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9月20日の夜、朝倉タカシと見合いじゃ

何でしょう。今日は少し体が怠い。暑い日で雨がしとしと降っているせいかしら?

 

ところで私の名前っていつも不思議に思うの。本当の私らしくなくって『しのぶ』って言うから。耐え忍ぶというより私は天邪鬼だわ。だから天邪鬼子という名前の方が似合っているみたい。そう、子供の頃から、素直になれない私がいた。

大酒飲みの父の武井勇には、良く言われたわ。

「しのぶという名前のように忍耐強い子なら大和撫子になるけど、お前は天邪鬼だから、一筋縄ではいかない手ごわい子だ。結婚は難しいかな・・・・・・」

 言いにくいことをずばりという父である。母の咲子はそんな時、

「自分の娘になんてこと言うのですか。本当に結婚できなかったら、そんな決めつけたようなことを言うお父さんのせいだからね!」

 と言ってお父さんを本当に怖い顔をして睨むのです。笑えると言うか、微笑ましいというか、いや私の顔はそんな時、努めて平然としているようだけど、心の中は何か悲しくなってしまいます。私って本当に心の中にあることを伝えるのが下手だわ。というより、苦手なのです。母の咲子は秋田美人で、おしとやかで、とても素直で、近所の人からも評判が良くて、好かれている人だ。私はというと微妙かな?

 そうそう、良くある話だけど、小学生のころ大好きだった健一君が、隣の席だったことがありました。好きすぎて私はいつも意地悪をしていました。

「消しゴム貸して?」

「嫌よ。忘れて来た方がいけないんでしょう」

「じゃ良いよ。恵子に貸してもらうから」

 私は大好きな健一君に、私のお気に入りの良い匂いのする消しゴムを、本当は使って欲しかった。私のところに消しゴムが帰ってきたら、

「お帰りなさい」

と言って人がいない時に、消しゴムに唇を触れたかった。

 いつもそうして、心の中にある天邪鬼の性分は、猛威をふるって私をつまらない意地悪女にしていたわ。

 ある日、その健一君がこの大田区の洗足池から福島に引っ越して行った時、私は悲しかったのに、たくさんの同級生が見送りに駆けつけたのにもかかわらず、家から一歩も出なかったわ。お腹が痛いと言って、自分の勉強部屋でふて寝していました。そうしていると、何かの拍子に涙が頬を伝わって布団に浸み込むのを見たら、堰を切ったように泣けたわ。私ってどうして素直でないのかしら・・・・・・。自分の行動に情けなくなって、家族に聞こえないように布団を噛みしめて、泣き続けたことがあった。その情景は淡い思い出などというものではなく、胸を抉るナイフの傷のように、今でも疼きます。

 私には4歳下の実という弟がいる。現在、23歳で自動車の販売会社の営業マンで頑張っている。この子はどうしたことでしょう。私と比較すると物凄く素直なの。成績はあまり良くなかったけど、大学を何とか出て、大手自動車メーカーの東京の販売店に入った。二人兄弟の末っ子ということで、私が結構威張っていたから、類まれなる処世術を身につけたのか、捉えどころがないくらい調子が良くて、素直に表現すれば生き残れるという技を体得していたのである。だから、周りの人間たちから攻撃されないように、いつも素直な明るい顔をしていた。私と大違い。悔しい。兄弟でどうしてこんなにも命の色が違うのかしらと、いつも考えていたわ。武井勇と咲子の子供であっても、全く違う不思議さに悲しくなったこともありました。しかも実はお父さんの顔に似て、かなり良いマスクをしている。一緒に外を歩けば、年頃の女の子は大抵振り返る。そんな時の私の複雑な心の揺れを、実は全く気付かないで、にやにやしている。もう憎たらしい!

 

 私の顔、私の顔の出来と言ったら・・・・・・もちろん大和撫子よ!そうね、平安時代に美人と言われていた顔が、今の私の顔だと思っているわ。平安時代っていえば、貴族といえども、栄養のあるものを食べていなかったようだから、痩せた人が多かったみたい。この時代の人達もやっぱり天邪鬼で、痩せた女性ばかりだから、少しふっくらしたぐらいの顔つきの人が、美人だと決めつけたみたい。簡単に言ってしまうと、しもぶくれ、細い目、おちょぼ口、とがった小さめの鼻、黒い長い髪なのだけど、これって私の事だ。平安時代ならば、美人としてちやほやされたかもしれないけど、現代、この1992年のこの年のこの時、周りの男子諸君は、どうも私の事を正確に正当に評価していないようなのです。ちょっと悔しい。でも言っておきますが、おたふく顔ではありませんからね。おたふく顔と言えば、太った女性で、健康的で、子どもをたくさん産めるというタイプですが、それとは全然違います。

  現代は平安時代と比べたら、余ほどのことがない限り、食料が豊富です。だから太っている人がたくさんいて不思議はありません。つまり、ないものねだりで、痩せてスリムな人が美人と言われているのね。それにやっぱり目の細い人が多いので、目の大きな人、つまり希少価値の高い、目の大きな女性が美人と言われています。私は、私は残念ながら目が細い~。でもね、肌だけは自信があるんだ。私はきめ細かな真っ白な肌をしています。日本人って馬鹿だから、ずーっと白人への憧れが強いから、白い肌が美人と思っているようですから、私は嬉しい。

 

 けど、こんな幼稚なことばかり言っているから、私って27歳なのに、付き合った男性はわずか。仕事は蒲田にある女子高の普通科の先生。もちろん男性の先生もいるけど、私が言うのはなんなのだけど、皆どことなく世間知らずで、あまり良い人はいない。学校以外で付き合ったわずかの男性とも、恥ずかしいけどいつも中途半端で失敗しています。奥手というわけではないのですが、まあ、好きになっても「キライ」と反対の事を言う私だから、上手く行く訳ないか。納得である。それにしても、天邪鬼だけど、生徒との関係だけは上手く行っているのだから不可解。

 

 来週の9月20日の夜、嫌なんだけど、尊敬している叔父さんが紹介なので、朝倉タカシという名の男性に逢うことになっている。年齢が一つ下と聞いているので、自分の弟の実のようなイメージだからあり得ない話で、全く期待していない。それでもいつもニコニコしている嫌いになれない叔父さんの紹介だから、行く事にした。逢っても最後に電話番号を交換しないで、叔父さんのメンツも壊さない程度に、軽く流してごめんなさいで行くつもり。嗚呼、お金持ちでなくてもいいから、3っつぐらい年上の人を紹介して欲しかった・・・・・・。


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しのぶとタカシが出逢った日

 彼は建設関係の業界紙記者だ。長野の田舎から出てきた朝倉タカシという青年である。中央大学の文学部を出て、朝日の新聞記者になりたかったが、落ち着いたのは建設業界の中では勢いがあった建設工業新聞社である。入社して4年、かなり業界の事が判ってきたが、仕事一点張りできたせいか、私生活ではいまだに付き合っている彼女さえいない。職場の事務の女性は、既婚者か年齢が高いかであり、いわばマドンナのような存在は身近にいなかった。取材に明け暮れて、締切に追われ、口うるさいデスクに記事のOKを貰って、ワープロの蓋を閉じると一日が終わる。大田区上池台にある定食屋で遅い食事をし、年代物のアパートにたどり着いて、月2万円の4畳半の部屋に入ると、一日の仕事の忙しさで忘れていた『独身』という言葉が、冷たく胸に突き刺さってくる。

