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「あっ」

 俺の右手はなんの抵抗もなく、手首まで天井を突き抜けていた。映写機から投影された映像のように、まったくなんの感触もなかった。

 何度か右手を天井板に出し入れしたあと、今度は思いきって頭を突っこんでみた。じつに奇妙な、そしてある意味、屈辱的ともいえる視界の変化だった。

 天井板ギリギリの視点から見下ろすオンボロアパートの一室が、つぎの瞬間には、フローリングを舐めるような視点から見上げる、明るく広々とした豪勢な部屋へと切りかわっていたのだ。

 縄梯子を登りきって、まず目についた巨大な窓ガラスに歩み寄ると、そこには遥かな高みから大都会を一望する、豪快なパノラマが広がっていた。どうやら、高層マンションの一室のようだった。

  振り返ると、俺の部屋の倍もあろうかという高さの天井には、キラキラ輝くシャンデリアがぶら下がり、五十畳ほどと思われるスペースをぐるりと囲む壁には、 巨大テレビやバーカウンターが設置され、濃いブラウンの床材の上には、猛獣の毛皮のラグが敷かれ、高級そうな応接セットやトレーニング機器などが置かれて いた。

 このハイグレードな部屋の中で、よれよれのくたびれたスウェット姿の俺だけが、異質な存在だった。


「いらっしゃい」

 突然、男の声がした。聞き覚えのある、なぜかとても馴染み深い声音だった。
「だ、誰だ」

 部屋の入り口にたつ声の主を見て、俺は驚き困惑しながらも、そう感じたことに納得した。そこにいたのは俺自身だったのだから。

 いや、正確には、基本的に俺自身だった、と言ったほうがいいかもしれない。なぜならば、その男はブランド物の洗練された衣服に身を包んでいたからだ。よれよれのスウェットとは歴然とした違いである。

 それに、売れっ子の美容師にでも整えてもらっているのか、髪形もとても洗練されていて、千円カット常連のこの俺とは雲泥の差だった。顔つきさえも生気の有り無しで、好対照に明暗を分けていた。

 微笑みを浮かべながらその男が答えたのは、まさしく俺と同じ名前だった。
「驚かせたようで申し訳ないね。いきなりだったから無理もない。君の疑問にはちゃんと答えるから、まずはそこに座ってくれ」

 そいつは狼狽える俺に、レザー張りのソファをすすめた。

 


 言われるがまま、おずおずと長ソファに腰掛けはしたものの、素足に感じる猛獣の毛皮が妙に気になって、なにか落ち着かない。

 とりあえず飲み物でもと差し出されたコーヒーを口に含むと、芳醇な香りが鼻へと通りぬけた。インスタントとは違う。旨いコーヒーを飲んでいやがる。何度目かの嫉妬を感じながらも、気持ちがだんだんと落ち着いてゆく。
「縄梯子、びっくりしただろう」

 向かいの一人掛けソファに身を沈めて脚を組み、そいつはニヤけて聞いてきた。
「あたり前だろ」

 俺は憮然として答えた。
「まあ、そう怒るなよ。じつは君にとって悪くない話があるんだ」

 訝しげに睨みつける俺をなだめるように、そいつは言った。
「パラレルワールドって聞いたことあるかい」
「パラレルワールド……。ああ、聞いたこと、あるにはあるが、まさか」

 そいつは嬉しそうに俺の言葉をさえぎった。
「そうさ、そのまさかだよ。あの縄梯子は、パラレルワールドを行き来するために、私が発明したんだ」

 


 おいおい、いきなりSFかマンガの世界の話かよ。勘弁してくれよ、と言いかけて言葉を飲み込んだ。そうだった。俺自身ここに、あの摩訶不思議な縄梯子を登ってやってきたのだった。あり得ない話でもないのかもしれない。

 俺は確かめるように、そいつに聞いた。
「じゃあ、こちらの世界では、お前が俺……なわけか」
「そういうことだね」

 ううむ、それにしてはお前は俺とは違い、ずいぶんと羽振りがいいじゃないか。そんな俺の心の声が聞こえたのか、そいつが続けた。
「パラレルワールドは無数に存在していて、それぞれが少しずつ異なった未来をたどるんだ。こちらの世界ではご覧の通り、私は発明家として大きな成功を収めているのさ。むこうの世界の君とは違ってね」

 ふーん、こちらの世界の俺は、発明家で富豪で自分のことを私と言うようなやつで、その上たいそうなイヤミなんだな。たしかに俺は、むこうの世界では冴えないやつだが、あらためて言葉にされると、事実とはいえ腹立たしい。

 


 そいつの俺さま自慢は、まだまだ続いた。
「この部屋の眺望、凄いだろ。百階建て億ションのペントハウスで、都内でも最高のロケーションなんだよ」

 たしかにそうだった。こんな景色は初めて見た。でも、だからなんだと言うのか。
「あと、ほら。そこの写真。私のとなりの女性、けっこう美人でしょ。こちらの世界じゃすごく有名な女優なんだが、私の婚約者なんだよ」

 言われたとおり、目の醒めるような美人が写っている。もう何年も彼女がいない俺にとっては、羨ましい限りだった。

 すべてにおいて完敗だ。こうなったらもう、ふて腐れるしかない。
「はいはい、その大成功されているお方が、冴えない俺のような下層民に、いったい何の用があるんですかね。まさか贅沢自慢をするためだけに、わざわざ俺をおびき寄せたんじゃないだろうな」
「まさか。いくらなんでも、そこまで意地悪くはないさ」

 よく言う。じゅうぶん意地が悪い。

 



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