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王城

 アシュは軍装を解き、長いマントに身をつつみ、旅人を装ってアルメノの市門前に立った。ラード兵がいないと聞いている南門だ。そして、叫んだ。
「開門!」
 門やぐらから声が返る。
「何だ、お前は? 今は特別な許可がない限り誰も市に入れないぞ。例外はなしだ」
 アシュは不安に思った。詳しいことは何も聞いていない。本当に通してくれるのだろうか、この一言で。
「ハザーの使いで来た」
 すると、門の内側で言い合う声が聞こえ、門がわずかに開いた。
「入れ!」
 本当に開いた……。
 半信半疑だったが、開門のきしみ音とともにアルメノ市内部が徐々に開けた。
 門には幅広の道路が続きその脇に家々が並んでいた。遠くに高く聳えているのは王城の塔。
 アルメノ入りしたアシュはヒューと口笛を吹くと、王城に向かって道路を進みかけた。しかし、すぐに呼び止められた。
「失礼……」
 慇懃な男がアシュの前にやってきて一礼した。上品な立ち居振る舞いで、兵士には見えない。「お預かりします」とアシュが身につけていた剣を取り、さらにアシュの体を軽く叩いたりさすったりして調べた。身体検査が終わると、再び一礼し、懐から布を取り出した。
「目隠し?」
「はい」
 男はアシュの目に布を当てて、後頭部でぎゅっと結んだ。それからアシュは籠に乗せられた。
 しばらくまっすぐ進んだが、そのうち下降する感じがした。
「坂?」
 さらに、空気がひんやりとしてきた。
「地下道にでも入ったのかな? 秘密の通路ってやつか」
 籠は何度も曲がりながら進んだ。
「ずいぶん入り組んだ通路だな。あっ、また坂だ」
 籠が再び上昇、空気も暖かくなった。アシュは目隠しのまま籠から下ろされ、しばらく歩かされた。平らな床、風をさえぎる壁……。すでに野外ではなく、建物の中であるということだ。
 ここでも、右に曲がったり、左に曲がったり、上がったり、下がったりしながら、進まされた。
 そして、やっと目隠しを外されたとき、そこは明るい部屋だった。中央には四角い机があり、壁には果物や野菜、さまざまな料理の絵が描かれている。食事の間であろうか。
「王城?」アシュは目をパチパチさせながらつぶやいた。答えを期待していたわけではなかったが、
「そうです」と男が答えた。アシュに目隠しをしたのも取ったのもこの男だった。二十代後半と思われる。礼儀正しく落ち着いた振る舞い、侍従の一人といったところであろうか。肩にかかるほどの黒髪は少し癖がある。ほとんどいつも頭を下げ、前かがみになっているので、顔がよく見えない。このときも長い前髪が垂れて片目が隠れていた。
 男は突然ひざまずいた。
「国王陛下ご夫妻のおなりです」
「え?」
 王と王妃らしき熟年の男女、そしてその後ろに若い女性が一人、入ってきた。先頭の男女に顔が似ている。おそらく王女。アシュの視線は、当然のことであるが、若い王女を追っていた。急角度の上がり眉のために、少々キツめの顔立ちだが、器量はいい。
 三人はアシュから数歩離れたところに並んで立ち止まった。
 アシュは軽く頭を下げた。こういう高位の人と向かい合ったときのエリースやラードの作法を知らなかったから、鳳凰山方式の挨拶をした。
 頭を少し下げて、ゆっくり上げる。そして右手を胸の辺りまであげた。普通はもう少し相手に近づいてする挨拶なのだが、いきなり王に近づいては怪しまれるような気がして、やめた。
 その辺の距離感もアシュは鳳凰山を下りてから学ばなければならなかった。鳳凰山では人と人の距離がわりと近かったのだ。エリースでは馴れ馴れしいと言われた。女性には誤解された。といっても、誤解した女性が、アシュに接近してくるケースもあり、そんなときは、そのまま口説けばよいので好都合だった。
 だが、この場の相手は異国の王だから失礼がないようにしないといけない。
「変わった挨拶だこと」王妃は軽く微笑んだ。
「エリース神官の挨拶だ」
 王は神官とも直接接したことがあるようだった。
「そ、そうです」
 鳳凰山の挨拶はエリース神官の挨拶と似ている。かつて母やシエラと神殿に入ったことがあり、そんな印象があった。しかし、そのとき自分たちは鳳凰山方式で通したし、後にエリース人になるなどとは思っていなかったから、神官たちの振舞いなど、よく見ていなかった。どんな挨拶だっただろう? ここ数年エリースの首都オーマに住んでいるが、アシュは、神殿を「公式訪問」していないので、神官たちの改まった席での挨拶など、記憶の彼方だ。
「しかし、意外だな。もっと年配の男が来ると思ったのだが」
 王は不思議そうにアシュを眺めた。
 やっぱりそうだよなあ……。
 アシュはひきつりながら、お愛想笑いを浮かべた。
「俺はただの使い走りです」
「謙遜をしなくてもいい。ハザーは大貴族にも匹敵する人物を送ると言ってよこした。しかも、剣を持っては、すこぶる腕が立つと」
 はあ??? 剣の腕はともかく、誰が大貴族?
「もっとも大貴族に《匹敵する》という言い方が気になったがね。大貴族ではないということだ。今はともかく将来の出世を約束されているという意味かもしれないな」
「は……ははははは」
 アシュはもう笑ってごまかすしかなかった。
 王が手を挙げて合図すると、広間の机に食事が運ばれてきた。
「どうぞお座りください」
 アシュの後ろに控えていた案内の男が席を勧めるので、アシュは戸惑いながらも礼を言って座った。
 四角いテーブルの一辺に王と王妃が隣り合って着座した。王女は国王夫妻の右手にあたる一辺に、アシュは左手の一辺つまり王女の真向かいにつき、小さな宴が始まった。広間は手すりのある上階から見下ろせるようになっており、そこでは楽師が音楽を奏でていた。最初は竪琴一台だったが、そのうち、笛や、リュートのような弦楽器、カスタネットのような小型の打楽器などが加わっていき、ちょっとした室内楽団になっていった。そして、食事が終わりに近づくとともに、まただんだんと楽器の数が少なくなった。
 アシュはお尻がむずがゆくなるような居心地の悪さを感じた。
 こいつら、何か、勘違いしてないか? 俺は本当にただの使者にすぎないのに……。
 食事が終わる頃、王は言った。
「今日はのちほど、試合を見せてもらおう」
 来た! 剣試合だ。
「はい。心得ました」
 肩の凝るお偉いさんとの食事より、剣技のほうがまだ気が楽だ。
 そのとき、正面から熱い視線を感じた。
 王女さまが俺のことを見ている!
 気は強そうだが、コケティッシュでかわいらしい顔立ち、軽やかなしぐさや指の動きが上品かつセクシーだったので、アシュも悪い気はしなかった。王はともかく、少なくとも王女にはすでに気に入ってもらえたように思った。
「お名前をうかがってなかったわ」
 そう。妙なことに今の今まで名前すら聞かれなかった。
「アシュ……です」
 正直に名乗った。
「私はブリュー。知ってるわね」
「はい」と一応返事をしておいたが、アシュは異国の王室の構成員をすべて諳んじているわけではない。実のところ、「言われれば、そんな名前があったなと」いう程度だった。
 王女は食事の間中ずっと意味ありげな目つきでアシュを眺め回していた。よく動くその瞳の色はポンペイアンレッド。
 アシュはベラチェクは初めてだった。エストラを通り過ぎ、ベラチェクを横断してきて思ったのだが、メノ南岸諸国では着ている衣服がみな似ていた。中~上層階級の人々はみな白い丸首半そでの長衣を身に着けている。男のそれは膝丈程度だが、女はくるぶしまである。ただ白無地である点においては王も王妃も、案内の者も、食事を持ってくる召使もみな同じだ。違いは肩からかける布の素材や色にあった。召使の者は細い紐状のもの、案内の男はやや幅のある布、そして王はたっぷりと重みのありそうな布を羽織っていた。男の羽織る布の色や柄は概して地味である。多くは白無地に縁模様がある程度。女性は薄くて軽いが派手な色の布を掛けている場合が多い。このとき王妃は紫、王女は赤い布を掛けていた。
 まるで制服のようだとアシュは思った。エリースで服装が決まっているのは軍人と神官ぐらいで、それ以外は何でもありだった。一般人の服は、形も色も長さもまちまち。強いて言えば、上層階級の人のほうが長い衣を着ているという傾向があるぐらいだ。
 
