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プロローグ

 霧深い山道に二つの影。一人は十代の少年、もう一人は五~六歳ぐらいの男の子だった。大きい方の少年はまだ幼さの残る顔だが、体は大きく、たくましい。赤茶の髪に茶色の瞳。日に焼けた肌は小麦色。なかなかの美男である。
 二人は白い服を着ていた。和服のように衿をV字に合わせ、帯を締めているが、袖は筒型。ズボン状の下衣は膝下を紐で固くまとめていた。

「もうすぐで家に着くぞ」
「うん」

 小さいほうの男の子は色白だった。プラチナブロンドの髪は細く柔らかそうだ。瞳の色も薄く、グリーン・グレー。
 二人は手をつないでいた。小さい男の子が転びそうになると、大きい子が手を引いて支えてやっていた。似ていないが兄弟のようだ。

 道の傾斜はゆるやかだが、道幅は狭く人一人やっと通れる程度だった。左側は深い谷へと続く断崖絶壁、右側の岩壁はときどき道を遮るように張り出している。足場も悪い。しかも霧がかかって見通しがよくない。

「ラシャ、危ない!」
 崖から落ちそうになった弟を兄が腕を引いて止めたところまではよかったが、引き上げるときにバランスを崩してしまった。弟を投げるように山側に振った勢いで兄のほうが崖側に落ちてしまった。
「うわああっ」

「アシュ!」
 兄を呼びながら、弟は崖側に戻って手を伸ばしたが、届かない。もっとも、届いたところで小さな弟に兄を引き上げる力はなかったろう。

 兄は真っ逆さまに落ちて行った。
 しかし、落ちながら、目は冷静に周囲を見渡していた。
「そろそろか……」

 慣れた身のこなしでくるっと一回転。見事に着地を決めようとしたのだが、深い霧のため、木が突き立っていることに気がつかなかった。大きく脇腹をえぐられ、ドサッと落ちた。

「くっ。痛え」
 倒れたまま、手で脇腹をおさえた。温かいものがトクトクと湧き出してくる。
 おさえた手を目の前にかざした。ねばねばした赤い液体がべっとりとついている。
「やっちまった……」
 アシュは隣に立つ木をまじまじと眺めた。
 頂が折れて、切っ先が鋭い刃物のようだ。
「もう少しずれてりゃ串刺しだったかも。危ない、危ない」
 アシュは上半身を起こそうとしたが起き上がれない。
「あうっ、駄目だ」

「ア~シュ~!」
 上から泣きそうな弟の声がした。

「ラシャ、俺は大丈夫……うっ」痛みをこらえて叫びかけたが、「……でもないか」
 痛みは激しくなる一方だ。脂汗が出てきた。
「ラシャ、父さんか母さんを呼んできてくれ」
 大きな声は出せなかったが、ラシャには聞こえた。
「うん、わかった」と弟は家路を急いだ。
 先ほどは歩いていて崖に転落しそうになった弟が走り出したので、アシュは心配になった。「もう落ちるなよ……」

 アシュは倒れたままじっとしていた。脇腹から流れる血は止まらなかった。少し頭がぼんやりしてきたような気がした。
「まずいな」
 ラシャは無事に家に着いただろうか。誰も来ない……ということは、一人では帰れなかったのか……? また、叱られるな。弟の面倒もまともにみられないで、道に迷わせたと。
 けっこうな大けがだが、自分の心配はあまりしていない。

 アシュは動けない体でじっとしたまま、ぼうっと空を眺めていた。
「まだかな……」
 すると、ようやく待ちに待った声が聞こえてきた。
「こっちだよ。早く! お父さん。早く、早く」

 霧の奥に大小の影が見えた。
 小さい影は大きい影の手を引いて急がせようとしていたが、大きい影に急いでいる様子はなかった。

 全身の力をこめてひっぱる小さい影にかまわず、ゆっくりと進みより、アシュの横に立った。
 大きい影は大柄で筋肉質、厳しく近寄りがたい雰囲気を漂わせた男だった。短く刈ったプラチナブロンドの髪にグリーングレーの瞳、肌色も明るい。額に縦に細長いアザがある。小さい影はラシャ。二人が並ぶと親子であるのが一目瞭然だ。まるで大小のマトリョーシカ。

 父親は、薄緑の袖の短い服を着ていた。前身ごろ中央の首から裾の手前まで手幅ほどの黒い布が上下に走り、羽ばたく鳳凰の銀糸刺繍が入っていた。

「父さん……」アシュは情けない顔で父を見たが、その後は何も言わなかった。
 父の口から低い声が響く。
「まったく、この辺は私たちの庭みたいなものだ。足を踏み外すなど修行が足りん。しかも、こんな怪我までしおって」
 わき腹を押さえながら横たわる息子を見ながら、父は心配しているというより、不服そうだった。
「霧で木が見えなかったんだ。それさえなけりゃ、ちゃんと着地できたさ」
「言い訳するな。そういう不測の事態にも対応できなければならない。お前はまじめに稽古をしないから……」

 大怪我をした兄に文句を言うばかりで、いっこうに手当てをしてくれない父に弟は言った。
「足を踏み外したのは僕だよ。アシュは僕をかばって……」
「そうだったな。お前も気をつけなさい」
「はい」
 まだ小さいラシャには父もあまりきついことは言わない。

「とにかく、早く治してくれよ。けっこう痛いんだ」アシュは傷口を指して父に促す。
「見せてみろ」と父はアシュの傷に手を当てた。父の目は傷を直接見てはいなかった。目で見るというよりは手で傷を感じているようだ。父の手が金色に光った。
 すると、みるみるうちに出血はおさまり、傷口が小さくなった。

 そして父は手を離した。
「起きろ」
 アシュはまず横腹を手でさぐってから、注意深く上体を起こした。
「さっすが、父さん。もう、何でもない」そう言うと、すっくと立ち上がった。
 ラシャも笑顔になった。
「よかったあ」
 と、どんな怪我でも治してしまう父をキラキラとした尊敬のまなざしで見上げる。

 小さい怪我ならラシャも何度もしたことがある。そのたびに父はこうやっていつも治してくれた。しかし、今回のように大きな怪我を治すところは初めて見た。

 しかし、完全に直ったわけでないのだろう。アシュは「何でもない」と言う割には痛そうにしていた。動き方がぎこちない。

「どんな怪我をしても大丈夫と思うなよ。いつも私がそばにいるとは限らないのだ」
「はいはい。でも、治療の術だって、そのうち教えてくれるんだろ?」
「しっかり段階を踏んで学んでいけばな。お前のようにサボってばかりでは、いつのことになるかわかったものではない」
「へっ、でも父さん以外の師匠からは筋がいいって褒められてるぜ」
 父の眉間のしわが深まった。
「いい気になるな。これからの段階が肝心だ」
「これまでのところはどうでもよかったのか?」
 いちいち揚げ足をとるアシュの頭を父はこづいた。
「いてっ」
 けが人でなかったら、もっと勢いよく殴られたのかもしれない。
「これからが難しいところなのだ。途中でやめるなよ。中途半端に能力を覚醒させると、お前自信も災難だが、世間にも迷惑をかけることになるかもしれん」
「どんな風に?」
「一概には言えない。人によって症状が違う」
「症状って……病気かよ」
「まあ、一種の病気……とも言えるな」
「危ねえな」
「だから、もっとまじめに取り組めと言っているのだ」
「わかった。わかった。とにかく帰ろうぜ! 傷はふさがったけど、なんかフラフラする。血や肉になる元を体に入れないとな。早く何か食いてえ」
 アシュがわき腹をかかえていると、ラシャが心配そうに近づいた。
「痛いの? ごめんね」
 弟は涙ぐんでいた。
「いいや、もう何でもない。父さんが治してくれたからな」
 アシュは腕を振り回して元気をアピールした。本当はまだ痛いのだが、弟に罪悪感を持たせたくなかった。
「さあ、帰ろう」とラシャの手を引き、あえて元気よく歩を進めた。
 ラシャは、そんなアシュの演技を素直に信じた。すっかり安心して、笑顔で兄に引かれるまま、ちょこちょこと小走りに進んだ。
 そんな二人の後を、父が行く。厳しさの中にも満足げな表情をたたえながら。 



 山腹に立つ一軒の木造小屋。その中では母と娘が食事の用意をしていた。
「シエラ、そろそろ帰ってくるわ」
 シエラと呼ばれた少女はアシュの双子の妹、ラシャの姉。美しい母娘であった。二人とも少し癖のある黒髪で、母の髪は肩にかかるぐらいの長さだが、娘シエラの髪は腰ほどまでもあった。母娘もよく似ているが、シエラは兄アシュと顔立ちがそっくりだった。ただ瞳の色は、父やラシャに似たグリーン・グレー。

