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文化三年 五月某日 周庵先生の長屋

 うっとうしく降り続いていた雨が止んで、本当に久しぶりの青い空とお天道

さまを拝むことが出来たその日、あたしも久々に、長屋の木戸の前に立った。

 神田豊島町は喜兵衛店、周庵先生の長屋だよ。

 木戸と言っても昼日中は左右の柱と、忍び返しのついた屋根があるばかりさ。

 夜四つになったら、横っちょに片付けてあった板戸をはめて錠を下ろすんだ。

 屋根の下の鴨居には、長屋に住む者の職業を記した看板代わりの名札や、井

戸のあることを示す井桁のしるしなんぞが、ずらりと打ち付けてある。

 あたしは、腰に手を当てて、それを眺め上げた。

 周庵先生の名札に医者とは書いていない。ただ『金創』と、それもなんだか

自信なさげな小さな字で書いてあるばかりだ。

 金創っていうのは、刃物傷のことだけれど、一応、怪我ならなんでも診るら

しい。

 だけど外科とは書かないのは、そう書くと長崎帰りと勘違いされたり、そう

でなくとも、皮膚病やら何やら、他にも色々、厄介なのが転がり込んできてし

まうことが、あるからだということだった。

 典型的な、『でも医者』と言ったところだろうさ。

 でも医者がお分かりかえ?

 他に特技も無いし、医者に()()なるか……てな具合のいい加減なお医者のこ

とさ。別にお免状も何もありはしないから、誰でも今日からお医者になること

は出来る。

 食っていけるかどうかは、また別のことだけれどね。

 そもそも、まっとうなお医者なら、こんな裏長屋に住んでいるわけは無いん

だ。

 小柄で、優しげな顔立ちで、どちらかと言えば本道(内科)の先生といった

方が、それらしいようなのに、よっぽど匙加減には自信が無いのに違いないよ。

 

 木戸をくぐり、路地に入ってすぐ右手のとば口が、先生のうちだ。

 あいにく先生は留守のようだった。 

 もとより戸締まりをするような家ではないから、勝手に上がり込む。 

 六畳の部屋の中はがらんとしていて、百味箪笥だの薬研だのといった、普通

お医者のうちにありそうな物は、何一つとして無い。火事で焼けちまったせい

なのか、それとも、もとから無いのかまでは、分からないけれどね。

 梯子は外されていたけれど、狭い二階があって、そこからかすかに薬草めい

た、妙なにおいが漂ってくるのが、せめてもといったところだ。

「おやおや?」 

 土間に、杖が転がっている。床は敷き延べてあるけれど、寝た様子がない。

飲み差しの寝酒が、まだ半分も残っている。

 あたしは、いっぱしの岡っ引きみたいな顔で、うーんと腕を組んだ。

 どうやら昨夜のうちに、それもずいぶんと慌てて出ていったらしい。

 杖は、先生のものだ。と言って、別に杖に頼って歩いているというわけじゃ

ないから、杖を置いて外出していたって、おかしくはない。だけど、こんな風

に転がっているっていうのは、やっぱりおかしい。

 第一、あの先生が酒を飲み差しにして出かけるというのが変だ。

 ……あんな藪医者でも、夜中に急患が飛び込んで来るなんてことが、あるの

かね?

