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序文

 これは、その昔、『いろはにお江戸』という江戸関連のホームページ上に、

『江戸の四季』として江戸の季節の風物を月ごとに連載していたものと、『季

節の小さなお話』として、とりとめもなく掲載していた、手のひら小説(?)

です。

 ホームページを閉鎖してからもう何年も経ちましたが、このたび突然に思い

立ち、二つを合わせた形で、ここに再録することにしたものです。

 

 『おはなし』はもともと、400字詰め原稿用紙一枚にぴったり、という制

約の中で書くというお遊びでしたので、実に無理やり感がありますが当時のま

まとしました。

 もともと、すべての項に、お話がついていたわけではありませんで、今回新

たに書き下ろしたお話も、ございます。

 どうしようか迷いましたが、以前同様400字という制限を付けて書きまし

たので、やはり無理やり感満載の代物となりました。

 文章力は、一向に向上してないみたい(汗)

 今回は、子どもの話で、揃えました。

 といっても、他のものは数が揃わない上に、江戸の四季とは内容がリンクし

てないものがほとんどで、次回があるかどうかは不明なのですが。

 

 『江戸の四季』については、若干の加筆修正を行っておりますが、当時の時

事や内輪ネタ、子どもっぽい言い回しを改めた程度で、新たに内容の精査など

はしておりません。

 もっともらしく蘊蓄を垂れておりますが、小娘の乏しい知識で書いたものゆ

え、誤りなどあるやも知れませんが、お許しを。

 

参考文献

『絵本江戸風俗往来』 菊池貫一郎 著 鈴木棠三 編 東洋文庫

 他にも多数あるはずですが、今となってはよく分からず・・・


睦月  凧

 

 

 

        ◆     ◆     ◆

 

 

     「ヤァヤァ我こそは、千本刀の武蔵坊弁慶な

     り。おのしのその首、もらったぞ」

     「なんの、こっちは義経じゃ。返り討ちにし

     てくりょう」

      わっと弁慶が襲いかかれば、ひらりと義経

     がかわす。ぶぅんと唸りを上げながら、二枚

     の凧が、絡み合うようにして舞い上がったり、

     また舞い下りてきたりした。

      京の五条の橋の上なら、最後には牛若丸の

     義経が勝つと決まっているが、江戸の両国橋

     の上では、そうはならなかった。

      あっ、と言う間もなく、糸を切り飛ばされ

     た義経が、きりきり回って落ちていく。

     「亀やん、ずるいや」

      半べそをかきながら千太は、亀吉につかみ

     かかった。

     「ばかだな、てめえら。弁慶と義経なら、

     お仲間同士だ。まちっと仲良くしろやい」

      知らない小父さんが、笑いながら二人の頭

     を、こつんと小突いて行った。

 

 

        ◆     ◆     ◆

 

 

 

 

 正月。

 江戸の空を見上げると、凧、凧、凧・・・。もう、凧だらけです。

 おきまりの角凧はもとより、奴、鳶、三番叟、扇に剣など、江戸もこの時期

になると、凧の大きさ、色、形もさまざまで、華やかなことこの上ありません。

殊に絵凧は、勇壮な武者絵が好まれ、空を飾りました。

 平成の世でこそ元日が初売りというのも珍しくはありませんが、この当時は、

元日から店を開いているのは凧売りの店だけでしたから、元日に人が群がって

いるところは凧屋であるとすぐに知れます。

 ――ほら、今も町の凧屋や、即席に葦簾を張った辻店には、真新しい着物と

下駄を嬉しそうに身につけた子ども達 が群がっております。

 

 凧揚げというと、とかく子どもの遊びと考えがちですが、むしろ熱くなって

いるのは大人達のほうなのです。

 雁木という、鉤型の小さな刃物ををつけた喧嘩凧で、相手の糸を切って凧を

宙に飛ばす。あるいは絡め取る。これが超燃えるんですな。

 この喧嘩凧は自分で作ることもありますが、下谷にある堀竜という店のもの

が強いという評判で、「ともらい凧」と呼ばれて名物にまでなっていました。

 なにしろ今より娯楽の少なかった当時のこと。ほかに楽しみがないから大人

から子どもまで、こぞってその技を競い、凧揚げをしない女たちまでもが往来

に出てそれを物したものです。実際、上手な者の妙技は、見物するに値するも

のだったのです。

 

