとっては不愉快だった。
「気休めにもならない」
 笛を吹くラシャにもケインはイライラをぶつけた。
「もう、いい加減やめろよ。気がおかしくなりそうだ」
 清涼感のある音だったが、笛の音を聞くたびにケインの神経は逆なでされていた。ゲタやボードーの手助けは受け入れたが、いつも敵意を持って接してきたラシャの世話にだけはなりたくなかった。
 ラシャが笛を吹くたびに、ケインにもシーボクを待ち望む気持ちが沸き起こる。そして、待てど暮らせど結局シーボクは現れないのだ。絶望感で足の痛みが増す。頼りたくないものを頼りにし、さらに期待を裏切られて打ちひしがれる自分というのが途方もなく嫌だった。

 ラシャは笛を吹き続けた。
「不合格になりたくないんだ」
 とピーピー吹く。
「畜生! 走ってやる」
 ケインはボードーとゲタを振り切って一人で走り出した。右足首がズキズキ痛んだ。左腿はキリキリする。結局、痛みに耐えかねて、五十馬身ほど行ったところで膝をついた。
「畜生、畜生、畜生!」
 ケインは拳で地面をたたいた。

 そのときだった。
 グッグググ、グググググ。
「この音は?」
 一同の行く道の右側は岩壁になっていた。ググググという異音はその上から聞こえてくる。
 見上げると、岩壁の上端に白い獣。ヤギと馬と羊を足して三で割ったような姿。頭上には大人の腕ほどもあろうかと思われる太く立派な角、節目がごつごつとしており、まるでアンモナイトの渦を引き伸ばしたよう。オスのシーボクだった。
「ラミナス!」
 ラシャが叫ぶと、呼ばれたシーボクはほとんど垂直とも思われる崖を一気に駆け下り、ラシャの前にやってきた。
 ラシャはラミナスの頭を抱き寄せた。
「ラミナス、ラミナス~。よく来てくれたね。この辺はお前の縄張りじゃないだろう? ライバルや肉食獣に追いかけられなかったかい? そうか、そうか。よかった」
「やっと来たか!」
 トールは両手を上げて喜んだ。
 ジンは、ほっとした表情をみせながら、あくまでもシビア。
「感動的な再会を邪魔して悪いんだが、急ごう。日が暮れてしまう」
「わかった」
 ラシャはシーボクをケインのそばに連れて行った。
「ラミナスだよ」
 ケインは膝をついたままシーボクを見上げたが、ラミナスはケインなど気にかけていない様子。
「ラミナス、ケインを乗せてくれる?」
 ラシャが問いかけると、
 グググググ
「君が嫌そうにしてるってさ」
「……」
 確かにケインはラシャの《友達》に乗せてもらうなど、あまり気がすすまなかった。
「野生のシーボクだからね。角は切ったり丸く研いだりしてないし、鐙(あぶみ)もないけど、何とか乗ってよね。それとも綱で巻きつけたほうがいい? この上、シーボクから落ちて首の骨を折ったりしたら、目も当てられないからね」
 淡々と嫌味を言うラシャをケインは地面に座りこんだまま苦々しく見上げた。
「俺が怪我をしていると思って、言いたい放題だな。お前が振り落とせって命令するんじゃないのか」
「それもいい案だね。で、どうするの? 怖いから乗りたくないってこと? せっかく呼んだのに」
 ラシャはケインを見ず、ラミナスの角を撫でていた。巨大な巻貝の渦を引き伸ばしたような立派な角が後方に弧を描いて伸びている。ラシャは、このぼこぼこした角に触るのが好きだった。
「ケイン、強がってる場合じゃないだろ。乗せてもらえ」
 ゲタとボードーがケインをかつぎあげようとすると、
「自分で乗る」
 ケインは二人をふり払い、びっこを引きながら、まずは恐る恐るラミナスに触れ、それから抱きつくように乗った。ラシャをちらりと見ながら、内心ビクビクしていた。
「じゃあ、行こうか」
 ラシャはラミナスの背を押した。
「うわあああっ」
 ずり落ちそうになったケインをラシャが支えて止めた。
「格好よく乗ろうとしないで、しっかり抱きついたほうがいい」
「わ、わかってる」
 ケインがとりあえずシーボクに乗った(抱きついた)のを確認したジンは、
「じゃあ、また走るぞ」
 と指示を出した。
 一行はうなずき、一斉に走り出した。
 ケインを乗せたラミナスは、ラシャのすぐ前や後ろを伴走をするように進む。
 ときどきラシャがラミナスに話しかける。それは人間の言葉であることも、シーボクの発するググググという異音に似た音の場合もあった。
 そんなラシャはケインがいつも剣山の道場で見る傲慢で鼻持ちならない《クソ生意気なガキ》ではなかった。動物と遊ぶ無邪気で愛らしい子ども。その笑顔も屈託がない。人間相手には、仲良しのカミュにも見せないようなやさしい微笑みだった。
 ケインが不思議そうにラシャを眺めていると、ラシャの目線がさっとケインに移動した。
 人間を見るときは挑戦的な目つきに戻る。特にあまり仲がいいとはいえないケインへの視線は厳しい。
「何?」
「いや、別に何でも……」
 ケインは顔をそむけた。


