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天邪鬼の虫が動き出しそう

◇11月29日(日)曇りのち晴れ 

結婚式日和。坂口さんと岡崎初子さんが、目黒雅叙園で結婚式を行いました。

40名ほどの質素な感じの宴ではあったが、内容は学校の教職員、親友などに囲まれた盛り上がりのある宴であった。坂口さんは身体障害者として、証明書を持っている方だが、大学を卒業して38歳まで、一つの会社で働いている真面目な男性である。 

  私の同僚の初子さんに逢う前は、身体の障害のことで悩み、周りの人と喧嘩ばかりしていたが、自分のことを本当に理解してくれる彼女に出逢ってからは、人に対し、一度も手を挙げたこともなく、いつもニコニコと話を聞いているのである。

 初子さんは28歳であるが、恋人に右と言われれば、左と言われるまで動かないような従順な女性である。そして、人前でも平気で彼と腕を組んで通り抜ける一本気な女性である。私の友人も良く街で見かけたらしいが、彼の首に手をまわして、ぶら下がるようにして歩いていく姿は、断然彼女の方が彼より積極的に見えたそうだとか・・・・・・。

私にはとてもそんなことはできませんと、同僚たちには言っていたが、そんな態度がとれる初子さんがうらやましいとは思っても、絶対に私はできないでしょう。わがままで両親や弟に、自分の我を張り、イヤイヤを態度で出していたものの、女子高の先生の仕事に没頭していくにつれ、生徒たちのわがままな態度、ふてくされた態度、逃げ腰の態度等々に触れる中で、私のわがままな態度、感情は出せないなと実感し、外に出さないようにしてきました。私の心の中にある素直な気持ちが、思いのまま顔に表すことができたなら、もっともっと彼殿に愛される女になれるのにと、地団駄を踏んでいます。感情を抑えることが当たり前になってしまっているのと、表現が下手なのが私なのです。そういえば小さいころから、好きな人ができても、私は貴男のことをなんとも思ってないわよと、わざとそっけない態度をとっていましたっけ・・・・・・。

何時も片思いをして、寂しい日を過ごした思い出がある。そんな中で詩を書くことや絵を描くことや音楽を聴くことが多くなったようだが、教師としての生活の中では、一人静かにということすら、思い出として残らなくなった。高校教師の仕事は、学習指導要領に沿った授業内容の組み立て、またプリントや練習問題を作ったり、中間、期末テストの問題を作成したりしなければなりません。また専門知識を磨いておくことが求められます。教科書の改訂など教える内容も変わることがあるので、日々勉強が必要なのです。その次は生徒とのコミュニケーション、生徒の親との折衝、部活動、進路相談、模擬授業などの勉強、各種イベントの主催など盛りだくさん。でも、私はしんどいこともあるけれど、とてもやりがいを感じています。あと付け加えるとしたら、悩んでいる生徒への手紙書きにはとても力を入れています。

例えば中学生のころに二度目の母で反発したことのある生徒。その命の汚さと、本当の母親と思えるようにと願っているものの、意地悪をされたりすると母親を憎んだり、というように繰り返しを重ねている。この半年ほど手紙の交換を行っているが、現実の彼女の態度に対する母親のさまざまな反応を読んでいると、良く家出しないものだと逆に感心したりしている。真正面から問題にぶつかっている彼女の本当の心を手紙から知り、人生の応援団長を自ら買って出ている。誰が見ていなくても、正しい人生の鏡は、彼女の行為をはっきりと写し出している。苦しくつらいことをじっと見ている。そしてその壁が突き破れたら、絶対的な幸せが待っている。その壁にぶつかるとき、弱くなったらいつでも来てほしいし、一緒に何でも語り合いたい。私は我がクラスの生徒たちの応援団長であると自負しているし、初子さんと約束した一生涯の教師を続けることを、タカシさんにもいずれは了解してもらおうと思っている。

こんな毎日ですが、自分の時間がなくても生徒の喜びや悩みを共に感じ、同僚教師の初子に相談したりしてきたことがとても楽しかった。

その初子さんがどうしたことでしょう、結婚が決まったらすぐに『教師をやめたい』と、周りに漏らしているといううわさが入った。逢って話すと噂は本当であり、結婚が決まったので、もうどうでもよくなったというのだ。初子さんとは長い付き合いだったから、結婚式には出ないよと言った。教師という愛すべき職業を全うするから喜んで出席できるのに、しないのなら私は出ないと言って帰ってきた。そしたら次の日から電話してくるようになり、式までに彼を説得すると言った。そして無事、彼の了解を取り付けて、今回の式に臨んだのである。

代々の先輩が結婚する教師に対し、嫁いでも聖業である教師を続けなさいと指導されてきた。私も偉そうなことは言えないけれども、同じ職場の同僚になった女性教師には、一生涯教師の仕事をして欲しいと訴えてきた。そして私もどんなことがあっても、一生涯教師として成長していきたいと思う。タカシさんとお付き合いして嫁ぐことになったら、なおさら揺るがないようにしていきたい。今思うことは、安易にやり遂げることは出来ないことを、己心の安楽思考への魔力と戦いながら、絶対教師を続けるぞと感じている昨今です!

一生涯定年退職するまで、教師を続けると腹が決まり、最愛のご主人との了解も取付て今日を迎えた初子さんは、とても美しく可愛らしかった。変な話、姉とか母とかという立場ではなく、可愛い孫を嫁がせる祖母のように胸がいっぱいになった。

 

同志よ 楽しい時は我を忘れ高らかに笑え

同志よ 寂しい時に我を思い出しておくれ

我は慰めない 共に戦う手を差し伸べよう

それが真の同志と思うからだ

我も心から祝福されて 新しいスタートを踏み出したい       しのぶ

   

◇12月3日(木)曇り

このところ何通かタカシさんから手紙が来ているので、本人にはなかなか言えないので、ここに素直な気持ちを書いておきたい。

一人で片思いと力んでいるあなた。今日も目いっぱい僻んでいますか。できるなら私の胸を切り開いて、この熱き思いをあなたに見せたい(どこかの劇のセリフのような・・・・・・)。ムードが出れば壊そうとする。愛の言葉を聞くと笑ってしまう。心に込み上げるものがあっても照れてしまう。今の私はそうなのです。あなた対して誠意が伝わっていないのなら、表現が下手な私のせいです。あなたが二人の間の事で寂しい思いをしているとしたら、それも私のせいです。私は嫌いなことは嫌と多分言うでしょう。あなたに対して嫌と言わないでいることが、私にとっては無理なく満足していることなのです。あなたの瞳の中に私が映っていることが、私にとって今はとても大切なのです。そして私の瞳の中に、あなたが映っていることが幸せなのです。

太陽が照らない日があったとします。その一日は私の心を空虚にすることに気付くことがあります。つまり太陽が出る時には感じられないことが、太陽がないと感じられることがあります。彼殿と一緒に居る時の楽しさを、一人になって思い出すのと同じかもしれない。今日は仕事で外に出ているのでしょうか?身体だけは大事にし、いつまでも健康でいて欲しいと願っています。こんなこと面と向かって彼殿に言えない、言えない(笑い)。

 

こんなことをもし直接言ったら、彼殿にどう思われるか判らないけれど、彼殿から手紙をいただいて(私はほとんど書きませんが?!)、読まさせていただく時、ほとんどの場合、彼殿の文章を読みながら吹き出すこと多々あります。両親や弟のいる家で、大声では笑えないので、部屋で押し殺すようにして笑っています。文書がおかしいとかでは決してないのですが、逢っている時と手紙の文章が、あまりにもそぐわないところが、妙におかしくなるのです。面と向かっては、二人とも照れ屋だし、ムードが出てきそうになると、意図的に壊すし(私の方が・・・・・・)。

でも、このままではいけないのではないかなと思っているのです。それでも天邪鬼の私が出てきます。 

 

私の本音が強がっている時は、「大丈夫」と言ってしまう。

なんでもない訳ない!?時は、「なんでもない」と言ってしまう。

意見が言いづらい時は、「なんでもいいよ」と言ってしまう。

すっごく気にしてますという時は、「気にしてないよ」と言ってしまう。

ホントはうれしい時は、「いや」と言ってしまう。

実はめちゃめちゃキレている時は、「怒ってないよ」と言ってしまう。

ほっとかれたら実はイヤな時は、「ほっといて」と言ってしまう。

かまってほしい時は、「勝手にすれば」と言ってしまう。

逢いたくてしかたない時は、「逢いたくない」と言ってしまう。

大好きなのについ・・・・・・の時は、「キライ」と言ってしまう。

これが私なのです。ダメですね~。ダメダメ。

 

それでも文章にすると、例えばカチンと頭に来て天邪鬼になってしまうことも、少し曖昧にうまく流れて行ってくれるようなこともあります。でも根本というか本当は、疑問や意見がある時は、逢った時に、納得がいく前向きの話し合いができれば良いと思いますが、私の場合果たしてどうなることやら。この前、何故私が酔う事を嫌うのかということで、彼殿が引用した精神分析という言葉がありましたけれど、この種の問題に本当に使う言葉なのかどうかは少し疑問ではあるが・・・・・・etc!天邪鬼の虫が動き出しそうでした。  しのぶ


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男と女のプライド

12月8日火曜日の朝、大粒の雨が降ったが、その後晴れる。12月にしては暖かくなった日である。タカシは気分的に師走の忙しさに追われながらも、中身の濃い仕事を一つひとつ落ち着いてこなした。充実した一日の仕事を終えた今日は、会社の忘年会である。新橋の料理屋で編集部が一堂に会した。約2時間の宴会は決まりきった一本締めが最後に行われたが、明年への決意が込められたものとなった。宴会中のタカシは、酔いが回るにつれて、しのぶという最愛の伴侶になる可能性の高い人のことで、胸がいっぱいになるのであった。頭の中に浮かぶ映像は、しのぶの澄ましてる横顔や、微笑んでいる正面から見た顔であった。ワンピースをきちっと着こなしたしなやかなしのぶの体つきや、去っていく後姿、ジーンズをはいたラフな出で立ち、しゃがんで上目づかいでタカシを見つめるなまめかしいまなざし、待ち合わせに遅れて来て、走り寄る時のすまなそうというか、照れているというか、そんな姿態などが頭の中をぐるぐる回っている。だから、隣の人間が何か話しかけているのだが、頷くだけ頷いて、中身は何も聞いていない。しかし、さすがにビールを注ぎに回ってきた編集長の話には、しっかりと耳を傾けた。新聞社の中ではタカシの師匠である。編集長が来年もタカシに期待するから頑張れ、というような話をして隣に注ぎに移った時には、ようやく緊張感が取れ、内心ほっとした。そうするとまた料理をつっついたり、ビールを好きなだけ飲み始めた。隣の人間はタカシが良い聴衆ではないと判ったのか、別の人間と話し始めていた。

