目次
はじめに
『資本論』第2部第8草稿の第21章該当部分の段落ごとの解説(その1)
『資本論』第2部第8稿の第21章該当部分の段落ごとの解説(その2)
『資本論』第2部第8稿の鯛21章該当部分の段落ごとの解説(その3)
『資本論』第2部第8稿の第21章該当部分の段落ごとの解説(その4)
『資本論』第2部第8稿の第21章該当部分の段落ごとの解説(その5)
『資本論』第2部第8稿の第21章該当部分の段落ごとの解説(その6)
『資本論』第2部第8稿の第21章該当部分の段落ごとの解説(その7)
『資本論』第2部第8稿の第21章該当部分の段落ごとの解説(その8)
『資本論』第2部第8稿の第21章該当部分の段落ごとの解説(その9)
『資本論』第2部第8稿の第21章該当部分の段落ごとの解説(その10)
『資本論』第2部第8稿の第21章該当部分の段落ごとの解説(その11)
『資本論』第2部第8稿の第21章該当部分の段落ごとの解説(その12)
『資本論』第2部第8稿の第21章該当部分の段落ごとの解説(その13)
『資本論』第2部第8稿の第21章該当部分の段落ごとの解説(その14)
『資本論』第2部第8稿の第21章該当部分の段落ごとの解説(その15)
『資本論』第2部第8稿の第21章該当部分の段落ごとの解説(その16)
『資本論』第2部第8稿の第21章該当部分の段落ごとの解説(その17)
『資本論』第2部第8稿の第21章該当部分の段落ごとの解説(その18)
『資本論』第2部第8稿の第21章該当部分の段落ごとの解説(その19)
『資本論』第2部第8稿の第21章該当部分の段落ごとの解説(その20)
『資本論』第2部第8稿の第21章該当部分の段落ごとの解説(その21)
『資本論』第2部第8稿の第21章該当部分の段落ごとの解説(その22)
『資本論』第2部第8稿の第21章該当部分の段落ごとの解説(その23)
『資本論』第2部第8稿の第21章該当部分の段落ごとの解説(その24)
『資本論』第2部第8稿の第21章該当部分の段落ごとの解説(その25)
『資本論』第2部第8稿の第21章該当部分の段落ごとの解説(その26)
『資本論』第2部第8稿の第21章該当部分の段落ごとの解説(その27)
『資本論』第2部第8稿の第21章該当部分の段落ごとの解説(その28)
『資本論』第2部第8稿の第21章該当部分の段落ごとの解説(その29)
『資本論』第2部第8稿の第21章該当部分の段落ごとの解説(その30)
『資本論』第2部第8稿の第21章該当部分の段落ごとの解説(その31)
『資本論』第2部第8稿の第21章該当部分の段落ごとの解説(その32)
『資本論』第2部第8稿の第21章該当部分の段落ごとの解説(その33)
『資本論』第2部第8稿の第21章該当部分の段落ごとの解説(その34)
『資本論』第2部第8稿の第21章該当部分の段落ごとの解説(その35)
『資本論』第2部第8稿の第21章該当部分の段落ごとの解説(その36)
『資本論』第2部第8稿の第21章該当部分の段落ごとの解説(その37)
『資本論』第2部第8稿の第21章該当部分の段落ごとの解説(その38)
『資本論』第2部第8稿の第21章該当部分の段落ごとの解説(その39)
『資本論』第2部第8稿の第21章該当部分の段落ごとの解説(その40)
『資本論』第2部第8稿の第21章該当部分の段落ごとの解説(その41)
『資本論』第2部第8稿の第21章該当部分の段落ごとの解説(その42)
『資本論』第2部第8稿の第21章該当部分の段落ごとの解説(その43)
『資本論』第2部第8稿の第21章該当部分の段落ごとの解説(その44)
『資本論』第2部第8稿の第21章該当部分の段落ごとの解説(その45)
『資本論』第2部第8稿の第21章該当部分の段落ごとの解説(その46)
『資本論』第2部第8稿の第21章該当部分の段落ごとの解説(その47)
『資本論』第2部第8稿の第21章該当部分の段落ごとの解説(その48)
『資本論』第2部第8稿の第21章該当部分の段落ごとの解説(その49)
『資本論』第2部第8稿の第21章該当部分の段落ごとの解説(その50)
『資本論』第2部第8稿の第21章該当部分の段落ごとの解説(その51)
『資本論』第2部第8稿の第21章該当部分の段落ごとの解説(その52)
『資本論』第2部第8稿の第21章該当部分の段落ごとの解説(その53)
『資本論』第2部第8稿の第21章該当部分の段落ごとの解説(その54)
『資本論』第2部第8稿の第21章該当部分の段落ごとの解説(その55)
『資本論』第2部第8稿の第21章該当部分の段落ごとの解説(その56)
『資本論』第2部第8稿の第21章該当部分の段落ごとの解説(その57)
『資本論』第2部第8稿の第21章該当部分の段落ごとの解説(その58)
『資本論』第2部第8稿の第21章該当部分の段落ごとの解説(その59)
『資本論』第2部第8稿の第21章該当部分の段落ごとの解説(その60)
『資本論』第2部第8稿の第21章該当部分の段落ごとの解説(その61)
『資本論』第2部第8稿の第21章該当部分の段落ごとの解説(その62)
『資本論』第2部第8稿の第21章該当部分の段落ごとの解説(その63)
『資本論』第2部第8稿の第21章該当部分の段落ごとの解説(その64)
『資本論』第2部第8稿の第21章該当部分の段落ごとの解説(その65)
『資本論』第2部第8稿の第21章該当部分の段落ごとの解説(その66)
『資本論』第2部第8稿の第21章該当部分の段落ごとの解説(その67)
『資本論』第2部第8稿の第21章該当部分の段落ごとの解説(その68)
『資本論』第2部第8稿の第21章該当部分の段落ごとの解説(その69)
『資本論』第2部第8稿の鯛21章該当部分の段落ごとの解説(その70)
『資本論』第2部第8稿の鯛21章該当部分の段落ごとの解説(その71)
『資本論』第2部第8稿の鯛21章該当部分の段落ごとの解説(その72)
『資本論』第2部第8稿の鯛21章該当部分の段落ごとの解説(その73)
『資本論』第2部第8稿の鯛21章該当部分の段落ごとの解説(その74)
『資本論』第2部第8稿の鯛21章該当部分の段落ごとの解説(その75)
『資本論』第2部第8稿の鯛21章該当部分の段落ごとの解説(その76)
『資本論』第2部第8稿の鯛21章該当部分の段落ごとの解説(その77)
『資本論』第2部第8稿の鯛21章該当部分の段落ごとの解説(その78)