 給仕に下げられる皿をアシュは残念そうに眺めていた。
 もっとリラックスできるところで、もう一度食べたいな……。
 食事は豪勢だったが、緊張して味わう余裕がなかった。
 せめてもの救いは王も王妃も静かで、あまり話さなかったことだった。いろいろ聞かれたら、変なことを答えてしまうかもしれない。
「では、試合を楽しみにしている」
 王と王妃は静かに立ち上がってゆっくりと退室し、それをアシュは起立して見送った。
 国王夫妻がいなくなると、ブリュー王女も立ち上がって、アシュに近づいてきた。
「じゃ、いらっしゃいよ」
「え? どこへ?」
「こっち!」
 そそと進むブリュー王女にアシュは三歩下がってついていった。さらに後ろには警備兵らしき屈強な男と、門前からアシュをつれてきた男がついてきた。
 食事の間を出ると、四人、長い廊下をまっすぐに進んだ。
 まもなく大きな扉の前で、王女は止まった。後ろのアシュは、王女が止まったのに気がつかなかったフリをして、歩き続け、王女に優しくぶつかってから、「失礼」と言って改めて下がった。
 ぶつかった時にわざとバランスをくずして、王女の肩をつかんだりしたので、振り向いた王女ブリューは険しい顔になっていた。
「城内にもラード兵がいるから、あまりあちこち案内したりできないの」
「それは構いません」アシュは軽く頭を下げた。
「試合まで、私のお部屋で控えていただくわ」
「姫の御座所に入れていただけるとは光栄に存じます」
 本当にそう思った。
 こんなかわいい王女さまの私室に入れてもらえるとは何てついているんだろう。 
 後ろにいた二人が前に出て、重そうな扉に手をかけ、左右に開いた。
 王女とアシュは部屋に入った。
 大きな窓から燦燦と日光が降り注いでいた。
 壁には大きな鏡や絵がかかっている。鏡はひとつだが、絵はたくさんある。風景画や人物だ。一枚の絵は家族の肖像。おそらく王と王妃とブリュー王女。描かれた大人の男女はさきほどアシュが見た現在の国王夫妻よりも格段に若々しく美しい姿で、本人と特定できない程度に違っていたが、眉のつりあがった勝気そうな女の子は間違いなくブリューだ。十年ぐらい前に描かれたものだろうか。
 成長著しい子どもでもはっきりと面影があるのに、大人のほうがわかりにくいというのは、国王夫妻のほうは、絵師がだいぶ美化して描いたのだろうとアシュは思った。
 
