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はじめに

 ゾンビ・モダンとは何か?

 それは、墓から甦ったゾンビのごとくに、現代社会に襲いかかってくる「屍化した近代」にほかならない。

 動機不明の「誰でもいいから人を殺してみたい」無差別殺人、幼い子どもを狙った小児性愛犯罪、キレる子どもと大人の社会問題、学校のいじめ、そこには自己の判断力を放棄して、激情のままに他者に向かって無差別な暴力を爆発させるゾンビ化した現代人の姿が幾らでも見出せよう。

 近代は死んだ。死んで、ゾンビとなって甦った。

 近代システムの行き詰まりが、近代そのものを殺し、「近代」の名の下に前近代の規律社会を復活させたのだ。もはや変化が期待できない近代の複雑で硬直した秩序システムは解体され、規則によって単純化された条件反射社会が出現している。

 近代社会の中で「死んでも生きている」伝統(ウルリッヒ・ベックのいう「ゾンビー的範疇」)を保守した結果、近代は生きながらに死んだのだ。近代は、「死んでもいるし、生きてもいる」ゾンビ状態に宙吊りにされ、当然の話として、そこに暮らす人々の生活に影響を与えていく。

 近代が「死にながら生きている」ゾンビとなっていれば、その住人もまた「生きながら死んでいる」ゾンビにほかならない。

 近代の保証する選択の自由への不安(決められない焦り)が、近代的自由を放棄させ、従属・抑圧・隷属するための独裁的支配を求めさせる。人は自由を失い、命さえ国有化された人的資源としての〝モノ〟に還元されていく。それは「生きながらに死んでいる」ゾンビの群れに匹敵する。

 自由を捨てた生ける死者は、自由に生きる生者に襲いかかり、その「自由」を貪り喰う。どんなに喰っても、その自由は自分のものにはならず、永遠の飢えの中を群れてうろつく。ともに群れてうろつく仲間に安心し、喪失した自由への渇望から、生者を死者に変えることを欲望する。その空虚さは、他人の命でしか埋めようのない〝飢え〟だからだ。かくして、死者が生者を支配するゾンビ・モダンの暴力世界が出現する。


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社会的ネクロフェリア

 サイコパスの快楽殺人で説明されがちな「誰でもいいから人を殺してみたい」無差別殺人は、個人的異常さを越えた社会的ネクロフェリアの深刻さを秘めている。

 「ネクロフェリア」と聞けば、死体に欲情する異常性愛と思われがちだが、その本質にあるのは「破壊」衝動である。死体を愛するというよりは、死体を「作り出す」ことを愛する。生を破壊して死を作り出す欲望である。

 

 「ネクロフェリア」は、「人間を屍体に変貌させる能力」(シモーヌ・ヴェーユ)としての破壊的な力を愛することによって、「生を統制しうるものとするため」に生を死に変貌させようと努めるのであり、「成長しないもの」や「機械的なもの」をすべて愛し、「有機体を無機体に変貌し、生きているものを物体であるかのように機械的に接したいという欲望」にかられており、未来を憎み恐れて「過去」を指向し、主体としてかかわるよりは「客体」として「所有」することに関心があり、「暗闇と夜」、「病気や埋葬や死」について語ることを好み、生きていないすべてのもの――つまり、「死んでいるすべてのもの、屍体、腐敗、排泄物、汚物に魅せられ、幻惑され」るのである(中略)「殺す人を愛し、殺される人を蔑視」する(小関三平『悪の社会誌』世界思想社 1974 51頁)

 

 生を支配(コントロール)するために死を愛する破壊衝動への欲望がネクロフェリアであり、それが個人を超えた社会病理として現れたものが「社会的ネクロフェリア」にほかならない。すなわち、社会的傾向としてネクロフェリアが蔓延しているということなのだ。事の重要性は説明するまでもない。謎とされる「誰でもいいから人を殺してみたい」無差別殺人も、小児性愛犯罪も、ストーカーの原因も、簡単に説明できる。つまり、「殺す人を愛し、殺される人を蔑視する」〝強さ〟への暴力崇拝にもとづいている。

