閉じる


はじめに

本作品集は競作サイト「てきすとぽい」(http://text-poi.net/) にて開催された企画「並行世界の片隅で」(http://text-poi.net/vote/89/)に投稿された作品を収録したものです。

 

てきすとぽいにて企画された際のルールは以下のようなものです。

 

---引用----

 

 並行世界の片隅で 僕らは 確かに存在したんだ。

募集期間:1/4~2/15(24時〆)以下の投票期間中でも投稿は可能です。
投票期間:2/16~2/28(24時〆)


 本企画は並行世界の別々の世界で起きた出来事、物語を執筆するという企画です。
 並行世界ですので基本的にはそれぞれの世界は独立していて、つながりがありません。
 しかし、完全に別々ではあまり企画として書くのには意味をなさないので、以下の共通する3人の人物と特徴を作品中に加えてください。

 じょー(ex.譲、城生、Joe……etc):左手に傷がある。
 まるこ(ex.丸子、魔流鋼、Marco……etc):青い瞳。
 なおみ(ex.直美、那悪魅、Naomi……etc):長髪。

 人物名の表記はexで例示しているように音がだいたいあっていれば自由です(あまり自由すぎなければ)。人物と特徴と書きましたが必ずしも人間である必要はありません。動物であったり機械であったり。もちろん作中での生死も問いませんし、性別も自由です。他の登場人物を出すのはもちろん自由です。
 注意点ですが、上記の3人以外にも他の方の作品に出てきた人物を引用するのもありです(名前だけでも、特徴を含めてでも)。なので、作中の人物が他の人に引用されるかもしれないという事は承知おきください。それでトラブルが起きた際は基本的に主催者は関知しないつもりなので、事前に作者の許可を取ることをお勧めします。
 特徴に関しても作品中で言及があれば作中で進行している時系列においてその特徴でありつづける必要はありません(例えば途中で傷を負ったり、髪を切ったり、能力で瞳の色が変化したり)。
 また本名でなくともあだ名やコードネームの類でも良いです。その人物を指す記号として機能していればOKです。
 世界観は完全に自由です。現代ものでもSFでも歴史ものでもファンタジー、構いません。

注意:一応集まった作品はパブー(http://p.booklog.jp/)でまとめて本にしようかと思います(無料公開)。ご了承ください。一応、まとめる前に事前確認を取る予定です。

何かご意見・ご質問とかありましたら主催者茶屋(@chayakyu)のTwitterかコメント欄まで

---引用終わり----

 

というわけで同じ名前と特徴を持つ登場人物が別々の並行世界で別々の物語を紡いでいくといったような趣向の作品集になっております。

なお、掲載順はてきすとぽいでの投稿順、著者名は敬称略とさせて頂いております。


輪廻蝉 著:茶屋

 常永二十一年 八月

 蝉が鳴いている。
 羽根をを震わす摩擦音が腹の中で共振し空気を鳴らす。
 うだるように熱いが、村の子供等は熱さも気にせずに遊び、喚く。
 そんな様子を眩しげに眺める目がある。城生五郎貞光(じうごろうさだみつ)、城生家当主重光の嫡男だ。
「いかが致しました?」
 馬上の貞光に、同じく馬上の従者が語りかける。従者の名は丸子祐定(まるこすけさだ)、貞光の乳兄弟で股肱の家臣だ。
「いや、こんな暑い日でも童らは遊ぶものだな」
「左様でございましう。我らもあれほどの齢の折は暑さなど気にせずはしぎまわていたものです」
 貞光は何か思案げに首を傾げる。
「そうであたかな」
「そうでございましう。覚えておられないので?」
「覚えてはいる。だが、どこか虚ろでな。まるであの頃は常に夢を見ていたような気さえする」
「夢で御座いますか」
 そう言て天を見上げた祐定の青い瞳にはさらに青い空が映る。
 鳶が一羽、円を描いて飛んでいた。
「ああ、あの頃の思い出が、夢か現か、偶にわからんようになる」
 確かに貞光は幼少の頃、この村の子等のように遊んでいたのだ。思い出される。
 一本杉の木陰。田畑に挟まれた小川。地蔵原の野原。
 走り回て、転んで、笑て、泣いた。
「しかしながら」
 祐定は貞光の目を見据えた。
「貞光様の夢はまだ半ば」
「確かに、まだ夢の半ばかもしれんな」
―だがそれは父上の夢を見せられているだけかもしれん。
 貞光はそれを口にはしなかた。口にはしなかたが祐定には察せられているかも知れなかた。
 あの青い目は何でも見通す目だ。
 あの目が、祐定をそうさせた。そうすねば、生きていけぬようにさせた。
 貞光は祐定を見返すと、馬首を返した。
「お帰りで?」
「いつまでもこうしてはおれまい。支度をせねばな」
「支度で御座いますか?」
 祐定はとぼけた様子だたが、祐定が見抜いていることは貞光とて承知している。
「父上はけりをつけるつもりだ」
「……」
「戦だ。手木州を攻める」
 ふと、貞光は右手の古傷が疼くのを感じた。
 そうして思い出されるのは、かつて幼少の頃に共に遊んだ者の顔だ。
 逢いたい。
 そんな気持ちを振り払うかのように貞光は馬を走らせた。

 常永七年 八月
 
 蝉が鳴いている。
 子は泣くまいと、歯を食いしばている。
 右手からは赤い鮮血が滴り落ちている。
「泣くか! 泣けばよい! 弱い奴は泣け!」
 そんなふうに少女は、泣きそうな少年を罵倒する。
「泣くものか!」
 少年は言い返すもののその声は震えている。
「弱いからそうなるのだ! 弱いものから死ぬのがこの世のならいと、父上がおていた」
「わしは……わしは、弱くない!」
 そう言て少年は刀代わりの棒切れで少女を殴りにかかる。
 だが少女は事も無げにそれを避けると、少年の背中を打た。少年は呻きをあげて、膝をつく。
「ほら、弱い」
「弱くない」
「もう、そのへんにしてくだされ千代姫様」
 もう一人の少年が見かねて止めに入た。青い瞳をしている。名は西坊丸。後の丸子祐定である。
 一方必死に涙をこらえている少年は、最松丸。後の城生貞光だ。
 そして男勝りの腕節で勝ち誇ている少女は千代と言た。直弓家当主・直弓兼盛(なおみかねもり)の娘だ。
 城生家の領地と直弓家の領地は接しており、一族間での交流もあた。
「最松丸様、手当を」
 手ぬぐいで傷の手当をしようとする西坊丸であたが、最松丸はその手を振り払う。
 鮮血が舞う。
 傷は深く、血は流れ続ける。
「まだじ! おなごになぞ負けてなるものか!」
「なりませぬ!」
 必死に止めようとする西坊丸であたが、最松丸の気迫に思わずたじろいでしまう。
「ふん。面白い」
 その気迫に答えるように千代は棒切れを構えた。

 常永二十一年 八月

 蝉が鳴いている。
 直弓兼盛は屋敷の廊下を気忙しげに歩き回ていた。家臣たちに指示を飛ばすと、何か考えこむように庭を眺めたりしている。
「父上、いかがなされました?」
「ん? 千代か」
 娘の姿を認めた兼盛は眉間に寄せていた皺を緩める。
「何ということはない。心配するな」
 そんな父の言葉を信用するような千代ではない。
「嘘をおらないで下さい。顔を見ればわかります」
「ふむ……隠しきれんか」
「いかがなされたのです」
「城生の動きが怪しい。重光めがなにか企んでおる」
 城生重光、貞光の父で直弓家とともに仕えていた手木州家に謀反を起こし、隣国の戸保井家と同盟を結んだ男だ。
 領地を接している直弓家とは幾度も小競り合いがあた。
「戦でございますか」
 千代は鋭い目で父を見た。
「で、あろうな」
 娘の視線を避けるように兼盛は目を庭に向ける。
「大きな戦に御座いますか」
「今度ばかりは彼奴も賭けに出るであろうな」
 千代は貞光や祐定の顔を思い浮かべる。
 久しく見ていない。
 だが、そんな考えを掻き消すかのように、兼盛がひどく咳き込み始める。
「父上!」
 慌てて背中を擦るがなかなか兼盛の咳は収まらなかた。
 口を抑えた掌には赤いものが見える。
「父上……」
「皆には黙ておれ」
「しかし……」
「戦が起きるのじ
 千代は兼盛の一人娘だ。養子の男子もまだ迎えていない。
「わしがおなごに生まれて来たばかりに……」
―おなごでなければ父の代わりに戦えたというのに。
「そう言うな。わしはお前のような娘を持てて幸せなのじ
 兼盛は苦痛を隠すように笑いながら千代の頭を撫でてやた。
「お前には、本当に迷惑ばかりかける」
「父上……」
 兼盛は娘に背を向けると、再び眉間にしわを寄せ思い詰めた表情に戻た。
―我が体よ。あと少しだけもてくれ……。

