閉じる


少年と暗道の影

著:エンジン


 少しだけ昔のこと。まだ、あつかましい輝きが夜の世界を我が者顔で出しゃばっていなかった頃の、小さな物語。

 一人の少年がお使いを終え、暖かい晩ご飯と家族の待つ我が家へと帰ろうとしていた。民家なんてのは当時まばらで、ざわざわと茂る藍な種々の中に、適当に作られた道が一本伸びているだけ。普段は蛙やその餌達ががちゃがちゃじーじーげおげおと、耳障りなぐらいやかましいのだけれど、その時は不思議なぐらい音がなかった。古本屋のハタキのように丸々成長したススキですら、身体を揺らしてカサカサと呟こうなどとはしなかった。

 少年は心細さを胸に抱き、急ぎ足でひたすら道を進んだ。途中、小石につまづいてよろめいたりすると、心臓がワッと膨れ上がるぐらい驚かされる。

 

 片手に持った提灯は、巨大な蒼黒に対してあまりにも心細い。早く帰らなければ、このまま真っ暗に包まれ、二度と抜け出せなくなってしまう。不安が少年の足を、さらに急がせる。

 ふとその時、前方に影が見えた。深海のごとく蒼の混じった暗闇の中においても、その人影は周囲に交わることなく、くっきりとその存在を誇張していた。頭が上下二つもあるかのような高いハットをかぶり、マントで身体を膨らませた影は、じっと少年の行く手に立ち、ピクリとも動かず待ち伏せている。

 

 少年は止まらなかった。戻ることもしなかった。目の前に得体の知れない奴がいるのは分かってる。でも、道はここしかない。

 

 今来た道を引き返し、やっと越えてきた山道を再び上がるなんてもっての他。道をそれて藪をかき分けて強引に進もうとすれば、それこそ人外どもの思うつぼ。陰険な小虫に身体中をさんざん蝕まれ、毒を身につけたおぞましき大虫にとどめを刺されてしまうだろう。

 

 少年は人影から目を逸らしつつ、その脇をすり抜けた。

「ぼく、なぞなぞをしようよ」

 返事をしなくとも、影はピタリと少年の後をついてくる、足音の一つもなしに。

 

「ねえ、なぞなぞ。蛙を虐めるみたいに楽しいよ」

「嫌だよ」

 

 声を震わせながらも、少年は勇敢に拒んだ。その様子がたまらなくおかしいようで、影はヤマナメクジのような野太い声で更にまくし立てた。

 

「なぞなぞをしようよ。ぼくがちゃんと答えられたら、俺は何処にでも消えてやるさ。なあ、いいだろ。でないと、ぼくの家まで行っちゃうよ。ぼくの家が高い山にあろうが、深い谷底にあろうが、どこまでもついていくよ、いいのかい?」


「分かったよ、答えられればいいんだろ」

「よしよし、うれしいねえ。今日みたいな月が輝いていない夜だと、なおさらだ」

 人影は喜んだ。心なしか、夜雪の曇り硝子のようなぼんやりした身体がゆらりとわずかにぶれた。

「じゃあ、第一問。欠けてしまっても大丈夫、放っておけばまた元通り。その姿に、心の広いご婦人もすっかり青ざめ一喜一憂、これは何か?」

 少年はあまり考えることなく、即座に答えた。

「簡単だよ、月だ。日によって満月になったり三日月なったりする。『心の広いご婦人もすっかり青ざめ』ってのは海のことだ。月の状態によって潮が満ちたり引いたりするだろ?」

「正解! 簡単すぎたかね?」

 

「もういいだろ、ついてくるなよ」

 少年は強がってこそいたが、その声には明らかな恐怖が含まれていた。影もそれを十分に理解しているから、楽しくてたまらない。

「ダメダメダメ。まだなぞなぞはあるんだから、逃げちゃダメだぜ。こいつは一つの試練なんだぞ、ぼく」

 

 ふわりと風が吹いて、影の姿は朧気に揺れた。そのまま産まれたての蜘蛛みたいに何処かへ吹き飛ばしてくれればよいのにと少年は願ったが、生憎叶わなかった。

 

「第二問。皆その赤ん坊を大事にする。一緒に散歩、一緒にご飯、そして皆で楽しくお風呂。やがて大きくなったらば、次第に煙たく思われて、おうちの中は荒れ果てた。これは何か?」

 

 少年は少々困った顔をして、しばらくの間考え込んでいた。だが、手に持った提灯を見て何か閃いたようで、堂々と答えを述べた。

「答えは火さ。小さな火は料理や風呂炊き、それに提灯の灯りとして使えるから消さないよう大事にされるけど、大火になれば煙が出て、家が燃えて火事になってしまうだろ?」

「お見事、正解!」

 

 影はその両手らしき部分を拍手するように左右に何度も揺らし、重ね合わせた。少年は苛立ちを伴った目でそれを見つめている。

「さあ、なぞなぞは終わっただろ。はやくどっかへ行ってくれよ」

「うーん、じゃあ、最後にもう一問だ」

 

「ずるいぞ」

「ずっかないさ。最初に何問答えればいいかなんて、一言もいってないだろ? いつ終わるかなんて、僕の気分次第なのさ」

 

