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「いらっしゃい」

 突然、男の声がした。聞き覚えのある、なぜかとても馴染み深い声音だった。
「だ、誰だ」

 部屋の入り口にたつ声の主を見て、俺は驚き困惑しながらも、そう感じたことに納得した。そこにいたのは俺自身だったのだから。

 いや、正確には、基本的に俺自身だった、と言ったほうがいいかもしれない。なぜならば、その男はブランド物の洗練された衣服に身を包んでいたからだ。よれよれのスウェットとは歴然とした違いである。

 それに、売れっ子の美容師にでも整えてもらっているのか、髪形もとても洗練されていて、千円カット常連のこの俺とは雲泥の差だった。顔つきさえも生気の有り無しで、好対照に明暗を分けていた。

 微笑みを浮かべながらその男が答えたのは、まさしく俺と同じ名前だった。
「驚かせたようで申し訳ないね。いきなりだったから無理もない。君の疑問にはちゃんと答えるから、まずはそこに座ってくれ」

 そいつは狼狽える俺に、レザー張りのソファをすすめた。

 


 言われるがまま、おずおずと長ソファに腰掛けはしたものの、素足に感じる猛獣の毛皮が妙に気になって、なにか落ち着かない。

 とりあえず飲み物でもと差し出されたコーヒーを口に含むと、芳醇な香りが鼻へと通りぬけた。インスタントとは違う。旨いコーヒーを飲んでいやがる。何度目かの嫉妬を感じながらも、気持ちがだんだんと落ち着いてゆく。
「縄梯子、びっくりしただろう」

 向かいの一人掛けソファに身を沈めて脚を組み、そいつはニヤけて聞いてきた。
「あたり前だろ」

 俺は憮然として答えた。
「まあ、そう怒るなよ。じつは君にとって悪くない話があるんだ」

 訝しげに睨みつける俺をなだめるように、そいつは言った。
「パラレルワールドって聞いたことあるかい」
「パラレルワールド……。ああ、聞いたこと、あるにはあるが、まさか」

 そいつは嬉しそうに俺の言葉をさえぎった。
「そうさ、そのまさかだよ。あの縄梯子は、パラレルワールドを行き来するために、私が発明したんだ」

 


 おいおい、いきなりSFかマンガの世界の話かよ。勘弁してくれよ、と言いかけて言葉を飲み込んだ。そうだった。俺自身ここに、あの摩訶不思議な縄梯子を登ってやってきたのだった。あり得ない話でもないのかもしれない。

 俺は確かめるように、そいつに聞いた。
「じゃあ、こちらの世界では、お前が俺……なわけか」
「そういうことだね」

 ううむ、それにしてはお前は俺とは違い、ずいぶんと羽振りがいいじゃないか。そんな俺の心の声が聞こえたのか、そいつが続けた。
「パラレルワールドは無数に存在していて、それぞれが少しずつ異なった未来をたどるんだ。こちらの世界ではご覧の通り、私は発明家として大きな成功を収めているのさ。むこうの世界の君とは違ってね」

 ふーん、こちらの世界の俺は、発明家で富豪で自分のことを私と言うようなやつで、その上たいそうなイヤミなんだな。たしかに俺は、むこうの世界では冴えないやつだが、あらためて言葉にされると、事実とはいえ腹立たしい。

 


 そいつの俺さま自慢は、まだまだ続いた。
「この部屋の眺望、凄いだろ。百階建て億ションのペントハウスで、都内でも最高のロケーションなんだよ」

 たしかにそうだった。こんな景色は初めて見た。でも、だからなんだと言うのか。
「あと、ほら。そこの写真。私のとなりの女性、けっこう美人でしょ。こちらの世界じゃすごく有名な女優なんだが、私の婚約者なんだよ」

 言われたとおり、目の醒めるような美人が写っている。もう何年も彼女がいない俺にとっては、羨ましい限りだった。

 すべてにおいて完敗だ。こうなったらもう、ふて腐れるしかない。
「はいはい、その大成功されているお方が、冴えない俺のような下層民に、いったい何の用があるんですかね。まさか贅沢自慢をするためだけに、わざわざ俺をおびき寄せたんじゃないだろうな」
「まさか。いくらなんでも、そこまで意地悪くはないさ」

 よく言う。じゅうぶん意地が悪い。

 


「どうだい、この恵まれた環境の中で暮らしてみたくないか」
「えっ」
「だからつまりね、こちらの世界の私と、あちらの世界の君とで、入れ替わってみないかということだよ」

 耳を疑う申し出だった。そりゃあ俺だって、こんな暮らしをしてみたくないこともない。いや、むしろしたい。でも、コイツはどうなんだ。あちらの俺の暮らしぶりを体験したいとでも言うのか。だとしたら、よほどの物好きか変人か危険人物としか思えない。
「そんなに、俺のみじめな暮らしぶりに興味があるのか」
「だから、そんなに卑屈になるなって。私は、いまの生活に飽きてしまったんだよ。もう、それなりの富も地位も女も手に入れてしまったからね。人生でもっとも面白いのは、ゼロから成り上がる過程なんだ。私はもう一度それを味わってみたい、ただそれだけなんだよ」

 



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