 母娘の服装は父の服とデザイン的に似ているが、ゆるいとっくり型の首襟があり、七分袖である点が違っていた。母の服は父と同じ薄緑、シエラのは茶色だった。そして中央の当て布はどちらも白。そこに母の場合は翼をたたんだ鳳凰の刺繍が入っていたが、シエラのは無地だった。そして下衣は二人ともズボン状。ただ、男たちのように膝下を紐で固めてはいない。

 シエラが食卓に皿を並べていると、アシュが家に入ってきた。
 その顔を見るなり、シエラは悪態をついた。
「崖から落ちたんですって? ドジ! あんたのせいで食事が冷めちゃったじゃないの。温め直しよ」
「ご挨拶だな。俺は怪我をしたんだぞ。妹なら、もう少しいたわりの言葉はないのか」
「ふん。怪我人面(けがにんづら)しないでよ。すぐにお父さんに治してもらったんでしょ」
 母が鍋を運んできた。
「まあまあ、喧嘩しないの。はい。もう温まったわ」
 この母には家族がどこにいるのか、いつ帰ってくるのかがわかる。温めなおしのタイミングもぴったりだ。

 父がは黙々と皿を取り、汁を家族によそった。
 ラシャは団子(穀物を団子状にしたもの)を持ってきた。
「あんただけね。何にもしていないのは」
 シエラの嫌味に、アシュも言い返す。
「ああ? だから怪我人だっつってるだろ。けっこう大きい傷だったんだ。服の破れ方でもわかるだろ。父さんは傷をふさいでくれただけだ。完全に直ったわけじゃない。今もけっこう痛いんだぞ」
「いいわね。今日はサボる口実があって」

 母が兄妹げんかの仲裁に入った。
「今度は冷めないうちに食べなさい」
 二人は声を揃えて
「は~い。いただきま~す」

 アシュは食べるのが速い。ガツガツと遠慮なく豪快に食べる。個別によそわれている料理はともかく、ひとまとめになっている果物や団子、サラダ、おかわり分などは急いで食べないとなくなってしまうことがあるからだ。

 育ちざかりのラシャもよく食べるが、のんびりしている。年の離れた末っ子のラシャは大きな兄姉と競争しても勝ち目はない。それに、なくなりそうになると両親が「ラシャの分がなくなるじゃないの!」と上の二人をしかりつけるか、小さな弟の分を取り分けてやるので、ゆっくり食べても基本的に食べたいだけ食べられるのだ。
 そんな環境のせいか、元々の性格がマイペースなのか、ラシャはアシュやシエラが食べ物を巡って争っていても、それに同調して欲しがるということがなかった。両親が取り分けてやらないと、欲しいものがなくなってしまうのだが、そんなときも「なくなっちゃった」と静かに言いながら、もの欲しそうな目で母を見上げるだけだった。

 この日もそうだった。末っ子に哀れっぽい瞳で訴えられ、母はラシャのことを忘れていた自分を責める気持もこめながら、長子を叱りつける。
「アシュ、自分ばかり食べないで、少しは妹や弟にわけてやりなさい!」
 いつもアシュが代表で怒られるのだ。

 アシュとしては自分だけ怒られることに納得がいかない。ラシャはともかく、シエラは同罪のはずだった。一緒にガツガツ食べていたのだから。
「なんでいつも俺なんだよ。シエラだっていっぱい食ったじゃないか」
「あんたほどじゃないでしょ!」
 確かにいつも一番たくさん食べるのはアシュだった。

「ごちそうさま!」
 食べ終わると、すぐにシエラは立ち上がった。
「どっか行くのかよ」

 アシュは自分本位な行動が多いが、シエラは普通は家族全員が食べ終わるまで待ってから席を立つ。しかし、今日は食べるのも急いでいるようだったし、食べ終わると同時に食卓を離れようとしていた。

「うん。ちょっとね」
「ふ~ん」
 アシュは何も言わなかったが、意味ありげな視線を送っていた。
 シエラは不愉快そうに
「何よ」
「何でもない」
 外に出かかったシエラは思い出したように立ち止まった。

「そうそう、タマラが来てたわよ。アシュに話があったみたい」
「だれ?」
「タマラよ」
「知らねえ」
「二月前に山に越してきた子よ。ほら、お下げがかわいい」
「覚えてねえ」
「もうっ、アシュはいつも女の子に冷たいんだから」
「女の名前は覚えにくいんだよ」
「そんなに長い名前じゃないんだから、憶えてあげなさいよ」
「面倒くせえんだよ、女ってやつは。すぐ泣くし、あのかん高い声なんか、うるさくてしょうがねえ」
「まあっ。男だって、うるさいし、乱暴だし、自分勝手だし……」
 シエラはもっと延々と悪態をついてやりたかったが、アシュにさえぎられた。
「でも、今、その男に会いに行くんだろ?」
「……」
 シエラは顔を赤らめると、アシュを無視するようにくるっと背をむけて、小走りに外に出て行った。



 日が地平線近くまで傾いていた。
 森の奥、切り株に腰掛けた少年がときどき空を見上げて、また地面に視線を落とす。ほかに時間のつぶし方を知らないようだ。ため息をついている。紺色の髪に栗色の瞳。この山のふもとの町や村にはそんな髪の色、瞳の色をした人々が多い。この少年もまたアシュやラシャと同じような衿がV字合わせの筒袖服を着ていた。

 カサッ、カサカサッ
 少年は草の音を聞いて振り返った。ウエーブのかかった長い黒髪の女の子が駆けてくる。
「やあ、シエラ!」
 少年が軽く手を上げて左右に振ると、少し離れたところで娘は止まった。
「トーマ! ごめんなさい」
 約束の時間より遅くなったので謝った。
「いや……いいんだけど、何かあったの?」
「アシュが崖から落ちたの」
「えっ。それで怪我は?」
 トーマは思わず立ち上がってシエラに駆け寄った。
 シエラの声は落ち着いていたが、遅れてきたということは、何らかの処置が必要な大怪我であったということだった。
 たいしたことがない怪我なら、この家族は治療いらずだ。全員が並外れた自然治癒力の持ち主であったし、両親は他人の怪我や病気を治すこともできた。
「父が治したわ」
「そうか」
「でも、それまで動けなかったみたいで、食事が遅くなったのよ。だから、急いで食べて、走ってきたの」

 アシュの怪我に応急処置を施したのは父だが、特に医術に優れていたのは母で、うわさを聞きつけた患者が遠方からもやってくる。

「何も、そんなにあわてなくてもよかったのに」
「待たせるのは好きじゃないわ」
 トーマはシエラより二つ年上の近所の少年、幼馴染だった。シエラたちきょうだいとトーマは、よくいっしょに遊んだ。
 アシュとシエラ兄妹は勝気な者同士、小さい頃から、喧嘩ばかりしていたが、そんなときトーマはいつも仲裁に入っていた。
 少し年上で温和なこの少年トーマは、シエラともアシュとも、またほかの誰とも喧嘩することがほとんどない。
 そして今、シエラとトーマはよい友達というだけではなく、お互いを異性として意識し始めていた。

 トーマはまだ十代だったが、すでにがっしりと大きく、後ろから見れば、日々の鍛錬によって鍛え上げられたこの山の大人たちに混じっても遜色のないほどだった。ただ、面立ちはその大きい図体に似合わず、優しくあどけなかった。好感は持てるが、大きな体躯とあまりにもアンバランスなので、はじめて見るものの笑いを誘う。

 一方のシエラは鄙にはまれな美少女である。着飾った麗人を見慣れている都人(みやこびと)がやってきても、シエラを見ると振り返る。高価な衣装やゴテゴテした装飾品を身に着けているわけではないし、化粧もしていないが、頭のてっぺんからつま先まで、すでに完成した美と健康的な美しさがあった。

 しかし、こうやって二人きりで会っていても愛をささやくわけではない。恋人同士という自覚もない。ときどき会って、たわいもない話をする仲良しの幼馴染。二人とも、それで十分楽しかった。

 話をするうちに日は沈み、あたりの景色が青黒くなっていた。
「暗くなっちゃったね。ご両親が心配するよ。帰ったほうがいい」
「うん。じゃ、トーマも気をつけてね」
 シエラが手を振ると、トーマも手を振り返しながら、シエラの遠ざかるのを見送り、姿が完全に見えなくなってからシエラとは逆方向に歩き出した。