 あたしは首を傾げながら、先生の飲み差しの燗冷ましをぐいとあおって、そ

の不味さにちょっとむせた。

「ばか。それは子どもの飲むもんじゃない」

「子どもじゃないよう」

 口を尖らせながら振り向いて、

「きゃっ」 

 思わずあたしは、らしくもない悲鳴を上げていた。 

 戻ってきた先生の着物には、点々と赤茶けた血の跡が付いていたからだ。

 よくよく見れば、いつもの半ば羊羹色に変じた一張羅の羽織にも、沢山の血

が染み込んでいるようだった。 

 先生は、どうやら薬箱の代わりにしているらしい風呂敷包みを置くと、驚い

ているあたしを面白そうに見やって、早く着替えを持って来いだなんて抜かし

た。 

「あい――」 

 本当だったら、先ずは啖呵の一つも切ってやるところだけれど、なにしろそ

の血の跡に、すっかり肝を冷やしてしまったものだから、動転して、ついしお

らしく返事をしちまった。 

 先生の体は、別段どうということもないようで、着物に付いている血は、他

人のものらしい。おまけに、いつもより機嫌のいい顔で、

「うまいところへ来たなあ。――ちょいと、まとまったお宝が入ったから、今

夜あたり暑気ばらいにでも繰り出そうか」 

 などと言い出したところを見ると、やはり急な怪我人が出て、呼ばれて行っ

たに違いない。そう考えて、ようよう心を落ち着けて、 

「一体、どうしたってのさ」 

「毎日こう暑苦しいと、人間いらいらして、自然と殺気立ってくるものさ」 

 昨日も二人ばかり死んだ――と、先生は、上機嫌の顔を少し曇らせた。

「喧嘩出入りかえ?」 

「うん――。なに、啖呵のひとつも切って、殴り合ったりつかみ合ったりする

程度ならば、江戸の華というくらいなもので、どうということでもないんだが

……。なにしろ虚勢を張って、使い方も知らんのに、滅多やたらと刃物を持ち

歩いているのが身の破滅だ」

 先生の口調は、いつもと変わりなかったけれど、ちょっと怒っているようだ

った。


 前夜――

~柏木周庵によって語られた話~

 

 その夜、わたしは、手元不如意の時以外は欠かしたことのない、二合の寝酒

を一人愉しんでいた。 

 ところが――

 長屋の木戸が激しく叩かれて、先生、先生と大声がした。

 防犯のために長屋の木戸は、町木戸同様、夜四つに閉じ、明け六つに開ける。

 鍵は月番の者が預かって、更けてから、あるいは早朝に出入りする者があれ

ば、開けてやらなければならないが、眠りの深い若い者や、朝の早い出職の者

に、その役目は難しい。それで大抵僅かな小遣いで、耳ざとい年寄りや、居職

の者が引き受けていることが多いのだが、夜中に時々こうして急患が飛び込ん

でくるものだから、いつの頃からかこの長屋では、わたしが鍵を預かっている。

「馬鹿、静かにしろ。後でわたしが迷惑をする」

 飛び込んで来たのは、渡り中間の留吉という男だ。こういう手合いにしては、

大人しいほうで、愛敬者なのだが、今にもつかみかからんばかりの形相で、

「な、何でも、いいから…先生、早く――」

 ひどく切羽詰まっている様子だった。

「なんだ。喧嘩か」 

 血の気の多い中間達は、まるでそれが仕事ででもあるかのように、のべつ喧

嘩ばかりしており、時には仲裁から始まっての、その後始末は、上得意のうち

だ。

 留吉は、あまり大きくはない目を精一杯大きく見開いて、立て続けに二つ、

こくこくと縦にかぶりを振り、それから思い直したように、ぶるるんと横に振

った。

「先ず、水でも飲んで、息をつけろ。すぐ行く。話は道々聞こう」 

 わたしは、杯の酒を一息に干し、有り合わせの薬をまとめてある風呂敷包み

に、焼酎の入った竹筒を押し込んだ。

 薬篭だの薬箱だのと言った結構な物は、とうに質草になっている。 

 

「馬鹿。そんなに引っ張るな」

 そのはずみに土間に立てかけてあった杖が倒れ、音を立てて転がった。

「いいから、そんなもんは、うっちゃっておきなせえ。いざとなったら、先生

の一人や二人、わっちが背負って行きやすからね」

 杖なんかは無くても差し支えはなかったが、早足自慢の留吉に、こう遮二無

二引っ張られては、さすがに足下が覚束なくなる。歳も歳だが、昔手傷を負っ

た左足が心許ない。

 町木戸のくぐりを通してもらう時、木戸番が露骨に嫌な顔をした。留吉が負

けずにじろりと睨み返している。

 医者は、いつでも無条件に木戸を通れることになっているのだが、わたしの

所へは今夜のように、堅気の者からすれば、ならず者とほぼ同義語である渡り

中間どもが、たびたび飛び込んでくるのだから、たまったものではあるまい。 

 わたしは、留吉の頭を張り、ちょっと首をすくめて通り抜けた。 

「とにかく、急いでおくんなせぇ。藤蔵どんが、生きるか死ぬかの瀬戸際なん

で」 

「なに、藤蔵が――?」 

 藤蔵は、わたしとも顔見知りの中年の中間で、そこはこういう稼業の者だか

ら、温厚で人柄も良く……、というわけにはいかないが、ともすれば暴走しが

ちな若い中間達や、流れ勤めの渡り中間達を押さえる、分別のある男だった。

それが――? 

