閉じる


<<最初から読む

16 / 21ページ

試し読みできます

近親相姦的共生社会

 「近親相姦的共生」とは、自他が未分化な共生関係で結びついた寄生的人間関係のこと(フロム『悪について』136頁・参考)であり、これが現代の日本では広く社会的な傾向として出現している。

 家族や国家や民族や宗教は、精神分析でいうところの「母親」の代わりである。

 だから、それなくしては生きられないような強力な依存状態を必然的に呼び寄せ、人を退行させる。退行は犯罪を招く。人は欠如した不完全な存在であり、退屈や喪失感の苦しみを生み出す〝存在の欠如〟を埋めるために「母親」(のもたらすもの)の機能代行物を求める。それが人生の目的であり、生きる本能の動機となる。自己存在の欠如の穴埋めになるなら、対象は何だっていい。ただし、求める対象は人によって違う。だから同性愛が発生するのであり、犯罪行為にも傾きやすい。そこで社会は、犯罪や同性愛で穴埋めせずに、異性愛による家族生活の価値観によって存在の補填を行うように勧める。これが、「人を殺してはいけない」論理的理由である。

 だが、犯罪は無くならない。それは人が動物だからであり、動物であるがゆえに本能的な殺害や略奪で存在の穴を補おうとする。これが「退行」である。この退行を抑制するものが人為的に作られた「理性」による自己暗示的条件づけであり、動物的本能に上書きされた「理性」や「愛」の虚構性に生きるのが「人間」という存在なのだ。

 理性化とは、自らの自然な動物性へのあらがいであり、これが個人の自覚を促す。だから逆に、個人の自覚が曖昧になると理性による抑制が働かなくなり、退行が生じる。それが社会全体の傾向となれば、誰もが自分の存在の穴埋めに他人を使役するのが自明となり、そこから必然的に凶悪犯罪が導き出される。

 学校が勉強をする場所ではなく「友達を作る社交場」になれば、いじめが発生するのは当然であり、「個人の権利より共同体の絆」なんて言っているから、「誰でもいいか人を殺してみたい」無差別殺人や小児性愛犯罪と若者の麻薬汚染が広がる。2015年1月の名古屋市昭和区での大学1年の女学生による老女殺害事件で遺体と一晩すごした事例のように、「殺人」がネクロフェリアな安心や安らぎをもたらすのも、「母親」の代行機能を発揮するからであり、それは社会全体が「近親相姦的共生」の甘えを許す病的な家族的共依存状態に陥っている必然なのだ。

 普通に異性を好きになって結婚して家庭を築くのと、「誰でもいいから人を殺してみたい」無差別殺人や小児性愛犯罪や麻薬汚染は同じなのだ。それらは、「母親」の代行を求める社会的欲望にもとづいている。

 正常と異常を分けるのは、欲望による衝動の強度と方向性の差でしかない。その〝強度〟を社会をあげて「絆だ」「つながりだ」「思いやりだ」と強化していけば、個人の退行は深まり、自分にとっての「母親」の代行物への渇望が高まって犯罪に走るのは当然の話だ。

 相互依存の共生化で手の付けられないほどに退行が進んでいるのが、日本のゾンビ・モダンな実状にほかならない。


試し読みできます

ポストモダンからゾンビ・モダンへ

 自他未分化に共依存し合う近親相姦的共生社会は、過去・現在・未来が連続している感覚を無効化するポストモダン思想の必然でもある。

 すべての物事の根拠を否定するポストモダンの意味破壊によって、世界は未決定な近親相姦的共生の自他未分化状況に陥ったのだ。

 過去のすべてを「終わった」と無視することで、人は判断の基準を失い、何かを結論づけて考えられなくなった。「人間的に正しく生きる」といった目的論的な生の意味が喪失し、単に自分を「楽しく」「気持ちよく」させる関係の追求が自明と化した。多様な欲望の尊重は、結局のところ欲望のルーチン化を呼び出し、人々を退行させたにすぎなかった。

 欲望しなければ、生きている実感がわかない。だから無理してでも楽しもうとし、誰もが必要の無い欲望を義務的に消費する機械になっていった。

 自他未分化に自分も他人も平等に機械化して楽しむことがすべてとなれば、気晴らしに人でも殺してみようか、と思う者が出てきても不思議はない。筋の通った意味の連なり(道理)が否定され、何かを結論づけて考えられないのだから、気軽な思いつきの殺人衝動を止めるものは何もない。

 人を殺す必要性の無い殺人の不条理は、何かをやって「楽しく」「気持ちよく」なれ、と命じる社会的メッセージに応えた反応にすぎない。人でも殺したら、社会から注目されて「楽しく」「気持ちよく」なれるかもしれない、その程度の動機で無差別殺人が発生しているのだ。