 トーマの家も木造小屋であるが、シエラたちの家より小さい。
 小屋に戻ったトーマは鼻歌など歌って上機嫌だった。足取りも軽く屋根裏にある自分の部屋へ向かおうとしたが、呼び止められた。
「トーマ」
 家の奥にはやせ気味で小柄な老人が座っていた。その小さく細い目は開いているのか閉じているのかよくわからない。
「じいちゃん。ただいま」
 トーマは階段に足を掛けていたが、老人が何か言いたげなので、動きを止めた。
 老人はあごひげを手先でもて遊びながら、少し考え込むように黙っていたが、
「どこに行っていた?」
「すぐそこだよ」
「またシエラさまと一緒だったのかね」
「ああ」
 老人は不安そうな目でトーマを見つめた。
「トーマ。わかっているな」
 トーマは目をそらせた。
「心配しなくていいよ。話をしているだけだ」
「シエラさまはジュートさまのお嬢さまだ。お前の手に届く方ではないのだからね」
「わかっている」
「たとえ、シエラさまがお前に好意を示されたとしても、いかんぞ」
「じいちゃん……」

 この老人は血の繋がったトーマの祖父ではなかった。捨てられていたトーマを拾い育てたのだ。老人はトーマを孫のようにかわいがったし、トーマも老人を父とも祖父とも思いながら孝行している。その《じいちゃん》の言には逆らえない。

 しかし、柔らかな抵抗が疑問の形になった。
「でも、シエラにふさわしい相手って、例えばどんな男かな」
「もし、この鳳凰山で選ばれるとすれば、厳しい修行を積み、比類ない能力を開花させた方であろう。あるいは、外の世界の立派な御方に嫁がれるかもしれん」
「政略結婚させられるのか?」
 身もふたもない孫の言葉に祖父は眉をしかめた。
「ジュートさまは無理じいはなさるまい。しかし、恋愛や結婚のお相手としては、しかるべき方をとお考えではあろうな」
「そうだよな。やっぱり」
 そんなことはわかりきっている。いまさら言われるまでもない。
 トーマは納得しているつもりだったが、ため息が出てしまうのだった。


 ここ鳳凰山は一種の国であった。もともと山のふもとに点々と村があっただけだったのだが、ジュートを長とする鳳凰会ができてから、地域が有機的につながりだした。最近では町らしきものも発展してきた。そうやって、山しかなかった辺境の地に近隣諸国に組みさない自治組織が出来上がっていった。

 「鳳凰山」という名の山があるわけではない。山がちの場所に三きょうだいの両親であるジュートとエリカが鳳凰会という組織を作ったために、一帯がそう呼ばれることとなった。国としては小さいが、その住民のほとんどが家族が鳳凰会に属すなど、なんらかの形で会と結びついていた。そして会の一員は特別な訓練を受けていた。体術や武器の扱いに優れた者、ある種の超能力を持つ者、技術や芸術の才を伸ばす者、結果はさまざまであったが、有能な人材を輩出していた。そのため、鳳凰会の人材育成システムは、厳しいが、それなりの効果を持つものとして外の世界からも一目置かれていた。そして、鳳凰会の一員は「会士」と呼ばれた。

 かつて諸外国にとっては《なにもない辺境の地》であったこの一帯、最近では、鳳凰会自体の成長に加えて、鳳凰会出身の人材が諸国で活躍するようになっており、小国ながら無視できない勢力となりつつあった。
 ジュートはこの鳳凰会の開祖である。短期間のうちに今の鳳凰会および鳳凰山の基盤を固めたカリスマ指導者だ。
 その長子アシュには後継者としての期待がかかっていたし、シエラやラシャもいずれ「山」を率いる幹部の一人と目されていた。


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トーラス

 旅支度を終えたアシュは、シーボクに荷物を載せていた。

 シーボクとはアイベックスに似た有蹄類。馬のようなたてがみと尻尾、ヤギのような角と髭がある。しかし、全体的に馬やヤギより毛が長めで羊のようにも見える。暑さ寒さ、乾燥に耐え、しかも、いざというときには馬のように速く走ることができるため、長旅にも重宝。ただし、シーボクは頑固な性質で、往々にして人の指示に従わないなど、育てにくいところがある。鳳凰山では家畜化に成功していたが、他の地域では使われていない。

 アシュは、そのシーボクにまたがると手をあげた。
「じゃ、行ってくる」
「アシュ、どうしても行くのか」
 旅に出ようとするアシュを父は引き止めたいようだった。
「トーラスは遠いぞ」
「わかってる。でも、行くなと言われると、余計に行きたくなる」
「行くなとは言わない。だが、あそこは鳳凰と名のつくものや鳳凰の図柄もタブーの国だ。鳳凰会士は入らないほうが懸命なのだ」
「でも、先の暴君の家紋が鳳凰だったからで、別に鳳凰会のせいでそうなったんじゃないんだろ? 坊主憎けりゃで、とばっちりを受ける鳳凰が気の毒だよな」
「うむ」
 父は心配というよりは、むしろ落胆したように沈んでいた。
 アシュは父を宥めるように念を押した。
「『鳳凰山から来ました』とか『鳳凰会です』なんて言わないからさ。黙っていれば何もわからない。会服も着ない」

 会服とは鳳凰会の制服のようなものだった。動きやすいので、ジュートやエリカ、シエラを始め、会士たちは普段から会服で過ごしていることが多い。アシュやラシャの普段着は稽古服と呼ばれる。修行者や子どもは稽古服のまま動き回るが、大人の会士はたいていその上に会服を着る。今日はそれとも違って、丸首、自然色のチュニカの上に茶色のマントを羽織っていた。

「では……気をつけて行ってくるがいい」 父はしぶしぶ送り出した。
「ああ。じゃあ」とアシュはシーボクの上から元気に手を振りながら出立した。

 アシュは特にトーラスに用があるわけではなかった。しかし、父ジュートの示唆で鳳凰会士が入らないトーラスという国に、へそまがりのアシュはぜひ入ってみたかった。
 ジュートは会士にトーラス入りを禁止してはいない。しかし、カリスマ会主に「行かないほうがいい」と言われれば、あえて入国する気になれないのが一般の会士であった。

 トーラスへ行ったことのあるものが少ないから、その情報も少ない。アシュはあまのじゃくな性向による好奇心だけでなく、どんな国なのか、自分の目で確かめ、山のみんなに知らせてやりたいという使命感のようなものも持っていた。
 いったい、どんな国なのだろう?



 トーラスに行くには砂漠を越えなければならない。鳳凰山から山や川を越え、森や町々を抜け、北ソーマン砂漠に入る。砂漠にはところどころオアシス都市があるので、そこで休みながら行く。
「砂漠ってのは、行けども行けども、同じ景色ばかり。退屈だよなあ」

 そんなのんびりしたことが言えるのは、旅がとりあえず滞りなく進んだからだった。当たり前のことではない。少年の一人旅と見て、賊に襲われないとも限らない。

 その砂漠が尽きかけていた。ところどころに乾燥に強い草が生え、眼前に見える山々は寂しいが木々の緑が覆っていた。
「ルビン山脈だ。あれを越えればトーラスだ。行け!」
 アシュはそれまでポクポクとゆっくり歩いていたシーボクを軽く走らせた。
 岩場をも自由自在に駆け上るシーボクは、通常の山道など、ものともしない。すぐに山をのぼりつめた。

 山の頂上から西を見ると、遠くにうっすらとトーラスの町が浮かび上がった。
「おっ、見えてきた!」

 もうすぐトーラスだと思うと、たまりにたまった疲労も吹っ飛んだ。
 未知の国に入る興奮でアシュは高揚していた。きっと目新しいものがたくさんあるに違いない。アシュは、はやる気持ちが抑えられなかった。
「駆け足だ!」
 さらに、シーボクの速度を上げた。



 トーラス最初の町はゴミンだった。トーラス人は褐色の肌、赤い髪をしていた。瞳の色は緑が多い。肌色が明るめの人間もいたが、それは大抵、外国からの商人だった。アシュの髪は赤茶けていたので、後ろからは異国人であることがわからない。背後から声を掛けられて道を聞こうとした相手が、振り返ったアシュを見て「失礼」とそそくさ去っていくこともあった。

 ゴミンからは海岸沿いの町に泊まりながら進んだ。首都スオウに近づくにつれ、同行の旅人が増えてきたような気がした。わりと軽装で、荷を積んだ車や馬などを連れていない。明らかに商人ではないトーラス人だ。しかし、首都だから行く人も多いのだろうとアシュはさほど気にもとめなかった。