 絵を通り過ぎると、数々の調度品が目に入った。どれも装飾の凝った高価そうなものだった。垢抜けたシンメトリックな器の中に、土臭い陶器があった。アシュはなぜか懐かしい感じがした。模様のない茶色の分厚い陶器のうつわだった。非対称でゆがんだ曲線に味があった。
 アシュがじっと陶器を見ているとブリューが
「その器が気に入ったみたいね」
「ええ、まあ……。でも、この部屋には似合わないような気もします……」
「私もそうも思うんだけど……なぜかほっとするのよ。行商人が持ってきたの。遠く東の辺境で手に入れた品ですって」
 東の辺境……。ひょっとして鳳凰山? なるほど、懐かしく感じるわけだ。
 アシュは部屋の隅々を興味深そうに見て回った。
 部屋中を見て回った後も、まだきょろきょろしていた。
 金銀の縁取りのある机や椅子に近づいて、
「触ってもいいですか?」
「ええ。座ってもいいわよ」
「じゃ、遠慮なく」
 しかし、いったんは腰掛けたアシュもすぐにまた立ち上がった。あまり座り心地がよくなかったし、なにしろ王女が立ったままだ。
 奥に別室がある。さりげなく覗きこむと屋根つきのベッドが見えた。
 思わず、はあ~っと、ため息が漏れた。
 そんなアシュに王女は怪しむような視線を投げかけた。
「あなた、本当は何者なの?」
「え?」
「エリースの王族や大貴族なら、こんな部屋を見て驚いたりしないわ」
 うっ、しまった。早速ボロが出てしまった。
 取り繕ってもしかたがない。
「だから、俺はただの使い走りです」
 もっとも、アシュは最初から正直にそう言っているのだ。ベラチェク王家の人々がハザーとやらの言葉を真に受けて勘違いしているだけ。
「それも違うと思うわ」
「どうしてですか?」
「ハザーは真っ赤な嘘はつかないもの」
 ハザーというのはいったい何を考えているのだ?  大神官長ハザー、「大」がつくからには神殿の中でも偉い神官なのだろうが、なぜ俺のことをそんな風に言ったのだろう? それとも最初は違うヤツを使いに出す予定だったのか?
「でも、そんなことどうでもいいわ。あなた、きれいだし。でも、あまり強そうじゃないわね」
 王女は少し残念そうだった。
 マッチョなタイプが好きなのかな?
 アシュはわが身を眺め回した。筋肉質だったが、細身だ。それに甘いマスクがいっそう優男の印象を与えることは本人も気にしているところだった。
 部屋の大きな鏡に自らを写しながら、右腕を高く上げて力んでみせた。
「見かけより強いですよ」
「そう? じゃ、その強いところを見せてよ」
 王女はおもむろに机わきのレバーに手を当てると、引いた。
 アシュの足元の床が割れるように開いた。
「うわわあっ」
 しまった。落とし穴だ! 
 アシュは真っ逆さまに落ちていった。


