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後半

 

15

 

 「小説家って、最も人間らしい職業だと思う。」

 

 猫は眠そうに目をこすりながら、そう言った。「あとは詩人も。」

 

 俺は猫――少女ではなくて、動物の方の猫が死んだときのこと、ニャアニャア鳴くだけの猫に話しかけていたころのことを思い出していた。 

 

 「私はね、ときどき、いろいろなことがごっこ遊びに見えるの。」

 

 「……ん?」

 

 「つまり、仕事と呼ばれるものは、幼稚園のお遊戯の延長線上にあるように思える、っていうこと。こんなことを言えば皆気を悪くするだろうけど。」

 

 「少しわかるよ。金を貰う仕事をしたことはないけどね。幼稚園でやっていたことが小学生なりの形に変わって、中学生なりの形に変わって、高校生なりの形に変わって、社会人なりの形に変わる。それだけなんじゃないかな?」

 

 「そういうこと。だって、これは私が社会を知らないから感じるだけかもしれないし、あるいは私の頭が良すぎるのかもしれないけれど、世の中の仕事って、ひどく効率が悪いわ。もっと時間も短くできるし、意味のない作業も多い。でもみんなそのことに目を瞑ってる。」

 

 「同じことを感じてたよ。言いづらいけどね。」

 

 俺は猫をソファに招いた。猫は俺の隣に座った。

 

 「たいていの仕事は、機械がやった方がいいわ。だから、なろうとは思えないし好きでもないけれど、教育者っていうのは価値のある仕事だとは思う。」

 

 俺は頷いた。

 

 「でも。」と猫は言った。「結局は、お金っていうのは使うためのものであって、得るためのものじゃない。使わなければ札束なんて紙束よ。」

 

 「そうだね。だから仕事なんて少ない方がいい。もし仕事をしなくてもお金を使えるなら、仕事は何の意味も持たなくなる。」

 

 「究極的にはね。」

 

 そういうわけで、小説家と言うのは最も人間らしい職業だと、猫は言った。彼女だって別に小説家の仕事が楽だとか、そんなことは微塵も思ってはいないだろう。

 

 「ただ、生きることが小説を書くということなら……」

 

 「俺の言葉?」

 

 「そうよ。もしそれが本当なら、彼らは、生きているだけでお金を使える人種ということになるわ。」

 

 猫は息を吐くとソファの背もたれに背中を預けた。

 

「たとえそれがそんなに苦しい人生でも。」

 

たとえ、ではなく、人生と言うのはほとんどの人間にとって苦しいものだ。

 

だとしたら俺は、やはり詩人や小説家になりたい。

 

 

 

 

 

16

 

 

 

この物語の登場人物は、私と猫と、俺だけである。

 

 

 

 猫は俺の小説の冒頭に、勝手にそんなことを書いた。俺は小説を書くときに一ページの空白から始める癖があったから、猫は簡単に、それを挿入することができた。

 

 「複雑でもいいけれど、分かりづらい物語っていうのは、最悪。」

 

 「君の持論?」

 

 「そう。でも世の中の多くの人が同じことを考えていると思う。」

 

 「たしかにそれは、そうかもしれない。」

 

 「だからあなたの小説も、分かり易い必要がある。」

 

 そう言って猫は、得意げに鼻を鳴らした。俺は彼女に文句を言うことをあきらめて、原稿用紙の束を重ねた。

 

 「でも猫は人物じゃない。君じゃない方の、本物の猫はね。」

 

 「何が言いたいの?」

 

 「登場人物、っていうのは人をさす言葉だよ。」と俺は言った。猫はわざとらしくため息を零した。

 

 「細かい男は嫌われる。」

 

 「男女差別だ。」

 

 「一般論よ。」

 

 「なら杜撰な女の子も、印象が悪い。」

 

 猫は俺から取り上げた製図用のシャープペンを指に挟んで回転させながら、俺のことを見つめた。

 

 「なんだよ。」

 

 「こういうことを言うと嫌われるけど。私の容姿で印象が悪いってことは、まずないと思う。」

 

 「……両親に感謝すべきだね。」

 

 「神に感謝してるわ。」

 

 俺は猫からシャープペンを取り返して軽く机をたたき、それから首を何度か縦に振った。とりあえずどんな時でも、神への感謝は忘れてはいけない。

 

 「まあ、そうだな……今君といるっていうことも否定できない現実だ。だから小説が人生に忠実であるべきなら、君の落書きも作品の一部として認めるべきかもしれないね。」

 