 市門の前は商人や旅人の行列ができていた。都に入るのに資格や特別な許可が要るわけではないが、一人ひとり入市の確認をする。もちろん出ていくときも同様だが、入るときほど厳しくチェックされない。

 入市を許されたアシュは町に入り、あちこち歩きまわったが、
「なんか、期待はずれ」

 トーラスの都スオウは思ったほどエキゾチックなところではなかった。ここに来るまでに通り過ぎてきた小さな町や村のほうがよほど個性的だった。原色コントラストの激しい模様の服地を身につけた人々の町、耳や鼻に大きな輪をつけた人々の村などがあった。

 鳳凰山に大都会はないが、トーラスよりもはるかに近いエリースの首都オーマを訪れたことがある。大都会オーマは華やかだった。ここスオウはにぎやかだが、オーマを知るアシュにとっては可もなく不可もなく、これといって珍しいものもない、ただの町であった。

「都会というのは、どこも同じなのかなあ。でも、まだ来たばっかりだ。そのうち何か面白いものが見つかるかもしれない」
 通商が盛んな大都会はグローバル化が進んでしまっているようだ。少しがっかりしてしまったが、中心に近いところに宿を取り、とりあえず旅の疲れを癒すことにした。



 翌日、ゆっくりと起き出し、遅めの朝食をとって外に出たアシュは町が昨日よりにぎやかさを増しているように思った。時間が経つほどに人が増えてくる。
「祭りでもあるのかな」
 アシュは当てもなくぶらぶら通りを歩いた。

 人の流れについていくと、広場に出た。屋台も並んでいる。アシュはそんな屋台の店の人に聞いてみた。
「あの~、旅の者なんですが、今日は特別な行事でもあるんですか?」
「ああ。今日は解放記念日なんだよ」
「解放?」
「今から約二十年前の今日、この国に悪政を敷いていた暴君が倒されたんだ」
「へえ~」
 記念行事の日に偶然居合わせることができたとは、なかなかついている。
「あれっ?」
 鳳凰柄の旗が見えた。
(この国では鳳凰はタブーじゃなかったのか?)

 しかし、その謎はすぐに解けた。
「二十年前の今日、我らを虐げていた独裁者が打倒された。今日という日をみんなで祝おうではないか」
 そう言った青年は鳳凰柄の旗に火をつけ、群集はそれを見て歓喜の声を上げた。
 その旗の図案は鳳凰会のものともよく似ていたので、アシュとしてはいい気持ちはしなかった。

 用意されていたのは旗だけではなかった。元独裁者の肖像を描いた紙や板もあった。焼いたり、やぶったりするためのものだ。
 そして、その絵を見たアシュは奇妙な感覚に襲われた。
 少し父さんに似てる……。


 そのとき、背後からすすり泣くような声が聞こえ、アシュは振り返った。老女が泣いていた。
「どうかしたんですか?」
 老女は袖を目に当てた。
「いえね、ただ、昔のことを思い出して……」
「おばあさんは、スオウの人ですか」
「そうだよ」
「じゃあ、あの暴君のこともご存知ですよね」
 アシュは燃えている独裁者の絵を指さした。
「ああ」
「あの~、よかったらお話を聞かせてもらえませんか?」
「何を話したらいいのかね?」
 その声は涙に震えていた。
「私は旅のもので、偶然、この催しに出くわしたのです。その暴君のことは全然知りません。何でもいいですから、知っていることを話してください」

 老女は涙を拭いて、鼻をかんだ。そして、気持ちを落ち着けると、話しはじめた。
「あいつがどこから来たのかは知らない。誰も知らないんだ。でも、土地の者じゃなかった。容貌からすると、たぶん北方人だ」
 絵に描かれた独裁者は色白で髪の色も薄い。それは北方人の特徴であった。

 再び涙が止まらなくなった老女はしばらくすすりないて、それから、また話を続けた。
「諸国には王政の国が多いけど、このトーラスは合議制の伝統が長くてね。それを誇りにもしていたよ。でも、だからといって、政治がきれいだったわけじゃない。当時は腐敗が進んでいて……、議院の醜聞や汚職も公然の秘密、それがまかり通っていた。そんな状態に我慢できなくなった若者の集団がクーデターを起こして政権を握ったんだよ。そのリーダーだったのがジュートさ」
 アシュは一瞬耳を疑った。
「今、ジュートって言いませんでした?」
「言ったよ」
「それ、暴君の名前ですか?」
「そう」
 同名の別人? でも、さっきの絵も父さんに似ていた。でも……いくら何でも……まさかな。

 うろたえるアシュを老女は不思議そうに見つめた。
「それがどうしたんだい?」
「いいえ、何でもありません。話を続けてください」
 老女は少し咳こんだ。
 だが、アシュが背中をさすると、老女の咳はたちまち収まった。
「ありがと。あんたの手、効くねえ」
「どういたしまして」
 礼を言いながら、しかし老女は複雑にゆがんだ顔でアシュを見つめた。
「ジュートみたいだ」
「え?」
「ジュートもそんなことができたっけねえ。最初はそれで、みんな騙されちまった。神様みたいに持ち上げてさ」
「《そのジュート》の手にも治癒能力があったんですか?」
「そうだよ。それだけじゃない。ジュートはカリスマ性があって、人を引きつけた。クーデターの仲間だけでなく、トーラスの民衆も最初は喝采したもんさ。初めのうちはよかったんだよ。議会は開かれなかったが、腐敗は一掃されたし、治安も良くなった。何もかもがうまくいくかに見えた。でも、そのうち本性を現したのさ。横暴な振舞いが目立つようになったんだ。気に入らないものは共にクーデターを起こした仲間ですら粛清された。一般市民はあいつの悪口も言えなかったよ。あいつの手先に聞かれると、逮捕されちまうし、その場でなぐり殺されることもあった」
「ひどい話ですね」
 アシュは眉をひそめた。
「政権に批判的な者は、ことごとくしょっぴかれていったよ。別件逮捕も横行していた」
「おばあさんもひどい目にあわされたんですか?」
「そうさ、私の息子も殺された」
「何をしたんですか?」
「何もしなかったのさ」
「どういうことですか?」
「息子は建築家でね。ジュートの城を作るよう命じられたんだが、断ったんだよ。独裁者の城など作りたくないと言ってね」
「それで死刑?」
「判決があったのかどうかも知らないよ。でも、連れて行かれて、しばらくして帰ってきたのは遺体だった。うっ、ううううっ」
 老女はまた声をあげて泣きはじめた。

「すみません。思い出させてしまって」
「いいんだよ。一人でも多くの人に知っておいてもらいたいからねえ」
 アシュは、辛そうな老女に申し訳ないと思いながらも、どうしても確認しておきたいことがあった。
「で、そのジュートは死んだんですよね。二十年前に」
「ああ」
「どうやって死んだんですか」
 ジュートが死ぬ話となったとたん、老女はまた嬉々として語り出した。
「あれはなかなか見ものだったよ」
「じかに見たんですか?」
「ああ、観客席が隙間なく埋まった競技場で殺されたからね」
「そ、そうですか」
 アシュは胸をなでおろした。

