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冒頭試し読み

 

◆みづはし『アフロディテの鳩』(ギリシャ:紀元前六世紀)

 

 レスボス最大の都ミュティレーネは海に面した開放的な街だった。

 レスボスは父の生まれ故郷。商いのためアテナイで移民として暮らしていたけれど、レスボスとの関係が悪化して居づらくなって、生まれ故郷に戻ってきたのだ。私にとっては初めての街。

 アテナイと比べると人は疎らで、せわしなさは感じない。

 汀(みぎわ)に打ち寄せる波のかすかな音律が、街全体の流れをゆるやかにしているみたい。

 家の近くの通りをそぞろに歩いてみると、自分と周りの人々の服装の違いが際立つ。

 余った布を片側に留める私と違って、ここの人は両肩で留めているように見える。

 目に留まった女の人が抱えている琴、見たことのあるものより少し小さいけど、きっと竪琴(キタラ)。こんなものを抱えているってことは彼女は遊女(ヘタイラ)なんだろう。でも、それにしては、髪が長い。この辺りの遊女(ヘタイラ)は髪が長いのだろうか。

 

 

◆青砥十『太陽娘と最高賢者、世界の計測に挑む!』(プトレマイオス朝エジプト:紀元前三世紀)

 

 時は紀元前二四〇年、善行王・プトレマイオス三世の治世である。エジプトの地中海岸に建設された都市アレクサンドリアは「世界の結び目」として栄華を誇っていた。六年前に東のシリアと開戦し、エジプト軍はマケドニア伝統の騎兵によって優勢に立っている。すでに勝利は近いと言われ、首都の人々も平穏に暮らしていた。

 王の命で都市の海岸近くに建てられたアレクサンドリア図書館は、他国情報を得る限り、世界にいまだ類を見ない建造物であるようだ。ギリシャやローマやカルタゴなどの大国にもそのようなものはなく、学術を志す者が憧れて移り住んでくるほどだった。

 パピルス本の所蔵数は四十万冊を超えていた。世界でここにしか大規模な図書館がない理由はパピルスにある。ナイル河岸で産出されるパピルスは輸出の際に極めて高価になり、他国では富裕層の一握りしか得られない。一方、ここは国家事業として書物を積極的に蓄え、貿易の財源も図書館に配分され、有能な学者を集め給金と食事を出して研究に専念させている。いわば、書物と学者は国の宝だった。

 

 

◆斎藤流軌『桃花源郷』(魏:三世紀)

 

 あいにくの雨に、荀家の家人たちは大騒ぎで、婚礼の支度にかかっている。

「景倩(けいせん)殿、私も何か手伝おう」

 見かねた傅カ(ふか)(字・蘭石)が、新郎の兄に声をかけた。

 荀ギ(じゆんぎ)(字・景倩)は、涼やかな目元に焦りを浮かべながら、苦々しげに頷いた。

「客人にこんなことを頼んで、面目ない。日を改めようと言ったのだが、あの強情者が承知しなくてね」

 強情者とは、新郎の荀粲(じゆんさん)(字・奉倩(ほうせん))のことだ。彼は自分でこうと決めたら、人の意見には耳を貸さない男である。

「そういえば奉倩は、身支度中ですか」

 邸内を荀ギと駆けまわるが、荀粲の姿を見かけない。たずねると、荀ギはいっとう重い荷物を、傅カの腕へ落とした。

「迎えに行った」

「花嫁を迎えに行くのは、夕刻でしょう」

「そうだろう? それが普通だと、君も思うよな」

 荀ギは憤りを抑えきれなくなったのか、声高になってまくし立てる。

 

 

◆宗谷圭『月落於五丈原』(蜀:三世紀)

 

 清浄な月の光が、暗い原を静かに照らす。そこかしこで、虫が鳴いている。

 魏への北伐に挑む蜀軍が陣を構える五丈原(ごじょうげん)は、秋の夜を迎えていた。

 見張り以外の将兵が寝静まった陣中の、奥深く。灯りの漏れ出る天幕が一つ。丞相、諸葛孔明が寝所兼執務室としている天幕だ。

 孔明が陣中で病を得、牀に臥すようになって最早久しい。それでも尚、朝に夕に陣中の指揮や丞相としての執務をこなしている彼の命数は、いつ尽きてしまってもおかしくない。

「丞相、お加減はいかがでございますか?」

 天幕の中。簡素な牀の横に侍る目元の涼しげな男が、痛ましげに顔を歪め、問い掛けた。征西将軍の姜維(きようい)だ。文武両道を誇り、目下孔明の後継者と見る者も少なくない、蜀国の将来を担うであろう人材だ。

