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トーラス

 旅支度を終えたアシュは、シーボクに荷物を載せていた。

 シーボクとはアイベックスに似た有蹄類。馬のようなたてがみと尻尾、ヤギのような角と髭がある。しかし、全体的に馬やヤギより毛が長めで羊のようにも見える。暑さ寒さ、乾燥に耐え、しかも、いざというときには馬のように速く走ることができるため、長旅にも重宝。ただし、シーボクは頑固な性質で、往々にして人の指示に従わないなど、育てにくいところがある。鳳凰山では家畜化に成功していたが、他の地域では使われていない。

 アシュは、そのシーボクにまたがると手をあげた。
「じゃ、行ってくる」
「アシュ、どうしても行くのか」
 旅に出ようとするアシュを父は引き止めたいようだった。
「トーラスは遠いぞ」
「わかってる。でも、行くなと言われると、余計に行きたくなる」
「行くなとは言わない。だが、あそこは鳳凰と名のつくものや鳳凰の図柄もタブーの国だ。鳳凰会士は入らないほうが懸命なのだ」
「でも、先の暴君の家紋が鳳凰だったからで、別に鳳凰会のせいでそうなったんじゃないんだろ? 坊主憎けりゃで、とばっちりを受ける鳳凰が気の毒だよな」
「うむ」
 父は心配というよりは、むしろ落胆したように沈んでいた。
 アシュは父を宥めるように念を押した。
「『鳳凰山から来ました』とか『鳳凰会です』なんて言わないからさ。黙っていれば何もわからない。会服も着ない」

 会服とは鳳凰会の制服のようなものだった。動きやすいので、ジュートやエリカ、シエラを始め、会士たちは普段から会服で過ごしていることが多い。アシュやラシャの普段着は稽古服と呼ばれる。修行者や子どもは稽古服のまま動き回るが、大人の会士はたいていその上に会服を着る。今日はそれとも違って、丸首、自然色のチュニカの上に茶色のマントを羽織っていた。

「では……気をつけて行ってくるがいい」 父はしぶしぶ送り出した。
「ああ。じゃあ」とアシュはシーボクの上から元気に手を振りながら出立した。

 アシュは特にトーラスに用があるわけではなかった。しかし、父ジュートの示唆で鳳凰会士が入らないトーラスという国に、へそまがりのアシュはぜひ入ってみたかった。
 ジュートは会士にトーラス入りを禁止してはいない。しかし、カリスマ会主に「行かないほうがいい」と言われれば、あえて入国する気になれないのが一般の会士であった。

 トーラスへ行ったことのあるものが少ないから、その情報も少ない。アシュはあまのじゃくな性向による好奇心だけでなく、どんな国なのか、自分の目で確かめ、山のみんなに知らせてやりたいという使命感のようなものも持っていた。
 いったい、どんな国なのだろう?



 トーラスに行くには砂漠を越えなければならない。鳳凰山から山や川を越え、森や町々を抜け、北ソーマン砂漠に入る。砂漠にはところどころオアシス都市があるので、そこで休みながら行く。
「砂漠ってのは、行けども行けども、同じ景色ばかり。退屈だよなあ」

 そんなのんびりしたことが言えるのは、旅がとりあえず滞りなく進んだからだった。当たり前のことではない。少年の一人旅と見て、賊に襲われないとも限らない。

 その砂漠が尽きかけていた。ところどころに乾燥に強い草が生え、眼前に見える山々は寂しいが木々の緑が覆っていた。
「ルビン山脈だ。あれを越えればトーラスだ。行け!」
 アシュはそれまでポクポクとゆっくり歩いていたシーボクを軽く走らせた。
 岩場をも自由自在に駆け上るシーボクは、通常の山道など、ものともしない。すぐに山をのぼりつめた。

 山の頂上から西を見ると、遠くにうっすらとトーラスの町が浮かび上がった。
「おっ、見えてきた!」

 もうすぐトーラスだと思うと、たまりにたまった疲労も吹っ飛んだ。
 未知の国に入る興奮でアシュは高揚していた。きっと目新しいものがたくさんあるに違いない。アシュは、はやる気持ちが抑えられなかった。
「駆け足だ!」
 さらに、シーボクの速度を上げた。



 トーラス最初の町はゴミンだった。トーラス人は褐色の肌、赤い髪をしていた。瞳の色は緑が多い。肌色が明るめの人間もいたが、それは大抵、外国からの商人だった。アシュの髪は赤茶けていたので、後ろからは異国人であることがわからない。背後から声を掛けられて道を聞こうとした相手が、振り返ったアシュを見て「失礼」とそそくさ去っていくこともあった。

 ゴミンからは海岸沿いの町に泊まりながら進んだ。首都スオウに近づくにつれ、同行の旅人が増えてきたような気がした。わりと軽装で、荷を積んだ車や馬などを連れていない。明らかに商人ではないトーラス人だ。しかし、首都だから行く人も多いのだろうとアシュはさほど気にもとめなかった。



 市門の前は商人や旅人の行列ができていた。都に入るのに資格や特別な許可が要るわけではないが、一人ひとり入市の確認をする。もちろん出ていくときも同様だが、入るときほど厳しくチェックされない。

 入市を許されたアシュは町に入り、あちこち歩きまわったが、
「なんか、期待はずれ」

 トーラスの都スオウは思ったほどエキゾチックなところではなかった。ここに来るまでに通り過ぎてきた小さな町や村のほうがよほど個性的だった。原色コントラストの激しい模様の服地を身につけた人々の町、耳や鼻に大きな輪をつけた人々の村などがあった。

 鳳凰山に大都会はないが、トーラスよりもはるかに近いエリースの首都オーマを訪れたことがある。大都会オーマは華やかだった。ここスオウはにぎやかだが、オーマを知るアシュにとっては可もなく不可もなく、これといって珍しいものもない、ただの町であった。

「都会というのは、どこも同じなのかなあ。でも、まだ来たばっかりだ。そのうち何か面白いものが見つかるかもしれない」
 通商が盛んな大都会はグローバル化が進んでしまっているようだ。少しがっかりしてしまったが、中心に近いところに宿を取り、とりあえず旅の疲れを癒すことにした。



 翌日、ゆっくりと起き出し、遅めの朝食をとって外に出たアシュは町が昨日よりにぎやかさを増しているように思った。時間が経つほどに人が増えてくる。
「祭りでもあるのかな」
 アシュは当てもなくぶらぶら通りを歩いた。

 人の流れについていくと、広場に出た。屋台も並んでいる。アシュはそんな屋台の店の人に聞いてみた。
「あの~、旅の者なんですが、今日は特別な行事でもあるんですか?」
「ああ。今日は解放記念日なんだよ」
「解放?」
「今から約二十年前の今日、この国に悪政を敷いていた暴君が倒されたんだ」
「へえ~」
 記念行事の日に偶然居合わせることができたとは、なかなかついている。
「あれっ?」
 鳳凰柄の旗が見えた。
(この国では鳳凰はタブーじゃなかったのか?)

 しかし、その謎はすぐに解けた。
「二十年前の今日、我らを虐げていた独裁者が打倒された。今日という日をみんなで祝おうではないか」
 そう言った青年は鳳凰柄の旗に火をつけ、群集はそれを見て歓喜の声を上げた。
 その旗の図案は鳳凰会のものともよく似ていたので、アシュとしてはいい気持ちはしなかった。

 用意されていたのは旗だけではなかった。元独裁者の肖像を描いた紙や板もあった。焼いたり、やぶったりするためのものだ。
 そして、その絵を見たアシュは奇妙な感覚に襲われた。
 少し父さんに似てる……。


 そのとき、背後からすすり泣くような声が聞こえ、アシュは振り返った。老女が泣いていた。
「どうかしたんですか?」
 老女は袖を目に当てた。
「いえね、ただ、昔のことを思い出して……」
「おばあさんは、スオウの人ですか」
「そうだよ」
「じゃあ、あの暴君のこともご存知ですよね」
 アシュは燃えている独裁者の絵を指さした。
「ああ」
「あの~、よかったらお話を聞かせてもらえませんか?」
「何を話したらいいのかね?」
 その声は涙に震えていた。
「私は旅のもので、偶然、この催しに出くわしたのです。その暴君のことは全然知りません。何でもいいですから、知っていることを話してください」

 老女は涙を拭いて、鼻をかんだ。そして、気持ちを落ち着けると、話しはじめた。
「あいつがどこから来たのかは知らない。誰も知らないんだ。でも、土地の者じゃなかった。容貌からすると、たぶん北方人だ」
 絵に描かれた独裁者は色白で髪の色も薄い。それは北方人の特徴であった。