 長野の実家を出る時、希望溢れた人生、将来を勝ち取ろうと願って出て来たが、現実は会社という小さな世界で、右往左往しているだけであった。給料もそれほど高くないから、新しい世界へ独立ってことも考えるが、現実は難しそうだ。いや、本当の事を言えば、それほど強いハングリーさが朝倉タカシにはなかった。だから、いつも会社と取材先と定食屋と、たまに行くパチンコ屋ぐらいの拠点を、ぐるぐると回っているような気もした。

 その退屈ともいえる日々に必要なものは何だろうと、時々朝倉タカシの魂の内部から声が聞こえてくる。

『タカシ。贅沢はできなくてもいいさ。それでも一人前の幸福感ぐらいは味合わないと、一回きりの人生に意味はなくなるぜ。お前は希望溢れた人生、将来を勝ち取ろうと願って、長野の奥地から出て来たんだろ。希望ある人生なんてかっこ良いこと言わなくてもいいから、正直に吐いちまいな。恥ずかしいことないさ。幸せになりたいんだろう。激しい恋でなくても良い、普通に好きな人ができて、そんなに優秀でなくても良い、子供が何人かいて、育てる中で自分も成長して、人間の尊さを少しずつ知っていく。親しかった人との別れ、愛してくれた両親兄弟との別れを通して、人間らしく生きることの醍醐味を味わっていく。そういう幸せを感じたいんだろう。もう一度言う。かっこ良いことは言わなくていい。普通に家族を持ちたいんだろう。持たなくても幸せになる人もいるけど、人間本来の本能に従って生きるべきだよ。愛すること、家族を作ること、たくさんの別れを体験すること。これが本当の幸せだと思う。あとね、ちょっぴりで良いから、仕事を通して、あるいは直接的にボランティア組織などで、他人のために働くことだよ。人間なんて神秘的でも何でもないよ。どんな変人だって幸せになりたいんだから。タカシ、仕事ばっかりしていないで、一回きりの人生、多分たった一人しかいない本当の伴侶を、血眼になって探しな。クールになっている場合じゃないぞ。それだって結局、社会に、世界に貢献していることなんだから』

 そんな呻きのような叫びは、日に日に大きくなって行った。朝倉タカシ26歳、日々の平凡な繰り返しに、終止符を打とうと思った。

そのアクションを起こす相手は、取材先の武井さんという人からの紹介だった。姪っ子に女子高の教師で、良い子がいるから逢ってみないかというのである。

朝倉タカシにとっては、なんでもないなどという事はなかった。青天の霹靂と言えば大げさだが、心をかき乱されたのは間違いなかった。今まで付き合った女性は、ほとんどが片思いで振られている。タカシが変人というわけでもない。ただ、小心者のせいで武骨に見えた。本質は人と違った繊細さを持っていたが、残念ながら人見知りをするタイプなのである。それでよく記者が務まるなと言われそうだが、これは彼の持つ繊細さのおかげで、務まっていると言えそうだ。繊細であるがゆえに、取材先の担当者が何を考えているのかが見えるのである。だから人見知りの弱点を克服して、日々戦っているとも言える。

話は戻るが、タカシは繊細で臆病であるがゆえに、ある意味、女性と付き合った体験が少ないまま今まで生きてきたが、今回の武井さんの話は、何か曇天の雲の中央から、差し込んできた太陽の光のようなものにさえ思えた。彼はキリスト教徒ではないが、神はチャンスを与えようとしているとまで思い込んでいるのである。だから、思わず力が入るのであった。

 

 1992年9月20日の日曜日、タカシは蒲田駅の側の蒲田茶房の入り口の前に立っていた。入り口から階段を登ると、2階にその喫茶店はあった。午後6時の約束である。

 

土曜の夜は眠れず、日曜日の今日は部屋でそわそわして、夕方まで何をするのでもなく過ごした。夕方近くになると、スーツを着るのもおかしいので、武井部長が言っていたように、少しラフな格好にした。と言っても社会に出てまだ4年だから、あまり着るものもないので、なんとダサい姿だろうかと思ったが、ベージュのチノパンにベージュのポロシャツを着込んだ。アパートを出ると、あたりは暑い夏の残骸のように蒸していた。長原の駅まで歩く。もう薄らと汗をかいている。池上線は休日とはいえ、子供連れや若いカップルなどがたくさん乗っていた。26歳のタカシはやはり緊張していた。ダメ元とは言え、しかるべき人の紹介である。一生懸命対応しようと思った。教師というから、かなり固い人かもしれないが、このたった一回の出逢いが、人生を左右する出逢いにならないとも限らないのだからである。まして、あの人柄の良い武井部長の紹介だからなおさらである。

蒲田で池上線を降りて駅前の商店街に来ると、如何にもコーヒーの専門店のような雰囲気を持つ看板が目に入った。タカシはドキドキしながら、どちらの方向から来るのか判らないまま、アーケードの下のかなりの人通りのある歩道で立っていた。

 時計は既に6時を回っていた。長針が進むたびに、このお見合いの話はなかったのだろうかと思ったりもした。武井部長はあんな顔して、酷いいたずらをするものだとさえ考え始めた。日は既にとっぷり暮れて、各店舗の照明やネオンが騒々しい姿態を街中に広げていた。時計はすでに7時近くになった。もう一時間も待っているのである。タカシは武井部長の機嫌を損ねるのは嫌だったが、自宅の連絡先も判らないので、7時になったらこの蒲田茶房を去ろうと心に決めていた。店の中に入っていればもっと楽に待てただろうが、武井部長が入り口で待ち合わせをと言ったから、何か考えがあるのだと思って外で待っていた。1時間立ち尽くすというのは、やはりしんどかった。もしかして未来の伴侶になるかもしれないから我慢していたが、もう少しで忍耐の糸が切れそうになった。

 時計の長針は55分を指した。タカシはふぅーっとため息をついた。すると、どうだろう、駅側ではなく東の方角から、武井部長の歩いてくる姿が見えたのである。彼の後ろには紫と黒の格子柄のワンピースを着た、おとなしそうなショートカットの女性が続いていた。タカシは想像していたより古風なイメージのその女性に、一瞬にして魅せられたような気がした。

 近づいてきて武井部長は、

「お待たせしたのではないですか?」

といつもの微笑を湛えた顔で声をかけてきた。タカシは頭の中で、武井部長の電話で告げた逢う時間を確認しようと思ったが、武井部長の後ろで静かに会釈したその清楚なたたずまいの女性の存在に、どうでもよくなってしまった。

「いいえ5分ほど前に来たばかりです」

と嘘をついてしまった。

本来ならレディーファーストで、最初に階段を登らせるのは、その清楚な女性なのであろうが、男性がおしりを見て登るのもおかしいのか、武井部長はタカシを先に登らせた。厳めしいブラウンオーク色が目立つガラス入り木製格子戸を、タカシは先に開けた。開けてドアの取っ手を持っていると、微笑を湛えた武井部長と、ワンピースとペチコートの擦れる音がかすかに聞こえるしなやかな歩き方で、その女性は目を伏せがちに入ってきた。

店員に窓際の席に案内されると、その女性と武井部長が正面に座るのを待って、タカシも深い茶色のレザー風のソファに腰を下ろした。

「しのぶさん、アイスコーヒーでいいかな?」

こくりと頷くその様子は、平静さを保っているようだが、かなり緊張していることが見て取れた。タカシも内心は心臓が破裂しそうなくらいである。タカシは短い人生で、この見合いが真正の初体験なのである。真向かいに座っているお澄まししたような彼女は何回目?それとも僕と同じ、初めて?初めてにしては落ち着き過ぎているぞ、とタカシは思った。相手は教師だからか・・・・・・。などと頭の中は訳の判らない言葉を繰り出し、混乱状態に陥っているのである。

