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不忍池からやってくる秋の風

 10月25日、曇りのち晴れのさわやかな過ごしやすい日であった。11時にタカシはしのぶと五反田駅で待ち合わせた。11時15分前にタカシは到着した。改札の方を見てもまだしのぶの姿は見えない。タカシはホームの端の方に行って、煙草の箱をポケットから取り出した。火をつけゆっくり吸い出した。吸い込むと胸が苦しくなるような錯覚がする。これから逢うしのぶを慕う気持ちの高ぶりが、抑えきれないような気もした。こうやって、地球上の数多のカップルと同じように、特定の異性へのときめきの時間を味わえるようになった自分が、今は信じられなかった。少し前までは一人の生活に慣れ切っていたのに。今は気を使う相手がいる。待ち焦がれていた異性がいる。そして今、この場所に向かって来ている。逢えば湧き上る愛の予感に心が弾む。

やがて、次の電車がやって来た。深い緑色の3両編成の車体は、ホームに横づけになった。しのぶはきっとあの電車に乗っているのだろうと想像した。するといつものフェミニンなファッションではなく、紺色のチェック柄のシャツを着て、ジーンズにピンクのスポーツシューズを履いているしのぶが、急いで改札口の方へ向かって歩いて行くのを発見した。自分の事が見当たらず、一生懸命に探している姿がいじらしい。タカシはそう思った。それならいっそうもう少し見つからないように隠れようかとも思ったが、小心者のタカシはそうはできなかった。すぐに駆け寄って声をかけると、しのぶは吃驚したように振り向いた。一瞬にして少し不安を帯びた顔が、安堵の表情に変わって行くのがタカシには判った。

 

山手線に乗り、上野に向かった。

 上野動物園、長野にいた時に中学の修学旅行で足を運んだ記憶が、タカシの脳裏によみがえってきた。

 上野駅を降りたら周りの群集は、動物園という異次元の世界への期待感で、テンションが高くなっているのが肌で伝わってくるようだ。控えめに手を繋いでいたしのぶの手も、期待で躍動しているのが判る。いや、タカシにとっては、初めて触れるしのぶの白い手は、柔らかくて少し冷たくて、電気を帯びているようにタカシを感電させた。しのぶもきっと同じような感慨を持っていただろうが、動物園への期待感と重なって興奮状態になっているようだ。ゆるい坂を登って行くと、やがて大きな入場門が見えてきた。

「何だかわくわくするね」

 と言ったしのぶの声は、少し上ずっていた。

 彼女は小学校の頃、学校の遠足で上野動物園の見学があったが、たまたま体調を崩して参加できなかった悔しい過去があった。かといって大人になるまで、見学に来る機会はなかったのである。だから、今日のしのぶは、タカシにその機会をねだり、成就する運びとなる嬉しい日なのである。タカシと出逢わなければ、見学の機会はまた伸びたのであろう。

上野動物園は、丘陵地の自然やその景観を維持している都市型の動物園で、およそ400種3,000点の動物を飼育している。

東園は巨樹が鬱蒼としていて、とても東京都内とは思えない。大きな上野公園の丘陵地に位置している。中型のサル類がいたり、ジャイアントパンダ舎、ゴリラ・トラの森、ゾウのすむ森、クマたちの丘、ツル舎などが見物できる。

表門広場を入ってすぐ左側には、五重塔をバックにエゾシカやニホンカモシカ、日本の野鳥を展示する動物エリアがあった。ここでは、ルリカケスの行動を理解できるように工夫した展示や、ニホンリスの連結ケージなどが見られた。

今日のしのぶは、タカシに子供のように甘えているようだ。手を繋ぎ、

「早くパンダを見ようよ」

 と急かす。

東京近郊でパンダを見られる唯一の動物園ということもあり人気はすごい。パンダの檻の前は長蛇の列だった。しのぶはまるで迷子にならないように、必死にタカシの手を握っている。タカシはパンダより、しがみついているしのぶのかすかな吐息の気配と、握りしめてくる冷たいのか暖かいのか判らない手の感触に、体中の神経が集中しているようだった。パンダの見学はその次であった。それでもしのぶと並んで、愛嬌のある大きなパンダを見られるのはほんの一瞬であるから、目も閉じないで真剣にタカシは見た。こんな一瞬であるからこそ、人々は感動するのだろうか。しのぶの感動が手の感触から伝わってくる。もし、しのぶと結ばれて子供ができたら、パンダをまた見に来たい。家族で見るパンダほど、多分もっと感動は深くて凄いものなのだろうと、タカシは想像しながらしのぶの手を強く握った。

「痛い!」

「ごめん、つい」

 二人は目を合わせて笑った。

ゾウのすむ森は、緑と土の放飼場と、群れ飼育ができる施設があり、充実した環境だ。寝室にいるゾウの様子や、プールでの迫力ある水浴び、放飼場での採食や砂浴びなどを、さまざまな角度から見ることができた。それから、クマたちの丘をゆっくり見た後、ホッキョクグマとアザラシの海を見物。ホッキョクグマが生き生きとダイナミックに行動する姿や暮らしを、間近に観察することができた。また、ホッキョクグマと生息区域が同じであるアザラシが泳いでいる姿に、しのぶは親しみを感じていたようだ。

ここまで見物して来て、もうかなり歩いた気がしたが、やっと半分である。今度は西園である。モノレールも走っているが、二人はゆっくり歩いた。イソップ橋を渡ると、子ども動物園が見えて来た。

この西園は、ハスが茂り、島が点在する風光明媚な不忍池北側の区域である。キリン、カバ、サイ、ハシビロコウ、アイアイなどアフリカ産の動物、両生爬虫類館、家畜動物が中心の子ども動物園、動物園ホールなどが点在している。

「お腹がすきませんか?」

タカシはもうかなり前からお腹の虫が鳴っていた。

「そうですね。結構歩きましたから。実を言うとお腹はペコペコです」

しのぶはタカシの気持ちを察しているのか、笑いながら答えた。 

「混んでいますけど、あそこのレストランに入りましょうか?」

ペンギン、カンガルー、フラミンゴ、オオアリクイなどを見物していくと、西園食堂があった。園内にあるレストラン兼休憩所といったイメージの食堂だ。

意外とメニューは豊富だったが、テーブルに着席すると、タカシはしのぶにオーダーを聞いた。

「そうね、カレーがいいかしら?あと、コーラください」

「じゃ僕もカレーにしよう。あとフルーツパフェ」

 タカシのオーダーに、しのぶは一瞬きょとんとした。そう、見たことのない場面が、目の前に出現した時に生じるあの驚きの顔である。混雑はしているが店員がやってくると、タカシは淀みなく注文品を告げた。

 料理が配膳されカレーを頬張っていると、コーラとパフェがテーブルにやってきた。しのぶは大好物のコーラを口に含むと、満たされた顔つきになった。それでも目の前で、パフェを長いスプーンで美味しそうに食べているタカシを見ると、なぜか少し不機嫌そうだった。

「どうかしたのですか?」

 タカシは不審に思って聞くと、

「何でもない」

 と言ってしのぶはまたコーラをかなり勢いよく吸った。氷の白い小さな粒が見えてきて、茶色の液体はみるみるしのぶの口の中に吸い込まれていく。

食べ終わると、しのぶとタカシは見物した動物たちの話で盛り上がった。しのぶは特にパンダを見た時の感動を、しつっこいくらい繰り返している。タカシはニコニコしながらその話を聞いているが、少し殺伐としている店内や、メニューの表記なども眺めていた。この食堂のイメージとしては、商売っ気の無さがもろに出ているような気がした。カレーの味は良かったし、パフェのパンダの顔も面白かったが、今一つ洗練されたものを感じられなかった。タカシの目はしのぶに首ったけだが、記者の目として、あとで役立つようにさまざまな都会風景も、記憶にとどめようとする貪欲な面もあった。

しのぶが約束通り食事代を支払ってくれて食堂を出ると、二人はキリンとカバのエリアを見物した。長い首のキリンに、しのぶはいつまでも見とれていた。カバやサイの前で、ジョークを連発するしのぶは可愛かった。