 そのジュートは死んだんだ。やっぱり父さんじゃない。

「ジュートの暗殺計画はたくさんあったんだけどね、どれも失敗に終わったんだ。あいつは特別な能力を身につけていて、難なくクーデターが成功したのも、その後の暗殺がことごとく失敗したのも、その妙な力によるらしいんだ」
「妙な力って、どんな力ですか?」
「私にはよくわからないけど、恐ろしく強いらしい。武器を持っていても、素手でも、やつに敵うものはなかったという。一対一ではもちろん、数名で取り囲んでも、やつにやられてしまう。しかも、運よく深手を負わせても、ビクともしないんだと」
「そんな相手をどうやって倒したんですか?」
「不甲斐ないことに、ジュートを倒したのはトーラス人ではなかった」
「外の人間だったと?」
「エリースからきた男だった」
「刺客……ですか」
「刺客なんていうおとなしいもんじゃなかったね。堂々とやってきたよ。ジュートが自らの権力を誇示するために開いた祭典で、民衆の見守る中でジュートを殺してくれた。その場はジュート打倒の祭典に早変わりさ」
「何が起こったんですか?」
「あれを見た者は一生忘れないだろうね。あんな試合はもう二度と見られないだろうよ」
「試合……だったんですか」
「ああ。催し物として格闘試合も用意されていてね、その一人として会場に紛れ込んだ例のエリース人がジュートを挑発したのさ」
 老女は自分が独裁者に挑んだかのように得意気だった。
「どう挑発したんですか?」
「ジュートを名指しして試合を挑んだんだよ」
「で、暴君ジュートはそれに応えたというわけですか」
「よっぽど自信があったんだろうね」
「武器は何を使ったんですか?」
「素手だったよ」
「エリースから来た者は、素手でその強いジュートを殺すことができたのですか?」
 アシュは確認するように両手を上げて、老女の前で指を広げた。
 老女は黙ってうなずいた。
「素手だったから殺せたのかもしれないね。不死身と思われていたジュートが素手の攻撃で死に至るとは誰も思っていなかったから、警護の兵士も止めなかった。ジュートも助けを呼ばなかったしね。最後にジュートは血を吐きながら倒れたんだ」
「そんな芝居のような派手な殺し方をして、そのエリース人の男はあとで逮捕されたりしなかったんですか?」
「言ったろう。そのころにはもう、このトーラスにはジュートの味方より敵のほうが多かったんだよ。私らトーラス人は、ジュート本人を殺すのには外の力を借りたけど、それだけやってもらえれば、あとはトーラス人の手で政権を奪い返すことができたのさ」
「本人は本当に死んでいたんですよね」
 アシュは念を押した。
「ああ。そうでなかったら、そのままってことはなかったろう。生きていたら、また返り咲いたろうさ」
「墓はどこにあるんですか?」
「ないよ」
「ない? では遺骸はどうしたのですか?」
「トーラス人のほとんどはやつを嫌っていたが、やつを支持する連中もいた。最後まで仲間内でのカリスマは保ち続けていたからね。聖地みたいなものができないよう、荼毘にして、あちこちに撒いたのさ」
「荼毘に付されたその遺体は、本当に本人のものだったと言えますか?」
「あんた、さっきからしつこいね。ジュートがまだ生きているって言いたいのかい?」
 老女は顔をゆがめた。
「いえ、ただ、そんなに強い人間が、あっけないなあと思って」
「私もそう思ったよ。でも遺体は死んだその場で焼かれたんだ。間違いない」
「そ、そうですか」
 さらに詳しいことは、これ以上話してもわからないだろうと思ったアシュは、老女に礼を言って、別れた。


 アシュは、町のあちこちで燃やされている独裁者ジュートの絵を見ながら、何度も首を振った。

 似ている。でも、絶対に違う!

 広場では、ジュートの悪逆非道ぶりと、そこからの解放をテーマにした劇が催されていた。
 ジュートの行列の前を横切った子供が殴られる。貧しい人が重税を取り立てられる。抵抗するものは殴られる。わずかな罪で処刑される人々。政治犯への拷問。

 それらを見ながらアシュは自問自答した。
 芝居の話をおもしろくするために誇張されているんだろうか。それとも、本当に起こったことなのだろうか。大昔の話ではない。二十年前の出来事だ。それほど歪曲されてはいないと考えるべきだろう。

 どういうことなんだ? 父さんは、それでトーラスには行くなって言ってたのか? いや、違う。これは父さんじゃない。父さんは罪の無い人を殺すようなことはしない。

 せっかく遠路はるばるやって来たトーラス。もっと長く滞在するつもりだったが、釈然としない気持ちを抱えて、のんびり観光などできるわけもない。父と話をしなければと帰路を急いだ。


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アシュの覚悟

 帰り道には景色を楽しむ心の余裕はなかった。トーラスの祭で燃える鳳凰と父に似た《独裁者ジュート》が脳裏に焼きついて離れなかった。

 慣れた景色、山々が重なる鳳凰山が見えてもアシュはほっとした気持ちになれなかった。むしろ、父と会うのが恐い。

 我が家に入る前に、深呼吸した。
 そして、扉を開けた。
「あらアシュ、早かったじゃない」
 出迎えてくれたのはシエラだった。

 いきなり父との対面でなくてほっとしたが、アシュはシエラにも笑顔を見せることができなかった。無言で通りすぎようとした。

「ちょっと~。『ただいま』ぐらい言ったら?」
「父さんはどこにいる?」
 シエラはアシュの様子が変だと思った。何かあったのだろうか。
「父さん? 山の上だと思うけど」
 アシュは山頂のほうを見上げると、意を決したように向かった。

 アシュは普段、だらしないほどに力が抜けている。よく言えばリラックスしているのだが、悪く言えばしまりがない。ときたま稽古中に本気になったり、真剣な表情を見せることがあるが、それはごくごく稀であったし、そんなときもあるという程度だ。

 ところが、トーラスから帰宅したこのときのアシュは別人のようだった。終始厳しい顔でにこりともしない。体の動きもせかせかして落ち着かない。

 山頂へも、バタンと乱暴に戸を閉ざしたかと思うと、駆け出した。
「どうしちゃったのよ。まったく。帰ってきたばかりなのに……」
 シエラは肩をすくめた。


 アシュら家族の住む木組みの家は神山と呼ばれる山にある。その山頂付近には鳳凰会の本寺があるが、父は寺の中ではなく、寺の近くの岩場で岩壁に向かって瞑想していた。
 背後に立つアシュに気がついているのかいないのか、そのままじっとして動かない。薄目を開いているが、どこを見るというのでもない。

「父さん、話がある」
 父は瞼(まぶた)を上げたが、何も言わなかった。
「今すぐに話したい」アシュは、もう一度催促するように言った。
「何だ?」
「こっち向けよ」
 父の背中と話す気はなかった。

 アシュの声は静かだったが、父は息子の声に怒りの炎がくすぶっているのを感じた。
 ゆっくりと向き直った。しかし、その視線はアシュではなく、伏し目がちに地面に落ちていた。

 アシュは父をまっすぐ見据え、非難するように言った。「トーラスに行ってきた」
「そうか」
「祭のようなものがあった。独裁政権からの解放二十年を祝う記念行事だった」
「うむ」
 父の表情は変わらなかった。
「あそこにはかつてジュートって名前の暴君がいたらしい。そいつを倒したのがちょうど二十年前だったそうだ」
 それでも父は何も言わずに聞いているだけだった。
「そいつの絵もあった。燃やすために用意されていたものだ。父さん、あんたによく似ていたよ」
「そうか」

 一言しか答えない父に、アシュは痺れを切らして叫んだ。
「『そうか』じゃねえだろ。どういうことなんだよ。そのジュートって誰なんだよ。ここのみんなにトーラスに行くなって言ってるのには、わけがあるんだろ? 何か知ってるんだろ?」
 アシュにはトーラスにかつて暴政を布いた独裁者と父が同一人物であるとは思えなかった。思いたくなかった。
 しかし、父がつぶやいた。
「私だ」
「え?」
 アシュは一瞬、何を言われたのかわからなかった。
「その独裁者は私だ」
 父はもう一度はっきりと言った。

 次の瞬間にはアシュから全身の力が抜けていった。
「独裁者ジュートは死んだって……」
 声がうわずった。
 老女のから聞いた話では死んだはずだった。そうだ。死んだのだ。

「死んだことになっている」
 ちがう。父さんじゃない。
 そんなアシュの幻想は、父本人の言葉によってうち壊されてしまった。
「無実の人が投獄されたり、殺されたりしたと聞いた」
「そんなこともあったかもしれない」
「どうして?」
 アシュはその場にしゃがみこむように崩れた。

 父は依然として冷静だったが、寂しく悲しい目をしていた。
「アシュ、黙っていてすまなかった。お前がトーラスに行く前に話しておくべきだったかもしれない。だが、その勇気がなかったのだ。トーラスに行っても、何も気がつかずに帰ってくるかもしれない、そう願ったのだが……。そうか、ちょうど二十年になるのか」

「なんで、そんなひどいことを?」
 アシュにとっては厳しくとも、頼りがいのある父だった。悪人ではない。父を慕っているのはアシュばかりではない。父は会士たちからも尊敬されている。

 アシュは力なくへたっていたが、ジュートの目もまた悲しげだった。
「私は権力者などになりたくはなかった。祭り上げられたのだ。私は元々トーラスの人間ではなかったし、いずれトーラスから去るつもりでいたから、はじめは傍観していたのだ。しかし、親しくなった友人が政権闘争に倒れたり投獄されたりするようになると見過ごすこともできなくなった。それで、結局クーデターに加担することになってしまった」
「加担じゃなくて、あんたが頭(かしら)だったんだろ?」
「計画の実行を主導したのは私だが、クーデターそのものは私の提案ではない」
「だが、その後、独裁政権の長におさまったのはあんただったな」
「そういうことになってしまった」
「人ごとみたいに言うなよ」
 アシュは父の無責任な口ぶりが許せなかった。
「私の意図したことではなかった。先ほども言ったように、祭り上げられたのだ。私は特別な能力を持っている。通常の戦いで私自身が死ぬことはないし、ある程度の術は短期間でも教えることができる。私の周りには腐敗した当時の政権に憤っているものが大勢いた。彼らを鍛え、小さな軍隊のようなものを作った。そんな活動の中で私の能力は彼らには神業のように見えたらしい」
「他人のせいにするなよ。嫌だって断ればよかったじゃねえか」
「今から思えばそうだ。しかし、当時は中途半端な責任感から受けてしまった」

