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もう随分前から、彼女は記憶することが出来なくなってしまった。

最初は小さな変化だった。

物を何処に置いたかわからなくなったり、最近会った人を思い出せなかったりと、日常に支障のないくらい、些細なものだった。

しかし、時が経つに連れて段々と忘れる事柄が大きくなっていった。

同時に、現在から過去に向かっての記憶が1日ずつ、崩れるように無くなっていった。

今ではせいぜい学生の頃までの記憶しか脳の中に保存出来ていない。

そして、その日の記憶ですら、眠る度に無くしてしまうのだ。

だから僕はもう長い間、同じ1日を気の遠くなる程繰り返し演じている。

 

ある時は知り合いに声をかけられ混乱して倒れた。

ある時は目覚めてすぐに真実を知って暴れて気を失った。

ある時は鏡に映る自分を見て記憶と老いのギャップに発狂した。

 

幾度も幾度も彼女を苦しめる結末を見てきた僕は、今度こそは何もない1日を過ごさせてやりたい、今度こそは、今度こそは、と完璧な1日のシナリオを作り続けた。

事故の後遺症だと嘘をつき、恋人などと偽り、毎日同じ食事をし、誰にも会わず姿の映ることのない道を歩き、同じ時間に眠らせる。

まるで彼女と二人、残酷な本の中に閉じ込められたように。

何度も何度も繰り返すのだ。

 

いつしか、彼女は貘になったのだ、と思うようになった。

夢を食べるという、あの幻獣に。

貘は人の夢を食べなければ生きていけないか弱い生き物。

しかし、食べるために人を傷付けたりはしない。

人の夢を少しだけ食い破るだけだ。

彼女はそれすらも耐え兼ねて、自分の夢現の記憶を食べて生きている。

自分を食べて生きることしか出来ない、優しい優しい貘なのだ。

それは何と愛おしい生き物なのだろう。

 

僕はこの人の来ない一軒家で、今にも絶滅してしまいそうな可哀想な生き物とひっそりと暮らしていく。

 

誰も読まない本の中で、明日も明後日も永遠の1日を繰り返す。

 

彼女は貘になったのだ。

 

優しい貘になったのだ。


この本の内容は以上です。


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