 悔しさと苛々と恐怖で、少年はこの影を釣り上げられた川魚みたく思いきりぶん殴ってやりたくなったが、いかんせん影なのでそれができなかった。


 今日の昼に図書室で読んだ、ある探検隊の遭難記録を思い出す。南極で遭難した勇敢な隊長とその部下達は何とか家族の元に帰ろうと、たちはだかる困難に対してあきらめず果敢に立ち向かおうとする。でも自然の力は凄まじく、状況はどんどん悪くなる。結局、探検隊は一人残らず死んでしまうのだ。自分が今、そういう理不尽な状況に立たされていることを実感し、少年の目から涙が零れ落ちそうになった。

 影はその感情を理解し、この無力な人間の反応を存分に楽しんでいる。

「糸を結んで繋ぐもの。結べば楽しい、でもいずれは悲しい。千切られても悲しい。結ばなくてもやはり悲しい。いずれも必ず悲劇。それにも関わらず、皆それを欲している、これは何か」

 

 少年はかなり長い時間考え込んだが、答えが分からなかった。それでも何とか刻を稼ごうとしてずっと考えるフリをした。通りがかった聖人が、この悪鬼を退治してくれるかもしれない、そんな奇跡を念望した。

 

 だが、影は男童の浅はかな考えなぞ完全に見通していた。

「はい、それまで。残念だったね」

 答えは恋だよ、と影は言った。

「こんなもの、分かるわけないだろ」

 

少年の抗弁をよそに、影はぐるぐるとした丸になり、その身体で彼を取り囲んだ。

「さあ、一緒に行こうか。禍々しき暗黒の中へ」

「嫌だよ」

「大丈夫さ。何もない暗闇の場所だけど、すぐに慣れる。君もやがてはその一部になるんだからさ」

 

 あたかも己の縄張りに入り込んだ獲物を捕らえんとするヨゴレザメの如く、ぐるぐる回転しながら迫り来る影の粒子に、少年はどうすることもできずその場にへたり込み、わんわんとぐずりはじめた。今までの虚勢と知性はどこへやら、情けなく涙を飛び散らしている。

「こら、だらしないぞ。子供のくせに、覚悟を決めないか」

 影の言葉も、その割れんばかりのわめきにかき消されてしまう。

 

「分かった分かった、条件付きで許してやるよ。俺もそこまで悪魔じゃない」

 影はぐるぐる回るのを止めて人の形に戻り、少年の眼前に立った。そして、あるのか分からない頭の部分に手をやり、あきれ果てたようにため息をついた。

「本当に……?」

「その代わり、未来に産まれてくる君の愛しい坊やをもらうよ」

「いいよ」

 

「いいのかい? 君の子供だよ? 君が愛する人と恋に落ちて産みだす、可愛くて大事な人なんだよ?」


「いいんだよ」

「……一つだけ言っとくが、その時になって嫌だとか言ってもダメだぞ。何と言われようが無理矢理持って行っちまうからね」

「いいってば」

 一切の迷いなく、少年はいってのけた。影は少々焦ったが、やがてその浅はかな考えを見抜き、深く頷いた。

「そうかそうか、おじさんもそちらの方がいいや。連れて行きがいがある。今から楽しみだよ。ああ、期待で毎日がとても幸せになる」

 じゃあね、と言った後、強い風が吹いた。影はその勢いで消し炭の如くバラバラになり、やがて空に舞い上がって見えなくなった。

 

 少年はしばらくの間呆然としていたが、自身の命が助かったことを少しずつ実感しはじめると、心の中に明るい喜びが満ちはじめた。立ち上がり、まっすぐ導く一本道を駆ける。

 

(僕は女の子なんて嫌いさ。わがままだし、気分屋だし。そんな子を愛するもんか、恋するもんか。だから、子供なんてできないよ。バカなヤツ!)

 

 影を上手く出し抜いた己を、さんざんに褒め称えた。

 

 やがて、暖かな灯の漏れる自宅が見えてきた。あたかも竜を退治した勇者のような気持ちで、少年は勢いよく玄関の戸を開けた。

 

「おかえりなさい」という家族の声。お父さん、お母さんに混じってもう一人分、知らない声が聞こえてきた。

 足元を見ると、見慣れない靴がある。リボンのついてピカピカした、赤い女の子向けの靴。

 

 何だろうと思って居間に入ると、そこには女の子がいた。今宵のような黒髪を腰まで垂らして、白い洋服を着た子が、か弱そうな眼差しで少年の方を振り返った。

 

 その隣にいた母親が言う。

「この娘はみっちゃん、あんたのいとこ。叔母さんが用事こっちに来てるから、明後日まで一緒に泊まることになったの。仲良くしなさいよ」

 

 その少女は少年に向かって「よろしくお願いします」とペコリ頭を下げ、柔らかく優しい微笑みを浮かべた。学校の女子達とは違う、大人しい振る舞い。

 彼の心を紅色の流星が貫き、未知なる感情が産まれた瞬間だった。

(完)


この本の内容は以上です。


読者登録

エンジンさんの更新情報・新作情報をメールで受取りますか?(読者登録について