 再び涙が止まらなくなった老女はしばらくすすりないて、それから、また話を続けた。
「諸国には王政の国が多いけど、このトーラスは合議制の伝統が長くてね。それを誇りにもしていたよ。でも、だからといって、政治がきれいだったわけじゃない。当時は腐敗が進んでいて……、議院の醜聞や汚職も公然の秘密、それがまかり通っていた。そんな状態に我慢できなくなった若者の集団がクーデターを起こして政権を握ったんだよ。そのリーダーだったのがジュートさ」
 アシュは一瞬耳を疑った。
「今、ジュートって言いませんでした?」
「言ったよ」
「それ、暴君の名前ですか?」
「そう」
 同名の別人? でも、さっきの絵も父さんに似ていた。でも……いくら何でも……まさかな。

 うろたえるアシュを老女は不思議そうに見つめた。
「それがどうしたんだい?」
「いいえ、何でもありません。話を続けてください」
 老女は少し咳こんだ。
 だが、アシュが背中をさすると、老女の咳はたちまち収まった。
「ありがと。あんたの手、効くねえ」
「どういたしまして」
 礼を言いながら、しかし老女は複雑にゆがんだ顔でアシュを見つめた。
「ジュートみたいだ」
「え?」
「ジュートもそんなことができたっけねえ。最初はそれで、みんな騙されちまった。神様みたいに持ち上げてさ」
「《そのジュート》の手にも治癒能力があったんですか?」
「そうだよ。それだけじゃない。ジュートはカリスマ性があって、人を引きつけた。クーデターの仲間だけでなく、トーラスの民衆も最初は喝采したもんさ。初めのうちはよかったんだよ。議会は開かれなかったが、腐敗は一掃されたし、治安も良くなった。何もかもがうまくいくかに見えた。でも、そのうち本性を現したのさ。横暴な振舞いが目立つようになったんだ。気に入らないものは共にクーデターを起こした仲間ですら粛清された。一般市民はあいつの悪口も言えなかったよ。あいつの手先に聞かれると、逮捕されちまうし、その場でなぐり殺されることもあった」
「ひどい話ですね」
 アシュは眉をひそめた。
「政権に批判的な者は、ことごとくしょっぴかれていったよ。別件逮捕も横行していた」
「おばあさんもひどい目にあわされたんですか?」
「そうさ、私の息子も殺された」
「何をしたんですか?」
「何もしなかったのさ」
「どういうことですか?」
「息子は建築家でね。ジュートの城を作るよう命じられたんだが、断ったんだよ。独裁者の城など作りたくないと言ってね」
「それで死刑?」
「判決があったのかどうかも知らないよ。でも、連れて行かれて、しばらくして帰ってきたのは遺体だった。うっ、ううううっ」
 老女はまた声をあげて泣きはじめた。

「すみません。思い出させてしまって」
「いいんだよ。一人でも多くの人に知っておいてもらいたいからねえ」
 アシュは、辛そうな老女に申し訳ないと思いながらも、どうしても確認しておきたいことがあった。
「で、そのジュートは死んだんですよね。二十年前に」
「ああ」
「どうやって死んだんですか」
 ジュートが死ぬ話となったとたん、老女はまた嬉々として語り出した。
「あれはなかなか見ものだったよ」
「じかに見たんですか?」
「ああ、観客席が隙間なく埋まった競技場で殺されたからね」
「そ、そうですか」
 アシュは胸をなでおろした。

 そのジュートは死んだんだ。やっぱり父さんじゃない。

「ジュートの暗殺計画はたくさんあったんだけどね、どれも失敗に終わったんだ。あいつは特別な能力を身につけていて、難なくクーデターが成功したのも、その後の暗殺がことごとく失敗したのも、その妙な力によるらしいんだ」
「妙な力って、どんな力ですか?」
「私にはよくわからないけど、恐ろしく強いらしい。武器を持っていても、素手でも、やつに敵うものはなかったという。一対一ではもちろん、数名で取り囲んでも、やつにやられてしまう。しかも、運よく深手を負わせても、ビクともしないんだと」
「そんな相手をどうやって倒したんですか?」
「不甲斐ないことに、ジュートを倒したのはトーラス人ではなかった」
「外の人間だったと?」
「エリースからきた男だった」
「刺客……ですか」
「刺客なんていうおとなしいもんじゃなかったね。堂々とやってきたよ。ジュートが自らの権力を誇示するために開いた祭典で、民衆の見守る中でジュートを殺してくれた。その場はジュート打倒の祭典に早変わりさ」
「何が起こったんですか?」
「あれを見た者は一生忘れないだろうね。あんな試合はもう二度と見られないだろうよ」
「試合……だったんですか」
「ああ。催し物として格闘試合も用意されていてね、その一人として会場に紛れ込んだ例のエリース人がジュートを挑発したのさ」
 老女は自分が独裁者に挑んだかのように得意気だった。
「どう挑発したんですか?」
「ジュートを名指しして試合を挑んだんだよ」
「で、暴君ジュートはそれに応えたというわけですか」
「よっぽど自信があったんだろうね」
「武器は何を使ったんですか?」
「素手だったよ」
「エリースから来た者は、素手でその強いジュートを殺すことができたのですか?」
 アシュは確認するように両手を上げて、老女の前で指を広げた。
 老女は黙ってうなずいた。
「素手だったから殺せたのかもしれないね。不死身と思われていたジュートが素手の攻撃で死に至るとは誰も思っていなかったから、警護の兵士も止めなかった。ジュートも助けを呼ばなかったしね。最後にジュートは血を吐きながら倒れたんだ」
「そんな芝居のような派手な殺し方をして、そのエリース人の男はあとで逮捕されたりしなかったんですか?」
「言ったろう。そのころにはもう、このトーラスにはジュートの味方より敵のほうが多かったんだよ。私らトーラス人は、ジュート本人を殺すのには外の力を借りたけど、それだけやってもらえれば、あとはトーラス人の手で政権を奪い返すことができたのさ」
「本人は本当に死んでいたんですよね」
 アシュは念を押した。
「ああ。そうでなかったら、そのままってことはなかったろう。生きていたら、また返り咲いたろうさ」
「墓はどこにあるんですか?」
「ないよ」
「ない? では遺骸はどうしたのですか?」
「トーラス人のほとんどはやつを嫌っていたが、やつを支持する連中もいた。最後まで仲間内でのカリスマは保ち続けていたからね。聖地みたいなものができないよう、荼毘にして、あちこちに撒いたのさ」
「荼毘に付されたその遺体は、本当に本人のものだったと言えますか?」
「あんた、さっきからしつこいね。ジュートがまだ生きているって言いたいのかい?」
 老女は顔をゆがめた。
「いえ、ただ、そんなに強い人間が、あっけないなあと思って」
「私もそう思ったよ。でも遺体は死んだその場で焼かれたんだ。間違いない」
「そ、そうですか」
 さらに詳しいことは、これ以上話してもわからないだろうと思ったアシュは、老女に礼を言って、別れた。


 アシュは、町のあちこちで燃やされている独裁者ジュートの絵を見ながら、何度も首を振った。

 似ている。でも、絶対に違う!

 広場では、ジュートの悪逆非道ぶりと、そこからの解放をテーマにした劇が催されていた。
 ジュートの行列の前を横切った子供が殴られる。貧しい人が重税を取り立てられる。抵抗するものは殴られる。わずかな罪で処刑される人々。政治犯への拷問。

 それらを見ながらアシュは自問自答した。
 芝居の話をおもしろくするために誇張されているんだろうか。それとも、本当に起こったことなのだろうか。大昔の話ではない。二十年前の出来事だ。それほど歪曲されてはいないと考えるべきだろう。

 どういうことなんだ? 父さんは、それでトーラスには行くなって言ってたのか? いや、違う。これは父さんじゃない。父さんは罪の無い人を殺すようなことはしない。

 せっかく遠路はるばるやって来たトーラス。もっと長く滞在するつもりだったが、釈然としない気持ちを抱えて、のんびり観光などできるわけもない。父と話をしなければと帰路を急いだ。


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アシュの覚悟

 帰り道には景色を楽しむ心の余裕はなかった。トーラスの祭で燃える鳳凰と父に似た《独裁者ジュート》が脳裏に焼きついて離れなかった。

 慣れた景色、山々が重なる鳳凰山が見えてもアシュはほっとした気持ちになれなかった。むしろ、父と会うのが恐い。

 我が家に入る前に、深呼吸した。
 そして、扉を開けた。
「あらアシュ、早かったじゃない」
 出迎えてくれたのはシエラだった。

 いきなり父との対面でなくてほっとしたが、アシュはシエラにも笑顔を見せることができなかった。無言で通りすぎようとした。

「ちょっと~。『ただいま』ぐらい言ったら?」
「父さんはどこにいる?」
 シエラはアシュの様子が変だと思った。何かあったのだろうか。
「父さん? 山の上だと思うけど」
 アシュは山頂のほうを見上げると、意を決したように向かった。

 アシュは普段、だらしないほどに力が抜けている。よく言えばリラックスしているのだが、悪く言えばしまりがない。ときたま稽古中に本気になったり、真剣な表情を見せることがあるが、それはごくごく稀であったし、そんなときもあるという程度だ。