 金持ちや裕福なお武家の坊ちゃまなどは有名な浮世絵師に絵を描かせたり、

十二枚張り、二十二枚張りの大凧を揚げるやらの大騒ぎで、凧を置くための部

屋まであったりしました。あまりに大きな凧は、揚げるのが難しく、落ちると

危険なので、江戸府内で揚げることは禁止されていたのですけれどね。

 そんなありさまですから、正月は往来に人があふれ、身分ある人物の通行を

妨げることもたびたびでしたが、めでたい季節のこととて特にご容赦くださる

という粋なはからいもありました。まあ、いちいち咎めだてしてもはじまらな

かったんでしょうね。

 

 なお、お話の中で、「江戸の両国橋の上」とありますが、橋の上で揚げてい

るわけではなく、川へ向かって揚げている凧が、丁度両国橋の上空にあるよう

に見えている、とお考え下さい。


如月  初午

 

 

 

        ◆     ◆     ◆

 

 

     「こんち初午ァ。お稲荷さんはいかが」

      真っ赤な幟が江戸中にはためいて、笛や太

     鼓もにぎやかだ。狐面をつけた子どもらが、

     そこいら中を駆け回り、大人までもが昼間っ

     からほろ酔いで、浮かれ歩いている。

      けれど、稲荷鮨がいっぱい入った木桶以上

     に、長太の心は重かった。

      去年の暮れ。ちゃんが行方知れずになった

     んだ。女の人と、一緒にさ。

      おっかあは元気だが、母子五人の食い扶持

     には、とてもじゃないが追っつかない。

      ねえちゃんは、奉公に出た。まだ赤ん坊の

     正太は、もうすぐどこへかもらわれていく。

      妹のおみつは、まだ小さい。

     「坊。ひとつ、おくんな」

      つまんで、ぺろりと食って、かみさんは、

     「初午の日に、子どもが商売ぇとは、苦労だ

     の。ちゃんは、どうしたえ?」

      長太は、胸を張った。

     「おいらがさ」

 

 

        ◆     ◆     ◆

 

 

 

 

 初午とは、二月の初めの午の日です。

 その昔、この初午の日に京都の伏見稲荷の神様が降りたと言いまして、全国

の稲荷社、俗に言うお稲荷さんの祭礼が行われました。祭礼は、二の午、三の

午の日に行われるところも中にはあったそうですが、やはり初午に行うのが一

般的でした。

 さて、「火事、喧嘩、伊勢屋、稲荷に犬(いん)の糞」と江戸に多いものの

一つに数えられているように、江戸にはいたるところにお稲荷さんがあります。

 王子稲荷や嬬恋稲荷、芝の烏森稲荷や日比谷稲荷などは江戸屈指の稲荷社で、

初午祭りも当然盛大に行われましたが、その外にも、旗本・大名などの武家屋

敷には必ずといっていいほど稲荷祠がありましたし、町家の裏庭や長屋にも守

り神として祠があるのが常でした。

 そんなわけで初午の日は、江戸中に初午祭りの染幟が立ち並び、武者絵の大

行灯や地口画を描いた田楽燈篭がこぞって飾られます。

 殊に名高い稲荷社では、それぞれに工夫を凝らした大燈篭をかかげたので、

見物の客が大勢つめかけたものです。

 

 元来初午は子どもの祭りで、武家屋敷などでは邸内に近隣の町家の子どもを

招いて遊ぶことを許したり、町方でも、接待茶屋を設けて団子や甘酒、鮨や菓

子などを振る舞います。

 また子どもを手習い師匠に入門させるのにこの日を選ぶ風習もありました。

 しかし、そこは祭り好きの江戸っ子のこと。

 むしろ大人の方が、大燈篭に奉納の発句を書き付けるやら、戸々にかかげる

地口画田楽燈篭(じぐちえ でんがくどうろう)の地口を思案するやら、囃し屋

台をしつらえ、巳の日の晩から午の日の遅くまで太鼓を打ち鳴らして踊り遊ぶ

やらの大騒ぎなのでした。

 地口というのは、ことわざや俗語などに、似た音の別の言葉をこじつける洒

落の一種で、現代なら寒いと言われかねない駄洒落のようなものですが、機知

と趣向を凝らせば、面白く粋なものとなります。

 それにちなんだ画を添えたものが地口画です。

 初午に限らず、祭りの時には、みんな頭をひねって考えたこの地口画を、行

灯や燈篭にかき付けさせたものを家々の軒先に飾り、町毎に出来を競い合った

のです。


弥生  雛祭り

 