 

不忍池は天然の池で、堤で3つに分かれている。1つの「鵜の池」が、園内の池だ。岸辺などを活用して、ツル、ペリカン、オオワシなどの鳥類が展示されていた。

「池を見ると、心が落ち着きますね」

ベンチに腰かけて、タカシは呟いた。

「本当ですね。洗足池とは違った趣があり、ここも良いです」

「しのぶさんはしのぶなのに、ここはしのばない池というのは、妙な取り合わせですね?」

「私は天邪鬼だけど、しのぶ時はしのぶのです」  

「しのぶという名は、本当に良い名前だと思います。好きですね。でもしのぶさんはきっと天邪鬼だから、辛い時には大丈夫と言い、病気の時には何でもないと言いそうだから、僕にだけは隠さないで何でも言ってください」

 タカシは何故か変なことを言ったとは思ったが、しのぶは、

「私って健康だけが取り柄だし、辛かったらタカシさんに当たるから心配無用です」

 と笑った。

「変なこと言ってすまない。まあ何でも言ってもらえると、嬉しいという事です」

 タカシはそう言って、不吉な言葉を打ち消した。不忍池からやってくる秋の風は、生暖かいが、すでに凍てついた冬の厳しい寒さをも連想させた。

 

 

◇10月25日(日)曇りのち晴れ

楽しい上野動物園、彼殿と待ち合わせの日です。

 11時に五反田駅で待ち合わせ。出かけ際に電話あり。その時間30分間。生徒のOさんの悩みが一つ解決すると、次にMさんの悩みが入ってくる。その度に自分が少しだけ成長できていることが嬉しい(これ嫌味ではない)。

遅刻したら彼殿から怒られそうで、その顔を想像しながら駅に向かう途中、ある生徒の保護者から声をかけられ少々談笑!急いでいる時はこのようなものなのです。ハイ。

電車の中を走るような思いで五反田着。11時少し前!彼殿がいないことがおかしく思え、駅ビルや売店や電話の置いてある付近を探してしまった。彼殿が先にいるのが当たり前と思っている自分に気付き、吃驚してうろたえていました。もう確実に甘えきっている私を発見してドギマギ!

動物園のパンダを見に行くのが夢だったが、叶えてくれて彼殿に感謝、感謝。本日は良く歩いたなとの実感!楽しかったわ!      

 

近頃感じるのですが、少しずつ地を出し始めたなと、彼殿を見ています。初めての印象が良い人は、少しでもドジっぽい我を出すと、イヤになるのが女性です。良い面、悪い面があって本来の人間ですけれど、私にとって男性の存在とは、尊敬できる頼れる人であるという事が、出発点であります。その出発点を持っている人であるなら、普段の些細なことは気にならないはずです、と自分自身に言い聞かせています。良くわからない文章となってしまいました。単刀直入に書かないと、このような文章となり、何を言っているのか自分でも判らなくなってきます。

私の意識の中には、男性は甘いものは食べることが少なく、特にチョコレートパフェとかバナナパフェは、女性と子供が食べるものと決めつけていたところがあります。それなのに彼殿が召し上がった。今まで抱いていたイメージが、頭の中で崩れたのです。他の人から見れば些細なことなのでしょうが。確かに他の人が召し上がる分には、どうってことはないし、女性っぽいなんて軽く思ったりしたでしょう。でも目の前で、しかもお見合いをして3回目のデートの相手!簡単に女性っぽいだなんて、思ったりはできない心の動揺を、彼殿は測りきれるでしょうか?けれども食べてはいけないという事ではないのです。私があまりにも小さな器であるという現実に、今気づいているのです。その人を全部ひっくるめて尊敬できるのなら、普段の些細なことは気にならないはずだと反省しているのです。ただし、尊敬できる男性は、普段の行いもほとんどが尊敬できるという方であるはずです!?     しのぶ 


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結婚を前提に付き合いたい

11月8日、快晴で気持ちの良い一日であった。午前11時半に洗足池駅で待ち合わせ。しのぶはやっぱりタカシより遅れて駅に駆けつけてきた。オレンジカラーのスカートに、アイボリーのシースルーのノーカラージャケットを着たしのぶは、いつになく若々しさを感じさせた。石川町駅から中華街に歩き、小龍包などを食べた。腹ごなしを兼ねて、山下公園方面へタカシとしのぶは歩いていった。 

山下公園は、取り立てて何か特別なものがあるというわけではないが、タカシの中には、何かおしゃれな文化を持った土地にある公園というイメージがあった。『浜っ子』と言って、地元の人間が郷土愛を持って自慢しているぐらいで、他の土地と大した違いはない。それでも頭の隅に刷り込まれたイメージは、拭いきれない憧れの場所である。しのぶもそうだという。いずれにしても港町横浜の雰囲気を、十分に感じ取ることができるのがこの山下公園だ。園内はかなり広い。今日の二人は歩き回るというよりは、のんびりと白雲とブルーの海を眺めながら、過ごそうとやって来た。天気の良い日なので当然人も多く、絶景の眺めの良いベンチの確保は難しかった。屋根のある場所もほとんどない。それでも、タカシはベンチを探した。そうすると、丁度親子連れの3人組がベンチから立ち上げるのが見えたので、タカシは走った。幸い確保できたので、嬉しそうに小走りで来るしのぶに手招きした。

今日のタカシは、心に決めていたことがあった。正式にしのぶと『結婚を前提に付き合いたい』と言うつもりであった。

日差しが意外とまだ強く、しのぶは少し顔が焼けそうと言って笑った。タカシもそうだと言って、ブルーの海を眺め話し続けた。彼らにとってはこの美しい風景も、二人の寄り添うような会話を飾る絵画であった。

「しのぶさんは時間が出来たら、何をしていますか?」

「教師は意外と時間外の仕事が多いのですが、たまにぽっかりと時間が空いた時には読書をします」

「偉いですね」

「学ぶことは、幼いころからとても好きです。家には絵本がたくさんあったことを覚えています。東京の子供はどうも『ひ』と『し』がごちゃごちゃとなって言えないようです。私も幼い時、自分の事を『しのぶ』と言えず、『ひのぶ』と言っていたそうです・・・・・・。面倒になって友達の前でも、自分のことを『ノブ』と言って、小学生時代を過ごしました。『ノブの童話を読んで頂戴』と母の膝に座り、絵本を読んでもらったことが多かったのです。歴史小説の本が好きだった父が、背中におぶさった私に、その物語を話してくれたことも記憶にあります。ただ、父の話は、聞き始めた時はまだ私が幼かったため、その時はあまり理解してはいませんが、不思議と小学生の高学年から中学生になって、ああこんな話父から聞いたような気がすると、結構刷り込まれていたことが判るようになりました・・・・・・。タカシさんも本が好きだから、色々教われることがあると、楽しみにしています!私から学ぶものはあるかな?なかったりして・・・・・・!」

「そんなことはありませんよ。多感な女子高生に教鞭を取っているのだから、逆にいろんなことを教えてもらえるのは僕の方ですよ」

「今のは、謙遜で言いました」

 どっと笑いがはじけた。二人の高揚した声は、眼前の海の中に吸い込まれていくようであった。

「教師になった理由は、多分私は本来人間が好きなのでしょうね。若い人との対話の中で、むしろ自らを見つめ、いろんなことに挑戦していこうと決意することが多いのです。だから、教師としても人間としても生涯学んでいきたいです。それは、出逢う人と共に成長していきたいという私の願いであり決意ですね」

「すごく真面目で、素晴らしい話です」

「どうしたのかしら、今日は素直に言っている自分がいる。青い海と白く霞んだ地平線、そしてまたその上にある青い空のせいかしら・・・・・・」

「そうですね。雄大な風景は、心の鎧を取ってくれるような気がします」

 