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はじめに

 【はじめに】

 

 マルクスが執筆した『資本論』の最後の草稿である第2部第8草稿の現行版第21章「蓄積と拡大再生産」部分に該当する箇所を、草稿を解読、翻訳された大谷禎之介氏の訳文を紹介しながら、各パラグラフごとに詳細に解読する。

 

 多くの論者がマルクスが試行錯誤を繰り返しているかに主張しているのは、単に草稿に対する無理解に基づくものでしかないことを明らかにする。マルクス自身は明確なプランのもとに叙述しているのだが、ただそれが不十分にしか展開されていないために、そうした誤解を与えていること、またエンゲルスの編集もさまざまな誤解を与える原因にもなっていることを明らかにする。


 この論考は、あるブログに連載したものをそのまま電子書籍化したものである。だから形式はブログ連載のものをそのまま受け継いでおり、頁の構成も必ずしも整っていない(なかにはブログからの転載過程で誤変換している部分もある)。その点、ご了解いただきたい。


『資本論』第2部第8草稿の第21章該当部分の段落ごとの解説(その1)

§§拡大再生産の全体の構成について

 

 これはまだ厳密に検証した結果ではないが、草稿の21章該当部分におけるマルクスの意図というか、全体の構成についての大まかな見通しみたいなものを、まず最初に与え、その上で、そうした見通しが、では実際に、詳しく検討していくなかで、果たして妥当なものなのかどうかを検証していくというやり方で、この解説はやってゆきたいと思っている。最初は、だから簡単なメモ書きである。

 まず、全体の構成は大きく分けて

 1、拡大再生産の概念
 2、拡大再生産の法則
 3、総括・残された課題

の三つにわけられるように思う。それぞれについて見ていこう。

 1、拡大再生産の概念

 この部分に含まれるのは、マルクスが番号を記した1)~5)全体を含む。ここではマルクスは単純再生産と比較して拡大再生産に固有の課題は何かを明らかにすることによって、拡大再生産の概念を与えようとしている。マルクスはそれを部門Iと部門IIに分けて展開しようとしたように思えるが、必ずしも十分展開されたものになっていない。特に部門IIの部分はまったく不完全に終わっている。

 この部分は大きくは二つに分かれる。

 1)、まず個別資本と社会的な総資本との関連で拡大再生産を検討している。

 そこでは (1)個別資本で現われることは総資本の考察でも現われざるをえないということと、(2)個別資本では問題にならなかったことが総資本では問題になってくる、という二つの問題が論じられている。

 (1)の部分は謂わば拡大再生産の直接的規定である。すなわち「拡大再生産とは拡大された規模での生産である」という単純な規定が与えられる。それは拡大再生産の直接的表象でもある。マルクスはやはり拡大再生産でもこうした直接的表象から始めており、それがいわゆる端緒なのである。

 (2)は拡大再生産の直接的反省関係を問題にしている。つまり蓄積にはまず貨幣による蓄積が前提されるが、それだけではなく現物における蓄積がすでになされていることが前提される。だから蓄積にはすなわち蓄積が前提されることが示される。こうしたことは特に総資本の蓄積を考える場合には前提されなければならないのである。

