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皇妃ゼルシア

美しき愛玩人形ジョリ・マリオネット? いいわね、それはまた、ゼルダ皇子の好きそうなこと――。大都マーザ・フォーメルを三日で陥落させた殺人人形マーダードールとあらば、頼もしい限り」
 ぜひ、皇太子とゼルダ皇子にクレールの侵攻を食い止めて頂きましょうと、妖艶な美貌の皇妃が、冷酷に微笑んだ。
「大国カムラの皇子にふさわしい武勲となります」
 しかし、報じた者は顔色を失くして皇妃を見た。
「――皇妃様、恐れながら、皇太子はまだ十八歳、ゼルダ皇子にいたっては、いまだ十四歳の若年です。この侵攻は手に余ります、親征軍ですら、苦戦は免れ――」
 ビシっと、手にした細いムチでその者を打ち、皇妃が告げた。
「サイアス、親征軍が苦戦するとは、斬首されても文句の言えない暴言です。クレールごとき魔術王国に、陛下のカムラが危うくされると? 皇太子などでは、返り討ちが関の山とでも? そのようなこと、もし本気ならば陛下に申し上げ、その首落として差し上げましょうか。陛下の皇太子に、平定できぬものですか」
 皇妃の瞳の確信が、何であるのか。
 サイアスはもう、考えまいとした。恐ろしい、皇妃。触らぬが身のためなのだ。これまで、何人がその一声に殺されたか、ようとして知れない。
 部屋を出た皇妃を、薄笑みで迎える皇子が一人――
 それと認めると、鮮やかな赤を呈した皇妃の瞳に、瞬く間に憎悪と嫌悪が満ちた。
「そこで何をおしよ! ゼルダ!」
「父上から伝言を預かって参りました。ですが、お取り込み中のご様子でしたので」
 遠慮していました、と、美貌の皇子が告げる。微笑んで見せていたが、目はまるで、笑っていなかった。
「立ち聞きなど、皇子のすることではありません! 恥を知りなさい!」
 皇子はくすくすと笑った。
「何がおかしいのです!?」
「美しいお顔が台無しですよ、――それだけがあなたの取り柄なのに」
 そんな風にヒステリックに叫ばずとも、お望みなら行きますよ、と。
 マーザ・フォーメルだろうと火の中だろうと、そんな場所に兄一人、行かせはしない。決して。
 ゼルシア・ランガーディア皇妃。
 彼女はこの世で唯一、フェミニストと名高いゼルダが敬意を表さない女性だ。
 ゼルシアは皇妃だったゼルダの母妃を、ゼルシアを親友だと信じていた女性を、過去、暗殺した。その長男、皇太子だったゼルダの兄も、ゼルシアを糾弾しようとしたため暗殺した。
 ゼルダの名は、裏切りの証。
 ゼルシアを可愛がっていたアーシャ皇妃が、彼女から取ってつけたもの――
 一体、ゼルシアの耳にはこの名がどう響くのだろうと、ゼルダは時々、その呪わしさを思う。
 ゼルダ・ライゼルファン・リフェイア・アド・カムラ。
 血塗られた歴史を持つ国、大帝国カムラ。皇帝には皇子が六人、皇女が四人。
 その美貌の第五皇子の名を、ゼルダといった――

 

     *

 
「兄上!」
「くどい、ゼルダ。たとえお前の言う通り、これが皇妃の罠だったとしても、父上が私に命じられたのだ。わからないか」
 皇妃の進言により、皇帝にクレール制圧を命じられた、その夜。ゼルダは一人、皇太子の居室を訪れていた。
 魔道を極めた隣国クレールが、カムラに侵攻し始めたのは数日前だ。たった三日で大都を制圧し、カムラに大きな打撃を与えていた。
「この程度の戦役、収めて凱旋できぬ皇太子に用はないとおっしゃられているのだ。皇妃が良からぬことを画策していたとしてもな。ゼルダ、皇妃が恐ろしくば、お前だけここに残るがいい。足手まといはいらぬ。私は誰にも皇太子は譲らぬ、渡さぬ。この私が、カムラの皇統を継ぐのだ」
「兄上――」
 ゼルシアの皇子は第四皇子だ。その皇子を皇太子に据えるには、まだ、現皇太子と第三皇子が邪魔だった。皇妃が嫌っていながらゼルダに手を出さないのも、この後、上二人を殺さなければならないところ、余計な者まで殺していらぬ嫌疑をかけられたくないためだ。
 今回の戦役は、直接手を下すこともなく邪魔者を葬れる、皇妃には格好の機会だったことだろう。
 ――だが。
「残るものですか、私は決して、ゼルシアの思惑など通さない。あなたがどうしても行くとおっしゃるなら、この命に代えてもあなたは守ります。決して、死なせない!」
「ゼルダ……」
 大きく、難しい戦役だ。無事に凱旋すれば、得る名声は、けしかけた皇妃を逆に追い詰める武器にもなり得る。ゼルシアとて、大勢いる妃の一人――決して、絶対の権力者ではないのだから。

 

     *

 
 翌朝。
 皇太子とゼルダ皇子の軍が出立すると、見送りながら、ゼルシアは居室で一人笑った。
 マーザ・フォーメルからの使者を殺し、握りつぶした情報がある。
 交戦したマーザ・フォーメルのカムラ軍、一人残らず戦死したのだと。文字通り全滅したのだと、使者は報じた。
 カムラには、いるかいないかのレベルの魔術師が、数十、あるいは数百いたのだと。しかも、カムラお家芸の死霊術、精神を操るものが、ほとんど効かないのだと、使者は報じた。
 もし、それが事実なら。
 奪われた大都は取り戻せまい。
 あらかじめ結界を張り、備え、この先の侵攻だけでも食い止める以外に手はあるまいが、その皇子を皇太子に据えるためなら、大都の一つくらい、くれてやろうよとゼルシアは考えていた。
 これで皇太子が死に、ゼルダ皇子も死ぬ。うまくすれば、逆上した皇帝自ら、親征軍を率いて臨むかもしれない。戦場で、皇帝まで戦死してくれれば――残る第三皇子のみ暗殺すれば、晴れて、彼女の子が皇帝だ。その暗殺すら、クレールの仕業に見立てられる。
 
 ゼルシアの「大都一つで済むだろう」という見込みが極めて甘いこと。
 クレールの脅威が、カムラの存続すら危うくするものだということ。
 
 まだ、カムラの誰一人として、知らない――

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最終更新日 : 2010-11-08 19:19:37

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第一節 マーザ・フォーメル

 五月の風が、新緑を揺らして過ぎる。
 奪われた大都マーザ・フォーメルに隣接する森の中を、カムラの皇太子軍は進んでいた。早ければ明日にも戦闘かと、軽い緊張感が漂っている。間もなく拠点にする砦だ。
「殿下、先行した斥候が戻ったようです」
「そうか。砦は無事か?」
「はっ」
 皇太子とその側近の会話を横に、鳥の声を聞いた気がして、ゼルダは晴れ渡った空を振り仰いだ。
 どう、兄皇子との距離を詰めようか。
 ここまでの十日の行程で、兄皇子に警戒されていることを知った。
 初陣だ、戦場は知らない。けれど、信頼関係のひずみは、命取りにもなろうと思える。このまま砦に入り、なし崩しに開戦を迎えるのは、いかにも危うい気がした。
「兄上」
 手は。
 皇太子も死霊術師だ。
 あえて術を受け、兄皇子に命を預けようかと、ゼルダが馬を寄せかけた時だった。
 先に、閃光が走ったかもしれない。
 昼日中、突然のこと、定かには知覚できなかった。
 
 ドン!!
 
 大地を揺るがすような、轟音がした。
 いくつもの鳥の声、羽ばたき。
 数秒後には、辺り一面が炎上していた。
「敵襲! 敵襲!」
「兄上!」
「うろたえるな! 敵はどこか! 敵を探せ!」
 
 ドン!!  ドン!!
 