 強さへの憧れは誰にでもあるものだし、汚いものに興味を持ち、残酷なことでも平然とやる幼い子どもの無邪気な暴力行動を考えれば分かるとおり、特定の異常者だけの問題ではない普遍的な側面があるのだ。

 フロムは、生きているものへの情熱的な愛を生み出す生の本能「バイオフェリア」の発達がそこなわれると、それに代わる代理として「死せるものへの愛」ネクロフェリアが成長を始めると述べている。

 母親への愛情と死体への情動は同じものであるが、行き着く先が究極の破壊衝動に帰結される点で二つは正反対の対極に位置している。

 「すべての死せるもの、腐敗したもの、腐臭を放つもの、病めるものに熱狂的に引きつけられる」のは、「生命のあるものを生命のない何物かに変貌させようとする情熱であり、破壊のために破壊しようとする情熱である。純粋に機械的なすべてのものに対する排他的関心であり、それは生きている組織を引き裂こうとする情熱」(エーリッヒ・フロム『破壊』作田啓一/佐野哲郎・共訳 紀伊國屋書店 1975 下巻532頁~533頁)による。

 その引き金は、なんらかの喪失体験による自己補填の不可能性による。肉親や友人の死、あるいは学校のいじめや家での児童虐待、裏切りや失望、失敗や絶望感などによって生じる空虚な喪失は、自らの生を不活性化させ、停滞させて、世界を無意味化させる。これが〝うつ〟の苦しみであり、解決策は、自らの生をもう一度活性化させるしかない。生を活性化させるには、意味を見出し、それを生きる価値に変えていく必要がある。その意味が、生に関わるものではなく、死とつながるものとして見出され、価値化されてしまうところにネクロフェリアの破壊衝動が形成される。

 ネクロフェリアというと死姦イメージが強いため、一般人には無関係な変態性欲に思い込まれやすいが、身近なホラー小説や映画などへの人気もネクロフェリアな心理にもとづいている。ホラーのファンが死体愛好者にならないのは、うまくネクロフェリアな欲望を処理しているためである。その処理が失敗すれば、死体愛好癖や死体を造り出すための殺人に導かれる可能性も出てくる。

 こう話すと、残酷なホラー娯楽なんてものがあるから、ネクロフェリア犯罪が起こると思われがちだが、問題の根は、表現ではなく、表現を必要とさせる社会的原因にあるのは言うまでもない。人の欲望を、生ではなく死に向かわせる、破壊と暴力の賛美は社会にあふれている。

 社会的ネクロフェリアとは、個人の趣味嗜好にとどまらない社会通念的傾向として、人を「死への愛」に導く欲望なのだ。

 生あるものを死体に変える社会的欲望なんてものがあるはずがない、と思うかもしれないが、人をモノ扱いするのも、生者を死者に変える(変えたいと願う)ネクロフェリアな欲望にもとづいている。生き生きとした活力を吸い上げる支配欲は、すべてネクロフェリアな欲望によって生じている。自由を奪い、服従させることを求める心理そのものが、社会的ネクロフェリアなのだ。それは、自分と無関係な誰かの問題ではない。社会病理として、すべての人間に関係している社会現象なのだ。その生者を画一化した死者に変える規律性から生まれる欲望世界こそが、屍化した近代「ゾンビ・モダン」である。 


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モノ化した自己の破滅

 2006年の中国とフィンランド合作映画『ジェイド・ウォリアー』で語られている「もう誰も、ひとりで苦しまなくていい世界」の幸せは、すべての人間が自分の苦しみを他人にまわして「苦しみを分け合い」全員で苦しみぬく、共有化された苦しみの救いようがない地獄世界だった。

 「おまえひとりが苦しむことはない」と囁きかけてくるのは、平等意識が求める親密性だ。自分だけ苦しむのは不公平だから、他人も苦しむべきであり、苦しめていい、と判断されてしまえば、「みんなが苦しんでいると感じて、自分だけじゃない、とホッと安堵する」ための無差別殺人も起こるだろう。