「空気が冷たく澄むようになってきたからでしょうか。今日は、少し楽なようです」

 牀の中から、孔明が弱々しい――しかし優しい声で言った。女のようにか細い声だ。

 

 

◆小辰みなひと『斯くてテュランノス入滅に至る』(中央アジア~ヨーロッパ:五世紀)

 

 それなりに好いていた兄ブレダに刃を突き立てる男を見付け思わず抜き払った剣を彼の胸めがけて一突きした後も頂点に達したアッティラの怒りは一向おさまらず、眉間を貫こうとした剣が折れてしまうと、兄の遺骸の傍らに、蹴倒した弑逆者の死体に跨りその頭蓋を猛烈な勢いで殴打しまくるアッティラがいた。凄まじい雄叫びを近習が聞き付け、続々集まった男七人がかりでようやくその頭領の片割れを引き立たせた時、ブレダ殺しの犯人の肉体の表面には、アッティラ自身の汗と泡立つ唾とが血液やもろもろの分泌液や脳の破片と混ざり合い、貫き損ねた眉間の傷が破いたふうに繰り延べられ、頭蓋骨を粉砕せしめられた、砂利で汚れた、死体という言い方も生ぬるい、叩きのめされた赤黒い人肉に成り果てていた。そこまでして血染めのアッティラの勢いはなお止まず己が身を取り押さえ踏ん張る七人の大男全員をぶっこ抜き、砕け散った拳を守ることも忘れて地面に転げる汚れた死骸に、けだものぶりをむき出しにして食ってかかった。鼻息荒く、死者を三度も殺すような目付きで猛り狂うアッティラ自身も、自分が抱いているものが殺意であることを忘れていた。或いは害意ですらなかった。

 

 

◆牟礼鯨『四品系棋』(ササン朝ペルシャ:六世紀)

 

 東の空を黄色い雲と紫の光が彩った。地球の表皮を穏やかな風が覆い、数日して東の空はもとの青色に戻った。多くの隊商がその空の異変を目撃した。ペルシアの天文学者が異変の空域を肉眼で観測したところ、惑星がひとつ誕生していた。それは西暦六世紀中ごろに誕生し、十数年にわたって一年を数日縮め、地上に多くの災厄をもたらし、その世紀のうちに消滅したとされる惑星〈風星(バード)〉である。

 新しい惑星の出現から数日たって、駱駝の大群と数十頭もの象が砂塵を巻いて東方より現れた。地平線をすべて覆い隠す動物群の来襲を見てもイラン帝国冬の離宮ジュンディーシャープールの近衛兵はいささかも動揺しない。疾駆で心臓を潰した国境警備兵がすでに来訪者の名を書記長へ告げていたからだ。血にまみれ遺言めいた報告を受けた書記長は来訪者の名を知っていた。「いつの日かその者を離宮に招きたい」と〈諸王の王(シャーハーンシャー)〉がその名を口にしていたのを覚えていたのだ。インドへ派遣した医者バルザワイヒが大賢者として報告した者の名、そして今まさに来襲した者の名を。

「タートリトゥス」

 繰り返す無声歯茎破裂音が風星へと響き入る。

 

 

◆佐倉惟『路に臨み、月を弄して』(唐:八世紀)

 

 夜風に吹かれて飛んできた山の中には、鏡のような湖があった。あらゆるものを映し出すその水面は、月に照らされ静かに輝いている。

 そっと近づき自分の姿を映そうとすると、再び風が起こった。身が浮き上がる。

 飛び飛んで、やがてどこかに下り立つ。古の詩人が使っていたという山荘が見える。緑の水が揺らめき、どこかから猿の啼く声がする。

 前方には山道がある。長い長いその道は、はるか空の彼方へとのびる大きな梯子のよう。この道を行けば仙界にたどり着けるだろうと歩き始めた。

 半分ほどのぼった頃、周りが明るくなってきた。

 空から鶏の声が聞こえる。夜明けに真っ先に啼くという、天上世界の鶏だろうか。その声に耳を傾けながら、朝靄の中をさらに歩き続けた。

 山道は険しく、たくさんの岩や谷が行く手を遮ろうとする。それらを避けながら歩くうちに、どうやら道に迷ってしまったらしい。

 

 

◆並木陽『マインツのヴィルヘルム』(東フランク王国:十世紀)

 