 「もしかして、運命論者?」

 

 「違うけど。」

 

 「そう。少し残念。本格的な運命論者には、まだ会ったことがないの。」

 

 世界は運命に包囲されて形作られている。

 

 

 

 

 

17

 

 「君、学校は?」

 

 俺はふと気になって、猫にそう尋ねてみた。猫は不満げに俺を睨んで「猫は学校に行かないものよ。」と言った。「あと幽霊も。」

 

 「悪かったよ。」と俺は言った。

 

 「何が?」

 

 「いや、俺も、学校のことを聞かれるのが嫌いなんだ。学校自体は嫌いじゃないけど。」

 

 「そうなの?」

 

 「なんというか、個人を学校と一体みたいに捉えてるやつが多くてね。なにか、問題を起こしたりとか、そういうときには勿論無関係ではいられないけど……もっと一般的にそう考えてる人間が多すぎるよ。」

 

 「……よくわかるわ。あなたもそういうのが嫌いなのね。」

 

 「これに関しては、嫌いと言うより苦手かな。価値観の相違だよ。」

 

 「今学校に行ってない私が言うのもおかしいかもしれないけれど、実力のない個人が学校の名前にすがっているようにしか見えないことがあるの。」

 

 猫はそう言って綺麗な黒髪を掻き上げた。もう不機嫌な様子はなく、その動作は彼女によく似合っていた。「わかるよ。」と俺は言った。

 

 「学校に誇りを持つのはいいことだと思う。ある側面では。」

 

 「でも、それとは何か違う人種がたくさんいるわ。」

 

 俺は頷いた。うまく言葉にできなかったが、彼女の言っていることには同意出来た。

 

 「悪口を言っていい?」

 

 「勿論。」

 

 「私が指摘しているような人間は、大成しない気がする。漠然と。」

 

 「まあ、大人になっても学生時代の成績の話をしていそうではあるね。」

 

 そしてしばらく、俺たちは陰湿に笑い合った。

 

 「俺達、意見が合いすぎてたまに一人で喋ってるみたいだよ。」

 

 「そうね。でも違うところもある。」

 

 「たとえば?」

 

 「あなたは私が好きだけれど、私はたいしてあなたを好いてない。」

 

 「それは比較対象じゃないよ。俺は君が好きで、君も君自身が好きだ。そして君は俺があまり好きじゃなくて、俺も俺自身があまり好きじゃない。ほら、完全に一致してる。」

 

 そう言うと、猫は驚いたような顔をした。

 

 「あなた、自分が好きじゃないの?そうは見えない。」

 

 「好きになりそうで困るんだ。現状の自分を好きになってしまったら、そこからの人生でもう登るだけの意欲が湧かないと思うから。」

 

 

 

 

 

18

 

 俺の部屋にはメイド・イン・チャイナのぬいぐるみやベストセラーの児童向け冒険活劇の全集が氾濫している。綺麗であることは好きだが、掃除は嫌いだから散らかってしまっている。だが雑然としていることが理由ではなく、その本やぬいぐるみが他人の著作物であるために、俺はそれらを小説に書かない。俺はいろいろなことが気になって既存の固有名詞を物語に登場させられないのだ。本当は、実在の街の名前さえも出したくはないと思っている。

 

 「でも他人がそうやっていたら、自意識過剰だと感じるだろうね。」

 

 「同意するわ。誰もあなたの作る創作物をそんなに細かく見てはいない……そう言いたい気持ちになる。」

 

 「ああ。わざわざ本物の何かを連想させるようなネーミングを捻り出してる人間を見ると、笑いそうになるよ。何様のつもりなのかってね。」

 

 やはり俺たちには、意見の齟齬がなかった。

 

 「だけどね。」

 

 「何?」

 

 「わざわざ名前をいじって版権の問題をすり抜けてまで人が著作に登場させたくなるような、そういうものを俺は作りたい。」

 

 猫は目を細めた。「期待せずに期待しておく。」

 

 「……他人を尾行したり、友人を観察したりして、ヒントを盗む。そう言う小説家がいるらしいけど。一流の作家は人を盗んだもので文章は書かない。書いた文章で人を盗むんだ。」

 

 「ちょっと、よくわからない。」

 

 「本を閉じた後、登場人物たちのことばかり考えてしまったり、何度も読み返したり、二次創作探しに耽ったり……名作は俺たちの時間を盗む。時には人格さえも。」

 

 猫は頷いた。

 