 1997年の酒鬼薔薇事件も、喪失感を原因とする。事件は、「透明な存在」と吐露される強烈な喪失感を埋めるために成された。その喪失感は、阪神・淡路大震災後に経験された地域社会との強力な一体感の充実さに由来している。みんなが助け合っていた、あの一体感は、もうどこにもない、という喪失感である。それが「透明な存在」を作り出す学校システムの息苦しさに相乗し、その失われた社会関係を取り戻す必要を意識させていく。むろん、失われた時間は取り戻しようが無いために、その代理として生が死に反転したネクロフェリアな欲望が形成されていったのだ。今ここにある生では埋められない喪失を死によって補う行動が、近所の子どもを殺させた。ここには、見ず知らずの他人を殺さなければ立たない弱い自己が見て取れる。

 「透明な存在」自体が、死を象徴している。「透明な存在」とは死体であり、生を剥奪された画一化された死体としての自分が意識されている。戦前に「透体」と言われていた透明な存在は、自己を蒸発させて万物に溶け込ませる自分と自然の一体感をベースとした「生」そのものの実現だったが、今やその「生」の実感は学校構造の中で剥奪され、虚無としての「死の身体」感覚へと変貌を遂げた。

 透明な存在の「透明さ」は、他者に吸収されていくしかない脆い自己の実感であり、そこには「透明人間」の自由もない。自己は、「死」そのものとして、そこに置き去りにされている。だから、吸収された自己の存在性を取り戻す必要が生じ、それは必然的に他者を吸収する無差別殺人へと帰結されていく。

 「倍返しだ」と煽れば、なおさら背中を押される。「人との関わり方」の名目で、社会が他者コントロールの必要を求めれば求めるほど、殺してでもコントロール権を握らねばならない焦りが生じ、他者に甘えない親密さが殺人に結びついていく。依存化した愛が、無差別殺人の引き金となるのだ。

 それは、透明な存在というモノ化義務への反撃でもある。「人間は決して物ではないし、物になれば破滅する。したがってそうなってしまう前に、自暴自棄となりあらゆる生を殺したいと願望する」(エーリッヒ・フロム『悪について』鈴木重吉・訳 紀伊國屋書店 1965 67頁)これが、「誰でもいいから人を殺してみたい」無差別殺人の心理である。

 酒鬼薔薇事件は、地域の仲間だから殺していい、佐世保同級生バラバラ事件は、友達だから殺していい、と無意識に判断されての犯行にほかならない。そこには、「モノ」の平等が意識されている。

 「透明な存在」とは、用途によってどのようにも変わる「モノ」にされている自分を自覚する苦しみであり、自分がモノなら、他人もモノであり、モノであることを自覚させる必要(自覚させたい欲望)が生じ、「死体」の生産へと動機づけられていく。佐世保同級生バラバラ殺人で語られた「体の中を見たかった」というのも、モノとして所有した「友達」の使い道にすぎない。友達だから、殺しても、お腹を裂いても、体をバラバラにしても許されると判断されるのは、社会が発信してきた、勝ち組と負け組の格差が生み出す他者コントロールの自明性にもとづいている。

 凶悪な少年事件が起こるたびに叫ばれる「命の大切さ」や「思いやり」は、この他者コントロールに相乗されて、ネクロフェリアな共依存した愛のかたちとしての無差別殺人を出力させる。

 ケア社会は、過保護社会でもあるのだ。

 他人をケアしあう親密な人間関係は、お互いに相手を頼ることで支配し合う過保護な共依存関係に陥りやすい。「保護」の名目で自由を奪う過保護が「虐待」であるように、ケアもまた拒絶の自由を許さない虐待と化す。ケアという過保護が、相補う相手を〝モノ〟に変えていく。ケア社会の看板の下には、社会的ネクロフェリアが隠れている。自由を許さないほどに過剰に保護すれば、相手の〝抱き殺し〟に帰結されるのは何の不思議もない。そこにある愛が信じられている限り、謝罪の気持ちなんて起こるはずがない。