 パリの中世博物館(旧クリュニー博物館)の所蔵品の中に、一つの指輪がある。それは黄金製で、中央に極めて小さな緑玉(エメラルド)がついている。十世紀頃にロレーヌ(ロートリンゲン)で作られたものということだが、一説によれば東フランク王国国王オットー一世の庶子、ヴィルヘルム・フォン・マインツ(九二九年~九六八年)の遺品であるという。

 

 ヴィルヘルムの母は、西スラヴの部族長の息女である。白金の髪と灰色の瞳の、透けるような淡い色彩を帯びた娘だった。彼女はハインリヒ王による東征時に虜囚として連れて来られ、ほんの一時期、若い王子オットーの愛妾であった。

 オットーはほどなくイングランドから輿入れした王女と盛大な華燭の典を挙げ、それきり彼女を顧みなかった。王家に連なる庶子を生んだ異邦の娘は、王室の安寧を妨げることが無いよう遠ざけられ、忘れ去られた。ヴィルヘルムはザクセンの辺境の小さな館で母と共に暮らした。

 

 

◆市川イチ『愚者の碑』(イタリア:十三世紀)

 

 敬愛するニコロ師の腐敗を見届ける勇気があったのは、私を含めて四名だけだった。中でも師を父とも慕ったフィデオ修道士は、私たちの誰よりもニコロ師に傍づき、既にどす黒く液化し始めた額に接吻さえした。

 ニコロ師は何故死んだのか? 臨終を看取った私たちの腹に、疑念は重たい鉛のように沈んでいる。遺骸は無言のうちに横たわる。だが沈黙は時として雄弁に勝る。まだ六十歳だった壮健な足腰、英知に輝いていた瞳、いつも穏やかにむすばれていた美しい唇は、もう見る影もなく崩れはてた。

 ここにはまだあの黒い翼は届かない。だがじきに触れるだろう。さらばこれは洪水だ。命を押し流す洪水だ。どれほど足掻けど抗えど、人の手には止められない。それでも手を伸ばせば、たちまち濁流に巻き込まれるのみなのだ。

 主よ憐れみたまえ。私たちの苦しみを灌ぎたまえ。私たちは死の谷をまさに歩みつつ、あなたの慈悲を待っているのです。

 一三四八年、七月二十八日。フィレンツェ近郊カステル・フィオレンティーノ、マリアーナ修道院にて記す。修道士フランチェスコ。

 明日の旅立ちに寄せて。

 

 

◆添田健一『アデンにて』(アデン:十五世紀)

 

 はじめて身にまとったアル・ハディーカの官服は、あつらえたようによくなじんだ。

 鄭彩霞(ていさいか)は、船室と呼ぶにはあまりにも手狭な、厚手の紗幕で仕切られただけの一角にて、壁かけの大きな鏡をのぞきこむ。ほほえんでみる。

 水色のジャラビーヤ。裏地は薄い橙色だ。長い袖はゆったりしている。裾は膝下まで。あわせの下は詰襟の青衣。革帯で締めた腰まわりから下は青い足通し。膝のあたりがゆったりして、ふくらんでいる。履いているのは膝までの茶色の革靴で、蝶のかたちの結び目がある。爪先は上を向いて先端がとがっている。

 彼女は鏡の前でくるりとまわってみる。長い袖と裾がふわりと持ちあがる。服のなかで身体が泳いでいる心地がして、なんだかくすぐったい。

 長い袖からは品のよい香りがした。子供のときの祝いごとの際にも、しばしば嗅いだかぐわしい香り。沈香。袖先を鼻先にあてると、清涼さのなかに、柑橘のわずかにきつい匂いが鼻孔をそっとかすめる。なつかしい香り。

 

 

◆空木春宵『届かざる祈り』(インカ帝国:十六世紀)

 

 蝋燭の灯りが卓上に落とした橙色の輪の中、束になった幾条もの縄が、船底を打つ波のうねりに揺られている。一条一条、種々とりどりの色彩に染め上げられた縄は皆、一方の端が一本の太い親縄に結わえられ、また、己自身も別の細縄の親となって、大樹の根の如く複雑な綾を成している。縄のそちこちに見られる結び目も、恰度、節のようだ。

 私は腕を伸ばし、細縄の一つを摘み上げる。指の腹でその表面をなぞり、結び目を撫で回し、鼻を寄せて臭いを嗅ぎ、灯火によって刻まれた陰翳を見つめる。かつて、ある老爺がそうしたように。