 過去から切れているから、「なぜ人を殺してはいけないのか」を、誰も説明できない。

 「人を殺してはいけない理由が誰にも説明できない」なら、人を殺してはいけない「理由は無い」(根拠が無い)ことになり、それなら「経験」として「誰でもいいから人を殺してみたい」と思う者が出てくるのは必然だろう。理由は幾らでも並べられるが、そこには〝意味〟がないのだ。結局は、語る者にとっての意味であって、そんなものに従う義理も必要も無い、と考えるのがポストモダン的な判断と言えよう。ホントなんて無いのだから、その都度に他者との関係で作っていけばよく、関係から生まれる経験が、自明な社会的良識をおのずと生み出していくだろうと期待された。理屈ではなく感情でつながった信頼関係が重視されれば、「人を殺していい」なんて同意が生まれるはずがないからだ。

 しかし、その都度に決定する相互理解の丸投げ判断が排他的になっていくのは理の当然であり、仲間じゃない「いらないヤツ」は〝うっとうしい〟と嫌悪され、殺してもいいものに確定されていく。殺人は、どうってことないコミュニケーションのネタになり、自己判断を放棄して、協同の流れに身を任す心地よさに酔う。相方向均一性の障害物でしかない人間存在は容認できないから無差別に攻撃する。集まって盛り上がるための憎悪対象は何だっていい。つながって連帯し、団結して行う家族的な仲間との絆がすべてなのだ。

 その家族的仲間関係の一体感は、ポストモダンによって葬られたはずの近代天皇制の国体思想の復活を物語っている。ナチスを捨てたドイツ人とは異なり、戦後の日本人は天皇制と縁が切れなかったから、ポストモダンが国体マトリックスを再構成してしまったのも理の当然なのだ。

 近代天皇制の本質は「自然」である。「近代」といいながら前近代な「自然」の価値観を使って世界を「家族」として機械化していくのが近代天皇制の仕組みであり、その機械でありながら有機的な生命世界性を印象づける文化装置が国体思想(家族主義イデオロギー。またはウルトラナショナリズム)である。

 国体思想は、すべての日本人を「天皇の軍隊」に役割づけるが、そうした祭政一体の合理性や機能性の権威はポストモダンによって根こそぎ否定されたため、人は単に〝まったり〟と国体マトリックスにまどろみ、自分にとっての「楽しさ」と「気持ちよさ」を追い求め、ネクロフェリアに人を殺すようになった。本来の下へ下へと暴力支配していく国体構造の必然として、他者を奴隷化する欲望が暴走しているとも言える。殺人は、国体マトリックスの「自然」な循環にすぎない。「天皇のために死ぬ」義務が、「オレの楽しみのために死ね」の要求に変わっただけの話だ。「家族」という全体主義的共同体感覚は、それほどに人の命を「軽く」する。

 ポストモダンの生み出す無意味で空無な廃墟世界に耐えられず、モダン(合理と機能性の近代的権威)の手応えを求める現象は世界中で生じている。それが日本では、天皇制やアジア主義を呼び戻し、ヘイトスピーチに代表される無差別な暴力を社会に出力させているのだ。

 終わったはずのモダン(近代)は、ポストモダンの呪文に召喚されてゾンビとなって蘇り、ネクロフェリアに生者を死者へと変えることを欲望させる。相互に奴隷化し合って生まれる完全なるオートマトンの機械化世界の実現にひた走らせるゾンビ・モダンな暴虐衝動は、人間的な他者への無限責任を忘却させる。


試し読みできます

イリア化された世界

 ポストモダンが生み出した、過去・現在・未来の連続性を無効化した平坦なフラット世界は、自分と世界の意味の喪失「存在の忘却」をもたらした。

 世界は生命を失って、よそよそしくそこにあり、自分は空気のように希薄に、そこに生じている。なぜ、自分は徹底的に意味の剥奪された不在の日常世界に、なおも生き延びようとするのか。なぜ、いまだに世界はそこに在るのか。そこに、世界が〝在る〟という信頼が成り立たない状況。世界は〝在る〟はずがなく、〝在ってはならない〟にもかかわらず、そこに依然として「在る」、底知れない不気味さ。存在感の剥落した世界=自分が、なおも存在し続けている現象=状況をレヴィナスは、「イリア(ある)」と名付けた。

 「存在の否定がのこした空虚を、あるが埋めてしまうのだ」(『存在するとはべつのしかたで』)と語られた状況を熊野純彦は、「砕かれた世界、親しい者たちという中心を喪失してしまった世界がなお在る。世界から意味がこぼれ落ち、しらじらと漂白されてしまってなお、世界はたんにあるのだ。」(『レヴィナス入門』ちくま新書 1999 56頁)と、説明している。

 「空虚が存在する密度がなお在る」(同書・57頁)というレヴィナスの主張は、「〈ここ〉を〈そこ〉から区別し、空間のパースペクティヴを生むものがない」(同・70頁)という「世界が掴みどころのない」存在に変じたことを示している。世界は、意味によってではなく、空虚の密度によって認識される存在=状況(イリア)になってしまった。