 ところが、トーラスから帰宅したこのときのアシュは別人のようだった。終始厳しい顔でにこりともしない。体の動きもせかせかして落ち着かない。

 山頂へも、バタンと乱暴に戸を閉ざしたかと思うと、駆け出した。
「どうしちゃったのよ。まったく。帰ってきたばかりなのに……」
 シエラは肩をすくめた。


 アシュら家族の住む木組みの家は神山と呼ばれる山にある。その山頂付近には鳳凰会の本寺があるが、父は寺の中ではなく、寺の近くの岩場で岩壁に向かって瞑想していた。
 背後に立つアシュに気がついているのかいないのか、そのままじっとして動かない。薄目を開いているが、どこを見るというのでもない。

「父さん、話がある」
 父は瞼(まぶた)を上げたが、何も言わなかった。
「今すぐに話したい」アシュは、もう一度催促するように言った。
「何だ?」
「こっち向けよ」
 父の背中と話す気はなかった。

 アシュの声は静かだったが、父は息子の声に怒りの炎がくすぶっているのを感じた。
 ゆっくりと向き直った。しかし、その視線はアシュではなく、伏し目がちに地面に落ちていた。

 アシュは父をまっすぐ見据え、非難するように言った。「トーラスに行ってきた」
「そうか」
「祭のようなものがあった。独裁政権からの解放二十年を祝う記念行事だった」
「うむ」
 父の表情は変わらなかった。
「あそこにはかつてジュートって名前の暴君がいたらしい。そいつを倒したのがちょうど二十年前だったそうだ」
 それでも父は何も言わずに聞いているだけだった。
「そいつの絵もあった。燃やすために用意されていたものだ。父さん、あんたによく似ていたよ」
「そうか」

 一言しか答えない父に、アシュは痺れを切らして叫んだ。
「『そうか』じゃねえだろ。どういうことなんだよ。そのジュートって誰なんだよ。ここのみんなにトーラスに行くなって言ってるのには、わけがあるんだろ? 何か知ってるんだろ?」
 アシュにはトーラスにかつて暴政を布いた独裁者と父が同一人物であるとは思えなかった。思いたくなかった。
 しかし、父がつぶやいた。
「私だ」
「え?」
 アシュは一瞬、何を言われたのかわからなかった。
「その独裁者は私だ」
 父はもう一度はっきりと言った。

 次の瞬間にはアシュから全身の力が抜けていった。
「独裁者ジュートは死んだって……」
 声がうわずった。
 老女のから聞いた話では死んだはずだった。そうだ。死んだのだ。

「死んだことになっている」
 ちがう。父さんじゃない。
 そんなアシュの幻想は、父本人の言葉によってうち壊されてしまった。
「無実の人が投獄されたり、殺されたりしたと聞いた」
「そんなこともあったかもしれない」
「どうして?」
 アシュはその場にしゃがみこむように崩れた。

 父は依然として冷静だったが、寂しく悲しい目をしていた。
「アシュ、黙っていてすまなかった。お前がトーラスに行く前に話しておくべきだったかもしれない。だが、その勇気がなかったのだ。トーラスに行っても、何も気がつかずに帰ってくるかもしれない、そう願ったのだが……。そうか、ちょうど二十年になるのか」

「なんで、そんなひどいことを?」
 アシュにとっては厳しくとも、頼りがいのある父だった。悪人ではない。父を慕っているのはアシュばかりではない。父は会士たちからも尊敬されている。

 アシュは力なくへたっていたが、ジュートの目もまた悲しげだった。
「私は権力者などになりたくはなかった。祭り上げられたのだ。私は元々トーラスの人間ではなかったし、いずれトーラスから去るつもりでいたから、はじめは傍観していたのだ。しかし、親しくなった友人が政権闘争に倒れたり投獄されたりするようになると見過ごすこともできなくなった。それで、結局クーデターに加担することになってしまった」
「加担じゃなくて、あんたが頭(かしら)だったんだろ?」
「計画の実行を主導したのは私だが、クーデターそのものは私の提案ではない」
「だが、その後、独裁政権の長におさまったのはあんただったな」
「そういうことになってしまった」
「人ごとみたいに言うなよ」
 アシュは父の無責任な口ぶりが許せなかった。
「私の意図したことではなかった。先ほども言ったように、祭り上げられたのだ。私は特別な能力を持っている。通常の戦いで私自身が死ぬことはないし、ある程度の術は短期間でも教えることができる。私の周りには腐敗した当時の政権に憤っているものが大勢いた。彼らを鍛え、小さな軍隊のようなものを作った。そんな活動の中で私の能力は彼らには神業のように見えたらしい」
「他人のせいにするなよ。嫌だって断ればよかったじゃねえか」
「今から思えばそうだ。しかし、当時は中途半端な責任感から受けてしまった」

 アシュにはそんな父の言葉も言い訳にしか聞こえなかった。
「で、そのあとの悪逆非道はどう説明してくれんだよ」
「クーデターを成功させるのは簡単だった。しかし、実際に国をまとめていくのは至難の業だ。初めはよかった。仲間たちもよくやってくれた。しかし、権力のあるところには色々なものが集まってくるものだ。一掃したはずの腐敗とも無縁ではなかった。共に戦った仲間たちも変わっていった。そして、あるとき、私は最も信頼していた者に命を狙われた。危ういところだった」
「そいつに弱点でも教えてあったのか?」
 父はめったなことで死なない。父を越える実力者は稀だ。
「いや、武器で殺傷することはできなくても、毒殺はできると考えたようだ」
「なるほどね」
「しかし、私は毒に気がついた。殺意はわかる。弱い毒でも長期にわたって盛られたら、危なかったかもしれないが、彼は自らの手で強い毒を杯に混ぜ、一思いに私を殺す方法を選んだ。私から信頼されていることを知っていたからだ」

 父は言葉を切った。
 ひょっとして涙? 気のせいかもしれないが、父の瞳が潤んだように思われた。

「そのときまで、私は私なりに一生懸命、政務に励んでいた。しかし、そこで何かが切れてしまったのだよ。誰も信じられなくなってしまった」
「それで粛清の嵐か? でも、一般の民衆には関係ねえだろ」
「その後も似たような事件が何度かあった。権力者とは孤独なものだ。本当の味方がいない。私はだんだん投げやりになってしまった。どうでもよくなってしまったのだ。民衆を弾圧したつもりはない。しかし、民衆を救うつもりも、もはやなかった。末端でどんなことが行われていたか、詳しくは知らない。罪なき者が罰せられたりしたことがあったのかもしれん」
「知らなかったって言うのかよ」
「責任のがれで言うのではない。信じられないかもしれないが事実なのだ。もちろん、上に立つものが知らないでは済まされない。知らなかったこと、知ろうとしなかったことに責任がある。もっとも、当時の私では、知ったところで何もしなかったかもしれないがね」

 アシュも表面的には落ち着いていた。
 これは父ではない。誰か別人が昔の過ちを語っている。
 心のスイッチをそんな風に切り替えて聞いていた。

「そんなときだよ。あの男が現れたのは」
 老女が語ったエリース人のことだろう。
「素手であんたをやったんだってな」
「ああ。群集の見守る中、私を格闘の相手に指名してきたよ。断ることもできたんだが、なぜか受けてしまった。やはり、もうどうでもよかったのだ。死に場所を探していたのかもしれない」
「やられない自信はあったんだろう?」
「ある程度はね」
「ある程度? あんたは普通の相手と普通に戦っても死なないだろ? しかも素手だぜ」
「あれは見知った男だった。エリースの神官の一人だ。あの男は心理攻撃を使う。私の自責の念や、悔恨、反省を促すものだった。修行の日々や、そのとき私を支えてくれた友や……」
 父は言葉をつまらせた。このときははっきりと目に涙が浮かんでいるのが見えた。
「とにかく、過去の記憶が無理やり頭の中に展開してきた。私は何もできなかった」
「婆さんの話とはだいぶ違うな。あの人は、とにかく迫力のある《試合》だったと言っていた。最後の最後までジュートが押されているようには見えなかったと」
「そう……だったようだな。外からどのように見えていたかはわからないが、あの男は最後には私を説き伏せてしまったよ。それで、自ら死を選んだ」
「自殺? ……だったのか?」
「そう。私は私自身の生命の元を絶った……つもりだった」
「で、なんで生きてるんだ?」
「わからない。私は気を失っていた。気がついたらここにいたのだ」
「ここって、この山か?」
「そうだ」
「誰が連れてきたんだよ?」
「エリカだ」
「母さん?」
 母も同罪なのか?! アシュは自らの立つ土台が崩れていくように感じた。

 そんなアシュの動揺を見抜いてか、父は言った。
「安心しろ。私がトーラスに君臨していたとき、エリカはそばにいなかった」
 アシュは少しだけだがほっとした。少なくとも母は《無実》だ。