 だが、私には何も読み取れない。否、感じ取る事が出来ない。

 遡ること数日前、暇乞いを容れられ、通訳士としての任を解かれた私は、失意の内に本国行きの船へと乗り込んだ。以来、パナマの港を発ってから幾昼夜、薄暗い船室に日がな引き籠り、幾度となく縄を手に取っては、同じ動作を繰り返している。故国の地を踏んだ後も、屹度、それは止まぬであろう。そうしてその度、思い知らされるのだ。私達と彼の者達の間に横たわる、如何ともし難い断絶を。

 この縄の束――結縄(キープ)を遺した老爺の言葉が、頭をよぎる。

 ――<二つの口を持つ者>よ。キープは、知識によって解せるものではない。

 

 

◆マンノン『ロマーノ家の栄光 カラヴァッジョ伝』(イタリア:十六世紀)

 

 十六世紀イタリアで著名な画家カラヴァッジョ。彼の活躍した一六〇〇年は聖年として華やかな文化が花開いた年でもある。画家、芸術家として後生にも多大な影響を与えているが画家として有名な一方、もうひとつ有名なことがある。それは殺人画家という名前からわかる通り彼の罪の物語。

 

 彼についてはわからないことも多く近年になって発見された事実も多数ある。その中で彼の生涯に多少でない関わりを持った男がいた。彼の名はミケーレ・ロマーノ。古い民家から発見された文献『ロマーノ家の栄光』に画家カラヴァッジョの足跡が残されていたのである。この物語は『ロマーノ家の栄光』を底本にミケーレ・ロマーノの視点で描かれるカラヴァッジョの物語である。

 

 

◆あやまり堂『マラカ瑣記』(ポルトガル領マラッカ:十七世紀)

 

 マラカは、一つの季節風が吹き終る場所であり、また別の季節風が始まる場所である――と、ピレスの『東方諸国記』に記されている。

 王国の建国神話によれば、マレイ半島の西南、マラカ川の河口に開けたこの地は、当初は何も無い場所だったらしい。

 そこに、十四世紀後半に住み着いた人々が王国を建てて、シンガプラ、今でいうシンガポールの繁栄を奪うようにして、東南アジア海域の中心港の座を確立。後背地の資源も豊富で、とくに錫がよく採れたらしい、そうした資源と交易によってマラカは富を集積し、明帝国へも使者を送りながら、当時東南アジア最強のシャム王国とも互角以上に渡り合うなどして、栄えに栄えた。最盛期のマラカはインド、アラビア、ヨーロッパから運ばれた大量の文物であふれかえり、軍事的にも、堅牢な要塞に三〇〇〇門の大砲を有していたという。

 これを、ポルトガルが滅ぼした。

 一五一一年のことである。

 印度総督アルブケルケが一六〇〇名ほどの海賊を率いて暴れ込み、『諸国記』その他の脚色によれば、象兵を含む一〇万もの現地敵兵を殺戮して市街を占拠。国王を追い出し、一族を処刑して、王宮、モスクその他を破壊して石材とし、ポルトガル式の城塞都市に改めたのである。

 それから一〇〇年余り。

 マラカは、ポルトガルの東方貿易の拠点として富を生み続けて、港湾地区はいっそう繁華に発展していた……と思いきや、案外、衰退していた。

「それはオランダのせいにござる。オランダの海賊どもが、当地の富を奪って行くのでござる」

 と、ポルトガル人神父(パードレ)が、口から唾を飛ばしながら言った――日本語で。

 

 

◆春山久美『secret』(フランス:十八世紀)

 

 讃美歌の練習でもしているのだろうか。何処かで少年の歌声が微かに響いている。その甘やかな歌声は、溜まる憂鬱さを癒してくれる様でもあった。暗く澱んだ水面に浮かび、繋留してある小さなボートを引き寄せ、船底に放り投げていたオールを客に渡し、ボートに乗るように促す。

「お客様、完了です。ここまで来れば追手はまず来ないでしょうし、あの船に乗ればイギリスへ亡命出来ます」

「良かった……まぁ、これで一安心と言った所だな。国民公会? 革命政府だかなんだか知らないが今に見てろよ、必ずや王家を復活させてやる」

「お気をつけて」

 興味の無い口調で淡々と答えると客は少々不満げな顔をシャルルの方に向けてくる。その顔には客に気付かれない程度にシャルルは苦笑いをしてしまう。

 シャルルの後を付いて来た客は、全身黒で纏めて地味な身なりをしていたが、着ている生地の素材や仕立てからして一目見て、亡命貴族と分かる。だが、目的地まで案内する客の素性など些細な事で気にも留めない。依頼主からきちんと給金を貰えればそれで良かった。

