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 記憶は儚い。季節ごと咲いては散る花よりも、脆い。過ぎ行く月日の中で、私の頭の中で、都合よく変換され或いは消去されて、最早おぼろげにしか分からない。あの頃の私はさらにおぼつかない生き物に成り果てていて、この目で見、触れたはずのものでさえなにか薄絹の霞みの向こうで起こったことのような気がするのだ。

 けれども。

 私は自分の左手をそっと見やる。白い細い手首に、ぐるりと回された美しい五色の紐を思い出す。朧な存在であった私を繋ぎとめたあの静かな執着を、まだ私の肌は覚えている。


闇の匂い

気がつけば、其処は闇であった。高熱を出した後のように身体は重く、記憶が霞んでいる。此処は何処だ。身じろぎに揺れた空気がどこからか、香の匂いを運んできた。線香の匂い、それともこれは塗香の匂いか。知った匂いに少し気持ちが治まる。大丈夫、怖くない、ただ暗いだけだ。
思い切って身を起こせば、指先に触れる床は冷たく、滑らかな板張りのようであった。埃ひとつ感じられず、丹念に拭き清められたような感触である。大丈夫、此処は怖くない。もう一度自分に言い聞かせるように頷いてから、そっと顔を上げた。何も見えない。目を閉じてみる。緩やかに動く暗闇の気配。遠くで、何か揺らぐような気配がする。思わず目を擦ろうと挙げた左手が、くい、と引っ張られた。何かに繋がれているようだ。右手で触れれば、手首に何か紐が巻かれているのが分かった。紐の先は闇の向こうに伸びている。どうしよう、この紐を辿ってみようか。紐に縋るように、そっと膝立ちになる。それから、思い切って立ち上がってみる。屋内であろうが、まだ天井は感じられない。紐を手繰り、一歩にじり寄るように進む。ひいやりとした板の感触。もう一歩。もう少し。途端、背後の闇が揺れたような気がした。慌てて後ろを振り向く。ほのかな明かりの気配がした。間違いない、小さな灯火が見えるような気がする。目を閉じて、もう一度しっかりと目を見開く。やはり見える、白い輝きが。なんだか立っていられないような気持ちになり、ぱたりと膝を着いた。膝の骨が床を打つ音が、静かな闇に響く。すると、白い灯は此方に気づいたかのように近づきはじめた。次第に輪郭を増す輝き。静かな、躊躇わぬ足音。揺らぐ空気。そして強くなる、香の匂い。
灯明をコトリと床に置いて、男は膝を着いた。此方を見下ろす、ひそめた眉の間に影ができている。僧形の男。なにか言い訳をしなければいけないような気持ちになったが、何と言ったらいいのか分からず、困って男の顔を見た。
男は目を伏せて手を伸ばし、乱れた私の着物の裾を直してくれる。それから、私の足のつま先をそっと握った。大きな、温かい男の手。
「冷えてしまいましたね」
男の手が腰に伸びる。簡単に引き寄せられ、拒む間もなく男の腕の中に納まった。抱き締められるのは、初めてのような気がする。それとも、私が忘れているだけか。肌に馴染む温もり、くすぐったいような香の匂い、首筋にかかる吐息も、どこか知っている記憶のような気がする。よくわからない。
「何処へも行かないで下さい」
「此処に居て下さい」
「どうか」
低く呟きながら、男は私を抱きしめる。懇願する声はまるで読経のようだ。心地よい温もりの中で、けれど頷いてはいけないことだけは分かっていた。それだけはいけない。うっとりするような闇の中、私はゆるく首を振りながら、男の腕の中で眠っていた。

 


戒壇

男は訪れては私を腕の中に閉じ込め、何処へも行くなと幾度も囁いて帰っていった。行ってしまうのは男のほうだのに、と私は思う。繋がれている私は何処へも行けない。私の左手首に結わえられた紐は丁寧に縒り合わされた絹糸で、灯明の下で見れば五色の美しいものであった。紐の先は長く長く伸びて、部屋の奥の格子の向こうまで繋がっていた。あの先は、御本尊の観音菩薩の御手に繋がっているという。
「これはね」
私の手首をなぞりながら、男が教えてくれた。
「女の髪を芯に入れて縒り合わせた、とても丈夫なものなのです。虎をも繋ぐことができると言われています。観音さまとの結縁の証ですよ。」
七年に一度作り直すというそんな清らかな紐を、私に巻くというのはどうなのだろう。風情ある手枷に困惑して、とても歯を立てる気にもなれない。
「私は、虎ではありません」
憮然として言い返せば、男は笑った。なんだか腹がむかむかして、男の掌に預けていた左手を、払うように取り返してやる。私を拘束する五色の紐は、観音と繋がっているのだ。この男にではなく。
「逃げないでくださいね」
「無理です」
どうやって逃げろというのか。けれど男は逆の意味で受け取ったらしく、そっと眉をひそめた。
「此処に居てください」
強制はせずに懇願するのが、私には腹ただしい。