「あのままでは本当に死んでいただろう。エリカは私の命の恩人だ」
「トーラスの婆さんは、ジュートの遺体は荼毘に付されて、その灰は散布されたって言ってたぜ」
「そういうことにしたのだろう」
「誰かの遺体とすりかえたのか?」
「さあ、私は私が意識を失っている間のことは知らない。しかし、私は現にこうやって生きている」
「生き残ったんなら、名前ぐらい変えとけよ。恥ずかしくねえか?」
 アシュにしても名前が同じでなかったら、肖像画がどんなに似ていても、父がかつてのトーラスの独裁者なのではないかと疑ったりはしなかっただろう。
「会がこのように大きくなることがわかっていれば、早くに名前を変えていたかもしれない。しかし、最初は山でひっそり暮らすつもりだった。知り合いができてから改名すれば、余計に奇異な印象を与える。そのため、そのままになっている」
「しっかし、懲りねえな」
「何がだ?」
「ひっそりと暮らすつもりだったんだろう? それが、どうだよ。悪いことをしていないだけで、今だって独裁者みたいなもんじゃないか」
「私もそう思わないでもない。しかし、まだ国の規模が小さいから目が届く。ここの者は皆、私かエリカの直弟子だ」
「でも、だんだん大きくなっているんだろう? そのうちまた同じことの繰り返しにならないって保証があるのかよ」
「保証はない。しかし、同じ過ちは繰り返さないつもりだ。それに、今はエリカやお前たちもいる」
「信じていいのかどうかわからない」

 アシュは父が横暴に振舞う姿など想像できない。しかし、その父が、かつてはトーラスの民を苦しめる暴君であったというのは、まぎれもない事実なのだ。

「アシュ、大きくなった鳳凰会を支えていかなければならないのは、お前だ。私の二の舞を踏まないよう気をつけなければならないのは、むしろお前なのだ」
「俺?」
 アシュは矛先が自分に向いてきて当惑した。

 確かに長期的にはそういうことになるな……

 アシュは、自分が山を率いることなど、具体的に考えたことがなかった。周囲から後継者と見られていることはわかっていたが、その自覚がまだない。父も母もまだ若い。十代のアシュにとっては、会主の座を引き継ぐことなど、はるかに先の話と思われた。

「私は会が大きくなる前に死ぬだろう」
「でも、今のままなら数十年後にはけっこう大きくなりそうだぜ」
「私は十年以内に死ぬ」

 父は突然、何を言い出すのだろう。アシュは耳を疑った。
「どこか具合が悪いのか?」
「私は一度死にかけた。命はとりとめたが、寿命は確実に縮んでいる」

 十年だと? いや十年以内と言ったな。十年より短いかもしれない? 

 大きく力強い父。アシュもまた父が不死身であるかのような錯覚を抱いていた。父がいなくなるなど、そして自分がその代わりを務めることなど、想像できなかった。

 父は病人やけが人の死期を予測することができた。その予測は外れたことがなかった。ひょっとしたら一見健康体の人の余命を予測することもできるのかもしれない。まして自分自身の体のことは本人が最もよくわかっているだろう。父が十年以内と言いきったら、まず間違いなくその通りになると考えなければならない。

 アシュはどっと疲れが出てきた。それは旅の疲れなのか、父の過去を知った精神的なショックによるものなのか、はたまた、近い将来に鳳凰会全組織を率いなければならないという事実をつきつけられて、自分が背負わされる責任を思ってのことだったのか……。おそらく、そのすべてがないまじったものであったろう。



 父の言葉はアシュに重くのしかかった。今すぐどうこうということはないだろうが、あと十年たってもアシュはやっと二十代、父を失って山を率いるためには、それまでに山の年長者たちを納得させるだけの能力を身につけておかなければならないということだった。

 根性や勤勉といった言葉とは無縁だったアシュの生活が一転した。何事にもちゃゃらんぽらんだったアシュが心根を入れ替えたように勉学や稽古に身を入れだした。

「いったい、どうしちゃったのよ」
 シエラは感心するというよりは、あきれていた。急にまじめに稽古に励みだしたアシュを横目に、どうせ三日坊主に決まっていると、あまり期待していない。
「俺だってやるときはやるんだ」
 そして、三日を過ぎてもアシュの意欲は変わらなかった。



 ある日、アシュが一汗かいて家に戻ってくると、シエラが手ぬぐいを差し出した。
「トーラスで何かあったの?」
 さぼり魔のアシュが急にまじめ人間になったのには訳があるはずだ。
「お前もそのうち、トーラスに行くといい。いや、わざわざトーラスに行かなくてもいいんだ。ただ……」
 アシュは言いかけて言葉を切った。

 自分が父から聞いた話はシエラやラシャも知っておくべきだと思った。だが、話すのは躊躇してしまう。自分ではなく、父の口から直接聞くべきではないか。

「ただ、何?」
「トーラスから帰ってきてすぐに、父さんと話をした」
「ええ、そうだったわね」

 父さんはどこにいる? それが旅から帰ってきたアシュの第一声だった。シエラはそのときのアシュが異様な雰囲気を漂わせて父のいる山頂に向かったことを忘れていなかった。そして、アシュはその後、人が変わったように規則正しい生活を送り、師の教えにも素直に従うようになったのだ。

「シエラ、お前も一度、父さんとじっくり話をしたほうがいい」
「何の話?」
「父さんの昔の話だ」
 ほんのわずか間があいた。

「父さんが一度死にかけたって話?」

 えっ?

 アシュはシエラを呆然と見つめた。「シエラ、お前は……」知っているのか? どこまで知っているんだ?

「私は母さんから少し聞いてるの。あんたが父さんから聞いた話と同じかどうか知らないけど」
 アシュは驚いて、一瞬、意識が飛んでしまった。だが、すぐに我に返った。
 シエラがある程度知っているなら、自分が話しても構わないはずだ。父が口どめしなかったのは、きっとそういうことなのだ。

「トーラスの独裁者だったことも?」
「ええ」
「罪のない人を殺したりしたって話とか」
「そんな話も聞いたわ」
 アシュは黙ってしまった。シエラは知っていた……。かなりショックだった。

「それ、いつ聞いたんだ?」
「いつって聞かれても困るのよね。私は一度に全部聞いたわけじゃないの。母さんは折を見て、少しずつ話してくれたわ」 
「そんなに昔から聞いていたってことか」
「二~三年前からかな……」
「俺にはどうして話してくれなかったんだろう?」
 アシュはせっかく父の後継者としての自覚と責任に目覚めたところに、冷水を浴びせられたような気分だった。子供たちの中では、自分が父から真っ先に聞いたことだと思っていたのに。こんな大切なことが、シエラには伝えられても、自分には秘されていた。お前が後継者であると持ち上げておきながら、あまり信頼されていない。

 だが、
「あんた、妙に正義感が強いところがあるからよ。いくら昔の話でも、そんなこと絶対に許さないんじゃないかって、父さんも母さんも心配してたの」
「そりゃ、許せない。でも俺が許そうが許すまいが、起こっちまったことは変わらないだろ? 第一、俺が許さなかったらどうだってんだよ」
「父さんは、あんたが山を出て行くことを一番恐れていたわ」
 アシュの中にこみ上げてきていた怒りに似た感情が少し収まった。
「ふ、ふ~ん。俺みたいな不肖の息子でも、案外頼りにされてんだな」
「ホントね」
 妹の失礼な冗談はふっと笑って受け流し、再びまじめな顔に戻る。
「ラシャは知らないよな」
「ええ、たぶん。あの子はまだ小さいから」
 アシュは軽く深呼吸した。
「父さんが、長く生きられないってことも聞いたか?」
 今度はシエラが黙った。

「私は母さんから主に医術を学んでいるわ。生気の流れが感じられるの。ほかにも読心術とか、いろいろな術を勉強しているんだけど……」
「知ってたんだな」
「ええ」
「父さんは長くてあと十年だと言っていた。お前はどう思う?」
「はっきりしたことはわからないわ。これからだって何があるかわからないし。でも、そうね。大きな病気や怪我をしなかったら、十年ぐらいね」

 あらためて父の寿命を確認して、がっくりきているアシュを見ながら、シエラは言った。
「なるほどね。悪行は許せないけど、老い先短いとなると、親孝行する気になったってわけ?」
「親孝行? そんなんじゃねえ。あと十年で俺がここの長になるんだろ? 今のうちに教われるものは教わっとかなくちゃな」
 自分本位を装うアシュだった。
「同じことじゃない」

 正義感に責任感が勝ったというところかしら?

