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恋の行方

 じいちゃんは許してくれた。
 祖父の戒めは祖父自身が思う以上に、孝行者のトーマを縛っていた。祖父を心配させたくない。祖父に迷惑をかけたくない。そんな思いからシエラに今一歩踏み込めなかった。
 しかし、ここへ来てトーマは祖父に、たきつけられるような形になってしまった。

 トーマは祖父の《許可》を得た日を境に、シエラに対して自分の気持ちに正直に行動するようになっていった。ときどきシエラの手を握ったり、さりげなく髪をなでたりした。
 そして、シエラもそんなトーマに応えた。
 幼馴染から恋人同士へ。
 恋をすると女はきれいになる。シエラは元々可憐な美少女だったが、あまり色気はなかった。しかし、トーマを男性として強く意識するようになってからは、いちだんと娘らしくなった。

 艶やかさの出てきたシエラだったが、立ち居振る舞いは変わらなかった。相変わらず奔放かつざっくばらん。トーマの部屋に上がり込んでは、ベットに横になって、そのまま眠り込んだりする。二人で木の実をつんだ日のように。
「シエラ、だめだよ。こんなところで寝ちゃあ」
「ん~」
 シエラはすでにまどろみの中。
「しょうがないな」
 トーマは布団を直してやりながら、シエラの寝顔を見つめた。
 自然と優しい目になる。
「かわいいな」
 ベッドの端に座って、シエラの頬をなでた。すると、
「う、う~ん」
 何とも言えず艶めかしい。
 トーマは聞いてはいけないものを聞いてしまったような気がした。
 その場を離れようと腰を浮かした。
 しかし、その腰は再びベッドに沈んだ。
 しばらく座っていたが、シエラの寝息に誘われて、トーマもベッドに横になった。顔と顔が近いほうが、よく聞こえる。
 それでも、最初は、シエラとは少し距離を置いていた。
 シエラはベッドの真ん中で寝ているので、触れないように仰向けになると、トーマの体は端から半分弱ぐらい出てしまう。
 あまり楽な体勢ではない。横向きになった。もちろんシエラの顔が見える方に。
 シエラの寝顔を見、寝息を聞いているうちに、トーマはいつしか息がかかるほど間近に近づいていき、しまいには覆いかぶさるようにシエラを包み込んだ。

 シエラは妙な温かみを感じた。心地よい温かさ、そして重みだった。何だろう? 誰だろう?
 まぶたを開けた。
「うん?」
 目の前にトーマの顔。トーマの力強い腕がシエラの首元と腰をしっかり抱え込んでいた。
「ト、トーマ?」
「シエラ……」
「あの……どうしたの?」
 びっくりしたが、大好きなトーマに抱かれるのは嫌な気持ちではなかった。ふざけて抱きついたり、うれしいことがあったときなど、抱擁して喜びあうのはいつものことだった。
「シエラ……、シエラ……」
 トーマはシエラの名を呼びながらシエラの額に口づけた。目もと、頬、そして唇。
 いつもの抱擁とは違う。とても静かで優しい。それでいて密な力強さがある。
「うん……」
 シエラは顔をしかめたが、トーマを受け入れていた。
「シエラ、僕は君にふさわしい男になるよ」
 いつも控えめなトーマの大胆な行為にとまどいながら、シエラはうれしかった。
「トーマはそのままでいいの」
「いや、もっと強くならないと……」
 トーマの抱擁が一段と強くなった。
「トーマ……」
 シエラの腰部の衣がずらされた。
「トーマ、何するの?」
 シエラはトーマの手を抑えた。
「いつものトーマと違う」
 息遣いや目つきが違う。シエラは少し怖くなった。
「優しくするよ」
 するって何を? 
 シエラは男女のことを何も知らないわけではなかったが、自分やトーマが《する》ことではないと思っていた。

 トーマがだんだん荒々しくなっていく。女の服を脱がせたことなどない不器用な手では、玉ねぎの皮をむくようにはうまくいかない。
「トーマ、待って!」
「待てない」
「いやっ」
 トーマが嫌なわけではなかったが、焦っているようなトーマが嫌だった。服を押さえた。

 これはどうも駄目らしいと手を止めたトーマだったが、どういうわけか行く手を遮る覆いが取りさられるのを感じた。
 あきらめかかったトーマにシエラは逆に安心感を覚えた。
 《いつもの》トーマならいいかも……。
 恐怖感が薄らぐと、好奇心が勝ってきた。
 トーマの腰は荒々しくとも、腕は優しく愛情が感じられた。
 シエラはもう何も言わなかった。
 力強い温かみに揉みしだかれるままに身をまかせた。



 それから半月ほどが経ち、夕食後、シエラはアシュと一緒に食器を洗っていた。
 二人とも、言葉数は少ない。
 アシュは何か言いたげに、ちらっちらっとシエラを見ていた。そして、ついに、
「トーマと喧嘩でもしたのかよ」
「え?」
「近頃、会ってないみたいじゃないか」
 毎日のようにトーマとデートしていたシエラが、ここ半月、家にいることが多くなっていた。
「そ、そうかしら……」
 シエラは、なんとなくトーマを避けていた。
 トーマのことは好きだった。だから、身をまかせたのだ。嫌ではなかった。しかし、いつも優しいトーマがいきなり男になってしまったときには驚いたし、怖かった。今でもあのときのトーマを思い出すと違和感がある。シエラが受け入れたのだが、少し後悔もしていた。
 やはり、まだ早かったのではないか……。

 あんまりトーマの話をしたくなさそうなシエラを見ながら、アシュはさもありなんと鼻で笑うように言った。
「飽きた?」
「え?」
「いいやつだけど、まじめすぎて、退屈だろ」
 友達としてはいいやつだが、女性が好むタイプとは思えない。ユーモアがあるとは言えないし、見栄えも不細工ではないが、地味だ。アシュのトーマ評はそんなところ。
「そんなことないわ。優しくて、男らしくて、すてきな人よ」
 シエラがむきになってトーマをかばうと、アシュの顔から笑みが消え、プイッとそっぽを向いた。
「用事を思い出した」
 アシュは家の用事を手伝えと言われれば少し手伝うが、そのうち口実を設けてどこかに行ってしまう。いつものことだった。しかし、そんなときアシュは、いたずらっ子のように舌を出しながら、冗談まじりに出ていくのが普通なのだが、このときは妙に不機嫌だった。