一本締めの頃には、タカシはかなり酔っていた。歩けないほどではないが、若干いつもの自分ではないという違和感があった。会場を出ても得体のしれない昂揚感みたいなものが、心の中である人の名前を呼んでいた。それはもちろん『しのぶ』と言う名前である。

心のなかで呟くほどに愛おしさが募り、逢いたくなるのであった。

 

 新橋から五反田まで山手線に乗り、池上線に乗り換えて長原に着いた頃には10時を回っていた。ふらふらして流行歌を口ずさみながら、タカシは下り坂を歩いてアパートに向っていた。その時である、夜になると住宅街であるからほとんど車が通らないのに、急スピードで赤い乗用車が上り坂を走って向かってきた。タカシは避けようと思って道路の端に寄った。ところが酔いで目測を誤ったのか、蓋のない側溝に右足を落としてしまった。その時はずみで膝をしたたかに打ったが、車は無情にも止まる気配もない。走り去ったあとには、住宅街の静けさだけがタカシを包んでいた。

 ズボンを暗がりでめくってみたが、特に血がにじんでいるわけではない。タカシは一安心しながらも、『酔っぱらいはしょうがないな!』と自嘲している。しかし、ぶつかった膝の所のズボンの布は、見事に切れていた。『買ったばかりのスーツなのに!』とまたタカシは自嘲した。

 

 アパートの引き戸を開け、4畳半の部屋に入り、机の上に財布などを置き、スーツを脱いで速攻で着替えると、電話機の前にタカシは胡坐をかいた。気が急いて電話のプッシュボタンの押す番号を、何度か間違えたようだ。やっと3回目には間違いなく押せた。ドキドキする呼び出し音が聞こえる。今日はどんな声でしのぶさんは出てくれるだろうか、やさしいかな?寂しそうかな?明るいかな?それとも少々不機嫌かな?とタカシはこれから起きるしのぶの対応予測に、どきどきしている。やがて、愛しい囁きが聞こえてきた。

「はい、武井ですが」

「あ、僕です。朝倉です。元気ですか~?」

「ずいぶん飲んだような雰囲気ですね?忘年会はどうでしたか?」

「しのぶさんの事で頭がいっぱいで、あまり覚えていない」

「何を言ってんだか、調子いいわね。ちゃんと上司とかに、一年の締めくくりの挨拶ができたのでしょうね?」

「お~、ずいぶん偉そうに言ってきますね、しのぶさん」

「だって心配だから。貴方から聞いた話ではお酒に強いけど、たまにずっこけると聞いていたから心配なの」

「大丈夫、大丈夫、編集長には目一杯胡麻をすっといたから。すりすぎて胡麻だらけだよーん」

「ちょっと、脱線しすぎよ」

 しのぶは受話器の向こうで、だんだんと生徒に対するような強い口調になっている。タカシは酔っている時は陽気そのものだが、何か気になり始めると、素面の時より拘りは増幅するようだ。しのぶがタカシを子ども扱いしているような気がしてきた。

「脱線と言えば、僕はアパートへの帰り道に脱線したよ。転んじまった」

「え、何ですって。大丈夫なの。怪我はしなかったの?」

「何にもないってば。ただ、車を避けたら、膝を水路の角にしこたまぶっつけたのと、新調したズボンをちょっと破いた。スーツがお釈迦になっちまったよ~」

「まあ、スーツは良いとして、傷から黴菌が入ったりするから、良く消毒してね」

「大丈夫、ほっといても治るよ」

「だめよ。私のクラスでも、傷から入った黴菌で酷いことになった人がいるからちゃんとやってください。今から消毒に行きましょうか?」

「冗談は良子さん。こんな遅く僕のアパートに来たら、貴女のお父さんが心配するだろう。大丈夫だよ」

「それじゃ、ちゃんと自分で消毒してくださいね。判った?」

「貴女も結構しつっこいね。何とかするよ」

 しのぶはタカシから見ると、ドツボにはまったように神経質にしつっこく心配してくる。タカシを好きであるが故なのであろうか。

「あと、お酒はほどほどが一番です。飲んではいけないとは言いませんが、飲み過ぎて転んでいるようでは駄目ですよ。小さな傷で良かったけれど、もし交通事故にでもあっていたら・・・・・・」 

「どんなに酔っても僕は大丈夫だよ。不死身だから」

 タカシは強がっていく自分の不思議な感情の動きが、酩酊していながらも良く判った。

「何を言っているのですか。ダメよダメ。現に転んでいるではないですか。私のお父さんもたまにしか飲まないけど、もともと強いという自負があるのかしら、飲む時はしこたま飲むみたいです。酔っぱらって、洗足池の駅から家までの間に道路に寝込んでいたことが何回もあって、母が大変な思いをしていたことがあったわ。母の苦しみを知っているから、私は酒飲みは本当は好きじぁありません。たしなむ程度だったらいいけど、酔っぱらって側溝に落ちるなんて嫌です。ちゃんとやってください」

「・・・・・・」

 タカシは酔いの回っている頭の中で、愛しいしのぶの声を気持ちよく寝る前に聞きたかったのに、いつもと違う語気鋭く言い放つ追及の言葉に心が萎えた。それもそうであろう。しのぶは完全な素面であり、冷静に聞いているから、タカシの逃げ口上に我慢ができなかったのだろう。これから、付き合いが進んでいけば、しのぶが我慢できないこと、タカシの欠点を、ぜひ修正しておかなければならないという気持ちが、湧きあがってきたのである。

 しかし、タカシは反撃に出た。腹の中の虫が、不気味に動きすのを止めることができなかったのである。それは大好きなしのぶを自分好みにしたいという男の感情である。

 しのぶがヒステリックに怒りだしたのは、タカシに伝えている『お酒に流される男は嫌い』ということを、本質的に理解し改めようとしていないからなのであろう。この場合はタカシが共感すべきなのである。しのぶの話を聞いて、『そうだよね。君の嫌な気持ちを理解できていなくてごめん。やっぱりお酒はほどほどにたしなむのが良いね』って言えれば良かったのであろう。それなのに、タカシは逆切れの方向に向かったのである。その破壊力は、今までタカシがしのぶの言動で、時々我慢していた気に障ることも含めているから、威力は増していた。酔いもすっかり醒めたような気になった。

「しのぶさん。僕の意見も少し聞いてください。あえて厳しく思いやりを持って、日頃考えていることを言いますから。もっとあなたも自分を自覚しなきゃダメだと思うよ。話の端々に自分が完全だという事で、私を見下しているようです。それがたとえ僕の落ち度としても、一種のあなどりが感じられる。今までも時々あったことです。これは少し気を付けて欲しいです。つまり表だって言葉に表れていないようだが、貴女も相当な自信家だと思う。学校で生徒の成績アップに対する執念は、『鬼のしのぶ』と周りに言われてきたというのも頷けるけど、いいや、むしろ周囲は貴女のことを全然そう思っていなかったのかもしれないよ。だから人生経験では、僕の先輩だというような感覚は出さないで欲しい。また貴女が僕のいろんな振る舞いについて露骨に指摘する場合、どんなに嫌な思いをしているか感じているのかな。もちろんお互い様かもしれない。しかし、何かを直して欲しいという要求は、どちらかのわがままな期待でもあるという事を忘れないでください」

「タカシさん、私の言い方がきつくて、根に持っていることがあるのでしょうか?」

「根に持っているどころじゃなくて、ショックを受け、しつっこく考えてしまった事があるよ。酷い時は、自分が何をしているのか判らないほど考え込んでしまう」

「そんな・・・・・・」

「思ったことはなんでも隠さないで言ってくださいと、確かに以前は言ったけど、人の弱点をあからさまに、プライドを踏みつけるようなことまでしてくれとは言っていない。僕は貴女の人生の同志ですから、けっして貴女の足を引っ張るようなことはしません。それでもなんやかんや言い続けるのなら、僕は『口うるさい無神経な女だ』としか思わない。これは良く考えてもらいたい。貴女と僕は平等で対等であるけれど、やはり男と女の特質は違うと思う。だから極論を言えば、例え危なっかしいことを僕がしても、理解し見守ってくれないのなら、まず貴女はもう一度僕についての捉え方、考え方を変えてもらいたい。僕を信じると決めたのなら、あまり細かいことは言わないで欲しい。貴女は神経質に、それもかなり場違いなところで、僕の癖などを無理やり直そうと良くしますね。僕は貴女とゆっくりといろいろな話を交わすことで、心を落ち着けることができ、楽しい時をいつも過ごせると思っていたのに、最近の貴女との会話は、ああしろこうしろと要求めいたものばかりで淋しいね。お互いの我儘、つまり自分の満足しか考えていないものだから、ぎすぎすしてまったく楽しくないよ。特に電話での会話は、表情が見えないだけに、苦情めいたものが多くなってしまっている。一体全体これが甘味な恋愛時代などとはまったく思えない。とにかく主張することはしてもいいけど、愚痴めいたり、いつまでもしつっこく口うるさいのは、もうやめにして欲しい。貴女に女性らしさのかけらもなくなれば淋しいんだよ。だから常にバランス感覚がある、男性の操縦法を研究して欲しいし、貴女も自分をもっとよく見つめることです。自分の存在価値を正しく把握していない人間が、変な自信を持つという事は、まったく腹立たしいというのは世間の常だからね」