 シエラは優しくアシュを見た。アシュもまた軽く微笑んだ。
 父の死を覚悟する兄と妹、寂しい笑顔だった。

 このときアシュはシエラがとても大きい存在に見えた。いつも喧嘩ばかりしていた。アシュが勝手するからだが、シエラも勝気で譲らない性格だった。二人はことあるごとに衝突していた。


 男女の違いか、適正に合わせてか、その教育課題は異なっていた。武芸の訓練は体の動き、傍目にも見えるものだ。アシュの出来、不出来はシエラにもわかって、それについて、からかうこともあった。しかし、シエラが学んでいる能力についてアシュは実はあまりよく知らなかった。

 父は武術、母は医術に長け、それぞれが弟子をとっていた。アシュは父や父の直弟子たちを師匠とし武術を習い、シエラは母について勉強していた。母の弟子たちは主に屋内で学ぶ。目を閉じて、じっとしている場合もある。
 得体の知れない能力をシエラは会得しつつある、アシュにはそんな畏敬に似た奇妙な感覚に襲われた。



 本気になったアシュの進歩は目覚しかった。父をはじめ、師匠たちは驚きを隠せない。

「さすが、ジュートさまのお子ですな」
「いかにも」

 アシュ自身も体中にみなぎる気のエネルギーを感じていた。
 素手の組合いにも、剣を合わせても大人たちを押しまくるアシュに、師も満足の笑みを浮かべていた。


 ある日、稽古の後、師匠カリンガがアシュに近寄った。カリンガは丸顔で下がった眉、温厚な人柄を感じさせる。髪は短いというより薄い。しかし白髪はなく、つややかな紺色であった。鳳凰山の麓の人々に多い色だ。瞳の色もこの地方に多い栗色。カリンガが地元の出身者であることを物語る。

「アシュさま、体調に異変はありませんか?」
「異変? 絶好調ですよ。こう、何でもできそうな感じ」
 アシュは顔面で拳を握り、何の問題もないとやる気満々の態度で師に答えた。
「それならよろしいのですが、少しでもおかしいと思ったら、すぐにお父上でも私でも構いません。この道に通じた年長の者にご相談ください」
「どういうことです? 師匠には何か見えるんですか?」
「いや、そろそろ危ないところですからな」
「危ないところ?」
 アシュには師匠の言葉の意味がよくわからなかった。


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シエラとトーマ

 シエラとトーマ、仲良しの二人は山の木の実や果実を拾いに行き、一緒にトーマの家に戻ってきたところだった。そのとき祖父は留守だった。入ってすぐの木張りの部屋は、居間であると同時に作業場、台所などを兼ねていた。大きめの机が置いてある。二人はそこに今日の収穫物の入ったかごを置いた。

「じゃあ、半分こにしよっか」
 とシエラが分けはじめると、トーマは言った。
「君の家のほうが人数が多い。多めにとっていいよ」
「でも、一緒に摘んだのに悪いわ」
「今日はたくさん取れたから。じいちゃんと二人では食べきれないよ。腐ってしまう」
「そう? じゃあ、多めにもらうわね」
 二人は、たまに小さな果実を一つ二つパクッとほおばりながら、木の実や果実を分けた。

 トーマが麻袋を持ってきたので、シエラは自分の分を入れた。
「ちょっと疲れたわね」
「休んでいく?」
「うん」

 トーマの部屋は二階の屋根裏部屋だ。殺風景だが、小ぎれいに整頓されている。ベッドも整えたばかりの宿屋の部屋のように、掛け布団が三方面に均等に伸びている。あまりに整いすぎていると壊したくなる。新雪に踏み入るように、シエラはベッドにドカッと腰掛けて窪みをつけた。

 トーマはベッドから少し離れたところにある椅子に座った。ベッド上でシエラの隣に腰掛けるのははばかられた。
「アシュは最近、がんばっているね」
「そうなの。跡継ぎの自覚が出てきたみたいね。でも、トーマだって強くなってるじゃない」
「うん。まあ、毎日訓練すれば、誰だって進歩するよ。でも、このところのアシュは本当にすごいんだ。僕のほうが年上だけど、すぐに追い抜かれそうだな」
「また、そんなこと言って。トーマだって若いのに優秀だって評判なのよ」
「僕は少年たちの中では一番会歴が長いし、体も大きいから、そのぶん得しているかもしれないな。でも、そんなのは上に上がるほど関係なくなる。今だけだ」
 控えめなトーマは、褒められても謙遜するばかりだった。

 ジュートが鳳凰会を開いた当初、山に子供はほとんどいなかった。山の生活は楽ではない。初期の会士はほとんど独身であったし、家族持ちの会士も妻子は出身地に残してくることが多かった。後に、会が大きくなると、それと共に麓の町や村が潤い、鳳凰山付近一帯が豊かになった。現在、山にいる少年たちは、鳳凰山をめぐるインフラが整ってから山入りした会士の家族か、会の評判を聞いて自ら入会を決めた者たちだった。つまり、入会時点で、もう小さな子どもではなかった。

 しかし、トーマの《祖父》はジュートがやってくる前からこの山に住んでいた数少ない地元民だった。重症をかかえて山にやってきたジュートの介護にあたって、エリカを手伝ってくれた人でもある。シエラやアシュが生まれたとき、トーマは、すでに山の子供だった。お互い物心ついたときにはそばにいた。だから、アシュやシエラとは、きょうだいのように育っている。

 そして、鳳凰会発祥当時から、わけもわからないうちに会に入り、何となく訓練も受けてしまったトーマは、少年たちの間ではアシュと同様に抜きん出た存在だった。そして、アシュより年上であるし、怠け者のアシュよりも一歩も二歩も進んでいた。つまり、この世代の会士の間では実力ナンバーワンなのであった。

「なんか、眠くなっちゃった」
 シエラは無造作に横になった。
「ここで寝てもいい?」
「ああ、かまわないよ」
 じいちゃんが知ったら、怒るだろうな。
 そう思ったが、断るのも変だと思った。
 シエラとは小さい頃から、ここで一緒によく昼寝をしたものだ。もっとも、大きくなると昼寝という習慣がなくなって、最近は二人で横になるようなことはなかった。

 シエラはもぞもぞと布団の中に入って、いたずらっぽく言った。
「おやすみなさ~い」
「おやすみ」
 トーマが椅子から立ち上がって部屋を出て行こうとしたとき、シエラは呼び止めた。
「トーマは疲れてないの?」
「僕もちょっと疲れたよ」
「じゃあ、トーマも横になったら?」とベッドの横をポンポンと叩く。
 トーマは躊躇した。
 シエラは小さかった頃と同じ気持ちで、そう言ったのだろう。他意のない、あどけない瞳だった。
「う……うん」
 ここで意気揚々とベッドに入るわけにはいかない。しかし、断ることもできなかった。恋人になれなくても、ずっとこのまま友達でいたかった。ここで断ると、変に意識しているのを見透かされる。これまで、ずっと無邪気にふるまってきたシエラが、急に男と女を意識するようになってしまうかもしれない。
 そう思ったトーマは小さかった頃のように、なるべく自然に、無造作を装いながら、ベッドに入った。

 しかし、基本的に一人分のベッドである。昔は二人で入っても余裕があったが、今では狭い。くっついてしまう。
「ひさしぶりね」
 シエラは楽しそうだった。
「そ、そうだね」
 顔が赤くなっているのではないだろうか。トーマは心配だった。
 シエラは本当に疲れていたようで、すぐに眠ってしまった。
 その寝顔を見ながらトーマもいつしか、うとうととしてきた。

 ガタッ。
 外の物音でトーマは目を覚ました。
「うん? じいちゃん?」
 トーマは、はね起きた。
 横のシエラに目をやると、規則的な寝息を立てながら、すやすやと眠っている。
 そおっとベッドから抜け、部屋を出た。

 案の定、祖父が帰っていた。地階の居間兼作業場で火を熾していた。
「お帰り」
 と言うトーマに、祖父は怒ったような顔をして返事も返さない。
 トーマはしばらく、じっと祖父の背中を見つめていた。   

 シエラも部屋から出て、階段を下りてきた。
「おじいさん。こんにちは」
「ああ、シエラさま、いらっしゃい」
 祖父はシエラにはいつものように微笑んだ。といっても、基本的にあまり愛想のないじいさんであるから、笑っても頬がひきつったようになるだけなのだが。

 シエラは机の上の麻袋を取った。
「じゃ、私はこれを持って帰るわね」
 トーマも、いつものように笑って送り出す。
「みんなによろしく」
「ええ。じゃ、またね」
 シエラは静かに戸を閉めた。
 パッタン。

 それまでトーマを無視するように目をそらせていた祖父が、孫をギロリとにらみつけた。
「トーマ、お前は自分のやっていることがわかっているのか」
「じいちゃん。僕は何も……」
「シエラさまを連れ込んで、あのように……」
「ご、誤解だ。僕は何もしていない」
「壊れた椅子を直そうと思って、お前の部屋に置いてある工具を取りに行ったんだ。部屋が静かなので誰もいないと思って入ったら、二人、寄り添って寝ているではないか。何も言わんかったが……驚いたの何のって」
「ただ、横になっただけだよ」
「例えそうだとしてもだ。お前達は、もう小さな子供ではないのだぞ」
「う、うん。わかってるよ」
「わかっていて、あれか」