 やがてボートは闇に包まれた。あの先で待っている大型船に客が乗り込めれば任務完了だ。船に乗った後の客の行く先などは知らない。殆どの者はイギリスへ向かうのだろうが。

 シャルルは暗闇に響いていた少年の歌声を最後まで聞き届け、来た道へと戻っていった。

 

 

◆AKINONA『走れルドヴィカ! レディ・ベートーヴェンと革命の話(抄)』(オーストリア:十九世紀)

 

一七七八年【八歳】

 

 喜劇が始まったのは、彼女がまだ八歳の頃だった。

「イヤよイヤよイヤよイヤったらイヤッッッ! 何であたしがそんなことしなきゃいけないのっ! このバカ親父!」

 故郷のボンからやや離れた都市、冬のケルンのうら寂しい宿屋の一室で、ほろ酔い加減の父親に追い掛け回されながら、黒々としたぼさぼさの髪を振り乱し、太い眉、大きな団子鼻の周りにソバカスの浮いた背の低い少女が、少女らしさの片鱗も見いだせないアルトのだみ声で叫ぶ。そんな彼女を乱暴にひっ捕まえて、酒臭い息でこの娘の父親が言った。

「開演まであと一時間だ。つべこべ言わずにさっさとこの服を着るんだ。この馬鹿娘!」

 父親が手にしていたのは、男物の服と、既に髪粉がたっぷりと振りかけられた少々時代遅れなカツラだった。

「やだやだやだ、絶対にやだ! そんな服なんてイヤ、カツラもイヤ! それにピアノなんて嫌い、大嫌いっ! みんなの前でなんか絶対に弾くもんか! あたしはモーツァルトじゃないの! 神童なんかじゃないっ!」

 だがしかし、まだ六歳だったかのモーツァルトが、父親に連れられてヨーロッパ中を回りながらその天才的なピアノ演奏を披露し、各地で『神童』ともてはやされていた衝撃的な出来事は、未だこの父ヨーハンの記憶に新しかった。要するに、金と名誉と酒の勢いが成した暴挙である。娘の抗議を聞いてやる素振りなど見せず、既に印刷済みの演奏会のパンフレットを小脇に抱え、珍しくめかし込んだ父が、ルドヴィカのぐしゃぐしゃの頭を押さえつけ、無理矢理カツラを被せて、言った。

「いいか、今日からお前はルドヴィカじゃない、『ルードヴィッヒ』だ!」

 

 

◆梅川もも『蜂蜜前夜』(アメリカ:十九世紀)

 

 民家も何も無い荒れ地に、兵士が集まり始める。

 兵士達と共に、次々運ばれて来る大量の荷物は解かれ、幾つものテントが建ち、様々な武器や弾薬、食糧などの物資がそれぞれの場所へと運び込まれ、ものの数日で一つの小さな街のようなものが出来上がっていく。

 物々しい様相に姿を変えつつも、そこには冗談を交えた会話が飛び交い、あと数日後には、敵の陣地へと歩を進め、戦いを始めるような雰囲気などは、まだ感じられなかった。

 陽が落ちると、それぞれの部隊が焚き火を囲み、作戦会議を兼ねた夕食を取る。夕食と言っても、小麦粉やトウモロコシ粉を溶かしたものに、豆や塩漬け肉を入れたスープと、歯が欠けそうに硬いハードブレッドをそれに浸し、ふやけさせて食べる、というものだったが、それでも支給される食糧があるだけマシと思う者も少なくなかった。なぜなら、兵士の殆どが、奴隷、若しくは奴隷のような扱いを受けていたからだ。

 片や遠く離れた地から、言葉巧みに未開の地へと連れてこられ、気付いた時には奴隷となっていた者。片や先住民でありながら、開拓民によって様々な理由で土地を奪われ、何時の間にか迫害される身分になっていた者。それぞれが抱く思いは複雑で、それでいて、ただ一つの願いは同じもの。それだけで集結した部隊も少なくはなかった。

 そして、賑やかな夕食を終え、就寝までの時間を各々思い思いに過ごしていく。

 

 

◆( )『永遠を食む青白い孤独に』(フランス:十九世紀)

 