 2)、次は単純再生産との比較による拡大再生産の分析である。

 ここでは(1)拡大再生産でまず問題になるのは、量による拡大ではなく質的変化であること、(2)蓄積には、まず貨幣による蓄積が先行しなければならないが、それには一方での一方的販売が生じること、だからそれには他方での一方的購買が対応すべきこと、 等々。単純再生産と区別された拡大再生産に固有の課題を明らかにして、拡大再生産の概念が展開されている。

      …………………………***…………………………

 結局、拡大再生産の概念というのは、単純再生産とはまったく違った機能配置による再生産の出発式が前提されるというところに尽きる。つまりその意味では単純再生産と拡大再生産とは単に量的な相違だけでなく(量的に「拡大」されるだけではなく)、質的相違があること、前者から後者への「移行」には質的飛躍があること、をマルクスは強調している。マルクスはそれを強調する方法として、質的飛躍の論理的前提としての悪無限(「移行」を前提した場合の不合理や矛盾)に導く方法をとっており、それがいわゆる一般には「試行錯誤」と捉えられているような気がする。しかしマルクスの意図としては、「移行」を前提すれば不合理や矛盾に陥ることを論証することによって、質的飛躍の必要を明らにしているのであり、その上で、新たな拡大再生産表式の出発式へと導いていくという展望を持っていたように思えるのである。

 2、拡大再生産の法則

 この部分に含まれるのは、b)のあと横線を引いて、拡大再生産の出発式が示され、蓄積の年次を繰り返して表式を計算しているところと、そのまとめが入る。ここではマルクスは拡大再生産表式に具体的な数字をさまざまな条件を変更しながら、入れて計算しているのだが、それは拡大再生産の中に潜む法則性を探っているのであり、エンゲルスが誤解したように、「拡大再生産の表式的叙述」そのものが直接の課題ではないのである(もちろん、そのことは拡大再生産を表式としてあらわす意義を否定するものではないが)。そしてマルクスはその法則を、最後にI(v+m/2)とIIcとの関係を考察することによって、拡大再生産のためには第I部門と第II部門とのそれぞれの蓄積にはどのような諸制限が生じるかという形でまとめている。しかしいうまでもなく、ここでのマルクスは計算間違いを一杯犯しており、その展開も十分とはいえない。

 3、拡大再生産の総括(および残された課題)

 この部分に含まれるのは、具体的数字を入れて計算したあとのまとめの終わったところ以降とエンゲルスが「補遺」とした部分である。ここでは拡大再生産の表式の計算で導き出した法則がもっと一般式の形でI(v+m/X)とIIcとの関係という形で示されているように、全体的な総括であり、また固定資本の循環の問題や産金部門の独自の循環と再生産などが指摘されており、その意味では今後さらに追究すべき課題を指摘している部分でもあるだろう。

  *************************************
 
 こうして見ると、何とか項目を付けて書いているのは1に該当する部分だけであり、2と3はまったく不十分なままに終わっていることが分かる。しかも1の各項目そのものも仕上げられておらず、途中で中断したものがほとんどである。このように見れば、この第8草稿の拡大再生産論というのはやはり未完成な草稿でしかないと結論せざるをえない。
 しかしハッキリさせなければならないのは、マルクスがこの部分で試行錯誤を繰り返しているとか、明確な概念をもつまでには至らなかったなどいう評価は当たらないということである。1の項目のなかで途中で叙述を中断したものの中には、明らかにマルクスにとって以下の叙述がすでに余りにも明らかなので、「云々云々」という形で締めくくり、以下の叙述を省略したと思えるところもある。つまり、すべての項目をじっくり推敲して叙述することを許さなかった、何らかの事情がマルクスにあったとしか考えようがないのである。当時のマルクスは病気がちであり、マルクスはこの草稿を書き上げたあと数年で死んでいる。


『資本論』第2部第8稿の第21章該当部分の段落ごとの解説(その2)

 §§ 第8稿第3章の段落ごとの解読


 一応、上記の大雑把な見通しのもとに、もう一度、第8草稿の拡大再生産論を詳細に検討して、それを検証しようと考えている。その場合、われわれはマルクスの論述にそって内容を詳細に吟味し、マルクスが各部で何を論じているのかを考え抜くのはもちろん、同時に全体の流れや構成にも注意し、上記に示した大まかな見通しを検証するという意味でも、全体の構成を常に意識して、見ていくことにしたい。
 マルクスの草稿は、公式にはまだ刊行されていないのであるが、草稿を直接調べられ翻訳された大谷禎之介氏の研究成果を利用させて頂くことにする(『経済志林』第49巻第1・2号)。
 以下、【1】や【2】は私が大谷氏の訳文につけたパラグラフの番号であり、【  】で囲んだ文章は、私自身の考察や注意書き、あるいは私自身が便宜的につけた表題(太字)等である(出来るだけマルクスの叙述の論理的進展を把握しやすくするために、小見出しをつけてみた)。まずマルクスの草稿の訳文をパラグラフごとにスキャナーで抜粹し〈 〉をつけて示し、次にその主な内容の要約、要点を私がまとめるという形で進めていく。ただし訳文内にあるドイツ語はウムラウト等が使えないために十分反映できない場合があることをお断りしておく(出来るだけ直接論文をご確認ください)。なお一目で分かるように、マルクスの文章は青字に、私の勝手な書き込みは黒字で表示する。