 愛を交わしてからのシエラとトーマは、ぎくしゃくしていた。しかし、シエラの思いは変わっていなかった。むしろ男性としてのトーマを強く意識するようになって、日に日に艶っぽさが増す。
 妹の変貌には実の兄であるアシュもドキリとさせられた。急に美しくなった妹にアシュはどう接していいか、わからなくなることがあった。
 女らしくなったとはいえ、親兄弟の前ではあられもない格好をすることもある。半裸で歩きまわったり、ズボンや袴を身に着けず、短衣だけ着て(つまりミニスカートのワンピースのようなもの)、しかも、その裾がまくり上がったまま横になっていたりもする。そんなとき、アシュはその場にいたたまれず、逃げ出してしまうのだった。

 あんなの何でもないじゃないか。シエラは俺の妹だ。妹なんだぞ。今まで、ずっとああだったじゃないか。

 シエラが女性らしくなっただけではなく、自分の中でも何かが変わってきたことにアシュは気づいていなかった。



 その晩、アシュは眠れなかった。少し外の空気でも吸おうかと思って部屋を出たのだが、シエラの部屋の明かりが見えた。
「こんな時間に何をやっているんだろう?」
 部屋をのぞくと、シエラは明かりをつけたまま転寝(うたたね)していた。
「ったく」
 アシュは部屋に入って明かりを消そうとしたが、シエラの寝顔に見入ってしまった。そっと髪に手を触れると、シエラは目を覚ました。
「あれっ? アシュ? どうしたの?」
「明かりを消して、ベッドで寝ろよ」
「え? あ、そうね。眠っちゃったわ」
 シエラはベッドへ向かおうとしたが、立ち止まって、アシュを振り返った。
「ねえ、アシュ。好きな人、いる?」
「な、なんだよ。いきなり」
 アシュは、なぜか赤くなってしまった。
「いないわよね、あんたには。でも、誰か好きになったことある?」
「おい、勝手に決めるな。俺だって好きな女ぐらい……」
 言ってしまってから、しまったと思った。
 シエラは興味深深、アシュに近づいた。
「えっ、いるの? 誰? だれ、だれ?」
 アシュはうろたえた。

 いったい何であんなことを言ったんだ。

「いや、やっぱり好きな女なんかいない。女を好きになったこともない」
「どっちよ」
「どっちでもいいだろ。そんなこと聞いてどうするんだよ」
 それまで、からかうような調子だったシエラだが、急に静かになった。
「トーマが……」
「ん?」
「男の人って変わるのね」
「変わる?」
「手をつないだり、抱き合ったりするだけじゃ、だめなのかな……」
 アシュの顔色が変わった。
「おい、トーマに何されたんだよ?」
 アシュはシエラの腕をつかんだ。

 怒っている。どうしてだろう?

 シエラはアシュがなぜ急にこんなに怒るのかよくわからない。自分の言い方が悪かったと思った。
「い、いいの。別に乱暴されたわけじゃないのよ。ただ……」
「ただ?」
「ちょっと怖かったの」
「あいつ、お前を……」
 アシュの肩が震えだした。
「ぶっ殺してやる!」
 アシュは今にも飛び出してトーマの家に殴りこみをかけかねない勢いだった。
 シエラはあわててアシュの腕をつかんだ。
「そんなに怒らないでよ。いいの。私はトーマが好きなのよ。でも、ちょっと早いかな~って……」
 その瞬間、シエラはアシュに抱きとめられた。
「アシュ?」
「あんなやつに渡すもんか」
「え? いったい、どうしたのよ」
 わけがわからない。いきなり抱きついて何を言っているのだろう?
 しかも、首すじに口を寄せたり、胸のあたりを、まさぐったりする。
「ちょっと、ふざけないでよ!」
 シエラはアシュをひっぱたこうとして手を上げたが、その腕をつかまれ、ベッドに倒された。
「アシュ、いい加減に……」

 これはいったい??? 

 悲鳴を上げたかったが、

 両親がやってきたら、どう思うだろう? ラシャがこんなところを見たら? しかし、そんなことを言っている場合ではない。このままでは……、でも……。

 アシュのほうが力が強い。シエラの抵抗はむなしかった。
 アシュはシエラを抑え込んだまま、器用に裸体になっていった。
 シエラは薄衣を羽織っていただけだったが、それを捲し上げられた。
「いや」
 股間にアシュの脚が入る。
「アシュ!」
 脚よりも、もっと細いものが触れる。
「だめっ!」

 アシュは終始、無言だった。苦しそうな息づかいは、行為のためばかりではなく、してはいけないことをし、それをやめられない葛藤のためでもあったかもしれない。

 最後に軽くうなって、果てたときも、達成感や満足感に浸ってはいなかった。その額には深い苦悶が刻まれていた。

 結局、シエラは大声を上げることができなかった。アシュがおかしい。こんなアシュを見たら、弱っている父の死期を早めてしまう。そんな思いもあった。それに何が起こっているのかよくわからない。そんな奇妙な感覚だった。

 これは何? どうしてこんなことに? 

 頭の中は真っ白、目の前は真っ暗だった。



 早朝、シエラは目を覚ますと、ベッドから跳ね起きた。アシュはいない。

 あれは夢だったのだろうか?

 しかし、ベッドの上には短い赤茶の髪の毛が数本。抵抗したときにアシュの頭から引きむしったものだ。シエラは顔を覆った。

 夢じゃなかった。

 そう思った瞬間、何も考えられなくなった。しかし、そんなことがあった部屋でじっとしていられなかった。着替えて、外にでた。


 朝霧を潜り抜けてやってきたのは、トーマの家だった。家の前でシエラはしばらくぼ~っと立っていた。トーマに会いたかった。会って抱きしめてもらいたかった。しかし、会って何と言えばいいのだろう。昨晩のことは言えない。トーマの顔を見たら、泣き出してしまうのではないだろうか。

 そんなシエラの後ろから暖かい声がかかった。
「ずいぶん早いね」
 少し息の上がった声だった。トーマは軽く走ってきたところだった。
「トーマ……」
 やはり、涙があふれ出てきた。
「ごめん。怒ってる? もうあんなことしないよ」
 トーマはあれからシエラに避けられていることに気づいていた。嫌われたと思って、自分からはシエラに近づかなかった。そのぶん、こうしてシエラが自分に会いに来てくれたことがうれしかった。