「それがね、先生。そうじゃぁねぇんだ。藤蔵どんは、止めに入ぇったんだ。

とんだ側杖よ」 

 留吉は、息を切らし、舌を噛みそうになりながら、事の顛末を語った。

 もっとも、留吉は、話などより一刻も早く、偉駄天走りに駆けつけたい風情

だったが、何しろ肝心のわたしが、ついて行けないのだから、仕方が無い。

「ちっ、こんなことなら、四枚肩の駕籠でも、連れてくるんだった」 

 と、留吉が、ぼやいた。 

 留吉の話によると、こういうことだ。 

 


 顛末

~留吉によって語られた話~

 

 どこでもやってることだが、わっちらの屋敷の中間部屋でも、毎晩のように

賭場が立ちやす。

 わっちらの所は、仲間内のほんの遊びごとで、部屋の者を中心に、後はごく

親しく付き合ってる野郎どもしか集まりやせん。

 厄介が起こりやすいから、とうしろう(素人)なんかは、決して呼びやせん

ので。 

 ところが、ね。

 前にも二、三度遊びに来たことのある若いお侍ぇが、友達だと言って町人を

一人連れてきた。見たところ、いい所の若旦那風で、こういう事に慣れている

風情じゃぁ無い。それで、どうかとは思ったんでやすが、その侍ぇというのが、

なにがしとかいう旗本の小倅で、いい金づるになったから、苦情は言いにくい。

それに、その町人も、いかにも金を持っていそうだったからね。 

 ――それで、しばらくはまあ、何事も無く遊んでいたんだが、突然二人が、

喧嘩をおっぱじめやがったんでさぁ。ええ、そのお侍ぇと、若旦那でやすよ。 

 喧嘩の種は、わからねぇ。けど、女が絡んでると睨んでやすよ。お糸だか小

糸だかという名を、口走っていやしたからね。 

 そんなこたぁ、どうでもいいんで。 

 口論が募って侍ぇのほうが、とうとう長い刀(の)を抜いた。

 剣術なんてもんじゃぁねぇ、ただただ滅多やたらと振り回すもんだから、手

に負えねぇ。若旦那は顔を斬られて血を振りまきながら、ひいひい泣きわめく。

わっちらも、遠巻きにして、わあわあ騒ぐばかりでね。なにしろ、下手に近寄

ったら、こっちの身があぶねぇんだ。 

 そのうちに、熊蔵って力自慢が、侍ぇに、後ろから組み付いた。

 しめたと、皆で刀を奪い取ろうとした、その時だ。

 ちょうど、間が悪かったんだな。それまでは、ただ女のように悲鳴を上げて

逃げ惑っていた若旦那が、ものすごい声を上げて、匕首をひらめかせて突っか

かったんだ。まさか、あの優男が匕首を呑んでやがるとは、思いもしなかった。

 侍ぇは、熊に後ろから羽交い締めにされているのだから、どうしようもねぇ。

 腹をずぶりとえぐられて、くたくたとなったんで。 

 慌てて、今度は若旦那のほうを押さえにかかったのが、藤蔵どんだ。

 ちょいと女が騒ぎそうな好い男だったんだが、左の頬をざっくりと斬られて

いて、こうなっては仕方もねぇ。そのせいかどうかはわからねぇが、若旦那、

すっかりとち狂っていてね、線の細い、大人しげな人だったのに、三人がかり

でようよう押さえつけて、やっとのことで匕首を叩き落としやした。なんとか

の馬鹿力ってぇのは、ああいう事だと思いやしたよ。

 その時――、侍ぇのことは、みんなうっかりしていたんだ。

 もう死んだか、生きてたって、虫の息だろうと思っていたんで。それが……

何というか、鬼のような形相で、立ち上がった。下手な怪談なぞより、数段怖

かったっけ。 

 やつぁ、その時、もう目なんか見えていなかったに違ぇねぇ。

 あの野郎、間違えて藤蔵どんを串刺しにしちまったのよ。

 それで、恨みを晴らした気になったのか、またくたくたっとなっちまいやが

った。 


 中間部屋

~柏木周庵によって語られた話~

 