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近親相姦的共生社会

 「近親相姦的共生」とは、自他が未分化な共生関係で結びついた寄生的人間関係のこと(フロム『悪について』136頁・参考)であり、これが現代の日本では広く社会的な傾向として出現している。

 家族や国家や民族や宗教は、精神分析でいうところの「母親」の代わりである。

 だから、それなくしては生きられないような強力な依存状態を必然的に呼び寄せ、人を退行させる。退行は犯罪を招く。人は欠如した不完全な存在であり、退屈や喪失感の苦しみを生み出す〝存在の欠如〟を埋めるために「母親」(のもたらすもの)の機能代行物を求める。それが人生の目的であり、生きる本能の動機となる。自己存在の欠如の穴埋めになるなら、対象は何だっていい。ただし、求める対象は人によって違う。だから同性愛が発生するのであり、犯罪行為にも傾きやすい。そこで社会は、犯罪や同性愛で穴埋めせずに、異性愛による家族生活の価値観によって存在の補填を行うように勧める。これが、「人を殺してはいけない」論理的理由である。

 だが、犯罪は無くならない。それは人が動物だからであり、動物であるがゆえに本能的な殺害や略奪で存在の穴を補おうとする。これが「退行」である。この退行を抑制するものが人為的に作られた「理性」による自己暗示的条件づけであり、動物的本能に上書きされた「理性」や「愛」の虚構性に生きるのが「人間」という存在なのだ。

 理性化とは、自らの自然な動物性へのあらがいであり、これが個人の自覚を促す。だから逆に、個人の自覚が曖昧になると理性による抑制が働かなくなり、退行が生じる。それが社会全体の傾向となれば、誰もが自分の存在の穴埋めに他人を使役するのが自明となり、そこから必然的に凶悪犯罪が導き出される。

 学校が勉強をする場所ではなく「友達を作る社交場」になれば、いじめが発生するのは当然であり、「個人の権利より共同体の絆」なんて言っているから、「誰でもいいか人を殺してみたい」無差別殺人や小児性愛犯罪と若者の麻薬汚染が広がる。2015年1月の名古屋市昭和区での大学1年の女学生による老女殺害事件で遺体と一晩すごした事例のように、「殺人」がネクロフェリアな安心や安らぎをもたらすのも、「母親」の代行機能を発揮するからであり、それは社会全体が「近親相姦的共生」の甘えを許す病的な家族的共依存状態に陥っている必然なのだ。

 普通に異性を好きになって結婚して家庭を築くのと、「誰でもいいから人を殺してみたい」無差別殺人や小児性愛犯罪や麻薬汚染は同じなのだ。それらは、「母親」の代行を求める社会的欲望にもとづいている。

 正常と異常を分けるのは、欲望による衝動の強度と方向性の差でしかない。その〝強度〟を社会をあげて「絆だ」「つながりだ」「思いやりだ」と強化していけば、個人の退行は深まり、自分にとっての「母親」の代行物への渇望が高まって犯罪に走るのは当然の話だ。

 相互依存の共生化で手の付けられないほどに退行が進んでいるのが、日本のゾンビ・モダンな実状にほかならない。


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ポストモダンからゾンビ・モダンへ

 自他未分化に共依存し合う近親相姦的共生社会は、過去・現在・未来が連続している感覚を無効化するポストモダン思想の必然でもある。

 すべての物事の根拠を否定するポストモダンの意味破壊によって、世界は未決定な近親相姦的共生の自他未分化状況に陥ったのだ。

 過去のすべてを「終わった」と無視することで、人は判断の基準を失い、何かを結論づけて考えられなくなった。「人間的に正しく生きる」といった目的論的な生の意味が喪失し、単に自分を「楽しく」「気持ちよく」させる関係の追求が自明と化した。多様な欲望の尊重は、結局のところ欲望のルーチン化を呼び出し、人々を退行させたにすぎなかった。

 欲望しなければ、生きている実感がわかない。だから無理してでも楽しもうとし、誰もが必要の無い欲望を義務的に消費する機械になっていった。

 自他未分化に自分も他人も平等に機械化して楽しむことがすべてとなれば、気晴らしに人でも殺してみようか、と思う者が出てきても不思議はない。筋の通った意味の連なり(道理)が否定され、何かを結論づけて考えられないのだから、気軽な思いつきの殺人衝動を止めるものは何もない。