 シエラは崩れるようにトーマの胸に飛び込んだ。
 トーマはシエラをやさしく抱きとめた。
「いったい、どうしたの?」
 顔をのぞきこもうとしたが、シエラは固く抱きついて離れようとしなかった。
 トーマはそのまま、何も言わずに待った。

 しばらく泣いて、シエラはやっと口を開いた。
「恐い夢を見たの」
「どんな夢?」
「話したくない。でも、とても、とても恐い夢なの」
「そうか。でも……夢でよかったね」
 トーマはシエラの肩を優しく抱きながら、上を向いてきたシエラの顔を見た。そして、笑った。

 シエラはトーマの包み込むような笑顔に癒されながら、とりあえず落ち着きを取り戻していった。

 そう。あれは夢、夢だったのよ。そう思うしかない。



 昼間はシエラも寺での勉強があるので、それで気をまぎらすことができた。その後、いつもは家に帰るのだが、その日はまたトーマの家に向かった。家に帰りたくなかった。

 稽古を終えたトーマとその日の出来事を語りあい、ときどきトーマの祖父を交えて、たわいもない世間話。しかし、時が経つほどに、シエラの心は重くなっていく。
「ここに泊まってもいい?」
 突然そんなことを言い出したシエラにトーマも戸惑う。
「え? でも、ご両親が心配するよ」
「だめ?」
「だめっていうわけじゃないけど……」
 トーマは祖父を見た。
 祖父も困った顔をしている。
 シエラはうつむいた。
 二人にあまり迷惑をかけるわけにもいかない。

 帰らなかったら両親が心配する。今日、ここに泊まったとして、明日はどうする? あさっては? 家に帰らないことをどう説明する?

 そんなこんなを頭の中でぐるぐる考えまわして、やはり帰ることにした。
「ごめんなさい。帰るわ」
「大丈夫?」
 悲壮な顔で家路に向かうシエラがトーマは心配だった。

 いったい何があったのだろう? シエラは今朝、恐い夢を見たと言っていた。それと何か関係があるのだろうか。



 帰るべき我が家、暖かく包んでくれるはずの家族の家、それが昨晩からシエラにとっては恐怖の館と化した。
 震える手で戸を開けて家に入った。
「ただいま」
「おかえり。遅かったわね」
 よかった。母だ。アシュではない。
「トーマの家に寄ってたの」
「そう」
 きょろきょろするシエラに母は言った。
「アシュもまだなのよ。どうしたのかしら。夕飯、先に食べましょうね」
「ええ」
 夕飯の用意をラシャがせっせと手伝っていた。
「私も手伝うわ」
「うん」
 ラシャはうれしそうに笑った。一人で手伝わされて、けっこう大変だったのだ。
 小さな弟の笑顔にも、シエラは救われる思いだった。

 食事中も、夕食が終わっても、アシュは帰ってこなかった。
 アシュと顔を合わせなくて済んだシエラは、そのことにホッとしていた。


 夕飯の後片付けの後、シエラはラシャの部屋に行った。
「ラシャ、一緒に遊ぼうか」
「うん」
 姉と遊ぶのは珍しいことではないが、時間がおかしい。もうすぐ寝る時間なのに。

 木組みのおもちゃでしばらく遊ぶと、ラシャは眠そうに目をこすった。
「眠いの?」
「うん。もう寝る」
「そう……。ねえ、私もここで寝てもいいかな?」
「どうして?」
「昨日、恐い夢を見たの。だから、一人で寝たくないの」
「ふ~ん、いいよ」
 その晩、シエラはラシャに添い寝をしてやった。というより、ラシャに添い寝をしてもらった。


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下山

 次の朝、シエラとラシャが食卓につくと、両親の様子がおかしかった。
 父も母も机に座ってじっとしていたが、父は苛立ちをかくせず、母は瞑想をするように目を閉じていた。

「おはよう。どうしたの?」
「昨日、アシュが帰ってこなかったのよ」
 目を閉じたまま、静かに母が答えた。
 アシュと聞いて、シエラはビクッとした。しかし、アシュの行方不明に気がいってしまっている両親には、シエラに走った一瞬の緊張など気がつかなかった。    

 朝食は机の上に用意されていたが、誰もまだ口をつけていなかった。
「いただきます」
 シエラとラシャが頬張っても、両親は食べようとしなかった。
「いったい、どこをほっつき歩いているんだ!」
 父は机を指でコツコツ叩いた。
 母は相変わらず静かに目を閉じている。母がこのようにするときは遠くの何かを見ている。
「危険な目にあっているわけではなさそうだけど……」
 母はその気になれば、その場にいない家族を探すこともできる。ただ、本人が隠れたい、見られたくないと望んでいる場合は、見えにくいようだった。
「とにかく食事にしましょうね」
 アシュの無事を確認したのか、母も目を開いて食べ始めた。

 そのとき戸が開いた。 
「アシュ!」家族全員の目がアシュに注がれた。
 もっとも、シエラはちらっとアシュを見ただけで、すぐに机に視線を戻した。
 謝るでなく、言い訳するでもなく、朝帰りのアシュは家に入ると、父のほうにまっすぐ向かって来た。
 父は厳しく問うた。
「どこに行っていた?」
「森だ」
「何をしていた?」
 父の声は静かだが、怒りや苛立ちがこもっていた。
「瞑想」
 アシュのほうも上機嫌という声ではない。
 息子の思いつめたような眼差しを受けて、父は怒りをやや静めた。
「夜通し瞑想してたというのか」
「そうだ」
 無断外泊の理由としては理解しがたかったが、父はそれ以上追及しなかった。
「それならそうと誰かに言ってからやれ。心配するではないか」
「父さん、話がある」
「ん?」
「ちょっといいかな」
「今か?」
「早いほうがいい」
 息子の漂わす空気が沈鬱で重々しかったので、父には逆に不安がもたげてきた。
「とにかくまず朝食を取ろう。それからでいいな」
 アシュは返事もしない。苦虫を噛み潰したような顔をしながら、食卓についた。

 シエラはその場にいるのも苦痛だったが、逃げ出すわけにもいかない。アシュと目が合わないように黙々と食べた。
 アシュもじっと座ったまま、机の自分の手前の部分しか見ていない。
 両親はあえて白々しい会話をすることもできずに黙っていた。
 ラシャはそんな家族を見渡しながら、首をかしげていた。

 今日はみんな、どうしたというのだろう?