 アシュにはそんな父の言葉も言い訳にしか聞こえなかった。
「で、そのあとの悪逆非道はどう説明してくれんだよ」
「クーデターを成功させるのは簡単だった。しかし、実際に国をまとめていくのは至難の業だ。初めはよかった。仲間たちもよくやってくれた。しかし、権力のあるところには色々なものが集まってくるものだ。一掃したはずの腐敗とも無縁ではなかった。共に戦った仲間たちも変わっていった。そして、あるとき、私は最も信頼していた者に命を狙われた。危ういところだった」
「そいつに弱点でも教えてあったのか?」
 父はめったなことで死なない。父を越える実力者は稀だ。
「いや、武器で殺傷することはできなくても、毒殺はできると考えたようだ」
「なるほどね」
「しかし、私は毒に気がついた。殺意はわかる。弱い毒でも長期にわたって盛られたら、危なかったかもしれないが、彼は自らの手で強い毒を杯に混ぜ、一思いに私を殺す方法を選んだ。私から信頼されていることを知っていたからだ」

 父は言葉を切った。
 ひょっとして涙? 気のせいかもしれないが、父の瞳が潤んだように思われた。

「そのときまで、私は私なりに一生懸命、政務に励んでいた。しかし、そこで何かが切れてしまったのだよ。誰も信じられなくなってしまった」
「それで粛清の嵐か? でも、一般の民衆には関係ねえだろ」
「その後も似たような事件が何度かあった。権力者とは孤独なものだ。本当の味方がいない。私はだんだん投げやりになってしまった。どうでもよくなってしまったのだ。民衆を弾圧したつもりはない。しかし、民衆を救うつもりも、もはやなかった。末端でどんなことが行われていたか、詳しくは知らない。罪なき者が罰せられたりしたことがあったのかもしれん」
「知らなかったって言うのかよ」
「責任のがれで言うのではない。信じられないかもしれないが事実なのだ。もちろん、上に立つものが知らないでは済まされない。知らなかったこと、知ろうとしなかったことに責任がある。もっとも、当時の私では、知ったところで何もしなかったかもしれないがね」

 アシュも表面的には落ち着いていた。
 これは父ではない。誰か別人が昔の過ちを語っている。
 心のスイッチをそんな風に切り替えて聞いていた。

「そんなときだよ。あの男が現れたのは」
 老女が語ったエリース人のことだろう。
「素手であんたをやったんだってな」
「ああ。群集の見守る中、私を格闘の相手に指名してきたよ。断ることもできたんだが、なぜか受けてしまった。やはり、もうどうでもよかったのだ。死に場所を探していたのかもしれない」
「やられない自信はあったんだろう?」
「ある程度はね」
「ある程度? あんたは普通の相手と普通に戦っても死なないだろ? しかも素手だぜ」
「あれは見知った男だった。エリースの神官の一人だ。あの男は心理攻撃を使う。私の自責の念や、悔恨、反省を促すものだった。修行の日々や、そのとき私を支えてくれた友や……」
 父は言葉をつまらせた。このときははっきりと目に涙が浮かんでいるのが見えた。
「とにかく、過去の記憶が無理やり頭の中に展開してきた。私は何もできなかった」
「婆さんの話とはだいぶ違うな。あの人は、とにかく迫力のある《試合》だったと言っていた。最後の最後までジュートが押されているようには見えなかったと」
「そう……だったようだな。外からどのように見えていたかはわからないが、あの男は最後には私を説き伏せてしまったよ。それで、自ら死を選んだ」
「自殺? ……だったのか?」
「そう。私は私自身の生命の元を絶った……つもりだった」
「で、なんで生きてるんだ?」
「わからない。私は気を失っていた。気がついたらここにいたのだ」
「ここって、この山か?」
「そうだ」
「誰が連れてきたんだよ?」
「エリカだ」
「母さん?」
 母も同罪なのか?! アシュは自らの立つ土台が崩れていくように感じた。

 そんなアシュの動揺を見抜いてか、父は言った。
「安心しろ。私がトーラスに君臨していたとき、エリカはそばにいなかった」
 アシュは少しだけだがほっとした。少なくとも母は《無実》だ。

「あのままでは本当に死んでいただろう。エリカは私の命の恩人だ」
「トーラスの婆さんは、ジュートの遺体は荼毘に付されて、その灰は散布されたって言ってたぜ」
「そういうことにしたのだろう」
「誰かの遺体とすりかえたのか?」
「さあ、私は私が意識を失っている間のことは知らない。しかし、私は現にこうやって生きている」
「生き残ったんなら、名前ぐらい変えとけよ。恥ずかしくねえか?」
 アシュにしても名前が同じでなかったら、肖像画がどんなに似ていても、父がかつてのトーラスの独裁者なのではないかと疑ったりはしなかっただろう。
「会がこのように大きくなることがわかっていれば、早くに名前を変えていたかもしれない。しかし、最初は山でひっそり暮らすつもりだった。知り合いができてから改名すれば、余計に奇異な印象を与える。そのため、そのままになっている」
「しっかし、懲りねえな」
「何がだ?」
「ひっそりと暮らすつもりだったんだろう? それが、どうだよ。悪いことをしていないだけで、今だって独裁者みたいなもんじゃないか」
「私もそう思わないでもない。しかし、まだ国の規模が小さいから目が届く。ここの者は皆、私かエリカの直弟子だ」
「でも、だんだん大きくなっているんだろう? そのうちまた同じことの繰り返しにならないって保証があるのかよ」
「保証はない。しかし、同じ過ちは繰り返さないつもりだ。それに、今はエリカやお前たちもいる」
「信じていいのかどうかわからない」

 アシュは父が横暴に振舞う姿など想像できない。しかし、その父が、かつてはトーラスの民を苦しめる暴君であったというのは、まぎれもない事実なのだ。

「アシュ、大きくなった鳳凰会を支えていかなければならないのは、お前だ。私の二の舞を踏まないよう気をつけなければならないのは、むしろお前なのだ」
「俺?」
 アシュは矛先が自分に向いてきて当惑した。

 確かに長期的にはそういうことになるな……

 アシュは、自分が山を率いることなど、具体的に考えたことがなかった。周囲から後継者と見られていることはわかっていたが、その自覚がまだない。父も母もまだ若い。十代のアシュにとっては、会主の座を引き継ぐことなど、はるかに先の話と思われた。

「私は会が大きくなる前に死ぬだろう」
「でも、今のままなら数十年後にはけっこう大きくなりそうだぜ」
「私は十年以内に死ぬ」

 父は突然、何を言い出すのだろう。アシュは耳を疑った。
「どこか具合が悪いのか?」
「私は一度死にかけた。命はとりとめたが、寿命は確実に縮んでいる」

 十年だと? いや十年以内と言ったな。十年より短いかもしれない? 

 大きく力強い父。アシュもまた父が不死身であるかのような錯覚を抱いていた。父がいなくなるなど、そして自分がその代わりを務めることなど、想像できなかった。

 父は病人やけが人の死期を予測することができた。その予測は外れたことがなかった。ひょっとしたら一見健康体の人の余命を予測することもできるのかもしれない。まして自分自身の体のことは本人が最もよくわかっているだろう。父が十年以内と言いきったら、まず間違いなくその通りになると考えなければならない。

 アシュはどっと疲れが出てきた。それは旅の疲れなのか、父の過去を知った精神的なショックによるものなのか、はたまた、近い将来に鳳凰会全組織を率いなければならないという事実をつきつけられて、自分が背負わされる責任を思ってのことだったのか……。おそらく、そのすべてがないまじったものであったろう。



 父の言葉はアシュに重くのしかかった。今すぐどうこうということはないだろうが、あと十年たってもアシュはやっと二十代、父を失って山を率いるためには、それまでに山の年長者たちを納得させるだけの能力を身につけておかなければならないということだった。