「僕もアイスコーヒーでお願いします」

顔が真っ黒に焼け、全身に溢れるような生気が滲み出ている蝶ネクタイをした店員が来ると、

「アイスコーヒー三つお願い」

と武井部長はにこやかに注文した。

「こちらが武井しのぶさんです。僕の可愛い姪です。年齢を聞くのは失礼だが、一つのお見合いでもあるから、ここは正直に朝倉君に伝えよう。今27歳だったね?」

「ええ」

と言いつつ武井しのぶは頷いた。頷くと何とも言えない清々しい石鹸のような匂いがした。

「こちらは、26歳の朝倉タカシ君だ。僕は年齢で二人はどうかなと最初思ったけど、一年や二年、生活環境が違うから、あまり大した問題ではないと思った。それにこの前、不思議と君たち二人は、もしかしたら相性がとても良いような気が突然したんだ。閃きというか・・・・・・。だから一回逢わせようと思ったんだ。これが正直な気持ちなんだ。まあ、いずれにしても、私がこのままここにいると話しにくいだろうから、のどを潤したら失礼するよ」

武井部長は武井しのぶが大事な姪っ子であることを、過去の生い立ちから話して聞かせてくれた。この子を結婚させるなら、僕のおめがねに叶った男子でないとだめだと昔から周りに言ってきたが、朝倉君は合格だというのである。一人で明るく話す声を聞いていると、武井部長は本当に社交的な人間だと朝倉は思った。しかし時には調子が良すぎて、少し裏があるのではとさえ勘ぐってしまう。やがて、武井部長は一人で喋って、一人で笑って帰って行った。

 

取り残されたような二人だったが、朝倉は取材には自信があったから、インタビュアーのようにしのぶに話しかけていった。最初の仕事についての質問は、しのぶの表情が硬く、一見するとあまり気乗りしてないようだったが、趣味の世界の話題になると、今までが嘘のように興味津々となり、瞳は五月の朝の雨の滴のように輝きだした。

「僕の音楽との出会いは、長野の中学、高校時代に、ブラスバンドに入っていたことです。楽器はトランペットで、信じられないかもしれないけど、それなりに県下の学校の中では、上手い方でしたよ」

しのぶはタカシの小さな自慢に微笑んだ。

「私も、実を言うと高校時代だけだけど、ブラスバンドでピッコロをやっていました」

「へぇー。それは偶然ですね。武井さんもブラスバンドとは。ピッコロはピッコロで花形楽器ですね。あの空を自由に飛び回るヒバリのような明るい音は、とても好きですね」

「ええ。私も高校でいろいろな課題曲をやり、楽しかったです。やはりブラスバンドの花形と言えば、トランペットだと思います。間違いないです。でもピッコロも吹奏楽の中では最高音域を担当しますから、すごく目立つし、存在感はあると思います。だから、音がずれた時なんかは、トランペットと同じで隠せませんものね」

「そうそう発表会で、ソロで高音のメロディーの部分があったのですが、そのフレーズの終わりが高いソの音だったので、苦しくて尻切れトンボのようになったことがあります。あれは悔しかったな」

 武井しのぶはタカシのその話に自分も思い当たるのか、口に手を当てて下を向いて含み笑いのように笑った。

 そんな調子でしばらく音楽談義が続いて、ある程度話してしまうと、次は文学の話だ。

「青春時代はどんな本を読まれたのですか?」

「私は、あまり難しいものは読みませんでしたけど、やはり一番好きなのは堀辰雄の作品です。特に好きなのは『風立ちぬ』です」

「へぇー、僕も読みましたよ。結構深刻で悲しい話ですね。僕の記憶では、美しい高原の中で、結核に冒されている婚約者に付き添う主人公が、彼女の死の影に怯えながらも、二人で残された時間を支え合いながら、共に生きていくというような話でしたね。『風たちぬ』の題名も僕はとても大好きです。風のように去ってゆく時の流れに、人間そのもののはかなさを重ねながらも、生死の意味を問い、やがては時間を超越した幸福感を確立していくという過程を、しっかりと描いた作品だと思います。解釈が間違っていたらごめんなさい。僕も大好きな作品です」

「吃驚しました。朝倉さんはそんなに深く読んでいたのですか?凄いですね。ちょっと信じられません。私の大好きな小説の一番の大事なところを、朝倉さんは見事にまとめて言ってくれました。本当に凄い・・・・・・」 

 武井しのぶはしばらく唖然とした顔をして、アイスコーヒーのストローを口に当てていた。

「僕も本当に小説が大好きで、高校時代、大学時代は図書館の本を片っ端から読みました。遡れば小学生のころは冒険もの、シートン動物記、ファーブル昆虫記から始まって、中学の終わり頃、ドストエフスキーやニーチェを読みましたね。高校の時にはキルケゴール、そして日本文学などは全集ものを読みました。大学時代はドイツ文学専攻なので、ゲーテなどドイツの作家の作品です。いろいろと読んできましたけど、日本の文学で五つ好きな文学を挙げろと言われたら、堀辰雄は必ず入ります。あの何とも言えない美しい文体と、描かれた風景は忘れられません。なんか、フランス文学のマルセル・プルーストの作品に、重なる部分がたくさんあるような気がします」

「そうでしたか、私もあの軽井沢の生活風景がとても心に残っています・・・・・・。結核で亡くなっていく婚約者のことを思うと、とても悲しかったです。幸福感の確立とおっしゃいましたが、私はただ泣きました。泣いてその果てにある悟りのような幸福感なんて・・・・・・。朝倉さんの前向きな言葉を聞いても、まだしっくりとしてないところもあります」

 何か淋しい暗い表情が、彼女の顔に浮かんだように朝倉には見えた。

 

しばらく沈黙が続いたあと、何事もなかったように、武井しのぶの顔は元の落ち着いた表情に戻った。

「高校でどのくらい本を読んだのですか?大学ではどうでした?」

「あ、今度は僕がインタビューされているようですね」

 武井しのぶは白いふっくらとした手を口に当てて少し笑った。

「そうですね。高校時代は新潮社の世界文学全集と、集英社の日本文学全集は全部読んだ記憶があります。大学時代も授業の合間や夜の就寝前、そして休日もたくさん読みましたね。それこそ古典と言われるものはほぼ読んでいます。もちろん専攻はドイツ文学ですから、ドイツ文学は読み漁りました」

「朝倉さんは本当に真面目で凄い人なんですね。私も教師の端くれだから文学は相当読んだ方ですけれど、負けましたわ。本当に」

 また、その白いふっくらとした手が口のあたりを覆い、含み笑いのような静かな笑い声が朝倉の耳を擽った。

 

 次の話題は映画である。朝倉はそれほど知っているわけではないが、時代を象徴するような記念碑的作品は割と鑑賞している。

「僕は子供の頃見た『エデンの東』が大好きです。最近も何度かビデオテープを借りて見ているけど、色褪せない作品ですね」

「私もキャル役のジェーム・スディーンは好きですね。あの哀愁を含んだ眼差しを見ていると、体が痺れます」

「そうですか。僕はアブラ役のジュリー・ハリスが印象に残っています。父との和解を促した心優しき女性です。大きな瞳が忘れられないです。それにしても、そういう役者たちも凄いけど、ストーリーも最後には理解し合う父子というのは、永遠の課題なのでしょうか?人間の避けられない性なのでしょうか?」