 食事が済むと父は立ち上がり、アシュを手招きした。
 父の部屋は小ぢんまりとした質素な書斎だった。場所をとる大きな椅子などはないが、座布団があった。書き物をするときなどは椅子に座って机に向かうが、くつろぐときは地べたのほうがいい。
 このときも父は座布団に座り、アシュにも勧めた。
 アシュはしばらく立ったままだったが、じきに父の向かいに座った。
「で、何があった?」
 静かに問いかける父にアシュもまた静かに答えた。
「俺は山を下りる」
 一瞬の間。
「どういうことだ?」
「俺はやはり、あんたのしたことは許せない。このままあんたが開いた鳳凰会の後を継ぐ気はない」

 父の顔の表情はあまり変わらなかったが、わずかに手が震えていた。
「アシュ、お前はそう言い出すのではないかと思っていた。だが……」
「跡継ぎなら俺でなくてもいいだろう。シエラもいる。ラシャだってすぐに大きくなる」
「会士は、ほとんどが男だ。少なくとも今現在はそうだ。長も男であったほうが、やりやすい。ラシャは小さい。十年後、私がいなくなる頃でもまだ十代だ」
「なら、だれか、優秀な弟子を指名したらどうだ? 跡継ぎがあんたの血を引いていなければならないということもないだろう」
「お前たちがどうしようもないボンクラだとでもいうのなら、そうするだろう。しかし、お前も、ほかの二人も筋がいい。それをさしおいて他の者を立てれば、遅かれ早かれお前たちを担ぎ出す者が現れる。そうなれば鳳凰会が割れる。お前が後を継げば、誰もが納得する。災いの芽はつんでおきたいのだ」
 アシュは父の説得を黙って聞いていたが、返事はそっけない。
「とにかく、俺は勘定に入れないでくれ」
「アシュ、ここのところ身を入れて稽古に励んでいたではないか。私はお前がやっとその気になってくれたと思っていたのだが、違ったのか? いったい急にどうしたというのだ?」
 ジュートとしては、トーラスから帰ってきた直後ならともかく、なぜ今になってこのようなことを言いだすのか合点がいかない。
「急に気が変わったわけじゃない。トーラスから帰ってきたときから、考えていたんだ。でも、山を下りる前に便利な技や術は教わっておこうと思ったのさ。後で、何かと役に立ちそうだしな」
「とにかく、今は頭を冷やせ。しばらくしてから、また話そう。な!」
 ふだん冷静な父が、このときはあわてる様子を隠すでもなく、必死の形相で頼みこむようにアシュに近づいた。アシュはそんな父を振り切るように立ちあがった。
「俺はすぐに山を下りる」
「すぐとは?」
「支度が出来次第、下りる」
「どこへ行くつもりなんだ? 当てがあるのか?」
 だんだん父の声が大きくなる。
「さあ」
 行く当てはなかった。
「今、下りてはいかん」
「どうして?」
「お前は急に段階を上げた。だが、まだ不完全だ。技を完成させてからにしろ」
 アシュにも、わずかな迷いが生じた。
「いつ完成するんだ?」
「数年はかかる」
「そんなに待てない」
「アシュ、ここで中断するのは危険だ」   
 前にもそんなことを聞いた。中途半端に能力を覚醒させると危険だと。
 しかし、アシュにはまったく体調の異常など自覚症状がなかった。それに自分はもうこの山にいられない。一時も早くここから、シエラから離れなければならない、その思いがあるばかりだった。
「どう危険なんだ?」
「それは一概に言えない。個人差があるのだ」
「問題がないこともあるんだろう」
「そういう場合もあるが……」
 確かに、生じるかどうかもわからない問題で引き止めることはできない。父の声が小さくなっていく。
「問題が出てきたら、帰ってくる」
「問題が出てからでは遅い場合もある」
「とにかく、俺には何の問題もない」
 確かに、見たところ異常はないし、ほかの師匠たちからも、気になる報告は上がっていない。父はそれ以上何も言えなかった。

「アシュ、どうしても行くのか」
 父も覚悟を決めたようだった。
「ああ」
「山を見捨てるのか?」
 懇願するような恨めしそうな父の眼であった。
「言ったろう。俺の代わりはいくらでもいる」
「後を継がなくてもいい。シエラやラシャを長にしても。だが、お前もそれを補佐してくれないか」
 父の譲歩もむなしく、アシュの決心は変わらない。
「断る。俺は後を継ぎたくないだけじゃない。もうこの鳳凰会と関わりあいになりたくないんだ」
 アシュは父に背を向けた。
「待て!」
 ジュートはまだ引きとめようとしたが、
「もう話すことはない」
 アシュは振り切るように急いで部屋を出た。
 父の顔は見られなかった。良心が痛んだ。このままそこにい続けたら、説得されてしまいそうだった。

 ごめんよ、父さん。でも、本当の理由は言えない。このまま山にいたら、またシエラを傷つけてしまう。もう二度とあんなことが起こっちゃいけないんだ。それには俺が山を下りるしかない。

 あのとき自分は衝動を抑えることができなかった。そして、その衝動はシエラを見るたびに湧き上がってくる。自分はシエラのそばにいてはいけないのだ。



 その後、アシュはすぐに山と縁を切らなかったが、留守がちになった。シエラが留守にしているときには、家に戻ることもあったが、夜は神山の森や洞窟で寝ることが多かった。
 それに、山を下りるとなると、行き先も考えないといけないが、これという場所を見つけることもできずにいた。
 山を去ると宣言したものの、未練がないと言えば嘘になる。
 だが、もう決めたことなのだ。

 ジュートはアシュがいずれ山を去るであろうということを、妻エリカ以外の者には伏せていた。シエラも知らなかった。
 アシュは家に寄り付かず、山にいない場合も多くなっていたが、シエラはアシュと顔を合わせることが少ないことに、ほっとしていた。
 ここのところ父の具合があまりよくないのが気になるが、それで、アシュを代わりにあちこちに使いに出しているのだろう。
 そんな風に思っていた。



 山の中腹でシエラとトーマは岩に腰掛けていた。上面が平らになっており、人がちょうど座れるような高さと形の岩だった。ここは知る人ぞ知る鳳凰山の名所、山々が見渡せる風光明媚なところ。
「シエラ、僕は剣山に入ろうと思うんだ」
「えっ? 剣山の山篭り?」
「ああ」