 根性や勤勉といった言葉とは無縁だったアシュの生活が一転した。何事にもちゃゃらんぽらんだったアシュが心根を入れ替えたように勉学や稽古に身を入れだした。

「いったい、どうしちゃったのよ」
 シエラは感心するというよりは、あきれていた。急にまじめに稽古に励みだしたアシュを横目に、どうせ三日坊主に決まっていると、あまり期待していない。
「俺だってやるときはやるんだ」
 そして、三日を過ぎてもアシュの意欲は変わらなかった。



 ある日、アシュが一汗かいて家に戻ってくると、シエラが手ぬぐいを差し出した。
「トーラスで何かあったの?」
 さぼり魔のアシュが急にまじめ人間になったのには訳があるはずだ。
「お前もそのうち、トーラスに行くといい。いや、わざわざトーラスに行かなくてもいいんだ。ただ……」
 アシュは言いかけて言葉を切った。

 自分が父から聞いた話はシエラやラシャも知っておくべきだと思った。だが、話すのは躊躇してしまう。自分ではなく、父の口から直接聞くべきではないか。

「ただ、何?」
「トーラスから帰ってきてすぐに、父さんと話をした」
「ええ、そうだったわね」

 父さんはどこにいる? それが旅から帰ってきたアシュの第一声だった。シエラはそのときのアシュが異様な雰囲気を漂わせて父のいる山頂に向かったことを忘れていなかった。そして、アシュはその後、人が変わったように規則正しい生活を送り、師の教えにも素直に従うようになったのだ。

「シエラ、お前も一度、父さんとじっくり話をしたほうがいい」
「何の話?」
「父さんの昔の話だ」
 ほんのわずか間があいた。

「父さんが一度死にかけたって話?」

 えっ?

 アシュはシエラを呆然と見つめた。「シエラ、お前は……」知っているのか? どこまで知っているんだ?

「私は母さんから少し聞いてるの。あんたが父さんから聞いた話と同じかどうか知らないけど」
 アシュは驚いて、一瞬、意識が飛んでしまった。だが、すぐに我に返った。
 シエラがある程度知っているなら、自分が話しても構わないはずだ。父が口どめしなかったのは、きっとそういうことなのだ。

「トーラスの独裁者だったことも?」
「ええ」
「罪のない人を殺したりしたって話とか」
「そんな話も聞いたわ」
 アシュは黙ってしまった。シエラは知っていた……。かなりショックだった。

「それ、いつ聞いたんだ?」
「いつって聞かれても困るのよね。私は一度に全部聞いたわけじゃないの。母さんは折を見て、少しずつ話してくれたわ」 
「そんなに昔から聞いていたってことか」
「二~三年前からかな……」
「俺にはどうして話してくれなかったんだろう?」
 アシュはせっかく父の後継者としての自覚と責任に目覚めたところに、冷水を浴びせられたような気分だった。子供たちの中では、自分が父から真っ先に聞いたことだと思っていたのに。こんな大切なことが、シエラには伝えられても、自分には秘されていた。お前が後継者であると持ち上げておきながら、あまり信頼されていない。

 だが、
「あんた、妙に正義感が強いところがあるからよ。いくら昔の話でも、そんなこと絶対に許さないんじゃないかって、父さんも母さんも心配してたの」
「そりゃ、許せない。でも俺が許そうが許すまいが、起こっちまったことは変わらないだろ? 第一、俺が許さなかったらどうだってんだよ」
「父さんは、あんたが山を出て行くことを一番恐れていたわ」
 アシュの中にこみ上げてきていた怒りに似た感情が少し収まった。
「ふ、ふ~ん。俺みたいな不肖の息子でも、案外頼りにされてんだな」
「ホントね」
 妹の失礼な冗談はふっと笑って受け流し、再びまじめな顔に戻る。
「ラシャは知らないよな」
「ええ、たぶん。あの子はまだ小さいから」
 アシュは軽く深呼吸した。
「父さんが、長く生きられないってことも聞いたか?」
 今度はシエラが黙った。

「私は母さんから主に医術を学んでいるわ。生気の流れが感じられるの。ほかにも読心術とか、いろいろな術を勉強しているんだけど……」
「知ってたんだな」
「ええ」
「父さんは長くてあと十年だと言っていた。お前はどう思う?」
「はっきりしたことはわからないわ。これからだって何があるかわからないし。でも、そうね。大きな病気や怪我をしなかったら、十年ぐらいね」

 あらためて父の寿命を確認して、がっくりきているアシュを見ながら、シエラは言った。
「なるほどね。悪行は許せないけど、老い先短いとなると、親孝行する気になったってわけ?」
「親孝行? そんなんじゃねえ。あと十年で俺がここの長になるんだろ? 今のうちに教われるものは教わっとかなくちゃな」
 自分本位を装うアシュだった。
「同じことじゃない」

 正義感に責任感が勝ったというところかしら?

 シエラは優しくアシュを見た。アシュもまた軽く微笑んだ。
 父の死を覚悟する兄と妹、寂しい笑顔だった。

 このときアシュはシエラがとても大きい存在に見えた。いつも喧嘩ばかりしていた。アシュが勝手するからだが、シエラも勝気で譲らない性格だった。二人はことあるごとに衝突していた。


 男女の違いか、適正に合わせてか、その教育課題は異なっていた。武芸の訓練は体の動き、傍目にも見えるものだ。アシュの出来、不出来はシエラにもわかって、それについて、からかうこともあった。しかし、シエラが学んでいる能力についてアシュは実はあまりよく知らなかった。

 父は武術、母は医術に長け、それぞれが弟子をとっていた。アシュは父や父の直弟子たちを師匠とし武術を習い、シエラは母について勉強していた。母の弟子たちは主に屋内で学ぶ。目を閉じて、じっとしている場合もある。
 得体の知れない能力をシエラは会得しつつある、アシュにはそんな畏敬に似た奇妙な感覚に襲われた。



 本気になったアシュの進歩は目覚しかった。父をはじめ、師匠たちは驚きを隠せない。

「さすが、ジュートさまのお子ですな」
「いかにも」

 アシュ自身も体中にみなぎる気のエネルギーを感じていた。
 素手の組合いにも、剣を合わせても大人たちを押しまくるアシュに、師も満足の笑みを浮かべていた。


 ある日、稽古の後、師匠カリンガがアシュに近寄った。カリンガは丸顔で下がった眉、温厚な人柄を感じさせる。髪は短いというより薄い。しかし白髪はなく、つややかな紺色であった。鳳凰山の麓の人々に多い色だ。瞳の色もこの地方に多い栗色。カリンガが地元の出身者であることを物語る。

「アシュさま、体調に異変はありませんか?」
「異変? 絶好調ですよ。こう、何でもできそうな感じ」
 アシュは顔面で拳を握り、何の問題もないとやる気満々の態度で師に答えた。
「それならよろしいのですが、少しでもおかしいと思ったら、すぐにお父上でも私でも構いません。この道に通じた年長の者にご相談ください」
「どういうことです? 師匠には何か見えるんですか?」
「いや、そろそろ危ないところですからな」
「危ないところ?」
 アシュには師匠の言葉の意味がよくわからなかった。


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シエラとトーマ

 シエラとトーマ、仲良しの二人は山の木の実や果実を拾いに行き、一緒にトーマの家に戻ってきたところだった。そのとき祖父は留守だった。入ってすぐの木張りの部屋は、居間であると同時に作業場、台所などを兼ねていた。大きめの机が置いてある。二人はそこに今日の収穫物の入ったかごを置いた。

「じゃあ、半分こにしよっか」
 とシエラが分けはじめると、トーマは言った。
「君の家のほうが人数が多い。多めにとっていいよ」
「でも、一緒に摘んだのに悪いわ」
「今日はたくさん取れたから。じいちゃんと二人では食べきれないよ。腐ってしまう」
「そう? じゃあ、多めにもらうわね」
 二人は、たまに小さな果実を一つ二つパクッとほおばりながら、木の実や果実を分けた。

 トーマが麻袋を持ってきたので、シエラは自分の分を入れた。
「ちょっと疲れたわね」
「休んでいく?」
「うん」

 トーマの部屋は二階の屋根裏部屋だ。殺風景だが、小ぎれいに整頓されている。ベッドも整えたばかりの宿屋の部屋のように、掛け布団が三方面に均等に伸びている。あまりに整いすぎていると壊したくなる。新雪に踏み入るように、シエラはベッドにドカッと腰掛けて窪みをつけた。