 馬が狂ったようにいなないた。
 大火が森に落ち、周辺が見る間に熱と炎に包まれた。
 ――鳥?――
 何かの影が上空を過ぎった。
 フードを目深にかぶり、紫苑のローブを身にまとった人影が、二つ。
「魔術師か!」
 ゼルダは即座に弓を構えると、続けざまに射た。
 その矢を受け、影の一つが炎に落ちた。
「殿下、危ない!」
 炎上した大木が、バキバキと音を立て、地響きをさせて倒れた。
 視界がガクンと揺れた。
 かろうじて避けたが、馬が恐慌状態に陥り、ゼルダの言うことを聞かなくなっていた。
「止まれ、落ち着け、ナルディア! ナルディア!!」
 
     *
 
「――貴様、もう一度言ってみろ!」
 皇太子ザルマークが、声を荒げた。
「はっ、か、確認された敵兵はニ名……ゼルダ皇子が落としたものと、兵の一人が落としたものと、いずれも炎に巻かれ、確認はならず……」
「馬鹿な!」
 その日、皇太子軍は七百の兵を失っていた。総勢は二万、大勢に影響のある数字ではないが、失い方が、皇太子を激昂させていた。敵が、ただ二人しか確認されなかったのだ。
「方術師どもは何をしていた!」
「は、突然のことに、逃げるだけで精一杯だったと……」
 何がと、皇太子の顔が怒りと憎悪に歪む。
「方術師ども、我が軍を守る気があるのか……!」
 大帝国カムラは、死霊術師が治める国だ。元来、その天敵たる神の使い、方術師たちと仲良くやれるはずもなく、戦時には守りの要となるべき方術師が、この国では極めて信用ならない存在だった。
「……待て……」
 ふいに、皇太子が黙り込んだ。やがて、口の端に薄く笑みを刻むと、側近に告げた。
「アンナを――、聖アンナを、前線に配すのだ。否とは言わせぬ。至急、国に連絡を」
 側近が驚いて、皇太子を見た。聖アンナというのは、神がカムラを見放す際に与えたという、カムラに降ろされた天使の名だ。アンナが直接、その力を使うことはない。しかし、その存在こそが、カムラ方術師たちの力の源だと言われていた。
「アンナは俗世のことに、一切、その力を貸しません。配す意味は……」
「愚かなことを。アンナが前線にあれば、方術師ども、全力で軍を守ろうよ。やつらに言っておけ。私の首が落ちる時には、アンナのそれも落ちるのだとな。――落とせ」
 息を呑む側近を残し、皇太子は大股に部屋を出て行った。
「行け。兄上のお考え、確かに、一理ある」
 ずっと控えていたゼルダが、フっと笑って告げた。
「なに、兄上の首は私が死守するからな。それより、気になることがあるんだ――」
 本当に、奇襲だったのかと。
 嫌な予感がするのだ。
 奇襲なら、もっと計画的になされるべきではないか。敵が二桁いれば、あの時、彼の命は難なく摘まれたはずだ。
 斥候を放ち、マーザ・フォーメルの様子を詳しく探るよう、基本であったがゼルダは念を押した。
 
     *
 
 魔術王国と、クレールは呼ばれる。
「何――?」
 まずは市民の暴動を誘い、敵が浮き足立ったところで太守館に死霊を送り、内からも外からも混乱させて、それに乗じて叩き潰す。
 皇太子はその構想で準備を進めていたが、その日、斥候がもたらした報は、戦役の前提から、覆すものだった。
「五日後の満月、周辺六都市をまとめて殲滅せんと、画策しているようです。クレールの魔術には、月の満ち欠けが影響するようで」
 侵攻を食い止めると同時に、マーザ・フォーメル奪還を果たすことが、使命のはずだった。斥候の情報が確かであれば、クレールの軍勢は三千。二万の皇太子軍が到着したことそのものが、侵攻の阻止となるはずだった。
 国境の大都とはいえ、マーザ・フォーメルに常駐していたカムラ軍は約四千。クレールが周到に準備した、魔術師を駆使した奇襲を受ければ、陥落したとしても不思議はない。
 しかし。
「クレールめ、魔術におごったか」
 二万の皇太子軍を目と鼻の先に、もし出戦が本気ならば、クレールは慢心している。
 領土の拡大は、国境の延長をも意味する。小国が無理に大国を侵攻すれば、延びた国境を守るために分散し、かつ侵攻のために疲弊した兵力で、敵の本隊を迎え撃たねばならなくなるのだ。
「いいだろう、五日後、侵攻して来るなら迎え撃て」
「殿下!?」
 斥候が目を剥いて、わざわざ、敵の力が最大となる満月に事を構えるのかと、皇太子の正気を疑うように声を上げた。皇太子は不敵な笑みで応じた。
「クレールと事を構えるに当たって、最も愚かなのはどうすることか」
「……強力な魔術の発動条件を、整わせることではないでしょうか。だからこそ、」
 言い募ろうとする側近を制し、皇太子は続けた。
「そうだ。最も危険なのは、無策に敵地に攻め込むことだ。大都を占拠して二十日、都のいたるところに魔法陣など敷いていよう。その地で二桁の魔術師に取り囲まれた時には、大軍すら危ういな。さて、我らにそうさせるために、奴らは何をする?」
「あ……」
 満月の話は、カムラ軍を誘き出すためのでっち上げだと、皇太子は一笑に付した。
「我が軍とて魔術師くらい抱えているが、そんな話はついぞ聞かぬ。なまじ真実だとして、クレールが本気であるなら結構だ。わざわざ軍を分散し、危険な出戦を仕掛けて来るなら、その時こそ叩き潰す好機だ」
 クレールが動くならば五日後に、動かないならば予定通りに進めるぞと、皇太子は結論を下した。

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第二節 満月【Full Moon】

 満月のマーザ・フォーメルに、死霊の影が飛び交う。
 クレールは動いた。
 
 ドン!!
 
 夜闇に鮮やかなまでに、炎が燃え広がった。
 カムラ皇太子軍、本隊の狙いはマーザ・フォーメル太守館。無敵の死霊部隊を率い、手薄になった大都を一気に攻め落とす。そのつもりの突入だった。夜は闇の帳が降りて、死霊の力が強くなる。突入に際して誰一人、皇太子軍の勝利を疑わなかった。
 ――いや、軍の副官であるゼルダがただ一人、何か不吉なものを感じていた。
 
「ぎゃあああ!」
 炎に巻かれた兵の断末魔。巨大なコウモリの羽、山羊の頭の、悪魔のような異形の影。
合成獣キメラか! 魔術師団、撃て!」
 方術師にかけさせた守護輪サークルが解ける前にと、一路、太守館を目指す皇太子軍の前に、『それ』が姿を見せたのは唐突だった。
 闇の中空に、数体の魔術師を引き連れて、うっすらと青白く光る人影が静止していた。
『ザルマーク皇太子かな?』
「――いかにも。何やつか、用があるなら急ぐことだ」
 不敵に笑う皇太子の影から、ゼルダが放った死霊術『死者の槍』が光る人影を直撃した。
「ち、幻影イリュージョンか……!」
 たかが幻影に、魔術師を5体も6体もつける非常識に、皇太子は舌打ちした。
『お初お目にかかる、私がクレールの魔術王マクリム、アルザーディス・マリンカリンだ。隠れんぼをしないかね?』
 年齢は四十代と見える、魔術師の割には体格が良く、長く伸ばした髪を、足元で束ねた男。
『皇太子殿は、太守館にご執心のようだがね……私の首を落とさぬ限り、その守護輪サークルが解けた時点で、貴君の命も潰えよう。――細工をしたのは外壁だ』
 アルザーディスがパチンと指を鳴らすと、闇を揺るがすような地響きをさせ、外壁がせり上がった。門さえも呑み込んで。
『クックック……。厚みも高さも増したぞ? どう破るね? ゾンビの体当たりなど効くはずもなく、死霊では、触れることすら叶うまい。袋の鼠だ。死の都と化すマーザから、貴君がどう逃げおおせるか、楽しみに見物させてもらうとしよう……』
 鋭く飛んだ矢が、魔術師の一人を射落とした。ゼルダだ。
「兄上、撤退を! 罠です!」
「何を愚かな――!」
 ゼルダを睨みつける皇太子の横から、ふいに、聖光をまとう者が、進み出た。背には純白の翼を従えた、人外の存在もの
 声が魔力を帯びているのか、アルザーディス同様、戦火をものともせず、よく届いた。
「アルザーディス、生命を解放しなさい。禁断の黒魔術は生命の冒涜、嘆きの声をまとい、非業の死で地を埋め尽くし、何を得ようというのです――このままでは、あなたの行く手には、死と悲しみしか待ち受けない。生命を還すのです」
 消えかけていたアルザーディスが、わずか、目を見張った。
『ほう、おまえがカムラの天使か。――なるほど、クレールには今、ただ一人の方術師も存在しないな。神はなぜ、背きし死霊術師ネクロマンサーたちには天使を与え、我らには何も与えぬのか――そこな皇子どもの所業こそ、神への冒涜ではないのか?』
 揶揄するような魔術王マクリムに、アンナは静かに答えた。
「アルザーディス、魔術に奢り、クレールは自ら神の加護を捨てました。カムラには、なお、神の加護を必要とする者たちがいます。クレールに神の慈悲が下されないのは、あなた方自身が望まず、感謝の心さえ、なくしているからです」
 アルザーディスは初め薄く笑い、次には、声さえ立てて笑った。
『天使よ、さすがだ。よくよくわかっているではないか。そう、我がクレールには“神の加護”なるものなど不要。魔術が人を霊長とし、支配者たらしめ、その栄光と繁栄を約束するのだ。“神の加護”などに気休め以外の意味があるなら、そこな皇子ども、大都から無事生還させてみせるがよい。神の加護を受けた黒山羊どもを、その教えの冒涜者が虐殺するなら、冒涜者は神にも匹敵しような……』
 ゆらりと、アルザーディスの影が揺れた。
 そのまま、その姿は虚空に溶けた。
 後には炎と合成獣キメラ、数体の魔術師だけが残された。
「アンナ、どういうことだ」
 会話に納得行かない皇太子の問いに、アンナはしばし、沈黙していた。
 やがて、スっとゼルダを指さした。
「真実はいずれ、ゼルダ皇子が暴くでしょう――ザルマーク皇太子、数時間後には、散っているクレールの魔術師メイジ二百四十名余りの生き残りが、この都に集結してきます。アルザーディスは都にいません。彼は配下をどれだけ捨て駒にしても、あなたの二万の軍を壊滅させてみたいと考えています。――魔法陣は外壁を端点に、五十四芒、満月が昇り詰める時、五十四の魔術師たちが残っていれば、マーザは文字通り、死の都と化すでしょう」
 皇太子が目を見張る。魔術師は二桁でもやっかいなのだ。アンナが告げた数は、推測を桁で上回っていた。
「馬鹿な――」
「兄上、マーザの生き残りの兵士が、一人も確認されていません。一度退き、策を練り直して再戦に臨みましょう」
 ゼルダは内心、アンナの予言に『それがわかるのは反則だろう』と思った。斥候に命懸けで探らせても、魔術師の数どころか、具体的なクレールの戦略すら、つかむことはできなかったのだ。
 皇太子がアンナを軍に配したのは、別の意図だったとはいえ、彼らと都の命運を分ける幸運だった。
「……くそ! ――全軍に告ぐ、南門を目指し、撤退する! 途中、遭遇した敵は、特に魔術師は討てるだけ討て! カムラ魔術師団は総力をかけ、外壁の破壊に当たるよう!」
 