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腕試し

 下降しながら、今は亡き父ジュートの声が脳内に響いた。
「いついかなるときも警戒を怠るな!」「ぼけっとするな」「愚か者」「修行が足りん」
「わかった。わかった」頭の中の父を振り切るようにアシュはつぶやいた。
 落とし穴の仕掛けを見抜けずに落ちてしまったが、頃合をはかって一回転すると底にはスタッと見事に着地した。
「どうだい。父さん……ったって、この程度じゃ褒めてくれないよな」
 暗かったが鳳凰山の崖下り(崖落ち)より、着地は簡単だった。突き出た岩や木の幹や枝などの障害物もないし、自然のつくる地面と違って、床も平らだ。
 誰かいる。
 そのとき、いくつか窓が開いて、やや明るくなった。暗闇に目が慣れてきた頃だったので、わずかな光もまぶしい。手でひさしを作りながら、人の気配のするほうを見た。兵士が数名いるようだ。ラード兵ではない。おそらくベラチェク人。王城の警備兵か。鎧などは身に着けておらず、軽装だ。全部で十人ほど。武器を持った男もいる。
 アシュは王城に入るときに武器を預けてある(というより取られた)から丸腰だった。
 天井の高い大広間だった。アシュのいる階の扉はすべて閉まっていた。窓のあるのは上階だ。食事の間同様、上階にはぐるっと囲むように三辺あり、一人が手すりにもたれるようにして立っていた。
 王? いやこの細い影は王女だ。
「こいつらと力比べしろってことか? いきなり突き落として……荒っぽい王女さまだな。武闘好きは王じゃなくて、王女のほうかよ」
 アシュの正面には大男が立っていた。ぬ~っと動き出し、アシュに向かってきた。腕の太さがアシュの胴回りほどある。武器は持っていなかった。
「剣試合をするんじゃなかったっけ?」
「それは後だ。もっとも、その前にお前が伸びちまうだろうがな」
「そうかな?」
「ひょっとしたら、死んじまうかもな」
「物騒なことを言うなよ」
 アシュは王との交渉の難しさを悟った。ベラチェクは、やはりエリースにつく気などないのだ。
 上階をちらりと見る。
「あの王女さまは、こういう大男が好みなのかもな」
 大男はもう目の前に迫っていた。アシュにつかみかかろうとする。
 アシュがひらりとかわすと、大男はにや~っと笑いを浮かべた。
 大男の手が伸びてくれば、さっと逃げ、拳が飛んでくれば、右に左にと避けた。
 男は、力はありそうだったが、動きはあまり速くなかった。
 アシュがちょろちょろと逃げ回るので、しまいに大男はイライラしてきたようだった。野太い声でうなるように、「すばしっこいやつめ」
「お前が鈍いんだろ」アシュは大男を蹴飛ばした。
「あうっ」
 軽く蹴飛ばしたように見えたが、大男は痛そうに膝をさすった。
 周囲の兵士が動いた。それまで見ていただけの男達が二名、前に出てきた。
 アシュの相手は三人になった。
 加わった二人は最初の大男ほどの《体積》はなかったが、いずれも屈強な兵士だった。そして、大男より敏捷だった。
 避けてばかりもいられずに組み合いになる。
「しかたがない」
 アシュが相手の首筋に触れると、一人が倒れた。次の相手は、みぞおちに触れ、こちらもそれだけでパタッと倒れた。「殴った」「叩いた」というより「触れた」という感じだった。
「なに?」大男は目をむいた。
「あんたは頑丈そうだからなあ」
 アシュは少し考えてから走り出し、飛び上がって大男の額に手を当てた。そして、突き放すように飛び下がった。
 大男は、千鳥足になってしばらくふらついたかと思うと、ドタッと倒れた。
 残りの七名がざわついた。
 そのうちの一人がシャーっと剣を抜いた。
「おっ、やっと剣試合になるわけ? ……って、俺の剣は?」
 アシュは手を広げて前に出し、武器をくれと身振りで促したが、剣を渡しに来るものは誰もいない。
 剣士が向かってくる。
「丸腰の相手に武器を使うか?」
 答えはない。剣士は黙々と進み、アシュの眼前にやってきた。
 一振り、二振り、そして突き。
「おい、《突き》はなしだろ」
 重厚な直刀でブレード部分はあまり鋭利にできておらず、《切る》では一太刀で致命傷になることは少ないが、《突き》はとどめの技だった。「親善試合」なら、手前で止めるはずだ。だが、兵士は勢いよく突ききった。殺す気で来ている? 審判員のような者は見当たらない。「試合って、こういうイメージじゃなかったんだけどな……」
 アシュは、左右に体を振り、また飛び、避けに避けた。
 機を見て、相手の剣を持つ右手首を捕らえ、首筋に手を当てた。
 男が気を失うと「じゃ、もらうよ」と倒れた剣士の武器を手に取った。
 すると、残りの六名が一斉に剣を抜いてアシュに向かってきた。
「これは多いな」
 カーン、シュッ、キーン。
 次から次へと振り下ろされる剣をアシュは止め回らなければならなかった。
「きりがない。どうしよう……うっ」
 敵の剣がアシュの左上腕をかすった。右太腿も傷つけられた。
「殺さないというわけにはいきそうにない……か」
 それまで防御に徹していたが、アシュは攻撃の剣を振るった。一太刀振り回しただけだったが、剣が急に伸びたように見えたかと思うと、兵士の骨肉を切り刻み、三人がほぼ同時に倒れた。ラシャの刀のように黄金に光ったりはしなかったが、剣本来の切れ味が増しているようだった。 
 一瞬のうちに三人がやられ、その場に残る三人はひるんだようで、動きが止まり、向かってこなくなった。しかし、アシュと戦うことはおそらく命令なのだろう。しばらくすると、また、前に出てきた。そのとき、女の声が響いた。
「そこまで」
 いくつかある下階の扉の一つが開いて、ブリュー王女がしずしずと入ってきた。
「本当ね。見かけより強いわ」
「お認めくださいましたか」
「やっぱり、ただの使い走りじゃあないわね」
「恐れ入ります」
「恐れ入ったのはこちらのほうだわ。荒っぽいことしてごめんなさいね。でも、あなたが本当にハザーの使いかどうかはこうでもしないとわからないから」
「今ので終わりですよね? これから、もう一試合なんてことは……」
「ええ。もう十分。本当は素手の人たちが終わったところで止めてもよかったんだけど、つい好奇心に負けてしまったわ。臣下たちを殺さないでくれてありがとう」
「殺してはいませんが、打ち所が悪かった場合、何の症状も残らないとは保証いたしかねます。それに、あの三人は……」
 切った三人には、致命傷ではないかもしれないが、浅くない傷を負わせていた。
「おたくのラテナンから優秀な医師を送ってもらうわ」
「それがいいでしょう」
 エリース大神殿の医療部門を司るラテナンの医術は諸外国でも高く評価されていた。
「王は見ていらっしゃったのですか?」
「ええ」
 ブリューは上階を見上げた。
 アシュもブリューの視線を追うように上を見たが、そこは壁。誰もいない。
「壁の後ろからも見えるようになっているのよ。私は近くでよく見たかったから、出ていたけれど」
 そのうち王が上階の見えるところに姿を現した。手すりに手をかけ、アシュとブリューを見下ろしながら、ためらうように咳払いをした。
「ら、乱暴をして済まなかった」
 王女と違って、王は喜んでいるようには見えない。こころなしか震えていて、何かを恐れているようでもある。
「合格ですか?」
「う……ああ」
「《例》の件は?」
「それも……まあ、前向きに考えることにしよう。しばらく、アルメノでゆっくりしていくがいい」
 ゆっくりしている場合ではない。すぐに外のナルセに知らせたい。
「いえ、私はこれにて……」と帰ろうとしたところが、アシュは王女にも引き留められた。
「ゆっくりしてらっしゃいよ。父もそう言っているし」
「しかし、私は使いですので、陛下のお返事を早く味方に伝えませんと……」
「それはシマにやらせるわ」
「シマ?」
「私のことです」アシュを門から食事の間へ案内してきた男だった。この広間でも目立たない場所に控えていた。
「それでは、早速、行って参ります」
「ちょ、ちょっと待ってくれ。俺はどうなる? いつ帰してもらえるんだよ」
 シマはアシュには直接答えず、問いかけるように王女を見た。
「そうねえ。二~三日したら帰してあげるわ」
 王女のにんまりとした笑いが不気味だった。
「で、二~三日……私はここで何をしたらいいんでしょう?」
 アシュも笑っていたが、その顔は少し引きつっていた。こんなお化け屋敷みたいなところで何をされるかわかったものではない。
「さあ、それはこれから考えるわ」と王女は微笑んだ。
 かわいい! 
 女性には弱いアシュであった。人物評価も甘くなる。
 アシュは体がふらついたように感じた。
 おいおい。しっかりしろ。ちょっといい女を見たからって……。いや、違う。本当に頭がクラクラする。
 急によろけるアシュを見ながら、ブリューは
「どうしたの?」
「これはやられましたね。毒を使うとは……」
「毒?」
 アシュは切られた左腕と右腿に手を当てた。傷は浅かったが、左腕と右足の感覚が鈍くなっていた。それに、全身がだるい。
 みるみる青ざめていくアシュを見ながらブリューはあわてた。
「違うわ。これは……私がやったんじゃない。父上!」
 ブリューは階上の父を見上げた。
「ブリュー、その男から離れなさい」
「父上、エリースと結ぶのではなかったの?」
「ブリュー、城内のラード派は根強い」
 三人の剣士が再びアシュに向かってきた。
 ブリューはアシュの前に両手を広げて立ちはだかった。
「やめなさい」
 剣士の一人が王女に手を差し伸べた。
「ブリュー王女、その男から離れてください」
 しかし、ブリューは剣士をにらみつけ、「命令です。やめなさい」
 剣士たちは顔を見合わせ、指示を仰ぐように階上の王を見上げた。
 王もまた青ざめていた。そして、「……誰の命令だ?」と問うた。
 兵士たちは口ごもった。「それは……」
 アシュは震えながら、なんとか立っていた。汗をかき、視界がだんだんぼやけていく。
 兵士たちが武器に毒を塗ったのは、王の命令ではなかった?
 王は兵士の答えを待たず、
「まあいい。こんなことを指示する者の見当はつく。何を使った?」
「ビブの毒です」
 ブリューは大きく目を見開き、口に手を当てた。
「一噛みで象をも死に至らしめるという毒蛇のビブ?」
 王はため息をついた。
「それでは、もう助かるまい。そこまでしてしまったなら仕方がない。楽に死なせてやれ。だが、その前にブリューをその男から引き離せ」
「はっ」
 王が引き上げ、その姿が見えなくなると、兵士三人がアシュに近づいた。
 うち一人が王女の腕を取った。「失礼します」
「何をするの?」
「ここは、お引取りを!」
「ちょっと……、その男を殺せば、エリースとの糸が切れてしまうわ。今のベラチェクには……、それにラードにもエリースと対抗する力はないのよ。あなたたちにはそれがわからないの?」
 ブリューの叫びはむなしく、兵士に引かれて、その声はどんどん遠のいていった。
 一人が王女を連れて出て行ったので、残る兵士は二人だ。
「王様一人を説得したところで、ベラチェクが親エリース路線に転換するわけじゃないってことだね……」
 アシュは震える手で剣を構えた。
「こいつ、まだ動けるのか?」
「来るな! 来るなよ」アシュは後ずさりしていた。足元がガクガクしている。
 兵士はアシュが離れるだけ、詰めてくる。
「一思いに俺たちの剣にかかったほうが楽になれるぞ」
「そうかな?」
 下がるに下がったアシュの動きが止まった。後ろは壁。もう下がることはできない。
「立っているのがやっとだろう?」
 その通り。アシュは壁を支えにしてなんとか立っていた。
 兵士二人が同時に切りかかってきた。「やああああっ」
 しかし、アシュは一人の剣を打ち払い、もう一人をばっさり切った。
「う、うそだろ?」
 一人残った兵士はアシュの剣筋が乱れるどころか冴えわたっているのが信じられない。一人になってしまった最後の兵士は、すっかり動揺して狂ったように剣を振り回した。
 アシュはすっと腕を伸ばした。兵士の胸を刃が貫き、串刺しになった兵士は突き刺さった剣ごとバッタリと床に倒れた。
 アシュもまた膝をついた。手足から力が抜けていく。もはや意識もはっきりしない。ただ、遠くから近づいてくる足音が聞こえていた。
 すっかり毒がまわってしまった。もう戦えない。
 周囲がぐるぐる回って見えた。薄らぐ意識の中で、まず思い浮かんだのはクレア、そして鳳凰山を思った。シエラ、ラシャ……。これで本当にもうお前たちに会うことはない。 


