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ビールの朝

【ビール】(名詞)

 アルコール飲料。主に、麦芽をビール酵母で発酵させて作られた飲料のことを指す。ここにホップという植物で香り付けをする場合が多く、清涼感と苦味が脳天を突き刺す魅力がある。

 

-とオンナ】(仮名、本題)

 

 そのオンナはいつもビールを飲んでいた。

 

 自分もお酒は飲むほうだけれど、それはあくまでも一時的なノリと高揚感なのであって、飲料という意識はあまりない。

 でもそのオンナの冷蔵庫にはいつも缶ビールがあり、その隣にあくまで脇役の様相で水が置いてあるけれど、それ以外の飲み物はいっさい常備していない。お茶とかコーヒーとか飲まないの?と聞くと、「ヤカン捨てちゃったし」と理由にならない言い訳をする。

 初めて会った日もオンナはビールを飲んでいた。いや、正確に言うと初めて会って一緒に飲んだときの様子は、自分のほうにかなり問題があってよく思い出せないのだけれど、翌日、朝からビールを飲む姿はオンナのイメージとして今でもはっきりと思い出せる。そう、自分は泥酔した夜にオンナの部屋に転がり込んでいたのだ。

 酒を飲んだ翌日に自分がどこにいるのか全くわからない、という失態はこの時まで一切経験がなかったけれど、前日に飲んだ濃いハイボールのせいで、ほんの数時間前の出来事がスコンと抜け落ちていた。

 薄く開いた視界には、古ぼけた電球が見え、床にじかに置いてある古いテレビが見え、朝陽が痛いほど差し込むカーテンのない窓があった。

「あ、起きた?」

 若いオンナの声がする。どきりとして飛び起きた。見下ろすと、上半身が裸で、ヨレヨレのパンツ一枚という恰好の自分がいる。

「え?え?」

 頭を巡らせると、視界にはハネた髪がヒラヒラと映った。自分は今、ずいぶんひどい状況のようだ。

 と思ったら、頭が急にガンガンしてくる。驚きで麻痺していた二日酔いが、一斉に身体の中で暴れ出した。

「いててててて」

 頭はズキズキするし、胃がムカつきを押し上げてくる。おまけに腕と足がじんじん痺れていた。いったい何が起きているのかわからないほど、全身が壊れていた。

「あははは、ひどい二日酔いだね。ビール飲むー?」

 オンナの声にふたたび我に返った。部屋の隅に配置された小さなキッチンに寄りかかって、オンナは缶ビールを飲んでいた。ビールと聞くだけで鳥肌が立つ。

「いえ、結構です」

 喉がイガイガして、声がうまく出ない。このオンナは誰なのだ?という疑問がうまく処理できなかった。その前に自分のほうこそ誰なのだという壁にぶち当たる。

 ここはどう考えても自宅アパートではない、ということは自然とここはオンナの部屋であることが伺える。

「じゃあ水にしとく?」

 オンナはすぐ横にある小さな冷蔵庫からペットボトルの水を出して、こちらに投げた。

 バウンドした水が、自分の足元に着地して、キラキラと朝陽に輝く。恵みの水、という言葉が浮かんだ。

 もう我慢ならずに、キャップを開けごくごくと全身に注ぎ入れる。いろいろと疑問はあるけれど、そんなことを言っている場合ではない。

「お、いい飲みっぷり」

 オンナはカラカラと笑って、床のゴミを拾い始めた。片付いているとは言いかねる部屋で、狭いワンルームにはまるで統一感がなかった。中心に敷かれた布団の上でぼんやりしながら、オンナをじっくり観察する。

 化粧っけのないつぶらな瞳、色白の肌にはそばかすが浮いていて、くるくると巻き上がったショートヘアは色素が薄くて金髪にも見える。全体的に薄い印象のオンナは、手足がほっそりと伸びていて異国の少年のようだ。

 というか、どうして自分はこんなところでパンツ一枚で二日酔いになっているのだろう。頭の中が曖昧で、目の前のオンナのことも思い出せない。

 ふと枕元を見ると、コンドームの箱が中身を飛び散らせて転がっていた。

 うわ、マジか。

 思い出せない、自分は昨夜もしかしてこのオンナとそういうことになっちゃったのか?思わず股間に手が行く。

「あ、心配しないで、ソレ使うようなことしてないし」

 オンナはコンドームの箱を拾い上げ、中身を乱暴に押し込んでこちらに放り投げた。反射的に身を引く。ほっとしたような、気まずい空気が胸にうずく。

 オンナはそんなことは気にも留めず、布団のまわりを一周するようにして、床に散らばるチラシや雑誌、丸まったティッシュやコンビニの袋などを手に持った袋に次々と投げ入れ、その口をきゅっと締めた。