「私もとっても考えさせられたわ」

 

二人の会話はそんな風にして、十時過ぎまで続いたが、ふと腕時計を見やった朝倉は慌てたように言った。

「気づかなくてすみません。もう遅いですね。明日からまたお互い仕事ですから、良かったらこの続きは場所を変えて、またゆっくりとお話をしましょう。連絡先を教えていただいてもかまわないですか?」

 朝倉タカシは会話が良い雰囲気で進み、一応は意気投合しているように見えるが、簡単に彼女が次回の待ち合わせを快諾するかについては、全く自信がなかった。ところが、

「はい、判りました」

 と言ってくれたので、心の中にあった不安は消し飛んだ。

 朝倉タカシは住所と電話番号を聞き、一緒に池上線に乗って帰ることにした。電車の中でも相変わらず、会話は途絶えることなく続いた。相手を知りたいというタカシの願望が、素直に出ていたのである。

 洗足池の駅で、電車に乗ったタカシを見送るためにホームに立っていた武井しのぶの黒と紫の格子のワンピースは、洗足池から吹き付ける風になびいていた。やがて電車が発車すると、深々と彼女が頭を下げたのが見えた。もう遅い時間である、自宅まで送るべきか迷ったが、初めから馴れ馴れしいのもとタカシは声を掛けなかったが、後悔した。彼女が見えなくなると、感動の嵐が体内を突き抜けて行った。素晴らしい女性に出逢えたという痺れるような満足感が、脳内を支配していた。長原駅で降りて、アパートまで走った。体が勝手に動くのである。感激は肉体に有り余るほどのエネルギーを与えているのだろうか。タカシは扇風機の風を浴びて布団に横たわったが、眠ることは出来なかった。体中がむずむずして燃えているかのようであった。

 

 

◇9月20日(日)曇りのち晴れまた曇り

まだまだ暑い日が続きます。

今日叔父さんの紹介で、朝倉タカシさんという人に逢ってきました。一つ年下だから弟の実みたいなものだから、体よく断ろうと思ったのに・・・・・・。

 午後7時に叔父さんと一緒に蒲田茶房の前で待ち合わせし、お茶を飲みました。第一印象はとても神経質な感じ、黒い眼鏡がそう見えるのかしら。でも叔父さんがいなくなってお話を始めたら、趣味の嗜好があまりにも似ていることが驚きでした。

 今日はさすがに初対面だから、私の天邪鬼はかろうじて顔を出さず、質問にも素直だった。ちょっと不思議な感じです。

 今日は眠れそうにありません。明日の授業頑張らないといけないのに・・・・・・。  しのぶ

 

 

 次の日、タカシは聞いたばかりの武井しのぶの住所に、お礼の手紙を書いた。そこには率直にしのぶを気に入ったことが追記されていた。受け取ったしのぶは、悪い気はしなかっただろう。 


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天邪鬼と夜叉

10月11日、三週間ぶりにタカシとしのぶは、洗足池のイタリアレストランで逢うことになった。中原街道に面した、洗足池の畔にある店だ。

 タカシはしのぶと出逢ってから、三日おきくらいに愛の手紙を書いた。その愛の手紙は、天邪鬼でちょっと斜めから人生を見ているようなしのぶの心を、溶かしていったようだ。

お店のテラス席は、洗足池に面していて、都心にいながら、異次元の世界のようであり、四季の自然を感じられるレストランであった。タカシは居住地の周辺でゆっくり話せる場所を捜しているうちに、このレストランの存在を知り、すぐに予約した。

 

洗足池駅の改札口付近で待ち合わせをした。タカシが先に来て待っていると、茶色系の格子柄のワンピースを着たしのぶが、商店街の方角から来て、軽く笑いながら小さく会釈をした。初めて逢った時よりも、打ち解けたような雰囲気がある。

「地元にこんな良いレストランがあることを知らなかったので、今日は楽しみにしてきました。それでは行きましょう」

「はい、私も楽しみにしてきました」

 今日は何故かしのぶの話し方に、優しさがあるような気がした。

中原街道の巨大な歩道橋を渡ると、前面に駐車場があり、洒落た看板のレストランの名前が読めた。二人は中に入って行った。店内は、木を多く用いた内装で、落ち着きのある雰囲気は、ゆっくりと話しができる空間であるように思われた。

 テラス席に案内されると、日没時間に近づいた洗足池の水面が、夕日に反射して穏やか揺れていた。メニューは、ピザ、パスタなどのイタリアンと、カレーなどの洋食があった。

 タカシはしのぶと相談して、マルゲリータのピザとラザニアを注文した。最初に、二種類のパンが運ばれてきた。プレーンのフランスパン風と胡桃の入ったパンだ。バターを塗り、頬張ると、何とも言えない味わいに、二人は頷き合った。

 

「この前の夜はごめんなさい。仕事で教頭や校長に電話することがあったのですが、誰も出なかったのです。幾度かダイヤルを回したのですけど、二人とも応答がないので、ちょっとしたジョークのつもりで、タカシさんに電話してみたのです。そしたら、まだ帰っている時間ではないと思っていたのに、出たから吃驚したのです!!私はドジだから、そんなことを冷静に考えるとあり得ない事なのに、泥棒が入っていて、タカシさんの電話機で応答したのかと思ってしまったわ」

 タカシはしのぶの意外な天然さに、吹き出しそうになったが堪えている。

「それではあの時、最初は僕の事を泥棒と思っていたの?笑えますね。そうか、それで何か会話が不自然だったんだ」

「何もないところに入って、あら私って失礼なこと言いました。でも一瞬、私は本当に馬鹿な泥棒だと思ったの。私の方が馬鹿みたい。あり得ないのにね。でも本人という事が判ったので嬉しかったわ。電話でお話しするのは多分3回目ぐらいかしら。タカシさんは私の声を聞いた時、喜んでくれました?」

「もちろんですよ。いつも手紙ばっかり書いているけど、電話で生の声を聞く方がどれほど嬉しいか・・・・・・」

「良かった。まだ、タカシさんの生活時間帯や、いろんなことを全く知らないのに、変なことして引かれたら困りますもの。でもあの時ちょっぴり不満でした」

「何か僕が嫌なことを言ってしまいましたでしょうか?」

「それ、それです。朝倉さんは話す時に、いつも敬語を使っていることを知っていますか?意識して使っているのでしょうか?」

「手紙を僕の方から何通も出しているけど、今日で二回目のデートという事を考えると、馴れ馴れしいのは失礼かなと思って・・・・・・」

「女性は皆そうだと私は勝手に思っていますが、命令的な口調は当然嫌です。でも敬語で話されるのはもっと嫌です!その理由は何故か遠い存在となってしまうからです。お電話で話ができた嬉しさ反面、それでちょっと気持ちが萎えてしまいました。だから実はあの時、今度話しをする時は、私が敬語を使って嫌な思いをさせてあげる、という意地悪な心境の中、受話器を置いたのです」

「そうでしたか。僕は武井さんの話し方に、確かに何か違和感がありましたが、調子が悪かったのかなと思っていました。気づかないですみません。大変に申し訳ありませんでした」