 


 〈|46|先取り。II)蓄積または拡大された〔vergossert〕規模の生産。〉

 

 【これはマルクス自身が書いた第3章--第8稿ではマルクスは「篇」てはなく「章」を使っている--のII)の表題である。ここでマルクスは〈先取り。〉と書いてから表題を書いている(番号「II)」は大谷氏によればあとから書き加えられたように見えるとのことである)。
 この〈先取り〉について、大谷氏はその理由を、本来は草稿の50頁のあとから書き出すべきところが、マルクスがたまたまその前の敍述を行っている際に、46-47頁分を誤って飛ばしてめくったために、その部分が空白になったのをあとから埋めて、その部分から「蓄積または拡大された規模での生産」の敍述を始めたので、それが分かるように〈先取り〉と冒頭に書いたのであろう、と推測している。
 しかしこれは果たしてそんなに単純な理由であろうか。というのは、マルクスは第8稿の17頁から単純再生産の敍述に移っていく際にも〈先取り〉と書いているからである(市原健志《『資本論』第2部の諸草稿とエンゲルスの編集について》『商學論纂』第27巻2号69頁)。つまりマルクスは単純再生産と拡大再生産の敍述を開始する時に、両方ともその敍述が〈先取り〉であることを明示して書きはじめているのである。果たしてこれは何に対する「先取り」なのであろうか。
 市原氏も大谷説に疑問を呈して、それはやはり内容上の〈先取り〉であろうという推測をたてている。市原氏の推測は氏の第8稿全体の性格理解とも関連しており、ここでそれを詳しく紹介すると余りにも横道にそれるので、各自同氏の論文を検討されたい。
 私自身も両者とは違った推測を立てているが、それは第2部全体のプランにも関連してくるので、残念ながらそれをここでは紹介できない。ただ一言断っておくと、エンゲルスはその「序文」でマルクスは第8稿で第3篇のプランを変更したかに述べているが、しかし私は第2稿の後に書かれた諸草稿はすべて第2稿をベースにしていると考えている。だから第2部全体の構成は、第2稿の「目次」(これは第2稿の本文が書かれたあとに、全体のプランとしてマルクスが書いたものと考えられる)に示されており、それは第8稿でも変わっていないと推測している。〈先取り〉はだからこの「目次」と関連して考えるべきだと思っているわけである。】


【1、拡大再生産の概念】

 


 〈1)〉【個別資本の蓄積で現われたことは、総資本の拡大再生産でも現われざるをえない】

 


【2】【拡大再生産の直接的規定、直接的表象】

 

 〈1)(1)第1部では,蓄積が個々の資本家については次のように現われる[sich darstellen]こと,すなわち,彼の商品資本を貨幣化するさいにこの商品資本のうち剰余価値を表示する(つまり剰余生産物によって担われている)部分それによって貨幣に転化させる,それを彼はふたたび彼の生産資本の現物諸要素に再転化させるというように現われること,つまり,実際には現実の蓄積とは拡大された〔vergrossert〕規摸での再生産であることを明らかにした。しかし個別資本の場合に現われる〔erscheiaen〕ことは年間再生産でも現われざるをえないのであって,それはちょうど,われわれが単純再生産の考察で見たように,--個別資本の場合に--その固定成分が積立貨幣として《次々に》沈澱していくということが年間の社会的再生産でも現われる〔sich ausdrucken〕のと同様である。

 (1)この「1)」は,赤鉛筆で丸く囲まれている。〉

 

 第1部では個別の資本家についてみると、蓄積というのは、剰余価値を担う商品資本を貨幣化したものを、再び生産資本の現物諸要素に再転化させること、すなわち実際には現実の蓄積とは拡大された規模での再生産であることが明らかになった。しかし個別資本の場合に現われることは年間再生産でも現われざるをえないのであって、だから年間の総資本の蓄積の場合にも、それは拡大された規模での再生産として現われるのである。
 それはわれわれが単純再生産の考察で、個別資本の場合、固定成分の償却基金が積立貨幣として次々と沈殿していくということが、年間の社会的再生産でも現われたのと同じである。

 

 