 やはり、一緒のベッドに入ったのは、まずかったかな……。
 トーマは頭をかいた。
 孫に向ける祖父の目は、最初は厳しく、非難するようであったのが、次第に、あきらめたように、寂しそうで、憂いをおびた目に変わっていった。
「トーマ、お前、覚悟はできているのか?」
「覚悟?」
「鳳凰会を背負う覚悟だ」
「そんな大それたこと考えてないよ」
「シエラさまと深い関係になるということはそういうことなのだぞ」
「だから、そんなんじゃないって」
「わしの目がごまかせると思っているのか」
「じいちゃん、本当に何もしてないって」
「まだな。だが、このままでは……」時間の問題であろう。
 祖父の目は厳しかった。しかし、そこにあったのは怒りではなかった。不安、心配、なによりも愛。
 トーマもまた祖父の愛情は日ごろから身にしみて感じている。血の繋がりはなくとも互いが互いを思い合う家族愛は本物だ。

「だいたいシエラは僕のことをそんな風に思ってないよ。ただの幼馴染さ」
 祖父はため息をつきながら首をふった。
「お前はわかっておらんのう」
 馬鹿にしたように言う祖父にトーマは少し腹が立った。
「それに、じいちゃんだって言ったじゃないか。僕じゃダメだって。シエラの相手には、しかるべき人が選ばれるって」
「わしはな、お前に余計な苦労をさせたくないから、そう言ったのだ」
「余計な苦労?」
「わしは、いわば世捨て人、わずらわしい世間の営みを避けて山で暮らしてきた。だから、お前が難しい道を行こうとしているようにしか見えないのだ。だが、お前はわしとは違う。お前が望むなら……、それもよかろう」

 祖父はトーマの実力を認めていた。祖父自身は会士ではなかったが、山に住んでいれば会と関わらざるを得ない。会士の間でのトーマの評判も耳にしていた。口ではシエラは高値の花であると、トーマに自重を説いていたが、トーマがシエラにふさわしくないなどとは内心思っていなかった。しかし、祖父は鳳凰会創設以前から人里離れた山中に一人で暮らしていたぐらいの偏屈者である。組織や集団を嫌うところがあった。シエラの伴侶となれば、トーマは当然、鳳凰会の運営に深く関わらざるを得ないだろう。かわいい孫を成長著しい鳳凰会の幹部というわずらわしい地位にはつけたくないという思いがあった。

「いずれにしても、近いうちに剣山に行くのだろう」
「う……。じいちゃんが許してくれるなら……」
「許すも許さんも、お前の人生だ。シエラさまのおそばに仕えたければ、剣山を出なければな。しかも優秀な成績で」

 剣山とは鳳凰山の中でも特に険しい山で、そこには鳳凰会の幹部養成機関があった。隔離された状態で最低四年、密度の高い訓練を受ける。

 トーマは剣山入山の希望を、ときどき祖父にも語っていた。そのたびに祖父は、いい顔をしなかったのだった。もっと強くなりたいというトーマだったが、祖父にはトーマの本当の動機がわかっていた。すべてシエラのためなのだ。剣山修了生というだけでは会主の娘シエラと釣り合う肩書とは言えないが、少なくとも剣山は、この鳳凰会の幹部となるためには必須条件であった。


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ラシャと動物

「えっえっ……」
 ラシャはむせび泣いていた。おとなしいが弱虫な子ではなかった。声を上げて泣くようなことは珍しい
「まあラシャ、どうしたの?」
「トトが死んじゃったんだ」
 トトとはラシャがかわいがっていた小型の馬だった。
「もう年だったから……」
 ラシャがせっせと病気のトトの介護をしてやっていたことは、シエラも知っていた。トトがもう長くないことも。だから驚かなかったが、弟が悲しんでいる姿を見るのはつらい。
「ううっ。えっえっ」
「それに病気で苦しんでいたでしょう。やっと楽になれたのよ」
 シエラはラシャを慰めようといろいろ言ってみたが、ラシャは泣きやまなかった。

 ラシャは動物が大好きだった。家畜でも友達のように接する。しかも、人間と同様に意思の疎通ができるようだった。飼っている馬や犬や兎はもちろん山に住む野生動物たちともコミュニケーションが取れる。
 それはそれでいいこともあるのだが、この性質および能力の困ったところは、一家が山の動物を食べることができない点だった。ラシャは基本的にあらゆる山の動物と友達になってしまうから、友達を食べるわけにはいかないのだ。
 乳幼児のころからラシャは山の動物の肉を食べなかった。家族が山の動物を食卓に添えると泣き出した。最初は原因がわからず、無理やり食べさせたりしていたが、ラシャの体が受けつけなかった。食べなくても、食卓に添えられた肉を見て、普段はおとなしく聞き分けのいいラシャが狂ったように泣きわめいた。その原因がわかってからは、両親は料理の肉は、遠くから取り寄せるようにした。他の家族には強制しなかったが、会主一家がこうであると鳳凰山に住む者は山での狩りを遠慮するようになっていった。

 そんなラシャであるから毎日世話をしていた犬や馬が死んでしまうと、無残に落ち込んでなかなか立ち直れない。それは今回が初めてではなかった。家族としても「またか……」という思いだ。

 食事の時間が来てもラシャは食卓に現れなかった。
「シエラ、ラシャは?」
 とアシュが聞いた。
「お墓じゃないかしら」
「トトのか」
「うん」
 母エリカも心配していた。
「あの子の優しいところは褒めてやりたいけれど、もう二週間も経つのにろくに食事もとらないで……、あのままではラシャが病気になってしまうわ」
「はあ~っ。馬が死んでこれでは、父さんのことなんか、とても話せないわね」
 シエラは大きくため息をついた。
「でも、何も言わないで、いきなり父さんがいなくなったら、そのほうがよっぽどショックだろ」
 アシュは馬のトトが死んでからというもの、腫れ物にさわるようにラシャを扱う家の女二人は過保護だと思っている。
「そこが難しいところね。でも、とにかく今は言えないわ」
「まあな」
 物音がして、三人は黙った。

 ラシャが、とぼとぼと入ってきた。
「あら、ラシャ、お帰り」
「ただいま」
 とラシャは小声でつぶやいた。声が震えている。今にも泣きだしそうな顔と声だった。今の今まで泣いていた顔というべきか。
「はい。ラシャの分よ」
 シエラが勧めた汁物はもう冷めかけていた。
「いらない」
 ラシャはそのまま階段を上がっていった。
 母と姉は顔を見合わせたが、何も言わずにラシャを見送るだけだった。
「ああっ、もうっ。イライラするっ」
 アシュは立ち上がって、ラシャを追った。
 そして、階上に上がろうとする弟の腕をわしづかみにして、食卓に引き戻した。
「食え!」
 いきなり叫びだしたアシュを、ラシャは上目づかいに見上げた。
「食べたくない」
「いいから、食え!」
 ラシャはじっと汁を見つめていた。
「この野郎、食わないと、ねじ込むぞ」
 アシュは左手でラシャの口をひっつかみ、右手で皿を持った。
「アシュ、そんなことしたって汁がこぼれるだけよ」
 シエラは中身がこぼれそうになった皿をささえ持った。

「来い!」
 アシュはラシャの腕を引いて外に向かった。
「どこ行くの?」
 ラシャは明らかに行きたくない様子。足が動いていない。
 部屋に踏みとどまろうとするラシャを無理やり、アシュが引きずっていた。
「うじうじ、ぐじゃぐじゃしてるから腹がすかないんだ。動けば食べたくなるはずだ」
 アシュは右手でラシャの腕を引き、左手で戸口に立てかけてあった棍棒を二本とって、外に出た。
 アシュはぐいぐいラシャを引く。小さい弟は力強い兄の腕に抗することはできなかった。動かないと腕が痛いので、外に引きずり出されてからはラシャも観念して、小走りに前に進んでいた。

 比較的平らな草地にやってくると、兄は弟の手を離した。そして、
「ほらよ」
 とアシュは棍棒を一本、ラシャの前に投げた。
「いくぞ」と棒を構える。
「え~」ラシャはやる気がない。目の前に転がってきた棒を見たが、触れようとしない。
「え~じゃねえ。打たれたくなかったら、構えろ!」
 しぶしぶ棒を取って構えるラシャに、アシュは打ち込んだ。
「えいっ」
 ラシャの棍棒は地面に落とされた。
「拾え!」
「う、うん」
 上目づかいにアシュを見ながら、ラシャはそおっと棒を拾った。