 世界は「意味」によって、かろうじて捕らえられ、見て感じて考えている自分という主体の中心(認識の座標軸)を確定しているから、意味の喪失による世界の不在化は、そのまま自己の空虚化に直結する。

 この空虚な密度が、家族国家主義の近代天皇制の国体マトリックスを呼び寄せ、その下降支配原理によって近親相姦的共生関係を自明とするゾンビ・モダンなネクロフェリア社会を招いたのだ。

 「社会の閉塞感」と嘆かれる現状は、見て感じて考える自己主体の中心を確定していた意味の喪失によって「世界が掴みどころのない」空虚の密度による牢獄と化した社会状況の無意識な自覚にもとづいている。

 それを実感させているのが、「ルールだ、マナーだ」とうるさい社会の厳格な規則化である。

 規則の厳格化によって人間行動が機械化し、絶えず他人から注意され、非難されるのを警戒する心理が、うつ病を広げるほどの社会的閉塞感を生み出しているのだ。

 こうした規律社会の無差別な精神攻撃が黙認されているのは、安全に結びついているからであり、生活の安心と引き替えに自由を手放し、結果として日本人は、条件付けられた感情の反応=服従の機械に成り下がっている。

 世界が〝在る〟という当たり前の信頼感は、もはや成り立たない。〝在る〟のは、「規則」だからだ。

 存在感の剥落した世界で、すでに〝規則〟でしかない自分や他者がなお存在し続けて、ルールだ、マナーだ、と感情的に叫んで、いまだに残っている生者の存在感に襲いかかる。意味を砕き、世界を規則によってしらじらと漂白する必要が、無差別な暴力を出力させている。

 無差別殺人も、いじめや家庭虐待も、小児性愛犯罪も、ストーカーも、集団痴漢事件も、みんな他人を自分好みの奴隷に変えて、所有するための「規則」にもとづいている。

 規則に反する犯罪行為が「規則」である矛盾の答えは、規則が「存在の否定がのこした空虚」を埋める〝密度〟として機能するためである。

 世界は死んで「イリア」となり、人々はただつながって群れ集まる「密度」と化し、ネクロフェリアな欲望に飢えて、ゾンビ・モダンにうろついている。


試し読みできます

あとがき

 ビデオ・レンタル店のホラー映画コーナーを埋め尽くすほどのゾンビ映画の人気は何なのだろう。

 それは、自由や平等を約束した近代を嘲笑う人間の本性の「ホンネ」への共感があるからではないだろうか。ゾンビは、自由で平等な死者であり、それはキリスト教が約束した千年王国の悪質なパロディーにほかならない。ゴールデンゲート・ブリッジを渡るゾンビの群れ(『サンゲリア』だったか)には、差別される黒人も移民もない。ゾンビ化によって初めて「自由の国アメリカ」が実現する皮肉。グロテスクな平和は、生者が喰い尽くされ、本能的な共食いによる共倒れで絶滅するまで続く。「人はパンのみに生きるにあらず」というが、「パンのみのために生きたら」どうなるかを、ゾンビは象徴的に示している。

 最初のゾンビは、ブードゥー教の操り人形だった。生者の群衆にまぎれ込んだ死者は、「あいつ死んだよな」と呑気に噂され、地下の炭鉱労働に酷使される哀れな奴隷だったのだ。そうしたブードゥー教の呪縛が断ち切られ、奴隷だった死者は生者に反乱ののろしを上げた。かくして、生者にもう一度殺されるだけの生ける屍は、生者を襲う天敵となった。しかしゾンビは、依然として奴隷のままだ。解放されたはずの死者は、生と死の狭間に拘束された「殺人本能の奴隷」でしかない。吸血鬼のような判断して計画する頭脳性を持たず、ただ飢えて群れ歩く。「永遠の命」の逆説としての「永遠の死」の呪いが、そこに可視化されている。その哀れさは、「大衆」という名のゾンビにしか成りようがない現代人の悲哀を突きつける。

 行き詰まった近代システムのなかで生きながらに死んでいる奴隷化された現代人は、ゾンビ映画で解放される。殺人も生き残るための生存本能の必然行動と化す。だからこそ、死にながらも生き続ける伝統の「規則」にすがりつく。そして、規則によって人々は退行し、思考力を必要としない平等なゾンビの群れと化して、規則秩序維持のために他者を無差別攻撃する。規則によって攻撃する者にとっては、相手がゾンビであり、自分のゾンビ性には気が付かない。目の前の相手はゾンビだから撃ち殺してもかまわない。いや、ゾンビだから殺さねばならない。それが規則だ。そのように、規則によって他者の自由を殺して貪り喰らう生ける死者の本能が正当化されるところに、ゾンビ・モダンの扉が開く。


試し読みはここまでです。続きは購入後にお読みいただけます。

この本は有料です。閲覧するには購入する必要があります。
購入するにはしてください。
有料本の購入に関しては、こちらのマニュアルをご確認ください。
販売価格350円(税込)

読者登録

立樹美季さんの更新情報・新作情報をメールで受取りますか?(読者登録について