 ――カムラ帝国の歴史に残る大戦の、幕開けだった。
 

     *

 
 間もなく、満月が天頂にかかる。
 破壊された大都の南門が、今まさに、血みどろの激戦区となっていた。
「皇太子! 守護輪サークルの効果が切れています、これ以上は危険です、撤退を!」
「私がマーザを見捨てるわけには行かぬ!」
 軍は既に都を出ていたが、都には、十万を越える逃げ場のない住人たちがいるのだ。その虐殺を阻止するために、五十四芒の魔法陣、一角なりと破壊しなければならなかった。その一角がこの場所だ。別働隊も動いていたが、他の場所を落とせたという報告はなかった。
「皇太子殿下、申し上げます! セリントが陥落し、そちらから魔術師数十名がこちらに向かったとのこと! このままでは退路を断たれます!」
 月は天頂。
「兄上、ここは私がしのぎます! あなたは死んではならない、行って下さい!」
 ゼルダが絶叫した。
 この場所に、もはや生存者はほとんど動いていない。
 他にも術者はいるが、皇太子と皇子の操る死霊が、主戦力となっていた。皇太子が場を退けない理由の一つだ。
 月は天頂。
 ここまで来れば、確かに、ゼルダ一人でもこの場は凌げるかもしれない。
 けれど、退路を断たれ、生還はまず望めなくなる。
「兄上、お急ぎ下さい!!」
 皇太子は振り向いたゼルダを襲おうとした合成獣キメラを、とっさの死霊術で塵にした。
 満月の下、まだ幼い皇子の横顔が、月光に映える。
 戦塵にまみれてなお、美しかった。誰よりも。
 髪留めを片方、どこでなくしたものか、風に散る長い髪が印象的だった。
 骸骨兵スケルトンに守らせながら、ゼルダが次に試した死霊術は同士討ちを誘うもので、クレールの兵には効かないとの情報に、ここにいたるまで、皇太子は一度も試さなかった術だった。それでもゼルダが今試すのは、退路を断たれてなお、生き延びるすべを探してのことに違いなかった。
狂冥宴アルマグダム!」
 ゼルダが突き出した右手から、暗黒の波動が放たれた。満月の下、極めて高い強制力を宿した、死霊術。
 敵には――
 
 ドン!!
 
 魔術による土砂が、皇子を守っていた死霊たちを呑み込んだ。
 ゼルダはからくも逃れたが、結果、皇太子の脇ががら空きになった。
 皇太子の放った死霊術が、魔術師を一人葬った。
 その間に襲いかかってきた合成獣キメラを、近衛が倒しに駆けつけるが、間に合わない。
「兄上!」
 空から降ってきたものから、皇太子を庇ったゼルダの肩当てを、合成獣キメラの爪が弾き飛ばした。次には、無防備になったその首筋に、獣の牙が深く突き立った。
「ゼルダ!!」
 手にした剣で、ゼルダがあがくように敵をなぎ払うが、そのまま体勢を崩し、彼は落馬した。
「皇太子、危険です!」
「――ゼルダ!!」
 その時だった。
 青みがかった閃光が闇を走り、マーザに巨大な魔法陣を描き出した。
 奇跡のように美しい、滅亡のさきがけ。
 地が鳴動した。
 
 キュドっ!
 
 魔法陣の一芒となり、術にくみしていた魔術師を、別の閃光が撃ち落とした。
 完成した魔法陣。
 葬られた魔術師が一人。
「間に合ったのか……?」
 ――あるいは、手遅れなのか……。
 皇太子軍が固唾を呑んで見守る中、循環しながら力を増そうとしていた光が、軌道を失い、天空へと呑まれていった。闇に束の間の残像だけを残して、走った時と同じ速度で、環が途切れたまさにこの場所から、光が失われていく。
 地の鳴動も、いつしか収まっていた。後には、戦火と死霊と合成獣――それら全ての現実が、戻っていた。
「――よし! 月は天頂を過ぎた、退くぞ! 誰かゼルダを助けよ! 撤収!!」
 大掛かりな虐殺の阻止。
 それを成し得た喜びはあったが、ここに至るまで踏みとどまり、引き際を間違えたかもしれない事に、皇太子はきつく唇を噛んだ。
 配下に後は任せるかどうかの判断の遅れが、ゼルダに身を捨てさせる結末を招いたのだ。
 この上、自らゼルダを拾い、共倒れになる愚を犯せない。ゼルダのしたことが無駄になる。
「撤収!!」
 

     *

 
 ――見捨てた。
 嘘だろうと、その光景を目の当たりにした方術師の青年は、目を疑った。
 最後、皇太子を庇って倒れたのは、女性と見紛うようなまだ若い、十四、五の少年だった。
 月が天頂を過ぎた。
 だから、もういいと、目の前で倒れたその少年を一顧だにせず、見捨てて逃げることを皇太子は選択したのだ。血も涙もなく。
 これが、皇太子としての選択だというのか。
 あるいは、死霊術師としての――?
 青年はきりっと唇を噛むと、とにかく、身を隠す場所を探して走った。
 馬には乗れなかったし、だからなのか、与えられてもいなかった。カムラ皇室は、決して方術師を顧みない。馬を持った騎士と、守られた魔術師だけが逃げるすべを与えられていた。
 方術師である彼は、自力で、その足で逃げて生き延びるしかなかった。