 常永十四年 八月

 蝉が鳴いている。
 貞光は廊下を早足で突き進み、障子を勢い良く開け放つ。
「父上!」
 貞光の目の前には口をぽかんと開けて間抜けな面をした父・重光の姿があた。
「どうした貞光。驚いたぞ」
「いたいどういうことですか!?」
 重光は腕を組み、首を傾げる。
「はて、何のことか」
「千代のことです!」
 貞光は肩を怒らせながら重光に詰め寄る。
「ああ、そのことか。直弓兼盛殿の娘、千代姫殿がお前の許嫁になた。将来、我家と直弓家は縁を結ぶ。それだけだ」
 重光は大したことではないとでも言うようにあけらかんと言い放つ。
「手前に相談もなしに勝手に!」
「いいか五郎、お前もこの家の嫡男だ。ならば覚えておけ。決まることは勝手に決まる。そういうものだ」
「わかりませぬ」
「だが決まてしまたものはしようがない」
 その後、何度も問いただそうとするも貞光は重光に簡単にはぐらかされてしまた。
「ならば、直接直弓にいくしかあるまい」
 思いつめた貞光は祐定の前でそう宣言した。
「何故で御座いますか」
 祐定は苦笑しながら、乳兄弟の憤懣とした顔を見る。
「納得いかん。嫁を勝手に決められたのだぞ!」
「千代姫様のことがお嫌いなのですか」
 一瞬の間があた。貞光は言葉に詰また様子だた。
「嫌いだ」
 慌ててそう言たものの、その顔には複雑な色が浮かぶ。
 わかりやすい、と祐定は思た。
「確かに腕節が強いのは玉に瑕ではありますが、優しいお方です」
「ならばお前がもらえ」
「ご冗談を。拙者では釣合いませぬ」
「わしならば釣り合うか。それは馬鹿にしておるのか?」
 祐定は何も言わずただニヤニヤとしているだけだ。
「もういい! わしは直接千代に聞いてくる」
 そう言て厩へ駆け出す貞光のあとを慌てて追いかける祐定であた。
 馬に乗た直弓千代と行き当たたのは丁度子供の頃に遊んでいた野原だた。
「貞光!」
「千代!」
 まるで一騎打ちの名乗り合いでもせんばかりの勢いで相手の名を呼び合う。
 お互い険し表情だ。
 そんな様子を少し離れた場所で、祐定は眺めていた。一体どんな顛末になるやらと傍観を決め込んでいる。
「聞いたか?」
 二人は同時に同じ言葉を発し、二人ともすでに婚約のことを知ていることを改めて知る。
「お前と結婚するなどもてのほかだ」
「それはこちらの台詞」
「馬鹿げている」
「ああ、とんでもなく最悪だ」
 その後も二人の口からは罵詈雑言が飛び交う。祐定は笑いを堪えるのが難しかた。
「何が可笑しい!」
 これまた二人同時に祐定を睨みつけ、声を荒げる。
「申し訳ございません」
 そう言て頭を下げる祐定だが、その顔は笑ている。
 二人とも馬から飛び降りると詰め寄ていた。
 風がふき、千代姫の長い髪が棚引く。
 子供の頃は邪魔だと言て自分で髪を切ていたようだが、さすがにそんなこともできなくなていた様子ですかり美しい黒髪が長く伸びている。
「だが」
「親の決めたこと」
「わしらにはどうすることもできん」
 いつしか、二人も笑い合ていた。
「もう稽古をつけてやる事もできんな」
「稽古だと? わしの剣術の腕を舐めているのか」
「剣術? ただ振り回しているだけだろう」
「言たな」
「ならば」
「勝負」
 二人は近くに転がていた棒切れを拾い上げると、刀のように構えた。
 また風が吹く。

 常永二十一年 八月

 蝉が鳴いている。
 遠に日は暮れているというのに未だにうるさい。
 灯火の元、千代は目の前の書物に集中しようとするが、蝉の声に邪魔されて、ついつい別のことを考えてしまう。
 戦のこと。父のこと。貞光のこと。
 そんな想念が目まぐるしく巡ていく中でついついうつらうつらとしていると、壁に何かがこつりと当たる音が幾度か聞こえてきた。
 なんだろうと思い、外へ出てみる。
 庭は闇である。
 だが闇に紛れた人影を認めた。
―曲者?
 人を呼ぼうとした時、そのものが前に出てきた。見知た顔である。
 丸子祐定。
 かつての友。そして、今は敵。
 祐定は静かに膝をつき、頭を下げる。
「城生家の者が何をしに参た」
「お迎えに上がりました」
 祐定は静かに、だがはきりと言た。
「迎え? 妾は城生の者ではない。この家の娘だ。迎えなど来る道理はない」
「しかし貞光様と千代姫様は許嫁」
「それは遠の昔に流れた話」
「ですが、貞光様は未だ千代姫様を想ておられます」
「そう言たのか」
「言葉は聞かずとも、わかります」
「言葉も聞かずに、わかると申すか」
「わかります。そして、あなた様も」
 祐定は青い目をした鬼子として捨てられ、重光に拾われて貞光の乳兄弟として育た。
 その恩義を、祐定は忘れない。だから城生には絶対の忠誠を誓ている。
 しかし家中でも青い目は不気味がられた。
 そのたびに重光や貞光が庇てくれたが、それでも偏見や好奇に満ちた目は無くならなかた。
 だから人の心を読むことを覚えた。
 人の目を見据え、相手の心を悟ることを学んだ。
 だが、貞光と千代のことに関しては心を読むまではなかた。
「貞光も幸せだな。そなたのような家臣、いや友を持て」
「某は今でも千代姫様の友でおるつもりです」
「そうだな。そう……例えどんな境遇であろうとも、我らは友でありたいものだ」
 千代は寂しげな目で祐定の青い瞳を見つめた。
「友同士でも、殺しあわなければならないのか」
「時勢故に」
「妾は父を捨てることはできん。この家も」
「……」
「分かていてきたのであろう」
 そう祐定には分かていた。分かていたが、来れずにはおれなかた。貞光のため。己が主君となる人のため。
 そして、別れの挨拶のために。
 これが最期になるであろうと、そう思われてならなかた。
「ではまた。我ら城生の勝利の暁には、お迎えに上がります。貞光様とともに」
「ふん。負けんよ。我が父は。我らが直弓が支える手木州家は」
 祐定は音もなく消えていた。
 祐定が消えてもしばらく、千代は祐定のいた場所を見つめていた。

 蝉が鳴いている。
 戸保井家の援軍と合流した城生の軍勢は破竹の勢いで手木州領内を進軍する。それもそのはずで手木州軍は守りの難しい枝城を捨て、兵力の集中を図ていたのである。城生軍は軍勢を二手に分け進軍した。一方は当主重光が戸保井の援軍と合わせた主力を指揮し、一方は貞光を大将として進軍していた。
 大きな戦闘も起こらず手木州領内の深くまで入たが、手木州軍にとては地の利もある。慎重に進むように重光は全軍に通達する。
 貞光の軍勢が初めて大きな軍勢と衝突した。
 不動原で待ち伏せをしていた直弓の軍勢とぶつかたのだ。
 はじめのうちは貞光の軍勢が力押しをしているように見えた。
 矢が飛んでくるのを太刀で切り弾きながら貞光は軍勢に下知を下す。
「押し潰せ! 敵は小勢ぞ!」
 勢いを増す城生軍に次第に敵は退き始めていた。
 直弓の旗が揺らめいている。
 ふと、千代の顔が頭をよぎる。
「貞光様!」
 祐定の声にはとすると足軽の鑓が突き出されてきていた。
 どうにか避けたところに祐定が駆けつけ馬上より太刀で足軽の首を飛ばす。返り血がかかた。
「考え事は後になされませ! ここは戦場ですぞ!」
「すまぬ。お主の言うとおりだ」
 なおも敵を押していくが、どうにも妙だた。だが、妙な感覚を覚えた時にはすでに遅かた。
 伏勢が現れたのだ。
「罠だ!伏勢だ」
 矢が次々と飛び、茂みの中から敵がわらわらと湧き出してくる。
「撤退だ!」
 だが、撤退しようにもそこらじう敵だらけだ。
「貞光様! 某が殿をつとめます」
「だが!」
「お早く!」
「貞光様を早く連れて行け!」
 祐定は郎党にそう下知すると、自らは敵の中へと突込んでいく。
「祐定!!」
 貞光は引きずられるようにしながら後ろを振り返る。
「輪廻の先にてお待ち申し上げます」
 笑ていた。
 祐定は笑ていた。だが、それもすぐに見えなくなた。
 殿を務めた祐定と手勢は敵の中に呑み込まれた。

「使えんな」
 伝令の報告を聞きながら、重光はそう漏らした。
 その言葉に戸保井家の援軍を指揮するため派遣された和名尾重遠は薄ら寒いものを感じた。
 この男は己の息子すら駒としか考えておらぬのか。
「まあ、死なずに残た兵をまとめただけましではあるが……さて和名尾殿、愚息は負けて兵を失たがこちらは順調だ」
「左様ですな。問題は手木州が籠城するか否かですが」
「手木州の杉観音城は守るには難しい城」
「ふむ。なれば篭てもらたほうが容易く勝てると」
「臆病者の手木州はともかく、宿老の直弓ならば打て出ることを進言するでしうな」
「ならば軍勢をもう少し進めて川を渡り、この丘の上に陣を引くことといたしましう」
「無難ですな。まあ、無難に勝ちましう」

 丘の上から敵の軍勢が見える。
 丘の上に陣取た城生軍は地理的に有利さがあるし、軍勢の数も手木州軍のそれを上回ている。
「押し潰せ」
 城生重光が言た下知はそれだけだた。
 大軍が押し囲むように手木州軍を攻めていく。
 伏勢を隠すような場所もない。
 あとは用兵がものを言う。次第に情勢は明らかになていく。
 城生の軍が手木州の軍を圧倒している。
 だが、そんなさなか、城生を押し返すような勢いを持つ一軍があた。
 本陣を目指し突き進んできている。
 それを指揮する将は真赤な甲冑を身にまとている。
「直弓か。ちと不味いかもしれんな」
 床几に腰を掛けていた重光が思わず立ち上がる。
「父上、私が参ります」
 本陣に留め置かれていた貞光が言い放つ。
「ならん。お主は我が世継ぎぞ」
「進徳丸がおります。祐定は直弓の伏勢に殺された。祐定の仇を討たねばならぬのです」
「ならんと言ている」
「聞こえませぬな」
 そう言うと、貞光は本陣を去ていた。
「よろしいのですかな」
 和名尾がそう尋ねると、重光はゆくりと頷いた。
「ここで死ぬようならば、それはその程度だたというだけかもしれん。貞光の言う通り、ここで死ぬようならば進徳丸がおりますゆえ」
 