 「私は、人格を盗まれてはいないけれど、オスカーワイルドが好き。彼は前向きで明るすぎる部分があることを除けば完璧よ。唯一話してみたい死人だわ。」

 

 「彼、俺と似てないか?」

 

 「冗談でしょ?」と猫は顔をしかめた。「彼は好きだけど、あなたは別に好きじゃない。これって大きな違いじゃない?」

 

 「たしかに。でもオスカーワイルドとウォルトディズニーを足して、二で割らずに足しっぱなしにしたような人生なら、及第点はつけられると思う。勿論足すのは寿命も含めて。」

 

 「あなたってときどき、すごく傲慢よ?」

 

 「だけど本音だ。不遜で在れ、って習ったんだよ。夢の中の俺に。」

 

 そう言うと猫はもう何も言わなかった。こういうことを言うと決まって、偉人たちは君くらいの年のころには結果を残していた、とか言いだす人間がいる。確かに俺のこれまでの人生は理想と比べて落第点もつかないで出来だが、小説家は前を向く生き物である。

 

 「どうして一流を定義したがるの?」

 

 「どういうこと?」

 

 「言い方は悪いかもしれないけれど、あなたってたくさんの二流を抱えている。」

 

 「その通りだ。否定できる要素がないね。」

 

 「でも二流って、すごく素敵だと思う。雑然と、いろいろなものが流れていそう。」

 

 猫はときどき、よくわからないことを言う。

 

 

 

 

 

 「買い物に出かけない?」

 

 と、俺の家に来てから三度目の外出を猫は提案した。

 

 「そうしよう。」

 

 「何を買う?」

 

 「買うものがなければ散歩でもしたらいい。」

 

 そんな風に俺たちは家を出た。

 

 だが運命と言うものは、必ずしもいい意味だけを持つわけではない。

 

 「ねえ、その子は誰?」

 

 そう言って、近所に住む女が話しかけてきた。俺の古い知り合いだった。

 

 「……親戚。」

 

 一小節遅れて、猫が答える。女は「そう。」とだけ答えてその場から去った。彼女の眼には人を信頼している様子が全くなかった。

 

 俺達の町はわずかに寂れていて、閑静な、と言う形容詞が相応しい。信号の光が他人事のように明滅し、遠くでクラクションが鳴った。

 

 風がやけにうるさく感じた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

19

 

 物語の終わり方の話をしよう。やっと完璧に、そういう段階になった。

 

 「繰り返しになるけど。」

 

 女に会った夜、結局俺たちは散歩には行かずにすぐに家に戻り、ソファで何時間も過ごしていた。

 

 「いいよ。何度でも聞こう。」

 

 「ありがとう。」

 

 「葡萄はいる?」

 

 「貰うわ。……私はミステリーが好きじゃないの。正確に言えば、綺麗に始まって綺麗に終わる話が嫌い。」

 

 「ん……」

 

 「わかるでしょ?」と彼女は訊ねた。俺は葡萄を飲み込みながら頷いた。

 

 「伏線を回収することで物語も回収されるようなものは、理想からあまりにも遠いよ。」

 

 俺たちはしばらく黙った。

 

 「三セット。」

 

 「何?」

 

 「三セットと言うよりも、三点セットかな。……淡い、切ない、ほろ苦い。最悪の組み合わせ。いかにも群像劇のラストみたいな、素人が技量のなさを隠すような最後。」

 

 「大丈夫。俺はそんな小説は書かない。」

 

 物語は、あっけなく、時に物足りないくらいで終わるのがいい。長く流れる時間をただ切り取るのではない。なにか変化があって物語は始まることができ、そしてそれが当たり前の日常になるころに終わるべきなのだ。

 

 「青春と言う言葉はあまりにもチープだけどね。」

 

 と俺は言葉を紡いだ。「俺が求めているのはそういうものかもしれない。」

 

 猫は何も言わなかった。

 

 「比較的最近のなつかしさ。」

 

 「……何?」

 

 「そう何年も前のことじゃないのに、妙に懐かしい物ってあるだろ?それが、幸せの数だと思うんだ。」

 

 「私がいなくなったら、懐かしく感じる?」

 

 俺は音楽をかけるためにデッキを持ち上げた。リストが映える夜だった。

 

 二曲が流れ終るまで、俺も猫も無言だった。それから俺は口を開いた。

 

 「実のことを言うと、君に会った日のことがもう懐かしいんだ。」

 

 「……じゃあ、あなたは幸せ?」

 

 「それは、まだ分からない。」

 

 

 

 

 

20

 