 【ここでマルクスは、「現実の蓄積」を剰余価値を実現した貨幣を生産諸要素の現物形態に再転化することとしている。マルクスは第三部の草稿段階では、まだ「貨幣資本の蓄積」というような言い方をしている(貨幣の積立も「蓄積」と捉えている)が、しかし第八稿では、すでに蓄積のために沈殿させられる貨幣資本については、「潜勢的貨幣資本」とより厳密な規定を行い、しかもその潜勢的貨幣資本の沈殿について、それを決して「蓄積」とは呼ばず、「蓄蔵」と正確に述べている。つまり貨幣形態で蓄蔵している段階は、まだ「現実の蓄積」ではないと厳密に区別して考えるようになっていることに注意が必要である。
 またここでは単純再生産での考察を振り返っているが、しかしそれはあくまでも個別資本の場合に現われたことが総資本の考察でも現われる例として上げているだけである。しかし固定資本を更新するための貨幣積立が個別資本でも総資本でも同じように現われるということをわざわざを一つの例として持ち出しているのは、やはり蓄積に必要な貨幣積立が個別資本の場合に必要であったように、総資本の場合にも同じように必要であると言いたいが為であろうと考えるべきであろう。
 またマルクスはここでは「年間の社会的再生産」と述べることで、社会的総資本の再生産を年間を単位として考察することが示唆されていることも注意すべきことであろう。】


『資本論』第2部第8稿の鯛21章該当部分の段落ごとの解説(その3)

【3】【拡大再生産の直接的反省関係--蓄積には蓄積が前提される】

 

 

 〈ある個別資本が500で,年間剰余価値が100(つまり商品生産物は400c+100v+100m)だとすれば,600が貨幣に転化され,そのうちの400cはふたたび前貸不変資本の現物形態に,100vは労働力に転換され,そして--蓄積[32]の場合には(蓄積だけが行なわれるものとすれば),それに加えて,100mが商品形態から貨幣形態に転換された《のちに》(1),さらに生産資本の現物諸要素への転換によって追加不変資本に転化させられる。そのさい次のことが前提されている。第1に,年間に100mが次々に貨幣として積み立てられるが,機能している不変資本の拡張のためであろうと,新たな産業的事業(2)の創設のためであろうと,この額で十分である(技術的諸条件に対応している)ということである。しかしこの過程が行なわれうるようになるまでには,つまり現実の蓄積--拡大された規模での生産--が始められうるようになるまでには,もっとずっと長いあいだにわたる剰余価値の貨幣への転化と貨幣での積立てとが必要だということもありうる。2) 拡大された規模での生産が事実上すでにあらかじめ始められているということが前提されている。というのは,貨幣(貨幣で積み立てられた剰余価値)を生産資本の諸要素に再転化させるためには,これらの要素が商品として市場で買えるものとなっていることが前提されているからである。その場合,これらの要素が既製の商品として買われるのでなく注文であつらえられるものとしても,なんの違いもない。これらの要素の代価が支払われるのは,これらの要素が現に存在するようになってからのことであり,またどのみちこれらにかんして現実の拡大された規模での再生産がすでに行なわれてからのこと,言いかえれば潜勢的に(3)この再生産の諸要素が現に存在するようになってからのことである。というのは,《この場合には,》この再生産が現実に行なわれるためには,ただ,注文という起動力,すなわち商品の存在に先行する商品の購買とその先取りされた販売とが必要であるだけだからである。この場合には一方にある貨幣が他方での再生産を呼び起こすのであるが,それは,貨幣がなくてもこの再生産の可能性があるからである。というのは,貨幣それ自体は《現実の》再生産の要素ではないからである。

 (1)ここにはいくつかの語が行の上に書き込まれているが、はっきりとは読み取れない。いちおう nachdem sie と読んでおくが、そうでないかもしれない。
  (2)「産業的事業」には下線がないが引き忘れであろう。[33]
  (3)「潜勢的」--本稿では岡崎氏訳にしたがって potentiellを「潜勢的」,virtuellを「可能的」としている。しかし、この逆のほうがいいかもしれない。これらの語についてはエンゲルスが現行版の注6〔a〕でふれている(K.II,S.83)〉

 

 