 各々が走り出したら、黒岩岳ふもとまでは早かった。
 しかし、そこから頂上までは急な斜面が続く。
「さあ、急ぐぞ。暗くならないうちにたどりつかないと、いよいよ難しくなるからな」
 地平線に向かう夕日が赤々と燃えていた。

 斜面には、ところどころ鎖が設けてあるが、足場の悪い急斜面を上るのはやはり骨が折れた。
 それに対してシーボクは崖のエキスパート、すいすいと行く。
「いいなあ。俺も乗りてえ」
 トールはうらやましそうにケインを見た。
「乗り心地は最悪だよ」
 ググッ
「うわああああ」
 ラミナスがケインを振り落とそうとするように揺すりはじめたので、ケインは必死でしがみつかなければならなかった。
「乗せてもらって文句言っちゃあだめだよ。怒っちゃったじゃないか」
 ラシャがラミナスの背をなでて宥めにかかった。
「こいつに人間の言葉なんかわからないだろ!」
「態度でわかる。ほら、こうやってなでて、ごめんねって言ってよ」
「そんなこと言えるか!」
 ラシャは目を細めた。
「振り落とされたい?」
「う……」
 ケインはボソッと何かつぶやいた。聞こえないような小声だが、謝ったようで、ラミナスは再びおとなしく歩き出した。
 ケインは半分ずり落ちたような姿勢を立て直すのに苦労したが、なんとか座り(抱え)直した。



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落下

 ほとんど崖のような急斜面を上りきると、景色が開けた。
 沈む夕日が空を黄金色に染めていた。
「さあ、いくぞ。ここを抜ければ黒岩岳だ。気をつけていこうぜ!」
 トールが先頭を切って進む。
 進む道は左右が千尋の谷という尾根道だ。しかも足場のごつごつした石はしっかり固定しているとは限らない。

 尾根道半ば、踏み出しかけて、トールは躊躇した。
 足元の石がグラグラしたのだ。
 ケインを乗せたシーボクはトールの横を通り過ぎた。人が一人通るのがやっとと思われるような狭い道なのだが、シーボクは何食わぬ顔でトールを追い抜いていく。
 どこにそんな幅があるんだ? と不思議そうなトールなど無視して黙々と進む。
 行き先はラシャの指示を受けてわかっているようだった。
 幅のない道も、ガタガタする石の上も難なく進む。
 シーボクが足を乗せたから大丈夫だろうと思ってトールが足を掛けると、グラグラしたりするので、人間の進む道の参考にはあまりならない。
「俺も捻挫すればよかったな」「まったくだ」
 ゲタとボードーは冗談とも本気ともつかないことを言いながら、シーボクの尻尾を見つめていた。

 小柄で身の軽いラシャやカミュは大きい少年たちよりも楽々と進んでいた。
 しかし、それに油断したのか、カミュの足元の石がぐらついた。
「えっ、えっ、あれっ……うわああああああ」
「カミュ!」
 落下しかかったカミュの腕をラシャが捕らえた……が、そのラシャもまたバランスを崩してしまった。
 さらに、前を行くトールがラシャを支えようと手を伸ばしたが間に合わなかった。
 崖を少しずり落ちたラシャは幸い木の枝をつかんで止まっていた。
 しかし、枝がたわみ、裂け目が入った。ラシャとカミュの体重を支えられる強度は……ない。
 トールは足場の悪い崖を這いつくばりながらラシャとカミュのぶら下がる木に向かって降りて行った。
「なんとか持ちこたえてくれ!」
 そして、トールがラシャの手首をつかもうとしたそのとき、
 バキッ
 と枝が折れた。
「ラシャさ……」
 トールは落ちていく二人に手を伸ばした。届かないとわかっていても、その手を伸ばし続けた。
「畜生、あと少しなのによ~! なんてこった」