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忠臣ターシュ

 王城の小ぢんまりとした一室。王の前には中肉中背で眼光が鋭い男が立っていた。
「ターシュ、お前か?」
「何のことでしょうか?」
「エリースからの使者を亡き者にしようとした」
「もはや亡き者です」
「ビブの毒で死なない人間などいない……か。エリースに対抗して勝ち目があるのか?」
「これまで長年良好な関係にあったラードとの関係を断ち切るというのは、あまりに節操がありません」
「節操を守って国が滅びたのでは元も子もない。それに民衆はラードの弾圧にあって、反ラードの機運が高まっている」
「あの民衆運動はエリースに率いられているのです。元々、この国は親ラードの土壌。エリースを追い払えば収まります」
「エリースを迎え入れれば収まるとも言えるぞ」
「王……」
「ラードの衰退は今に始まったことではない。これからも、急に上向きに変わることはないだろう。エリースは豊かで安定している。国力の差は明らかだ」
「腐ってもラードです。あのラードがこのまま衰退していくとは、私には信じられません。そして、ラードが盛り返したとき、ここベラチェクがエリース圏であれば、真っ先に狙われれるのがわが国なのですぞ」
「だから、決心がつきかねるのだ。エリース派は増えてきている。その一方で、ラード派は根強い。このままでは……、最悪、内戦になってしまう」
 王は頭を抱えた。
「だからこそ、だからこそ王にはしっかりしていただかねばならないのです!」
 ターシュは王につめよった。
「ああ。とにかく、お前の策のおかげで、エリースと結ぶ線は消えてしまった。ラードに頼るしかなくなったというわけだ」
 王が非難するようにターシュを一瞥したとき、部屋の扉が叩かれた。
「入れ!」
 そそくさと入ってきた臣下は「失礼します」と王に寄ると、耳打ちした。
「わかった」
 耳打ちした臣下は王に頭を下げると、すぐに部屋から出て行った。
 怪訝な顔で首をかしげるターシュに王は言った。
「ターシュ、これまでの功績に免じて今回の責は問わない。だが、今後、私に何の相談もなく出すぎたことをすれば、私も黙ってはいない。わかったな」
「王、私はこの国のためを思って……」
「ターシュ」
 王はターシュをさえぎった。
「リントを頼む」
 リントとは、ブリューの弟、まだ三歳の幼い王子であった。ターシュは王子リントの養育係でもあった。基本的に王の信が厚い臣下であるから今回のようなことも、堂々とできるのだ。
「はは~」
 ターシュは王に一礼して、下がった。
 王にたしなめられてもターシュの信念はゆるがなかった。
 私は間違っていない。すべては王の意を汲んで行ったこと。ああおっしゃっても、王はご理解くださっている。独断で事に及んだ私に罰を与えるどころか、引き続き王子を託すとおしゃったのが何よりの証拠。やはり、王も本当はラードとのつながりを重く見ていらっしゃるのだ。
 王は窓に寄り、つぶやいた。
「あの男、二人の兵士を倒したか。だが、ビブの毒が回っては……助かるまいなあ」