3
最終更新日 : 2011-03-05 19:28:32

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第三節 死霊術師と方術師

 敵の気配が消えた頃、ひどく気になったその少年を助けに行って、抱き起こして、青年はどきりとした。少年がうら若い女性のような、美麗な顔立ちをしていたから。
 

     *

 
 夜明け前。
 ゼルダは寒さだけを感じていた。
 動こうとしても、体に力が入らず、鈍い苦痛を覚えた。体が冷たい。首筋と背が、時折、痺れるように冷たく痛んだ。
 ここまでか。
 母の無念も、兄の無念も、晴らせないまま――
 けれど、やっと、終わるんだと思った。
 優しく包んでくれた母のいない、誇りにしていた兄のいない、置き去りにされた、明けることのない夜が。
 ――やっと――
 ふいに、仰向かされた。
「……うっ……」
 苦痛に呻き、それでもゼルダは目を開けた。敵なら、一人でも減らしておくのだ。一人でも減らして、皇太子を無事に凱旋させたい。
 死霊術の一つや二つなら、まだ、撃てるから――
「しっかりしろ! 今、助ける!」
 ……?
 薄汚れた聖衣が、定まらない視界に入った。
「……おま……えは……?」
「アルベール。それより、癒すから話したらだめだ。終わるまで待つんだ。待てるな?」
「……」
 ――アルベール?――
 知らない名だ。
 方術師がどうして助けるのかなと、あまり、働かない頭で考えた。皇室を目の仇にする彼らのこと、むしろ、皇子になど死んでもらいたいだろうに。
 それでも、アルベールと名乗った青年の言葉に、嘘はないようだった。痛みが引いていく。
 何とか上体を起こし、ゼルダは直後、身のつらさに青年の腕にすがった。
 

     *

 
 アルベールはまた、どきりとした。他者にここまで無防備にすがられたことなど、生まれて初めてだったから。まして、相手は魔物かと思うほどの、類稀たぐいまれな美貌の少年だ。
 動揺を隠して呪文を唱えながら、アルベールはふと、自分が少年に対して、魔物のようとは感じても、天使のようとは感じないんだなと、気付いた。少年の冴えて美しい、強い瞳には相手をとりこにする魔があって、彼自身、すでに魅入られた気がしたからなのかもしれない。
 

     *

 
 腕を強くつかまれて、アルベールは少し、途惑ったようだった。それでもそのまま、治癒の呪文を唱え続ける。穏やかな声が、耳に心地好かった。
 この青年は彼を害さない。そのことにひどくほっとして、何だか、兄の腕にいるような錯覚に、ゼルダは微笑んだ。
「……と、大丈夫か? もう、立てるか?」
 もう少しとゼルダが甘えると、アルベールはいよいよ途惑って、それでも、彼を受け入れた。甘いヤツ。ゼルダがくすくす笑うと、アルベールは今度はむっとしたようだった。
「何がおかしいんだ。それより、立てるなら行くぞ? ここは危ないんだから」
「うん? そうだな。でもおまえ、どうして怒るんだ」
 彼はひどく驚いた顔をした。いや、呆れた顔か。
「年上の者に向かっておまえは失礼だろう? 君、名前は?」
 一瞬の沈黙の後、ゼルダはたまらず吹き出した。あまりに遠慮もなく笑ったものだから、アルベールが余計に怒るのすら、おかしい。
 どうして助けるのかと思ったら、この青年は、軍の副官の顔すら知らなかったのだ。
 倒れた彼が、アルベールの目には、まだ幼いのに戦に狩り出された、哀れな少年兵に見えたのだろう。
 ひとしきり笑った後、ゼルダはふと黙り込んだ。
 ――気に入らない。
 アルベールの考えは、あながち間違いではない。ゼルダはまさに、幼いうちに悪い継母ままははに、優しかった母も兄も殺されて、そして今、死を期待されて前線に送り込まれているのだから。不幸と言うなら、ゼルダの不幸は、アルベールの考えの斜め上を行くに違いない。
 けれど、方術師はこう言うのだ。
『功名心に駆られた皇子が、民の命など何とも思わず行う戦の犠牲者がここに』
 アルベールとて、同じだ。賭けてもいい。
 少年の身で戦地に送り込まれるのは、民なら痛ましく、皇子なら自業自得だと、平然と言い放つのだ。
 だから、方術師が嫌いだ。
 自分の命も自分の国も、自分の手で守るのが当然のはずだ。身分の別なく。それができないと言うのは、自分の命も自分の国も、自分のものだと思っていないからではないのか。
 国は皇室のものであり、民のものではないと言っているのは、他ならぬ、方術師の方ではないのか。
 ……そんなこと、いかにも下っ端に見えるこの青年に、今、ぶつけても仕方がないけれど。
 闇を彷徨さまよう心、行き場のない物思いが、ゼルダにわざわざ、一筋縄では行かない名前を名乗らせたのかもしれない。
「――アルディナン」
 この青年は、二年前に死んだ皇太子の名を、知るだろうか。
「そうか。アルディナン、年は?」
 少し、拍子抜けした。本当に、知らないんだなと。
「十四歳」
「そうか、まだ十四歳なのに大変だな。――だけど、私は十七歳だ。こんな場所なんだ、仲間への礼を欠いたら生き残れない。改めた方がいい」
 ゼルダはまず、あっけにとられた。皇帝でも、皇太子でもない誰かから、こんな口のきき方をされるのは初めてだ。つい吹き出して、また、アルベールを怒らせた。
「そうだね、アルベールさん?」
 助けてもらった礼はとか、青年が何か言っているのは放っておいて。
 近くに、血にまみれ、冷たくなった愛馬を見つけると、ゼルダはそっと、その艶やかだった毛並みを撫でた。見捨てて逃げればよかったのに、落馬した彼の周りをうろうろしていたりするから、助かる命も助からなかった。
 呪文を唱える声が、少し震えた。落ちた涙をこっそり拭い、屍馬が立ち上がると、ゼルダは何事もなかった顔で振り向いた。初歩の死霊術だ。
「逃げようか」
 アルベールが愕然として彼を見る。ゼルダは少し笑っただけで屍馬に跨ると、アルベールに手を差し伸べた。
「足なんかで逃げ切れない。乗りなよ」
 

     *

 
「軍に戻るって、アルディナン、君、正気なのか!」
 屍馬がどこに向かっているかを知ると、アルベールが信じがたげに怒りを見せた。死なせるために生かしたんじゃない、と。
「そんなこと言っても、当たり前じゃないか。軍に戻らずに、どうするんだ?」
 遠慮もなく聞き返すゼルダに、アルベールがいよいよ、理解できないとかぶりを振った。
「信じられない、皇太子は君を見捨てたんだぞ!」
 む。
 ゼルダは少しカチンときて、そんなじゃないと口答えした。
「皇太子殿下が、好きで見捨てたみたいな言い方は気に食わないな。それを言うなら、アルベール、さんはどうして、まだ聖アンナを信じるだろう? 天使なんて、あれだけ多くの血が流れるのを、ただ見ていただけじゃないか」
 皇太子には何度か命を救われたけれど、アンナには救われていないよと、付け加えた。
「そんなの……そんなのは、君が死霊術師だからだ」
「アンナが方術師を助ける姿も、見ていないよ?」
 本当は、アンナの助言がなければ皇太子軍はほぼ間違いなく全滅だったのだから、救われていない、と言うのは嘘だ。
 ただ、それを嘘だと言うなら、皇太子が彼を見捨てた、と言うのも嘘だから、あいこだ。
「……アンナは……みだりに力を使わないんだ。……神や、その使いによる力の行使は、世の理を乱すから……」
 つたない言葉で、アンナを懸命に庇うアルベールの姿に、ゼルダはふっと笑った。
 しどろもどろになるのは、アンナの意向にきちんと適っているか、考えながら話しているからだろう。そして、本当は彼自身、納得行かない部分なのに違いない。つかみきれない天使の心を語ろうなんて、勢いで無茶をするから。
 アルベールのそんな、世俗ずれしない、裏表のない懸命さが好ましかった。
「そうかもしれないね、アルベールさん。本当を言えば、確かに、天使が教えてくれたんだ。あの場を死守しなければ、大掛かりな魔術がマーザを滅ぼすと。だから殿下は、マーザを守って戦うことを決意された。私は、その殿下を守りたかった。マーザも殿下も無事だったなら、置き去りにされたくらい、構いはしないよ。軍に戻れば、殿下は私を迎えてくれるだろうし」
 最悪の事態を免れる道を示したアンナと、その道を命懸けで確保して、実際に人々を救った皇太子について、文句をつけ合うのはへんだから。
 どちらがより優れたことをしたか、で言い合うくらいがいい。
 なお、アルベールは納得行かなげに、それでも少し毒気を抜かれた顔をして、ゼルダを見た。
「……アルディナンは、不思議だな……人を憎んだことはないの? 君の、その志は尊いのかもしれない。……だけど……」
「だけど?」
 ――人を憎んだことなら、ある。今なお、ゼルシア皇妃を心の底から憎んでいる。
 そして、だからこそわかるのだ。違うと。助けてくれないとか、何かしてくれないとか、そういう風に憎むのは違う。皇太子なんて、逃げろと言ってもゼルダを見捨てられなくて、ギリギリまであの場で指揮していたのだから、むしろ、逃げ遅れていないか心配だ。
「……いや、いい……」
 そう答えたアルベールの瞳が、ひどく哀切だった。アルベールはそれきり口をつぐんだ。
「――先に、方術師の幕営地に寄ってアルベールさんを置いていくから。助けてくれてありがとう」
 そんなアルベールの様子に、ゼルダはふと、この青年、皇室に身内を殺されでもしたかなと思った。『皇室に殺された』ことしかわからないから、皇室を憎む方術師は多いのだ。
 たとえば、先の皇妃を暗殺したのはゼルシアだ。その際、ゼルシアは何も知らない方術師にその罪を着せて、皇帝の名の下に断首させている。そんなだから、皇帝は『最愛の皇妃を殺した』方術師が憎くて仕方がないし、方術師も『何の罪もない同胞を殺した』皇帝が憎くて仕方がない。
 先の皇太子を殺したのも、また方術師だ。
 アルディナン皇太子は母皇妃の死に疑問を抱き、ついに、黒幕はゼルシアだという証拠をつかんだが、そのために死期を早めた。
 追い詰められたゼルシアが、方術師に偽りを吹き込んだのだ。
 