帰りに寄った蒲田駅の側にあるトゥモローという喫茶店のソファーに座り、タカシは胸の高まりを覚えた。

 蒲田茶房での出逢い以来、何度か武井部長から会社に電話が入った。内容は積極的に武井しのぶにアプローチしろという激励と言うか、脅迫と言うか、自分の姪っ子であるという事もあって、かなり力を入れている心情が伝わって来た。タカシ本人はそういわれる度に、やはりしのぶの方へ気持ちが傾斜していくのが判った。タカシは冷静に心の中で、大げさだが呻吟するしかなかった。そして考え、結論を出した。今日必ず、『結婚を前提に付き合いたい』という言葉を、意思表示しようと思ったのである。

 コーヒーを飲んでも、タカシにはいつもの味がしなかった。砂糖とミルクも普通に入れているのに、苦いようなのである。しのぶとの話は、学校の話になったが、1人の生徒の悩みの話がひと段落すると、タカシは座りなおしてしのぶの顔を真正面から見つめなおした。

「今日は大事なことを言っておきたいのですが」

笑いさざめいていたしのぶは、口を閉じると何かを察知したのか身構えた。

「思い切って今日話しておきたいことがあります」

 しのぶの顔に緊張感がみなぎった。タカシもそうである。

「何でしょうか?」

「知り合ってからもう2ヶ月近く経ちますが、一つの区切りとして話しておきたいと思います。僕はしのぶさんのことを、将来の結婚の対象として考え始めています。これが今の偽らざる気持ちです。ですので、出逢ったばかりという面もあり、なかなか気持ちが固まらないかもしれませんが、今後は結婚を前提にお付き合いをしたいと思っていますが、如何でしょうか?」

「そうですね。私はタカシさんのことを嫌いではないですし、しっくり合うところもいくつかありますし・・・・・・」

「ありがとう。僕もとても相性が合う部分がある事を理解しています」

「今この場でご返事をしないとまずいですか?」

「いいえ、そちらの気持ちが固まった時でいいですから、電話でもいいです。ご返事ください」

 タカシはせっかちな自分を押し殺して、彼女が気の済むまで考えることをむしろ歓迎した。

「判りました。少し時間をください。真剣に考えますね」

 タカシは返事がもらえるまでのまな板の上のコイのような心境が、今この瞬間から沸き起こる感じがした。それからしばらくまた二人の身の上話をいくつかした後、池上線の電車に乗ってそれぞれ洗足池駅、長原駅で下車した。空には珍しく星がいくつか見える日であった。タカシには自信と確信が瞬いていた。

 

それでも結婚を前提にお付き合いを、と言う話の回答はそんなに簡単には来なかった。だからある時は太陽のような確信、ある時は漆黒の闇のような心境に苛まれたタカシは、11月12日の夜もしのぶの電話を待ちわびていた。この日は大事な日になりそうな予感はあったが、何もないかもしれないという恐れもあった。祈るような気持ちで時間を過ごした。

その日は午後9時半帰宅。布団に入って目を閉じようとした時、草色の電話機がけたたましくなった。呼び出し音はかなり小さくしてあるのに、安普請のアパート全体に響くような金属音に思えた。

電話は案の定、武井しのぶであった。いや、この電話は武井しのぶでないはずがないと思っていた。

「遅い時間にすみません。今日は学校でちょっとしたトラブルがあったので遅くなりましたが、今日にはご返事をと思っていたので電話しました。本当に私でいいのですか?」

しのぶの言葉がタカシの心に響いた。それはタカシの人生を揺さぶるような響きであった。何年でも何十年でも、記憶の島に不動の位置を占める言葉になると思った。武井家の電話の置いてある周りの静けさが、受話器から聞こえるような気がした。タカシの記憶の島に余韻を持って響き渡り、その言葉は胸に迫った。

 

  

◇11月8日(日)快晴

洗足池駅で待ち合わせをして、憧れの山下公園へ彼殿が連れて行ってくださった。中華街では中華を食べましたが、なぜか胸がいっぱいで、あまり食べれなかったような気がします。彼殿はいつもと変わりがないようですが、ちょっとテンションが高いので気になっていました。そしたら、蒲田の駅に近い喫茶店で、結婚を前提にした正式なお付き合いの申し込みがありました。だから彼殿は精神が高揚していたのだと気づきました。結婚を前提と言う正式なお話は、これからよほどのことがない限り、ルートを外れることなく前進することだという事ですから、正直天邪鬼な私は、いやいやをしたい気持ちも湧き上りました。しかもこんな大事な話は、幼いころからもっと静かなところで、見つめあい、申し込まれることを夢に見ていたのに、ちょっとだけ期待外れだった。でも、現実はこのようなものだろう!と思う。叔父さんからは、まだ若い男性で、融通が利かないところもあるかもしれないが、これからが楽しみな優秀な新聞記者だから、超真剣に彼殿のことを考えなさいと言われ、考える姿勢は真面目と化す!                             しのぶ

 

◇11月12日(木)快晴

タカシさんに結婚を前提にお付き合いすることについて電話をする。

婚期が少し遅くなり(自分では適齢期は決めていないが、1990年代の世間一般に)、父母に心配をかけていて、本当に申し訳ないと思っているのです。背がちょっとだけ丸くなり、一回り小さくなった母を見ると、心配をかけさせたくないなと心の底より思うのです。彼殿ともし将来、幸せに仲良く暮らすことが出来たならと思うのは、彼殿に期待をし過ぎなのでしょうか?こんな時○○さんのご主人だったらこうするだろうとか、○○さんはこう考えて実行してくれたとか、他の人と比べてしまう事が多くなりました。それでも彼殿は彼殿であって、○○さんでもないし、友人のご主人でもないのだから、違うのは当たり前の事なのです。それなのに期待してしまうのです。私は口で言うほど強い女性ではありません。内心は不安(実体は無いようにも思えるけど)でいっぱいなのです。もともとは小心者の私が、教師の仕事を通して変わりつつあるものの、いまだ途上であることに他なりません。私は臆病者なのです。彼殿を信じているのに、一歩前に飛び出すことが怖いのです。だから人の手を利用していると思われたくないのですが、彼殿がしっかりと手を握って離さず、前に進んで欲しいのです。一歩踏み出せば、私は必ず前のみを見て進む女性なのです。踏み出すまでの弱い私を離さずに、側に居て欲しいのです。そしてもう一度だけ、何故私と結婚を前提にお付き合いをするのかを、良く考えてください。

今夜は眠られません。時計は4時です。早く朝になって欲しい。     しのぶ


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意地悪と巻き起こる嫉妬の渦

11月22日の日曜日は、晴天だがそれでも少し肌寒い日だった。もう冬は側に来ているのだろう。午前10時。長原駅前でしのぶとタカシは待ち合わせをした。近所に住んでいるのに、一度も寄ったことがないしのぶのために、小さな安アパートの部屋をタカシは見せた。ガラスの入った格子戸をタカシは開け、暗い灰色のコンクリートのたたきに先に入った。しのぶは靴を脱いで、タカシに言われるままに、タカシの靴箱に入れた。先に廊下の淵に上がったタカシは、靴箱の中の靴の少なさに恥ずかしい気がした。それでもしのぶはそんなことにはあまり関心がないようなふりをしている。タカシが暗い廊下を先に歩いた。廊下の敷き詰めた板が、人間の体重の移動に、小さな悲鳴を上げているようだった。タカシは部屋の引き戸の鍵を回した。旧式の鍵で、これもタカシはしのぶに対して、とてつもない恥ずかしさを感じたが、やはりしのぶはにこにこしているだけで、けなすようなそぶりは全く見せなかった。

中に入るとタカシは胸の鼓動が高まるのが判った。大好きなしのぶを抱きしめたい感情に駆られた。その感情を無理に押し込めるようにして話しているから、声が震えているようだ。受験時代から使っていた机、ベビーダンス、水色のありきたりな柄のファスナー付ビニールロッカー、本棚2基、テレビなどの配置した室内を見せた。ありきたりな独身男性の部屋である。タカシは簡単にそれらの室内の備品の調達の由来や、本棚に入った本の種類などを説明していたが、やはりしのぶも極度の緊張のためか、部屋を出るまで終始無口だった。タカシはそんな年齢の割に初々しいしのぶの態度に、胸がいっぱいになり、思いっきり抱きしめたくなった。その吹き出るような思いを抑えることは、至難であるような気さえした。

