閉じる


<<最初から読む

8 / 89ページ

試し読みできます

 この頃、京の詩僧が道灌に贈った詩文がある。
「三州の安危は 武の一州にかかり
   武の安危は 公の一城にかかる」
 上野、武蔵、相模の三国の安全は武蔵一国の安全しだいであり、武蔵の安全は太田道灌の江戸城にかかっている、と言う意味だ。太田道灌の動向は、みなの注目をあつめていた。
 長尾景春に味方し、関東管領に叛旗をひるがえしたのは、次の国人たちだ。
 下野足利の長尾房清
 上野箕輪の長野為兼
 武蔵二宮の大石駿河守
 武蔵葛飾の大石石見守
 武蔵石神井の豊島泰経
 武蔵花園の藤田重利
 武蔵勝沼の三田一族、
 武蔵秩父の長尾一族
 ほか武蔵では千葉実胤、毛呂三河守、大串弥七郎、小宮山左衛門太郎、多比良治部少輔ら
 相模小沢の金子掃部助
 相模小磯の越後五郎四郎
 相模溝呂木の溝呂木正重
 相模奥三保の加藤一族
 ほか相模では本間近江守、海老名左衛門尉、大森成頼らである。
 対する、関東管領の五十子陣に、山内上杉家、扇谷上杉家の主力が集まっていた。そのため太田道灌の指揮下には以下の武士たちが残っているだけだ。
 武蔵世田谷の吉良成高(足利一門)
 武蔵六郷の上杉憲能(上杉一族)
 武蔵石浜の千葉自胤(鎌倉以来の名族、千葉ノ介)
 武蔵松山の上田上野介(扇谷家家老)
 相模糟屋の上杉朝昌(上杉一族)
 相模三浦の三浦高救(鎌倉以来の名族、三浦ノ介)
 相模西郡の大森実頼(鎌倉以来の名族)
 一目でわかる通り、道灌のもとには伝統をほこる名家がそろっている。旧来の体制を守りたいだけの者であり、道灌の指揮にどこまで従うか疑問だった。
 道灌の戦法として知られているものに、足軽戦法がある。都で生まれた「足軽」を巧みに軍勢にとりいれて、敵を破ったというものだ。だが足軽をとりいれたのは、戦術上の利点だけが目的ではない。自分の指揮に、黙って従う軍勢が必要だったからだ。道灌は名家の武将たちを、江戸、川越などの守りにつかせ、みずから足軽を率いて戦う道を選んだ。
 のちの世、高杉晋作が奇兵隊(庶民の軍隊)を作ったのも、似たようなものだった。長州の秀才たちから「のけもの」にされたことから、自分の言うことを聞く軍隊を作りたかったのだ。ただし晋作の場合は、学問、武芸の劣等感を補うものであったのだが。
 道灌の努力にもかかわらず、文明九年一月十八日に五十子で管領上杉と長尾景春は激突した。両軍とも長い緊張に耐え切れなかったのだ。景春は、最後まで主君に弓を引くという後ろめたさに囚われていた。だが、物見同士が衝突したことをきっかけにして、いくさが始まれば理屈はもう関係ない。上杉方は敗北し、山内顕定、扇谷定正、太田道真は上野国に退却した。
 それでも道灌はあきらめない。長尾忠景の引退を条件に和平をもちかけてみたり、主君に刃を向けた景春に謝罪を求めたりした。だが、結局和議が実を結ぶことはなかった。
 そして、ついに隅田川に濁流が流れ込む日が、やってきた。雪解けが始まったのである。

 

 

 


試し読みはここまでです。続きは購入後にお読みいただけます。

この本は有料です。閲覧するには購入する必要があります。
購入するにはしてください。
有料本の購入に関しては、こちらのマニュアルをご確認ください。
販売価格200円(税込)

読者登録

蒔田 尚之さんの更新情報・新作情報をメールで受取りますか?(読者登録について