 若者のホープであるトーマが、いずれこのエリート修行コースに進むであろうことはシエラも覚悟していたが、その修行課程に入ると、最低でも四年間隔離された生活を送ることになる。その間、トーマとは会えない。

「いつから?」
「来月」
「そんなに早く?」

 兄アシュは、もはや信じられない。事件以降、シエラは発狂しそうなほど不安定な日々を送っていた。誰にも何も言えなかったが、シエラを支えていたのはトーマの存在だった。トーマにも真相を語ってはいないのだが、こうして一緒にいるだけで心が休まった。そのトーマが行ってしまう。

 剣山は「鳳凰山」の中にあり、シエラの生活する場所と眼と鼻の先にある山だが、会えなければ距離的に近いところで寝起きしていても意味がない。今はそばにいてほしかった。

「早く入れば、早く出てこられる。……という単純なものでもないけど、四年で出てこられるように、がんばるよ。一生懸命に修行に励んで、君にふさわしい男になる」
「トーマ……」
 そうなのだ。トーマが誰よりもまじめに稽古するのは、そして今、剣山に入ろうとしているのは、すべてシエラのためだった。いずれシエラの伴侶として、誰からも文句の言われないためには、実力をつけなければならない。そんなトーマの気持ちはシエラにも痛いほどわかっていた。だから寂しくても反対することはできない。

 鳳凰会に入ってくる男達はむやみに「力」を求める者が多い。「強く」なりたいのだ。「特殊な能力」を得たいのである。それに対して、トーマはその意味では欲がなかった。性格が優しく、勝負にはこだわらない。権力志向もなく、シエラさえいなければ鳳凰会内での地位の向上を望むこともなかっただろう。

 力そのもの、異能そのものを求めてはいけない。

 本来これが鳳凰山の鉄則である。訓練を経れば特別な能力や技術が見につくことがあるが、それは修行の課程で自然に備わるものでなければならない。しかし、修行者の多くは最初からそう人間ができているわけではない。凡人が目に見える超常的なものに魅かれるのは、いたしかたないことであった。そして、逆説的なようだが、それにこだわっているうちは、一定のレベルを超えることはできないのだ。

 トーマも無私無欲ではないが、欲しいものは力そのものではなくシエラだった。幼い頃から山にいて会歴が長いというだけでなく、それがトーマと他の少年たちを分ける一線でもあった。
 また、おそらく欲はなくとも、ここ鳳凰山での稽古自体がトーマにとっても不本意なことではなかったのだろう。シエラへの恋心を意識する前から、与えられた課題を、その場その場で一生懸命こなしてきた。

「がんばってね」
 シエラにはそう言うのが精一杯だった。しかし、笑顔にはなれなかった。寂しさは隠せない。悲壮な顔をしていないだろうか。気持ちよく送り出してあげたいけれど、みぞおちのあたりが重い。

 行かないで。

 それが本音だった。



 トーマが剣山に入ってから数十日後、アシュは逃げるようにして山を下りた。
 別れの挨拶もなく、書きおきだけ残して消えた。
 アシュの出奔に鳳凰山幹部は驚愕した。覚悟していた両親にとっても衝撃だった。何も言わずに突然消えるとは思わなかったからだ。

「いったいどういうことですか」
 アシュに期待を寄せていた師のカリンガはジュートにつめよった。
 鳳凰山に師匠は何人もいるが、カリンガはジュートが最も信頼する弟子であり、実力もジュートにつぐ鳳凰山のナンバー・ツーだった。
 わが子らが十分成熟する前にこの世を去らなければならないことがわかってから、ジュートがまず後継者として適当と白羽の矢を立てたのが、このカリンガであった。しかし、カリンガは辞退した。血を優先させるべきと説いたのはこの男であった。
 会主ジュートは特別な存在であったが、弟子たちの中で特に抜きん出た実力者はいなかった。幹部数名は、ほとんど同格である。そのため、カリンガは「実力主義」を取った場合の後継争いを恐れた。彼自身、理想的な補佐役ではあっても、トップに立ってうまくやっていけると思っていなかった。トップは花がないといけない。

「無責任な息子で申し訳ない。あれのことは忘れて欲しい」
 ジュートは肩を落としていた。落胆を取り繕う余裕もない。
「忘れることなどできません。お亡くなりになったというならともかく、まだその辺にいらっしゃいましょう。はやく追いかけて連れ戻すのです。山をあげて探し出せば……」
「本人が嫌だというものを、首に縄をくくりつけて引いてくるわけにもいくまい」
「それはそうですが……」
「あれは私を許さない。たとえ昔のことであっても」
 カリンガを含め、幹部はジュートの過去について知らされていた。

 やはり……。

 そんな沈黙が漂った。



 アシュの家出について、鳳凰山の一般会士は、当初、一時的な親子喧嘩ぐらいに思っていた。その後、色々なうわさが飛び出した。
 「禁」を犯してトーラスに行ったから勘当されたとか、成長著しい息子に父が嫉妬して追い出したのだとか。
 ただ、何だかんだいっても、結局いずれは戻ってくるのだろうという楽観的な見方をする者が多かった。

 しかし、幹部たちは次期会主の座をめぐって水面下で動き出していた。アシュの公式な下山理由を知っているからだ。アシュのまっすぐな気性を知る者にとって、父の過去の所業が許せずに山を下りたというのは、十分納得できることだった。

 会の中には早くもシエラ派とラシャ派の対立の萌芽が現れはじめた。



 アシュが山を去った本当の理由を知っているのはシエラだけだった。
 アシュが父のトーラスでの行いを許せないと言って出て行ったと聞いて、それは違うと確信を持てるのもシエラだけだ。
 アシュはトーラスへの旅行で独裁者ジュートの所業を知りショックを受けていたが、それでも父を父と思う心に変わりは無かった。
 正義感の強いアシュが父の過去の行いを許さないのではないかと父が恐れていたことを、そのときアシュに教えたのはシエラだ。アシュはそれを使ったのだ。
 しかし、なぜアシュが出て行ったのか、それを語ることはシエラにはできない。
 忌まわしいあの晩のことは誰にも言えない。


 山を下りる日、アシュはシエラにだけは顔を見せに来た。シエラが薬草を摘んでいたとき、アシュが遠くに見えた。シエラは気づいていながら無視して、薬草採取を続けた。
 そのうちアシュはいなくなった。
 言葉も視線も交わさなかったが、今から思えば、あれは別れを告げに来たのだ。
「俺は山を下りる。そして、もう二度と帰ってこない。お前は安全だ。安心してくれ」
 今更ながら、そんな声が聞こえるような気がした。