 例えば、ある個別資本が500で年間剰余価値が100の場合、その剰余価値のすべてが不変資本に投下されて蓄積されると仮定した場合、年間100mが次々と積み立てられ、投資されると考えるのだが、確かに年間100mで技術的に十分な場合もあるが、ある場合にはもっとずっと長いあいだにわたる剰余価値の貨幣への転化と貨幣での積み立てが必要だという場合もある。だから蓄積にはまず貨幣での積立が先行するということが考えられなければならない。
 個別資本の蓄積を考えると、まず彼は生産した商品をすべて貨幣に転化しなければならず、そのうち彼の不変資本部分を表わす貨幣は、再び不変資本の補填のために支出され、可変資本部分を表わす貨幣は、やはり労働力に転換される。そして残りの剰余価値部分を表わす貨幣は、もしすべて蓄積に使われるとするなら、生産資本の現物諸要素への転換に、よってわれわれの仮定では、追加的不変資本に転化させられる【実際の蓄積では追加的可変資本にも転化させられる】。
 そのさい二つのことが前提されている。
 1)現実の蓄積、つまり剰余価値部分の貨幣を現物諸要素に転換する場合、その貨幣額が一定の技術的条件による必要な量に達している必要があり、よって現実の蓄積、つまり拡大された規模での生産が始められるためには、あるいは長いあいだの剰余価値の貨幣への転化とその貨幣での積立が必要だということである。
 2)またその積み立てられた貨幣を、実際に現物諸要素に転換するためには、あらかじめその現物諸要素が生産されていなければならないということ、つまりすでに拡大された規模での生産が事実上すでにあらかじめ始められていなければならないということである。つまり蓄積には蓄積が前提されていなければならないということである。
 これは注文生産の場合でも基本的には同じである。というのは注文を受けて追加的な現物諸要素を生産できるためには、それだけの諸条件があらかじめなければならず、それはすでに蓄積が行われていることを意味するからである。

 

 

 【ここで「蓄積のためには蓄積が前提される」というのは一見すると同義反復のように思えるかも知れない。しかしこれはわれわれが対象を認識する方法とも関わってくる重要なことなのである。われわれが拡大再生産とは何かを知ろうとするなら、つまりその概念を明らかにしようとする場合、拡大再生産が単純再生産から如何にして生まれてくるかということを頭のなかで考えるのではなく、まず拡大再生産が行われている現実を前提してその観察から開始しなければならない。そうするとそれは不断に拡大再生産を繰り返す運動として、年々拡大再生産を繰り返す過程としてわれわれの前に現れるのである。われわれはその現実を観察し、その特徴を子細に検討し、それをそれを構成する諸契機に分解し、諸契機のあいだの内的関連を探り、それらを思考において総合する、さらにその内的関連の中に諸運動法則を知ろうとするのである。これこそ唯一科学的な方法である。

 だから拡大再生産の概念を明らかにするということは、如何にして単純再生産から拡大再生産に「移行」するかということではなく、まず拡大再生産そのものを前提することから始まるということである。そうすれば蓄積のためには蓄積が前提されるという現実がわれわれの前に現れるのである。

 単純再生産から拡大再生産への「移行」というのものは、決しして歴史的な過程でもなんでもない。資本主義的生産が昔は、あるいはそれが生まれた当初は単純再生産だったものが、歴史的に拡大再生産に「移行」してきたのだ、というようなことは言えない。現実にあるのは常に何らかの規模での拡大再生産であり、ある特異な場合においてのみ一時的に縮小再生産であったに過ぎない。単純再生産は拡大再生産の中に内容的には含まれるものであり、だから単純再生産は現実の拡大再生産の中から抽出されたものに過ぎないのである。だからそれは論理的な区別であり、あるいは「移行」に過ぎない。だからわれわれが単純再生産から拡大再生産へと敍述を展開することは論理的にみても妥当である。しかしそのことは、拡大再生産の概念は、単純再生産からの「移行」としてのみ与えられるなどと考えるならば、大きな間違いなのである。

 これが方法論的にも極めて重要なことなのである。というのは、多くの学者が単純再生産から拡大再生産への「移行」ということにあまりにもとらわれて--これはエンゲルスによるマルクスの草稿に対する修正にも責任があるのだが--、そのためにさまざまな混迷に陥っている現実があるからである。実は何を隠そう、残念ながら、この草稿を翻訳された大谷氏もその一人なのである。大谷氏のこの問題についての諸説は、また検討する機会があると思うので、ここではこれ以上言及することは止めておく。】


『資本論』第2部第8稿の第21章該当部分の段落ごとの解説(その4)

〈2)〉【個別資本家の貨幣蓄蔵が一般化することによる外観上の困難】

 

 

 【4】(このパラグラフの冒頭にある2)は【2】の冒頭にある1)に対応していると考えられる。マルクスはその対応を示すために、どちらにも赤鉛筆で丸く囲ってあるのだそうである。)

 