 ラシャが拾ったと見るや、アシュはすぐに打って出た。
 カンカンカンカンカン
 打ち込むごとに勢いが増しているように思われた。
 そのうち、止め切れなくなったラシャの腹に入った。
「ぐえっ。ゴホッ、ゴホゴホ」
 ラシャはうずくまって咳き込んだ。 
「立て!」
 ラシャは黙って立ち上がった。
「よし。もう一度行くぞ」
「……」
 このときも何も言わなかったが、ラシャの目に光がさした。それまでは兄に無理やり相手をさせられていた弟だったが、やっと勝負に身が入ったというところだ。
「とや~」と声を上げ、自分から兄に踏み込んでいった。
 カン、カンカン。
「えいっ」
 ラシャの棒の勢いが増す。
 年の離れた兄弟だった。兄にとって弟はまだまだ敵ではなかった。軽く受け流す。ときたま利き腕でない左手に棒を持ち替えたりしていた。
「はあ、はあ、はあ」
 ラシャの息遣いが荒くなっていた。
 そのとき、グ~ッっとお腹が鳴った。
 厳しかったアシュの表情が和らいだ。
「どうだ、腹が減っただろう?」
「……」
 ラシャは左手でお腹を押さえた。
「戻ろうぜ」
「う、うん」
「すっかり冷めちまったかもしれないが、すきっ腹には何でもうまいからな」

 二人、家に入ると、ラシャは自分から食卓にすっと座った。
 ラシャの分はそのまま机に置いてあった。
 もうすっかり冷めていたが、ラシャは「いただきます」と、それをすべて平らげただけでなく、団子や果物も次々と取り、ここ数日ないほどの食欲を見せた。

 食事が終わってラシャが自分の部屋に上がると、ほっとする母と妹を見ながらアシュは胸を張った。
「何か言うことないか?」
「よかった」「時間が解決してくれるわね」
 互いに顔を見合わせて喜ぶ母と妹の間に、アシュは顔をつっこんだ。
「そうじゃねえだろ」
「じゃあ、何?」
「何って、俺だよ。俺に何か言うこと、ないわけ?」
 褒め言葉を催促するアシュに、女二人はたった一言。
「ああ、片付け、手伝って」
「なに?」
 エリカとシエラは声をあげて笑った。
 期待が外れたアシュは、不服そうに食器を台所へ運ぶのだった。


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恋の行方

 じいちゃんは許してくれた。
 祖父の戒めは祖父自身が思う以上に、孝行者のトーマを縛っていた。祖父を心配させたくない。祖父に迷惑をかけたくない。そんな思いからシエラに今一歩踏み込めなかった。
 しかし、ここへ来てトーマは祖父に、たきつけられるような形になってしまった。

 トーマは祖父の《許可》を得た日を境に、シエラに対して自分の気持ちに正直に行動するようになっていった。ときどきシエラの手を握ったり、さりげなく髪をなでたりした。
 そして、シエラもそんなトーマに応えた。
 幼馴染から恋人同士へ。
 恋をすると女はきれいになる。シエラは元々可憐な美少女だったが、あまり色気はなかった。しかし、トーマを男性として強く意識するようになってからは、いちだんと娘らしくなった。

 艶やかさの出てきたシエラだったが、立ち居振る舞いは変わらなかった。相変わらず奔放かつざっくばらん。トーマの部屋に上がり込んでは、ベットに横になって、そのまま眠り込んだりする。二人で木の実をつんだ日のように。
「シエラ、だめだよ。こんなところで寝ちゃあ」
「ん~」
 シエラはすでにまどろみの中。
「しょうがないな」
 トーマは布団を直してやりながら、シエラの寝顔を見つめた。
 自然と優しい目になる。
「かわいいな」
 ベッドの端に座って、シエラの頬をなでた。すると、
「う、う~ん」
 何とも言えず艶めかしい。
 トーマは聞いてはいけないものを聞いてしまったような気がした。
 その場を離れようと腰を浮かした。
 しかし、その腰は再びベッドに沈んだ。
 しばらく座っていたが、シエラの寝息に誘われて、トーマもベッドに横になった。顔と顔が近いほうが、よく聞こえる。
 それでも、最初は、シエラとは少し距離を置いていた。
 シエラはベッドの真ん中で寝ているので、触れないように仰向けになると、トーマの体は端から半分弱ぐらい出てしまう。
 あまり楽な体勢ではない。横向きになった。もちろんシエラの顔が見える方に。
 シエラの寝顔を見、寝息を聞いているうちに、トーマはいつしか息がかかるほど間近に近づいていき、しまいには覆いかぶさるようにシエラを包み込んだ。

 シエラは妙な温かみを感じた。心地よい温かさ、そして重みだった。何だろう? 誰だろう?
 まぶたを開けた。
「うん?」
 目の前にトーマの顔。トーマの力強い腕がシエラの首元と腰をしっかり抱え込んでいた。
「ト、トーマ?」
「シエラ……」
「あの……どうしたの?」
 びっくりしたが、大好きなトーマに抱かれるのは嫌な気持ちではなかった。ふざけて抱きついたり、うれしいことがあったときなど、抱擁して喜びあうのはいつものことだった。
「シエラ……、シエラ……」
 トーマはシエラの名を呼びながらシエラの額に口づけた。目もと、頬、そして唇。
 いつもの抱擁とは違う。とても静かで優しい。それでいて密な力強さがある。
「うん……」
 シエラは顔をしかめたが、トーマを受け入れていた。
「シエラ、僕は君にふさわしい男になるよ」
 いつも控えめなトーマの大胆な行為にとまどいながら、シエラはうれしかった。
「トーマはそのままでいいの」
「いや、もっと強くならないと……」
 トーマの抱擁が一段と強くなった。
「トーマ……」
 シエラの腰部の衣がずらされた。
「トーマ、何するの?」
 シエラはトーマの手を抑えた。
「いつものトーマと違う」
 息遣いや目つきが違う。シエラは少し怖くなった。
「優しくするよ」
 するって何を? 
 シエラは男女のことを何も知らないわけではなかったが、自分やトーマが《する》ことではないと思っていた。

 トーマがだんだん荒々しくなっていく。女の服を脱がせたことなどない不器用な手では、玉ねぎの皮をむくようにはうまくいかない。
「トーマ、待って!」
「待てない」
「いやっ」
 トーマが嫌なわけではなかったが、焦っているようなトーマが嫌だった。服を押さえた。

 これはどうも駄目らしいと手を止めたトーマだったが、どういうわけか行く手を遮る覆いが取りさられるのを感じた。
 あきらめかかったトーマにシエラは逆に安心感を覚えた。
 《いつもの》トーマならいいかも……。
 恐怖感が薄らぐと、好奇心が勝ってきた。
 トーマの腰は荒々しくとも、腕は優しく愛情が感じられた。
 シエラはもう何も言わなかった。
 力強い温かみに揉みしだかれるままに身をまかせた。



 それから半月ほどが経ち、夕食後、シエラはアシュと一緒に食器を洗っていた。
 二人とも、言葉数は少ない。
 アシュは何か言いたげに、ちらっちらっとシエラを見ていた。そして、ついに、
「トーマと喧嘩でもしたのかよ」
「え?」
「近頃、会ってないみたいじゃないか」
 毎日のようにトーマとデートしていたシエラが、ここ半月、家にいることが多くなっていた。
「そ、そうかしら……」
 シエラは、なんとなくトーマを避けていた。
 トーマのことは好きだった。だから、身をまかせたのだ。嫌ではなかった。しかし、いつも優しいトーマがいきなり男になってしまったときには驚いたし、怖かった。今でもあのときのトーマを思い出すと違和感がある。シエラが受け入れたのだが、少し後悔もしていた。
 やはり、まだ早かったのではないか……。

 あんまりトーマの話をしたくなさそうなシエラを見ながら、アシュはさもありなんと鼻で笑うように言った。
「飽きた?」
「え?」
「いいやつだけど、まじめすぎて、退屈だろ」
 友達としてはいいやつだが、女性が好むタイプとは思えない。ユーモアがあるとは言えないし、見栄えも不細工ではないが、地味だ。アシュのトーマ評はそんなところ。
「そんなことないわ。優しくて、男らしくて、すてきな人よ」
 シエラがむきになってトーマをかばうと、アシュの顔から笑みが消え、プイッとそっぽを向いた。
「用事を思い出した」
 アシュは家の用事を手伝えと言われれば少し手伝うが、そのうち口実を設けてどこかに行ってしまう。いつものことだった。しかし、そんなときアシュは、いたずらっ子のように舌を出しながら、冗談まじりに出ていくのが普通なのだが、このときは妙に不機嫌だった。


 愛を交わしてからのシエラとトーマは、ぎくしゃくしていた。しかし、シエラの思いは変わっていなかった。むしろ男性としてのトーマを強く意識するようになって、日に日に艶っぽさが増す。
 妹の変貌には実の兄であるアシュもドキリとさせられた。急に美しくなった妹にアシュはどう接していいか、わからなくなることがあった。
 女らしくなったとはいえ、親兄弟の前ではあられもない格好をすることもある。半裸で歩きまわったり、ズボンや袴を身に着けず、短衣だけ着て(つまりミニスカートのワンピースのようなもの)、しかも、その裾がまくり上がったまま横になっていたりもする。そんなとき、アシュはその場にいたたまれず、逃げ出してしまうのだった。