駅の方向に二人が向かうと、また、しのぶはいつものしのぶに戻った。

 

長原駅の地下に入り、深い緑色の池上線の車体が入ってくるまで、二人は和やかに話し続けた。いつもと変わらぬ、相手の未知の部分を解明しようと、お互いが好奇心に満ち溢れて、目をきらきら輝かせて聞いたり話したりしている。五反田で山手線に乗り換え、新宿に向かった。青春デンデケデケデケを鑑賞。さらに池袋へ向かった。長い動く歩道に乗り、サンシャイン60に到達。展望台より下界を見た。タカシの長野の親戚が来た時も、このサンシャイン60に案内しているが、海抜250メートルの高さは、しのぶとタカシの心を高揚させた。しかも晴天である。東京の中心地のほぼ全域が、二人の視界に入ってきた。 新宿高層ビル群や、1988年に開場した日本初の屋根付き球場である東京ドーム、このサンシャイン60の展望台より少し低いところに特別展望台を持つ東京タワー、そして大手町のビル群が見えた。それらの周囲には、今日は霞んでいるが、冬の寒い時期には遠くに富士山や筑波山も見えるという。関東平野はどこまでも広く街並みが続いているような気がした。

「しのぶさん、下の階の飲食店で何か食べようか?お腹がすきました」

「そうしましょう。私はこの高さにドキドキしたので、胃が吃驚しているようですが、お付き合いします」

 と言って、しのぶはあまり食い意地が張っていないことを、さらりと主張しているような気もしたが、タカシはきっとデートで緊張しているのだと思った。

 晴れ渡った都内の一角が見渡せる窓際の席に案内された。洒落たイタリアレストランである。時間もお昼をとっくに過ぎていたから、少し空いていたが、窓際席はタカシ達が座ると、もう空きがなかった。二人はメニュー見ると、フルコースの値段が意外と高いので、単品ものにすることにした。タカシは当然奢るつもりなので、しのぶは何も言わない。にっこりと同意している。

 サラダとパスタをボーイに告げると、タカシは冷たい水を軽く口に含んで喉に流した。しのぶと向き合うと、やはり緊張するのであろうか。喉が渇くような錯覚がする。

「今日は、晴れて良かったね」

 瀟洒で明るすぎるレストランの中での会話のスタートも、無難なところから始めるという小心さに、自分で自分の緊張感が可笑しく思えた。それでも助け舟を出すようにしのぶは話題を違う方向へ持っていった。

「今日は、最近の出来事をタカシさんに報告しようと思うの」

「何かありました?」

「私は全然飲めないのですけど、久し振りに教員の飲み会へ行きました。文化祭の反省会みたいな飲み会です。学校あげての文化祭で、実行委員の中心の女子が頑張り屋だったので、来年の開催がまた楽しみになるほど大成功でした」

「教師って本当に大変だと聞いているけど、僕の想像ではしのぶさんは多分熱血教師でしょうね?」

「私は熱血ではないです。ただ、生徒一人一人を育てること、少しでも社会のお役にたてる人を送り出すことが願いです」

「やっぱり、そうだと思った。この前の山下公園でも言っていたけど、何か強い使命感みたいなものを持っている事に気づいていたよ。あ、ごめん。話を遮ったみたいで・・・・・・」

「構いません。それでその飲み会終了後、ケンジさんという男性に、話があると言われて喫茶店に入ったんです。彼も下戸ですから素面同士での話し合いになりました。タカシさんに話す必要はないかもしれないと迷ったのですが、やはり私の気持ちの一端を話しておかないといけないと思いまして・・・・・・。実は、全校で文化祭の準備が始まったばかりの頃に、交際というより、結婚を申し込んできた人なのです。ケンジさんは、私が今の女子高に新卒で入り、いきなり担任を任された時に、学年副主任だった人です。その時から学年主任までいった人だから、10年ぐらいのベテランの先生です。今まで結構優秀な生徒を育てた人ですから、それこそタカシさんの言う真からの熱血教師だと思います。うちの女子高で男子教員もかなりの割合でいますけど、その中でも真面目一本な人だと思ってきていました。私が教師生活に慣れた23歳ごろの時、どうだ考えてみたらと言う人がいました。その頃教頭で、今は校長になった人です。その話は本人から何もなかったので、反故にしてしまいました。それでも、職員室で仕事をしていると視線を感じ、ふと見るとケンジさんと目が合うこともありました。勧めてくれた人は、当然それなりにケンジさんが私に好意を持っていることを確認していました。しかし、うやむやになったので終わった事と思っていました。それでもその後も変わらず、確かに好意を持っていてくれていることを感じていました。そして、ケンジさん本人から直に言われたのは、なんと4年も経ったその飲み会後の事なのです」

「そんなことがあったのですか。話してくれてありがとう。やっぱりいつもしのぶさんのことを全部知りたいと思っているから、話してくれたので嬉しいです」

 タカシの内心は、微かだが嫉妬の渦が巻き起こっていた。それはやがて肥大化しそうな気もした。

「くれぐれも誤解しないでください。いずれ何かの切っ掛けで、タカシさんのお耳に入る事だし、隠してもしょうがないので、言っておこうと思ったの。私がもてるっていう事を、話しているのではないですからね・・・・・・」

「判っていますよ。それでも焼けます」

「私が23歳の頃、教頭からの話を反故にしていたとはいえ、きちっと本人から申し込まれていたら、きっと今の状況よりは、ケンジさんのことを真剣に考えていたかもしれません。というのは、早く家庭を持つこともありかな、という考えもあったのです。しかし今では、蒲田女子高等学校の教員の同志ととらえているのです。でもそのことを、ケンジさんにとても言えなかった。学校の教職員の男性と女性は、とても仲が良くて、一緒になって生徒の抱える悩みについて相談しあいますが、他の男性職員の人にも、ケンジさんにも、異性としての男性という意識より、やはり蒲田女子高内の同志という気持ちに、今では落ち着いてしまい、多分それ以上の恋愛感情などはないと思いますと言いました・・・・・・」

「そうだね。そういう言い方が良いのかもしれない・・・・・・」

 タカシの胸の中では、僕の存在があるから駄目だと、そのケンジにはっきり断って欲しかった。しかし、煮え切らない言い方で、結果的にしのぶは振ったのだ。

「振る方の私は傷つかないで断れると思っていましたが、一緒に蒲田女子高で生徒を育成していくことを考えると、伝える言葉にオブラートがかかり、思うように表現ができなかったのです。タカシさんと結婚を前提にお付き合いしていることは、まだ正式ではないので、私は言わないつもりです。これが私のケンジさんに対する精一杯の思いやりだと、後で必ず判ってくれると信じているのです」

「その方法が多分ベストだと僕も思う。いずれは傷つくのかもしれないけれど、最小限にとどめる気遣いも大事ですね」

「私から見るとタカシさんは1歳年下、ケンジさんは5歳年上、6歳の開きがありますけど、正直言って考え方や感覚はあまり違わないように思えます。新聞記者として苦労されているのか、はたまたケンジさんの精神年齢が幼いのか。いいえ恐らくタカシさんがオジンなのでしょうか?」

 タカシは笑った。しのぶは自分の発したジョークに酔いしれているかのように、笑いがなかなか止まなかった。しばらくすると、

「ケンジさんには、本当に幸せになって欲しいです・・・・・・」

 としのぶは窓の外に見える眼下の風景を見つめながらぽつりと漏らした。タカシは胸の奥が熱く焼けるような思いがした。そして、楽観視していた、しのぶとの結婚への道程に、暗雲が垂れ込めるような気がした。

『まだ正式ではない』というしのぶの心の中の揺れ動く思いを忠実に表した言葉は、タカシの気分を重くした。

しのぶはパスタを少し残した。タカシが奢ると言って勘定を済ませ、夕闇迫る池袋を後にした。

 

 