 赤い甲冑。
 面頬で顔を覆た赤き武者。
 直弓左門上尉兼盛。
 本陣めがけて突進してくるその軍勢を、貞光はしかりと見据えていた。
 それめがけて、貞光も軍勢を駆り、突進する。
 突進対突進。
 軍勢はすぐに衝突した。
 乱戦の中、貞光は赤のみを目掛けて突き進む。
 千代の父を殺す。
 千代にはもう合わせる顔がない。
 だがもはやそれも運命。
 仇を討つことが、それのみが望み。
 祐定、仇はとるぞ。
 軍馬の速度が上がる中、太刀を突き出す。
 激しい金属音。
 腕に強い衝撃を覚える。
 弾かれた。
 すぐに馬首を返すと、再び太刀を振る。幾度も太刀と太刀がぶつかり合う。
 激しいぶつかり合いの中で太刀が折れ曲がると、今度は腰に差した刀を抜き、再び向かていく。
 刀を突き出した時、相手の肩口に突き刺さた。
 だが、相手もその刀を掴んだため、もつれ合て二人とも落馬した。
 再び起き上がり、刃を交える。
 すでに息は上がている。
 満身創痍の中で、何か懐かしいものを覚えていた。
 それが何故だかはわからなかた。
 ただ、相手を殺すことだけに必死だた。
 刺突が相手の首筋を切り裂く。
 組合になり、相手を引き倒す。
 あとは首を落とすだけだ。
 だが、何故か。奇妙な感覚を覚えていた。
 あの懐かしい感覚。
 それを確かめるため、直弓の面頬を引き剥がす。
 そこには紛れもない、千代の顔があた。

 蝉が鳴いている。
 千代の目の前にはもはや息のない父の体が横たわていた。
 千代は涙も見せず、気丈に家臣たちに言い放つ。
「このことは伏せておくのです」
 家臣たちの間に動揺が走るがそれでも千代は落ち着いていた。
「戦には私が出ます。私がこれより直弓の大将です」
 そして千代は父の甲冑に身を包んだ。

 蝉が鳴いている。

「初めて、負けたな」
 千代は貞光に向かて言た。
「何故だ。何故お前がここに」
「父が死んだ。父に変わて戦場に出たまでのこと」
「だが……なんということだ」
「貞光……とどめを」
 千代の息は荒い。首筋からは血が流れ続けている。
「できない。わしにはお主を殺すことなど」
「貞光、ここはどこだ」
「……ここは」
「人を殺すが戦場のならい。はやく、殺せ」
「駄目だ。お主は」
「どうせ助からんのだ」
「だが」
「願わくば、来世で祐定とも貞光とも、もう一度会いたい」
 貞光は刀を持ち、それを千代の首筋に当てた。
「さらばだ、貞光。来世で会おう」 

 蝉が鳴いている。
 それを掻き消すような声で、貞光は泣いた。

 了


a light to live 著:すずきり


「何も死ぬことはなかたわ」
 ナオミは言た。長いまつげの先には涙の雫がイルミネーンのように輝いている。悲しみのドレスを身にまとた女性を前に僕は心から同情を表さずにはいられなかた。とりわけ彼女の瞳は僕の瞳を貫いて視神経の上を走り、柔らかい脳みそを支配しようとした。彼女の痛ましいほど青い頬と黒いくまと赤い目尻を、僕は確かに哀れに思た。その長い黒髪を愛撫して深い眠りに誘てあげたいとさえ思た。けれど、「死ぬことはなかた」という彼女の言葉には同意出来ない。実は僕は、マルコは死ぬしかないと思ていたから。だから僕はただ
「悲しいね」
 そう言う他なかた。そして内心ナオミに問うた。「やぱり君はどうしてマルコが死んだのか、理解してやれないのかい?」
 ナオミはただ、マグカプを握りしめて、いくつめかわからない涙を零した。僕はここ数日降り続いている雨を連想した。マルコが最後に見たロンドンは、晴れていただろうか?


 僕はナオミをアパートに送た後、そぼ降る雨の中空色のビートルを走らせた。マルコを飲み込んだテムズ川の面を拝みに行こうと思た。
 雨粒がヘドライトを反射して白く光る。ナオミの涙よりはずとすきりして気持ちがいい。元々雨は嫌いじない。いつも天気の悪いロンドンでは雨に気分を鬱鬱とさせられはしなくなる。雨に濡れたレンガ造りの町並みも美しい。英国の建築は明るいことを最上とは考えない。床は黒い板張りか暗い色合いの絨毯が好まれ、壁も天井も純白よりは彩度を落としたものが良い。天井は高く、シーリングライトで真白に部屋を照らすようなことはしない。そんな明るさが求められるのは公的な場所だけだ。必要な場所にだけ手元を照らすものがあれば良い。つまりソフの近くに読書灯を置き、机の上にテーブルライトを置けば良い。部屋全体は薄暗くて良い。太陽が照ているような明るさは、この国にはふさわしくない。
 それは性格にも同じことが言える。特にマルコは、「陰気なイギリス人」のイメージを具現化したような男だた。青い瞳はいつも懐疑的に世界を捉え、ひげを蓄えた口はどんな喜びも皮肉に変えた。一緒にいて楽しい男ではなかた。しかし一方で、英国建築の様に落ちついて、年代物のクラブソフに座ているような安らぎがあた。人間も明るいのが最上ではない。必要なだけの薄明かりが、少なくとも僕には丁度いい。
 マルコを失たことで僕が最初に感じたのは悲しみというよりも寂しさだた。子供の頃、寝付きの悪い僕にいつもお母さんは子守唄を歌て聞かせた。僕は瞼を閉じて、眠りに就いたふりをする。するとお母さんは僕の額にキスをした後、ゆくりと僕の部屋を出て行く。僕は瞼越しに、扉が閉じてリビングから差し込む灯りが遮断されるのをいつも感じた。マルコの存在がいなくなたことは、そんな寂しさを与えた。気がつかない程優しい光が閉ざされた時やと気付く。諦めて朝日がのぼるのを待つしか無い。


 ミレニアムブリジの下を泥の様な水がのろのろと流れて行く。小鳥が頭に乗ても動じないカバみたいにテムズ川は打ち付ける雨に無関心に見えた。そこにマルコは飛び込んだ。きとこの無数の雨粒と同じ様に、マルコも飲み込まれたんだろう。
 僕はビートルの中でタバコに火をつけた。オーオをかけようとして、ボリムのスイチに青い汚れがついているのに気がついた。爪でひかくとぼろぼろとはがれた。マルコの絵の具だと僕はすぐに思た。
 奴はいつもジトに絵の具の汚れを付けていた。潔癖性の癖に、それに関しては全くルーズだた。指先に絵の具が付いていても、きと気にもしなかたんだろう。マルコは全く、絵画狂いの男だた。


 一週間前、マルコとナオミはひどく喧嘩した。その前に僕たち三人のことを少し話そう。
 ナオミはイラストレーターだ。ネトで依頼を募集し、内容によてなんでも絵を描く。そして対価を頂く。彼女にはデザインと色彩の才能があた。どんな仕事でも引き受けることが出来たのは、その才能ゆえと言う他ない。バーのチラシのデザインや、新聞に挟まれる広告のかわいいキラクター、雑貨屋のイメージキラクターなんかも描いた。旅行代理店のパンフレトをいくつか手に取れば、どこかに彼女のイラストが見つかるだろう。無論そんな仕事の対価は安いものだが。ナオミはメジなイラストレーターではない。どこにでもいる何でも屋と言われてしまえばそれまで。でも彼女は幼い頃からの夢を叶えている。絵を描いて飯を食ている。それは立派なことだ。けれどマルコは、その生き方を認めなかた。
 マルコは油絵専門だた。郊外のガレージをアトリエにして、絵を描いているというよりカンバスと戦ているような男だた。依頼はほとんど受けない。時折個展を開き、わずかな集客を得る。それから好きに描いた絵をネトで販売する。「頼まれてまで描きたくない」とマルコは言た。絵を描くペースも不定期だし、碌な収入は無い。商才のある兄弟たちに養われていた様なものだた。そんなインドアでアウトローな生き方がマルコの生き方だた。油絵に対する彼のプライドの高さには感服したし、呆れ返た。
 僕とマルコは大学時代の知り合いで、ナオミとは数年前にバーで出会た。三人とも絵を共通の話題にして、仲良くなた。あの夜のバーでの会話はよく覚えている。
「ただ生きているだけの連中に、俺は加わりたくないんだよ」
 マルコは言た。これは奴の口癖、人生の訓辞だた。
「『ただ生きているだけ』て? どんな連中?」
 ナオミは聞いた。マルコは口ひげを指でつまみながら、バーの中をいつもの冷たい青い目で見回した。そしてタバコを挟んだ中指と人差し指で、カウンターの2人組を差した。
「あの男二人を見ろ。上等なスーツにネクタイ。髪を綺麗に撫で付けて、顧客の印象もバチリて顔だ。朝七時に目を覚まし、車内販売のコーヒーを飲んで仕事を始める。今日は何人と契約を結べるかな? もしもし、お客さんウマい株の話があるんですが? 週に五日、ずとこれをやる。週末は同僚とバーで酒を飲むか女を抱く。布団の中で貯金残高を見て呟く。次はどこのブランドの時計を買おうかな・・・」
 僕はマルコがこんなことを陰険な顔つきでぺらぺらと舌が踊る様に話すと、つい笑わずにはいられなかた。マルコは大仰に肩をすくめて続けた。
「これがあそこの二人の人生さ。毛皮のコートが大好きなブロンドの女と結婚して、終いさ。連中はただ生きているだけだ。金を稼いで使い、稼いで使い、退職したら公園を散歩する他やることがない。何も生み出さない人生だ。ただこの世に存在しているだけ。わかるだろ?」
 ナオミは苦笑いして「面白い考え方してるのね」と言た。まさかそれがマルコの人生哲学の全てだとは思わなかたようだ。僕はそれを見てまた笑た。
 それ以来とくに衝突も無く、時間の合う時に三人で酒を飲んだ。仕事の手伝いや相談なんかもした。絵を描くのは孤独な行為だ。じと一人で、筆の先から良い絵が生まれるのを待つ。何も生まれなければ自分を恨むだけ。良い絵が描ければ、つぎはもと出来の良いのを描かなきならない。僕もマルコもナオミも、時折合うだけでその苦しみを和らげていたのだと思う。だから仲良し三人組というのとはちと違う。寒さに凍えた野良猫たちが、仕方なく低木の茂みで身を寄せ合ていたようなものだ。
 僕は客観的に見て、ナオミとマルコの考え方は根本的に真逆だと感じていた。しかしそのぎりぎりのすれ違いが、摩擦にならなければいい。僕が上手くクンになればいい。心の奥でそんなことを思ていた。僕はいつからかこの三人の関係に友情を見いだしていたのかもしれない。そしてその関係はかなり上手くいていた。一週間前までは。