「・・・・・・ごめんなさい」

「人間は嫌な動物です。神経性の一種の小児病みたいなものを持っています。それは疳の虫です。気にくわないことがあると、腹の中のその虫がひきつけを起こす。貴女の中にも疳の虫がいるし、僕の中にも確かにいる。その虫をいかに理性でコントロールできるかです。一緒により自分を見つめ、より成長しようよ。お願いだから。あと、今まで貴女に僕なりに愛の言葉を囁いてきたけれど、それに対して貴女は僕へ愛をなかなか表現してくれない、という物足りなさはいつも感じています。『本当は愛していない』『適齢期の男性ならば誰でも良かったの』と言ってしまえば、それはそれでいいことかもしれない。しかし、もし本当にそうだとしたら、僕も態度を変えなければならなくなるよ。僕が愛を語れば語るほど、貴女が僕を見下して見ていくとしたら、そんな馬鹿な話はない。でもね、貴女の冗談の端々に、自然にそんな力関係が出来上がろうとしているとしたら、僕も態度を変えざるを得ない。このこともよくよく考えてください。一人の世界ではなく、二人の中に世界があるのだから、僕を無視しないでもらいたい。だんだんとそんな関係になるような気がしてならない。判るかな?」

「ええ・・・・・・」

 タカシの長広舌は止まらなかった。日頃のしのぶに対する不満が、爆発しているような有様だった。唯の良い人でいることが出来なくなったのだろうか。タカシこそ今後の二人の関係の主導権を、しっかりと取りたいがための地固めをしているようにも見える。

「次に男性に対しての見方が甘いと言っておきたい。これは逆説的な意味だが、男性はこういう姿であるべきだという期待感の甘さ、それゆえに現実的に裏切られると怒り出すと思う。これはとにかく見方が甘いのです。僕も女性に対しての見方が甘かったせいか、女性がだらしなさを見せると、良く口うるさく注意したりして、結局は喧嘩になってしまった事が多い。こうあるべきだというのは自らの持っていた夢であり、幻想論的な部分も多分にあるね。そこの所を良く見つめなくてはいけないと思う。『ああしてはいけない』『こうしてはいけない』と杓子定規に物事を判断すること、これほど現実から離れ、その見方の甘さゆえに強力な挫折感を味わうことになりますね。それによって喧嘩の絶えないこと。そんな生活を想像したら、なんと情けないことだろう。お互いにもっと穏やかであり、おおらかであるべきだと本当に思う。しのぶさんに逢った時の第一印象は、穏やかな性格と直感したし、そう信じてきたので、今はちょっと不満だよ。重ねて言います。男を神聖視しないで欲しいよ。男なんて勝手な動物だし、紳士面も一枚剥げば、ほとんどの男性は似たり寄ったりだよ。そのことを忘れないで欲しい」

「判っているつもりです・・・・・・」

「僕の気持ちとしては、『女性の指図を受けることはまっぴらごめん』だということです。男性に一々意見をするような女性は大嫌いだ。貴女はお父さんであれ、誰であれ、言いたいことを言ってきたかもしれないが、僕は違う。にこにこして貴女の話を最初は聞くかもしれないが、腹の中では、女性の指図は絶対に受けたくないという自尊心があります。だからあまりにも露骨に『指図』すると、僕は本当に口うるさく切り返していくから、気を付けてください。教師として、沢山の生徒を指導教育してきて、磨かれた洞察力は認めていますが、それでストレートに僕を批判しようとするならだめだと思う。僕は多分絶対に聞こうとしないだろうね。僕は3枚目に見えるかもしれないが、おっそろしくプライドが高いんだから。そのことについて、もっと僕を理解してください。それでも僕に注意したいことがあったら、頭ごなしな言い方ではなく、もっと低姿勢で言うべきです。どうか僕に対しては、教師的な言葉を使わないでください。『・・・・・・しなさい』とかいう言葉です。ある意味では悪い癖だと思う。貴女は僕の大事な天使なのですよ。そこの所を良くわきまえて、穏やかな言葉で僕に話してください。くれぐれも生意気だなと思われるような言動は慎んでもらいたいのです。とにもかくにも、こんなことを言うことからして、僕の器はちっちゃいのだろうね。本当にお互いに大きく包める境涯になりたい。これからますます孤独な修行が必要になると思う。でも、こんなことを言ったからといって、僕の貴女を慕う気持ちが変わったわけではありません。僕からの要望はこれでおしまいにします。参考にしてください」

「そうでしたか・・・・・・。タカシさんの心の中に、そんな不満があったなんて知らなかったわ・・・・・・。私は私なりに考えてみます。だから、今日の話はそれくらいにして、ゆっくり休んで疲れを取ってください。おやすみなさい」

 しのぶはそう言いながら受話器を置いた。最後の声は、少し涙声のようにもタカシは聞こえた。タカシは酔いに任せて言い放ってしまった言葉の数々が、自分の首を徐々に絞めつけてくる錯覚を覚えた。小心者のタカシは、しのぶを傷つけた罪悪感に震え始めた。寝床に入ると、涙を流すしのぶの姿が浮かんでは消えたが、後悔と強気が交差する自分の心の振幅に耐えるしかなかった。やがてアルコールのせいで、強い眠気が襲ってきた。

 

 

◇12月8日(火)雨のち晴れ

 忘年会から帰宅したタカシさんから電話が入った。怪我をしたという事で心配になり、ついきつく言ってしまいました。そしたら、思いがけないことを彼殿は言ってきました。彼殿に対して私の言動が、多くの悲しみを与えていたことを初めて知りました。

私が言葉上で彼殿に与えた悲しみは、今、充分に理解しつつ物凄く傷ついています。これほど人から言われたことはありませんでした。それに私は彼殿からこれほどのダメージを受けるとは、正直思ってもみませんでした。彼殿が感じたプライドを踏みつけたことや、人生の先輩ぶった態度や言葉等々、傷つけたことはあやまります。面と向かっては言えないので、ここにごめんなさいと心から反省して、文字として残しておきます。

でも、彼殿を軽視したことは、私自身一度もなかったし、彼殿についていきたいということだけを考えていました。ただ私は表現の仕方が下手ですし、お調子に乗りやすいから、ニコニコしてくれる彼殿に、お腹にあることを(特に嫌味を言いやすい)言ってしまうのです。天邪鬼の私がもっともっと素直になれるように、努力していきたいと思います。ともかく彼殿を信じています。どのような態度、言葉を発しようとも彼殿だけです。その彼殿を寂しくさせたことは、今、すぐに立ち直れないくらいのみじめさと悲しみで、私に返って来ています。

彼殿は充分に私を泣かせてくれました。でも泣きながら彼殿が愛してくださる真心を、信じて行きたいと思います。            泣き虫しのぶ

 

◇12月9日(水)一日中曇り

昨日の落ち込みから1日しかたっていないのに、今は晴れ晴れ気分なのです。何故なら私が落ち込もうとも、周囲はさまざまな挑戦の機会を与えることを止めず、常に前進しています。悲しいという感情の中には、新しいことに挑戦している限り、浸れないということが判りました。本日は担当するクラスの目標であるマラソン大会制限時間内全員走破を達成しました。そしてその最後の走者は明子さん。半年かかって制限時間内で走れるようになったのです。ましてや今日初めて時間内で走れたわけです。彼女はクラス全員の足を引っ張りたくなくて、時間内走破を目指してきました。けれども先週まで、時間内走破は無理と言われていました。彼女は中学時代に大病を患い、今も時々病院で検査を受けていますが、なんとしても普通の健康な人と同じに走りたい、と努力を続けて来ていました。私も一生懸命激励してきました。

そしてついに走破した時の明子さんの喜びは相当なもので、泣きながら周囲の人にお礼を言っていました。クラスの仲間達ももらい泣きしていました。彼女はあの先輩にもこの先輩にも報告をするのだと言っていました。将来はお父さんと一緒に小料理屋さんを営むのが夢であるが、病気を完全に治して、必ず実行したいと考えているのだ。私は心から体が良くなることと、お店が大成功するように祈ってあげたい。

 

師走だから世の中全体が何故か忙しい。生徒の中にも、年内中にこれだけはやってしまおうと、個人の目標を総括し始めた人が大勢います。急に慌ててやりだしている人が多いものだから、小さなアクシデントが一人ひとりの身上に現れ、苦労しているようです。

けれども女性の根底にある力というものは、ぎりぎりの状況に置かれると、一歩も譲らず真っ向から立ち向かっていく、という強さがあるのですね。本年中にはやらねばならない。それにはこの12月しかない。来年ではだめなのだという極限の場なのです。ほとんどの生徒が自分の弱さと戦っています。他の月にもこんな風になれば、心の弱さに振り回されることがないのにと苦笑いしつつも、一人ひとりを見て頼もしく思っているのです。

年頭に掲げた目標をメモに書き、クラスで保管し、12月の時にみんなに渡し、確認をするのだけれど、どのくらい達成し、叶ったのか、近ごろの生徒たちを見て、絶対良い結果が多いと確信しているから、とても楽しみなのです。     しのぶ


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武井家の訪問の評価は?