 〈2)(1)たとえば資本家Aが,1年が経過するあいだに(または技術的諸条件しだいではそれ以上の年数にわたって)次々に商品生産物の諸部分--その総計が彼の年間商品生産物をなす--を売っていく場合には,それにつれて彼は,商品生産物のうち剰余価値の担い手--剰余生産物--である部分をも,つまり彼が商品形態で生産した剰余価値そのものをも,次々に貨幣に転化させ,そうしてこの貨幣をだんだん積み立てて行き,こうして潜勢的な新貨幣資本が形成されていく。ここで潜勢的というのは,それが,生産資本の諸要素に転換されるべき使命〔Bestimmung〕をもっているからである。しかし実際には,彼はただ単純な蓄蔵貨幣形成(2)を行なうだけであって,それは現実の再生産の要素ではない。そこでの彼の仕事は一見したところ,《流通している》貨幣を次々に流通から引きあげて行くことだけであるが,この場合もちろん,こうして彼が厳重にしまいこんでしまう流通貨幣がそれ自体なお--流通にはいる前に--ある蓄蔵貨幣の1部分であったことが排除されているわけではない。潜勢的な新たな貨幣資本であるこのようなAの蓄蔵貨幣が追加的な社会的富でないのは,かりにそれが消費手段に支出されるとした場合にそうでないのと同様である。それは通流から引きあげられた貨幣であるから,そのまえは通流のなかにあったのであって,以前にすでに蓄蔵貨幣の成分として貯えられていたことがあるかもしれないし,《貨幣化された》労賃だったり,《生産手段や》その他なんらかの商品を貨幣化したことがあったかもしれないし,諸々の不変資本部分や資本家の収入を流通させたかもしれない。それが新たな富でないことは,ちょうど貨幣である金が,単純な商品流通の立場から見て,それが1日に10回回転して10個の別々の商品を実現したからといって,それがいまもつ価値のほかにその10倍の価値をもつということになら[35]ないのと同様である。諸商品は貨幣がなくても存在するのであり,また貨幣そのものは,1回転しようと10回転しようと,もとのままである(むしろ摩滅によってもっと小さくなっている)。ただ金生産においてのみ--金生産物が||47|剰余価値の担い手である剰余生産物を含んでいるかぎり--新たな富(潜勢的貨幣)がつくりだされるのであり,また,新たな金生産物がそっくり流通にはいるかぎりでのみ,それは潜勢的な新貨幣資本の《貨幣》材料を増加させるのである。

 

 (1)この「2)」は,赤鉛筆で丸く囲まれている。
 (2) Schatzbidungが貨幣資本の形成(Bildung)にたいしてたんなるSchatzの形成として対置されてい場合には,「貨幣蓄蔵」とせず,とくに「蓄蔵貨幣形成」と訳した。〉

 

 

 

 

 ここでマルクスが言っている基本的な問題はそれほど難しいことではない。それは次のようなことである。例えば資本家Aが剰余生産物を貨幣に転化させ、それをだんだん積み立て潜勢的な貨幣資本を形成する場合、それだけではまだ単純な貨幣蓄蔵を行っているに過ぎず、現実の蓄積は行われていない。つまり追加的な社会的な冨が形成されたわけではない。その貨幣はその前は流通のなかにあったのであって、だから彼が蓄蔵する貨幣は、その前まで〈ある蓄蔵貨幣の一部分であったことが排除されているわけではない。〉【マルクスは後に潜勢的可変資本を形成する資本家群をAとして、蓄蔵した潜勢的貨幣資本を現実に投資する資本家群をBとするが、ここで「ある蓄蔵貨幣の一部分」と言っているのは、B群の資本家が投じる蓄蔵貨幣を示唆しているのである。】または貨幣化された労賃であった場合もありうるし、生産手段やその他の何らかの商品を貨幣化したことがあったかも知れない。【とにかく問題は彼は流通からそれを一方的に引き上げ積み立てる、つまり蓄蔵貨幣に転化するということである。】確かに貨幣そのものは、一定量の金である限り、それには社会的労働が支出されており、だから一定量の価値をもち、また使用価値(この場合、貨幣として機能するという社会的な使用価値ではなく、金としての物質的な使用価値、例えは宝飾など等々)をもっており、その限りでは社会的な富と言えるが、しかしここでいう蓄蔵貨幣そのものは、ただそれ以前に流通していた貨幣を、ただその流通を止めたというに過ぎず、だから確かにそれは一方ではそのものとしては社会的富だが、しかし決して「新たな」社会的富ではないわけである。(だから貨幣が形態を換えられて[流通貨幣から蓄蔵貨幣へ]、積み立てられたというだけでは、社会的な富には何の変化もないし、また現実の生産そのものも当然何も拡大されていないし、だから現実の蓄積は何も行われていないわけである)。
 ただ金生産部門において、剰余価値として生産された新たな金生産物が、そのまま蓄蔵されるならば、その場合は、確かにそれは「新しい社会的富」といいうるわけである。

 

 しかしマルクスが上記の基本的な問題に付随させて論じている問題のなかには、少しは考察を加える必要がありそうなものもある。まず最初は次のような一文

 

 〈潜勢的な新たな貨幣資本であるこのようなAの蓄蔵貨幣が追加的な社会的富でないのは,かりにそれが消費手段に支出されるとした場合にそうでないのと同様である〉。

 