 きかけは些細なこと、と人はよく言うが、二人の喧嘩のきかけはちとも些細なことが原因じなかた。二人の生き方のぶつかり合いだたのだから。
 マルコは他人の絵を認めるということをしない男だた。いつでも自分の絵が一番。他者の絵を見てもここが悪いあれが悪いと指摘して、しまいには作者の人格を否定した。勿論僕も自分の絵を何度マルコにこき下ろされたかわからない。殴り合いにまで発展したのは数回だけだけど。ある時マルコに突き飛ばされた拍子に僕が割れたビール瓶の破片でひどく手を切てからは、マルコも僕もあまり感情的にならないようになた。何針塗たか覚えていないが、左手の甲にはいまでもその跡が残ている。マルコは何度も「利き手じなくて良かた。絵は描ける」と言た。たちの悪いジクかと思たが、本心から言ていたのだから、怒る気にもならなかた。
 そしてナオミのイラストもまた、マルコの批評の毒牙にかかた。ナオミが自分でイラストをメールに添付してマルコに見せたという。それは葬式に白いスーツを着て「メリークリスマス!」と言うのと同じくらいやてはいけないことだ。
 どんな風にマルコが批評したかは僕も知らない。けれどナオミは悪霊に取り憑かれたような顔つきをしていたから、想像にあまりあることを言われたらしい。
 僕はナオミに呼ばれて、二人でいつものバーに飲みに行た。
「何て人なの彼は」
 僕は黙て彼女の愚痴を聞いた。フクとアスホールどちらの単語の方が多く出て来るか数えたが途中で諦めた。
 喧嘩の内容は簡単に言えばこうだ。マルコはナオミのなんでも依頼通りに絵を描き、賃金を受け取る生き方を「ただ存在しているだけの連中」と変わりない、と言た。「君は絵を描くために生きているんじない。生きるために絵を描いているんだ。明日の飯のため、週末の家賃のため、絵を描いているのさ。そんな絵に良いも悪いも、俺は言わないよ。そうだな、この絵は、5ドルくらいか?」と、こんなことも言たとか言わないとかいう話らしい。
 ナオミは人生を全否定されたと感じた。子供の頃から夢見ていたイラストレーターという仕事に、そんなケチを付けられれば当然そう感じるだろう。
 マルコの言い草は本当にひどいが、しかしそれでも僕はマルコに対して怒りを抱くことは無かた。マルコが何故そんな態度をとるのか僕にはよくわかていたから。


 僕はナオミに言た。理解してもらえるかは五分五分、というより理解してもらえない公算のほうが高かたけれど。
「いいかい、マルコは君を傷つけるためにそんなことを言たんじない。少なくともそれだけは確かだ。奴に悪意は無いし、君は何も悪くない」
「じあ彼はなんであんなことを私に言たの?」
「それは・・・つまり本心なんだよ、マルコの本心」
「本心から私の絵は5ドルだて言うわけ?」
 僕は慌てて違う違うと全身でジスチした。
「そこは奴の悪い癖というか、物のはずみで出るジクさ。・・・あいつは絵にプライドを持てる。自分には絵しか無いて頭から信じてるんだよ。それだて売れてないわけだけど・・・。まだ君に会う前、マルコは首を吊ろうとしたことがある。死ぬ前に僕に絵を引き取て欲しいて言いに来た。僕は奴を引き止めて何時間も話したよ。バドワイザーを一ケース飲ませて、親父の葉巻を吸わせて、自殺を止めるよう説得した。それでなんで自殺しようとしたと思う? 絵が描けないからだて言うんだよ。筆が持てないて。すぐ病院に連れて行たら、ただの腱鞘炎だたよ。湿布と薬を貰て、安静にしてくださいて言われた頃にはいつものマルコに戻ていたよ」
 ナオミは怒りが鎮またというよりも引いたという顔になた。ずいぶんマシだ。僕は続けた。
「だからさ、絵のことになるとマルコは相手が傷つくかもとか、こんな批評は言わない方が良いとか、考えられないんだよ。自分の絵にしかそもそも感心が無いんだ。ゴホの絵を見ても、園芸雑誌の表紙に丁度いいな、くらいのことしか思わないのさ。そう、つまり真に受けちダメだ。そしてマルコを責めてもダメだ。純粋なだけなんだよ奴は。ちぽけな絵のプライドだけが奴の生きる灯火なんだ」
 僕は言い終えて、どう?と両手のひらをナオミに見せた。彼女はギムレトを飲み干し、たぷり息を吐いてから言た。
「冷静になるには時間がかかるかも」
 それは仕方が無いさ、と答えた。


 マルコは僕の左手に傷を残した様に、ナオミの心に傷を残した。しかしその時マルコも傷を負ていたことに僕もナオミも気がつかなかた。ナオミはマルコと仲違い中だたし、僕はナオミのフローばかり考えていたから。でも本当はマルコの方にこそ僕は細心の注意を払ているべきだた。
 後悔先に立たず、という言葉は真理でありながらお手軽すぎる。その言葉は呪いの様に僕の頭の中で鳴り響いた。
 テムズ川からマルコの遺体が引き上げられた後、僕はマルコの兄と話す機会があた。マルコが失明しつつあたことを知たのはその時だた。
 彼のあの青い眼に何が起こたのか詳しいことはわからない。しかしあの男が絵を描けない身体になたらどうなるかは、想像に難くなかた。つまり、「死ぬしか無い」
 ナオミとの喧嘩がなければ、身を投げる前に僕のところへ絵を預けにきたかもしれない。そしたら僕は・・・彼の自殺を止めることが出来ただろうか?


 僕はビートルを飛ばして自宅に戻た。雨はいつの間にか止んで、雲の切れ目から空が見えていた。空は嘘みたいに鮮やかな青色だた。あんな単調な色をカンバスに塗り続けたら気が狂う。絵を見た人も「空はこんなに馬鹿青いかね?」と問うだろう。空はいつでもそんな色をしている。
 北向きの狭いアパートに入ると、僕はすぐにmacでオークシンにかけた絵を確認した。僕が出品したマルコの絵は、残り一枚。それ以外の、マルコの遺族から預かた絵は全て売れた。先月行たマルコ最後の個展が、マルコの想像以上に受けていたことが明らかになた。個展のテーマは『a light to live』だた。
 不思議な絵の描き方だた。絵には作者にとて「ここを見て欲しい」という部分があるが、マルコはその部分を異常なまでに明るく、彩度と輝度を高くして描いた。ほとんど光り輝く様に描いた。実際絵の光源をその物体に定めていた。『an apple』という絵には、年老いた男性が林檎を不味そうにかじる姿が描写されている。その林檎はほぼ白色だた。一見電球か何かかと思てしまう程明るい。そしてその光は老人の鼻の穴を照らし、赤い舌を照らし、顔に刻まれた深いしわに影を作た。光源は林檎で、それ以外に光は無い。全体に暗い色調だ。
 そんな絵を見ていて妙なのは、マルコが見て欲しいのは林檎なのか老人なのか? という点だ。一番目立つのは林檎だ。しかしその林檎は、老人を照らし出すべく存在している。むしろ見るべきは老人なのではないか、とも思える。僕は、僕たちは光を見て生きるべきなのか、光に照らされた世界を見て生きるべきなのか、そんなマルコの声が聞こえるようだた。


割れた花瓶と植木鉢 著:永坂暖日

 俺のせいにしたかったんだろう? ――だから、してやったんだよ。お前が望むように。

 

      ●

 

 割れた花瓶の破片を隠すように、植木鉢の破片と土が散らばっていた。

 その場にいた誰もが絶句し立ち尽くす中、青い目の彼はこちらをちらりと見て口角を少しだけつり上げ、何事もなかったように行ってしまった。左手から血を流したまま。

 

      ●

 

 藤代丈が丸子翔と初めて会ったのは、小学校五年生の、二学期の始業式の日だった。転校生の彼の存在は、四クラスあった学年中にあっという間に知れ渡った。もちろん、転校生だからという理由も大きい。だけど、彼の容姿――特に目の色が珍しかったことも、大きな要因だった。

 丸子翔は目鼻立ちがはっきりとしていた。それだけでなく、同性の丈から見ても均整の取れた、格好いい顔立ちだった。男子よりもませている女子が、それに気がつかないわけがない。丸子翔はあっという間に女子児童の間で話題となり、一見するとそれほど日本人離れした顔立ちではないのに、瞳ははっきりと青い色をしていることが、人気に輪をかけた。

 丸子翔は、父親が外国人だったらしい。でも小学校に上がる前に両親が離婚して日本人の母親に引き取られたのだと、女子たちがひそひそと話しているのをたまたま聞いてしまった。

 彼女たちが本人から聞き出したのか、噂話をしていたのかは分からない。ともかく、黒い目の中に突如現れた青い目を持つ丸子翔という存在は、その顔立ちも相まって否応なく目立っていた。