 しのぶはタカシの相変わらずの敬語調の言葉に対して、口のところを押えて噴き出すのをこらえていたが、抑えられない笑い声は、洗足池の水に吸い込まれていくようであった。

「タカシさん、生来女性は意地悪な心が表に出たがっているのかもしれないわ。でも、今日の私は意地悪な女ではありませんから、安心してください」

 タカシはどんなに小説を読んでいても、男性が書いたものが多いせいか、女性の本質の一端は、実は誠に微妙であることを、初めて知ったような気がした。

 そんな話をしていると、池の水面には、すっかり夜の照明がキラキラ反射する頃になった。ゆらゆら揺れる光が、心に沁みてくるようだった。

お店の照明は適度に落とされていて、二人の座っているテーブルにはキャンドルが灯っている。この日はピアノの生演奏も行われた。二回目のデートのシチュエーションとしては、二人のお互いを思う心を、さらに熱くするものとなったようだ。

マルゲリータは、濃厚な旨みのあるチーズとトマトソースが絡み合い、独特な味わいが舌を歓喜させる。ラザニアは、茄子が入っているもので、見た目は豪華だが、意外とさっぱりした味に、タカシとしのぶは満足しているようだった。

 

「私が今、心が高まり嬉しいなというのは、素直に言えば、朝倉さんのお手紙が来た時です」

 下戸のしのぶは、タカシに勧められたビールを小さなグラスで少し飲んだせいか、心の奥にしまっていたことをすんなりと話している。タカシは照れている。

「そんな時は、わーあ来た!!と1日中喜んでいます・・・・・・。それから、朝倉さんからの電話も楽しく待っているのです。わーあ、こんなことストレートに言うなんて私少し酔ったかしら?」

「本音を言ってもらえると、僕は嬉しいけど・・・・・・」

「それでは酔ったついでに、この間の手紙の感想言おうかしら。朝倉さんの女性観が書いてあった手紙です」

「生意気に書いてしまいました。すみません」

「あの手紙を読み、キライなタイプの女性像と、理想の女性像を私に当てはめてみました。たくさんの反論があるはずなのに、約一週間考えて思ったことは、女性のほとんどはその嫌な女性のタイプに、なりうるという事です」

「そうなのですか?そんな答えが返るとは、思っても見ませんでした。多分、僕は男性が書く小説の受け売りが多いからかな・・・・・・」

「女性は、内面にその悪女、悪魔、悪鬼のような要素を必ず持っていて、それが出ようとするのを、一生懸命に出すまいとして抗っているのです。本当は。一人の男性を心の底から愛したことのない人は、自分の思った通りに行動をします。天邪鬼になりたい時には天邪鬼で、我儘を言いたい時は目いっぱいに言う時もあります。しかし、一人の男性を本当に愛した時には、相手のことを想い、我を抑えるのが普通だと思います。私は究極のところでは、我を抑える自信が余りありませんが・・・・・・。つまり女性の内面には、常に夜叉が存在しているという事なのです。私の場合を振り返って良く見ると、女子高の教師をさせていただいていて、面倒を見させていただいている生徒が何十人といますから、自分の心のコントロールの繰り返しで、今のところかろうじて朝倉さんに地は出ていないと思うのですが・・・・・・。でも教師になっていなかったら、きっと朝倉さんの嫌いな女性の全部が、私に当てはまるのかもしれません」

「そうかな――?僕には武井さんの本質を、まだ見抜く力がないのかな――。出逢った時からとても優しくて、おしとやかに見えるんだけど・・・・・・」

「それは多分私の事を買い被りです。相手によって出る可能性もあるのではないかなと思っています。そうですね。第一に意地悪を言ったり、からかったりすることは、前兆だったりしてと驚かしておきますね・・・・・・」

「大丈夫、多分、武井さんに意地悪されても、僕は怒らないと思うけど・・・・・・」

「男性を怒らせた時に、その人の本質が良く判ると言われています。女性が怒らせようとしかけても、いつもと全く変わらないか、変わるかで男性の器の大きさがわかるのでしょう。腹の中は煮えくり返っているのだけど、顔と態度に出さないというのが、本来のできた人物ですよね。朝倉さんも判っていると思いますが、男女の違いを見ると、女性は感情的であり、嫌なことをすぐ顔に出し、態度にも出します。でも、男性は感情を抑えることができると思いますが・・・・・・」

「逆にかなり男性を、買い被りすぎていませんか?」

「そうですね、確かに、女性でも男性に近い人がいるし、男性でも女性に近い人がいるしね。私の場合は、もっとも嫌な女性の面を持っているような気がしているのです。今は、朝倉さんと将来、真っ向からやりあうかどうかは想像がつかないけれど、もちろんやりあわないにこしたことはないのですが、頭にきた時は、大きく息を吸い、そしてゆっくり吐くくらいの余裕は持ちたいと思っています。もし喧嘩になった時には、相手に対し、絶対言ってはいけない言葉を、今は朝倉さんに対してそんなものはないけれど、もし見つけて言ってしまった時、後で後悔しても遅いとなってしまいますもの・・・・・・」

「なんか、今日はちょっと突っ込んだ話になりましたね。逆にミステリアスな武井さんを見たような気がします」

タカシはそう言いながらも、包み隠さず心情を話すしのぶに対して、心の中に複雑な思い残したような気もしたが、これから起こるいくつかの艱難辛苦を、この時点では予想することもできなかった。

 

それからの話題は二人の生い立ちなどに移り、様々なエピソードが驚きと笑いの中で語られていった。しばらくするともう9時近くになっていた。

食事はかなり前に終えているが、苦味のある美味しいアイスコーヒーをお代わりしているうちに、閉店時間に近づいていたのである。

しのぶは精算して戻ってきたタカシにこう言った。

「今日はごちそうになりましてありがとうございます。今度お逢いする時は私が払いますね。それで私のお願いですけど、次回はぜひ動物園に連れて行ってください。如何ですか?」

「お安いご用です」

 二人は笑いながらお店を出て、また巨大な歩道橋を渡り、洗足池の駅の側で別れた。タカシをしのぶはニコニコしながら見送った。

 

    

◇10月11日(日)曇り

今日は朝倉さんと二回目のデートです。

午後5時、洗足池駅で待ち合わせしました。気に入っているブラウン系の格子柄のワンピースを、着こんで出かけました。三日に一通はくれる朝倉さんのラブレターに、私はほとんど返事をしていないけど、だんだんと待ち焦がれるようになって、私の心は彼殿に傾きつつあります。女って好かれると弱いものだと思うのだ!

