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ペンネーム 雨音 智尭

 美しい毛髪があるとする。それは頭部にある時にだけ美しい。床に落下すれば、塵となる。人の命もまた同じ。流転するものこそが、真である。春は名のみの小春三月。雨が雪の上に降っている。雨音のないその光景は、まるで静止画を思わせた。降りはじめた雨は、春のかほりを運びつつ、太陽の使者の役目を果たしていた。

 

 「いや、雨が降っても、どうということは無いよ」カフェの中、カウンター席の瀬名アキラは、笑いながらつぶやいた。「もし、ずぶ濡れになったとしても、君に責任はないさ」

 それは、帰ることを拒む、春を憂いた雨だった。

 「あら、殊勝ですこと。どうしたの」カフェオーナーで美人の楡香が訊きかえした。「いや、たまにはね」

 

 「ふぅん、ところでどうしたの。浮かない顔して」「うん、最近どうも筆がのらなくてね」「そう」「ペンネームを変えてみようと思うんだ」「へぇ、どんな感じ?」「そうだな、『水』に関連してものがいいかな、と思ってるんだ」

 楡香は、コーヒーのお替りは?と聞き、頷いた瀬名のカップになみなみとコーヒーを注いだ。

 「良かったら聞かせて」「うん」「『アマネ チアキ』というのはどうかな」「チアキ?」「うん、こう書くんだ」瀬名はそういうと、ノートに「雨音智尭」と書いてみせた。「中国の名君『尭瞬』の『尭』を『智』(し)るという意味なんだ」「へぇ」僕にはちょっと大げさかな、そういうと瀬名は自嘲気味に軽い笑いをみせた。

 

 名は体をあらわす、という。名前は本当に不思議だ。一文字一音で、すべてが変わる。だから言葉の魔力が最も籠ったものが、名前なのだろう。ひとりを認識するための番号ではない、綴られた一組の文字、「名前」。「名前」をいくつか持つことは、それだけの別も仮面をもっということに他ならないだろう。


三木 春樹

 

 からん。いらっしゃい、楡香が出迎えたのは、瀬名アキラだった。今日もいつも通りの時間ね、と楡香がささやいた。

 「コーヒー、いつもの」はい、と楡香が答えた。

 実はね、瀬名が呟いた。今日はどうしたの、と観葉植物をどけて楡香が答えた。

 「最近、筆がのらなくてね」ええ、と楡香が答えた。「ペンネームを変えてみようかと思うんだ」そうね、と楡香が応じた。「木にちなんだものにしようかと考えてる」

 「たとえば?」「たとえば『三木春樹』というのはどうかな」「木が続くのね」

 そう、と瀬名は答えた。「春樹はわかるね、僕の尊敬する人物だよ。そして、『三木』」「三木?」「うん、とても響きが純粋だと思うんだ」「そうかしら」「そうに決まってる」

「なら、いいんだけど」

 

 雨が降ってきた。「じゃ、僕はこれで」「もう行くの? 今来たばかりじゃない」「いや、なんとなく書けそうな気がしてきた。じゃ」

 ありがとうございました、と楡香は見送った。


他所 釜山

 

 あちらを立てれば、こちらが立たない。情に掉ささば流される。さて、どうしたものか、と瀬名アキラは悩んでいた。

 「どうしたの」常連のいつもの浮かない顔に、楡香は反応した。

 「いや、いつものことなんだけどねぇ、筆が乗らないんだ」「そう」「うん。それでね、ペンネームを変えてみようと思うんだ」「今度は?」「うん」

 そういうと瀬名は原稿用紙を取り出して、大きく名前を書いた。「他所釜山」「これ、何て読むの?」「ヨソ プサン」「え?」「最近国際政治と俳画が気になっていてねぇ、これをどうにか組合わせられないものかと腐心しているんだ。無理かな?」「どうかしら」「まさに、あちらが立たねば、という感じなんだ」「うん」「でも、キムチもそうでしょ?」「え?」「きっとそうだよ」「そうかしら」楡香はなんとなく頷いた。

 「ありがとう。何か書けそうな気がしてきた。コーヒーご馳走様。お代はここに。じゃ」「ありがとうございました」「プサンねぇ。今日は焼き肉にしようかしら」


猫又 達磨

 

 「今日は、冷えるねぇ。雪だよ、雪」「かなり積もりましたね」「ああ」

 カフェのカウンター席で話しているのは、作家見習いの瀬名アキラと店長の楡香である。

 「いや、しかしなんだ。こんなに冷えると熱燗の一杯でもひっかけたくなるな」「残念ながら、熱燗はメニューに載せておりませんの。ホットコーヒーはいかが?」「ああ、それを戴こう」「少々、お待ちくださいね」「む、閃いた!」瀬名はそういうとポケットに忍ばせたメモ帳にさっと何かを書きつけた。

 「これがいい」「またですか」「またなんだよ、また」

 メモ帳には「猫又 達磨」と走り書きがあった。「これしかない、これでいこう。じゃ」「瀬名さん、コーヒーは?」「ごめん、やっぱり帰って熱燗にする」「今度までご用意しておきますね」「ありがとう、猫又だネコマタ」

 瀬名が開いた扉はカフェに冷気を招き入れた。


鶴屋 満点堂

 「足元が雪で滑って、いやいかん、スライドして、困るね全く」「受験生でもいらっしゃるの」「いや、そうではなくて、先日の新人賞公募に応募したんだ」「ああ、そうでしたか。手ごたえは?」「手応えというより、歯ごたえ満点で書いてしまった。少し無骨だったかな」「じゃあ、今日はゆっくりできるのね」「うん」「コーヒーかしら」「うん」「急に静かになってどうしたの」「実は、今思いついてしまったんだ」「まぁ、またなの?」「またなんだ」「今度はどんなの」

 瀬名はポケットからメモ帳を取り出すと、さらさらと書いて楡香の目の前に出した。メモ帳には、『鶴屋 満点堂』と書いてあった。「なかなかいいじゃない」「うん」「自分でも、この才能が恐ろしくなる」「ホラー並み?」「いや、スプラッタクラスだ」「怖いのね」「うん、怖いんだ。じゃ」「いつものとおりね」楡香は独りつぶやいた。



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