 女子児童たちにとっては羨望の的。しかし、男子児童たちにとっては、女子の人気を独り占めするいやな奴で、人気とは関係なしに、自分たちとは違う青い目を持つ異物だった。

 転校してきたばかりの頃こそ、男女関係なく、新しい仲間に何かと関わり打ち解けようとしていたが、丸子翔は他人と関わることに興味がないのか、話しかけられても返事は短く、いつまでたってもクラスになじむことはなかった。

 女子は、それでもクールで格好いいなどと言っていたようだが、男子は、つまらない奴だと見切りをつけて、一ヶ月もたつ頃にはほとんど話しかけなくなっていた。

 その頃、丸子翔と言葉を交わしていたのは積極的な女子と、出席番号が近くなったために一緒に日直当番をする丈くらいだった。

 丸子翔はとても人見知りで、一ヶ月ではクラスにまだなじめないのかもしれないと、丈はなるべく丸子翔に話しかけていた。下の名前が、じょうとしょう、一字違いで響きがよく似ていたから親近感を抱いていた、というのもある。

 ある時丸子翔にそれを言ったら、

「確かに似てるね」

 と、口の端をちょっとだけ持ち上げ、小学五年生とは思えない笑みを浮かべたのだった。丸子翔の大人びた笑みに、丈は何故か頬がほんのり熱くなるのを感じた。女子たちが、彼は格好いいときゃあきゃあ騒ぐ理由がその時はっきりと分かった。いや、もしかしたら女子たちよりも明確に、知ったかもしれない。彼女たちも、丸子翔がこういう笑い方をするなんて知らなかっただろう。

 前よりも丸子翔に話しかける回数は多くなり、そして彼に話しかける男子はクラスでは丈くらいしかいなかったから、丸子翔といちばん仲が良いのは丈だ、といつしかクラスメイトはそう認識していたし、丈自身もそう思っていた。

 とはいえ、丈も三十数名からなる集団の一員にすぎない。しかも、決してリーダー格にはなり得ず、気弱なところのある性格だった。いわゆるガキ大将的存在に媚びへつらうことはなかったが、彼の言うことに逆らえるほどの気概も根性もない。

 丈より快活で気の強い他の友人たちも、丈たちのクラスのガキ大将である相沢雄摩(あいざわゆうま)には逆らえなかった。相沢雄摩は学年でいちばん体が大きかったし、小学一年生の時から柔道をしていた彼は、五年生にして中学生相手にも勝ったことがあるという、本当の強者だったのだ。

 しかしそんな彼であっても、丸子翔はクラス内の勢力図に無頓着で無関心だったから、相沢雄摩はその他大勢のクラスメイトとなんら変わりない存在だったようだ。

 相沢雄摩は、当然ながら自分になびきもしない丸子翔が気に入らなかった。相沢雄摩が密かに思いを寄せていた女子児童が丸子翔に夢中だったのも、気に入らない大きな理由だったに違いない。

 相沢雄摩が黒と言えば白も黒くなる――ほどではなかったにせよ、彼を取り巻く子分ともいえる友人たちは、ボスである相沢雄摩に倣って丸子翔に冷たく当たった。もっとも、丸子翔は丈や一部の女子以外とほとんど会話らしい会話も交わしていなかったので、あからさまに丸子翔を無視しようとする相沢雄摩たちの方が、むしろ滑稽に見えた。

 本人たちもすぐにそれに気がついたようで、次は直接的に嫌がらせをするようになった。丸子翔が通り過ぎようとする直前に足を出して転ばせようとしたり、画鋲の針を上に向けてイスに置いたり、授業中に後ろから消しゴムのかけらを投げてみたり、と教師には見つかりにくい、小さな嫌がらせをあれこれやっていた。

 しかし丸子翔は、相沢雄摩たちの足に引っかかることはなかったし、座る前に画鋲の存在に気がついたし、消しゴムのかけらくらいでは眉一つ動かさなかった。

 丸子翔が相沢雄摩に嫌がらせをされているのはクラスメイトの誰の目にも明らかだったが、やめなよとは誰も言い出せなかった。刃向かえば相沢雄摩の目の敵にされるのは分かりきっていたから、丈ももちろん止めることはできず、嫌がらせをしているところを見てわずかに顔をしかめ、胸の中でやめればいいのにと呟くのみだった。

 相沢雄摩が丸子翔を標的に嫌がらせを始めてからも、丈は丸子翔に話しかけていた。彼にとってはそれが相沢雄摩への精一杯の反抗心で、丸子翔の味方だというアピールのつもりだった。あくまで、つもりだったのだ。

 二学期の終わりに近づいても、相沢雄摩は丸子翔への嫌がらせをやめなかった。丸子翔は何をされてもいっかな気にする様子がなく、涼しい顔をしていた。

 相手の反応がなければ、なんとかして反応を引き出そうと嫌がらせはエスカレートする。このころには、相沢雄摩は丸子翔の靴や教科書を隠したり汚したりしていて、完全にいじめだった。丸子翔はやはり顔色一つ変えず、教師に言いつけることもしていないようだったから、いじめではあるものの相沢雄摩の独り相撲のようでもあった。

 だが、それはある日突然終わりを迎えた。

 二学期の終業式が間近に迫った寒い日で、教室の窓から見える夕焼けがとてもきれいだった。授業が終わり、多くの児童は下校していたが、丈と丸子翔は連れだって図書室へ行っていた。おのおの気になる本を借りて教室へ戻ると、相沢雄摩とその子分たち五人ほどが、室内だというのにドッジボールのボールを投げて遊んでいた。

 他のクラスメイトはみんな帰ったらしく、丈たちが前のドアから入ると、視線の集中砲火を浴びた。けれどそれは一瞬で、相沢雄摩がまっさきに視線を外して、ボールを持っていた男子に早く投げろよと横柄に言った。

 ランドセルは机に掛けてあるから、教室全体を使ってキャッチボールする彼らの間を縫うように取りに行かなければならない。

 気まずく、ボールが当たるかもしれないという恐怖心があったが、ランドセルを取らなければ帰れない。相沢雄摩たちもそれは分かってくれるはず。そう期待しながら、おっかなびっくり自分の机に向かう。こんな時でも、丸子翔は涼しい顔をしていた。

 丈は少し離れたところを通り過ぎたボールに過剰にびくつき相沢雄摩たちに笑われたが、なんとかランドセルを回収してそそくさとボールの飛んでこない、教室の前へ避難した。

 丸子翔は無事ランドセルを取れただろうかと振り返ると、ちょうど相沢雄摩がボールをキャッチしたところだった。相沢雄摩は意地の悪い笑みを浮かべ、彼に背中を向けている丸子翔を見る。彼の机は窓際から二番目の列のいちばん後ろで、ランドセルを取ろうと少し前かがみになっていた。その背中に向かって、相沢雄摩はボールを投げた。

 勢いはたいしたものではなかったが、背中の真ん中にボールの直撃を受けた丸子翔は、少しよろけてイスに足をぶつけた。相沢雄摩が声を立てて笑い、子分たちもくすくすと笑った。

 それでも、丸子翔は顔を上げず振り返りもしない。

 転がったボールを、近くにいた子分の一人が拾うと、相沢雄摩が自分に渡すように言う。器用に片手でキャッチすると、丈の名前を呼び、それを投げた。

 軽く放られただけだったので、丈でも難なくキャッチできた。だが、戸惑いは隠せない。もしもいま教師に見られたら、丈も一緒に遊んでいると思われるだろう。そんな巻き添えはごめんだが、相沢雄摩は、丈を巻き込むつもり満々だった。

 顎で丸子翔を示し、彼に投げろと言ったのだ。小さく首を横に振り、ささやかに抵抗してみたが無駄だった。にらまれ、投げろ、とさっきよりも強い調子で言われた。

 これ以上逆らったら、後で何をされるか分からない。それに、丸子翔に投げるだけだ。さっきの相沢雄摩みたいに、後ろからぶつけるわけではない。

 丸子翔はかがめていた体を起こし、丈をじっと見ていた。ボールをキャッチしようと身構えてはいない。だが、きっとキャッチしてくれる。

 丈は運動神経がいい方ではないが、これくらいの距離なら届くだろう。早く投げろと言う相沢雄摩の視線に押され、丈はボールを投げた。

 丸子翔をめがけて投げたつもりだった。でも、ボールは大きく右にそれて、窓際にあった花瓶に直撃したのだった。

 花瓶は、丈と丸子翔の真ん中あたりの床に落ちて大きな音を立てた。大小さまざまな破片と生けてあった花、水が飛び散る。

 ボールを投げた姿勢のまま、丈は固まった。顔から血の気が引く。

 丸子翔は、やはり顔色一つ変えずに床に散ったものに視線を落としていた。おそるおそる相沢雄摩を見ると、彼は先ほどよりも意地の悪い笑みを浮かべていた。してやったり、という表情だった。

 まったくタイミングの悪いことに、残っている児童を早く帰すため、見回りをしている教師が近くにいたらしい。花瓶の割れるけたたましい音を聞いて、教師が駆けつけたのは言うまでもない。

 学年でいちばん若い隣のクラスの担任で、いまのは何の音だと血相を変えていた。

「丸子くんがボールを投げて、花瓶を割ったんです」

 ややあらげた声の教師に、すかさず丸子翔を指さして答えたのは、相沢雄摩だった。

 床に散った破片とその近くに転がるボールに気がついた教師は、険しい顔で丸子翔を見た。相沢雄摩が言ったことは本当なのかと問われ、丸子翔は当然ながら違いますと答える。すると教師は相沢雄摩に視線を移す。

「丸子くんがやったんです。ぼくらみんな見てました」

 相沢雄摩の言葉に合わせて、子分たちがうなずく。

 丈は生きた心地もしなかった。相沢雄摩たちは、丈をかばっているのではない。丸子翔のせいにしたかったのだ。それが教師に露見したら、丈が怒られてしまう。花瓶を割ったこと、教室でボール遊びしていたことを。