 あんなの何でもないじゃないか。シエラは俺の妹だ。妹なんだぞ。今まで、ずっとああだったじゃないか。

 シエラが女性らしくなっただけではなく、自分の中でも何かが変わってきたことにアシュは気づいていなかった。



 その晩、アシュは眠れなかった。少し外の空気でも吸おうかと思って部屋を出たのだが、シエラの部屋の明かりが見えた。
「こんな時間に何をやっているんだろう?」
 部屋をのぞくと、シエラは明かりをつけたまま転寝(うたたね)していた。
「ったく」
 アシュは部屋に入って明かりを消そうとしたが、シエラの寝顔に見入ってしまった。そっと髪に手を触れると、シエラは目を覚ました。
「あれっ? アシュ? どうしたの?」
「明かりを消して、ベッドで寝ろよ」
「え? あ、そうね。眠っちゃったわ」
 シエラはベッドへ向かおうとしたが、立ち止まって、アシュを振り返った。
「ねえ、アシュ。好きな人、いる?」
「な、なんだよ。いきなり」
 アシュは、なぜか赤くなってしまった。
「いないわよね、あんたには。でも、誰か好きになったことある?」
「おい、勝手に決めるな。俺だって好きな女ぐらい……」
 言ってしまってから、しまったと思った。
 シエラは興味深深、アシュに近づいた。
「えっ、いるの? 誰? だれ、だれ?」
 アシュはうろたえた。

 いったい何であんなことを言ったんだ。

「いや、やっぱり好きな女なんかいない。女を好きになったこともない」
「どっちよ」
「どっちでもいいだろ。そんなこと聞いてどうするんだよ」
 それまで、からかうような調子だったシエラだが、急に静かになった。
「トーマが……」
「ん?」
「男の人って変わるのね」
「変わる?」
「手をつないだり、抱き合ったりするだけじゃ、だめなのかな……」
 アシュの顔色が変わった。
「おい、トーマに何されたんだよ?」
 アシュはシエラの腕をつかんだ。

 怒っている。どうしてだろう?

 シエラはアシュがなぜ急にこんなに怒るのかよくわからない。自分の言い方が悪かったと思った。
「い、いいの。別に乱暴されたわけじゃないのよ。ただ……」
「ただ?」
「ちょっと怖かったの」
「あいつ、お前を……」
 アシュの肩が震えだした。
「ぶっ殺してやる!」
 アシュは今にも飛び出してトーマの家に殴りこみをかけかねない勢いだった。
 シエラはあわててアシュの腕をつかんだ。
「そんなに怒らないでよ。いいの。私はトーマが好きなのよ。でも、ちょっと早いかな~って……」
 その瞬間、シエラはアシュに抱きとめられた。
「アシュ?」
「あんなやつに渡すもんか」
「え? いったい、どうしたのよ」
 わけがわからない。いきなり抱きついて何を言っているのだろう?
 しかも、首すじに口を寄せたり、胸のあたりを、まさぐったりする。
「ちょっと、ふざけないでよ!」
 シエラはアシュをひっぱたこうとして手を上げたが、その腕をつかまれ、ベッドに倒された。
「アシュ、いい加減に……」

 これはいったい??? 

 悲鳴を上げたかったが、

 両親がやってきたら、どう思うだろう? ラシャがこんなところを見たら? しかし、そんなことを言っている場合ではない。このままでは……、でも……。

 アシュのほうが力が強い。シエラの抵抗はむなしかった。
 アシュはシエラを抑え込んだまま、器用に裸体になっていった。
 シエラは薄衣を羽織っていただけだったが、それを捲し上げられた。
「いや」
 股間にアシュの脚が入る。
「アシュ!」
 脚よりも、もっと細いものが触れる。
「だめっ!」

 アシュは終始、無言だった。苦しそうな息づかいは、行為のためばかりではなく、してはいけないことをし、それをやめられない葛藤のためでもあったかもしれない。

 最後に軽くうなって、果てたときも、達成感や満足感に浸ってはいなかった。その額には深い苦悶が刻まれていた。

 結局、シエラは大声を上げることができなかった。アシュがおかしい。こんなアシュを見たら、弱っている父の死期を早めてしまう。そんな思いもあった。それに何が起こっているのかよくわからない。そんな奇妙な感覚だった。

 これは何? どうしてこんなことに? 

 頭の中は真っ白、目の前は真っ暗だった。



 早朝、シエラは目を覚ますと、ベッドから跳ね起きた。アシュはいない。

 あれは夢だったのだろうか?

 しかし、ベッドの上には短い赤茶の髪の毛が数本。抵抗したときにアシュの頭から引きむしったものだ。シエラは顔を覆った。

 夢じゃなかった。

 そう思った瞬間、何も考えられなくなった。しかし、そんなことがあった部屋でじっとしていられなかった。着替えて、外にでた。


 朝霧を潜り抜けてやってきたのは、トーマの家だった。家の前でシエラはしばらくぼ~っと立っていた。トーマに会いたかった。会って抱きしめてもらいたかった。しかし、会って何と言えばいいのだろう。昨晩のことは言えない。トーマの顔を見たら、泣き出してしまうのではないだろうか。

 そんなシエラの後ろから暖かい声がかかった。
「ずいぶん早いね」
 少し息の上がった声だった。トーマは軽く走ってきたところだった。
「トーマ……」
 やはり、涙があふれ出てきた。
「ごめん。怒ってる? もうあんなことしないよ」
 トーマはあれからシエラに避けられていることに気づいていた。嫌われたと思って、自分からはシエラに近づかなかった。そのぶん、こうしてシエラが自分に会いに来てくれたことがうれしかった。

 シエラは崩れるようにトーマの胸に飛び込んだ。
 トーマはシエラをやさしく抱きとめた。
「いったい、どうしたの?」
 顔をのぞきこもうとしたが、シエラは固く抱きついて離れようとしなかった。
 トーマはそのまま、何も言わずに待った。

 しばらく泣いて、シエラはやっと口を開いた。
「恐い夢を見たの」
「どんな夢?」
「話したくない。でも、とても、とても恐い夢なの」
「そうか。でも……夢でよかったね」
 トーマはシエラの肩を優しく抱きながら、上を向いてきたシエラの顔を見た。そして、笑った。

 シエラはトーマの包み込むような笑顔に癒されながら、とりあえず落ち着きを取り戻していった。

 そう。あれは夢、夢だったのよ。そう思うしかない。



 昼間はシエラも寺での勉強があるので、それで気をまぎらすことができた。その後、いつもは家に帰るのだが、その日はまたトーマの家に向かった。家に帰りたくなかった。

 稽古を終えたトーマとその日の出来事を語りあい、ときどきトーマの祖父を交えて、たわいもない世間話。しかし、時が経つほどに、シエラの心は重くなっていく。
「ここに泊まってもいい?」
 突然そんなことを言い出したシエラにトーマも戸惑う。
「え? でも、ご両親が心配するよ」
「だめ?」
「だめっていうわけじゃないけど……」
 トーマは祖父を見た。
 祖父も困った顔をしている。
 シエラはうつむいた。
 二人にあまり迷惑をかけるわけにもいかない。

 帰らなかったら両親が心配する。今日、ここに泊まったとして、明日はどうする? あさっては? 家に帰らないことをどう説明する?

 そんなこんなを頭の中でぐるぐる考えまわして、やはり帰ることにした。
「ごめんなさい。帰るわ」
「大丈夫?」
 悲壮な顔で家路に向かうシエラがトーマは心配だった。

 いったい何があったのだろう? シエラは今朝、恐い夢を見たと言っていた。それと何か関係があるのだろうか。



 帰るべき我が家、暖かく包んでくれるはずの家族の家、それが昨晩からシエラにとっては恐怖の館と化した。
 震える手で戸を開けて家に入った。
「ただいま」
「おかえり。遅かったわね」
 よかった。母だ。アシュではない。
「トーマの家に寄ってたの」
「そう」
 きょろきょろするシエラに母は言った。
「アシュもまだなのよ。どうしたのかしら。夕飯、先に食べましょうね」
「ええ」
 夕飯の用意をラシャがせっせと手伝っていた。
「私も手伝うわ」
「うん」
 ラシャはうれしそうに笑った。一人で手伝わされて、けっこう大変だったのだ。
 小さな弟の笑顔にも、シエラは救われる思いだった。

 食事中も、夕食が終わっても、アシュは帰ってこなかった。
 アシュと顔を合わせなくて済んだシエラは、そのことにホッとしていた。


 夕飯の後片付けの後、シエラはラシャの部屋に行った。
「ラシャ、一緒に遊ぼうか」
「うん」
 姉と遊ぶのは珍しいことではないが、時間がおかしい。もうすぐ寝る時間なのに。

 木組みのおもちゃでしばらく遊ぶと、ラシャは眠そうに目をこすった。
「眠いの?」
「うん。もう寝る」
「そう……。ねえ、私もここで寝てもいいかな?」
「どうして?」
「昨日、恐い夢を見たの。だから、一人で寝たくないの」
「ふ~ん、いいよ」
 その晩、シエラはラシャに添い寝をしてやった。というより、ラシャに添い寝をしてもらった。



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