洗足池駅に彼殿はシンプルでちょっとダサいけど、ベージュのシャツにジーンズで、ニコニコ嬉しそうに待っていたわ。私もついつられて顔がほころんで挨拶をしました。中原街道を渡る横断歩道はありません。自転車もそのまま登れるような大きな歩道橋を登って、反対側の洗足池側に降りると、さわやかな夕方の風と水の匂いがしました。畔にあるレストランは、木製の格子の上に看板が据え付けられていて、しゃれた文字の店名が刻印されていました。

ここで約四時間の質問と笑い。私、少し言い過ぎたような気もするけど、彼殿の瞳が、瑞々しく輝いていたのが印象的だった。洗足池駅の前で9時過ぎに別れる。別れ際にじっと私を見つめていたあなたの顔は、少年のように清らかですがすがしかったわ。

でも、また苦情めいちゃうから嫌だけど、女性の私を送ってくれることが今まで常識と思っていたので、上池台の方に向かって歩いていく彼殿を見送るというスタイルが、複雑な思いを残したのである。                  しのぶ


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不忍池からやってくる秋の風

 10月25日、曇りのち晴れのさわやかな過ごしやすい日であった。11時にタカシはしのぶと五反田駅で待ち合わせた。11時15分前にタカシは到着した。改札の方を見てもまだしのぶの姿は見えない。タカシはホームの端の方に行って、煙草の箱をポケットから取り出した。火をつけゆっくり吸い出した。吸い込むと胸が苦しくなるような錯覚がする。これから逢うしのぶを慕う気持ちの高ぶりが、抑えきれないような気もした。こうやって、地球上の数多のカップルと同じように、特定の異性へのときめきの時間を味わえるようになった自分が、今は信じられなかった。少し前までは一人の生活に慣れ切っていたのに。今は気を使う相手がいる。待ち焦がれていた異性がいる。そして今、この場所に向かって来ている。逢えば湧き上る愛の予感に心が弾む。

やがて、次の電車がやって来た。深い緑色の3両編成の車体は、ホームに横づけになった。しのぶはきっとあの電車に乗っているのだろうと想像した。するといつものフェミニンなファッションではなく、紺色のチェック柄のシャツを着て、ジーンズにピンクのスポーツシューズを履いているしのぶが、急いで改札口の方へ向かって歩いて行くのを発見した。自分の事が見当たらず、一生懸命に探している姿がいじらしい。タカシはそう思った。それならいっそうもう少し見つからないように隠れようかとも思ったが、小心者のタカシはそうはできなかった。すぐに駆け寄って声をかけると、しのぶは吃驚したように振り向いた。一瞬にして少し不安を帯びた顔が、安堵の表情に変わって行くのがタカシには判った。

 

山手線に乗り、上野に向かった。

 上野動物園、長野にいた時に中学の修学旅行で足を運んだ記憶が、タカシの脳裏によみがえってきた。

 上野駅を降りたら周りの群集は、動物園という異次元の世界への期待感で、テンションが高くなっているのが肌で伝わってくるようだ。控えめに手を繋いでいたしのぶの手も、期待で躍動しているのが判る。いや、タカシにとっては、初めて触れるしのぶの白い手は、柔らかくて少し冷たくて、電気を帯びているようにタカシを感電させた。しのぶもきっと同じような感慨を持っていただろうが、動物園への期待感と重なって興奮状態になっているようだ。ゆるい坂を登って行くと、やがて大きな入場門が見えてきた。

「何だかわくわくするね」

 と言ったしのぶの声は、少し上ずっていた。

 彼女は小学校の頃、学校の遠足で上野動物園の見学があったが、たまたま体調を崩して参加できなかった悔しい過去があった。かといって大人になるまで、見学に来る機会はなかったのである。だから、今日のしのぶは、タカシにその機会をねだり、成就する運びとなる嬉しい日なのである。タカシと出逢わなければ、見学の機会はまた伸びたのであろう。

上野動物園は、丘陵地の自然やその景観を維持している都市型の動物園で、およそ400種3,000点の動物を飼育している。

東園は巨樹が鬱蒼としていて、とても東京都内とは思えない。大きな上野公園の丘陵地に位置している。中型のサル類がいたり、ジャイアントパンダ舎、ゴリラ・トラの森、ゾウのすむ森、クマたちの丘、ツル舎などが見物できる。

表門広場を入ってすぐ左側には、五重塔をバックにエゾシカやニホンカモシカ、日本の野鳥を展示する動物エリアがあった。ここでは、ルリカケスの行動を理解できるように工夫した展示や、ニホンリスの連結ケージなどが見られた。

今日のしのぶは、タカシに子供のように甘えているようだ。手を繋ぎ、

「早くパンダを見ようよ」

 と急かす。

東京近郊でパンダを見られる唯一の動物園ということもあり人気はすごい。パンダの檻の前は長蛇の列だった。しのぶはまるで迷子にならないように、必死にタカシの手を握っている。タカシはパンダより、しがみついているしのぶのかすかな吐息の気配と、握りしめてくる冷たいのか暖かいのか判らない手の感触に、体中の神経が集中しているようだった。パンダの見学はその次であった。それでもしのぶと並んで、愛嬌のある大きなパンダを見られるのはほんの一瞬であるから、目も閉じないで真剣にタカシは見た。こんな一瞬であるからこそ、人々は感動するのだろうか。しのぶの感動が手の感触から伝わってくる。もし、しのぶと結ばれて子供ができたら、パンダをまた見に来たい。家族で見るパンダほど、多分もっと感動は深くて凄いものなのだろうと、タカシは想像しながらしのぶの手を強く握った。

「痛い!」

「ごめん、つい」

 二人は目を合わせて笑った。

ゾウのすむ森は、緑と土の放飼場と、群れ飼育ができる施設があり、充実した環境だ。寝室にいるゾウの様子や、プールでの迫力ある水浴び、放飼場での採食や砂浴びなどを、さまざまな角度から見ることができた。それから、クマたちの丘をゆっくり見た後、ホッキョクグマとアザラシの海を見物。ホッキョクグマが生き生きとダイナミックに行動する姿や暮らしを、間近に観察することができた。また、ホッキョクグマと生息区域が同じであるアザラシが泳いでいる姿に、しのぶは親しみを感じていたようだ。

ここまで見物して来て、もうかなり歩いた気がしたが、やっと半分である。今度は西園である。モノレールも走っているが、二人はゆっくり歩いた。イソップ橋を渡ると、子ども動物園が見えて来た。

この西園は、ハスが茂り、島が点在する風光明媚な不忍池北側の区域である。キリン、カバ、サイ、ハシビロコウ、アイアイなどアフリカ産の動物、両生爬虫類館、家畜動物が中心の子ども動物園、動物園ホールなどが点在している。

「お腹がすきませんか?」

タカシはもうかなり前からお腹の虫が鳴っていた。

「そうですね。結構歩きましたから。実を言うとお腹はペコペコです」

しのぶはタカシの気持ちを察しているのか、笑いながら答えた。 

「混んでいますけど、あそこのレストランに入りましょうか?」

ペンギン、カンガルー、フラミンゴ、オオアリクイなどを見物していくと、西園食堂があった。園内にあるレストラン兼休憩所といったイメージの食堂だ。

意外とメニューは豊富だったが、テーブルに着席すると、タカシはしのぶにオーダーを聞いた。

「そうね、カレーがいいかしら?あと、コーラください」

「じゃ僕もカレーにしよう。あとフルーツパフェ」

 タカシのオーダーに、しのぶは一瞬きょとんとした。そう、見たことのない場面が、目の前に出現した時に生じるあの驚きの顔である。混雑はしているが店員がやってくると、タカシは淀みなく注文品を告げた。

 料理が配膳されカレーを頬張っていると、コーラとパフェがテーブルにやってきた。しのぶは大好物のコーラを口に含むと、満たされた顔つきになった。それでも目の前で、パフェを長いスプーンで美味しそうに食べているタカシを見ると、なぜか少し不機嫌そうだった。

「どうかしたのですか?」

 タカシは不審に思って聞くと、

「何でもない」

 と言ってしのぶはまたコーラをかなり勢いよく吸った。氷の白い小さな粒が見えてきて、茶色の液体はみるみるしのぶの口の中に吸い込まれていく。

食べ終わると、しのぶとタカシは見物した動物たちの話で盛り上がった。しのぶは特にパンダを見た時の感動を、しつっこいくらい繰り返している。タカシはニコニコしながらその話を聞いているが、少し殺伐としている店内や、メニューの表記なども眺めていた。この食堂のイメージとしては、商売っ気の無さがもろに出ているような気がした。カレーの味は良かったし、パフェのパンダの顔も面白かったが、今一つ洗練されたものを感じられなかった。タカシの目はしのぶに首ったけだが、記者の目として、あとで役立つようにさまざまな都会風景も、記憶にとどめようとする貪欲な面もあった。