 でも、丈は巻き込まれただけだ。ボールを投げて遊んでいたのは相沢雄摩たちで、丈はたまたまその場に鉢合わせして、投げろと命令されたから投げただけなのだ。

 違うと否定するのは丸子翔だけで、後はみんな、丸子翔がやったと言い張っている。丈は、否定も肯定も、本当は自分がやったとも言えなかった。だが教師は、丈が黙りこくっていることに気がついていないようだった。

 一人以外みんな丸子翔がやったと言う。教師は民主的だった。

 ずっと淡々とした表情だった丸子翔が、眉間に小さくしわを寄せて違うと言っても、教師はもはや聞く耳を持たなかった。花瓶を割ったのは丸子翔だと断定して片付けをするように言い、相沢雄摩たちには教室でボール遊びをするんじゃないと叱った。

 思惑通り丸子翔に罪をかぶせるのに成功した相沢雄摩だったが、自分たちまで叱られるのは想定外だったようだ。丸子翔の手伝いをしなさいと言われた相沢雄摩は、ますますふてくされた顔になって、丈をにらんだ。お前がやれと言うことか。でも割ったのは丈だから、自分がやるのは当然だ。

 丸子翔は動かなかった。教師がほうきや雑巾を持ってくるように言っても、割れた破片を見つめている。いじけてうつむいているようにも見えた。

 丈は掃除道具入れからほうきとちりとりを取って、破片の散らばる場所へ向かう。子分の一人が、さすがに何も手伝わないのはまずいと思ったのか、雑巾を持ってきた。

「丸子くん……」

 近づいて声をかけても、丸子翔はこちらを見ないし顔を上げなかった。こわごわと再度声をかけようとしたら丸子翔がいきなり動き出して、丈は声を上げそうなくらい驚いてしまった。

 丸子翔が動いたのは、ほうきやちりとりを受け取るためではなかった。

 彼は、窓際に近づくと、さっきまで花瓶があった場所の隣にある植木鉢に拳を叩きつけた。

 拳を叩きつけられ、窓枠にぶつかり、鉢が音を立てて割れる。丸子翔はそれだけのみならず、植木鉢の中身と大きな破片をつかむと、花瓶の破片が散らばるところに投げ捨てた。三度目となるけたたましい音が響き、破片がいくつもの破片にわかれ、土が飛び散った。

 この行動には、教師も相沢雄摩も、もちろん丈も、言葉をなくして立ち尽くした。

 しんと静まり返る中、丸子翔は机に戻った。ランドセルを背負い、丈の横を通り過ぎる。教室の中には、彼の立てる小さな物音しかなかった。

 丸子翔と目が合った。通り過ぎざま、彼が丈を見やったのである。

 青い目に射抜かれ、丈は固まった。一瞬しか見えなかったが、彼の口元は、かすかに笑っていたのだ。だが、目はその色の印象通りに冷ややかだった。

 丸子翔が教室を出てから、教師はやっと気を取り戻したのか、あわてて丸子翔を追いかけた。けがをしているだろう、と大声を上げながら。

 固い植木鉢を素手で殴ったのだ。彼の左手から血が流れているのは、丈も気づいていた。だが、突然の思いがけない出来事に麻痺した頭は、赤いものがついている、という程度の認識しかなかったのだ。

 そして、あのとき丸子翔が見せた笑みがどういう意味か、冬休みが終わっても丈が知ることはなかった。終業式の日まで聞くに聞けずにいて、年が明けたら今度こそ聞こうと決めたのに、年が明けたら丸子翔は転校していたのだった。

 自分が割ったと言えなかったことを謝れないまま、丸子翔は丈の前からいなくなってしまった。謝れなかったこと、本当のことを言えなかったことの罪悪感は、丸子翔との思い出とも言えない思い出とともに、小さな棘のように丈の心に突き刺さり、いつまでも抜けなかった。

 成長するにつれ、棘の存在感は薄れてはいった。だが、決して抜けることはなく、ふとした折りに、丈は丸子翔という存在と、それに付随する罪悪感を思い出すのだった。

 彼がどこに転校したのか担任は教えてくれなかったが、遠いところだとほのめかされた。クラスでいちばん仲が良かったはずの丈に行き先を教えてくれないなんて水くさいと思い、喪失感に囚われもしたが、あんな仕打ちをした丈に、丸子翔はもはや友情を感じていなかったのだろう。

 あの後も会話はあったが、どこかよそよそしさがあったのは否めない。転校することもその行き先も教えてくれないのは、当然だった。

 もう二度と会えない、会うこともない。そう思っていたし、あの日までは、それは正しかった。

「丈! お前、藤代丈だろ!」

 突然声をかけられた丈は驚いて足を止めた。彼と腕を組んでいた大柴菜緒美も、必然的に立ち止まる。

 夜の繁華街は多くの人が行き交っている。そんな人の流れの中で立ち止まって手を振っているのは、黒い革のジャケットにジーンズ姿の、同年代の男だった。親しげな笑みを浮かべ、歩み寄ってくる。

「知り合い?」

 菜緒美が丈を見る。丈は男を見たまま、いいや、と言いかけた口を、その形のまま固まらせた。

「久しぶりだなあ。俺のこと、覚えてるか?」

「――丸子、くん」

 モデルでもしていそうな端整な顔立ちを見ても、とっさには思い出せなかった。だが、近づいてくる男の目を見て、すぐに分かった。

 整った顔立ちで彫りが深いものの、日本人にしか見えない。しかし目の色は青かった。

「やめろよ、くん付けなんてよそよそしい。呼び捨てでいいよ」

 カラーコンタクトではない。その青い目に、丈は確かに見覚えがあった。

 だが、丈が知っている丸子翔とはずいぶん印象が変わっている。あんな大声を出すことは知る限り一度もなかったし、下の名前で、しかも呼び捨てにされたこともなかった。満面の笑みも見たことがない。丈が最後に見た丸子翔の笑みは、植木鉢を割った後の、あの意味深な微笑だった。

「あれ? もしかして彼女? それとも奥さん?」

 いまは人好きのする笑みを、丈と腕を組む菜緒美に向ける。菜緒美は突然のことに驚いた顔をしていたが、丸子翔の愛想のいい笑みと口調につられ、笑みを浮かべた。

「結婚はまだなの」

「そうなんだ。あ、俺は丸子翔。よろしくね」

「大柴菜緒美です」

「デートの邪魔しちゃったかな? ごめんね菜緒美ちゃん」

 と、丸子翔は、丈の恋人をいきなり下の名前で呼んだ。昔とのあまりの違いに、不快に感じることも忘れてしまう。

「急に呼び止めて悪かったな、丈。久しぶりに見かけて、びっくりしてさ」

「いや……ぼくも、びっくりしたよ。まさか、こんなところで会うとは思わなかった」

 丈は地元から離れた都市部の大学に進学し、そのままそこで就職した。丸子翔がどこへ転校していったか分からないが、仮に同じ都会だったとしても、そこで偶然再会する確率は相当低いだろう。

 驚くばかりの丈は、まるで十年来の友人にでも会ったかのように親しげな丸子翔に言われるがまま、携帯電話の番号とメールアドレスを交換した。丸子翔はいまだにガラパゴス携帯で、メールアプリも使っていないらしい。

「フリーターだからあんまり金なくてさ。ここの近くの居酒屋でバイトしてるんだよ。今度来てくれよな」

 丸子翔が働いているという居酒屋はチェーン店で、この近くにあるのは知っていたが、入ったことはなかった。

「へえ、じゃあ今度行ってみようか、丈」

「あ、ああ」

 菜緒美に腕を引かれ、丈は反射的に返事をした。どうせ社交辞令で、行くことなんてないだろう。

 居酒屋の話をしていた時、丸子翔は無精ひげのある顎を左手でなでていた。癖なのだろうか。昔、彼にそんな癖があっただろうか。しかし、そんなことよりも丈の目を引きつけたのは、丸子翔の左手の甲にある、古い傷痕だった。

 またな、と軽くその手を挙げ、丸子翔は雑踏に紛れていった。始終笑みを絶やさなかった。

「ねえ、丈。あの丸子くんて、カラコンしてるの? 目、青かったよね」

 菜緒美が興味津々という顔で丈を見る。目の前で顔をつきあわせて話していたのだ。菜緒美にも、彼の目の色がはっきりと見えたようだ。

「いや、コンタクトじゃないよ。……あいつ、ぱっと見じゃ分からないけど、ハーフなんだ」

「えー、そうなの? 全然そんなふうに見えなかった。あの目が自前って、すごいねー。きれいな色だったし」

 菜緒美が声を高くする。いまになってようやく、丈の中で不快な気持ちが鎌首をもたげてきた。丸子翔が断りもせず当たり前のように菜緒美を下の名前で呼んだことも、菜緒美が丸子翔のことでにわかに興奮気味なことも、気に入らない。

 丸子翔は、小学生の時でも端整な顔立ちで、女子たちの人気を集めていた。大人になり、ますます整った容貌となった丸子翔は、昔以上に女性の視線を集めているに違いない。菜緒美も、しっかりと彼の顔を見ていた。

 再び歩き出しても、しばらくは丸子翔の話題だった。

「丈にあんなイケメンな友達がいるなんて知らなかったわよ。彼、絶対もてるよね。居酒屋のバイトとか、なんかもったいない」

 無邪気に言う菜緒美に、丈は曖昧な言葉しか返せなかった。

 テレビを見ながら、どの芸能人が格好いいとか美人だとか話すことはある。菜緒美はその延長で言っているだけだ。あくまで丈の友人の話をしているにすぎない。

 丈は自分にそう言い聞かせてはいた。だが、画面の向こうではなく目の前にいきなり丸子翔のような男が現れ、彼女がどういう形であれその存在に関心を示し話題にしているのだ。浮き足立った心は簡単には落ち着かなかった。

 別に、丸子翔と再会して、彼が昔より更に格好良くなっていたからと言って、何かが起きるわけではない。さっき会ったのだって、恐ろしいほど低い確率でしか起きない偶然だったのだ。今日はたまたまここに来ているが、いつもは別のところでデートすることの方が多い。同じ都市に住んで働いていても、もう一度再会するのは稀だろう。そのはずだ。