 トーマはベッドから少し離れたところにある椅子に座った。ベッド上でシエラの隣に腰掛けるのははばかられた。
「アシュは最近、がんばっているね」
「そうなの。跡継ぎの自覚が出てきたみたいね。でも、トーマだって強くなってるじゃない」
「うん。まあ、毎日訓練すれば、誰だって進歩するよ。でも、このところのアシュは本当にすごいんだ。僕のほうが年上だけど、すぐに追い抜かれそうだな」
「また、そんなこと言って。トーマだって若いのに優秀だって評判なのよ」
「僕は少年たちの中では一番会歴が長いし、体も大きいから、そのぶん得しているかもしれないな。でも、そんなのは上に上がるほど関係なくなる。今だけだ」
 控えめなトーマは、褒められても謙遜するばかりだった。

 ジュートが鳳凰会を開いた当初、山に子供はほとんどいなかった。山の生活は楽ではない。初期の会士はほとんど独身であったし、家族持ちの会士も妻子は出身地に残してくることが多かった。後に、会が大きくなると、それと共に麓の町や村が潤い、鳳凰山付近一帯が豊かになった。現在、山にいる少年たちは、鳳凰山をめぐるインフラが整ってから山入りした会士の家族か、会の評判を聞いて自ら入会を決めた者たちだった。つまり、入会時点で、もう小さな子どもではなかった。

 しかし、トーマの《祖父》はジュートがやってくる前からこの山に住んでいた数少ない地元民だった。重症をかかえて山にやってきたジュートの介護にあたって、エリカを手伝ってくれた人でもある。シエラやアシュが生まれたとき、トーマは、すでに山の子供だった。お互い物心ついたときにはそばにいた。だから、アシュやシエラとは、きょうだいのように育っている。

 そして、鳳凰会発祥当時から、わけもわからないうちに会に入り、何となく訓練も受けてしまったトーマは、少年たちの間ではアシュと同様に抜きん出た存在だった。そして、アシュより年上であるし、怠け者のアシュよりも一歩も二歩も進んでいた。つまり、この世代の会士の間では実力ナンバーワンなのであった。

「なんか、眠くなっちゃった」
 シエラは無造作に横になった。
「ここで寝てもいい?」
「ああ、かまわないよ」
 じいちゃんが知ったら、怒るだろうな。
 そう思ったが、断るのも変だと思った。
 シエラとは小さい頃から、ここで一緒によく昼寝をしたものだ。もっとも、大きくなると昼寝という習慣がなくなって、最近は二人で横になるようなことはなかった。

 シエラはもぞもぞと布団の中に入って、いたずらっぽく言った。
「おやすみなさ~い」
「おやすみ」
 トーマが椅子から立ち上がって部屋を出て行こうとしたとき、シエラは呼び止めた。
「トーマは疲れてないの?」
「僕もちょっと疲れたよ」
「じゃあ、トーマも横になったら?」とベッドの横をポンポンと叩く。
 トーマは躊躇した。
 シエラは小さかった頃と同じ気持ちで、そう言ったのだろう。他意のない、あどけない瞳だった。
「う……うん」
 ここで意気揚々とベッドに入るわけにはいかない。しかし、断ることもできなかった。恋人になれなくても、ずっとこのまま友達でいたかった。ここで断ると、変に意識しているのを見透かされる。これまで、ずっと無邪気にふるまってきたシエラが、急に男と女を意識するようになってしまうかもしれない。
 そう思ったトーマは小さかった頃のように、なるべく自然に、無造作を装いながら、ベッドに入った。

 しかし、基本的に一人分のベッドである。昔は二人で入っても余裕があったが、今では狭い。くっついてしまう。
「ひさしぶりね」
 シエラは楽しそうだった。
「そ、そうだね」
 顔が赤くなっているのではないだろうか。トーマは心配だった。
 シエラは本当に疲れていたようで、すぐに眠ってしまった。
 その寝顔を見ながらトーマもいつしか、うとうととしてきた。

 ガタッ。
 外の物音でトーマは目を覚ました。
「うん? じいちゃん?」
 トーマは、はね起きた。
 横のシエラに目をやると、規則的な寝息を立てながら、すやすやと眠っている。
 そおっとベッドから抜け、部屋を出た。

 案の定、祖父が帰っていた。地階の居間兼作業場で火を熾していた。
「お帰り」
 と言うトーマに、祖父は怒ったような顔をして返事も返さない。
 トーマはしばらく、じっと祖父の背中を見つめていた。   

 シエラも部屋から出て、階段を下りてきた。
「おじいさん。こんにちは」
「ああ、シエラさま、いらっしゃい」
 祖父はシエラにはいつものように微笑んだ。といっても、基本的にあまり愛想のないじいさんであるから、笑っても頬がひきつったようになるだけなのだが。

 シエラは机の上の麻袋を取った。
「じゃ、私はこれを持って帰るわね」
 トーマも、いつものように笑って送り出す。
「みんなによろしく」
「ええ。じゃ、またね」
 シエラは静かに戸を閉めた。
 パッタン。

 それまでトーマを無視するように目をそらせていた祖父が、孫をギロリとにらみつけた。
「トーマ、お前は自分のやっていることがわかっているのか」
「じいちゃん。僕は何も……」
「シエラさまを連れ込んで、あのように……」
「ご、誤解だ。僕は何もしていない」
「壊れた椅子を直そうと思って、お前の部屋に置いてある工具を取りに行ったんだ。部屋が静かなので誰もいないと思って入ったら、二人、寄り添って寝ているではないか。何も言わんかったが……驚いたの何のって」
「ただ、横になっただけだよ」
「例えそうだとしてもだ。お前達は、もう小さな子供ではないのだぞ」
「う、うん。わかってるよ」
「わかっていて、あれか」

 やはり、一緒のベッドに入ったのは、まずかったかな……。
 トーマは頭をかいた。
 孫に向ける祖父の目は、最初は厳しく、非難するようであったのが、次第に、あきらめたように、寂しそうで、憂いをおびた目に変わっていった。
「トーマ、お前、覚悟はできているのか?」
「覚悟?」
「鳳凰会を背負う覚悟だ」
「そんな大それたこと考えてないよ」
「シエラさまと深い関係になるということはそういうことなのだぞ」
「だから、そんなんじゃないって」
「わしの目がごまかせると思っているのか」
「じいちゃん、本当に何もしてないって」
「まだな。だが、このままでは……」時間の問題であろう。
 祖父の目は厳しかった。しかし、そこにあったのは怒りではなかった。不安、心配、なによりも愛。
 トーマもまた祖父の愛情は日ごろから身にしみて感じている。血の繋がりはなくとも互いが互いを思い合う家族愛は本物だ。

「だいたいシエラは僕のことをそんな風に思ってないよ。ただの幼馴染さ」
 祖父はため息をつきながら首をふった。
「お前はわかっておらんのう」
 馬鹿にしたように言う祖父にトーマは少し腹が立った。
「それに、じいちゃんだって言ったじゃないか。僕じゃダメだって。シエラの相手には、しかるべき人が選ばれるって」
「わしはな、お前に余計な苦労をさせたくないから、そう言ったのだ」
「余計な苦労?」
「わしは、いわば世捨て人、わずらわしい世間の営みを避けて山で暮らしてきた。だから、お前が難しい道を行こうとしているようにしか見えないのだ。だが、お前はわしとは違う。お前が望むなら……、それもよかろう」

 祖父はトーマの実力を認めていた。祖父自身は会士ではなかったが、山に住んでいれば会と関わらざるを得ない。会士の間でのトーマの評判も耳にしていた。口ではシエラは高値の花であると、トーマに自重を説いていたが、トーマがシエラにふさわしくないなどとは内心思っていなかった。しかし、祖父は鳳凰会創設以前から人里離れた山中に一人で暮らしていたぐらいの偏屈者である。組織や集団を嫌うところがあった。シエラの伴侶となれば、トーマは当然、鳳凰会の運営に深く関わらざるを得ないだろう。かわいい孫を成長著しい鳳凰会の幹部というわずらわしい地位にはつけたくないという思いがあった。

「いずれにしても、近いうちに剣山に行くのだろう」
「う……。じいちゃんが許してくれるなら……」
「許すも許さんも、お前の人生だ。シエラさまのおそばに仕えたければ、剣山を出なければな。しかも優秀な成績で」

 剣山とは鳳凰山の中でも特に険しい山で、そこには鳳凰会の幹部養成機関があった。隔離された状態で最低四年、密度の高い訓練を受ける。

 トーマは剣山入山の希望を、ときどき祖父にも語っていた。そのたびに祖父は、いい顔をしなかったのだった。もっと強くなりたいというトーマだったが、祖父にはトーマの本当の動機がわかっていた。すべてシエラのためなのだ。剣山修了生というだけでは会主の娘シエラと釣り合う肩書とは言えないが、少なくとも剣山は、この鳳凰会の幹部となるためには必須条件であった。



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