◇11月22日(日)晴れ

 こんなにも近くに住んでいるのに、タカシさんの部屋に入ったことがなかった。

 タカシさんの部屋に入ったのはもちろん初めて。行くまでは興味津々で独身男性の部屋を探検してやるぞ、と楽しみにしていたのに、いざそうなると何故か恥ずかしくなってしまいました。精一杯力んでいたので、タカシさんのお部屋の中の様子を、ちっとも覚えていないのです。残念です。何が残念と言うと、私のことを少しは抱きしめてくれるかな、と期待していたりして。その変な期待が緊張感を生んで、もう舞い上がっていました。私はなんでも平気なような顔をしているけど、初心すぎるのです。

 

 この前、教職員の飲み会に久し振りに行きました。その時の事をタカシさんに話しました。なんかケンジさんの伝達会みたいでした。飲み会終了後、ケンジさんと逢った話をしましたら、タカシさんの表情が、見る間に変わっていくのが良く判りました。 

 私が直接本人に申し込まれたら、真剣に考えたと思うというのは、言い過ぎだったかもしれない。いかに学校内の教師の同志と言っても、タカシさんは納得しないかもしれないのに、私って意地悪なのかもしれない。あんな美しい下界の風景を見ているんだから、無神経でなくもう少しロマンチックにさらりと話して良かったのに、一から十まで話してしまったような気がします。そのくせ私の本当の気持ちをあのレストランで、なかなか恥ずかしくて言えなかったわ。素直に言えなかったのか、意地悪の虫が腹の中でさまよっていたのか、「今の私はタカシさんの方へ向かって歩んでいます」と、何故か言えませんでした。反省!!ショックだったでしょうね。タカシさん。私の胸の中を切り開いて見せたかった。間違いなく、今の私はタカシさんに向かって歩んでいるって、あらゆる森羅万象の中心で叫びたかった。でもケンジさんに好きな人がいるからとはとても言えなかったと同じように、タカシさんにも魅かれていますって、正直に言えなかったわ。素直にそう言えたら、タカシさんはきっと私を痺れるほど、きつくきつく抱きしめてくれたのにね。振る方は傷つかないで断れると思っていたが、一緒に仕事をして行くことを考えると、言葉にオブラートがかかり、思うようにケンジさんに言えなかったなんて。私は相当のかっこつけかしら。精一杯の思いやりだと、後で判ってくれると信じているなんてほざいたわ。タカシさんごめなさい。そして年齢の事で、つまらないジョークを言ってすみませんでした。それになんて私は酷いのかしら、タカシさんのことが一番好きなのに、ケンジさんに幸せになって欲しいなんて、馬鹿みたいです。すみません。ごめんなさい。何度でも言います。

 それなのに、彼殿は私に気を使い過ぎているのか、遠慮がちだから思いっきり焼いているのに怒らない。細かくどうのこうのというわけではないが、その遠慮がたまりにたまった時が怖いような気がする。私の身体がそう感じているのだ。こんな意地悪な私に気を使ってくれることは、とても嬉しいと思う。でも長い人生なのだから、どうぞくたびれないようにしてもらいたいです。大好きなタカシさん。面と向かって本人に言えないから、日記にこっそり書いておくわ。           しのぶ


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天邪鬼の虫が動き出しそう

◇11月29日(日)曇りのち晴れ 

結婚式日和。坂口さんと岡崎初子さんが、目黒雅叙園で結婚式を行いました。

40名ほどの質素な感じの宴ではあったが、内容は学校の教職員、親友などに囲まれた盛り上がりのある宴であった。坂口さんは身体障害者として、証明書を持っている方だが、大学を卒業して38歳まで、一つの会社で働いている真面目な男性である。 

  私の同僚の初子さんに逢う前は、身体の障害のことで悩み、周りの人と喧嘩ばかりしていたが、自分のことを本当に理解してくれる彼女に出逢ってからは、人に対し、一度も手を挙げたこともなく、いつもニコニコと話を聞いているのである。

 初子さんは28歳であるが、恋人に右と言われれば、左と言われるまで動かないような従順な女性である。そして、人前でも平気で彼と腕を組んで通り抜ける一本気な女性である。私の友人も良く街で見かけたらしいが、彼の首に手をまわして、ぶら下がるようにして歩いていく姿は、断然彼女の方が彼より積極的に見えたそうだとか・・・・・・。

私にはとてもそんなことはできませんと、同僚たちには言っていたが、そんな態度がとれる初子さんがうらやましいとは思っても、絶対に私はできないでしょう。わがままで両親や弟に、自分の我を張り、イヤイヤを態度で出していたものの、女子高の先生の仕事に没頭していくにつれ、生徒たちのわがままな態度、ふてくされた態度、逃げ腰の態度等々に触れる中で、私のわがままな態度、感情は出せないなと実感し、外に出さないようにしてきました。私の心の中にある素直な気持ちが、思いのまま顔に表すことができたなら、もっともっと彼殿に愛される女になれるのにと、地団駄を踏んでいます。感情を抑えることが当たり前になってしまっているのと、表現が下手なのが私なのです。そういえば小さいころから、好きな人ができても、私は貴男のことをなんとも思ってないわよと、わざとそっけない態度をとっていましたっけ・・・・・・。

何時も片思いをして、寂しい日を過ごした思い出がある。そんな中で詩を書くことや絵を描くことや音楽を聴くことが多くなったようだが、教師としての生活の中では、一人静かにということすら、思い出として残らなくなった。高校教師の仕事は、学習指導要領に沿った授業内容の組み立て、またプリントや練習問題を作ったり、中間、期末テストの問題を作成したりしなければなりません。また専門知識を磨いておくことが求められます。教科書の改訂など教える内容も変わることがあるので、日々勉強が必要なのです。その次は生徒とのコミュニケーション、生徒の親との折衝、部活動、進路相談、模擬授業などの勉強、各種イベントの主催など盛りだくさん。でも、私はしんどいこともあるけれど、とてもやりがいを感じています。あと付け加えるとしたら、悩んでいる生徒への手紙書きにはとても力を入れています。

例えば中学生のころに二度目の母で反発したことのある生徒。その命の汚さと、本当の母親と思えるようにと願っているものの、意地悪をされたりすると母親を憎んだり、というように繰り返しを重ねている。この半年ほど手紙の交換を行っているが、現実の彼女の態度に対する母親のさまざまな反応を読んでいると、良く家出しないものだと逆に感心したりしている。真正面から問題にぶつかっている彼女の本当の心を手紙から知り、人生の応援団長を自ら買って出ている。誰が見ていなくても、正しい人生の鏡は、彼女の行為をはっきりと写し出している。苦しくつらいことをじっと見ている。そしてその壁が突き破れたら、絶対的な幸せが待っている。その壁にぶつかるとき、弱くなったらいつでも来てほしいし、一緒に何でも語り合いたい。私は我がクラスの生徒たちの応援団長であると自負しているし、初子さんと約束した一生涯の教師を続けることを、タカシさんにもいずれは了解してもらおうと思っている。

こんな毎日ですが、自分の時間がなくても生徒の喜びや悩みを共に感じ、同僚教師の初子に相談したりしてきたことがとても楽しかった。

その初子さんがどうしたことでしょう、結婚が決まったらすぐに『教師をやめたい』と、周りに漏らしているといううわさが入った。逢って話すと噂は本当であり、結婚が決まったので、もうどうでもよくなったというのだ。初子さんとは長い付き合いだったから、結婚式には出ないよと言った。教師という愛すべき職業を全うするから喜んで出席できるのに、しないのなら私は出ないと言って帰ってきた。そしたら次の日から電話してくるようになり、式までに彼を説得すると言った。そして無事、彼の了解を取り付けて、今回の式に臨んだのである。

代々の先輩が結婚する教師に対し、嫁いでも聖業である教師を続けなさいと指導されてきた。私も偉そうなことは言えないけれども、同じ職場の同僚になった女性教師には、一生涯教師の仕事をして欲しいと訴えてきた。そして私もどんなことがあっても、一生涯教師として成長していきたいと思う。タカシさんとお付き合いして嫁ぐことになったら、なおさら揺るがないようにしていきたい。今思うことは、安易にやり遂げることは出来ないことを、己心の安楽思考への魔力と戦いながら、絶対教師を続けるぞと感じている昨今です!