「ゴミの日、今日」

 オンナは、自分の行動の意味をそう短く説明し、短パンにパーカーという恰好のまま、外に出て行った。

 外階段をカンカンと下りる音が響く。改めて見回すと、あんまりキレイじゃないワンルームの部屋の中(恐らく2階)、パンツ以外の衣服を全て脱ぎ捨てたオトコが1人、布団の上にぽつんと座っている図が出来上がる。

 昨日着ていたスーツの上下、ワイシャツ、ネクタイに靴下は、部屋の隅に丸まっていた。いつ脱いだのかも覚えていない。

 皺になるな、アレ。

 と考えたところで頭痛がまた蘇ってきた。胃の中のムカムカが膨張し、また喉元までせり上がってくる。たまらずペットボトルの水を含み、「あぁ!」とうなり声を上げるとバタンと横になった。湿った布団は全然温かくなくて、すっかり気分が落ち込んでくる。

 やっちまったな。嫌な予感はしていたけどまさかこういう展開になるとは予想していなかった。自分が、見も知らないオンナの部屋に転がり込んで二日酔いで目覚めようとは。おぼろげに浮かぶ昨夜の出来事の中に、どこかのトイレで吐いている自分がいた。相当ヨレヨレだったに違いない。飲み足りず、ふらつく足で手近なバーの扉を押したところまではかろうじて記憶があった。そこからどうやってこの部屋に辿り着いたのか。

 さて、どうすればいいんだ。何だ、この面倒くさい状況は。

 ただ、考えるには全く適していない状態の現実逃避の意識は、またウトウトと眠りに引きずり込まれる。

 それにしてもあのオンナ、いったい誰なんだ?

 

「あたし、そろそろ出かけるけど」

 ゆらゆらと肩を押され、微かな覚醒の隙間にオンナの声が揺れている。薄く開いた視界の中にオンナの顔があった。

 は?誰だこれ?

「バイト、行くの。今から。もう少し寝てる?」

 オンナの顔はすっかり化粧が施されていて、見事に仕上がっている。くっきり縁取られた瞳と濃い睫毛はつぶらな瞳を何倍にも大きく見せていたし、くっきりまゆ毛とてらてらと光るグロスが、キュートな魅力を発散する。視界がぱっと開いた。

 思い出した、このオンナだ。

 自分が昨夜、絡んで、口説いて、しなだれかかったオンナの顔が記憶の底からふわりと浮かんだ。

「今・・・何時ですか?」

「んー、土曜日の昼1時ってところ。まだ寝ててもいいけど、出かけないよね?余ってるカギないんだけど」

 オンナの声に「帰らなきゃ」と呟くのだけれど、胃のムカムカが舌のざらつきを復活させるし、こめかみがジンジンしてとてもまだ起き上がれる状態ではない。どうしちゃったのだ、自分の身体は。

「まだ動けないって感じでしょ。あたしは今からバイトで、今日は7時くらいに帰るから。まぁ寝ててよ」

 そうオンナは素っ気なく言うと、体を伸ばしてさらりと出て行った。バタンとドアが締まり、カギをかける音がする。ぼんやりとそれを見送ってから、身体をまた横たわらせた。ひどい二日酔いでも大抵昼まで寝ていれば治るのに、今日はダメだ。もうトシなのか。

 そんなことより、物騒だな。オトコを1人、空になった自宅にいさせて何かされるとか思わないのだろうか。いや、自分は断じてお金を盗ったり、オンナの弱味を握るべく部屋中を探索したりはしないのだけれど、そういう輩がいてもおかしくないだろうに。やたらに警戒心の低いオンナだ。大丈夫か。それとも、あらゆることにゆるい女なのだろうか。

 そこで、はっと自分の財布は大丈夫なのかと焦り、失くしたら大変だし早く確かめなきゃと思ういっぽうで、内臓全てがそれを押し返してくる。

 考えながら、また睡魔に襲われてきて目が閉じた。この部屋に漂うバニラの香りが鼻腔をくすぐって、眠りへ誘っているようだ。これは女の匂いだろうか、甘い女。混濁していく意識の中でオンナがコーヒーに溶ける夢を見た。


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