 猫が鳴いた。思ったよりも、わずかに高い声だった。その響きは俺にゆるしを与えるもののように感じられた。空間には、今までの生活の影を這っていた閉塞感じみた何かが、確かに広がっていた。

 

俺は夢中だった。独特なにおいがそこには充満していたが、脳がそれを不快だと受け取ることを拒絶していた。甘い匂いだ――俺は自分にそう言い聞かせた。指が湿度を纏い始めた。

 

 柔らかい。何度目でも同じ、それが変わらない感想だった。その感覚を認識すると、絶妙なもどかしさが俺の全身を支配しはじめる。熱い。暖かいというわけではなく、純粋で洗練されていない熱。体温の他にも、不可視の温度が発生する。俺はその頃にはすでに、明確な疲労を感じていた。

 

 ふたたび、猫が鳴いた。くぐもってはいないが、響かない性質の声色へと変わっていた。俺は一度目の欲望を吐き出した。少年少女にとって、口は言葉を発するためだけの器官ではなくなっていた。しびれるような衝撃が、脊髄に走った。

 

 俺は何か言おうとしたが、上手く発声できなかった。ふさわしい時ではなかったのかもしれない。夜はまだ残されていたが、俺と猫のための時間は、もう長くは必要なかった。それは個体差というような個人的なことなのか、あるいは一般的なことなのかは俺には分からないが、一時間くらいという基準がある意味での限界として存在していた。ひそかに落ちる唾液は、清潔かはともかくとして、清廉さを保っていた。その唾液の他にも水音はあり、それらはいやに耳に残った。

 

 濁った愛が零されて、時計の針は十時をさした。すると急速にその場が冷えてきて、俺たちはヒト本来の姿を捨てて文明人の皮を被らざるを得なくなった。不思議と名残惜しさはなかった。

 

 「別にだからどうということはないけど。」

 

 と猫は言った。「これで最後かもしれない。」

 

 それは二人に共通する予感だった。

 

 片付けの際に虚しさを覚える人間もいるらしいが、俺の場合はそういうことはなかった。

 

 「小説家は嘘つきなんだ。だからこういうつもりだっていうことで書き始めても、すぐに矛盾が生じる。」

 

 猫は無言でトイレに行き、何枚かの紙を流した。寝室に戻ってくると、彼女はそっと言い聞かせるようにつぶやいた。

 

 「でも矛盾した過去を書き直してはいけない。人生がそうであるように、物語はいつでも取り返しがつかなくて、演繹的であるべきよ。」

 

 

 

 

 

 サイレンの音がふいに鳴り、しだいに近づいてきた。

 

 

 

 

 

21

 

 昔話をしたい。小さいころの俺の話だ。つまらない話だから、真剣に読むことはない。 

 

 

 

 

 

柔らかい夢を見たい。固いアスファルトの世界で、俺はそう願った。本質的には、それが現実である必要などない。ただ、起きている時でも続く夢でなければならなかった。朝になったら消えてしまうものでは、心が軋んで繋ぎ止められないから。俺は目を開けても終わらない幻想を求めた。俺は物語のように生きたかった。とびきり美しい物語がいい。悪役が出てきて決闘するようなシナリオではいけない。淡々と、鮮やかなモノクロのように進む世界の物語。自分は登場人物の一人になって、その街で呼吸がしたかった。少年がいて、少女がいて、老人がいて、若者がいて、醜い者がいて、綺麗な人も少しだけ。一週間かけてグルグルと同じ世界を歩いて、曜日ごとに、時間帯ごとに違う人間にあって、劇やオペラのような会話をして、静かに分かれていく。ときどき、雪が降る。

 

 たとえば平凡な街にいても、そういった夢を見ることはできる。いろいろな人がいるし、汚れたカラスや猫もいる。けれど皆、俺の影絵の劇場には、些か役者不足だった。

 

 「洗練されていない。」

 

 それは俺の口癖の一つだった。散らかった部屋で洗練性を語る。それはいかにも滑稽なことだったが、俺はいたって真面目だった。

 

「俺は今、いったいどれだけ生きているだろうか。」

 

 生命の存続以前に、俺は何よりも精神の生死を案じた。それがどういった倒錯なのかは分からないが、俺はいつの間にか、現実の世界でのことよりも物語の完成度を重視するようになっていた。

 

 「美しい物語の中でなければ、生きていても意味がない。」

 

 「美しい物語の中でなければ、死ぬこともままならない。」

 

 「死ぬこともできないのに、死んでいるのと同じだ。」

 