「わっちが飛び出してきた時にゃ、まだ二人とも息はあったようだけれども――」 

 心もとなそうに、留吉は言ったが、二人は、すでに息絶えていた。

 いや――たとえ、息の残っているところへ駆けつけたとしても、どうにか出

来たとは思えない。

 目にする前からそれと分かるほど、濃い血の臭いが立ちこめており、ちょっ

と目眩がするほどに、辺り一面が血の海になっている。

 留吉は、串刺しにされたと言っていたが、藤蔵が刺されたのは、太腿だった。

 おそらく、既に半死半生だった侍の手元が狂ったのだろう。もう少し逸れて

いれば良かったが、あいにく脚の付け根の太い血管を絶たれており、失血して

いた。

「どうして刀を預からなかったのだ」

 こういう場所では、熱くなってつい頭に血が上る者も多く剣呑だから、どこ

の賭場でも大抵、侍の客は入り口で刀を預けなければならない事になっている。

「いえ、預かったことは預かったんですがねえ――」

 仲間内の小さな場でもあり、刀を預かると言っても形式的な事で、部屋の入

り口近くの刀掛けに掛けてあったというのだから、どうしようもない手抜かり

だ。

 その若侍のほうも、匕首で、腹を深く抉られて死んでいる。

 こういった刺し傷は、よほどうまく内蔵を避けていない限り、助けることは

難しい。

 身なりは意外なほど良く、藤蔵を刺した刀もちょっとした業物だったから、

御大身かお歴々かは知らないが、いずれ結構な身分の旗本の子弟なのだろう。

 隅のほうでは、中間達に睨み付けられながら、顔を押さえて若い男が泣いて

いる。

 柔らか物に身を包み、いかにも何不自由なく育った大店の若旦那らしいその

男は、身も世も無いように泣き崩れ、「顔が、顔が」と、口走っていた。

「見せてみろ」

 と、わたしが言うと、言うに事欠いて、下手な医者にかかって疵が残ったら

どうするのだ、という言い草だ。勝手にしろ――と、喉元まで出かかったが、

放って置いて、傷口から毒でも入って死なれでもすると、寝覚めが悪い。

 半ば強引に傷口をあらためると、傷は思いのほか深く、頬を貫通している。

なるほどこれは、痕が残るだろう。わたしのせいにされてもつまらんとは思っ

たが、取りあえず出来るだけの処置はしてやった。 

 留吉も言っていた通り、確かに色白で、役者にでもなれそうな、ちょっと女

好きのする顔立ちだったが、これではどうしようもあるまい。 

 自分が人を手にかけたことや、己の身代わりに、人が一人死んだことよりも、

顔を傷付けられたことのほうが大事である様子が、気に入らなかった。

 おそらく、中間達も同じ思いなのだろう。中の一人が、

「そんな奴ぁ、うっちゃっといておくんなせぇ。俺らぁ、藤蔵どんのために、

先生をお呼び申し上げたのだからよ」

 吐き捨てるように、言った。


料理屋の二階

「――それから?」 

 興味津々、目を輝かせて話に聞き入るあたしに、困ったものだという顔で、

先生は、

「それで、終いさ」 

 苦笑した。 

「じゃあ、このおたからは、どこから出たんだよ?」 

 ここは、さして上等というわけでもないけれど、普段の先生なら、決して足

を運ぶことの無いような、小ぎれいな料理屋の二階だった。店が大川に面して

いるので川風が涼しく、酒は、先生のいつもの寝酒より数段旨かったし、料理

も良かった。

「まあ、中間どもは殺気立っていたようだが、死んだ若侍の亡骸は、親元の旗

本屋敷に届けてやったし、若旦那の方も、親元へ送り届けてやった。双方から

口止め料を取って、藤蔵の葬式代ということにして、三方丸く収まった」 

「あきれた。じゃ、この金は、その藤蔵さんの葬式代のピンはねかぇ?」 

「ばか、人聞きの悪いことを言うのじゃない。受け取った金は、そっくり中間

頭に渡してやった。そこから、葬式代やら、屋敷の留守居の侍へのとりなし料