 シエラはアシュがいなくなって初めて、その本心を知った。
 事件の翌日からシエラの前に姿を現さなくなったのも、シエラが嫌な思いをしないよう姿を隠していたのだということが、やっとわかった。
 シエラはアシュの悔恨がそれほど大きなものとは思っていなかった。
 あんなひどいことをしておいて、謝るでもなく、優しい言葉をかけるでもないアシュに、ただ不信感がつのるばかりだった。
 しかし、アシュも苦しんでいたことが今、明らかになった。

 それにしても、期待をかける父や母を捨てて、出ていくことはないではないか。

 山の騒ぎが収まらない中、シエラは一人考えた。

 両親にすべてを打ち明けるべきだろうか。

 しかし、アシュがいなくなってから、父の容態は急に悪くなっていた。今、事実を語って、父は慰められるだろうか。むしろ心労を増やすだけではないのか。

 このままアシュを行かすわけにはいかない。

 シエラはその後、一人下山してアシュを探しまわったが、アシュはなかなか見つからなかった。手が届きそうになったところで、アシュのほうがシエラに気がつき、姿を消すこともあった。

「アシュは私を避けようとしている。これではつかまらないわ」
 シエラは途方にくれ、再び山に帰るしかなかった。
 事件以来アシュを恐がって避けてきたことが今になって悔やまれる。もっと勇気を出して、話しあえばよかった。どうして、あんなことになったのか。
 でも、もう遅い。アシュは家を出、山を下りてしまったのだ。



 鳳凰山には多くの山があるが、その中心部は鳳凰七山と呼ばれていた。剣山もそのうちの一つである。そして鳳凰会本寺のある神山はその七山のほぼ中央にある。

 本寺の一室でジュートとカリンガが沈鬱な面持ちで向かいあっていた。
 アシュが消えてから数ヶ月がたっていた。
「で、どうなさるおつもりです」
 当初、アシュを連れ戻すべきだと主張した師カリンガも、ようやくあきらめたようだった。
「次期会主はシエラと定める」
 ジュートは明言した。
「私は反対ではありませんが、女性会主に抵抗のある者もおるやもしれませんな」
「しかし、ラシャは小さい」
「いずれは成長なさいます」
「いずれはな。しかし、それまで私が持ちこたえそうにない」
 ジュートの余命について、このカリンガを始め、ごくわずかの者だけが知っていた。
 あと数年。長くて十年と。
「あと十年と思っていたが、それも縮まりそうだ」
 アシュに出て行かれたことが自分でも驚くほど応えた。急に老いたような気がした。
「ジュートさま、しかし、ラシャさまご成長の後に後継問題が起こるという可能性もあります」
「そうだ。それを考えると気が重い。シエラとラシャがうまく収めてくれることを期待するしかない。ラシャはまだ小さいので、これからどう育つかよくわからない。しかし、あれは一国の長には不向きだと思う。利口だが、傷つきやすい。鳳凰山は国と言うにはまだ小さいが、これから大きくなっていく。それはエリカが予言している。シエラは最初は苦労するだろうが、うまくやる。それもエリカが言ったのだがね」
 エリカの予言は、まず外れない。
 ジュートやカリンガは、これまでの経験から、エリカが言い切った言葉は実現するものと信じていた。
「では、シエラさまということで」
「それが私の希望だ。シエラにはまだ言っていないが、本人もある程度は覚悟しているだろう」
「そうですな」



 それから数日後、次期会主の座はお前と告げられたシエラは、ただ黙ってじっと父を見返した。
 年下でも男のラシャが継ぐのだと思っていた。しかし、自分が指名されても、なぜかあまり驚かなかった。
「ラシャではないの?」
「いや、お前だ」
「ラシャが大きくなるまでのつなぎということ?」
「いや、お前が正式に会主となるのだ。ラシャには、お前の補佐に回らせる」
「女の私に皆ついてきてくれるかしら」
「お前しだいだ。エリカとカリンガに指導を仰げ」
「アシュが帰ってきたら?」
「アシュは帰ってこない」
「もし、仮にです」
「一度出て行ったのだ。アシュの居場所はここにはない」

 不思議なことに、シエラは自分でも意外なほど落ち着いていた。こうなることが、もうずっと前からわかっていたかのように。
 そんな頼もしい娘をその場にいながら母は笑顔で見守っていた。
「すべてのことをお前がすることはありません。できないことは、できる人に任せればいいのです。これまでどおり、武闘はカリンガ師匠が、医術と気術は私が指導します」
「そんな、今すぐに父さんが逝ってしまうような言い方やめてよ」
「シエラ、現実から目をそらしてはいけない」
 父の声は静かで優しかった。それだけに辛い。
「父さん……」
 シエラの目に涙が浮かんだ。声を押し殺すようにしていたが、涙はとめどなく後から後から湧いてきて、止まらなかった。

 トーマ、こんなとき、あなたがいてくれたら……。

 シエラは鳳凰会の重圧を今更ながら感じていた。
 アシュは生まれたときからの定めと、これを何の躊躇もなく受け入れて、立ち向かっていた。それについての不平不満を聞いたことがない。
 普段はちゃらんぽらんだが、いざというときには頼れる兄だった。
「私が山を下りるべきだったのかもしれない」
 シエラは誰にも聞こえないような小声でつぶやいたが、母は聞きとがめた。
「え? 今、何て言った?」
「ううん、何でもない」
 弱音を吐いてはいけない。もう決まったこと。そして、シエラも承諾したことなのだ。