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瀕死のアシュ

 ベッドに横たわるアシュの前でブリューは眉を寄せていた。眉根が近い上がり眉なので、寄せると、つながってブーメランのようになる。
「シマ、ナルセは何て?」
「すぐに軍医をよこすと」
 シマは剣技(?)の間を去ると、すぐに援軍を呼びに走った。アシュが最後に聞いた足音はシマのよこした兵士たちだった。それで、アシュは殺されずにブリューらエリース派に保護されていた。
 その後、シマは城内の事件をナルセに伝えるよう使いに出され、帰ってきた。
「間に合うかしら?」
「……」
 シマは気休めの言える性質ではなかった。ビブの毒が回って助かった人間はいない。エリースの軍医とは、すなわちラテナンの医師なのであるが、それでも無理だろう。
 アシュは力なくうめいていた。ぜいぜい、はあはあと息が荒い、呼吸が不規則で、苦しそうだ。
「シエラ!」
 アシュが叫んだ。
「誰かしらね。さっきから、何度も呼んでるけど」
「クレア!」
「この名前もよく出てくるわね」
「ララ!」
「これは初めて」
「メイ!」
「いったい何人、女がいるのかしら?」
 ブリューのこめかみがヒクヒクしていた。

 籠城中のアルメノにエリース人医師を入れるのは一苦労。アシュのときのように、示し合わせてラード軍の目をかいくぐらないといけないので、すぐというわけにはいかず、なんとかアシュの診察にこぎつけたときには数日が経っていた。
 医師はアシュの診察をしながら、しきりに首をひねっていた。「本当にビブの毒ですか?」
「彼らはそう言ってたわ」ブリューの眉はこのときもブーメラン。
「それなら、手遅れです。回ってしまっては、私にもどうすることもできません。噛まれた直後なら毒抜き、少しあとでも切断という手段がありますが、数日経ってしまってはもう……」
「では、死ぬしかないと?」
「いやあ~、何と言うか、それなら、もうとっくに死んでいるはずなので……生きているということは、ビブの毒ではなかったのではないかと……。それが一縷の望みですね」
「じゃ、じゃあ……」
 ブリューは期待をこめて目を輝かせた。
「回復力を高めることしかできませんが」
 アシュの体を押したり、さすったりする医師の手当てを見つめていたブリューだが、その後も際限なく色々な女の名を呼び続けるアシュに嫌気がさしたか、そのうち部屋を出て行った。
 医師が到着してから一日目には、アシュの容態は良くもならないが、悪くもならず、小康状態を保った。だが、二日目から著しく快方へと向かっていった。

 夕方、アシュは静かに横になっていた。息も落ち着いている。だが、意識はまだ戻っていなかった。
 ブリューはアシュの額に触れた。
「何にも言わないで寝ていると、かわいいんだけど……」
「ブリュー……」
 アシュに名を呼ばれて王女はビクッとした。
「起きてるの?」
 答えはない。
「寝言? 私をその辺の女と一緒にしないでよね」とブリューはアシュの鼻をぎゅっとつまんだ。
「痛ててて」
 アシュが顔をしかめて、手を鼻にやった。
「う~ん……」
 目が薄く開いた。
 ブリューは前かがみになった。
「アシュ! 気がついた?」
「ここは……天国? でも、ブリュー王女がいるということは……」
「アルメノよ。お城の中!」
「ああ、そうだ。毒塗りの剣でやられて……、それから……う~ん。王女さまが助けてくださったんですか?」
「まあね。私の部屋に運び込んだけだけど」
 アシュは、意識を失う前にちらっと聞いた王や王女と兵士たちのやりとりを思い出した。城は割れている。エリース派とラード派に。
「いや、かくまってもらっただけで十分! でも、俺をかばったことで、王女さまの命が狙われるようなことは?」
「それが私たち王族の仕事よ。何をやっても敵がいるの」
「じゃあ、何もしないほうがいいですね」
「そうすると、ラードみたいになるのよ」
 ラードの現王は、お飾りにすぎず、実質的な権限は有力貴族が握っているとのもっぱらのうわさであった。
「でも、よかったわ。ビブの毒でなくて」
「違ったんですか?」
「ビブの毒が回って生き延びた人間なんていないわ」
「ふ~ん」
 アシュは目をくるくると回した。
 鳳凰会では会士に微量の毒を飲料ないし注入して免疫をつけることがある。もっとも、これには適正を見る。敏感な体質の者は免疫がつくどころか、弱ったり、死んでしまったりするから不適である。アシュは毒や異物に鈍感なほうだったので、かなりの毒の免疫をつけさせられた。
「ビブの毒もあの中に入ってたのか……」
「なに?」
「いえ、何でもありません……」
 ゆっくり半身を起こし、ベッドの脇に腰掛けた。大丈夫だ。そう思って、立ち上がるとぐらっときた。
「うわあああ」
 ブリューがなんとか支えて、アシュをベッドに戻した。
「病み上がりは、おとなしく寝てなさい」
 ちゃきちゃきしたブリュー、年はアシュと同じか、やや年上ぐらい。
 至近距離に近づくと、ふわっと、いい匂いがした。
 アシュは自分の胸を押すブリューの手を取って、その甲に口づけた。
「ありがとうございました」
 臣下が王女の手に口づけすることはままある。少し無遠慮だとは思ったが、ブリューは怒らなかった。
「こちらの不手際があったのだから当然だわ。あなたには無事に帰ってもらわないと困るのよ」
 しかし、アシュはブリューの手をいつまでも離さず、そのまま握ったり、さすったりしたので、ブリューも仕舞いには気分を害してしまった。
「いい加減にしなさい!」
 怒りに全身を震わせながら、ブーメラン眉のブリューだったが、アシュはかまわず王女に顔を近づけた。唇が唇に近づく。
 バッシーン
 ブリューの平手打ちがアシュの頬に飛んだ。
「な、何、考えてるのよ。ハザーの使いでなかったら、牢にぶちこんでやるところだわ」
「すみません。きれいな女性がそばにいると、つい。それに、手厚い看護のお礼を態度で示したくて」
「その元気があるのなら、もう大丈夫ね。起きなさい!」
 アシュは軽く動いて、体をほぐす。
「寝ろと言ったり、起きろと言ったり……」
「あなたが悪いんでしょ。病人ぶって、つけあがらないでよね」
「怒った顔も魅力的だ」
 ツンとしながらそっぽを向くブリューの背中を見るアシュはいたずら小僧のようにニッと笑っていた。
 部屋を出て行くブリューのほうも、怒ったような口ぶり、素ぶりではあっても、その表情は何故か満足気であった。