やら、旗本屋敷まで死体を運んだ中間への酒代やら、もろもろを差し引いた上

で、あらためて、わたしに礼としてくれたものだ」 

 と、先生は、えらそうに胸を張った。 

「それにしてもだよ。二人も人が命を落として手に入ったようなお足でもって、

こう機嫌良く酒を飲んでいるっていうのは、どうなんだよ?」

 そう言ってやったら先生は、ちょっと後ろめたそうな顔をして、「まあしか

し」と言った。そして、

「……金ってやつは、手に入ったらすぐさま一杯くらいは飲んでおかないと、

どんな大金でも、何が何だか分からぬうち、あっという間に無くなるからな――」

 と、しごく当たり前のような――いやいや、普通はそんなわけは無いだろ

う?! ってなようなことを言う。

「ま、藤蔵の通夜代わりだと思いなさい」

 中間達にも呼ばれたが、自分がいても場違いだろうと言った。

 それで、藤蔵さんのことなんか、これっぽっちも知らないけれど、あたしも

少し、しんみりとした。刺した相手も死んでしまっているのだから、どうしよ

うも無い。

 なんとも浮かばれない話だ。

「でも――結局、その馬鹿侍を殺した馬鹿旦那は、お咎め無しかぇ?」 

「まあしかし、賭場通いをした挙げ句、町人風情に殺されるなど本来武士にあ

るまじき醜態で、表沙汰になれば旗本家そのものが取り潰しの憂き目に遭いか

ねない。一方、町人が武士を殺すというのは大罪だから、当人のみならず、連

座で親類縁者にまで累が及ぶだろう。下手をすると、馬鹿な息子を持った両家

ばかりか、賭場を開いていたかどで、事件の起こった大名家にまで火の粉が飛

びかねないのだからな。――本来なら死罪は免れぬところだと、よくよく脅し

つけておいたし、あの顔ではこの先、女遊びはおろか、商売もままなるまい」 

 親がまともならば、座敷牢に押し込められるか、勘当になって遠くの親戚に

でも預けられることになるだろう――

 先生がそう言った、その時だ。 

「こんべらばぁっ!」 

 酔った男の怒声が響いた。 

 小座敷を借り切ったわけではないから、衝立てごしに他の客が見える。その

一組が、喧嘩をはじめたようだった。つい先ほどまでは、仲良く語らっていた、

職人風の若者達だ。火事と喧嘩は江戸の華。酔った挙げ句の喧嘩など珍しくも

なく、はじめは誰も気に留めていなかった。 

 あっ、と思ったのは、そのうちの一人の手に、刃物がきらめいたからだ。 

 町人が帯刀することは、お上より禁止されているが、懐に匕首などを隠し持

つぶんには、見咎められない。近頃は、やくざな無頼の輩のみならず、ごく堅

気の者達の中にも、意気がってそういった物を持つ輩が増えてきたらしい。

 周庵先生の手から、杯が飛んだ。 

 杯は、狙い違わず匕首を振りかざした男の手首を強打し、男は匕首を取り落

とした。

「ばかもの!」

 先生が、低く、しかし鋭く叫んだ。

 男は、呆気に取られたように立ちすくんだ。彼の仲間たちは、もとより匕首

に怖じ気を振るったか、声も無い。 

「男なら、喧嘩は素手でやれ。拳固なら瘤で済むところを、使い方も知らぬの

に、ちゃちな刃物を振り回すから、人殺しをした挙げ句に、手前は三尺高い木

の上だ」

 その声を、聞いていたかどうか。男は、真っ青な顔でしばらく突っ立ってい

たが、やがて、へなへなとへたり込んだ。 

「やれ、やれ」 

 深くため息を吐いた先生に、あたしは、自分の杯に酒を満たして勧めた。 

「惚れ直しちまったよぅ、先生」 

「ふん」 

「一瞬、先生が、好い男に見えた」 

「馬鹿――」 

 先生は、ゆっくりと杯を干した。 

 

********** 了 **********



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