 もしも丸子翔ともう一度会えたら、ちゃんと謝りたい。かつてはそう思ったこともある。だが、小さかったはずの棘は、再会したことで一気に大きな棘となった。罪悪感で心に突き刺さっているのではなく、丈を落ち着かなくさせる不気味さで、食い込んでくる。しかし、もう会わなければ、棘がこれ以上大きく成長することはない。

 二度と会わないだろうと思っていた丸子翔との二度目の再会は、思いの外早く実現した。

 マンションに帰宅した夜の九時過ぎ、丸子翔から電話がかかってきたのだ。時間があるなら、一緒に夕飯を食べないか、と。再会してから十日ほどたっていた。

 電話しながら、丈は横目で菜緒美を見た。元々は丈が一人で住んでいたマンションだが、交際を始めてから菜緒美とほぼ同棲している状態である。今日も、先に帰宅した彼女が夕食を作って待っていた。だから今日はだめだと断ると、じゃあいつがいいかと都合を聞かれた。断る理由が思いつかなくて、丈は丸子翔と約束を交わすこととなった。

 いったいどういう顔をして、何の話をすればいいのだろう。そんな不安を抱えながら待ち合わせ場所に行くと、丸子翔はもういた。そこに立っているだけでも絵になる青年は、丈の姿を見つけると、この前のように笑みを浮かべて手を大きく振った。

 駅前のバルでワインを飲みながら他愛もない話をするうち、酔いも手伝ってか、丈の不安や警戒心は少しずつほぐれていった。

 丸子翔は、見た目こそ変わらない(更に男前になっているものの)が、性格は本当に昔とは別人のようだった。注文の品を持ってくるウェイトレスに爽やかな笑みでありがとうと言って、頬を赤らめさせる。口べたな丈の話を根気よく聞いて、適度な相づちを打つ。一つのきっかけがあれば、そこからどんどん話を広げていく。同級生だった短い間の話題になっても、丈からはあの一件に触れることはなかったし、丸子翔も触れようとはしなかった。それどころか、急に転校になって驚いただろう、ごめんな、と丈が謝られた。

 再会した時、丸子翔の言動から感じた不安や苛立ちはすっかり氷解して、二軒目の店でも大いに盛り上がった末、丈のマンションへ行こうということになったのだった。

「同居人がいるけど、大丈夫か?」

「もしかして菜緒美ちゃん? 結婚はまだでも同棲はしてるのか。丈は昔は奥手だったのに、やるねえ」

 にやけた顔でからかう丸子翔に、いい年をして丈は照れ笑いを浮かべた。

 メールで、菜緒美には丸子翔を連れて行くと連絡してある。遅い時間だから先に寝るけどごゆっくり、という返事が返ってきた。少なくとも、丸子翔と菜緒美が鉢合わせすることはないわけで、丈はかすかにほっとした。

 だが、間違いだったのだ。丸子翔を、丈のマンションへ連れて行ったことが。

 丈がそれに気づいたのは、丸子翔と再会して三ヶ月ほどたった頃だった。

 休日出勤を終えて丈が帰宅すると、丸子翔がいた。遊びに来たが、丈がまだ帰っていなかったから、上がって待っていたのだ。当然部屋には菜緒美がいて、彼を部屋に上げたのは、彼女だ。

「だって、せっかくお友達が来てくれたんだし、丈はすぐに帰ってくると思ったから」

 この時、菜緒美と丸子翔は既に何度も顔を合わせていた。彼がバイトをしている居酒屋に菜緒美と二人で行ったこともあれば、三人で飲みに行ったこともあった。丈と丸子翔が二人で飲んだ後、家で飲み直したこともあった。丸子翔は昔と違って社交的で話もうまいから、菜緒美ともすぐに打ち解けたようだ。

 だが、だからと言って、恋人以外の男と部屋に二人きりという状況はいかがなものか。常識的に、丸子翔も遠慮すべきだったのではないか。

「妬いてるの、もしかして」

「心配してるんだよ」

 知っている相手とはいえ、警戒心の薄い菜緒美が。遠慮もせずに部屋に上がり込む丸子翔が。

「何言ってるの、大丈夫よ。翔くんて紳士だし」

 杞憂であればいい。だが一度許してしまえば、同じことは何度でも起きる。

 丈の不在時に訪ねてきた丸子翔は、たびたび、菜緒美しかいない部屋に上がり込むようになったのだ。丸子翔が帰った後、丈は必ず、何もなかったかと確認する。初めのうちは、笑って何もあるわけないと言っていた菜緒美が、いつからか、何を疑っているのかと嫌な顔をするようになっていた。

 菜緒美と交際を始めてそろそろ三年。結婚を真剣に考え始めていた丈は、残業必至の皆が嫌がる仕事を進んで引き受け、休日出勤もこなし、密かに資金を貯めていた。最近では平日の帰宅は十時を過ぎることも多く、休みの日も仕事に行って、なかなか菜緒美とデートできていない。

 それでも、同じ部屋で暮らしているから毎日顔は合わせていたし、夜の方も前より頻度は少なくなったものの全然ないというわけではなかったから、自分たちの関係は大丈夫だと思っていた。たとえ、相変わらず丸子翔が丈の留守中に上がり込み、いまでは菜緒美の手料理を食べるようになっていたとしても、大丈夫だと思っていた。

 その日、丈は久しぶりに仕事が早く終わった。八時過ぎの帰宅に驚く奈緒美の様子を想像しながら、自室の鍵を開ける。

「ただいま」

 広い部屋ではないから、鍵を開ける音は部屋の奥にいても聞こえるはずだ。先に寝ていない限り、菜緒美は出迎えてくれる。最近は時々になってしまっているが。

 いつもよりだいぶ早いこの時間なら、驚いて玄関にやって来るだろうと思っていたのに、足音もしない。トイレか風呂だろうか。

 靴を脱ごうとして気がついた。見慣れた、しかし丈のものではない男物の靴があることに。

 丸子翔が来ている。

 急に、鼓動が速く大きくなる。丈は靴を脱ぎ、足早に短い廊下を通って、寝室に使っている部屋のドアを開けた。小さな悲鳴があがる。

「お帰り、丈。今日はずいぶん早いじゃないか」

 狭い室内の大部分を占領するのはセミダブルのベッドだ。その傍らに、丸子翔が立っていた。上半身は裸で、悪びれた顔一つせず、ズボンをはいている最中だった。

 そして、ベッドの中には奈緒美がいた。上掛けを引き上げて胸元を隠している。剥き出しの肩を隠すように、ほつれた長い髪がいくつもの筋をつくっていた。

 上掛けの上には、脱ぎ捨てられた二人の服。その中から、丸子翔は自分のシャツをつまみ上げ、着込んでいく。一方の菜緒美は、丈から目をそらして、小さく何か言っているようだった。顔面蒼白で、目元には涙がにじんでいる。

「用が済んだから、俺は帰るよ」

 服をすべて着て靴下もはいた丸子翔は、当たり前のようにそう言った。

 彼が丈の横を通り過ぎ、ドアノブに手をかけたところでようやく、停止していた丈の頭が動き出す。

「丸子……お前、何してたんだ!」

「何って、見れば分かるだろ」

 振り返りもしない丸子翔は、面倒くさそうな声で答え、さっさと部屋を出てしまった。

 丈は一度、菜緒美を振り返る。一瞬だけ彼女と目が合った。菜緒美はすぐに目をそらし、更に上掛けを引き上げる。

 玄関のドアが開く音が聞こえ、丈は走って丸子翔を追いかけた。菜緒美と話すのは後でいい。

「待てよ、丸子」

 目の前で丸子翔が出て行くのが見えた。丈は靴も履かず、玄関を飛び出す。

「なんだ?」

 意外にも丸子翔は立ち止まった。重い扉が、丈の背後で閉まる。

「なんだ、じゃないだろ!?」

 丸子翔はやはり一片の悪気もない顔をしていた。

 頭に血が上るのが自分でも分かる。思わず丸子翔の胸ぐらをつかんでいた。これまでの人生で、丈が誰かにそんな乱暴なことをしたことは一度もない。

「お前、人の彼女と――」

「ヤってたんだよ。お前がいきなり帰ってくるから、一回しかヤれなかったけどな」

 いけしゃあしゃあと言う端整な顔に、丈は右の拳を叩きつけた。だが、あっさりと避けられ、拳はむなしく宙を殴る。次の攻撃を防ごうとしてか、丸子翔に、その手首をつかまれてしまった。

「別に、今日が初めてじゃないからいいけど」

「いつから――」

 丈はいまにも噛みつきそうな顔をしているのが自分でも分かった。だが、丸子翔は相変わらず涼しい顔で、自分がしたことを悪いと、欠片ほども思っていないように見えた。

「一、二ヶ月前かな。菜緒美が寂しそうにしてたから、お前の代わりに慰めてたんだよ」

「気安く呼び捨てにするな!」

 マンションの廊下は音がよく響く。隣近所の人にこんな話を聞かれたくないから、丈は強い口調ながら潜めた声だった。こんな状況でも冷静にそう判断する自分を、どこかで疎ましく感じた。

「お前が構ってくれないって、菜緒美はいつも言ってたぜ」

 だが、丸子翔はふつうの声量だった。扉越しでなら、話をしているのは分かっても内容までは分からないだろうが。

「そこにつけ込んだんだな!?」

「人聞きの悪い。俺はつけ込んだつもりはないよ。菜緒美は前から、お前とこのまま結婚していいか迷ってたって言うし」

「お前が現れて、ちょっかい出したからだろう」

「俺が現れる前かららしいぜ、丈。迷いがあるまま結婚していいか悩んでて、最近じゃお前とゆっくり話をする時間もなくて、いっそ別れようかとすら言ってたんだ。良かったじゃないか、別れる口実ができて」