 ベラチェク王の使いとして、エリース軍の陣に入ったシマはナルセを前に頭を下げていた。
「お返事を致します。ハザーさまとのお約束は間違いなく実行いたします」
「そうか。で、アシュは?」
「お使者の方は丁重におもてなししております」シマは淡々と答えたが、ふと顔を上げ、城に目をやった。「王女がお引止めになって……」
「王女?」
 シマは無表情だが、少し困ったようにただ王城を見る。
 その様子から、ナルセはコトを察し、両手で顔を覆って拭くように上下した。
「あいつはまったく、こんなときに何をやってるんだ!!!」
「何ぶん、案内がなければあそこから出られませんから……王女のわがままです」
「いや、やつも絶対喜んで留まっているに違いない」
 シマは再び下を向いていて、その肩はヒクヒクと震えていた。笑いをこらえているようである。
「……そうかもしれませんね」

 数日後、ブリューとアシュは窓際に立ち、寄り添っていた。
 薄衣を纏った王女の腰にアシュは手を添えていた。アシュのほうはと言えば、丸裸。
 王女がアシュに寄りかかった。
 誘われているのかと思って、アシュが胸元に手を伸ばすと、ペシッとはたかれた。
「でも、まあまあ楽しかったわ」
「まあまあ……ですか?」
 しなだれかかる王女の髪にアシュは顔をうずめるように口を寄せた。肩下まで伸びるウォールナットブラウンの髪。前髪も後ろ髪もきれいにまっすぐそろった、さらさらヘアだった。
「いい匂いだ……」
「ケルの水よ」
「ケルの水?」
「知らないの? エリース南部にケルっていう町があるでしょう? そこで作っている香水なの」
「へえ~、知らなかった」
「エリースの商人が持ってくるの。きっとオーマでも手に入ると思うわ」
「そうかもしれませんね。今度うかがうときには土産に持参します。門番に追い払われなければ」
「忘れなければ通すように言っておくわ。急に立ち寄ったときには、私の名を言えば、運がよければ通れるんじゃないかしら」
 ブリューは少し背伸びして、アシュに口づけた。
「光栄に存じます」
「挨拶みたいなものよ。いい気にならないで」
「はいはい」
 アシュは両手を上げておどけてみせたそのすぐ後、ブリューを抱き寄せようとしたが、ブリューはぐいと押し戻した。
「またひっぱたかれたい?」
「いまさら、それはないでしょう?」
「私は男に抱かれるのは嫌いなのよ」
「え? じゃあ、いままでのは?」
「私が抱きたいの」
 ブリューはアシュを抱えるようにして、ギュッと胸を押しつけたかと思うと、ドンと突き放した。
「もう帰ってもいいわよ」
 変わったお姫様だけど、おもしろい。
 押しつけられたやわらかい胸の感触が残る。鎖骨のあたりには唇も感じた。
 もう少し……と思うこの感じがたまらない。
 もう一度、誘ってくれないかと、物ほしそうにちらちらとブリューに目をやりながら、ゆ~っくりと服を着るアシュであったが。ブリューはツンとすまして、窓の外を見ている。
 だめか……。
 アシュは深々とお辞儀をし、笑みをたたえながら部屋を下がった。
 扉の外側ではシマが待っていた。
「お帰りはこちらです」
 案内係、連絡係をつとめ、そして今、アシュを送り返す役を仰せつかっているようだった。
「あ~あ、お払い箱か……」
「お味方のところに戻りたくないのですか?」
「帰りたいけど、帰りたくない……って感じかな」
「……」
 シマはあきれたように半開きの目でアシュを見ていた。相変わらず物腰は丁寧だが、王城へ迎え入れたときのような慇懃さはもうない。ずっと顔が見えないほどに頭を下げていたシマが、アシュの前で頭を高く上げ、目を見るようになっていた。それは不遜というよりは親しみの表れのようにアシュには思われた。