 ――アルディナン皇太子が母親を殺された恨みで、神殿を滅ぼし、方術師を虐殺しようとしています。私からどんなに間違いではと言ってみても、聞く耳を持たれないのです――
 
 皇妃を信じた、高位の方術師が正式に面会を申し入れ、命を代償にした方術で、皇太子の命を摘み取ってしまった。
 
 ――我々が殺す時にはこうする、先の皇妃暗殺は我々ではない!――
 
 死ぬ間際、そう叫んだ方術師の姿が、ゼルシアの目にはどれほど滑稽で、痛快なものと見えただろうか。誠実な人柄で優秀だった皇太子を、その糾弾で名誉を回復するはずだった方術師が、殺めたのだから。
 恐らくゼルシアは、彼女の皇子が即位する時には、神殿も滅ぼしたいのに違いない。
 別の誰かに、彼女の真似ができないように。
 神殿の尊さも、国や皇統を継ぐ意味も、まるで知らずに卑劣に冷酷に国を傾ける。そんな者が、ゼルシアだけでもないのだ。
 なすすべもなく、大切なひとを失ってきた。大切なものを踏みにじられてきた。
 力を得たかった。
 理不尽な力に、何者も蹂躙させない力を得たい。二度と、守り切れずに失うことのないよう。
「アルベールは――皇室と神殿の和解など、無理だと思う?」
 いつの間にか、ゼルダは重厚な真紅ではなく、戦塵に汚れた白のマントを身に着けていた。意識がもうろうとしていた頃に、寒くないようにと、アルベールが着せてくれたのだろう。自分のものは、戦闘中に引き裂かれた気がするから。
「アルディナン……?」
 見ず知らずの子供のために、自分が寒い思いをして。
 命さえ危険にさらして。
 何の見返りも期待せず、助けてくれたのが、アルベールだった。
「私は、方術師がきらいだよ……」
「……」
 彼が皇子だと知ったら、きっと、手を離すから。
 

     *

 
「兄上!」
 皇太子軍の陣に戻ると、ゼルダは真っ直ぐに皇太子の無事を確かめに向かった。
 ゼルダの元気な姿を見ると、皇太子はやや目を見張り、びっくりした顔で彼を見た。
「ご無事で良かった!」
 ゼルダが大喜びで皇太子の腕に飛び込むのを、ザルマークはさらにびっくりした様子で、それでも、受け止めた。
「よく戻った。――無事で良かった」
 兄の手がぽんぽんと、優しく、弟の頭を叩いた。
 ゼルダが心地好さげに目を閉じる。
「……おまえ、甘え上手だな」
 皇太子ザルマークにとっては、身内をここまでかけがえないと思ったのも、ここまで、懐深くまで踏み込ませたのも、どちらも初めてだった。
 ゼルダはその腕の中で満足げに微笑んでいたけれど、やがて、ザルマークの表情に何かを察した様子を見せた。
「戦局の方、思わしくありませんか」
「……ああ」
 戦死者四千名。
 戦地となった七都市全て、陥落――
 各戦地からの報告書に目を通し、皇太子の顔に苦悩の色が濃い事情を、ゼルダは知った。
「戦果は――」
 皇太子が聞きたくなさげに顔を背ける。
「陛下におよそ報告できん」
 任された兵の多くを失い、何も取り戻せないどころか、さらに侵略を許した。唇を噛む皇太子に、ゼルダは揺るがない口調で告げた。
「敵国王はアルザーディス・マリンカリン。魔術を操り、自分の影によって遠方の情報を見ること、聞くこと、話すこと、場合によっては魔術の発動すら可能。軍容は戦闘前で魔術師が二百四十、討ち取った数が約四十。残り二百程度と推測され、飛行能力を持った合成獣がその数十倍。一般兵の参加はなく、精神を操る死霊術は、魔術師にも合成獣にも効かない。敵は魔法陣を用いれば、大都一つを一夜に壊滅させるほど、大掛かりな魔術も使用可能。その条件に、満月が含まれる可能性あり――兄上、聖アンナを同行させたのは、大変な好判断であられたと思われませんか? 皇妃が情報を握りつぶしたおかげで危うく全滅するはずだった都と軍を、危険極まりなかったこの初戦を、致命傷を負わずに済ませただけでも、立派にあなたの戦功だと、私は思います。侵略されたままとはいえ、あなたはマーザ・フォーメルを滅びから救った。存続さえしていれば、取り戻せます」
「――ゼルダ?」
 ザルマークが目を見張る。ゼルダは含みのある笑みを見せた。
「おかしいと思いませんか、兄上。小国の侵略など、戦功を立てる絶好の機会です。そこへ、なぜ皇妃が自分の皇子は派遣せず、最も邪魔としている私とあなたを派遣させたか――それも、十分な軍を与えて」
 皇太子の目が、いよいよ見張られた。皇妃は、軍が初戦で全滅しかねないという情報を、あらかじめ握っていた――?
 それが事実なら、由々しき売国行為だ。
「兄上、この戦、数は何の役にも立たないでしょう。敵の戦い方は、合成獣で軍を足止めし、魔術で味方もろとも焼き払うもの。合成獣も魔術師も空へ逃げる。――方術師が必要です。そして、弓や魔術など飛び道具が必要です」
「……」
 方術師。
 初戦で方術師の犠牲を多く出したのが痛いですねと、しかし、皇帝が方術師の犠牲をとやかく言いはしないでしょうと、ゼルダは付け加えた。
「方術師が役に立つか?」
「あらゆる攻撃から身を守る、守護輪サークルを。この術をかけて、効果がある間に、敵地に乗り込んで魔術師を討ちます。たとえ、一人ずつでも」
 長期戦になっても確実にと、敵に方術師がいない以上はと、ゼルダが提案した。
「――そうだな、やってみるか」
 皇太子の表情から、厳しいものは消えない。ゼルダの案は、敵が動かないことを前提としたものだ。敵がさらに侵攻をかけてきた時、どうするか――
 初戦を生き残った方術師は多くない。守護輪を使える者はさらに限られる。少しずつ削る作戦では、どう考えても、大勢に影響が出る前に敵が動く。
「そこを何とかしてこその、私の戦功だな」
 皇太子はここからだなと、ゼルダに笑いかけた。
「ゼルダ、私は先刻まで――戦場で、おまえを助けようとして死んだ方がましだったと、そんな後ろ向きな考えしか浮かばずにいた。だが、怒るか? おまえを見捨てて逃げて良かったと、今、心底思うよ。おかげで、私もおまえも生きてここにいるようだ」
 ゼルダも笑い返した。
「いいえ、見捨てて下さったご判断、痛み入ります。兄上が生きて逃げて下さったおかげで、敵が兄上に引き付けられて、私にトドメを刺すこと、二の次にしたようではないですか? オトリ役、感謝します兄上」
 まだ、何も好転しない。
 苦しい戦局だったが、二人の皇子は互いに挑発的に、妙に不敵に笑い合った。
 