12月20日は曇りのち晴れまた曇りだった。タカシは初めてしのぶの家を訪ねた。しのぶが両親や弟にタカシを紹介したいということを何度か要望していたので、実行することにした。新聞記者として人に逢う事は慣れているとはいえ、やはり愛しいしのぶの家族に逢う訳である。タカシの神経は、何時になく研ぎ澄まされた緊張感の中にあった。

出逢いからちょうど3か月の月日が経っていた。洗足池の改札口前に11時待ち合わせ。今日も5分ほど遅れてしのぶが駆けつける。ボアのついたワインレッドのコートが似合うしのぶの華麗さに、タカシははっとしてしまった。自分は紺色のズボンに白いセーター、茶色の格子のジャケットと野暮ったい。引け目を感じながらも、しのぶに逢えた嬉しさに心が踊るようであった。

洗足池から流れ出る小さな川に沿って、二人は冬の冷たい風を頬に感じながら歩いている。住宅街の静寂の雰囲気を醸し出しているのは、きっとこの小さな川のせいなのかとタカシは思いながらしのぶの手を握った。冷たい手である。けれども、タカシの心には暖かな風景が広がっていく。この道を歩いていけば、しのぶの家につながる。この道はしのぶが華奢な足で歩き始めた時から、きっと見守って来たに違いない。冬の冷たさがアスファルトにも伝わっているが、その下の方では、道という慈父がじっと見ているのかもしれない。今日はそのしのぶとタカシが一緒に歩いている。地面は優しく二人の足音を吸い込む。

 

しのぶの家に午前11時15分ごろに到着。川沿いの道から右に曲がって、坂を少し登ったところで左に折れると、3件目の家がしのぶの家だ。観光バスなどの室内装飾の仕事をしている父の武井勇と母の咲子、そして弟の実としのぶの4人が住む家だ。家の前に立つと、瀟洒な白亜の住居をタカシは見上げた。大きくはないがしっかりと作られたその建物に、タカシはほれぼれとした。建物も人格を表すというが、タカシはしのぶを気に入った時のように、やはり一目で気に入ってしまった。門の中に先に入ったしのぶは、振り返って微笑みながら、

「ようこそ武井家に!」

 と言った。

 ドアを開けると、小柄だが健康そうな赤ら顔の白髪の混じった壮年と、痩せてはいるがきりりとした眼差しの婦人が、ニコニコして廊下に立っていた。それでも、タカシ以上に緊張して待っていたような雰囲気が漂っている。

 畳の敷かれたリビングルームに通されると、タカシは奥の方に座った。その横には少し離れてしのぶが座る。タカシはどういう訳か正座をしてしまった。テーブル越しに父の勇、母の咲子、遅れて弟の実が座った。お見合いでもなければ、結納でもないが、何故か自己紹介をするセレモニーの場になってしまったようだ。咲子がお茶を運んできて、タカシの前に置いたが、その手が震えているような気がした。タカシは軽く咳払いをすると、上ずりながらも勢いよく話し出した。ソプラノである。

「いつもしのぶさんにはお世話になっています。初めまして、朝倉タカシと申します。しのぶさんとは、結婚を前提にお付き合いさせていただいております。今後は時々お邪魔するかもしれませんが、どうかよろしくお願いします」

 タカシは緊張感を突き抜けて、すらすらと言えた自分が自分でないような気もした。愛するものを守る気概が満ちていたのである。しのぶは嬉しそうに横で微笑んでいる。こんな緊張する場面でも、ちらりと横を向いて、しのぶの可愛らしさを確かめた。その美しさと可憐さは、タカシの心を強く激しく打った。

「判りました。こちらこそどうかよろしくお願いします」

 武井勇が目を細めてニコニコしながら言った。タカシを一目で気に入ったのであろうか。いいや、天邪鬼のしのぶが連れてくるからには、惚れ込んでいるのだろうと、愛娘に対しての全幅の信頼の証明が、その表情に溢れているようだった。咲子も弟の実も頭を下げて初めての出会いに、好感を持っているようだった。

「堅苦しい挨拶はもうそれくらいにして、昼食にしよう。朝倉さん、少し飲みましょうか?」

 酒飲み特有の快楽への欲望がちらつく顔は、少し照れを含んでいるようにも見える。嫌いでないタカシは、アルコールの酔いで、一気に初対面の垣根を越えられることに感謝した。

テーブルの上には、準備してあった酒の肴である大豆のスナックや、手焼きいか、和風カレーおかきなどが置かれ、ビール瓶も持ち込まれた。ビールの栓をしのぶが抜いて、タカシのグラスに注いだ。武井勇と実には、咲子が注いでいる。

「良き出逢いに感謝し、それでは乾杯しよう。乾杯!!」

 3人がグラスを頭の位置まであげて、一呼吸してから口を付けた。しのぶと咲子は飲めないので、ウーロン茶で乾杯している。

「朝倉さんのお仕事は、娘から聞いた事前情報では、建設関係の業界紙の記者だそうですね。やはり忙しいでしょう?」

「そうですね。多分どの職種も大変なのでしょうが、私の職業は、自分でモチベーションを上げないと、やっていけない仕事です。やらなければやらないで、良い記事が出てこないわけですから、手抜きはすぐ文章にでます。最初なんかは、企業から出てきたリリースでさえ、そのまま書くと何度も何度も書き直しさせられます。慣れてくれば、今度は自分でテーマを決め、企画し取材して書くのですが、結構自分との闘いなのでしんどいところもありますが、書くのが好きなので面白いです」

「それは良かった。私だって高校しか出ていないのに、小さな会社ですが、経営していかなければならないから、勉強ばっかりですわ。やっぱりしんどいけど、家族が喜ぶ顔が励みですな・・・・・・」

 将来の婿になりそうなタカシの仕事への姿勢を聞いて安心したのか、顔がほころんでいる。

しばらく、出身地や家族構成や、それぞれの自己紹介で会話は進んでいった。しのぶは横で微笑むだけで、あまり口を挟まない。父の勇が突飛な言動をした時には、最初に妻の咲子がたしなめ、しのぶが修正する。弟の実はすっかり赤い顔をしていて、豆類が好きなようで、ぼりぼりと食べながら話を聞いている。ビールの瓶は5本目が開けられた。タカシは勇のピッチに合わせて、何度かビールを注いでいる。会話は勇がほとんどしゃべり続けている。しまいには勇の体験した戦争当時の話まですそ野が広がった。その時、玄関のチャイムが鳴り、威勢のいい声が聞こえた。寿司の出前のようである。時刻はもう12時半を回っていた。全員の前に寿司桶が並べられると、彩り鮮やかな寿司の一つひとつが輝いて見えた。勇はタカシに食べるように促すと、

「朝倉さん、娘のしのぶをよろしくお願いします」

と酔った勢いでもう結婚相手が決まったような気でいる。

「お父さん、失礼ですよ。物事には順番があるし、朝倉さんがびっくりするじゃない」

 咲子は勇に対して、子供を叱るような口調になっている。タカシは苦笑しながらしのぶの顔を見た。しのぶは嫌な表情はないが、『嗚呼、お父さん酔って先走った事言わないでくれればいいのだけれど。タカシさんごめんなさい』と目で言っているようだった。

「娘のしのぶは目に入れても痛くないほど良い子だけれど、朝倉さんには、これだけは言っておかなければならないと思っている」

 マグロ寿司を一口で食べて、武井勇は真面目な顔つきになって話しだした。

「しのぶはなかなか子供が出来なくて、結婚して7年目にできた子で、生まれて抱いた時は嬉しくてずっと離さなかった。それから夜泣きしても、病気しても、怪我をしても、いつも絶対に守るぞと決めて育ててきた。それが今では高校の先生だから、本当に自慢の子だよ。だから、きっとそれに釣り合うようないい彼氏が必ずできると信じていた。それがどうだろう、今日、その願いが叶ったわけだ。朝倉君、来てくれてありがとう」

 勇は酒に強いと聞いているが、今日は妙に感傷的で涙もろく、酔いも回って精神が高揚しているようだ。さん付けで呼んでいたのが、君付けになった。

「朝倉君、娘のしのぶについて他は言うところがないのだが、二つだけ欠点がある。そこのところをよろしく頼みますよ。一つ目は良いことだが、周りは疲れる話で、つまり正義感が強すぎることだ。何か事があると納得しない限り絶対に譲らない。梃子でも動かないところがある。言いかえれば頑固者みたいなところがある。うまくやってくださいね。あともう一つ、天邪鬼です。これは私たちの育て方が悪かったと言えばそれまでだが、生来持っているものだとも思う。とにかく素直でないところがある。思っている事と反対の事を時々言うので、朝倉君、あたたかく面倒を見てください。教師になって苦労したようで、少しは天邪鬼でなくなって来たけど、私から見たらまだまだのような気がする。何かと今後はあるかも知れない。けれども根は本当に良い子だから、よろしく頼みます。この通りだ」

  武井勇はテーブルに軽くぶつけるほど頭を下げた。タカシは手をあげて、

「そんなにして頭を下げないでください。私だってたくさんの欠点がありますから、お互い様です。こちらこそよろしくお願いします」

「そうか、でも人生はいろいろあるから、くれぐれも今日、朝倉君に言ったことは忘れないで欲しい。よろしくお願いしますね」

 タカシは何か心の中に引っ掛かるような小さな黒点が、心の中に浮かぶような気がしたが、打ち消すようにして満面の笑みのまま頭を下げた。その小さな引っ掛かるものがやがて膨張することは、酩酊したタカシには予測することもできなかった。しのぶの美しい雪のような白い肌の横顔に、時々見とれるだけであった。

 

 和やかな昼食会はやがてお開きとなり、タカシはしのぶに案内されて、武井家の中の小見学会を行い、しのぶの部屋にも入った。酔ったタカシは、しのぶの部屋の本棚の蔵書に目をやった。青春小説の棚と教育関係の棚が分けられているようで、その蔵書の多さに吃驚した。書棚もやはりその人の人格を如実に表しているようであり、それが故にタカシは、しのぶの心の中の秘密を覗き見したような気持ちになった。

 カラフルな乙女チックな絨毯に座ると、気持ち良くなったタカシは、しのぶと際限なく話し出した。それからとてつもなく話し込んだ。身近なことから宇宙の話まで、二人は意気投合して論じ合った。

 外が暗くなると、思いだしたようにタカシは言った。

「おねえさん。そろそろ帰らないと。初めてお邪魔したのに、図々しく滞在するのも良くないから帰ります。それに、一週間分の洗濯やら掃除もあるのでね」

 タカシは親しみのあまり、冗談のつもりで「おねえさん」と言って『しまった』と思ったが、しのぶは表情を変えないのでほっとした。調子に乗ってデリカシーの無い言葉を発した自分の軽さに情けなくなったが、家族が総出で見送りをしてくれたので、すぐに忘れてしまった。しのぶは家の前の路地から坂を下ったところまで見送りに来て、コートも着ていないので、白い手をセーターの袖の中に入れながら手を振った。やさしい笑顔をしばらく何度も振り返り見つめながら、洗足池の駅の方にゆっくりタカシは歩きだした。

 

 

◇12月20日(日)曇りのち晴れ

昨夜、彼殿と電話で話をし、その内容が何時までも心の襞に残ったという訳ではないけれど、朝は早く目が覚めた。結婚を前提に付き合うと決め、その方向に向かって歩んでいくにあたっては、色々な周囲の方々のアドバイスが入ってくることと思います。それでもなんでも二人で意思確認していろいろなことを進め、人の意見は意見として聞かせてもらったうえで、二人が信じ決めた方向へ進んでいきたいと思う。

今日はタカシさんが私の家を初めて訪問する大切な日であった。タカシさんの私の家族に対する印象も大切ですが、私の結婚を前提とした交際の相手として、家族から評価されることを思うと、胸が痛みました。かなりデリケートな私としては、彼殿がどれくらい明るく見事に振る舞ってくれるかで、ルンルン気分となるか、重い足を引きずる日となるかが今日でした。けれど頼りがいのある彼殿だから本当に大丈夫でした!