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継承問題

 アシュが山を去ってから、数ヶ月が経った。

 このところ、シエラは体がだるかった。朝はなかなか起きられないし、昼間も元気がない。後継者に指名されたストレス、そして……
「シエラ、どうしたの?」
 母も心配そうに娘の額に手を当てる。
「少し熱っぽいんじゃない?」
「うん、風邪かも」
「気をつけなさい。今日は少し休んだら?」
「ん、でも……」
 シエラはじっと母を見つめた。
 母は夕食の汁物を小皿にとって味見をしていた。
 シエラはその横顔におそるおそる近づくと、
「母さん」
 思いつめたような娘の顔を横目に見ながら、母は小皿を台に置いた。
「シエラ、何も心配することはありません。あなたならできますよ」
「母さん……」
 シエラの瞳には涙が浮かんでいた。心配ごとは鳳凰会だけではない。
「まあ、子どもみたいに」
 母はシエラを抱きしめた。
「母さん、話があるの」
「なあに?」
「私……」
 エリカは震えながら胸にすがる娘の髪をなでた。
「どうしたの」
「私のおなかに……」
「え?」
 エリカはシエラの肩を起こし、その顔をのぞきこんだ。
「あなた、まさか……」
 シエラは母の顔をまっすぐ見られなかった。だが、
「まあ、おめでとう……」
 シエラは頬を染めた。
 母に怒られるかと思っていた。
 しかし、母は冷静に受け止め、喜んでくれてさえいるようだ。
「お相手はトーマね」
 エリカはシエラがトーマと親しく接しているのを知っていたから、ある程度心づもりがあったのだろう。
 シエラはびくっとした。
「そうよ」
 声がうわずった。
 あながち嘘ではない。
 ただ、シエラにもわからなかった。
 お腹の子はトーマの子か、それともアシュの……。
 考えたくなかった。

「でも、ちょっと早いわね。トーマは四年は剣山から出てこないし……」
 エリカはシエラがトーマの子を宿したことを喜ぶ一方、不安に感じているようだった。
 トーマは剣山に入ったばかりだ。
「トーマはこのことを知っているの?」
「いえ。彼が剣山に入門するときは、まだ気がついていなかったから」
「そう。おめでたい話だけれど、あなたたちはまだ若いわ。親になるには早すぎると思うの」
「でもこの子が生まれたら親よ。それに麓の町や村には若い親もたくさんいるわ」
 十代で結婚・出産というのは、この地域に珍しいことではなかった。
「ええ、でも……」
 母は躊躇した。
「でも、何?」
「その子は私の子ということにしたほうがいいと思う」
「お母さんの子?」
「そう、あなたの弟か妹になるということ。公にはね」
「私はトーマと一緒になっちゃいけないの?」
 シエラは母がトーマとの仲を良く思っていないのかと不安になった。
「そういうわけじゃないわ。トーマはいい子よ」
「じゃあ、なぜ?」
「四年は会えないのよ。あなたたちだってこれからどうなるかわからないでしょう?」
「トーマは私を裏切ったりしないわ」
 シエラは声を荒げた。
「ええ、そうね。トーマはね。でも、あなたはどう?」
「どういうこと?」
 エリカはシエラの心の揺れを感じ取っていた。
「ほかに好きな人はいない?」
「いないわよ」
 母は突然何を言い出すのだろう? トーマのほかには誰もいるはずがないではないか。
「そう。とにかく、そうしたほうがいいと思うの。あなた方の思いが変わらなかったら、そのときは本当のことを言えばいいわ」
 シエラはふと、あの夜のことを思い出した。母はアシュのことを知っているのだろうか。知っていて、自分が兄であるアシュを異性として愛していると思っているのだろうか……。
「……はい」
 心から納得したわけではなかったが、シエラは母に従うことにした。確かに、万が一にも子どもがアシュの子なら、そうしておいたほうがいい。

「ところで、数日前にナグール総長からお話があってね」
「ナグール総長? 剣山の?」
 鳳凰山の幹部養成機関である剣山の総長ナグールはエリカ、カリンガに次ぐ鳳凰山の重鎮だった。
「どんなお話?」
「あなたの縁談です」
「へ? なんで総長が?」
「総長の息子さんと、どうかって」
 シエラは総長の息子エノを思い浮かべた。会って話したことはあるが、凡庸で良くも悪くもあまり印象に残らない男だ。それに、シエラより十は年上ではないだろうか。そんな目で見たことはないし、エノの方もシエラに気があるようなそぶりを見せたことはない。当人同士の気持ちなどそっちのけで、そんな話を持ってくる総長の気が知れない。腹が立つよりあきれた。
「冗談じゃないわよ。そんな話、断って!」
「あなたよりだいぶ年上だし、あなたにはトーマがいるものね」
 シエラはほっとした。
「じゃあ、断ってくれたのね?」
「断るというか……、私に話を持ってくるのは筋違いと言っておきました」
「私が聞かれたら、すぐに断ってやるわ」
 シエラは拳を握った。そこにナグールがいたら殴り倒してやりたい気持ちだった。好きでもない男と一緒になる気はさらさらない。
「そう思って私に話したんでしょうね。ナグール総長はなかなかのやり手で、鳳凰会が大きくなるにあたってはいろいろ知恵を出してくださった方なの。お父さんも私も一定の技術は持っているけれど、組織力はあまりなかったのでね。そちらの方面ではカリンガ師匠とナグール総長に頼りっぱなし。総長の息子さんもなかなか有能な青年で、彼みたいな人があなたのそばにいてくれるのも悪い話ではないと思うの」
 シエラは耳を疑った。
「お母さんは私とエノを一緒にさせたいの?」
「いえ、そういうわけじゃないわ。ただ、若いあなたにはまだピンとこないかもしれないけれど、そういう考え方もあるってこと」
「どういう考え方よ」
 シエラには全然わからない。
「まあ、いいわ。今は総長があなたに直接その話をするようなことはないと思うけれど、後々そんなことがあっても、総長には総長なりの考えがあるのよ。悪くとらないでね。そう思って、話があったことだけは、言っておきたかったの」
 シエラはすっかり不機嫌になっていた。トーマ以外の男との縁など考えただけでも気分が悪い。母がちゃんと断わってくれずに、保留のような形になっているのも気に入らない。
「私はトーマを待つわ。他の人なんて絶対いやよ」
 エリカは宥めるように、
「はい、はい。でも、断るのはいいけど、あまり角が立たないように応対してちょうだいね」
 母はナグールに気を使いすぎだとシエラは思った。あまりにもメチャクチャな話ではないか。



 それから数ヶ月もたたない、ある日のこと、鳳凰山に激震が走った。
 ついに、会主ジュートが危篤に陥ったのだ。
 豪雨にもかかわらず、落ち葉の重なる山道を行く人や馬、シーボクの行き来が激しい。
 ジュートの家はひっきりなしの見舞い客の対応に追われていた。
 大きな組織の長の家というには質素な作りで、大勢を迎えて応対できるような家ではなかった。待ち人は家の前で待たされ、そのため、庭に臨時の幕が張られた。