     *

 
 翌朝。
 朝食と軍議を済ませると、ゼルダは軍を抜け出した。冷たくなった愛馬にまたがる。昨日のうちに綺麗にしてやった、屍馬だった。馬鹿だなと思っても、もう少し、乗ってやりたかった。
 それはもしかしたら、魂の安息を妨げるのかもしれないけれど――
 もう少し、最期まで彼の傍にいたこの馬に。
 

     *

 
「皇子が――!? 殺してやる!」
 ガタンと椅子を蹴立てて、司祭の一人が立ち上がった。
「司祭、落ち着かれて下さい! 皇室を真っ向から敵に回せば、私たちが滅ぼされます! 今は耐えるのです!」
 カムラ方術師たちの幕営地に、皇子が単身乗り込んできたのだ。
「耐えてどうなる、戦で犬死にするだけだ。それくらいなら、一矢なりと報いて死ぬ!」
「司祭!」
 天幕を出ようとした方術師を、いつからいたのか、聖アンナが手をかざし、制した。
「……アンナ……」
「クレスタ、心を静め、考えなさい。なぜ今ここに、皇子が一人で来たのか――皇子は私が迎えます。あなたは、あなたなりの答えが出てから、来て下さい」
 クレスタと呼ばれた方術師は、なぜと、なぜ止めるのかと、かぶりをふった。同胞の多くが見捨てられ、初戦で命を落とした。盾にされ、捨て駒にされ、軍からは何の援助もなく、ただ、遺棄されている。葬儀はおろか、補償も恩賞も、与えられないのだ。残された家族が路頭に迷うことなど気にも留めない、そんな、皇帝と皇太子なのに――!
「司祭、アンナの言われる通りです。どうか、お心を静めて下さい。こんな時だからこそ、我々こそが、強くあらねばなりません。皇帝は死霊術師、死だけを見詰めています。その狂気から、我々が生命を守って行かねばならないのです。皇帝が与える運命を受け入れては、命を諦めては、ならないのですから……」
 方術師は震えるこぶしを机に突いて、ただ、唇を噛み締めていた。

 

     *

 
 ―― シャラン ――
 両脇に飾った、金の髪留めが揺れる。
 つややかな、軽く結い上げた焦げ茶バーントアンバーの髪が流れる。
 敵地同然の方術師の幕営地を、その皇子はひどく無防備に、単身訪れていた。
 正装して立つ皇子の姿は、幼いながらに類稀な美貌とも相まって、一枚の絵のように美しかった。
 アンナが迎えに出ると、ゼルダは少し驚いた顔をして、それでも、完璧なロイヤル・スマイルを見せた。
守護輪サークルを使える方術師を一人、紹介してもらいに来ました」
「――わかりました。司祭長のカデリに会わせましょう」
 ゼルダを案内するように、アンナが先に立って、幕営地の奥へと向かう。その後につき従いながら、ゼルダはさすがに無謀だったかなと思い始めた。行き会う方術師の視線の冷たさ、あからさまな不信、向けられる憎悪――
 本音を言えば、こたえた。わかっていて、覚悟してここに来たのだ。それでも、自信がぐらつきかけるのを、懸命に支えなければならなかった。ここで自信を失えば、灯せるはずの火も、灯せなくなる。
 たとえば皇帝も皇太子も、不信に不信、憎悪に憎悪で応え続けている。そうすることは楽なのだけれど――
 それでは、わかり合えない。いつまで憎しみ合っても、誰のためにもならない。
 マーザ・フォーメルに乗り込み、魔術師を一人捕虜にする。情報が必要なのだ。このままでは、いつ全滅するかわからない危険な橋を、いつまでも渡り続けることになる。
「アルディナン……!?」
 ふいに、聞いた声がかかった。目を向ければ、子連れのアルベールがいた。
 ……て、子連れ?
 アルベールの目には、君がなぜ、ここにと言いたげな、ゼルダの正装に何か不吉な予感を覚えたような、そんな驚愕が見て取れた。
「驚いた、アルベール、子供がいたんだな」
「何言っ……! いくつの時の子供だと思って言うんだ!」
 そんなことを言っても、薄茶の髪の、澄んだ目をした可愛らしい子供が、アルベールにしがみついているのは確かだ。
「アルベール、こちら、ゼルダ皇子。アルディナン皇太子は、数年前に亡くなられています」
 何を言われたのか呑み込めない顔で、アルベールがゼルダを見た。次にはアンナを。
 やがて、その顔から徐々に、血の気が引き始めた。
「こちらはアルベール。その子はセデスと言って、アルベールが面倒を見ている子で、――明日が四歳の誕生日です」
 ――孤児みなしごかな?
 ゼルダはちょっと、その子に笑いかけてみた。すると、子供は喜んで、にこにこと「セデスです。こんにちは。あなたのおなまえは?」と挨拶してきた。
「ゼルダ、皇子」
 名乗ってみた。
「ゼルダ、おうじさま? ゼルダおうじさま、おなまえ、おしえてくれてありがとうございます」
 子供がぺこりとお辞儀をした。あまり、よく出来た子供なので、ゼルダはつい笑みを零した。そういえば、アルベールは彼にも礼儀を教えようとしたっけ。
 麗しの美少年であるゼルダの笑顔は、花が綻ぶようで、子供が目を見開いてその笑顔に見入る。
「ゼルダ皇子、アルベールも守護輪サークルを操ります。この幕営地にいる者の中では、五指に入るでしょう」
 アンナの言葉に、ゼルダは改めてアルベールを見直した。
「そうか――」
 アルベールは強張った表情で、唇を噛んでゼルダを見ていた。
「アルベール、どう? もし、私に守護輪をかけて欲しいと頼んだら、何時間のものをかけられる? 最低でも一時間、欲を言えば三時間欲しいんだけど」
 ゼルダが持ちかけると、アルベールはいよいよ顔色を悪くした。
「……誰が、誰が君なんかに!」
 ゼルダは屈託なく微笑んだ。
「なんだ、名前を偽ったのを怒ってるの? 兄上の名前だって、大差ないだろうに」
 女性と見紛うような綺麗な顔で流し目をするから、タチが悪い。
 高慢に、優雅に微笑む。
 皇子と知れば、それだけで、態度を変える者は多い。アルベールも例外ではなかったなと、少々の失望を隠した微笑みだった。皇子の身で、同じ人間として見て欲しいと思うこと自体が、無理難題なんだと知らないでもないから。
 アルベールはますます瞳に敵意の炎を揺らし、ゼルダを見た。
「取り引きしないか?」
「!?」
「明日、四歳の誕生日なんだろう? 私が生還できたら人数分、ケーキを用意するっていうのでどう? 手を打たないか?」
 ケーキがわかる? とセデスに聞くと、セデスはこくりと頷いた。
 食べたことある? と続けて聞くと、ないとかぶりをふった。
 甘くておいしいよ、食べさせてあげようか? と笑いかけると、子供は少し困った顔をして、しばらく、考えていた。
「アルベールさんが、こまるケーキは、なくていいです。……へいきです」
「……」
 利発な子供だ。
 三歳でもう、我慢することを知っている。欲しがれば、アルベールが困るということも、わかるんだなと思った。
「セデス……」
 アルベールが何か葛藤するように、顔をゆがめた。
「……人数分と言うのは……?」
「女子供の人数分、用意するよ。おいしいものの独り占めは、苦手な子だろう?」
「……」
 その通りだった。アルベールは正直、暗黒皇帝と呼ばれるハーケンベルクの皇子がそういう配慮をすること自体に驚いた。
 しばらくの間、アルベールは難しい顔で沈黙し、やがて、不承不承ゼルダの頼みを引き受けた。
 

     *

 
 守護輪がかかったらすぐにマーザに向かうため、場所は、幕営地を出てすぐの街道脇を選んだ。
 まだ抵抗があるらしく、すんなりやれないアルベールに、ゼルダが言った。
「三時間と偽って、一時間の術をかけたら私を殺せるかもしれない。私はおまえを信じるし、ここには忍びで来ているから、なまじ私が死んでも、どうして死んだかなんて、下手をすれば死んだことさえ、わからないだろうな。せいぜい、ケーキがなくなるくらいだ」
 ゼルダは誘惑的にアルベールを見ると、挑発した。
「やってみるか?」
 アルベールが息を呑む。
 何を考えてと、その目が信じがたげにゼルダを見た。
「……なぜ、皇子がわざわざ出向くんです。危険な任務は、兵に任せるものでは、ないんですか?」
 アルベールの問いに、ゼルダは悪戯いたずらっぽく微笑んだ。
「皇太子がいるうちは、私は予備の指揮官だから、好きに出来るんだ。皇太子は国に、兵は皇太子に縛られて、私だけが自由なんだよ」
 ゼルダが口許に二本、指を立てる。
「それなら、役に立つことをしないとね。大切な兄上を守り抜いて、私はまだまだ、可愛がってもらうんだから」
 言葉を失くしたように固まるアルベールを、そこに置いて。
 ゼルダは傍の小さな柵に寄りかかると、改めてアルベールに目を向けた。
「おまえにこの命、預ける。好きにしていい」
 どこか哀切に、――優雅に微笑んだ。
 