一生涯定年退職するまで、教師を続けると腹が決まり、最愛のご主人との了解も取付て今日を迎えた初子さんは、とても美しく可愛らしかった。変な話、姉とか母とかという立場ではなく、可愛い孫を嫁がせる祖母のように胸がいっぱいになった。

 

同志よ 楽しい時は我を忘れ高らかに笑え

同志よ 寂しい時に我を思い出しておくれ

我は慰めない 共に戦う手を差し伸べよう

それが真の同志と思うからだ

我も心から祝福されて 新しいスタートを踏み出したい       しのぶ

   

◇12月3日(木)曇り

このところ何通かタカシさんから手紙が来ているので、本人にはなかなか言えないので、ここに素直な気持ちを書いておきたい。

一人で片思いと力んでいるあなた。今日も目いっぱい僻んでいますか。できるなら私の胸を切り開いて、この熱き思いをあなたに見せたい(どこかの劇のセリフのような・・・・・・)。ムードが出れば壊そうとする。愛の言葉を聞くと笑ってしまう。心に込み上げるものがあっても照れてしまう。今の私はそうなのです。あなた対して誠意が伝わっていないのなら、表現が下手な私のせいです。あなたが二人の間の事で寂しい思いをしているとしたら、それも私のせいです。私は嫌いなことは嫌と多分言うでしょう。あなたに対して嫌と言わないでいることが、私にとっては無理なく満足していることなのです。あなたの瞳の中に私が映っていることが、私にとって今はとても大切なのです。そして私の瞳の中に、あなたが映っていることが幸せなのです。

太陽が照らない日があったとします。その一日は私の心を空虚にすることに気付くことがあります。つまり太陽が出る時には感じられないことが、太陽がないと感じられることがあります。彼殿と一緒に居る時の楽しさを、一人になって思い出すのと同じかもしれない。今日は仕事で外に出ているのでしょうか?身体だけは大事にし、いつまでも健康でいて欲しいと願っています。こんなこと面と向かって彼殿に言えない、言えない(笑い)。

 

こんなことをもし直接言ったら、彼殿にどう思われるか判らないけれど、彼殿から手紙をいただいて(私はほとんど書きませんが?!)、読まさせていただく時、ほとんどの場合、彼殿の文章を読みながら吹き出すこと多々あります。両親や弟のいる家で、大声では笑えないので、部屋で押し殺すようにして笑っています。文書がおかしいとかでは決してないのですが、逢っている時と手紙の文章が、あまりにもそぐわないところが、妙におかしくなるのです。面と向かっては、二人とも照れ屋だし、ムードが出てきそうになると、意図的に壊すし(私の方が・・・・・・)。

でも、このままではいけないのではないかなと思っているのです。それでも天邪鬼の私が出てきます。 

 

私の本音が強がっている時は、「大丈夫」と言ってしまう。

なんでもない訳ない!?時は、「なんでもない」と言ってしまう。

意見が言いづらい時は、「なんでもいいよ」と言ってしまう。

すっごく気にしてますという時は、「気にしてないよ」と言ってしまう。

ホントはうれしい時は、「いや」と言ってしまう。

実はめちゃめちゃキレている時は、「怒ってないよ」と言ってしまう。

ほっとかれたら実はイヤな時は、「ほっといて」と言ってしまう。

かまってほしい時は、「勝手にすれば」と言ってしまう。

逢いたくてしかたない時は、「逢いたくない」と言ってしまう。

大好きなのについ・・・・・・の時は、「キライ」と言ってしまう。

これが私なのです。ダメですね~。ダメダメ。

 

それでも文章にすると、例えばカチンと頭に来て天邪鬼になってしまうことも、少し曖昧にうまく流れて行ってくれるようなこともあります。でも根本というか本当は、疑問や意見がある時は、逢った時に、納得がいく前向きの話し合いができれば良いと思いますが、私の場合果たしてどうなることやら。この前、何故私が酔う事を嫌うのかということで、彼殿が引用した精神分析という言葉がありましたけれど、この種の問題に本当に使う言葉なのかどうかは少し疑問ではあるが・・・・・・etc!天邪鬼の虫が動き出しそうでした。  しのぶ


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男と女のプライド

12月8日火曜日の朝、大粒の雨が降ったが、その後晴れる。12月にしては暖かくなった日である。タカシは気分的に師走の忙しさに追われながらも、中身の濃い仕事を一つひとつ落ち着いてこなした。充実した一日の仕事を終えた今日は、会社の忘年会である。新橋の料理屋で編集部が一堂に会した。約2時間の宴会は決まりきった一本締めが最後に行われたが、明年への決意が込められたものとなった。宴会中のタカシは、酔いが回るにつれて、しのぶという最愛の伴侶になる可能性の高い人のことで、胸がいっぱいになるのであった。頭の中に浮かぶ映像は、しのぶの澄ましてる横顔や、微笑んでいる正面から見た顔であった。ワンピースをきちっと着こなしたしなやかなしのぶの体つきや、去っていく後姿、ジーンズをはいたラフな出で立ち、しゃがんで上目づかいでタカシを見つめるなまめかしいまなざし、待ち合わせに遅れて来て、走り寄る時のすまなそうというか、照れているというか、そんな姿態などが頭の中をぐるぐる回っている。だから、隣の人間が何か話しかけているのだが、頷くだけ頷いて、中身は何も聞いていない。しかし、さすがにビールを注ぎに回ってきた編集長の話には、しっかりと耳を傾けた。新聞社の中ではタカシの師匠である。編集長が来年もタカシに期待するから頑張れ、というような話をして隣に注ぎに移った時には、ようやく緊張感が取れ、内心ほっとした。そうするとまた料理をつっついたり、ビールを好きなだけ飲み始めた。隣の人間はタカシが良い聴衆ではないと判ったのか、別の人間と話し始めていた。

一本締めの頃には、タカシはかなり酔っていた。歩けないほどではないが、若干いつもの自分ではないという違和感があった。会場を出ても得体のしれない昂揚感みたいなものが、心の中である人の名前を呼んでいた。それはもちろん『しのぶ』と言う名前である。

心のなかで呟くほどに愛おしさが募り、逢いたくなるのであった。

 

 新橋から五反田まで山手線に乗り、池上線に乗り換えて長原に着いた頃には10時を回っていた。ふらふらして流行歌を口ずさみながら、タカシは下り坂を歩いてアパートに向っていた。その時である、夜になると住宅街であるからほとんど車が通らないのに、急スピードで赤い乗用車が上り坂を走って向かってきた。タカシは避けようと思って道路の端に寄った。ところが酔いで目測を誤ったのか、蓋のない側溝に右足を落としてしまった。その時はずみで膝をしたたかに打ったが、車は無情にも止まる気配もない。走り去ったあとには、住宅街の静けさだけがタカシを包んでいた。

 ズボンを暗がりでめくってみたが、特に血がにじんでいるわけではない。タカシは一安心しながらも、『酔っぱらいはしょうがないな!』と自嘲している。しかし、ぶつかった膝の所のズボンの布は、見事に切れていた。『買ったばかりのスーツなのに!』とまたタカシは自嘲した。

 

 アパートの引き戸を開け、4畳半の部屋に入り、机の上に財布などを置き、スーツを脱いで速攻で着替えると、電話機の前にタカシは胡坐をかいた。気が急いて電話のプッシュボタンの押す番号を、何度か間違えたようだ。やっと3回目には間違いなく押せた。ドキドキする呼び出し音が聞こえる。今日はどんな声でしのぶさんは出てくれるだろうか、やさしいかな?寂しそうかな?明るいかな?それとも少々不機嫌かな?とタカシはこれから起きるしのぶの対応予測に、どきどきしている。やがて、愛しい囁きが聞こえてきた。