 「もっと、洗練されたパーツが必要だ。」

 

 その思いは日に日に強くなった。

 

 

 

 そして俺は猫を見つけた。

 

 いい猫だった。死んだ。

 

 

 

しばらくして、猫の幽霊だと名乗る少女と出会った。家からツーブロックの交差点。彼女の顔には見覚えがあったので、たぶん近所の子供か何かだろうなと思った。

 

俺は彼女を連れて帰ることにして、雨だったから、とりあえず傘をさした。

 

 

 

 

 

 

 

22

 

 近所でサイレンの音が増えてきた。俺と猫は、変わらずソファの上にいた。

 

 「よくドラマなんかで、何も言わずに去っていく恋人を必死に追いかけて別れを告げるシーンがあるでしょ?でもあんのことは不可能だわ。架空のお話にそんなことを言うのは不毛だけれど。」

 

 「何が言いたい?」

 

 「心ではどんなに必死なつもりでも、人間っていうのは力尽きるまで走れない生き物だと思うの。まだもう少し動けるうちから心に諦めがよぎり始めて、言い訳をして歩き出して……そういうふうにできてる。」

 

 「そうかもしれない。」と俺は言った。

 

 「わかる?」

 

 「ああ。勿論恋人ほど重大ってわけじゃないけど、昔駅に傘を忘れてね。」

 

 俺たちはコーヒーではなく、紅茶を飲んでいた。

 

 「その日俺はお年玉で時計を買ったんだ。たいして高い時計じゃないよ。たしか、二万円か三万円くらいのやつだ。俺の家はとても広い意味で捕らえれば裕福な方だったから、特に感慨はなかったよ。」

 

 「いつごろのこと?」

 

 「高校生の頃。お年玉自体は多い方じゃなかったから、その時計でほとんど使いきった。価格も中途半端だしね、決していい買い物ではなかったよ。でも高揚してた。」

 

 「それで傘を忘れた?」

 

 「そうだ。」

 

 俺は、傘を忘れたことを時計のせいにしたくなかった。せっかく買ったものを、その日のうちに嫌いになってしまいそうだったからだ。

 

 「驚くくらい必死に走ったよ。」

 

 「それで?」猫は少し退屈しているようだった。「傘はあったの?」

 

 「最初に会った日、君にさした傘がそれだ。」

 

 「あなたはやっぱり運命論者じゃないの?」

 

 俺は首を振った。

 

 「違うよ。とにかく必死に走ったはずだったのに、気づいたら俺は歩いていたんだ。」

 

 「当たり前よ。人間は、どれだけ綺麗ごとを言っても人のためになんか生きられない。それは悪いことじゃないわ。」

 

 「君はこの世の中で、何が一番大切だと思う?」

 

 「自分。」

 

 「じゃあ一番必要なものは?」

 

 「それは……リレイション。人とのつながり。」

 

「矛盾しない?」

 

「場合によってはね。そういうときは、個人の方が先に消される。」

 

優しくなければ生きていけない。強くなければ意味がない。現代社会はそうなっている。

 

「もう少し寄って。」

 

「君の方に?」

 

「まさか。余裕のない態度でそういうことを言うのが一番恥ずかしいのよ。」

 

俺は腰を浮かせて、猫と反対側に一歩ずれた。

 

「小説って、ある意味ではコンドームにあいた穴よ。」

 

「余裕のない態度でそういうことを言うのが一番恥ずかしいよ。」

 

「真面目な話。」と言って、猫は俺の足を蹴った。猫と直接触れたのはずいぶん久しぶりの気がした。 

 

 「必要な、遺伝的な、生物としての本能があって、文明はそれを押さえつける。」

 

 「小説は風穴?」

 

 「そう思う。穴をあけた人間が責任を取るべきなのに、違う人がとばっちりをくらうところまでそっくり。」

 

 「俺の小説には、俺が責任を持つよ。」

 

 猫は呆れたように微笑んだ。それから伸びをして、ソファにつま先までのせて、俺の方に向き直った。

 

 「人間は必ず変化する。」

 

 「そうだね。」

 

 「いい友人はその変化に目を瞑ってくれて、それなのに昔の自分を嫌いにならないでいてくれるわ。」

 

 「そうかな。それは、都合のいい友人じゃないか?」

 

 「そうよ。そう言う言い方をすれば聞こえが悪いけど、いい友人っていうのはそういうものだと私は思う。」

 

 俺もなんとなく、柔らかい皮の上で胡坐をかいて、猫を正面から見た。

 