 人を殺す必要性の無い殺人の不条理は、何かをやって「楽しく」「気持ちよく」なれ、と命じる社会的メッセージに応えた反応にすぎない。人でも殺したら、社会から注目されて「楽しく」「気持ちよく」なれるかもしれない、その程度の動機で無差別殺人が発生しているのだ。

 過去から切れているから、「なぜ人を殺してはいけないのか」を、誰も説明できない。

 「人を殺してはいけない理由が誰にも説明できない」なら、人を殺してはいけない「理由は無い」(根拠が無い)ことになり、それなら「経験」として「誰でもいいから人を殺してみたい」と思う者が出てくるのは必然だろう。理由は幾らでも並べられるが、そこには〝意味〟がないのだ。結局は、語る者にとっての意味であって、そんなものに従う義理も必要も無い、と考えるのがポストモダン的な判断と言えよう。ホントなんて無いのだから、その都度に他者との関係で作っていけばよく、関係から生まれる経験が、自明な社会的良識をおのずと生み出していくだろうと期待された。理屈ではなく感情でつながった信頼関係が重視されれば、「人を殺していい」なんて同意が生まれるはずがないからだ。

 しかし、その都度に決定する相互理解の丸投げ判断が排他的になっていくのは理の当然であり、仲間じゃない「いらないヤツ」は〝うっとうしい〟と嫌悪され、殺してもいいものに確定されていく。殺人は、どうってことないコミュニケーションのネタになり、自己判断を放棄して、協同の流れに身を任す心地よさに酔う。相方向均一性の障害物でしかない人間存在は容認できないから無差別に攻撃する。集まって盛り上がるための憎悪対象は何だっていい。つながって連帯し、団結して行う家族的な仲間との絆がすべてなのだ。

 その家族的仲間関係の一体感は、ポストモダンによって葬られたはずの近代天皇制の国体思想の復活を物語っている。ナチスを捨てたドイツ人とは異なり、戦後の日本人は天皇制と縁が切れなかったから、ポストモダンが国体マトリックスを再構成してしまったのも理の当然なのだ。

 近代天皇制の本質は「自然」である。「近代」といいながら前近代な「自然」の価値観を使って世界を「家族」として機械化していくのが近代天皇制の仕組みであり、その機械でありながら有機的な生命世界性を印象づける文化装置が国体思想(家族主義イデオロギー。またはウルトラナショナリズム)である。

 国体思想は、すべての日本人を「天皇の軍隊」に役割づけるが、そうした祭政一体の合理性や機能性の権威はポストモダンによって根こそぎ否定されたため、人は単に〝まったり〟と国体マトリックスにまどろみ、自分にとっての「楽しさ」と「気持ちよさ」を追い求め、ネクロフェリアに人を殺すようになった。本来の下へ下へと暴力支配していく国体構造の必然として、他者を奴隷化する欲望が暴走しているとも言える。殺人は、国体マトリックスの「自然」な循環にすぎない。「天皇のために死ぬ」義務が、「オレの楽しみのために死ね」の要求に変わっただけの話だ。「家族」という全体主義的共同体感覚は、それほどに人の命を「軽く」する。

 ポストモダンの生み出す無意味で空無な廃墟世界に耐えられず、モダン(合理と機能性の近代的権威)の手応えを求める現象は世界中で生じている。それが日本では、天皇制やアジア主義を呼び戻し、ヘイトスピーチに代表される無差別な暴力を社会に出力させているのだ。

 終わったはずのモダン(近代)は、ポストモダンの呪文に召喚されてゾンビとなって蘇り、ネクロフェリアに生者を死者へと変えることを欲望させる。相互に奴隷化し合って生まれる完全なるオートマトンの機械化世界の実現にひた走らせるゾンビ・モダンな暴虐衝動は、人間的な他者への無限責任を忘却させる。



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