しのぶが約束通り食事代を支払ってくれて食堂を出ると、二人はキリンとカバのエリアを見物した。長い首のキリンに、しのぶはいつまでも見とれていた。カバやサイの前で、ジョークを連発するしのぶは可愛かった。

 

不忍池は天然の池で、堤で3つに分かれている。1つの「鵜の池」が、園内の池だ。岸辺などを活用して、ツル、ペリカン、オオワシなどの鳥類が展示されていた。

「池を見ると、心が落ち着きますね」

ベンチに腰かけて、タカシは呟いた。

「本当ですね。洗足池とは違った趣があり、ここも良いです」

「しのぶさんはしのぶなのに、ここはしのばない池というのは、妙な取り合わせですね?」

「私は天邪鬼だけど、しのぶ時はしのぶのです」  

「しのぶという名は、本当に良い名前だと思います。好きですね。でもしのぶさんはきっと天邪鬼だから、辛い時には大丈夫と言い、病気の時には何でもないと言いそうだから、僕にだけは隠さないで何でも言ってください」

 タカシは何故か変なことを言ったとは思ったが、しのぶは、

「私って健康だけが取り柄だし、辛かったらタカシさんに当たるから心配無用です」

 と笑った。

「変なこと言ってすまない。まあ何でも言ってもらえると、嬉しいという事です」

 タカシはそう言って、不吉な言葉を打ち消した。不忍池からやってくる秋の風は、生暖かいが、すでに凍てついた冬の厳しい寒さをも連想させた。

 

 

◇10月25日(日)曇りのち晴れ

楽しい上野動物園、彼殿と待ち合わせの日です。

 11時に五反田駅で待ち合わせ。出かけ際に電話あり。その時間30分間。生徒のOさんの悩みが一つ解決すると、次にMさんの悩みが入ってくる。その度に自分が少しだけ成長できていることが嬉しい(これ嫌味ではない)。

遅刻したら彼殿から怒られそうで、その顔を想像しながら駅に向かう途中、ある生徒の保護者から声をかけられ少々談笑!急いでいる時はこのようなものなのです。ハイ。

電車の中を走るような思いで五反田着。11時少し前!彼殿がいないことがおかしく思え、駅ビルや売店や電話の置いてある付近を探してしまった。彼殿が先にいるのが当たり前と思っている自分に気付き、吃驚してうろたえていました。もう確実に甘えきっている私を発見してドギマギ!

動物園のパンダを見に行くのが夢だったが、叶えてくれて彼殿に感謝、感謝。本日は良く歩いたなとの実感!楽しかったわ!      

 

近頃感じるのですが、少しずつ地を出し始めたなと、彼殿を見ています。初めての印象が良い人は、少しでもドジっぽい我を出すと、イヤになるのが女性です。良い面、悪い面があって本来の人間ですけれど、私にとって男性の存在とは、尊敬できる頼れる人であるという事が、出発点であります。その出発点を持っている人であるなら、普段の些細なことは気にならないはずです、と自分自身に言い聞かせています。良くわからない文章となってしまいました。単刀直入に書かないと、このような文章となり、何を言っているのか自分でも判らなくなってきます。

私の意識の中には、男性は甘いものは食べることが少なく、特にチョコレートパフェとかバナナパフェは、女性と子供が食べるものと決めつけていたところがあります。それなのに彼殿が召し上がった。今まで抱いていたイメージが、頭の中で崩れたのです。他の人から見れば些細なことなのでしょうが。確かに他の人が召し上がる分には、どうってことはないし、女性っぽいなんて軽く思ったりしたでしょう。でも目の前で、しかもお見合いをして3回目のデートの相手!簡単に女性っぽいだなんて、思ったりはできない心の動揺を、彼殿は測りきれるでしょうか?けれども食べてはいけないという事ではないのです。私があまりにも小さな器であるという現実に、今気づいているのです。その人を全部ひっくるめて尊敬できるのなら、普段の些細なことは気にならないはずだと反省しているのです。ただし、尊敬できる男性は、普段の行いもほとんどが尊敬できるという方であるはずです!?     しのぶ 


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結婚を前提に付き合いたい

11月8日、快晴で気持ちの良い一日であった。午前11時半に洗足池駅で待ち合わせ。しのぶはやっぱりタカシより遅れて駅に駆けつけてきた。オレンジカラーのスカートに、アイボリーのシースルーのノーカラージャケットを着たしのぶは、いつになく若々しさを感じさせた。石川町駅から中華街に歩き、小龍包などを食べた。腹ごなしを兼ねて、山下公園方面へタカシとしのぶは歩いていった。 

山下公園は、取り立てて何か特別なものがあるというわけではないが、タカシの中には、何かおしゃれな文化を持った土地にある公園というイメージがあった。『浜っ子』と言って、地元の人間が郷土愛を持って自慢しているぐらいで、他の土地と大した違いはない。それでも頭の隅に刷り込まれたイメージは、拭いきれない憧れの場所である。しのぶもそうだという。いずれにしても港町横浜の雰囲気を、十分に感じ取ることができるのがこの山下公園だ。園内はかなり広い。今日の二人は歩き回るというよりは、のんびりと白雲とブルーの海を眺めながら、過ごそうとやって来た。天気の良い日なので当然人も多く、絶景の眺めの良いベンチの確保は難しかった。屋根のある場所もほとんどない。それでも、タカシはベンチを探した。そうすると、丁度親子連れの3人組がベンチから立ち上げるのが見えたので、タカシは走った。幸い確保できたので、嬉しそうに小走りで来るしのぶに手招きした。

今日のタカシは、心に決めていたことがあった。正式にしのぶと『結婚を前提に付き合いたい』と言うつもりであった。

日差しが意外とまだ強く、しのぶは少し顔が焼けそうと言って笑った。タカシもそうだと言って、ブルーの海を眺め話し続けた。彼らにとってはこの美しい風景も、二人の寄り添うような会話を飾る絵画であった。

「しのぶさんは時間が出来たら、何をしていますか?」

「教師は意外と時間外の仕事が多いのですが、たまにぽっかりと時間が空いた時には読書をします」

「偉いですね」

「学ぶことは、幼いころからとても好きです。家には絵本がたくさんあったことを覚えています。東京の子供はどうも『ひ』と『し』がごちゃごちゃとなって言えないようです。私も幼い時、自分の事を『しのぶ』と言えず、『ひのぶ』と言っていたそうです・・・・・・。面倒になって友達の前でも、自分のことを『ノブ』と言って、小学生時代を過ごしました。『ノブの童話を読んで頂戴』と母の膝に座り、絵本を読んでもらったことが多かったのです。歴史小説の本が好きだった父が、背中におぶさった私に、その物語を話してくれたことも記憶にあります。ただ、父の話は、聞き始めた時はまだ私が幼かったため、その時はあまり理解してはいませんが、不思議と小学生の高学年から中学生になって、ああこんな話父から聞いたような気がすると、結構刷り込まれていたことが判るようになりました・・・・・・。タカシさんも本が好きだから、色々教われることがあると、楽しみにしています!私から学ぶものはあるかな?なかったりして・・・・・・!」