 やっとエリースの陣に戻ってきたアシュは、腕組みをしたまま一言も発しないナルセの前で頭をかいていた。使いに出されてから十日ほど経っていた。
「あ~、毒を塗った剣で突き刺されたりとか色々ありまして。そのあとは、王女に引き止められて……」
「突き刺された? ただのかすり傷だろうが。大げさに言うな」
 アシュは軽く舌を出した。
「でも、毒入りは本当です」
「聞いている。たいした毒ではなかったこともな」
「でも、大変だったんですよ。意識を失って……」
 ナルセは咳払いをした。
「その意識が戻ってからなんだが……、あまり無責任な行動はとらなかったろうな」
 アシュは目を上下に動かした。
「俺のことを変に売り込むからこういうことになったんですよ」
「お前を売り込んだだと?」
「ハザーっていう人は俺のことを大貴族にも匹敵する人物と言ったそうです」
「大貴族にも匹敵……か」ナルセは改めてアシュに見入った。
「なんでそんなことを言ったんでしょうね?」
 あっけらかんとしたアシュ。考え込むようなナルセの表情を見て話題を変えた。
「ナルセさんはハザーさんに会ったことがあるんですか?」
「大神官長だ」
「それは聞きました」
 ナルセは「ハザーさん」ではなく「大神官長」と呼べという意味で言ったのだが、偉い神官の一人ぐらいにしか考えていないアシュにはどうでもいいことだった。そもそも自分と関係のない組織の面倒な肩書を覚える気がない。
  ナルセはあきらめたように首をふった。
「もちろん、会ったことがある。そのうちお前も会うことになるだろう」
「そうですか」
 ひょうひょうとしてこだわりのないアシュを見ながら、ナルセはこのときもアシュを透かしてさらに遠くを見るような目をしていた。その脳裏に浮かんでいたのは、プラチナブロンドの短髪、目つきが険しく、大柄で引き締まった体格の男、アシュの父ジュートの姿であった。


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ベラチェクの転向

 エリース軍はアルメノ包囲を解き、ベラチェクから撤退した。敵の脅威がなくなったのでラード軍もまた国へ戻った。しかし、その後のベラチェクの対応にラード王宮政府は震撼した。王も政権も変わらなかったが、手のひらを返したようにラードとの同盟関係を破棄、親エリースへと方向転換を図ったのだ。
 そして、反ラードの気運が高まっていたベラチェクの人々の間にはエリース側につくことに対する抵抗があまりなかった。また、反乱は元々エリースの援助を受けていたから、エリースが引けば政権が同じでも反政府運動はおとなしくなる。
 ラードとベラチェクとは長年寄り添って信頼関係も強かった。ベラチェク、特に都アルメノはラードの首都シフォンの対岸にある。ここがエリースの影響圏に入ったとあっては心臓に刃物を突き付けられているようなものであった。
 ラードは再び出兵を考えたが、そのころにはアルメノから引き上げたはずのエリース軍がいつのまにか再び入りこんでいて、もはや奪回の見込みはなかった。

 ベラチェクの親エリース路線への転向はアシュによる《交渉》の功績とされた。しかし、アシュ本人は褒章されてもあまりうれしくなかった。自分が王を説得したわけではない。王女の気を引くことはできたのだが、娘の口ぞえで父王がエリースに鞍替え? 考えにくい。気持ち悪さの残るベラチェク遠征であった。

 ところで、王がエリース支持を表明する前にベラチェクの一地方都市モスで地震があった。建物がほぼ全壊し、多数の死傷者が出た。人々は祟りと恐れ、ラードが反乱鎮圧時に寺社を破壊したり、信仰を集めていた大木が傷つけられたためと、もっぱらのうわさであった。うわさは全国的な広がりをみせた。ラード兵士が傷をつけた御神木ほか聖なるものは各地にあったので、恐れおののく住民が祟りを避けるには冒涜者と手を組んでいてはいけないと王にラード離れを促す集会が各地でもたれた。中には暴動に発展するところもあった。内戦を恐れる王は再度反乱を起こさせないために、ラード圏から離れることを宣言した。
 エリースへの転向の表向きの経緯は以上であったが、これにはさらに裏があった。

 ベラチェク王は城の居室の窓から外を眺めていた。城からはメノ側をはさんだ対岸のラードが見える。じっと川向こうを眺めていた。憂いに満ちた王の目は寂しそうであった。 
「ハザーは大地をも揺らすことができるのか?」
 王の背後にはターシュ。
「信じがたいことですが、あくまでもラードに信を尽くすというのであれば、次はアルメノであると彼が警告してきたことは事実です」
「この都を破壊するわけにはいかない」
「王……。ご無念、お察しします。いずれ、いずれはまた……」
「エリースでもラードでも、どちらでもいいのだ。ただ、ベラチェクに栄えあれ……と、そう祈るばかり」
「御意」
 王は窓に背を向け、部屋の内側にいるターシュに向き直ると、
「ターシュ、リントはどうしている?」
「利発なお子でいらっしゃいます。もう字を覚え始めにおなりです」
「そうか」
 王子の成長を思いながら、王の表情が少し和らいだのもつかの間、すぐにまた暗く沈んだ。
「あの子が大きくなる頃、このベラチェクはどうなっていることであろうなあ」
「王、私どもの力が至りませんで……」
「いや、力不足はこの身である。ブリューのほうが、よほどやり手かもしれんな」
 ターシュは息を呑んだ。
「王、ご退位などお考えではありますまいな」
「心配するな。ブリューはまだ若すぎる」
 ターシュはほっと胸をなでおろした。
「リント王子もすくすくとお育ちになっていらっしゃいます。早まったことはなさいませんよう!」
「うむ。ところで、地震のあったモスの町にはエリースが早速救援を送ってくれていると聞いた」
「壊しておいて、善人面で救援というのが、厚顔無恥というか、何と言うか……あきれたものです。でも、人身掌握術はラードのはるかに上をいっておりますな」
「まったくだ」

   第七章 『ベラチェク』 完



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