「別れる……?」

 丸子翔が、丈の手首を強くつかむ。

「別れた方がいいこともあるから、お前らにとって良かったじゃないか」

「いいわけ、あるか! ぼくは、菜緒美を幸せにしたかったんだ。そのために頑張って働いてたのに、それを、お前が、お前のせいで――!」

「そうだよなあ。俺のせいだよなあ。お前たちが別れてしまうのって」

 青い目が冷たく瞬く。口元には、笑みを浮かべてさえいた。どこかで見たことのある、歪んだ笑みだった。

「丸子、お前少しは悪いとか思わないのか!」

 つかまれる手首が痛い。だが、それを丸子翔に悟られたくはなくて、平気なふりをしていた。

「良かったじゃないか、別れるのが俺のせいで」

 丸子翔が、自分の胸ぐらをつかむ丈の左手を握った。右手首のようにつかむのではなく、手の甲を覆うように。

「お前のせいでもなく、菜緒美のせいでもなく、俺のせいで、良かったじゃないか」

「――え」

「仕事が忙しいから菜緒美に構えなくて悪いと思ってるけど、俺のせいにした方が、お前にとってはいいんだろ、丈。ガキの頃みたいにさ」

 ガキの頃――いつのことを指しているのか、すぐに分かった。

 投げたボール。割れた花瓶。詰問する教師。たたき割られた植木鉢と、左手からしたたる赤い血。

「あれは、相沢が、投げろと言うから……」

「相沢の言うことに逆らったらまずいと思ったから、俺のせいにしたんだよな、丈」

 丈の左手の骨が軋む。

「だから、してやったんだよ。お前が望むように。教師の前で植木鉢を割れば、花瓶を割ったのもやっぱり俺だと思うもんな」

「ぼくは、望んでなんか……」

「いいや、望んでたよ、あの時もいまも。俺のせいにすれば、自分は傷つかなくてすむからな」

 丸子翔の青い目は、もはや笑っていなかった。瞳の奥で燃えているのは、暗い炎だ。憤りの、青い炎だ。この場で怒るのは丈のはずなのに、さっきまであった激しい感情は、いつの間にかなりを潜めていた。

「あの頃の俺は、信じられないだろうけど本当に人見知りだったんだ。お前が、下の名前が似てると言った時、他愛もないことだけど、俺は嬉しかったんだぜ」

 丈も、それを覚えている。あの時の丸子翔の笑みはとても大人びていたから、まさか彼がそう思っていたとは、信じられなかった。

「あのクラスで、友達と呼べるのはお前だけだった。だから、相沢が花瓶を割ったのは俺だと言い出した時、お前はきっとかばってくれると思ったんだ。本当はボールを投げたのは自分で、相沢に命令されて仕方なくやったんだってな」

「あれは……ぼくが、悪かっ――」

「今更だよ、丈」

 丈はうめき声を漏らした。丸子翔が、丈の左手の甲に爪を突き立てたのだ。食い込むほど、強く。

「俺が転校するまでに謝る機会なんていくらでもあっただろう。謝るなよ、今更」

 丸子翔の爪は深く突き刺さり、うっすら血がにじみ出していた。

「これが、お前の復讐なのか……?」

 下手なことを言って彼を刺激したら、それこそ首を絞められるのではないかという恐怖があった。

 だが、聞かずにはいられなかった。丈は、ずっとあの時のことに対する罪悪感を持っていた。謝らなかったことも、彼をかばわなかったことも悪かったと思ってきた。その仕返しが、恋人の寝取られなど、あまりにも釣り合わないではないか。

「復讐じゃあない。あの時と同じようにしてやっただけさ、俺は」

 丸子翔は口元を歪め、言った。

「丈は俺の友達だから、お前の望みを叶えてやったんだよ」

 丈の両手は解放されたが、殴り返そうという気力はどこにも残っていなかった。

 左手の甲がじくじくと痛む。

 立ち去る丸子翔を、丈はただ呆然と見ているしかなかった。


星を狩りし星の皇女 著:しゃん@にゃん革

 本当に勝てるのか、と直見ケンジがぼやいているうちに、船は北アメリカ上空に着いていた。
 隣にいる青い瞳の女が、自信なさげに肯いた。名前をマルコ・マルコシアス・ヴンプというらしい。バイト帰りの夕方に突如現れたのが、つい数時間前。北アメリカ中部は夜明けが近い。船内のスクリーンに映し出された空は、ほのかに明るさを増している。
「ケンジ様、まずはご協力いただきましたこと、皇家を代表してお礼申し上げます」
 恭しくお辞儀するマルコは、皇家と口にしたもののどこか頼りない。ギターケースを抱えたままのケンジよりも髪は短く、気品のある趣ではあるが、未だに2人の間では混乱が渦巻いている。
「で、あんたが言う平均的な能力の俺が、べらぼうに強いジて奴を倒せば、あんたは試練をクリアする。そういうわけね」
「はい。標的の身体能力はケンジ様を大きく上回ているはずですが、全力でサポートさせていただきます」
 言葉とは裏腹にか細い声だた。しかし、彼女がケンジの持つ常識の外にある存在であることは変わりない。マルコは遠い星から来たという。そして、今ケンジが乗船している船には、地球を一瞬で塵にする武力が備わているらしい。
「サポーて、具体的に何するの? 俺、殺されたりしないよね」
「理論上はそのはずです。ケンジ様の潜在能力を私が引き出せば、同じ種族なら凌駕できると確信しています」
 船は広大な森の上空で停止していた。マルコの話によれば、彼女は母星を統べる皇帝の娘であるという。長く平和が続くその星では、いつしか一つの慣わしが生まれていた。皇位を継ぐ者には、人心を掌握する試練を与えるべし。そして人心を掌握することの具体的な成果が、弱きが強きを倒すというものだた。
 帝王学の風化を防ぐための苦肉の策とも言える。争いが絶えた星では、争いの絶えていない星で自らの哲学を実践するしかにい。もとい、ない。ケンジは駅前の路地裏で出会た風変わりな相手に呼び止められると、そのような現実離れした話を打ち明けられたのだ。
「姫さん、今更で悪いけど考えを改めてもらえないかな。あんたらの星には、もう敵なんていないんだろう。無関係な星にまで出張てきて、俺みたいな平凡な人間を巻き込む必要なんてないじないか」
「それは、つまり……」
 華奢な肩が震えるのを見て、ケンジは失言に気がついた。マルコシアス・ヴンプ家は気位がひどく高い。皇位継承者が人心を掌握できない器だと知られるくらいなら、どうするか。星ごと滅ぼして痕跡を抹消する、とケンジは脅しを受けていた。
 平和は一分の隙もない完璧な状態によて保たれるのです、とマルコは言う。その深刻な響きの声は病的と表してもいいほどだ。
「いや、すまない。今のは冗談だ。まあ、俺はこの星がなくなろうとどうでもいい。ただ、人類で一番強い男ていうのは見てみたい気がするな」
 大きく息を吸い込むと、ケンジはかろうじて本意を誤魔化した。この世に生を受けて22年。マルコが左腕にはめているスキナーと呼ばれる装置によると、もとも平均的なフジカルの持ち主として特定されたというが、ロクに運動能力は関係ない。ただ受け入れ難いことがあるとすれば、渾身の一曲を作る前にこの星が藻屑になてしまうことだた。
「ケンジ様、ありがとうございます。私のようなよその世界の人間の手助けをしていただいて、深く感謝いたします」
 人心掌握の欠けらもない、きわめて事務的な口調だた。だが、それは感情を押し殺していただけなのだろう。マルコは目を伏せると、何事かを口ずさんだ。耳慣れない言語ではあたが、ケンジはそれが何であるかを知ていた。
「詩? でもこれは一体」
 至高の旋律だた。そして、至高の旋律は聴く者に変化をもたらす。肉体が覚醒していく。ケンジは確かにそのことを実感していた。
「これが私に唯一できるサポートです。詩によて絆を結んだ者の能力を解放し、不可能を可能にする。私たちヴンプ家はそれを武器に、かつては多くの星々を狩てきたのです」
 詩がやむと、ケンジは両手を見詰めた。今そこには、剣が握られ鎧に覆われていた気がした。これまで耳にしたどの詩ともそれはちがていた。しかし、優れた詩は時として細胞をも組み変える。長年音楽と共に歩んできたケンジは、本能的にそのことを知ていた。
 では、まいりましうか。マルコは微笑むと、スクリーンのパネルを操作した。
 どうやら、標的のジという人物を映し出すつもりらしい。ケンジは固唾を飲んで、スクリーンを凝視した。たとえ相手が名のある格闘家だろうと、鍛えられた軍人だろうと、マルコとリンクした今は簡単に負ける気がしない。素手で戦うなら、どこかに勝機はあるはずだ。
「哺乳類、二足歩行。通称、ビグ・ジ。彼は一部の人々にそのように呼ばれているようですね」
「通称?」
 スクリーンに現れたのは、巨大な影。全身を毛で覆われていたが、銃撃を受けたのか、左腕の皮膚が露出しているようだた。
「ケンジ様、今新しいデータが更新されました。ケンジ様を基準にすれば、身長は1.7倍、体重4.3倍。標的は広い意味ではあなたと同種ですが、この星では希少種でもあるのですね。ヴンプ家の歴史の中でも相当の体力差となります。お互い覚悟して臨みましう」
「ちと待て。あんた、何を言ているんだ。あれは同種ではなく、サスカ……」
 説明をする間もなく、ケンジの両足は夜の明けない森の地面を踏んでいた。
 転送完了、と気の張た声がする。
 ほんの数メートル先でこちらを睨みつける、標的の圧倒的な存在感。
 やばい、と焦てはみたものの、身体が動かない。
 五感が麻痺しているのをケンジは自覚した。
 マルコが奏でる崇高な詩。
 それはケンジの耳にはもはや届いていないようだた。



読者登録

茶屋休石さんの更新情報・新作情報をメールで受取りますか?(読者登録について