最初の緊張感はどこへやらという雰囲気で、終始和やかに過ごしていただいた。彼殿が自宅への来訪という気分の圧迫があり、襟を立てて迎える意気込みのはずであったのに、肩透かしにあったという感じなのだ。第一に父がすぐに彼殿を気に入ってしまったこと。第二に構えて彼殿が来てくれたのではなく、結構明るく振る舞ってくれたこと。第三に彼殿が自分の家に来たような顔をしてくれたこと。

それは彼殿と父がビールを飲んで、まるで本当の親子みたいに意気投合し、楽しそう笑っていて、我が家の家族の年末の状況とよく似ていたのです。まるで、ずっと一緒に住んでいたような錯覚をしたくらいであった。でも、私の気分は楽になったと言っても、所詮彼殿は我が家にとってまだまだ他人なのであるからにして、半分も自我を出していないと想像できます!まああんなものだろうと思いましたが・・・・・・。

父と母の彼殿に対する印象の本当のところは、まだ聞き出せていませんが、さほど重大には考えておりません。不思議と思うかもしれないけれど、能力のある男性が必ずしも結婚にふさわしいとは思っていない。仮に無知な男性でも、妻を思い、その妻が家庭の中で全力を出し切れれば、良い男性と言えるだろうし、能力ある男性が妻の家庭を切り盛りする分野まで何かと声をはさむようになれば、妻にとって悪い男性ということにもなりかねないと感じている。

第三者は外見で個人を判断するが、もし彼殿と結婚した場合、その夫婦二人の判断に通じるかは、家庭を持ってからでないとわからないと思っているからなのです。この様に理屈っぽい日記を書くと、彼殿が両親にどのように思われたかと、選んだ自分自身に自信がないように思われるかも知れないけれど、彼殿に対する評価は、私が誰よりも最高の点をつけています。だから、家族やそれ以外の人の印象は、それほど重大なことではないという事なのです。

総括!3時間弱の家族との会話。それでも感触としては、彼殿に対しての評価が高いので、私も満足したのだ。

 

<多分私だけが感じた悲しい出来事>

 

  帰り際にジョークで言ったんだと解釈していますが、『おねえさん』と彼殿は申しました。私の方が年上ですから、心の中で感じていてもそれは仕方ありません。でも、口に出して直接言われるのは嫌です。年下でも頼れる人、一緒に人生を語れる人と感じ、彼殿を結婚前提に付き合うと決めたのです。もし私が、弟の実と同じように、彼殿のことを感じ始めたら・・・・・・。冗談であっても、口をついて出た言葉というのは、心の片隅に存在する考えだと思うのです。  

彼殿は軽く言ったつもりでしょうが、もし、また同じ言葉を発したら、多分その日は彼殿と口をきかないと思います。彼殿が帰ったあと、泣きそうなのを堪えていたくらいのショックだったんだから・・・・・・。

心優しくないタカシさんへ。                  しのぶ


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生老病死の儚さを越えよ

◇12月25日(金)晴れ

 寒い日であった。2学期の終業式が行われました。

明日から生徒たちは、いよいよ冬休みに入ります。私の担当するクラスは3年生ですので、彼女たちにとっては、いよいよラストスパートをかける時期です。各大学の入学試験まであとわずかです。最後まであきらめずに、第一志望合格をめざしてがんばって欲しい、というのが私の心からの願いです。思えば彼女たちは勉強も部活動も、学校生活全体においても、自分をしっかり磨いて来たと信じています。

 しかし、人間はギリギリにならないと、なかなか集中できないという悪い癖みたいなものがあるようで、校長先生があいさつの時、3年生に志望校受験の自信がある人と聞かれた時に、手を挙げた人の少なかったこと。私のクラスもあまり居なかったので、もっと自信を持たせることができなかったのかと、受験者のメンバーに申し訳なく、深く反省してしまった。良い意味で人間は短期の集中は結構できるが、悪い意味では長期展望にたった挑戦に弱いという事になる。もっと長期展望にたって受験指導に当たっていかなくては、彼女たちの集中が切れてしまうという事を実感しています。私自身の一歩成長が、どのように彼女たちに影響を与えられるかだが、我が高校の進路指導室と四つに組み、生徒一人一人の夢と希望を叶えるために、あらゆる方法手段を駆使し、その他に+αがあるのではないだろうかと模索する!

  

 同僚でもあり親友でもある鈴木さんが、先週から教習所に通いだしたと言ってきた。どちらも自転車を持っていなくて、6時に起きて6時半に待ち合わせをし、学校へ出かけた。いつも朝寝坊するのが鈴木さんで、その度に電話して起こし・・・・・・。雨の日も風の日も、毎週火曜日・金曜日のバスケット部とテニス部の朝練に通って2年余。あの時の修行?と言えるかわからないけれど、激励をお互いにし、頑張ったこと。眠く苦しくても、やり抜いたこと。差し入れの数など。そのおかげで今、生徒たちから絶大に信頼されていると確信しているし、鈴木さんとの友情は、これからも大事にしていきたいと思っております。その鈴木さんが免許を取ったら、私を第一号に乗せてあげると言った。私は彼殿と結婚を前提に付き合っているので、怪我でもしたら彼殿が悲しむし、第一私の方が先に結婚が決まりそうなので、殺意を感じるから、「乗るか乗らないか判らないわよ」なんて冗談を言いつつ帰ってきました。2月初めまでには取る予定だという。早くとれるように祈ってあげよう。     しのぶ

 

◇12月31日(木)晴れ

 タカシさんは故郷の長野県に帰郷している。いつも正月は帰郷しないそうだが、今回の正月は、私と付き合っていることを報告するために帰ったのだ。

今年も学校で色々な事があったが、個人の生活としては、彼殿に巡り会えたことが、一番の出来事であると言えそうです。あまり乗り気でなかったのに、9月20日に出逢った時からこの天邪鬼の私、徐々に惹かれていく自分が不思議でした。やはり彼殿は私の伴侶になる人でしょうか?まだ暗闇の中にいるようで判りませんが、一日ごとに惹かれて行く気持ちを、隠すことができません。1993年という明日からの人生を、彼殿と少しでも彩ることができれば幸せです。とは面と向かって言えないけれども(笑い)。

母と一緒に年末の買い物に出かけました。家具屋さんの前で母が入ろうと言ったので入りましたが、今までまるで関心のなかった洋服ダンスや食器棚やベージュの素敵なソファなどに、目が行ってしまいました。母はとても嬉しそうに家具を品定めしているのです。まだ結婚が正式に決まっていないのに、そわそわして触ったりしているのです。それを観察していて、女親が嫁がす娘の支度に喜びを感じるというのは、こういうものだと知りました。将来嫁ぐことになったとしたら、母には何事も相談をして行きたいと思った。

 

1993年の決意

1.教師として、一人ひとりの面倒をよく見て、りっぱな人材を育成します。

2.教育の本から人生論まで、50冊以上の本を読んで成長していきます。

3.一家の和楽を目指す(健康になり、笑みの絶えない家庭になるよう努力し

ます)。

4.朝倉タカシさんのご両親と御家族の健康と繁栄を、いつも心の中で祈る。

5.朝倉タカシさんを尊敬し、信頼し、崩れざる将来の建設を目指す。

6.私自身、人から好かれる器に成長したい。○感謝できる自己○物事を良い

方へと解釈できる自己○感情を顔に出さないようにする自己。

7.我がクラスの全員が成長し、無事進路決定、無事卒業、そして、新一年生

の成長!

以上

 

考えるともっとたくさんあるのだけれど、まずこの目標に挑戦します。

 今までは私一人が毎年目標を立て挑戦を繰り返してきたのに、1993年からは大事な彼殿を中心に、私の人生を進める心強さを感じているのです。

それにしても昨日、今日電話をくださると言っていたのに入りません。電話の前まで行ったけれど、長野県の実家にかける訳にはまいりません・・・・・・。電話番号を聞くことを忘れていたし・・・・・・。                しのぶ(淋しい)

 でもね、1月4日は彼殿とサーカス見物に行くことになっている。しばしの我慢!!