「ラシャさま~」
「カミュ~」
 落ち行く二人は互いの名を呼び合った。
 二人は瞬く間に深い谷へと沈み、尾根道の仲間たちからは見えなくなってしまった。

 崖にへばりついたまま放心しているトールにジンは手を伸ばした。
「上がって来いよ」
 トールはジンの手を取り、ジンを見上げて、
「死ぬようなことは……ないよな……」
「ラシャさまは大丈夫だろう。カミュは……」
 鳳凰会士は崖を降りる(落ちる?)訓練も受ける。命綱もつけずにあえて危険箇所を渡るのは、落ちても命を落とすことはまずないし、それもまた課題の一部であったからだ。ラシャの身の軽さ、敏捷なことは入門組の中でも抜きん出ていた。しかし、カミュはあまり器用ではなかった。なにかとよくドジを踏む。ジンはその点に不安を感じていた。
「カミュだって剣山会士だ。大丈夫だ」
 そうあってほしい。そのはずだ。トールが願うそのそばで、ジンは悲観的だった。
「普段の稽古中にも命を落とすものがないわけではない」
「お前、暗いことばかり言ってんじゃねえ!」
 トールが怒鳴ると、
「すまん」
 珍しくジンがトールに下った。
「おい、あれは?」
 トールは黒岩岳から落ちるように走る白いシーボクを認めた。
「ラミナスじゃないか?」
「ケインを乗せてないな」
 ラミナスは尾根道を渡りきり、とっくに黒岩岳山頂にたどりついていた。そこでケインを《振り落とし》、ラシャの危機とみるや後を追って駆け出した。
「俺たちは……どうする?」
「とりあえず黒岩岳に行くしかないだろう。そこで二人を待つ」
「待つって……。生きているとは思うが、谷底から上ってこられるわけ……」
 言いかけてトールは指を鳴らした。
「あっそうか。シーボクなら……。でも、それってズルじゃないか? 徒歩で上らなきゃいけないのが原則だ」
「怪我をしていれば別だ」
「あ~、ううむ……、何か複雑だな。無事でいてほしいが、こうなると多少怪我もしていてほしいな」
 トールはジンに支えてもらいながら、元の尾根道に這い上がると、さぐるように足を前に出し出し、念入りに足場を確かめながら進んでいった。


 谷底は靄がかかっていた。その上、もう、暗くなりかけていた。

 ラシャは生きていた。
 落ちながらも適当なところで岩壁を蹴り、また駆けるように急斜面の岩壁を下り、木の枝をつかみ、見事に着地。
 だが、ラシャが降りた地点からカミュの姿は見えなかった。
「カミュ! カミュ~」
 大声で呼んだ。
 それほど離れたところに降りた(落ちた)はずはない。
「どこだ? 返事がないということは気絶しているか、声が上げられないような怪我をしているかだ。まさか死……!? いや、絶対そんなことはない」
 目をつぶり、神経を集中し、辺りの気配をうかがった。
 ラシャのアンテナにひっかかったのはカミュではなく、
「ラミナス!」
 ググググググッ
 異音と共に現れたラミナスはラシャの顔や首、そのほか全身を嘗め回した。
「大丈夫だよ。ボクは平気。それよりカミュを探してくれないか」
 クオ~ン
 ラミナスは横を向いて鳴いた。そして、ググググ、ググググ。
「あっち? 先にカミュを見つけたの? 怪我してる?」
 ラミナスの顔が向く方角へラシャは走り、ラミナスはその後ろに続いた。

 カミュは倒れて、額から血を流していた。
「カミュ、カミュ~~~~!」
 ラシャが呼んでも返事をしない。
 脈を診る。
「生きてる」
 まずは、ほっと一息。
 さすがにカミュもそのまま落ちたわけではなかったらしい。
「足がおかしいな」
 足の向きが不自然だった。ラシャはカミュの体を調べはじめた。あちこちに傷があった。かなり色々なところにぶつかったと見える。 
「足の骨が折れている。でも内臓は大丈夫そうだ。頭はどうかな……。どうしよう? このままにしたほうがいいのかな。動かしてもいいのかな」
 ふと上空を見上げた。頂上は見えない。
 暗くなりかけると、闇の深まるのは早い。すでに視界は悪くなっていた。
「う……ん」
 カミュが唸った。
「あ、よかった。気がついた?」
「い、痛い」
「どこが痛い?」
「う~ん、頭と足と、背中と……ほかにもあちこち痛い」
 体中が痛くて、どこが痛いのか実はカミュ自身にもよくわからない。
「動ける? あ、足は動かしちゃだめだよ」
 カミュは腕を上げた。首も問題なく動く。
 ラシャはカミュが上体を起こすのを手伝った。
「骨折したのは足だけだね」
「ズキズキする。特に右足。でも……左も痛いな」
 だんだん《本当に》痛い場所がはっきりしてきた。
 右脚が折れているのは一目瞭然だったのでそのままにし、左脚を動かしてみた。
「痛たたた」
「左も折れてるの?」
 ラシャはカミュの靴を脱がせて指を動かした。
「足の指、自分で動かせる?」
 カミュは指を動かすことができた。
「骨は折れてないみたいだ。打撲かな。ジンの薬箱が欲しい……。落としてくれないかな」
 しばらく山頂を見上げていたが、ふと思いついたようにラシャは懐から紙と筆を取り出すとすらすらと書きつけ、ラミナスの角に結びつけた。
「悪いけど、もう一度登ってくれる? ジンの薬箱を持ってきて」
 ググッ
 ラミナスは飛び跳ねるように駆け出したかと思うと、崖に飛びつき、そのままの勢いで駆け上って行った。



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