「はい、武井ですが」

「あ、僕です。朝倉です。元気ですか~?」

「ずいぶん飲んだような雰囲気ですね?忘年会はどうでしたか?」

「しのぶさんの事で頭がいっぱいで、あまり覚えていない」

「何を言ってんだか、調子いいわね。ちゃんと上司とかに、一年の締めくくりの挨拶ができたのでしょうね?」

「お~、ずいぶん偉そうに言ってきますね、しのぶさん」

「だって心配だから。貴方から聞いた話ではお酒に強いけど、たまにずっこけると聞いていたから心配なの」

「大丈夫、大丈夫、編集長には目一杯胡麻をすっといたから。すりすぎて胡麻だらけだよーん」

「ちょっと、脱線しすぎよ」

 しのぶは受話器の向こうで、だんだんと生徒に対するような強い口調になっている。タカシは酔っている時は陽気そのものだが、何か気になり始めると、素面の時より拘りは増幅するようだ。しのぶがタカシを子ども扱いしているような気がしてきた。

「脱線と言えば、僕はアパートへの帰り道に脱線したよ。転んじまった」

「え、何ですって。大丈夫なの。怪我はしなかったの?」

「何にもないってば。ただ、車を避けたら、膝を水路の角にしこたまぶっつけたのと、新調したズボンをちょっと破いた。スーツがお釈迦になっちまったよ~」

「まあ、スーツは良いとして、傷から黴菌が入ったりするから、良く消毒してね」

「大丈夫、ほっといても治るよ」

「だめよ。私のクラスでも、傷から入った黴菌で酷いことになった人がいるからちゃんとやってください。今から消毒に行きましょうか?」

「冗談は良子さん。こんな遅く僕のアパートに来たら、貴女のお父さんが心配するだろう。大丈夫だよ」

「それじゃ、ちゃんと自分で消毒してくださいね。判った?」

「貴女も結構しつっこいね。何とかするよ」

 しのぶはタカシから見ると、ドツボにはまったように神経質にしつっこく心配してくる。タカシを好きであるが故なのであろうか。

「あと、お酒はほどほどが一番です。飲んではいけないとは言いませんが、飲み過ぎて転んでいるようでは駄目ですよ。小さな傷で良かったけれど、もし交通事故にでもあっていたら・・・・・・」 

「どんなに酔っても僕は大丈夫だよ。不死身だから」

 タカシは強がっていく自分の不思議な感情の動きが、酩酊していながらも良く判った。

「何を言っているのですか。ダメよダメ。現に転んでいるではないですか。私のお父さんもたまにしか飲まないけど、もともと強いという自負があるのかしら、飲む時はしこたま飲むみたいです。酔っぱらって、洗足池の駅から家までの間に道路に寝込んでいたことが何回もあって、母が大変な思いをしていたことがあったわ。母の苦しみを知っているから、私は酒飲みは本当は好きじぁありません。たしなむ程度だったらいいけど、酔っぱらって側溝に落ちるなんて嫌です。ちゃんとやってください」

「・・・・・・」

 タカシは酔いの回っている頭の中で、愛しいしのぶの声を気持ちよく寝る前に聞きたかったのに、いつもと違う語気鋭く言い放つ追及の言葉に心が萎えた。それもそうであろう。しのぶは完全な素面であり、冷静に聞いているから、タカシの逃げ口上に我慢ができなかったのだろう。これから、付き合いが進んでいけば、しのぶが我慢できないこと、タカシの欠点を、ぜひ修正しておかなければならないという気持ちが、湧きあがってきたのである。

 しかし、タカシは反撃に出た。腹の中の虫が、不気味に動きすのを止めることができなかったのである。それは大好きなしのぶを自分好みにしたいという男の感情である。

 しのぶがヒステリックに怒りだしたのは、タカシに伝えている『お酒に流される男は嫌い』ということを、本質的に理解し改めようとしていないからなのであろう。この場合はタカシが共感すべきなのである。しのぶの話を聞いて、『そうだよね。君の嫌な気持ちを理解できていなくてごめん。やっぱりお酒はほどほどにたしなむのが良いね』って言えれば良かったのであろう。それなのに、タカシは逆切れの方向に向かったのである。その破壊力は、今までタカシがしのぶの言動で、時々我慢していた気に障ることも含めているから、威力は増していた。酔いもすっかり醒めたような気になった。

「しのぶさん。僕の意見も少し聞いてください。あえて厳しく思いやりを持って、日頃考えていることを言いますから。もっとあなたも自分を自覚しなきゃダメだと思うよ。話の端々に自分が完全だという事で、私を見下しているようです。それがたとえ僕の落ち度としても、一種のあなどりが感じられる。今までも時々あったことです。これは少し気を付けて欲しいです。つまり表だって言葉に表れていないようだが、貴女も相当な自信家だと思う。学校で生徒の成績アップに対する執念は、『鬼のしのぶ』と周りに言われてきたというのも頷けるけど、いいや、むしろ周囲は貴女のことを全然そう思っていなかったのかもしれないよ。だから人生経験では、僕の先輩だというような感覚は出さないで欲しい。また貴女が僕のいろんな振る舞いについて露骨に指摘する場合、どんなに嫌な思いをしているか感じているのかな。もちろんお互い様かもしれない。しかし、何かを直して欲しいという要求は、どちらかのわがままな期待でもあるという事を忘れないでください」

「タカシさん、私の言い方がきつくて、根に持っていることがあるのでしょうか?」

「根に持っているどころじゃなくて、ショックを受け、しつっこく考えてしまった事があるよ。酷い時は、自分が何をしているのか判らないほど考え込んでしまう」

「そんな・・・・・・」

「思ったことはなんでも隠さないで言ってくださいと、確かに以前は言ったけど、人の弱点をあからさまに、プライドを踏みつけるようなことまでしてくれとは言っていない。僕は貴女の人生の同志ですから、けっして貴女の足を引っ張るようなことはしません。それでもなんやかんや言い続けるのなら、僕は『口うるさい無神経な女だ』としか思わない。これは良く考えてもらいたい。貴女と僕は平等で対等であるけれど、やはり男と女の特質は違うと思う。だから極論を言えば、例え危なっかしいことを僕がしても、理解し見守ってくれないのなら、まず貴女はもう一度僕についての捉え方、考え方を変えてもらいたい。僕を信じると決めたのなら、あまり細かいことは言わないで欲しい。貴女は神経質に、それもかなり場違いなところで、僕の癖などを無理やり直そうと良くしますね。僕は貴女とゆっくりといろいろな話を交わすことで、心を落ち着けることができ、楽しい時をいつも過ごせると思っていたのに、最近の貴女との会話は、ああしろこうしろと要求めいたものばかりで淋しいね。お互いの我儘、つまり自分の満足しか考えていないものだから、ぎすぎすしてまったく楽しくないよ。特に電話での会話は、表情が見えないだけに、苦情めいたものが多くなってしまっている。一体全体これが甘味な恋愛時代などとはまったく思えない。とにかく主張することはしてもいいけど、愚痴めいたり、いつまでもしつっこく口うるさいのは、もうやめにして欲しい。貴女に女性らしさのかけらもなくなれば淋しいんだよ。だから常にバランス感覚がある、男性の操縦法を研究して欲しいし、貴女も自分をもっとよく見つめることです。自分の存在価値を正しく把握していない人間が、変な自信を持つという事は、まったく腹立たしいというのは世間の常だからね」

「・・・・・・ごめんなさい」

「人間は嫌な動物です。神経性の一種の小児病みたいなものを持っています。それは疳の虫です。気にくわないことがあると、腹の中のその虫がひきつけを起こす。貴女の中にも疳の虫がいるし、僕の中にも確かにいる。その虫をいかに理性でコントロールできるかです。一緒により自分を見つめ、より成長しようよ。お願いだから。あと、今まで貴女に僕なりに愛の言葉を囁いてきたけれど、それに対して貴女は僕へ愛をなかなか表現してくれない、という物足りなさはいつも感じています。『本当は愛していない』『適齢期の男性ならば誰でも良かったの』と言ってしまえば、それはそれでいいことかもしれない。しかし、もし本当にそうだとしたら、僕も態度を変えなければならなくなるよ。僕が愛を語れば語るほど、貴女が僕を見下して見ていくとしたら、そんな馬鹿な話はない。でもね、貴女の冗談の端々に、自然にそんな力関係が出来上がろうとしているとしたら、僕も態度を変えざるを得ない。このこともよくよく考えてください。一人の世界ではなく、二人の中に世界があるのだから、僕を無視しないでもらいたい。だんだんとそんな関係になるような気がしてならない。判るかな?」