 

 

タカシは3日の夕方、長野県の実家から帰り、そのまま手土産を持って武井家に新年の挨拶に行った。元日にしのぶには電話で新年の挨拶を済ましていたが、改めて着物を着込んだしのぶに逢うと、新年を本当に迎えたという感動が込み上げてきた。武井勇と咲子もタカシの改まった新年の挨拶に応じた。弟の実は友人と出かけていたので不在だった。この日は2回目の武井家への訪問である。挨拶に来た社員達が帰った後なので、父の武井勇はかなり酔っていたが、タカシと改めて飲み直し始めた。今日で三が日が終わりだというのに、お節料理が潤沢にあった。母の咲子がタカシのためにと、確保しておいたそうである。しのぶと横に並んで食べるタカシは楽しいはずなのだが、正面に座った勇に饒舌に話しかけられるので、その受け答えで晩餐は終わってしまった。横でしのぶはにこにこ笑っているだけである。帰り際、坂の下の道路まで見送りに来たしのぶの手を握ってお互いの顔を見つめ合った時、初めてこころが満たされ、気分は絶好調になった。着物姿のしのぶの艶やかを、自分の網膜に焼き付けるかのように、何度も振り返っては目を凝らすタカシであった。

 

翌日、五反田で待ち合わせし、荒川区のJR地下鉄南千住駅前に向かった。今日はしのぶの希望でサーカス見物だ。やはり一度もサーカス見物したことがないと言うのである。しのぶは待ち合わせ場所で逢った時から機嫌が良くて、鼻歌などを歌っている。タカシは子供の頃、父親に連れていってもらったサーカス見物の記憶の断片が、とても懐かしく、とてつもなく楽しい光景であったことを思い出した。今日見るサーカスも、きっとその時と同じものかもしれないとタカシは期待した。会場に到着してタカシとしのぶが席に座ると、場内の照明やデザインは、記憶の中のサーカス小屋より一段と洗練されているが、やはり見覚えのあるものだった。20年の時を経た今、子供の頃の感動と同じものを感じ取ることができるだろうかとタカシは思ったが、その懸念はあっという間に打ち破られた。

華麗なるオープニングショーが始まると、黄金色の衣装やキラキラと銀色に輝く衣装を着飾った女性たちが、身体全体でお客様への歓迎を表し、笑顔を振りまいて踊る。

つりロープショーでは、ロープと体の間に作られた摩擦だけでぶら下がって、鍛えられた美しい人間の肉体美や体の曲線を見せてくれた。

動物のショーも定番だが、動物を自在に操る技は、日頃の訓練の積み重ねなのだろう。キリンやシマウマの曲芸は、可愛らしくてコミカルで思わず頬が緩む。不思議の王国タイからやって来た像のショーも、民族衣装をまとった可愛さと、滑稽な演技に拍手喝采である。同じ動物のショーでも、ライオンとなるとやはり猛獣であるがゆえに、曲芸中に事故が起きないかと要らぬ心配をするのだが、調教師と獰猛な動物たちとの深い心の通い合いの芸に、思わずタカシは、

「凄い!」

 と叫んでいた。しのぶは、

「本当に凄いね。自分の心でさえ上手くコントロールできないのに、あの調教師は獰猛なライオンを操っているわ。愛情で猛獣の心をしっかり掴んでいるのでしょうね」

 と感動したままの目でタカシを見つめ、肩を軽く触った。

タカシのサーカスの記憶の中で、一番衝撃的に覚えているのは、オートバイショーであった。耳の中に、バイクのエンジンの音が、20年を経ても残っているような錯覚がある。赤や黒などのバイクスーツを着込んだ若者が、茜色に輝く丸い網の中をぐるぐると走り回る。遠心力とはいえ何故天井に行っても落ちないのかと、タカシはこの年になっても合点がいかない。しのぶも口を半開きにして、耳を少し抑えながら、キラキラした目で会場の中央を見ているのである。

 

地上からの高さは、恐らく10数メートル、両端に設置されたジャンプ台の間隔は、約20メートルぐらいあるだろうか。長いのや大きいのや小さいのや、6つほどのブランコを使って繰り広げられる、サーカスの大輪の華とも言える空中ブランコショーも圧巻である。タイミングが一番大事な曲芸である。特に目隠し飛行や紙破り飛行などの芸は、呼吸が止まるかとも思われるほど観客を惹き付ける。まさに怖いものを見たい心境なのであろうか。鍛えに鍛えた出演者の息をのむ大技に、観衆のどよめきは天井まで登って行く。そうかと思えばサーカスには欠かせないピエロの登場で、場内は湧き上った。

タカシはこのブランコを見ているうちに、中原中也の『サーカス』という詩が、脳裏を過ったのを感じた。あの不思議な詩である。

 

幾時代かがありまして

茶色い戦争がありました

 

幾時代かがありまして

冬は疾風吹きました

 

幾時代かがありまして

今夜此処でのひと盛り

今夜此処でのひと盛り

 

サーカス小屋は高い梁

そこに一つのブランコだ

見えるともないブランコだ

 

頭倒(さか)さに手を垂れて

汚れた木綿の屋根のもと

ゆあーん ゆよーん ゆやゆよん

 

それの近くの白い灯が

安値(やす)いリボンと息を吐き

 

観客様はみな鰯

咽喉(のんど)が鳴ります牡蠣殻(かきがら)

ゆあーん ゆよーん ゆやゆよん

 

屋外(やがい)は真ッ暗 暗(くら)の暗(くら)

夜は劫々(こうこう)と更けまする

落下傘奴(らっかがさめ)のノスタルジアと

ゆあーん ゆよーん ゆやゆよん

 

詩の文言が頭を過った後に、最後のゆあーん ゆよーん ゆやゆよんという何とも淋しい音色のようななものが、何度も頭の中を掻き回した。いやブランコのように左右に頭の中で揺れている。遥か20年前の福島の大きな町で行われたサーカスの金色に染まったイメージ風景や、度肝を抜くような演技の数々に、タカシの小さな手が汗ばんでいたことを思いだした。帰りには父におんぶしてもらって、夕焼けの茜色を遥か彼方に見ていた時、深くは判らないけれども、儚い人間の人生のようなものが、ひたひたと迫ってくるような気がしたことを、鮮明に今この瞬間に記憶の島から紡ぎ出した。ゆあーん ゆよーん ゆやゆよん。淋しいけれど人生の一面を見ると、ゆあーん ゆよーん ゆあゆよんのようなものだとタカシは呟いた。

タカシはその幼い時に、ぼんやりと茜色の夕焼けを見ていると、苦難の人生を乗り越えて、様々な年輪が顔に無数の皺を作らせた優美な老人になったような気がした。何をする訳でもなく、父の背中でじっと茜の空を見ているのだ。退屈であるから気持ちを紛らせている訳ではない。フローリングの床にうつ伏せになり、庭の先にある門の外にじっと視線を向けている犬のように、時間の流れに任せて、一切の煩わしい世間の動静など歯牙にもかけず、平然と佇んでいたような記憶がある。生まれてもいずれ亡くなってしまう人間の儚い定めに、タカシは泣き出しそうな気配もあったが、どこかで超然と達観しているような妙な心境もあった。人間の一生の中で、生老病死は必然のものである。それであるが故、人間は儚さに対抗するために哲学を持つ。それは一瞬一瞬において力強い前進の哲学でなければ、越えようもないものかもしれない。幼い時のタカシは、あっという間に消えてしまう夕焼け空の儚いイメージの中に、そんな生き方をしなければ美しくないと直感的に悟ったのであろうか。そう、人間の命が尽きる時には、一幅の見事な一枚の絵が出現し、その絵の前で平然と眺めているような光景が起きてくるのかもしれない。鍛え抜かれた人間が生み出す空中ブランコの律動、一幅の絵画のような黄昏、その儚さを刹那の瞬間に手に入れていたという事は、幼き頃のタカシは、実は幸福であったのかもしれない。人生は短い、あっという間に過ぎ去る。その中でこの至福の瞬間を感じられることは、人間に与えられた特権なのかもしれないとタカシは思った。

 

その他空中大車輪、イリュージョン、空中アクロバットショー、日本的な古典芸、椅子を幾つも重ねた上で演ずる妙技、一輪車の曲乗りパレードなどなど、2人はあっという間に過ぎた演目の数々に、振り返り思い出しながら名残惜しそうにして会場を後にした。

 

銀座で夕食をとったが、2人の話題はもっぱらお互いの両親の話になった。タカシは最近になって、しのぶの両親や家族と逢ったので、その感想などを話しているうちに、肉親との死別の話にまで及んでいった。それは空中ブランコからあの中原中也の詩へと連想され、茜色の夕焼けの思い出に行きつく時に、生み出された生死に対する感慨を、しのぶにも話しておきたいと思ったからだ。しのぶとタカシの2人の未来に対する予感が、そうさせたのだろうか。

 

  

◇1月5日(火)晴れ

 昨日、年の初めにゆっくりとサーカス見物が出来た。サーカスを生で見たのは生まれて初めて!嬉しかった!タカシさんに感謝!ありがとうございました。

  

今日は用事があって先輩教師に電話をした。すると何度か親しくお話したことのあるお母さんが出られ、『元気にやっていますか』『頑張っていますね』などと声をかけてくれた。先輩教師は不在だったが、タカシさんとのことで相談にのってもらったりしている。そのお母さんの話では、お父さんが入院しているが、もう余命は短いとのことだ。それでも毅然としっかりとした語調で、『お父さん、お母さんを大切にしなさい』と言われたことが、胸に深く響いた。

 

もう一人、高校時代の同級生の昨年2月に結婚した三奈美さんに電話をした。2月の初めに赤ちゃんが生まれるという。余命いくばくかの方と、生まれてくる赤ちゃんの話が重なった。殺伐とした世の中に見えて、死と生の中で生身の人間は戦っているのだ。その人々の存在の渦中に彼殿と私がいる。そう思うと、もっと人と人とのつながりを大切にしたい。 

昨日、彼殿が私に申しました、親の死による別れを今考えています。彼殿が申しましたように、たぶんその時には髪を振り乱して、悲しむと思います。

 でも、今までは弟がいましたし、これからはもっと力強く励ましてくれる彼殿がいます。いつまでも親と共に生きたいというのが、私の思いですが、人間には寿命があります。できる限り長生きしてくださいと、心から祈るしかありません。それは私の両親と彼殿のご両親の健康・長寿です。 

高校時代に鑑賞した『ET』の映画の別れの部分で、激しく泣いてしまったことを覚えていますが、昨日のディナーでの彼殿の言葉が、10年前に泣いたことを思いださせてくれ、不覚にも涙ぐんでしまいました。

  人間は必ず死ななければならないことは周知の事実です。でも、今は周囲の人が亡くなることは少しも考えていません。けれども必ず死は訪れるのです。しかし、できうる限り長生きして欲しいです。人の死は淋し過ぎます。悲し過ぎます。 