     *

 
 ……好 きに……?
 アルベールは軽いめまいを覚えた。
 ドッ、ドッと、動悸がする。押し込めた記憶が、残酷な絵が、脳裏に蘇る。
「……わかっているのか。君が忍びで来たと言うのなら、今、この場で殺したって同じなんだ」
 アルベールは、衝動的にまだ細い少年の首に手をかけ、絞めていた。
 ゼルダが苦しげに顔をゆがめる。
 ドキリとしてアルベールが手を緩めると、抵抗はしないまま、ただ、アルベールの目を見てゼルダが言った。
「――生まれた時から全てを与えられて、全てを求められてきた」
 必要な物すら事欠くような不幸は一目瞭然だ。しかし、その逆の――守れないものまで与えられる不幸を、どれだけの人間が、知るのだろうか。
「私は国の象徴なのかもしれない。けれど、人間だよ。誰かに助けて欲しいと思ったら、何か、出来なくても許して欲しいと思ったら、いけない?」
 美しく澄んだガーネットの瞳が、死霊術師ネクロマンサーのそれとは思いがたいくらい、印象的に彼を見ていた。
 皇子なら、親の仇だ。ゼルダの首を絞めようとする手に、力が入らない。
 アルベールには、それ以上は無理だった。
 
 
 守護輪サークルがかかると、ゼルダが早速、馬にまたがりながらアルベールに尋ねた。
「何時間もつ?」
「――五時間」
 ゼルダは少し驚いた顔をして、次には、
「子供の誕生日、期待していて!」
 アルベールにありがとうと笑顔を残して、マーザへと馬を駆った。


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最終更新日 : 2010-11-08 19:19:37

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第四節 クレールの魔術師

 ゼルダはマーザではなく、セリントを訪れていた。つい先日、陥落した都市の一つだ。敵の主力が配されているマーザより、小都市に過ぎないセリントの方が、五時間もあるなら目がいいなと、途中で考えを改めたのだった。
 町はマーザ同様、多く火災の跡が見られ、ちらほら、合成獣キメラが徘徊していた。
 相変わらず兵の姿はなく、最悪の事態だけは免れたなと、ゼルダは少し安心した。
 戦になると、若い娘がとかく酷い目に遭いがちだけれど、その気配が呆れるほどないからだ。市民が虐殺された気配もない。
 ただ、市民を一人つかまえて話を聞いたところ、クレールは焼き印を受け入れることを、助命の条件にしているという。その印が、魔法陣なのが気にかかった。
 現場に向かってみると、そこには黒衣に身を包んだ魔術師が一人。
 その他に、数体の合成獣が焼きごてを持って事に当たっていた。
 ――ここの突破は無謀だな……。
 人が集まり過ぎているし、狙うなら偵察兵だなと、ゼルダが馬首を返しかけた時だ。
 突風が、広場中央の魔術師のフードを吹き飛ばし、薄茶の巻き毛が、舞い踊った。
 あらわになった少女の美貌に、目を奪われた。
 そろいの黒衣に身を包み、性別すら、わからなかった敵の魔術師。
 少なくともそこにいた一人は、うら若き美少女だったのだ。それも、儚げで優しげで、ゼルダの目など、一瞬でくらませるほどの。
 つまり、くらんだ。
 あっさりと、くらんだ。
 ゼルダは考える前に持参していた骨片をまき、死霊術をかけた。骨の欠片から、完全体の骸骨兵が立ち上がってくる。
「行け」
 骸骨兵に気付いた市民とクレールの合成獣が、騒ぎ始める。
 
 ドカッ ドカカッ
 
 果敢か無謀か、その混乱に乗じ、ゼルダは真っ直ぐ、ただ一人の少女めがけ、屍馬を疾駆させた。
 驚いた顔をした少女が、それでも魔術で雷電を打ち込んで来るが、ゼルダは守護輪サークルを信じて避けようとせず、そのまま雷に突っ込んだ。
 
 バリリッ
 
 雷は見事に割れて、その欠片すら、ゼルダに届かなかった。
 上体を逸らし、利き腕を広げ――
「きゃあっ!」
 細い悲鳴を上げ、身を縮ませる少女を捕らえた。
 柔らかく軽く、世に二人といそうにない美貌の少女を、まさにさらった。
 強行突破でも、さらうしかないと思った。
 少女が抵抗しないよう、強く抱き締める。役得だ。最高だ。
 震える少女の身が、揺れ踊る柔らかな茶の巻き毛が、印象に残った。
 
 
 あまりに無茶だった強行突破を成功させ、都市の外まで駆け抜けると、ゼルダはいったん、馬を止めた。追っ手はとりあえず矢で射落とした。戦略的には、わからないようさらってくるのが上策であり、こんな目立つさらい方は論外だ。
 しかし、世にも稀な美少女を目の当たりにして諦めたりしたら、運命に対する裏切りだと思う。ゼルダは上手に、痛くないよう少女の手から銀のロッドを取り上げると、優しく微笑みかけた。
「手荒にしてごめんね。怪我はない?」
 少女は目を丸くしてゼルダを見上げ、何も言えず、腕を押さえた。
 確かめると、馬上に引き上げた時にだろう、強くつかんだ部位が、あざになってしまっていた。ごめんねと、ゼルダが優しく、そこに口付ける。
 少女がびっくりして、ゼルダを見た。透明感のある、大きな紫水晶アメジストの瞳が、ゼルダを映した。
 彼は甘く微笑んで少女の薄茶の髪に指を絡めると、羽根のように軽く、その髪の上からキスした。肌に直接は触れない。
 少女はまた驚いたようで、息を呑んでゼルダを見上げた。
「私はゼルダ。君があんまり可愛らしいものだから、どうしても話してみたいと思ったら、さらって来てしまって。ひどいことはしないから安心して。話が終わったら、君が望むなら帰してあげる。私は、君に妃になって欲しいと思っているけど、無理強いはしないから、大丈夫だよ」
 少女が澄んだ瞳でゼルダを見詰める。
「……あの、へんたいの、方なんでしょうか……」
 鈴をふるような声で、言った。
 ――待て。
 ぷっと、ゼルダはたまらず吹き出した。
 少女の瞳があどけなく、健気なだけにおかしい。ゼルダは目の端に涙さえ浮かべて笑った。
「面白いね。君、名前は?」
 変態だなんて初めて言われたよと、ゼルダがまだ、クスクス笑いながら言うのを、少女は不思議そうに眺めていた。
「……アカンタスです……」
「ふうん、アカン……タス……?」
 ――え?
 四十七番目の魔術記号を『アカンタス』と呼ぶ。番号も同然の、名前だった。
 ゼルダは沈黙の後、尋ねた。
「ご両親がつけたの?」
 いいえと、少女が首をふる。
魔術王マクリムがそう呼ばれます。両親は……思い出せません……」
 ――どういうことなのか。
 彼と同じくらいの少女が、両親を思い出せない、なんて――
 まともな名前すら、与えられずに。
 ゼルダははっとして、少女を見た。
 まさか、魔力を持って生まれたら、両親と引き離される――?
「……ご両親は……?」
 わかりませんと、少女は首をふるだけだった。
「君を育てたのは、魔術王マクリム?」
 少女がこくりと頷く。
「……君の仲間の魔術師メイジも、魔術王マクリムが……?」
 少女がまた、こくりと頷く。
 ゼルダは少し思案して、柔らかく尋ねた。
「ねえ、アカンタス。……その名前が好き?」
「……?」
 少女が不思議そうにゼルダを見る。好きも嫌いもない、疑問も持たない名前なのかもしれない。
「シャンディナはどう? 私は君のこと、シャンディナって呼びたいな。君がとても綺麗だから、大切に守るよって、何度でも誓う代わりに、私だけの名前で呼びたい」
 
 
 彼女をさらったのは、若く美しい敵国の皇子だった。
 その少年はとても優しく微笑んで、彼女の巻き毛にしなやかな指を絡めて、耳元にそっと、優しい口付けを降らせた。
 覚えのない感触に途惑って、声をなくして立ち尽くした彼女に、甘く優美に微笑んで、身を引いた。
 