 「良薬口に苦し、なんていうけど。苦い時点でそれはいい薬じゃないと思わない?」

 

 「エグザクトリ。」

 

 「どう受け取るかは勝手だけれど、悪く考えないでほしい。」

 

 そう言って猫は目をそらした。

 

 「あなたのことは嫌い。でもあなたは本当にいい友人よ。」

 

 俺も視線をそらして、息を吐いた。

 

 二週間かけて、俺たちはやっと、友人になった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

23

 

 「自意識過剰とかじゃなく、君が恋愛の話をしなくてよかったと、心の底から思ってる。」

 

 猫と過ごす最後の日、俺は正直にそう言った。

 

 「勿論そういうことに興味がないわけではないよ。優れた話題でもある。だけど、どんな時でも、なんでも恋愛と絡めて考えるのは、俺は苦手なんだ。」

 

 「わかるわ。」と猫は言った。「そうじゃないやり方だって必ずある。私たちみたいに。」

 

 俺は窓を開けた。空気が入れ替わるのを皮膚で感じる。気持ちのいい朝だった。

 

 「物語の終わり方の話をしたこと、覚えてる?」

 

 「勿論。」

 

 「淡い、切ない、ほろ苦い。これ以外にもダメなものがあった。後味の悪いラストは、一番嫌い。」

 

 そう言って猫は、おもむろに俺の原稿用紙の一枚目をめくった。

 

 

 

 この物語の登場人物は、私と猫と、俺だけである。

 

 

 

 「これを伏線としてとらえるなら……たとえば、私っていうのが、この前会った女だったり。この物語の本当の語り手は、あの女。どう?」

 

 「なんとなく気味が悪いね。別に秀逸なオチってわけじゃないのに。」

 

 「最悪でしょ?」

 

 だからね、と猫は言った。伏線なんて張るものじゃないし、落としどころなんて必要ない。

 

 そういうわけで、俺は彼女の家族のことも、サイレンのゆくえも、何も知らないまま扉を開けた。

 

 

 

 「ありがとう。」

 

 

 

 猫は振り向いてそう言った。今にも泣きだしそうな表情だった。俺は、笑顔が可愛いよりも泣き顔が美しい女の子の方が好きだと言うことを知った。

 

 「自慰でしか自己表現できないような、そんな人間にだけはなるなよ。」

 

 「……それが最後にかける言葉?」

 

 「真理だろ?泣きたいときに、それしかなかったら悲しすぎる。」

 

 「最悪ね。」

 

 「……もしかしたら。」

 

 「え?」

 

 「最後じゃないかもしれない。」俺がそう言うと、もう何も言わずに彼女は去って行った。

 

この物語がいい作品かは別として、唐突に終わるという点だけは満たせたと思う。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

24

 

想像量が足りない。

 

 そのことが俺の物語に天井をつくり、閉塞感を生みだしている。想像量と言うのは俺が考えた単語である。

 

 

 

 文章を書くと言うことは、非常に困難な作業だ。

 

 だが最低限の才能と経験がある人間が時間をかければ、絶望的に不可能なことでもない。ただ単純に、絶望的なだけ。

 

 

 

 

 

 「あなたは過去が大好きなのに、過去の自分が嫌い。でもそれって、ひどくアンバランスなことよ。」

 

 猫は出会った日に、確かそんなことを言った。人生はバランスが良ければいいとも限らない。

 

 

 

 

 

 

 

 人生を語るには俺はまだ若い――正論だ。だったら、一体いつまで口を閉ざしていればいい?そうしているうちに現在は過去になって、未来さえも過去になる。時はとどまることを知らない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 原稿用紙を閉じた後、たまに絵が浮かんでくる。

 

 今は、手袋をしたクラゲが浮かんでいる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

唄を口ずさむ。

 

今日は馬鹿みたいに晴れているから、空の代わりに俺が泣こう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

彼女は俺の野心を、不遜であると断じた。

 

 

 

彼女は俺の過去を、優しい人種と括った。

 

 

 

彼女は俺の人生を、死のようだと喩えた。

 

 

 

彼女は俺の存在を、よき友人だと認めた。

 

 

 

彼女は俺の物語を、つまらないと笑った。

 

 

 

 

 

 

 

彼女は彼女自身を、幽霊なのだと言って泣いた。

 

 

 

だとしたら、俺は――――――

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

俺はここからゆっくりと、少しずつ、小説を書いていこうと思う。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

とりあえずはじめに   完

 

 


この本の内容は以上です。


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