人の健康と幸福を願い、彼殿と2人して必ず幸せになっていきたい!しのぶ


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誕生日に酩酊するタカシ

1月30日の土曜日は良く晴れていた。今日はタカシの誕生日である。27歳になった。しのぶが一週間前に誕生会を開くと言ってきたが、その話が武井家に伝わり、どういう訳か両親までお祝いをしたいと言ってきた。タカシは2人だけで食事でもと思っていたが、しのぶの両親がそんな話で盛り上っているなら、賑やかなのも嫌いではないので、応諾することにした。

 

夕方の4時頃、タカシはなだらかな坂を上っていた。左に折れると武井家だ。白い外壁の美しさに見とれながら接近していくと、しのぶがグレーのカシミアニットアンサンブルに、白の刺繍柄のスカートをはいて、ドアの前に立っていた。少し寒そうだが、顔は綻んでいる。

「待っていてくれたのですか?」

「いいえ、今出てきたら丁度タカシさんの姿が見えたの・・・・・・」

 いつものように質問に対して、素直に認めないような雰囲気があるが、化粧をした美しい顔を見ると、タカシは心が緩んだ。

 しのぶが開けたドアから先に入ってと促すと、タカシは目の前に父の武井勇と母の咲子が、満面の笑みで立っているのに恐縮した。冬の鋭角な西日の光線が、両親の顔を撫でている。今日で3度目の訪問であるのに、最初と変わらない初々しい出迎え方に、タカシはしのぶに対する両親の深い愛情を、感じずにはいられなかった。

 客間に通されると、もうすでにいくつかの料理が出されていた。独身のタカシにとっては垂涎ものである。

「私が作ったのはこの春巻きです。あとはお母さんだけど・・・・・・」

 しのぶは料理は得意ではないが、精一杯作ったその料理は、神々しいような自己主張をしている。

 宴が始まった。武井勇とビールで乾杯をすると、しのぶはしゃれた紙袋を、別の部屋からご機嫌な時のステップを踏むような歩き方で持ってきた。

「はい、朝倉さん。27歳の誕生日、本当におめでとうございます」

 と紙袋を差し出した。中にはリボンのついた大きめのシックな箱が入っていた。タカシは言われるがままリボンをほどいて箱を開けてみた。黒い革製のショルダーバッグだった。触ってみると何とも言えない柔らかな素材に、タカシうっとりとしてしまった。好きな素材で欲しかったものである。

「ありがとう。しのぶさん。僕が好みそうなバッグを良く知っていましたね」

 しのぶは片目をつぶって、

「池袋に遊びに入った時、バッグ屋さんのショーウィンドーで眺めていたから、欲しいんだなって判っていたわ。それにこのブランドは評判も良いし・・・・・・」

「本当にありがとう」

 タカシは嬉しさのあまり、しのぶの白魚のようなすべすべした手を握ったが、彼女の実家であることを思いだし、すぐに手を引っ込めた。その仕草が余りにも微笑ましく映ったのか、家族からは弾けんばかりの笑い声が上がった。しのぶも下を向いて恥ずかしそうに笑っている。

「さあさあ、タカシさん、しのぶとはまた後でゆっくり水入らずで話もできるでしょうから、まずは飲みましょう」

 勇はビールの瓶を持って、タカシのグラスに注いだ。タカシは恐縮した顔をしながらグラスを持っている。今度はタカシが勇のグラスにビールを注いだ。家族全員の乾杯の掛け声で、タカシは美味しそうにその杯を半分ぐらいまで開ける。すると、また勇はビールの瓶を持つのである。勇はタカシが可愛くて仕方がなかったのだろうか。愛娘であるしのぶの心を射止めたという意味では、タカシという人物を、ある意味尊敬し評価しているのであろうか。アルコールは、堅苦しい社会常識やお付き合いを深めるための長い工程を、一気に走破する威力を持っている。ためらいがちな気おくれや緊張感が緩和し、お互いの深層心理が表に出てくるようだ。大脳を刺激する高揚感が、明るい会話を生む。だから勇は仲良くなりたい人物と良く酒を飲む。経営する会社の社員達とも定期的に懇親会を持ち、苦情のガス抜きや、本音を聞きだすことに力を入れている。今日はそのお相手が愛娘の将来の婿殿となれば一層、その人物に対して興味は尽きないようだ。

「タカシ君はどの位飲めるのかね?」

「僕は長野の田舎育ちですから、生い立ちの環境としては、呑兵衛が美徳みたいなところがあって、何か行事があると皆良く飲みますね。実家はログハウスを建築する仕事をやっていますので、職人たちが集まると良く飲んでいました。それに寒いところですから、それを凌ぐためにというのを言い訳にして飲みます」

「酒は人生を彩る至福の時を作ってくれるから、僕に言わせると飲めない人はある意味可哀想だと思うよ。僕も若い頃は本当に飲んだ。お金がなくても飲んだ。それでこの咲子には、随分迷惑をかけてきた。酔った勢いで言う訳ではないが、本当に感謝してる、咲子さん」

 隣にいた咲子は、照れているのかばつが悪いのか、勇を軽く睨んで苦笑いしている。

「タカシ君、人間は遊ぶために生まれて来たと思うがどうだろうか。もちろん一生の大半は苦しいことばかりだが、その苦しいことを修業して乗り越えるから楽しいんだよね。これが遊びでなくてなんでしょうか。僕はそんな時に美味しい酒を飲むんだ。そんな時の気分は最高の幸せだね。だから、お酒には感謝。これが無かったら寂しいものだ」

 タカシも酔いが回って来たのか、酒の哲学論を力説する勇に反論したくなった。

「でも、武井さん、僕もお酒は大好きですが、そこまでは思いませんよ。だって酒でなくても人それぞれいろんな至福の時がありますから、お酒だけに肩入れするのはどうかと思いますが・・・・・・」

「面白い、タカシ君は僕に反論するんですね。僕が思うに、お酒が一般大衆に広がっていて、下戸でもない限り誰でも飲めるものです。これだけ普及していたら、世の中の大抵の人は、私のお酒が最高であるという至福論は賛成多数だと思うがどうだろう」

「僕が言いたいのは武井さんの言うことが、皆賛成ではないという事だけです。その人達にお酒が絶対に最高の至福だと、強制的に言わせるわけにはいかないですから」

「じゃあ、他にどんな至福の時があるというんだい」

「女性だったら、特にご褒美に美味しいものを食べるというのがあります。男女問わずでは、ゆったり寝ている時が至福の時という人がいます。僕もかなりそういうところがありますが・・・・・・。また、好きな人と喋り捲るというのも至福の時です。ある人は、快晴の日、洗濯物を干して、隅々までお掃除した時が至福の時っていうのもあります。他にはこんな人もいます。一日の仕事を全て終えて、読書している時が一番っていう人も。温かい風呂に入っている時が幸せとか、野球を生で見ているのが快感とか、美容院に行っている時がまったりしているとか、ドライブしている時が最高など、人の数だけ違う至福の時があるのかもしれません。だから、人が本当に幸せを感じているというのは、外見では判らないと僕は思いますが」

「そんなことは僕も判るよ。でもね、この世に生まれてきた人間には、何が本当に一番楽しい快楽か、判るように遺伝子に記憶させている。だから、その遺伝子にある記憶の中では、間違いなく食欲や性欲の次に、酒欲というものがあるんだよ」

「僕もお酒は大好きですが、そこまでは言いきれないと思います。やはり人間それぞれの幸福感というものには、差別がありますので・・・・・・」

「君もしぶとい男だね。結構食い下がってくるね。まあ簡単に妥協する人間よりは良いのかもしれないが」

 酔った上での日頃の思いを、勇は若いタカシにぶつけて楽しんでいるようなところがある。勇はビールから焼酎に変えた。タカシは次の飲み物を聞かれたので、申し訳なさそうにウィスキーがあればと所望した。すると準備をしていたのか、透き通った氷が入ったダブルが出て来て、氷の入ったアイスペールとウィスキーの瓶までテーブルに置かれた。しのぶは下戸であるから、何故そんなに楽しそうに飲めるのか、不思議だというような顔をしている。

 

勇とタカシの話は、やがて人生論になった。人間は苦労した方が良いのか、苦労しない方が良いのか論である。タカシは高度成長期の真っただ中に生まれているせいか、できればそれほど苦労しない方が良い派である。勇は第二次世界大戦時代に生まれているから、この時代は苦労を買ってでもしろである。

「やはり苦労は勝手でもしろと言うのは、正論だと思う。苦労すればするほどそれは必ず全部自分に、素晴らしい結果や幸福をもたらしてくれるのは間違いない」

 勇は苦労して今の会社を築いたいわば成功者であるが故に、この持論に対する自信は強い。

「人間の一生は修行だと思う。その修行をしているからこそ、苦労しているからこそ、どんな場面でも前向きに挑戦していける。強く生きれるんだね。やっぱり一生は長いようで短い。その中で自らが体験できることは限られている。しかし自ら困難を選び乗り越えていけば、人生の豊かさは二倍、十倍、百倍と無限に広がっていく。その分だけ自分の自信として揺るがないものになって行く。これが本当の幸福感だよ、タカシ君。だから苦労はした方が良い」

「少し前に人間の幸福感には人それぞれ差別があると申し上げましたが、この考え方から言うと、苦労と言うものにもいろいろな差別があると思います。その中でも最高のものがあるかも知れませんが、残念ながらその人の気持ちまで覗くことはできません。ですので僕が思うのは、苦労をすることは判りますが、一律に苦労しろと言うのは無理です。人によっては微々たるものでも、苦しくて鬱になったりします。だから、人間を一律に同じ苦労させるという考え方には反対です。その人に合った適度な苦労は必要でしょうが、他の人と同じような苦労を与えて、壊れてしまったらどうします。だから僕は難しいとは思いますが、その人の器が耐えて越えられる程度のそれぞれの苦労を、選択できる方がいいと思いますね。そうなると、武井さんから見たら、小さな苦労でいっぱいいっぱいの人の場合でも、それは苦労じゃないと一言で終わってしまうかもしれません。でも、現実に何の配慮もなく一律に苦労させることによって、鬱になったり、自殺したりする人が出るのです。一辺倒な苦労ではなく、もっと繊細にその人にフィットした困難を与えないと、だめだという事です」