     *
 
 ゼルダは占領されているセリントを抜け、皇太子軍が駐留する都市の仕立て屋に、アカンタスを連れて入った。年頃と呼ぶには幼いくらいの少女に漆黒のローブなんて、ある意味でミステリアスかもしれないけれど、もったいない。
 何着か試着させ、彼はきらりと目を光らせた。
「――これがいいな。これにしよう、シャンディナ」
 ゼルダが選んだのは、白地に絞り染めのケープがついた、幻想的ファンタスティックおもむきの衣装だ。
 軽やかで、動く度、少女の薄茶の髪と、淡い色彩の飾り布がたわむれ揺れた。
「シャンディナは? 他に、気に入った衣装があったら持っておいで」
 ゼルダが呼ぶ『シャンディナ』の名の響きに、耳を澄ませるような様子をしていた少女が顔を上げ、うなずく。
 陳列された中から、気に入った衣装を両手に抱え、少女が小走りにゼルダのところに持ってきた。幾重にも布を重ねて、ふんだんにリボンやフリルをあしらったものだ。
「ああ、いいね。シャンディナが着たら、骨董人形アンティーク・ドールだね」
 それも買ってあげるよと、ゼルダが優麗に笑う。アカンタスは淡い青紫ラベンダーの目を丸くして、ゼルダを見た。
「でも、今日は私が選んだ方、着てもらいたいな。綺麗だから、見ていたいんだ」
 ゼルダの紫がかったガーネットの瞳が、流すように彼女を見た。アカンタスはさっと頬を染め、顔を隠すようにして、小さく頷いた。
 次は髪飾り、靴、食事と、ゼルダは手を引いて少女を連れ回した。
 誘惑的に微笑むゼルダにずっと手を引かれ、アカンタスもいつの間にか、にこにこと愛らしく微笑むようになっていた。
 優しい男の子に構われて、明るい色彩の、風に揺れる軽やかな衣装を与えられ、アカンタスは嬉しかったのだ。
 頼っても拒まれず、微笑みかけられる度に胸が高鳴った。つないだ手の優しさに、アカンタスはずっと忘れていた安心感と、生まれて初めての幸福感に満たされていた。それがこぼれた、微笑み。
「じゃあ、次はケーキ屋に行くよ」
「ケーキ?」
「シャンディナの魔法、私に効かなかったの、覚えている? 気に入りの方術師に、子供のケーキを約束して、白魔法をかけてもらったんだ」
 クレールでは魔術を黒魔法、方術を白魔法、死霊術を呪いと呼ぶ。
「……? ゼルダ皇子様は、本当は何をしにセリントにいらしたんですか? 私の相手をしていて、しかられませんか?」
「心配?」
 アカンタスは少し言いにくそうに、困った顔をしてうつむいた。
「私、は……早く帰らないと、魔術王マクリムに叱られます……」
「……」
 ゼルダは微笑むのをやめ、敵国の魔術師を見る顔でアカンタスを見た。
「――帰さない、と言ったら?」
「え……?」
 魔のある表情をすると、ゼルダには、見る者をどきりとさせる眼力が備わっていた。
 アカンタスが息を呑んだ、その時だ。
 唐突に、少女の瞳から光が失せた。
 美しいだけの、硝子玉のような瞳になった。
 それも、束の間のこと――
 硝子玉の瞳の奥に、得体の知れない光が宿り、別人のようになったアカンタスが、ゼルダを見た。
「――シャンディナ?」
 少女は薄く微笑むと、真っ直ぐにゼルダを見詰め、甘えるようにその懐に身を寄せた。儚げな少女の甘い誘惑に、ゼルダはしびれたようになり、つい、誘われるままに彼女を抱き寄せた。少女の白い指がゼルダの懐をまさぐり、奪われた銀のロッドを抜き取った。
「!」
「ゼルダ皇子――」
 少女が微笑んで突きつける、ロッドの先に。
「シャンディナ!」
 危険な光、蒼い雷光が揺れていた。
 
“ ゼルダ皇子を探し出し、亡き者に ”

 
 ここにいます、そう微かにつぶやき、アカンタスは真っ直ぐに、雷撃をゼルダに向けて解き放った。
 
 バヂバヂッ!
 
 蒼の稲妻が、間一髪かわしたゼルダの背後の大木を、なぎ倒した。
 ゼルダは幾分血の気を引かせて、その様をまざまざと見た。不覚だ。
 少女の色香に迷った。
 守護輪サークルの加護も、とっくに失われているこの時に――!
 
「―― セイル セイル アキム アカンタス!」
 
 呪文を唱え、少女が銀のロッドを振り上げる。
 世にも稀な美少女の頭上、蒼の稲妻が駆け巡る様は、光景だけ見れば芸術的ですらあった。けれど、事態は窮地以外の何ものでもない。
 あんな可憐な少女を死霊術で撃つなんて、絶対にできない。
 だからと言って、逃げ回っていても殺されるだけだ。
 ゼルダは冷たい汗をかきながら、間合いを測った。アカンタスが稲妻を放ち、次の呪文を唱え切るまでの少しの時間に賭けるしかない。
 冷たいラベンダーの瞳が、また別の人間を見た。
 
“ 皇子の前に、屍の群れを。絶望の中に、非業の死を ”
 
 アカンタスがお望みのままにとつぶやいて、ロッドを振り下ろす。
 その、一瞬。
 ゼルダには、彼女がためらったように見えた。
「ぎゃあああっ!」
 標的にされた老婆の、断末魔の声が響いた。
 ほんの少し前、可愛らしいお嬢さんにと、アカンタスの髪に花を挿してくれた老婆だ。人の良さそうな、小柄な、花売りの老婆だった。
「……あ……」
 小さな声が、アカンタスの口から漏れた。
 魔に支配された、硝子玉の瞳の奥に、少女が本来、持つ魂の動揺。
「!」
 彼女に迫る、敵国の皇子であるゼルダに気付いたアカンタスが、銀のロッドを振り上げる。
「きゃあっ!」
 
     *
 
「――人殺し!!」
 誰かが叫んだ。
 ロッドを奪い、押さえ込んだアカンタスの身が震えていた。
 恐怖によるものなのか、彼女を支配しようとする何かの力と葛藤してのことなのか、ゼルダにはわからなかった。
「あんた、何者だ。その娘は何だ!」
魔術師メイジだな!? クレールの魔術師メイジだ、違うのか!」
 投げられた石を、アカンタスを庇い、ゼルダがその身に受けた。
 戦時中のこと、すぐに巡視兵が駆けつけたが、それまで、一触即発の睨み合いが続いた。
「何があった!?」
 ゼルダは土埃を払って立ち上がると、金の髪留めが外れ、乱れた髪をほどき、真っ直ぐに巡視兵を見た。艶やかな焦茶の髪が、印象的に流れる。
「私はザルマーク皇太子軍、副官のゼルダだ。セリントから、魔術師を一人捕虜にして来たんだが、不手際があった」
 ゼルダの顔を知っていた様子で、巡視兵が息を呑む。
「このまま軍に戻る。後始末の手配を頼む。それから――」
 ケーキ屋に行き損ねたこと、少し、残念だった。その買い物は、少女に無邪気な笑顔や困り顔を、いくつも導くはずだったから。
 子供のケーキの手配も人に頼むと、ゼルダは改めて、アカンタスを見た。
 蒼い顔をして身を震わせる、瞳に混乱を映した――世にも稀な美少女。クレールの魔術師。
 ゼルダは静かに彼女を抱き上げると、彼につかまるよう促した。アカンタスは素直に従った。
 少女の頬を、涙が二筋伝い落ちていた。
 老婆のための、挿してもらった花のための涙に見えた。
「シャンディナ、すまない。止めてあげられなかった……」
 感極まったように、哀しいラベンダーの瞳がゼルダを見た。
 彼女は震える手でゼルダにしがみつき、息を詰まらせて泣いた。
 その衣装の隙間から、首筋の、背中に近い位置に、魔法印がのぞいていた。
 それに気付くと、ゼルダは目を見張った。
 セリントで強いられていた焼き印が、もし、人を支配する類の魔法印だとしたら――?
 凄惨な殺し合いの予感に、ゼルダは秀麗な眉をひそめ、今はただ、傷ついた少女を抱き締めた。


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最終更新日 : 2011-03-16 13:36:10


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