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       【長尾景春の乱】
 太田道灌が江戸城に戻ったのは文明八年十月、駿河で新九郎と会ってから三カ月後のことだった。その間、道灌は情報の収集と地盤固めに努めている。思った以上に、長尾景春に味方する国人は多い。今更ながら、国人や地侍の不満が高まっていたことに道灌は驚いていた。
 道灌も景春の考えに反対ではない。関東公方、関東管領を中心とした統治体制に、限界がきているのは明らかだ。新しい仕組みが要る。そのためには、今の権力者を除くことも必要かもしれない。だが、この反乱に大義があるのか。それが問題だった。不平不満を理由にいくさを起こしても、長続きはしない。だから、長尾景春には味方できないのだ。
 長尾景春も、道灌への説得はあきらめていた。そこで、道灌が駿河に出陣しているスキをねらって挙兵したのだ。だが、景春にも迷いがあった。味方する国人を直ちに集め、管領方の上杉勢を打ち破る。さらに古河公方と連携して、関東制覇に乗り出せば事は成就していたかもしれない。しかし、予想以上に味方が多くなったことから、慢心が生じた。数の力で関東管領に圧力をかければ、血を流さずに目的を達せられるのではないか。もともと管領は主君なのだから、そのほうが良いと考えたのだ。「兵は拙速を貴ぶ」それを景春は忘れていた。
 長尾景春の本陣は、武蔵鉢形城(埼玉県寄居町)にあった。管領、山内上杉顕定と扇谷上杉定正は四里ほど北の五十子(埼玉県本庄市)を本陣としている。山内顕定の本拠は上野の平井城(群馬県藤岡市)だが、古河公方との対決のため長年利根川沿いの五十子を本陣としているのだ。五十子は古河公方に対しては、利根の流れを壕の代わりとしているので、守りが堅い。しかし南西からの攻撃には、これといった防塁があるわけではない。南の鉢形城の長尾勢の反乱に、上杉方の恐怖も増していた。
 道灌のもとには、両上杉や父の道真から援軍の要請が、ひっきりなしに来ている。
「道灌は、階段から落ちてケガをした。だから、援軍は少し待ってくれとでも言っておけばよい」
 道灌はそんなことを言うが、弟の資忠らは気が気でない。まさか、長尾景春に味方するつもりではないのか。そんな心配までしていた。



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