 飾り気のない真白い手紙の封を切る。

 そっと、ひそやかなリラの香りがあたりを揺らした。紙面の上では、無感情に黒い線が踊っている。それらはおれに、ドガの死を伝えていた。

「……よかった」

 零れたその音が、ずいぶん穏やかな円い響きで、おれは一瞬戸惑う。悲しくないわけじゃない。けれど、それ以上におれは彼を――

 甘い香りが、現実を遠ざけていく。

 近い記憶も遠い記憶も、なにもかもがごちゃまぜになって洪水のように思考を押し流していった。

 ああ、本当に。

「きみのように孤独なら、死んだほうがましだ」

 

 

◆伊田アサトウ『風の聞こえ路』(ペルー:二十世紀)

 

  ――こっちへ来い。

  何処かで、誰かの声がする。見渡す限り、いや周りを見渡すことすらできないほどの濃霧であった。前方を行くはずの現地人も、後方を進む助手の姿も見えず、それどころか、自分の帽子のつばすら霞んで見えるような白い景色の中を、ビンガムは歩いていた。伝わってくる感覚は、靴越しに伝わるゴツゴツとした地面の感触と、じっとりと肌にまとわり付く霧の湿り気のみだ。

  本当にここは乾いた高山地帯なのか? そんな考えがビンガムの脳裏によぎる。ビンガムの故郷、ホノルルですらもここまで湿ってはいなかった。疲れが、湿気が、何より何処までも続くような純白の光景が、彼の感覚器を狂わせる。

  ある種ビンガムは、正気ではなかった。

  ――こっちへ来るんだ。

  ああ、またあの声だ。これは幻聴なのか、それとも現実なのか。ただビンガムは、声のする方向へと足を進める。

 

 

◆春秋梅菊『芳と烟』(中華民国:二十世紀)

 

 うら寂しい古廟に、いかがわしい露店が並ぶ。

 ここは天津・河西区の外れ。あちこちに租界を立て、我が物顔で振る舞う外国人も、ここにはやってこない。

 父は、二人の娘を連れてそこへ入っていった。姉妹は父の右手と左手に自分の腕を繋げて歩いている。

 年かさの娘は馬芳(マーファン)といった。廟に近づくなり、彼女は嫌な予感を覚えていた。

 父がふと足を止める。片足の老人が茣蓙の上に座っていた。そばには看板らしきものが立っている。

 父は老人の耳元に口を近づけた。二人の娘には彼らの会話が聞き取れなかったものの、父が老人から銀の塊を受け取るのを見た。

 父が娘達へ向き直り、一枚の紙を差し出す。

「二人とも、ここに印を押せ」

 紙には何やら字が書いてあったが、娘達は読めない。そこで言われるまま、朱肉を小さな指につけて、印を押した。

「出かけてくるから、ここで待っていろ」

 父は虚ろな瞳でそう言った。三年前に母を亡くしてから、父は心の均衡を失い、賭博に明け暮れた。そのせいで一家は莫大な借金を抱えていたのだ。

 父はふらついた足取りで廟を出て行った。

 そのまま、帰ってこなかった。

 

 

◆栗山真太朗『エノラ・ゲイの息子』

 

アメリカ陸軍航空軍第五○九混成部隊第三九三爆撃戦隊所属B―29、シルバープレート形態、ビクターナンバー八十二、機体番号四四―八六二九二号機。

 これが、ウラニウム型原子爆弾「リトルボーイ」を搭載し、ヒロシマへ原爆投下を行なった「エノラ・ゲイ号」の概要である。

 

 アメリカ合衆国オハイオ州、二〇〇二年九月の昼下がり。天気は快晴。一台のタクシーがポート・コロンバス国際空港で客待ちをしている。

運転手はカーラジオの周波数を替え続けていた。好みの局がまるで見当たらない。前年の同時多発テロから丸一年が経ったということもあり、ニュースは辛気臭い話題が続いている。アメリカ国民として、彼に愛国心が無いわけではない。だが、事件後一年間という時間は悼む気分になることを鈍感にさせた。

 選局のさなか、歪んだギターが耳に入った。コン、と窓を叩かれたのはそのときだ。ぼんやりと運転手が見上げると、一人の老人がいぶかしげにこちらを見つめている。糊のきいたブルーのシャツに、灰色の背広を着た清潔な身なりだった。ずいぶんと年をとっているようだが、背筋はぴんと立っている。年若いころはよほどの偉丈夫だったのだろう、がっしりとした体格は威圧感すら運転手に与えた。

 運転手は、おや、と思った。その老人をどこかで見たような気がしたからだ。

 

 

 

 

 

 

 


この本の内容は以上です。


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