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「えっ、もう行くのか。それに、何も持っていかないのか。知らんぞ、俺の部屋にはろくな物が無いんだからな」

 イヤミなもう一人の俺は、手を振りながら濃いブラウンの床へと沈んでいった。俺は、すぐに縄梯子のあったあたりを手の平で確かめたが、ごく当たり前のように、ただのフローリングでしかなかった。

 さて、たったいまから俺は、働かずとも大金が転がりこむ富豪になったわけだ。立派な住居もあれば、美人の婚約者もいる、生命の危険もない、なに不自由ない暮らしができるのだ。

 あらためて冷静に考えれば、なんとめでたい日だろうか。少し間をおいたら、あまりのラッキーさに笑いがこみ上げてきた。そうだ、祝杯でもあげるとするか。

 鼻歌まじりに、キッチンの大型冷蔵庫からシャンパンとツマミになりそうなものを探しだし、ふたたびソファへと陣取った。
「俺の未来に、乾杯っ」

 


 シャンパンの味は、ひときわ格別だった。

 大きな窓の外は、間もなく日が暮れようとしていた。徐々に下界に沁みてゆく闇の中に、点々と灯りが浮きあがりはじめる。あるものは明滅し、あるものは流れを作り、またあるものは何万年も昔からそこにあった星のように、じっとしていた。

 夜景を肴に、酔いがほどよく回ってきた頃だった。平和な静寂を電子音がうち砕いた。テレビのリモコンに紛れて置かれていた携帯電話だった。

 手にすると女の名前が表示されていた。とっさに頭に浮かんだのは例の女優の顔だった。どうする、シカトするか。だが、遅かれ早かれ、この女の相手もしなければならないだろう。酔った勢いもあり、俺は思いきって通話ボタンを押した。
「はい、もしもし」
「出るの遅いっ」

 最初のひと言で、気の強い女であることが察せられた。そうであるのならば、酔った振りでいなすのが無難というもの。まともな会話からボロが出ても困るし、とりあえず、適当に相づちだけ合わせておくとしよう。


「いまどこなの、テレビの臨時ニュース見たでしょ」
「いや、家にいるけど、ニュースは見てない」
「じゃあ、いますぐにテレビをつけて。どこのチャンネルでもいいから」

 俺は、わざとだるそうな返事をしつつ、テレビをつけた。

 実物以上の大きさで大画面テレビに映し出された男性のアナウンサーが、何やら深刻そうな面持ちで警告を発している。
「大陸から核ミサイルが多数発射されたんだって。そのうちの何発かが東京に向かっているらしいの。あと数分しかないから、あなたは急いで地下駐車場に避難して。私はたまたま伊豆でロケだったから、大丈夫だから」

 携帯電話の向こうから女が急かしたてる。

 なんだって、冗談じゃないぞ。いっきに酔いが醒めた。
「自衛隊か米軍が迎撃するんじゃないのか」
「全部を迎撃するのは無理かもしれないって。だから、とにかくいますぐに避難して」

 


 画面の中ではアナウンサーが、一人でも多くの人に危機を伝えねばならぬという使命感からなのか、いまだに警告を発し続けていた。彼は、殉職するつもりなのだろうか。いや、他人のことを気にしている場合ではない。俺もいますぐに逃げなければ。
「必ず生きのびてね、愛しているわ」

 泣き声まじりになった女を適当にあしらい、携帯電話を切った。映画でいえば、ひとの愛情の深さを表現するだいじな場面であるのだろうが、なにせ俺はその女に一度も逢ったことが無いのだから、致し方ない。

 それにしても、せっかく手にした幸運が、こんなにも早く崩れ落ちてしまうなんて。

 巨大な夜景の窓ガラスに、ソファから立ち上がる俺が映っていた。

 その落胆したスウェット姿のむこうに、閃光が奔った。

 瞬間、視界がハレーションを起こし、俺の淡い幸福はすべて、光の中で消え去った。

 

 

 


 オンボロアパートの一室で、部屋に似合わぬブランド服を着た男がつぶやいていた。
「あぶない、あぶない。あわや、全面核戦争に巻き込まれるところだった。もしあいつがもう少し物分かりの悪いやつだったら、完全にアウトだっただろう」

 せまい部屋の中をひと通り物色したが、案の定、たいした物も金も見当たらなかった。だが、男はさほど気にするでもなく、どっかりと畳の上にあぐらをかいた。
「やはり政治家への献金はしておくものだな。あの政府閣僚からのリークが無ければ、いま頃は地獄の一丁目だった。金と政治家は使いよう、ということだ」

 男が上着の内ポケットから携帯端末を取りだし、いくつかの操作をすると、画面に何やらリストが表示された。
「いままでに手にいれた、この膨大な特許技術を登録すれば、こちらの世界でもすぐに富豪になれるだろう。金があれば、地位も美しい女も手にはいる。もとの生活レベルに戻るのはあっと言う間さ。さて、それはそうと、落ち着いたら少し腹が減ってきたな」

 



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