 

 

        ◆     ◆     ◆

 

 

      「どんどん、女だか男だか、分からなくなり

     やがる――」

      飾り付けの途中で放り出されたらしい雛人

     形を眺めて、辰蔵はため息をついた。

      ただ一人の女の子だというので、これでも

     十軒店の雛市で、随分張り込んだ物なのだ。

      小さな頃には、お転婆も気にならなかった。

     「お嫁になんか行かないよ。だってあたしは、

     おとっつぁんの跡を継ぐんだもの」

      そんなことを言うのを、かえって嬉しがり、

     「よしよし俺の跡継ぎは、お花しかいねえ」

      目尻を下げて、確かに言ったこともある。

      しかし……しかしだ。

      十手代わりの棒きれを振り回し、町内の悪

     たれどもの先頭を切って、捕り物ごっこだと、

     暴れ回っているというのは、どうなんだ。

      辰蔵が、再び深いため息をついた、その時、

     「じき咲きそうだからって、家守さんが」

      頬を赤く染めたお花が、蕾の沢山ついた桃

     の枝を手に、春の嵐のように駆け込んできた。

 

 

        ◆     ◆     ◆

 

 

 

 

 三月三日は、雛祭りです。

 上巳(じょうし)の節句と言って、元は上の巳の日に、水辺で身を清め、体

をなでて穢れを移した人形(ひとがた)を流す信仰が変化したもので、桟俵に

愛らしい紙雛を乗せて流す、流し雛の風習に、その名残が見られます。

 室町時代に、端午が男子の節句であるのに対して、女子の節句とされるよう

になりましたが、巳の日の祓いの人形が、平安の頃から女の子の間で行われて

きた、紙の人形や調度で遊ぶ、ひいな遊びと合体した程度のもので、民間に広

まったのは、江戸時代に入ってからのことです。

 元禄・享保の頃から次第に盛んになり、それまでは紙雛であったのが、現代

のような座り雛が登場。段飾りが現れたのは宝暦頃からといわれています。

 雛壇の段数は次第に増えて、十一代将軍家斉に息女が多く、大奥で流行した

のに習って、文化・文政・天保の頃に、最盛期を迎えました。

 

 段飾りの最上段は、もちろん内裏雛。現代では、向かって左側に男雛を飾る

のが普通ですが、これは大正のはじめ頃からで、西洋の風俗に倣ったもの。

江戸の頃には向かって右に男雛が来るように飾っていたようです。

 後ろには金屏風、両脇に燈台(ぼんぼり)、間には桃の花で飾った桃花酒の

瓶子を置きます。

 桃花酒というのは、桃の花を浸したお酒で、白酒とは違います。

 上巳の日にこれを飲めば、百病を除くと言われていました。

 さて、二の段は、三人官女。三の段は五人囃子。四の段は随人(矢大臣、右

大臣・左大臣)、間には、お膳や菱餅を。五の段は衛士(仕丁)と左近の 桜、

右近の橘。さらに、あれば六の段以下には高砂や鶴亀、大黒・恵比寿・弁財天

など。また、長持・挟み箱・箪笥や貝桶、牛車などの調度類が飾られました。

 ことに調度類は、後で買い足しができるので、ついつい増えて飾りきれなく

なり、人形の間に無理やり飾ったり、雛壇の周りにさらに並べたりと、大変な

ことでした。

 

 三月に入ると、早速のように花売りが、

「花ィ、花ィ」

 と、桃や桜の花を売りに来ました。

 桃の節句とも言うくらいですから、雛祭りに桃の花は欠かせません。

 桃には、邪気を払う力があるとされ、宮中での追儺(ついな)の儀式では、

桃の弓で蓬の矢を射て、鬼を追い払うのに使われていたほどで、菱餅の三色の

うち、白は雪の清らかさ、桃色は桃の花の愛らしさ、美しさを、青(緑)は蓬

餅で、ものの芽吹きをあらわしているそうです。


卯月  初鰹

 

