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1

彼女は、獏になったのだ。

 

朝、彼女が起きるより少しだけ早く起きて、簡単な朝食を用意する。

朝食の内容は毎日同じ。

ハムと目玉焼き、ブロッコリー。

そしてココナッツオイルとハチミツをかけたトーストが半分だけ。

ココナッツオイルは最初、悪い魔法が解けるかもしれないと、半ば咒(まじない)のつもりで使っていたが、今ではただの習慣でそれ以上の意味はない。

彼女の枕元の目覚まし時計が9時を指すと、ベルが鳴る前に僕がそれを止める。

「おはよう。」

そう言いながら、彼女の頬を撫でてやさしく起こす。

目を覚ました彼女は10代の少女のようなあどけない仕草でゆっくりと辺りを見回す。

「昨日、車で事故にあっただろう。エアバッグが作動したから怪我はなかったけれど、強い衝撃を受けたから、少し記憶が混乱しているんだ。僕が誰か思い出せる?」

僕はいつものお決まりの『台詞』を彼女に語りかける。

何度も試行錯誤した結果、僕は彼女が一番ショックを受けないであろうシナリオを書きだすことが出来たのだ。

「…ごめんなさい、わからないの。」

不安そうな声でそう呟く彼女に、僕は極力ゆっくりになるように言葉を続ける。

「僕は君の恋人だよ。もっとも、つい半年くらい前に知り合ったばかりだから、混乱して忘れてしまってもおかしくはないけどね。」

それを聴いた彼女は、暫く僕の顔を覗き込んで目を見張り、難しい顔をして黙り込み、その後恥ずかしそうに顔を赤らめながら、困ったように笑顔を作る。

「本当にごめんなさい。家族のことや学校のお友達のことはわかるのに…。目が覚めたら何年も眠っていたような気分なの。」

僕は一瞬ドキッとし、すぐに表情が変わっていないか注意しながら次の『台詞』に取り掛かる。

「暫くすれば記憶も戻るだろうとお医者様も言っていたよ。さあ、朝ごはんを食べて。それが終わったら気分転換に少し外を歩こう。」

「…うん。ありがとう。」

「焦って思い出そうとしなくていいよ。はじめは頭に靄がかかっているような感じがして、はっきり考えられないだろうから。」

「…うん。」

もっともらしい台詞を吐きながら、余計な事を考えないように彼女を諭す。

ここまではシナリオ通りに進むことが出来た。

僕は何度も繰り返した1日のシナリオの続きを思い出していた。

 

 


2

朝食を食べ終えた彼女を連れて、家の外に出る。

ここは街から随分離れた、車も通らない山奥だ。

彼女を連れて来るために、わざわざ知人から家を譲ってもらった。

仕事も辞めた。

趣味だったドライブや旅行も一切しない。

人との付き合いも、ほとんどやめてしまった。

「ここは僕の叔父の別荘なんだけど、静かで人も来ないから、君が安心して休めるようにって借りたんだ。」

「そうだったの。わざわざありがとう。」

「僕も気分転換したかったから、丁度いい機会だったよ。」

こんな嘘も、今では息をするように自然に出てくる。

「じゃあ、散歩しながら君と僕の出会いから順に話をしてあげようか。」

少しおどけた風に話し出すと、彼女も少し笑いながら興味深く聞いていた。

 

出会った場所や、初対面での印象。

 

初めて二人で出掛けた時の話。

 

くだらない喧嘩の内容。

 

プレゼントを選ぶのに苦労したこと。

 

夕方になるまでは、終始この話で尽きない。

 

散歩の時は、毎回同じルートを通る。

川のない道へ。池のない道へ。

何度も試した結果、最後まで無事に通れたのは、唯一このルートだけだったのだ。

散歩から帰り、昼食の間も、僕はひたすらありもしない思い出話を滑稽に喋り続け、彼女はまるで御伽噺を聞くかのように、楽しそうに耳を傾けた。

家の中は徹底して鏡や硝子は捨ててしまった。

そうでないと、シナリオの邪魔になってしまうから。

 

此の所の僕は、1日がシナリオ通りに上手くいくこと位にしか、興味がなくなっていた。

 

