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『縄梯子』

 

        『縄梯子』

 

 

 シュールとも言えるその不思議な光景は、なんの前触れもなく、俺の目の前にあらわれた。部屋の天井から、いきなり縄梯子が降りてきたのだ。

 ロフト付きではないし、屋根裏に収納があるわけでもない。築数十年というオンボロアパートの天井から、まるで緊急避難でも始まったかのように縄梯子がスルスルと伸びてくる。

 休日の昼ちかくにようやく起き出した俺は、ボサボサの頭に寝巻きがわりのスウェットといういでたちで、ちょうど朝食と昼食をかねたカップラーメンを食べているところだった。ほお張った麺を口から垂らしたまま、思わず立ち上がる。

 天井板に穴でも空いているのかと目をこらしてみるが、そんな様子もなかった。ただただ、あたりまえのように縄梯子が木目の間をすり抜けてくるのである。

 畳に着こうかというところで、計ったように縄梯子が止まった。同時に俺は、食べかけの麺をゴクリと飲み込んだ。俺の頭にあるのは、そこから何者が降りてくるのだろうかということだった。


  待つこと数分。不安まみれの期待とは裏腹に、いっこうに誰も現れそうにない。縄梯子は、ただの風変わりな飾り物と化して、かすかに揺れさえもしなかった。
「何なんだよ」

 一種、なにか裏切られたような気持ちになった。

 縄梯子に近寄り、片手でその縄を握って少しばかり引っ張ってみたが、びくともしない。

 俺はカップラーメンをテーブルに置き、こんどは両手で縄梯子の強度を念入りに確かめた。なかなか丈夫そうだった。

 縄梯子を登るのに理由などいらない。そこに縄梯子があるから登るのだ。などと、登山家めいたくだらない理屈を頭の中にめぐらせつつ、ついに縄梯子に素足のまま挑みはじめた。

 なかなか難しい。重心をうまくかけないと、縄梯子がゆがんで登りづらい。ううむ、少し痩せたほうがいいかもしれないな。

 なんとか数段登り、天井付近まで顔が近づいた。やはり目の前で見ても、まるで腕のよい職人が工作したかのごとく、きれいに天井板から縄梯子が生えている。俺は縄梯子の生えぎわを確認しようと手をのばしてみた。


「あっ」

 俺の右手はなんの抵抗もなく、手首まで天井を突き抜けていた。映写機から投影された映像のように、まったくなんの感触もなかった。

 何度か右手を天井板に出し入れしたあと、今度は思いきって頭を突っこんでみた。じつに奇妙な、そしてある意味、屈辱的ともいえる視界の変化だった。

 天井板ギリギリの視点から見下ろすオンボロアパートの一室が、つぎの瞬間には、フローリングを舐めるような視点から見上げる、明るく広々とした豪勢な部屋へと切りかわっていたのだ。

 縄梯子を登りきって、まず目についた巨大な窓ガラスに歩み寄ると、そこには遥かな高みから大都会を一望する、豪快なパノラマが広がっていた。どうやら、高層マンションの一室のようだった。

  振り返ると、俺の部屋の倍もあろうかという高さの天井には、キラキラ輝くシャンデリアがぶら下がり、五十畳ほどと思われるスペースをぐるりと囲む壁には、 巨大テレビやバーカウンターが設置され、濃いブラウンの床材の上には、猛獣の毛皮のラグが敷かれ、高級そうな応接セットやトレーニング機器などが置かれて いた。

 このハイグレードな部屋の中で、よれよれのくたびれたスウェット姿の俺だけが、異質な存在だった。


「いらっしゃい」

 突然、男の声がした。聞き覚えのある、なぜかとても馴染み深い声音だった。
「だ、誰だ」

 部屋の入り口にたつ声の主を見て、俺は驚き困惑しながらも、そう感じたことに納得した。そこにいたのは俺自身だったのだから。

 いや、正確には、基本的に俺自身だった、と言ったほうがいいかもしれない。なぜならば、その男はブランド物の洗練された衣服に身を包んでいたからだ。よれよれのスウェットとは歴然とした違いである。

 それに、売れっ子の美容師にでも整えてもらっているのか、髪形もとても洗練されていて、千円カット常連のこの俺とは雲泥の差だった。顔つきさえも生気の有り無しで、好対照に明暗を分けていた。

 微笑みを浮かべながらその男が答えたのは、まさしく俺と同じ名前だった。
「驚かせたようで申し訳ないね。いきなりだったから無理もない。君の疑問にはちゃんと答えるから、まずはそこに座ってくれ」

 そいつは狼狽える俺に、レザー張りのソファをすすめた。

 


 言われるがまま、おずおずと長ソファに腰掛けはしたものの、素足に感じる猛獣の毛皮が妙に気になって、なにか落ち着かない。

 とりあえず飲み物でもと差し出されたコーヒーを口に含むと、芳醇な香りが鼻へと通りぬけた。インスタントとは違う。旨いコーヒーを飲んでいやがる。何度目かの嫉妬を感じながらも、気持ちがだんだんと落ち着いてゆく。
「縄梯子、びっくりしただろう」

 向かいの一人掛けソファに身を沈めて脚を組み、そいつはニヤけて聞いてきた。
「あたり前だろ」

 俺は憮然として答えた。
「まあ、そう怒るなよ。じつは君にとって悪くない話があるんだ」

 訝しげに睨みつける俺をなだめるように、そいつは言った。
「パラレルワールドって聞いたことあるかい」
「パラレルワールド……。ああ、聞いたこと、あるにはあるが、まさか」

 そいつは嬉しそうに俺の言葉をさえぎった。
「そうさ、そのまさかだよ。あの縄梯子は、パラレルワールドを行き来するために、私が発明したんだ」

 



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