「僕には鬱病になる人間については良く判らない。なんですぐめげてしまうんだ。心が弱いんだね。そんな人間ばかりが増えてきた。僕には最近の青年たちが良く判らない。生命力が弱いんだね」

「確かに時代は管理社会になり、昔のように人間が自然の中で育つという事はなくなりつつあります。環境はだんだんと悪化しています。それでも、昔だって鬱病の人はいたでしょうし、そんな強い人ばかりではないと思います。これだけ情報が行きかう世の中になったから、人間の弱さとかにスポットライトが当たるようになっただけで、人間の強さ弱さはどんな世代であろうとほとんど変わらないと思うのですが」

「タカシ君もなかなかの理屈屋だな。そんな細かいことでなく、苦労を買ってでもするという王道は変わらないというのは間違いない」

 タカシは両親に口を酸っぱくして言われてきたそのフレーズが、あまり好きではない。大ざっぱではなく、もっと思慮深く人間を見ていかなくては、こぼれてしまう人間がいると、その後も主張し続けた。

 やがて、また話は小さな対立を生みながらも、様々な分野に広がって行った。いくつかの話題がその後続いたが、戦争の話になった頃にはもう9時近くであった。その時刻になると、月末で土曜出勤していた実が帰宅してきた。タカシに誕生日のお祝いの言葉を言うと、一緒になってテーブルに座って夕食を取り始めた。ウィスキーのボトルは、半分ぐらいが空になっていた。眠くなったタカシの様子を見ていた勇は、しのぶに隣の部屋に布団を敷くように言った。今日は予期せぬことに泊まることになったのである。タカシは上機嫌で、しのぶと同じ屋根の下に寝ることに、子供の時の外泊する楽しさに似たものを感じた。パジャマを出してもらい、着替えて布団に入ると、タカシは強い眠気に吸い込まれていった。

 

 2時間ぐらい経っただろうか、タカシは胃の中が不快になるのが判り、こみ上げてくる苦しさに目を覚ました。しのぶと咲子は隣の部屋でまだ起きていて、話し込んでいるようだ。タカシは障子を開けて、しのぶに歪んだ顔を向け、気持ちが悪いと言ってトイレに駆け込んだ。便器の前に膝をついて前かがみになった途端、危険水域に耐えかねた堤防が決壊したかのように、汚物は吐き出された。しかも激しい水圧である。タカシは勇にウィスキーを盛んに勧められ、良い気になって飲み続けた自分の末路が、この状態である事に、深い恥ずかしさを感じた。いいや、しのぶへの恥ずかしさである。お酒でしのぶを不快にするような行為になった事に対する恥辱感である。酩酊はしているが、その恥辱感は痛いほど胸を刺した。トイレのドアを叩く音がする。

「タカシさん大丈夫ですか?背中をさすりましょうか?」

「とんでもない。大丈夫です。一人で収まるまで何とかしますので気にしないでください。申しわけない」

 そう言うのがやっとであった。その後もおさまって布団に入るが、またしばらくするとトイレに駆け込む。トイレに30分ほど閉じこもり、また布団に入る。そんな状態が朝方の5時ぐらいまで続いた。しかし、やがて吐くことに疲れたかのように、タカシはこんこんと眠り始めた。

 

「おはようございます」

 タカシは天から降り注いでくるような声に目が覚めた。しかし、目が覚めた途端、しのぶの目に少し涙が溜まっているのが見えた。

「大丈夫ですか?胃の調子はどうですか?」

 悲しみと怒りが混在しているような不思議な声である。タカシは頭の中にある得体のしれない鈍い痛みに苦慮しながら、 

「すみません。醜態を見せて。君のお父さんと話が弾みすぎて、つい飲み過ぎてしまった。本当にごめん」

「私は全然平気です。二日酔いのようですから、このお薬を飲んでゆっくり寝ていてください。私は学校に急用ができたので、出かけますけど・・・・・・」

「いいや、長居するわけにはいかないから、すぐアパートに帰って寝るよ」

「そうね、それじゃアパートの近くまで送っていくわ」

「いいよ、いいよ。君は学校へ行く支度をしてください。僕は君のご両親に、お礼とご迷惑をかけたことを謝ってから帰ります」

 しのぶの目は一瞬寂しそうな気配を見せたが、こくりと頷いて、薬と水の入ったグラスが載ったお盆をタカシの前に置いた。タカシは錠剤と水を弱った胃の中に流し込んだ。

 両親に丁寧に詫びると、父の勇は、自分の若い頃なんかそんなものじゃないと言って、呵々大笑された。外に出ると快晴であった。家の前の路地を出て坂を下っていくと、眩しい太陽の光線が、タカシとしのぶのつないだ手を温かくした。洗足池から流れてくる小川の側で、タカシはしのぶと別れた。振り返りながら、タカシは手を振った。そういえば、昨日しのぶからわくわくするような素敵なカバンを貰ったのに、ゆっくりお礼をしていなかったことを思い出し、タカシは醜態の件とダブルパンチとなって、頭の痛みが増すような気がした。

 

 

◇1月31日(日)晴れ

 昨日は彼殿の27歳の誕生日。今、少しグレーな気分です。昨日の夕方からタカシさんがいた部屋の中を、今日は複雑な思いで見ています。学校の用事を終えて帰ってきたら、遊びに来ていた親戚の夫妻と甥が、やはりこの部屋の中にも入りました。今は両親と弟がテレビを見、私は暖房機の側に横になって日記を広げています。書き始めようと思ったのですが、ペンを動かすにはとても苦しくて、文章が書けません。精神的に疲れています。昨日から悲しみが消えません。彼殿の悪酔いを見てしまったのですから・・・・・・。ただひたすらに、布団に入り眠りにつきたいと思うだけだ!                     しのぶ

 

◇2月1日(月)曇りのち晴れ

自分の悩みの中で空転していると、周囲から自ずとあまり良くない報告が入って来る。本日、大学入試の試験日にあたる生徒が多いのだが、全力を出し切れるように指導して来たのに、最も力を入れていた2人の子が、全然ダメだったと言って来た。

1993年は、私にとっても勝負の年だ。特に全員、志望の大学、就活を勝ち取ってもらい、無事卒業して欲しい。そのことを年頭にも祈願したが、今日はショックな日となりました。世の中に役立つ人材の創出という大道に立ち、学校においての戦いは、負けてはいけないと自覚していたのに・・・・・・。未熟さを痛感しています。落ち込むという言葉はとても嫌いなのですが(いつも現状維持を引用しています)、この言葉が昨日、今日と当てはまっているのです。

今までは、どんなことがあっても彼殿のことを考えると、気持ちが沈んでいても、生命力だけはめきめきと燃えてくるのは不思議だったのです。そんな時に本当に出逢えて良かったなと実感してきました。所詮は落ち込んだとしても、彼殿という支えがあれば、必ず解決するのだからと。確かに落ち込むことはないのでしょうが、そこが凡人の悲しさで、現実にぶつかると悩んだり苦しんだりしましたが、要はどのくらいの時間の中で、立ち上がるかが問題だったのです。

その元気をくれる支えとも思える存在の彼殿に、今日は残念なことに苛まれています。ですから学校のこともなかなか気持ちが晴れません。今私が思うことは・・・・・・。

お酒を飲むことには反対しませんが、お酒に飲まれることと、周囲の人に迷惑をかけることは、して欲しくないのです。

私の父はとてもお酒が好きで、人が来ると昼だろうが夜だろうが必ずお酒を出させます。また、お酒の場になると、最初に飲み始め、最後まで座っています。そのまま静かに寝てくれるならいいのに、ある時は路上で寝ていることもあります。そんな時の母の悲しむ姿を見ていますから、あの苦労はしたくないし、もし結婚するのなら、お酒に飲まれない人だと願ってきました。

彼殿のお酒の限度はどの位なのかは知りませんが、私の想像していた飲みっぷりより、はるかに超えたものであることを目の当たりにして、昨日は悲しくなってしまい、ちょっと泣いたりしてしまいました。いずれ彼殿には直接お話をする予定ですが、決して涙で抑えようとか、やめさせようとか今は思っていない。彼殿は優しい人だから、私の嫌がることを止めようときっと思ってくれるでしょう。けれど好きなものを止めるということほど残酷なものはありません。好きなものでしたら、本当はどんどん飲んでもらいたいのです。ただし、お酒に飲まれないことと、周囲に迷惑をかけないこと(酔ってもどしたり・・・・・・)。

そしてあと二つあるのです。将来もし結婚した時のことを考えて、箇条書きにして残しておきます。

1.何処で友人・知人と飲んでも構いませんが、自宅に帰れない時は必ず連絡をして欲しい。

2.趣味で飲んでいる分には構いませんが、もし所帯を持った場合、生活が苦しくなるほどお酒にお金を使わないこと(お給料の大半がお酒のお金であったりしない事)。

以上の2点に関しては、守ることを彼殿が承知しなくても、私が感じたら多分必ず家を出ます(この時仮に子供がいたとしたら、連れて行きます)。この考えはあくまでも結婚を前提とした話です。

今日ずっと良く考えに考えて決めました。このことを言ったら、彼殿の気持ちを非常に重くするのはよく判っていますが、人はいくつかのやって欲しくない事を持っています。

私にとって、お酒のイメージは良くないのです。ですから飲む場に行っても、飲みっぷりの良い人の側ではなく、つきあい程度で飲む人の側か、あるいは飲まない女性の側にいつもいました。弟に言わすと、『姉貴が飲めるようになれば、その分だけタカシさんの量が減るかもしれないから、大酒のみになったら・・・・・・』と冗談を言っていました。

これは多分面と向かって言えないことです。

いつまでも彼殿がいて、私がいるのだと思い続けたいのです。そのためには努力はします。恋に恋焦がれる単純なる青年よ(コレ、イヤミ)!

もっと大人になって精神的に私を抱きしめてください(コレモイヤミ)。 

そして私のわがままを聞いてください!            しのぶ



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