狂っていくのは彼女だけじゃない、僕もだ。

 

 


3

夕方、彼女がお風呂に入りたい、と言い出した。

この瞬間、僕は毎回緊張する。

普段は「お医者様が今日は駄目だと言っていた」で通すのだが、数日置きに入浴はしなければならない。

僕は覚悟を決めて答えた。

「じゃあ、僕が洗ってあげるよ。怪我は無いけれど、あちこちに痣が出来ているから、見るとショックだろう。目を閉じていてくれるなら、お風呂に入ろう。」

彼女は慌てて嫌がって見せたが、僕が淡々と準備を始めると、真っ赤な顔をしたまま、黙って従った。

湯船にお湯を張り、入浴剤を多めに入れる。

浴室の電球が切れているからと、小さなキャンドルだけを点ける。

恥じらう彼女を無視して、服を脱がせ、すぐに湯船に座らせる。

彼女にはまだ、自分の身体を直視させたくないのだ。

10代に戻ってしまった彼女を余計に混乱させるだけなのだから。

 

夜は温めたシチューとライ麦のパンを一緒に食べる。

「明日は調子が良さそうなら一緒に病院に行こう。」

「うん。体調は大丈夫。でもまだあまり思い出せないの…。」

「それは焦らなくていいから。忘れたままでも構わないよ。」

「…ありがとう。」

そんな会話をしながら食後のカモミールティーを飲む。

睡眠導入剤をこっそり混ぜておいたのは、その方が彼女が深く眠れることがわかっているからだ。

程なくして、彼女をベッドに誘導する。

「なんだかとても眠くなっちゃった。よく眠ったら明日には全部思い出すかしら。」

「…そうだね。ゆっくりおやすみ。」

「うん。おやすみなさい。」

そう言って目を閉じるとそのまますぐに寝息が聞こえてくる。

僕はその場をすぐに離れずに、暫く彼女の手を握りながら安らかな寝顔を見つめる。

 

彼女は、貘になったのだ。

夢を食べるという、あの貘に。

 

 


4

もう随分前から、彼女は記憶することが出来なくなってしまった。

最初は小さな変化だった。

物を何処に置いたかわからなくなったり、最近会った人を思い出せなかったりと、日常に支障のないくらい、些細なものだった。

しかし、時が経つに連れて段々と忘れる事柄が大きくなっていった。

同時に、現在から過去に向かっての記憶が1日ずつ、崩れるように無くなっていった。

今ではせいぜい学生の頃までの記憶しか脳の中に保存出来ていない。

そして、その日の記憶ですら、眠る度に無くしてしまうのだ。

だから僕はもう長い間、同じ1日を気の遠くなる程繰り返し演じている。

 

ある時は知り合いに声をかけられ混乱して倒れた。

ある時は目覚めてすぐに真実を知って暴れて気を失った。

ある時は鏡に映る自分を見て記憶と老いのギャップに発狂した。

 

幾度も幾度も彼女を苦しめる結末を見てきた僕は、今度こそは何もない1日を過ごさせてやりたい、今度こそは、今度こそは、と完璧な1日のシナリオを作り続けた。

事故の後遺症だと嘘をつき、恋人などと偽り、毎日同じ食事をし、誰にも会わず姿の映ることのない道を歩き、同じ時間に眠らせる。

まるで彼女と二人、残酷な本の中に閉じ込められたように。

何度も何度も繰り返すのだ。

 

いつしか、彼女は貘になったのだ、と思うようになった。

夢を食べるという、あの幻獣に。

貘は人の夢を食べなければ生きていけないか弱い生き物。

しかし、食べるために人を傷付けたりはしない。

人の夢を少しだけ食い破るだけだ。

彼女はそれすらも耐え兼ねて、自分の夢現の記憶を食べて生きている。

自分を食べて生きることしか出来ない、優しい優しい貘なのだ。

それは何と愛おしい生き物なのだろう。

 

僕はこの人の来ない一軒家で、今にも絶滅してしまいそうな可哀想な生き物とひっそりと暮らしていく。

 

誰も読まない本の中で、明日も明後日も永遠の1日を繰り返す。

 

彼女は貘になったのだ。

 

優しい貘になったのだ。


この本の内容は以上です。


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