「そんなことはありませんよ。多感な女子高生に教鞭を取っているのだから、逆にいろんなことを教えてもらえるのは僕の方ですよ」

「今のは、謙遜で言いました」

 どっと笑いがはじけた。二人の高揚した声は、眼前の海の中に吸い込まれていくようであった。

「教師になった理由は、多分私は本来人間が好きなのでしょうね。若い人との対話の中で、むしろ自らを見つめ、いろんなことに挑戦していこうと決意することが多いのです。だから、教師としても人間としても生涯学んでいきたいです。それは、出逢う人と共に成長していきたいという私の願いであり決意ですね」

「すごく真面目で、素晴らしい話です」

「どうしたのかしら、今日は素直に言っている自分がいる。青い海と白く霞んだ地平線、そしてまたその上にある青い空のせいかしら・・・・・・」

「そうですね。雄大な風景は、心の鎧を取ってくれるような気がします」

 

帰りに寄った蒲田駅の側にあるトゥモローという喫茶店のソファーに座り、タカシは胸の高まりを覚えた。

 蒲田茶房での出逢い以来、何度か武井部長から会社に電話が入った。内容は積極的に武井しのぶにアプローチしろという激励と言うか、脅迫と言うか、自分の姪っ子であるという事もあって、かなり力を入れている心情が伝わって来た。タカシ本人はそういわれる度に、やはりしのぶの方へ気持ちが傾斜していくのが判った。タカシは冷静に心の中で、大げさだが呻吟するしかなかった。そして考え、結論を出した。今日必ず、『結婚を前提に付き合いたい』という言葉を、意思表示しようと思ったのである。

 コーヒーを飲んでも、タカシにはいつもの味がしなかった。砂糖とミルクも普通に入れているのに、苦いようなのである。しのぶとの話は、学校の話になったが、1人の生徒の悩みの話がひと段落すると、タカシは座りなおしてしのぶの顔を真正面から見つめなおした。

「今日は大事なことを言っておきたいのですが」

笑いさざめいていたしのぶは、口を閉じると何かを察知したのか身構えた。

「思い切って今日話しておきたいことがあります」

 しのぶの顔に緊張感がみなぎった。タカシもそうである。

「何でしょうか?」

「知り合ってからもう2ヶ月近く経ちますが、一つの区切りとして話しておきたいと思います。僕はしのぶさんのことを、将来の結婚の対象として考え始めています。これが今の偽らざる気持ちです。ですので、出逢ったばかりという面もあり、なかなか気持ちが固まらないかもしれませんが、今後は結婚を前提にお付き合いをしたいと思っていますが、如何でしょうか?」

「そうですね。私はタカシさんのことを嫌いではないですし、しっくり合うところもいくつかありますし・・・・・・」

「ありがとう。僕もとても相性が合う部分がある事を理解しています」

「今この場でご返事をしないとまずいですか?」

「いいえ、そちらの気持ちが固まった時でいいですから、電話でもいいです。ご返事ください」

 タカシはせっかちな自分を押し殺して、彼女が気の済むまで考えることをむしろ歓迎した。

「判りました。少し時間をください。真剣に考えますね」

 タカシは返事がもらえるまでのまな板の上のコイのような心境が、今この瞬間から沸き起こる感じがした。それからしばらくまた二人の身の上話をいくつかした後、池上線の電車に乗ってそれぞれ洗足池駅、長原駅で下車した。空には珍しく星がいくつか見える日であった。タカシには自信と確信が瞬いていた。

 

それでも結婚を前提にお付き合いを、と言う話の回答はそんなに簡単には来なかった。だからある時は太陽のような確信、ある時は漆黒の闇のような心境に苛まれたタカシは、11月12日の夜もしのぶの電話を待ちわびていた。この日は大事な日になりそうな予感はあったが、何もないかもしれないという恐れもあった。祈るような気持ちで時間を過ごした。

その日は午後9時半帰宅。布団に入って目を閉じようとした時、草色の電話機がけたたましくなった。呼び出し音はかなり小さくしてあるのに、安普請のアパート全体に響くような金属音に思えた。

電話は案の定、武井しのぶであった。いや、この電話は武井しのぶでないはずがないと思っていた。

「遅い時間にすみません。今日は学校でちょっとしたトラブルがあったので遅くなりましたが、今日にはご返事をと思っていたので電話しました。本当に私でいいのですか?」

しのぶの言葉がタカシの心に響いた。それはタカシの人生を揺さぶるような響きであった。何年でも何十年でも、記憶の島に不動の位置を占める言葉になると思った。武井家の電話の置いてある周りの静けさが、受話器から聞こえるような気がした。タカシの記憶の島に余韻を持って響き渡り、その言葉は胸に迫った。

 

  

◇11月8日(日)快晴

洗足池駅で待ち合わせをして、憧れの山下公園へ彼殿が連れて行ってくださった。中華街では中華を食べましたが、なぜか胸がいっぱいで、あまり食べれなかったような気がします。彼殿はいつもと変わりがないようですが、ちょっとテンションが高いので気になっていました。そしたら、蒲田の駅に近い喫茶店で、結婚を前提にした正式なお付き合いの申し込みがありました。だから彼殿は精神が高揚していたのだと気づきました。結婚を前提と言う正式なお話は、これからよほどのことがない限り、ルートを外れることなく前進することだという事ですから、正直天邪鬼な私は、いやいやをしたい気持ちも湧き上りました。しかもこんな大事な話は、幼いころからもっと静かなところで、見つめあい、申し込まれることを夢に見ていたのに、ちょっとだけ期待外れだった。でも、現実はこのようなものだろう!と思う。叔父さんからは、まだ若い男性で、融通が利かないところもあるかもしれないが、これからが楽しみな優秀な新聞記者だから、超真剣に彼殿のことを考えなさいと言われ、考える姿勢は真面目と化す!                             しのぶ

 

◇11月12日(木)快晴

タカシさんに結婚を前提にお付き合いすることについて電話をする。

婚期が少し遅くなり(自分では適齢期は決めていないが、1990年代の世間一般に)、父母に心配をかけていて、本当に申し訳ないと思っているのです。背がちょっとだけ丸くなり、一回り小さくなった母を見ると、心配をかけさせたくないなと心の底より思うのです。彼殿ともし将来、幸せに仲良く暮らすことが出来たならと思うのは、彼殿に期待をし過ぎなのでしょうか?こんな時○○さんのご主人だったらこうするだろうとか、○○さんはこう考えて実行してくれたとか、他の人と比べてしまう事が多くなりました。それでも彼殿は彼殿であって、○○さんでもないし、友人のご主人でもないのだから、違うのは当たり前の事なのです。それなのに期待してしまうのです。私は口で言うほど強い女性ではありません。内心は不安(実体は無いようにも思えるけど)でいっぱいなのです。もともとは小心者の私が、教師の仕事を通して変わりつつあるものの、いまだ途上であることに他なりません。私は臆病者なのです。彼殿を信じているのに、一歩前に飛び出すことが怖いのです。だから人の手を利用していると思われたくないのですが、彼殿がしっかりと手を握って離さず、前に進んで欲しいのです。一歩踏み出せば、私は必ず前のみを見て進む女性なのです。踏み出すまでの弱い私を離さずに、側に居て欲しいのです。そしてもう一度だけ、何故私と結婚を前提にお付き合いをするのかを、良く考えてください。

今夜は眠られません。時計は4時です。早く朝になって欲しい。     しのぶ



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