 

 

        ◆     ◆     ◆

 

 

      まだ日も高いというのに、よろよろとした

     千鳥足で、ちゃんが帰って来たから亀吉は、

     思わず首をすくめた。

     「あんた!真っ昼間から、なんてざまだい」

      ほうら、おいでなすった。

     「なんだとう。折角、てめえらにも初鰹を食

     わしてやろうと思って、急いで帰ってきたん

     じゃねえか。丁度いいや、その面のままで、

     さっさと辛子をかきゃぁがれ」

     「馬鹿をお言いじゃないよ。一体どこにそん

     なお足があったと言うんだい」

     「大黒屋さんの三番蔵の普請が成った祝いの

     振る舞いだ。あの蔵はなぁ、この俺様が塗っ

     たんだぞぅ、べらぼうめ」

      あっと、かあちゃんがおろおろしたが、ち

     ゃんは、いつの間にかぐうぐう高いびきだ。

      さすが、大黒屋さんは、お大尽だ。やるこ

     とが違う。

      ちょっとばかりかあちゃんが涙ぐんでいる

     のは、辛子のせいじゃ、ないと思う。

 

 

        ◆     ◆     ◆

 

 

 

 

  目には青葉山ほととぎす初鰹    素堂

 

 江戸っ子は、初物が好きです。

 初物を食べると寿命が七十五日伸びるとか伸びないとかで、しばらく待てば、

当たり前の値段で出回るようになるというのに、また、旬のもののほうが味も

良く栄養価も高いというのに、あえて初物を珍重し、法外な大金を払ってでも

手に入れようとします。

 寿命云々よりは、見栄の問題でしょう。

 お上では、奢侈禁令に反するというという観点からか、初物と称して普通よ

り高く売り買いすることを禁じるお触れをたびたび出しておりますが、一向に

あらたまる気配はありません。

 なかでも、鰹。

 勝魚に通じ、縁起の良い魚とされていたこともあって、一種のお祭りさわぎ

です。

 毎年この季節になると、なんとかして周りの者より早く初鰹を手に入れよう

と、またある者はどうにかして初鰹を購入する資金をひねりだそうとやっきに

なります。

 女房を質に入れてでも・・とはよく言うことですが、どうしてどうして。

 ほんものの初鰹は、古女房の一人や二人質に入れたところで、簡単に庶民の

手に入るような代物ではありません。

 文化九年。三月二十五日に十七本の初鰹が魚河岸に入りました。

 六本は将軍家でお買い上げ、三本は超有名な料亭八百善が二両一分で買い、

八本を魚屋が仕入れました。そのうちの一本を中村歌右衛門が三両で買い、大

部屋役者に振る舞ったという記録があります。

 当時の下女奉公の娘の一年分の給金がせいぜい二両、俗にさんぴんと言われ

た最下級の武士の年給が三両一人扶持ですから、たいへんなものです。

 

 さて、そうやって手に入れた初鰹。

 現代では、たたきにして生姜で食べるのが一般的ですが、これは上方風。

 

  鎌倉を生きて出でけむ初鰹     芭蕉

 

 などという句もあるとおり、鰹は鮮度が命と、本場鎌倉から、今水揚げされ

たばかりの鰹を、八挺櫓の早船や馬やらで、大急ぎで江戸まで運びます。

 このため、わざわざたたきにして鮮度を落とすのは野暮とばかり、江戸では、

厚切りの刺し身が好まれたようです。

 もっとも、鰹の本場の土佐では、よくたたきで食べられているのですから、

江戸っ子は本当に美味しいたたきを食べたことが、なかったのかも。

 鰹の薬味といったら、まず思い浮かぶのは生姜や葱ですが、江戸では辛子醤

油が一般的だったようです。

 また、『絵本江戸風俗往来』には、「本場の山葵に本場の醤油をもって江戸

っ子の腹を肥やしける」との記載もあって、山葵醤油でも食べられていたよう

ですね。



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