 ここでマルクスは蓄蔵貨幣そのものは「追加的な社会的富」ではないということを、それが消費手段に支出される場合と同じだというのだが、この場合は、明らかに問題は「追加的な」ということに重点があると考えるべきだろう。つまりそれが蓄積に回されずに、単に消費されてしまうなら、それは「追加的な富」にはならないという意味である。つまりこれは蓄蔵貨幣にある限りは、まだそれは現実の蓄積に回されるというのは、ただ単に可能性として、あるいは潜勢的にいいうるだけであって、それはあるいはそうならずに、単に消費手段に回されるかも知れないわけであり、その限りではまださまざまな可能性をもったものとして、まだ追加的な社会的富になるかどうかは分からないというに過ぎないであろう。これはまあそれほど問題ではない。では次はどうか

 

 〈それが新たな富でないことは,ちょうど貨幣である金が,単純な商品流通の立場から見て,それが1日に10回回転して10個の別々の商品を実現したからといって,それがいまもつ価値のほかにその10倍の価値をもつということにならないのと同様である〉

 

 これは貨幣が流通手段としての機能を果たすということに着目して、蓄蔵貨幣もただ貨幣がそれまで流通手段として機能していたものが、今度はただ価値の蓄蔵という一機能を果たしているに過ぎないわけで、だから貨幣が本来もっている価値以上の何か追加的な社会的富を生成しているわけではないという意味ではないかと思える。

 

 次にマルクスが最後に言っている金生産の場合はかなり複雑である。まずマルクスは次のように述べている。

 

 〈ただ金生産においてのみ--金生産物が剰余価値の担い手である剰余生産物を含んでいるかぎり--新たな富(潜勢的貨幣)がつくりだされるのであり,また,新たな金生産物がそっくり流通にはいるかぎりでのみ,それは潜勢的な新貨幣資本の《貨幣》材料を増加させるのである〉。

 

 剰余生産物が金生産物であるなら、その限りではそれは「新たに」生み出されたものであり、そしてそれにも一定の社会的労働が対象化されており(だから一定量の価値をもち)、また金という物質に固有の有用性、すなわち使用価値をもっている。だからそれは明らかにその限りでは社会的富であり、しかも金生産物として新たに生み出された社会的富なのである。(もっとも金生産部門の生産物は、何も剰余価値部分に限らず、生産物すべてが、貨幣金属としてあるなら、それらはすべて「新しい社会的富」なのである。というのは不変資本部分や可変資本部分にしても、それらは生産された商品資本のまますでに貨幣、すなわち貨幣資本であり、だから新たに貨幣化される必要はないからである。つまり既存の流通している流通貨幣に転化される必要はないのだから、それらすべてが社会的には追加貨幣になり、一部は流通に留まるか、あるいは一部は蓄蔵されるかされて、社会的富の一部を構成するからである。それに対して一般的な商品生産物は、それが生産的に消費されようが、個人的に消費されようが、その時点で使用価値を失い、生産手段の場合は、価値を新たな生産物に移転し、生活手段の場合は価値も消失する。生産手段の価値も最終的には個人的消費手段の生産物へと移転されて、やはり最後にはそれが消費されるとともに消失するのである。それに較べて貨幣金属生産物は、流通過程で磨滅する以外には、社会的には消滅することはないのである。もっとも同じ貴金属でもその使用価値が生産的に消費される場合[例えは金がエレクトロニクスの製品に使われる場合など]はこの限りではない。その場合は一般商品生産物と同じである。)

 

 【ついでにもう一つ上のパラグラフに関連して重要な問題を指摘しておきたい。マルクスは次のように述べている。

 

 〈つまり彼が商品形態で生産した剰余価値そのものをも次々に貨幣に転化させ,そうしてこの貨幣をだんだん積み立てて行き,こうして潜勢的な新貨幣資本が形成されていく。ここで潜勢的というのは,それが,生産資本の諸要素に転換されるべき使命〔Bestimmung〕をもっているからである。しかし実際には,彼はただ単純な蓄蔵貨幣形成を行なうだけであって,それは現実の再生産の要素ではない〉。

 

 ここでわれわれが注目すべきなのは、「蓄積」という概念がより厳密に使われていることである。また貨幣資本というタームもその意味では厳密化している。つまり資本家が手許に持っている貨幣はいまだ厳密な意味では貨幣「資本」ではなく、彼がそれを前貸する時点で始めて「貨幣資本」になるということである。だからその意味では彼が手許に持っている時点における貨幣は「潜勢的な(可能性から見て)貨幣資本」だということである。また第3部主要草稿の第5章では、「現実資本の蓄積」に対比させて「貨幣資本の蓄積」というタームが多用されているが、しかし貨幣を蓄蔵した段階では決してまだ厳密な意味における「蓄積」は行われていないというのがマルクスの第八稿における理解なのである。その意味では「蓄積」という言葉をここでは厳密化していると言える。「潜勢的な貨幣資本」の「蓄蔵」段階では、彼は「ただ単純な蓄蔵貨幣形成を行うだけ」なのであり、それはまだ「現実の再生産の要素ではない」のである。】

 

 

 

 



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