尋ねれば、男はなんでも応えてくれた。此処は本堂の地下、戒壇巡りの廻廊の一角だという。そう言われれば時折、風に乗って観光客の遠い声が聞こえてきたような気もする。戒壇巡りの終点、というか最奥の折り返し地点には木の扉があって、そこにも同じ五色の紐が結わえてあるのだそうだ。御本尊の手に繋がる紐に触れ、参拝者は結縁を感謝して現世に戻ってゆく。
「観音様の胎内に戻って、もう一度生まれ変わるという再生の儀礼なのです」
「…私は生まれ変わらないのですか」
尋ねれば、男は笑って応えた。
「今の貴女が良いですから」

 


白い衣

頬が熱い。
闇の中で抱き締めながらも、男は一度も、私を好いているだとか、愛しているだとか、いとおしい等とは言わなかった。囁く声は甘く、低く、睦言のように私の身を溶かしてゆくが、ただ、行かないで下さいと繰り返すだけだ。
いっそ抱いてくれ、と思う。せめて口付けだけでも良い、私を欲しているといってほしい。あの唇で触れて欲しい。
ほう、とおもわずこぼれた吐息が熱い。時折、確かにあのひとによぎる情欲を、満たすことならば出来るのに。あのひとの執着に、どうやって応えたらよいのか解らない。私はさほど賢くもないし、ひとの心に聡いほうでもない。私に出来ることなぞあまりないのだ。情けない。
飼い殺し、というよりも最早これは介護である。明かりを与えられず、見えぬ不自由さの中で戸惑ううちに、食事から排泄まで至極丁寧に世話されていた。恥らうような余裕もないまま、私はあわあわされるがままになっているだけだった。さすがに行水は出来ないが、頭の天辺から足の先まで、濡らした手拭いで綺麗に拭き清められてしまうので不快感はない。椿油で綺麗にくしけずられてしなやかに流れる私の髪を満足そうに撫でてから、男は櫛を置く。
「美しいですよ」
体中に触れられてしまったのに、そこに欲望は欠片もなかった。いたわるような優しさはまるで宝物を扱うようで、私はいっそ哀しくなる。私はにんげんの女だのに。
間近の、男の顔を見上げる。穏やかな微笑みは出会った時より変わらない。畜生、と思って俯く視界に、きちんと着物に包まれた男の胸板が広がる。香の匂いが染み付いた、僧侶の衣。力任せに、男の袷を引っ張った。私の力ではさほど乱すことも出来なくて、余計に悔しくなった。それでも、少しだけ現れた男の肌に、ぶつけるように唇を寄せる。男はそっと私の頭を撫でると、もう片方の手でぐいと袷をつかみ、大きくくつろげてくれた。嬉しくなって、男の胸に抱きつく。脇腹の固い筋肉を撫でながら腕を回し、真っ直ぐな背骨を少しでも近くに引き寄せる。触れる肌の、汗の匂いが嬉しくて頬を摺り寄せた。男の腕の力が強くなる。もっと、と男に縋る。身動きが出来ぬほどに抱きしめられて、苦しくなった。もっと強く抱いてと告げたかったが、口から出たのは苦しげな呻きだけであった。色気のないことだ、と我ながら思う。けれど声に出さぬ願いに応えるように、ぎりぎりと男は私を締め付けた。このまま、と思う。このまま抱き潰して、と思いながら、私の意識は赤くぼやけていった。

 


オフィーリア

あれ、と思ったときは水の中であった。なんのことはない、足を踏み外したのだ。左手には白藤の枝を握り締めたまま、私は水に流されていた。
宿坊に飾る花を、と言いつけられて山に登った。薬草や茸の類いは解らぬが花ならばと、意気揚々登ったのは川沿いの小道。今を盛りと零れ落ちるような甘い香りに誘われて、真っ白い藤の枝に手を伸ばしたのだが…
「藤はなかなか脆いのだな」
思わず声に出せば、口に水が入って思わず飲み込んでしまう。甘く、清らかな水。そうだ、川に落ちたのだった。あまりに驚いて身動きもできなかったのがかえって良かったのだろう、仰向けに浮かびつ沈みつ、そのまま流されている。山の清水は確かに冷たいが、肌にぶつかり弾けてゆくのが心地よかった。五月の日差しは既に暑く、水も柔らかい。弾けるあぶく越しに見える空が、青くて綺麗だ。触れたくなって、腕を伸ばした。
途端、力任せに引っ張られる。驚いて開いた口に、また水が入った。今度は飲み込めずにむせてしまう。咳き込む苦しさに抗って身を捩れば、さらに強く引っ張られた。水ではないかたい感触にぶつかり、そのまま首筋を捕らえられ、上を向かされる。苦しい。じゃり、と足裏が川底の小石を蹴ったのが解った。ゴホゴホと咳き込むままに引き上げられ、のけぞった首筋をさらに強く捕まれた。吐き出した生ぬるい水が、口の端から零れていくのを乱暴にぬぐわれる。
「貴女というひとは」
触れられる手は熱い。水にぼやける目で見上げれば、私を救ったであろう男はひどく怒っていた。
「本当に、貴女というひとは」
男の震える唇に、水の雫がきらめいて綺麗だ。いつも穏やかに結ばれて、静かな言葉を紡ぐばかりの唇が、今は不安に震えている。私を失う不安に震えてくれる。
触れたくなって腕を伸ばすと、力任せに抱きすくめられた。


 



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