「父さん、しっかりして」
「あなた、あなた!」
 シエラとエリカはときどきジュートが動くと、しきりに話しかけた。
 覚悟していたこととはいえ、こんなに早くその時がやってくるとは誰も思っていなかった。医術の心得があり、毎日そばにいるエリカですら予想が外れた。
 少し前までは、本人も周囲も、あと十年は生きられると思っていた。アシュが山を下りてからめっきり弱くなっていたが、それでも五年は生きる、いや生きてもらわねば困るというのが会主一家、および鳳凰山幹部の思いだった。

 早朝に倒れ、そのまま意識を失って、こん睡状態に陥っている。
 回復の見込みはない。それがエリカをはじめ鳳凰山医師の見立てだった。
「父さん、どうしたの?」
 何も知らされていなかったラシャは、何が起こったのかよくわからない様子だった。
「ラシャ、父さんはね……」
 シエラにはその先が言えなかった。真実は残酷すぎるし、ここで気休めを言うこともできなかった。
「父さん、死んじゃうの?」
 周囲のあわただしさ、母や姉の悲痛な顔を見てラシャも悟るところがあったようだった。だが、意外にも落ち着いている。
 そんなラシャを見て、シエラは勇気をふりしぼって言った。
「わからないわ。でも……覚悟はしておいてちょうだい」
 と弟の手を強く握りしめた。



 八日後、ジュートは息を引き取った。
 遺体は神山の本寺前にて、会士らの見守る中、火葬された。
 その葬儀の席で、会主の座はとりあえず妻であるエリカが受け、後にシエラに引き継がれることが発表された。

 シエラは自分の今後のことよりもラシャが心配だった。会主の重責はとりあえず母が引き受けてくれるので、シエラには猶予期間がある。
 それよりも、動物が死んでも数週間の絶食状態に陥る繊細な弟が、愛する父を失ってどうなるのか、気が気でなかった。
 今のところ落ち着いている。あまりにもショックが大きすぎて放心しているのだろうか。
 だが、その目は爛々と燃えており、放心状態などでは決してない。ラシャにしては珍しい空気を漂わせていた。それは憤怒の炎を背負っているかのようであった。

 ラシャはしきりに周囲を気にすることが多くなった。
「どうしたの?」
「来ない」
「え? 誰が?」
「どうしてアシュは帰って来ないの?」
「……」
 シエラは言葉につまった。
「父さんが死んだのに、どうして来ないの?」
「きっと……、まだ、知らないのよ」
「そうかな……。そうだよね。きっと知らないんだ」
 ラシャの瞳から怒りの炎が消えたわけではなかったが、表情は少し和らいだ。 

 ラシャはアシュを待った。ずっと待ち続けた。
 いつも頼りになる兄だった。困ったときには必ず助けてくれた。こんなに家族が大変な思いをしているときに、帰ってこないはずはないのだ。
 しかし、アシュは帰って来なかった。何日たっても、何十日たっても。



 父の死後、ラシャは毎日、墓参りをした。この日はシエラも一緒だった。
 二人の吐く息が白い。墓石には白い雪がかぶっていた。
 熱心に祈るように手を合わせるラシャの頬に涙がつたっていた。トトが死んだときには声を上げて泣いていた。今、静かに泣くラシャは、それより哀れを誘う。
 人が声を上げて泣くのは、悲しみばかりでなく、慰めてもらいたいという甘えの一表現なのかもしれない。本当に悲しいとき、また、一人で泣くとき、声は出ないことが多い。
「ラシャ、そんなに悲しんでいると父さんが心配するわよ。墓参りも毎日しなくてもいいんじゃない?」
 ラシャは墓石をじっとみつめて言った。
「父さんを殺したのはあいつだろ?」
「え?」
「アシュがいなくなったから、死んじゃったんだ」
「ラシャ、そんなこと言うもんじゃないわ。父さんはね、昔、大けがをして、それが元で……」
 シエラの宥めの言葉も、怒りに震えるラシャの心には届かない。
「みんな言ってる。アシュがいたら、こんなに早く死ななかったって」
「でもね。アシュのせいじゃないの。昔の怪我のせいなのよ」
 懸命に弟をなだめようとしたが、ラシャはそんなシエラの言葉など聞いていない。
「もう二か月たつ。まだ来ないよ」
「ラシャ……」
「知らないと思う?」
「遠くにいるんじゃないかしら」

 アシュの正確な居場所はわからない。あちこち転々としていて住所不定なのだ。各地の会士からときどき報告が上がっていて、それによると鳳凰山とエリースの間をさまよっているらしい。
 遠くの町、近くの村……。
 もしアシュが始終鳳凰山情勢を気にしているようなら二ヶ月たっても情報が入らないということはないだろう。だが、すさんだ生活をしていると聞く。辺境の山の一組織の長が死んだところで、遠い異国で特別大きなニュースになるとは思えない。もし遠方にいれば、本当に知らないということも十分に考えられることだった。

 ラシャは墓石を見つめながら肩をふるわせていた。
「帰ってきたら、墓の前に土下座させてやる」
 このように怒りを露にするラシャを見るのは初めてだった。もの静かでおとなしい弟だった。従順で、家族を困らすようなことはめったになかった。優しくて、乱暴な言葉など使わない。まして人を呪ったり、悪態をついたりするようなことは決してなかった。

 アシュとシエラは喧嘩が絶えなかったが、年の離れた弟ラシャは兄とも姉とも仲がよく、その両方を慕っていた。強くたくましい兄アシュをラシャはいつも頼りにしていた。それが、無責任にも後継者の座を蹴って山を下り、父の死を早めたばかりか、その葬儀にも、墓参りにも来ない。

 父の死後、母と姉が忙しくなったことはラシャも肌で感じていた。そして、
「女の会主では……」
「アシュさまがいらしたら」
 そんな言葉が何度聞こえたことか。
 鳳凰山の大人たちは、エリカやシエラの前では言わないことも、ラシャの前では平気で口にした。ラシャがそこにいても、子どもだと油断して口が滑るのだ。
 また、ラシャは気配を消すのがうまかった。体の動きが動物的というのか、訓練を積んだ会士にすら、ラシャがそばにいることに気がつかない場合も多かった。

 アシュがいたら、こんなことを言われないのに……。母さんもシエラも余計な苦労をしなくてよかったのに……。

 そんな弟の怒りが日に日に増して行くのをシエラは感じていたが、アシュがなぜ帰ってこないのか、本当の理由は言えなかった。

 第一章 『三きょうだい』 完 

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