「ええ・・・・・・」

 タカシの長広舌は止まらなかった。日頃のしのぶに対する不満が、爆発しているような有様だった。唯の良い人でいることが出来なくなったのだろうか。タカシこそ今後の二人の関係の主導権を、しっかりと取りたいがための地固めをしているようにも見える。

「次に男性に対しての見方が甘いと言っておきたい。これは逆説的な意味だが、男性はこういう姿であるべきだという期待感の甘さ、それゆえに現実的に裏切られると怒り出すと思う。これはとにかく見方が甘いのです。僕も女性に対しての見方が甘かったせいか、女性がだらしなさを見せると、良く口うるさく注意したりして、結局は喧嘩になってしまった事が多い。こうあるべきだというのは自らの持っていた夢であり、幻想論的な部分も多分にあるね。そこの所を良く見つめなくてはいけないと思う。『ああしてはいけない』『こうしてはいけない』と杓子定規に物事を判断すること、これほど現実から離れ、その見方の甘さゆえに強力な挫折感を味わうことになりますね。それによって喧嘩の絶えないこと。そんな生活を想像したら、なんと情けないことだろう。お互いにもっと穏やかであり、おおらかであるべきだと本当に思う。しのぶさんに逢った時の第一印象は、穏やかな性格と直感したし、そう信じてきたので、今はちょっと不満だよ。重ねて言います。男を神聖視しないで欲しいよ。男なんて勝手な動物だし、紳士面も一枚剥げば、ほとんどの男性は似たり寄ったりだよ。そのことを忘れないで欲しい」

「判っているつもりです・・・・・・」

「僕の気持ちとしては、『女性の指図を受けることはまっぴらごめん』だということです。男性に一々意見をするような女性は大嫌いだ。貴女はお父さんであれ、誰であれ、言いたいことを言ってきたかもしれないが、僕は違う。にこにこして貴女の話を最初は聞くかもしれないが、腹の中では、女性の指図は絶対に受けたくないという自尊心があります。だからあまりにも露骨に『指図』すると、僕は本当に口うるさく切り返していくから、気を付けてください。教師として、沢山の生徒を指導教育してきて、磨かれた洞察力は認めていますが、それでストレートに僕を批判しようとするならだめだと思う。僕は多分絶対に聞こうとしないだろうね。僕は3枚目に見えるかもしれないが、おっそろしくプライドが高いんだから。そのことについて、もっと僕を理解してください。それでも僕に注意したいことがあったら、頭ごなしな言い方ではなく、もっと低姿勢で言うべきです。どうか僕に対しては、教師的な言葉を使わないでください。『・・・・・・しなさい』とかいう言葉です。ある意味では悪い癖だと思う。貴女は僕の大事な天使なのですよ。そこの所を良くわきまえて、穏やかな言葉で僕に話してください。くれぐれも生意気だなと思われるような言動は慎んでもらいたいのです。とにもかくにも、こんなことを言うことからして、僕の器はちっちゃいのだろうね。本当にお互いに大きく包める境涯になりたい。これからますます孤独な修行が必要になると思う。でも、こんなことを言ったからといって、僕の貴女を慕う気持ちが変わったわけではありません。僕からの要望はこれでおしまいにします。参考にしてください」

「そうでしたか・・・・・・。タカシさんの心の中に、そんな不満があったなんて知らなかったわ・・・・・・。私は私なりに考えてみます。だから、今日の話はそれくらいにして、ゆっくり休んで疲れを取ってください。おやすみなさい」

 しのぶはそう言いながら受話器を置いた。最後の声は、少し涙声のようにもタカシは聞こえた。タカシは酔いに任せて言い放ってしまった言葉の数々が、自分の首を徐々に絞めつけてくる錯覚を覚えた。小心者のタカシは、しのぶを傷つけた罪悪感に震え始めた。寝床に入ると、涙を流すしのぶの姿が浮かんでは消えたが、後悔と強気が交差する自分の心の振幅に耐えるしかなかった。やがてアルコールのせいで、強い眠気が襲ってきた。

 

 

◇12月8日(火)雨のち晴れ

 忘年会から帰宅したタカシさんから電話が入った。怪我をしたという事で心配になり、ついきつく言ってしまいました。そしたら、思いがけないことを彼殿は言ってきました。彼殿に対して私の言動が、多くの悲しみを与えていたことを初めて知りました。

私が言葉上で彼殿に与えた悲しみは、今、充分に理解しつつ物凄く傷ついています。これほど人から言われたことはありませんでした。それに私は彼殿からこれほどのダメージを受けるとは、正直思ってもみませんでした。彼殿が感じたプライドを踏みつけたことや、人生の先輩ぶった態度や言葉等々、傷つけたことはあやまります。面と向かっては言えないので、ここにごめんなさいと心から反省して、文字として残しておきます。

でも、彼殿を軽視したことは、私自身一度もなかったし、彼殿についていきたいということだけを考えていました。ただ私は表現の仕方が下手ですし、お調子に乗りやすいから、ニコニコしてくれる彼殿に、お腹にあることを(特に嫌味を言いやすい)言ってしまうのです。天邪鬼の私がもっともっと素直になれるように、努力していきたいと思います。ともかく彼殿を信じています。どのような態度、言葉を発しようとも彼殿だけです。その彼殿を寂しくさせたことは、今、すぐに立ち直れないくらいのみじめさと悲しみで、私に返って来ています。

彼殿は充分に私を泣かせてくれました。でも泣きながら彼殿が愛してくださる真心を、信じて行きたいと思います。            泣き虫しのぶ

 

◇12月9日(水)一日中曇り

昨日の落ち込みから1日しかたっていないのに、今は晴れ晴れ気分なのです。何故なら私が落ち込もうとも、周囲はさまざまな挑戦の機会を与えることを止めず、常に前進しています。悲しいという感情の中には、新しいことに挑戦している限り、浸れないということが判りました。本日は担当するクラスの目標であるマラソン大会制限時間内全員走破を達成しました。そしてその最後の走者は明子さん。半年かかって制限時間内で走れるようになったのです。ましてや今日初めて時間内で走れたわけです。彼女はクラス全員の足を引っ張りたくなくて、時間内走破を目指してきました。けれども先週まで、時間内走破は無理と言われていました。彼女は中学時代に大病を患い、今も時々病院で検査を受けていますが、なんとしても普通の健康な人と同じに走りたい、と努力を続けて来ていました。私も一生懸命激励してきました。

そしてついに走破した時の明子さんの喜びは相当なもので、泣きながら周囲の人にお礼を言っていました。クラスの仲間達ももらい泣きしていました。彼女はあの先輩にもこの先輩にも報告をするのだと言っていました。将来はお父さんと一緒に小料理屋さんを営むのが夢であるが、病気を完全に治して、必ず実行したいと考えているのだ。私は心から体が良くなることと、お店が大成功するように祈ってあげたい。

 

師走だから世の中全体が何故か忙しい。生徒の中にも、年内中にこれだけはやってしまおうと、個人の目標を総括し始めた人が大勢います。急に慌ててやりだしている人が多いものだから、小さなアクシデントが一人ひとりの身上に現れ、苦労しているようです。

けれども女性の根底にある力というものは、ぎりぎりの状況に置かれると、一歩も譲らず真っ向から立ち向かっていく、という強さがあるのですね。本年中にはやらねばならない。それにはこの12月しかない。来年ではだめなのだという極限の場なのです。ほとんどの生徒が自分の弱さと戦っています。他の月にもこんな風になれば、心の弱さに振り回されることがないのにと苦笑いしつつも、一人ひとりを見て頼もしく思っているのです。

年頭に掲げた目標をメモに書き、クラスで保管し、12月の時にみんなに渡し、確認をするのだけれど、どのくらい達成し、叶ったのか、近ごろの生徒たちを見て、絶対良い結果が多いと確信しているから、とても楽しみなのです。     しのぶ



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